論文 2
「個の文化」の優位性を求めていく 一連の「インターアクション」
私にとって言語文化教育とは
李 根模
要旨:本稿は,筆者が文化人類学,社会言語学などからの「文化」とは意味を異にし ている個人の文化に触れて,その「個の文化」の意味と「総合活動型日本語教育」で の学習者の動機文作成などからの「インターアクション」活動の意義を比較してみ た。そのことから筆者は「言語文化教育」とは『「個の文化」の優位性を求めていく 一連の「インターアクション」』と定義して,そのために必要な事柄,例えば「個の 価値観」などについてまとめてみた。
キーワード:言語文化教育,個の文化,文化論,総合活動型日本語教育,PDCA サイクル
1 はじめに
去る 4月初旬細川氏の理論研究「言語文化教育」の一番初めの講義時間 に「私にとって言語文化教育とは何か」というテーマを与えられた時は,
筆者は「言語」と「文化」との係わりに対して下記の通り記述している。
例えて異国の言語を習うということは,つまりその国の「文化」を勉 強すると言うこと,或いはお互いに国を異なっている人同士が,コミュ
ニケーションが旨くできないということなどの仮説を,十分に説明でき るようにするため,まず「言語」と「文化」が実際にどう相互不可分の関 係を維持しているかを明らかにしなければならない。今までの歴史を振 り返って見ると「言語」と「文化」との関係を究明することは大きく分け て哲学,心理学,言語学などの三つの分野から進められてきた。しかし,
この問題に対して本格的に論議をされてきたのは Boas や Sapir といった 人類言語学者が始めてであるかもしれない。しかしながら「言語」と「思 考」との関係,または「言語」と「文化」との関係を明らかにすることが
「社会言語学」の重要な課題の一つになるべきであることは,社会言語学 者たちはよく知っていた。何故なら〈以下簡略〉
(1)「言語」は地域的のみに多様化されていると分かっていたが,社会 言語学の出現によって社会的身分,年齢,性別,人種などによって多様 化されていることが分かった。
(2)人間誰も彼も一定の社会化の過程を経て一つの社会の構成人となる のだが,これに最も決定的な役割をしてくれるのが他ならぬ「言語」と いうものである。つまり,そういう観点から見ると,社会の停滞やその 課程などを明らかにするためには,予め,「言語」と「思考」または,「言 語」と「文化」の関係が明確にされるべきである。
(3)一つの社会が禄に構成され,維持されるためには,それぞれの構成 員たちの間に数多くの相互交渉行為が行われるわけであるが,それに使 われている大切な道具の一つが「言語」という事実である。
(4)「言語接触」と「言語混用」の現象に社会言語学者より,少なくない 関心を示している。
それから,「言語文化教育」とは何かに対しては,第二言語学習者が異 国で言語学習の際,覚えていれば,日常生活上の基礎知識として役に立つ
という下記の通りの参考事例文を掲げて,こういうことを自称して「生活 文化」した場合,「言語文化教育」とは「生活文化」とともにする「言語教 育」であると,異言語文化の側面から説明したのである。
参考事例文
(1) 私は今回中国旅行に行って,旅行社のガイドさんから「食堂で御 飯などを食べるとき,外国人は若し茶碗などのふちが欠けてあった場合,
不平しながら頼んで取り替えるのだが,中国人にはそれはその店の繁盛 の意味として受け入れ,欠けた器があっても絶対というほど,捨てるこ とはしない」と聞かせてもらいました。
(2) 韓国人は外国人に質問するとき,プライバシーに踏み込みすぎる 嫌いがある。たとえば,「週末はどう過ごされますか」という,韓国人に とってはごく当たり前の質問でさえ,プライバシーの侵害と受け取られ るのに,ひどい人になると「給料はいくらもらっているのですか」なん てことを聞いたりする。
(3) イーオリョン著「韓国人の心」の中で美しいモラルについてうま く説明している。「韓国の喫茶店や飲食店などのカウンタの前で時折,世 にも珍しい喧嘩が始まる」外国人たちの常識ではとうてい理解できない 風景である。それは互いに御茶代を支払うと競り合う「美しき争い」あ るいは「親密の争い」である。―どの民族がそのように友愛に溢れた争 いをなしうるだろう。
一方日本では割り勘をとる一番目の理由はおごる人は実際に費用を負 担しなければならない。おごられる人はおごられるという精神的負担を 持つことになるので,お互いに気を使うことを避けるためである。二番 目の理由はだいたい酒を多く飲む場合だ。誰がどのくらい飲んだか分か らないので割り勘でする場合が多い。
(4) 贈り物においても中国では新婚夫婦には梨を贈ったらいけないの だが,これは「分かれる」という意味の「離」と同じ発音であるからであ る。日本でもやはり「なし」として呼ばれていて「なにもない」という意 味から忌避する嫌いがある。
今考えてみれば,この事例文は第二言語学習者が日本語をより効率的 に理解するために,日本語自体の言葉や文法などの言語の学習とは別に,
日本の文化や社会システムなど,日常生活に必要とする基礎知識としての
「日本事情」と似たものであろう。
筆者は韓国の中央大学大学院の日語・日文科の博士後期課程から,早稲 田大学院日本語研究科に外国人研究員としてきて,すぐ「言語文化教育理 論研究」に参加していたのである。講義参加の切っ掛けになった直接的な 理由は,筆者自身博士課程での専攻が社会言語学の中の「言語文化」であ り,特に日本と韓国の言語文化の比較に深い興味を持っているからである。
実際,筆者は個人会社を作りまして長年日本とビジネスをやってきてい るし,五年前まで三年間は国際奉仕団体であるロータリー・クラブのメン バーとして夏休みを利用して,日本と韓国間の青少年交換を行ったことが ある。今までの様々な場面から筆者自身,経験してきた日本と韓国両国間 の文化に基づいた言語あるいは非言語行動などが,論説文などから学問的 に記述されている言語あるいは非言語表現などとは,どう違って,どのよ うに使い分けているかを比較,分析することが研究の主な目的である。
筆者は始めの時間だけ参加してすぐ「言語文化教育理論研究」に移した のであるが,その始めの「日本語教育実践研究」の時間に,牧野(1996)
は「ウチとソトの言語文化学」から「言語文化学とは,すでに社会に慣習 として確立している言語的・文化的事項を研究し,両者の関係をある媒介 物を通して,科学的に記述する学問である」と定義しているのに対して,
細川氏の意見を聞いたところ,見解を異にしているとのことであった。
なお,筆者の修士論文のテーマが「日本人のウチとソトに関する研究」
であったので,牧野成一氏の「言語文化」における定義は,参考文献を通 じてすでに分かっていた。つまり,筆者が参加している「言語文化教育」
での「言語文化」が内包している意味と,今まで分かっていた社会言語学 での「言語文化」の意味が異なるのであれば,どんな点が,どのように違 うかが筆者に興味を引き起こしたわけである。
しかしながら,三ヶ月間あまりの「言語文化教育理論研究」に参加し,
講義に対する質問やデイスカッション,BBS への書き込みや論議などを通 して「言語文化教育」その自体はいうまでもなく,この「言語文化教育」
と繋がりまして,筆者自身様々なことを考えさせられることとなった。個 人と社会との関係,個人の考える力,個人の価値観やアイデンテイテイー,
個人の相対化,個人の変身,個人の共鳴あるいは共振性など,すべてが個 人からならざるを得ない事柄ばかりであった。
いったい,このような事柄は個人一人一人とどんな関係作りを成して いて,「個の文化」とはどのように影響をし合っているかが筆者の頭の中 に疑問のカタマリとしてその場をとっていた。その時「分からなければ,
原点に戻りなさい」という,むかし覚えていた品質管理の用語がひらめい てきたのである。
2 「個の文化」が意味するもの
細川(2004,pp.166-167)によれば,「個の文化」という考え方は今に始 まったことではない。Goodenough(1957)は「文化」を人間個人の「認知 システム」として捉え,「文化は物的現象ではなく,また物や人や行動や 感情からなるわけでもない。文化はそれらの一切の事柄にかかわる心的組 織(mental organization)である。」と定義している。彼は各人の頭の中に
ある行動の見取図を文化と言い(culture as patterns for behavior),観察 可能な顕在的行動を文化と見なす立場(culture as patterns of behavior)と 鋭く対立する。頭の中の行動の見取図とは,物事を認識する際の概念枠,
あるいは,何が可能で何をなすべきかといった信念,あるいは,態度や意 志決定の準拠枠のことである,とする(Goodenough,1957,p.258)。
以上のグッドイナフの「文化の定義」では,文化は常に各個人の頭の中 にあるとし,人間から独立して存在するものではないとして,「集団社会 様式としての文化」である,いわゆる文化人類学や社会言語学などにおけ る「言語文化」での文化の意味とは一線を画する。
一方,グッドイナフの「文化の定義」と脈略を同一視する,細川(1999,
2000a)の「個の文化」論では,個人一人一人が外部の対象物に対して場 面を認識,思考して,言語知として内言化すること自体が暗黙知であり,
個人一人一人の中にあるこのような暗黙知の総体が言葉として外言化され る時の表現能力を「文化」とし,「個の文化」の概念を示している。
筆者は以上の「個の文化」の定義から考えて見ると,「個の文化」その ものより,「個の文化」を細かく磨いて育んでいくプロセス,それ自体が 大切なことではないかと思うのである。グッドイナフの「文化」の定義か ら出てくる用語の一つである頭の中の行動の「見取図」は,対象物に対し,
各個人がどういう行動をとるかという,頭の中に描いている概要図であり,
相手に向けて言葉として外言化されると同時に具体的な設計図となって表 現されるのである。
このように個人の頭の中にある認識を相手に向けて表現される設計図 を通じて,初めてその個人の文化観に触れることができる。概要図であれ,
設計図であろうと,両方ともその個人の文化であることは確かなことであ るが,同一条件であれば,いっそう勝れて,洗練された方が要求されるの である。言い換えれば,例えて建築設計事務所が建物の設計を頼まれた場 合,建物主からの要求事項に基づいて,建築設計者の頭の中に描いている
概要図をどのように具体化して,設計図に独自性や独創性等を取り入れる かということと全く同じことである。これは各個人の「個の文化」の優位 性にそのまま繋がるのである。
その意味から筆者は「私にとって言語文化教育とは」を「個の文化の優 位性を求めていく一連のインターアクション」と定義をして,そのため何 を,どのように,どうすれば,「個の文化」の優位性が確保できるかにつ いて検討してみることとする。
2.1 「個の確立」
人と違うというのであれば,その異なる点においては,人より勝れる との意味に繋がるのである。「十種類の腕前を持っている人は食いつない でいけない」という韓国のことわざもあるが,これからの時代は様々な技 を遍く持っている人より,他人のしていない,即ち,私ならではの才能や 出来栄えを育まなければ,21世紀の急変する社会に生き残ることが難しい のであろう。
卑近なこととして,つい最近,書店街に人気を集めている大学新入生 に薦める本(例えば,広島大学出版)の内容に目を通すと,時代を超える 基本教養,人間の記録,越境する知,現代の重要問題などがあるが,一番 初めて出てくるテーマが「個の確立」である。要するに,「個の確立」が大 学4年間の教養科目(専門科目もあるが一般的に言って)を履修するのに,
先立って必要な参考部門であるということである。
「総合活動型日本語教育」での学習者のテーマの設定における動機文作 成などは,自分でしかできないもの,自分が一番大切にしているもの,即 ち,自分の「オリジナリテイー」を思考し,表現するわけである。このよ うに「コミュニケーション」という他者との言葉の往還により,今までの 自分でない自分として生まれ変わっていく,その活動自体が「個の確立」
に繋がるのである。
このような「個の確立」に何よりも大事なことは,物事を客観的に見つ める確かな見方を養うことと,自分中心に世界を見るのではなくて,世界 の中の自分を位置づけることの大切さが,自覚できる自立的な自分自身に なることである。
2.2 自己相対化と考える力
私は「総合活動型日本語教育」における学習者と教育担当者がお互いに
「人間としての対等で協働的な相互関係の構築のための前提条件」として BBS に下記のとおり書き込んだ。
総合活動型日本語教育が目標とするものは学習者主体の表現活動を,い かに組織化して,学習者自身の「考えること」を引き出し,進んで他者 からの意見を受容するという,いわゆる,「インターアクション」と自己 相対化のプロセスを教育担当者がうまく調整していくためには,教育心 理学からのアプローチが要求されるのではないかと思うのである。
例えば,英語で「empathy」という言葉があるが,辞書を引いてみると
「他人の感情,思想,態度を自己へ知的投入する,または代経験するこ と」ということであり,やさしく言えば,自分自身が相手側の立場になって,
自分自身を観察する心の用意と言えるのである。
教育担当者としては,やはり学習者側の平等的な立場になって,学習者 の気持ちに共感しないといけないと言うことである。(2005. 6. 11)
以上 BBS での要旨は学習者同士が自分しかできない自分自身の言葉を 引き出し,相手の言葉を受容しながら言葉の往還を進んでいく過程での , 学習者が持ってほしい自己相対化への一連のプロセスにおいての一種の教 育担当者が持ってほしい心構えである。学習者自身が自分の考えている自 分の言葉を他者にむけていくら発信しても,他者に理解してもらったり,
発信した表現に対してその場で他者とともに共有性を持つということは至 難の業であろう。この時こそ,冷静に自分から離れて物事を客観的に見る こと,つまり,原点に戻って対象をもう一度認識,発見,解釈するという 自己相対化が必要となるわけである。そうすることによって,自立的,か つ主体的な考える力もついてくると思うのである。
自己相対化とは「本質」の自己を離れて「仮想」の自己を作ることに よって,「仮想」の自己より「本質」の自己が客観性あるいは普遍性に立脚 して行動をしているかどうかを,冷静に分析,判断させられるための自己 客観化ではないかと思っている。昔中国の呉国の孫子も彼の兵法書で「知 彼知己百戦百勝」という言葉があるように,自分自身,即ち,己を知るこ とは極めて難しいのではないだろうか。
「文化」を個人の場面(状況)認識能力という個人能力的立場からみると,
我々は果たして,グロバル時代に相応しい実力を養っているか,我々人間 の身につける「能力」とは何か,実力とはいかなるものか,という問いに 答えるには,手元の教育学辞典を引くのが手っ取り早い。なぜなら,その 時代までの知的資産の最大公約数を示しているものだからである。一つは,
学校教育でいうと,国語,社会,算数,数学,理科,体育,外国語,音楽 などの教科,科目をマスターした状態である。もう一つは,考える力,知 識を覚える力,表現する力,技能などがその例である。要するに,学校教 育期間中の教科,科目のマスターということの能力を除くと,「能力」と いう意味は社会的問題を解決する思考力,つまり,主に考える力であるこ とが分かるはずである。
2.3 生まれ変わる自分自身
「個の文化」という言葉の「個」に関する語彙を国語辞典より引いてみ ると,個個,個別,個癖,個性,個人,個体,個所,個室,個展,個数な どであり,筆者なりに大きく分類すれば,個の特性や状態を示している語
彙― A グループ(個個,個別,個癖,個性,個人,個体)と個のある空間 などを示している語彙― B グループ(個所,個室,個展,個数)に分けら れるのである。
B グループに対しては外部からの物理的な要因を与えることによって,
変形あるいは変化がある程度が可能であるが,A グループは外部からはな かなか難しいばかりか内部から,つまり,自ら進んでやらなければ,変化 あるいは変容は期待できないではなかろうか。総合活動型学習における
「学習者の自分の問題として捉えているもの」が学習者同士からの意見や アドバイスなど,つまり外部からの働きかけにより,修正されていく。そ の時こそ,今までとは打って変わった,個別の個性を持った個個の個人と して変化を繰り返して,新しい自分として生まれ変わるべきである。そう することによって,新しい自分に変容するための思考,即ち「考える力」
も,ともについてくると思うのである。
筆者は「変化のある日常生活追求」に対して BBS 上に,以下の通り書 き込んでいた。
この題名は我々の研究している「言語文化」の講義とは直接関係ない と思うのであるが,でも,日本語の教育もそうであるが,90年代の「言 葉と文化を統合する教育」となると,その前の時代と比べてみれば,や はり,変化という言葉を実感させるのである。
私は 15年ほど前読んで,大分感動させて頂いたことのある本(今は著 者や本の名前も覚えてないのであるが)を,ちょっと,ご紹介すると。人 間は 40歳を超えると時の流れが,車が下り坂を走っているように,まる で,瞬く間に 10年も過ぎってしまうという錯覚があるということである。
子供の時は,見ること,聞くこと,感じることなど,すべてのこと が,初めて経験するがゆえに,時間の経つのが非常に鈍く感じるが,そ れが大人になると,ありとあらゆる,すべてのことが,既に感じ取った
ことである。例えば,部屋の中の机など,家具のレイアウトを度々置き 換えたり,時には,家の裏の塀を飛び越えて出勤したりしたほうが,時 の流れをある程度,鈍く感じ取る一つの策略と書いてあったのである。
(2005.6.7)
これを呼んだ同じクラスの宮口さんが「時の流れ」と繋がりまして,他 者とインターアクションを重ねることでの自分の中の文化の変容に対して,
以下のように BBS に付け加えてくれたのである。
「時の流れ」を感じるとはどういったものなのか少し考えてみました。
日常の世界で私たちは,ある対象を見ること,聞くこと,感じること を通して,その対象の変化を感じていると思います。その対象の変化は 目に見えるものであったり,見えないものであったりします。中でも物 理的に目に見えるもの(李さんのおっしゃっていた家具のレイアウトや,
行動パターンなど)は比較的,自覚しやすいのだと思います。しかしそれ だけではなく,目に見えないもので自覚しにくいものの変化にも敏感に なりたいと思っています。私はそれを自分自身の文化の変化だと捉えて います。他者とインターアクションを重ねることで,自分の中の文化が 変容する,変容させることに敏感になりたいと思っています。この GBK を通して,自分の「時の流れ」をじっくりと味わいたいなど。――宮口
(2005.6.7)
筆者はこの宮口さんの BBS での「時の流れ」を読んで感銘を受けたの は,目に見えないものまで付け加えたことは勿論のこと,何よりも自覚し にくいものの変化にも敏感になって自分自信の文化の変化として捉えてい くということである。従来の「集団社会様式としての文化」は目に見える 文化(explicit culture)であり,「個の文化」は目に見えない文化(implicit
culture)であることまで,間接的に,しかも簡潔に,文化の対照までして くれたのである。
2.4 他者との共振性
学習者中心で学習者の主体性を生かす「総合活動型日本語教育」は学 習者同士の言葉の「インターアクション」がどのように行われているかに よって評価されます。つまり,自分自身が考えていることを相手に伝え,
理解してもらい,あるいは理解してもらわなかった場合,相手と何回も言 葉の相互交渉を積み重ねていく過程で,協働作業による共振性が生まれて くる。そうすることによって,初めて満足感が得られ,「自己実現」に達 することができるのである。
「共振」という言葉は一般的には「共鳴」と同じ意味に使われているが,
「共鳴」とは振動数の等しい二つの音叉(音高を知るための道具)の一方を 鳴らせば,他方も鳴り始める現象をいうのである。従って,学習者が自分 の考えていることを伝えて相手が理解して共鳴するという状態になるため には,言葉が意味しているように〈振動数の等しい二つの音叉〉にならな ければならない。
言い換えて説明すれば,これは学習者同士の言葉のインターアクショ ンのプロセスの中での〈話し合いの共感度のレベルが同じ水準〉になって から,ようやく「共鳴」する準備の段階に入るとのことである。
「共振」のもう一つの意味として「電気振動の共鳴」を指しているが,
我々の家庭で使っている電子レンジは電気振動の共鳴によって,生じる高 周波の電磁波のエナジーを利用し,調理をしていることを理解すると,他 者との言葉の「インターアクション」あるいは,言葉の往還により生じる
「共振性」のパワーが如何なるものかが分かるはずである。
筆者は BBS に「共振」の一例として「啐そったく啄」という言葉を使ってみた。
日本語で「啐啄」という言葉があるが「啐」は鶏の卵が孵るとき,殻の なかで雛がつつく音,「啄」は母鶏が殻を噛み破るということから一匹の ヒョコは内と外から同時につつかないと,卵の殻を割って孵化できない。
人間として対等で協働的な相互関係に基づいた,総合活動型日本語教育 を構築のためには,担当者と学習者から内と外の両方向から,それも同 時性と協働性が作用しなければならないではないかと思う。(2005.6.11)
協働で仕事をしていく場合,啐啄という言葉より我々にその生動感を 適切に表してくれるものはないと思っているのは,雛という新しい生命体 の誕生と繋がっていることと,同時性というタイミングの問題が,ともに かかってあることである。その一方が遅くても早くてもいけなくなり,そ の連帯性が崩れてしまうからである。
2.5 自己実現
心理学者の調査によれば,人間は生活していくのに,充足したい欲求・
動機には,低い基本的なものから高いものまでさまざまあり,階層をなし ているという。一番の根底にある「生理」的欲求が満たされると,次は
「安全」でありたいという願いを持つことになる。「安全」の欲求が充足さ れると今度は何かの社会集団の一員になるとか,人を愛したい「所属と愛 情」の欲求が芽生えてくる。この欲求が満足されると人から認められ尊重 されたい「自尊」の欲求が追求され,最後には自分の潜在的な可能性を最 大限に成し遂げたいという「自己実現」の欲求が現れるという。
「自己実現の欲求」は,人間としては生理とか感情などからの人間の基 礎的なかつ動物的な,欲求などよりはるかに離れた,質の高い階層にあり,
人生においてより高い価値,深い意味を求める,人格的には高度な「成長 欲求」でもある。
これは,例えば「総合活動型日本語教育」における学習者のレポートな どを含む,学習者同士間の言葉の「インターアクション」を着実に行って いく,プロセスの結果として求められるのである。つまり「自己実現」と は,学習者がお互いの話し合いを,共感度の同じレベルまで持っていき,
共振し,満足感が得られる,状態そのものであろう。
折りよく「自己実現」について,BBS に参考になる書き込みが同じ教室 の山本さんからあったので紹介してみる。
「自己実現」というと夢を叶えることかのような仰々しい響きを感じ るかも知れませんが,そんな特別なことではなく,もっと日常的なもの と捉えています。例えば,なんらかの行動を起こしたいという目的が自 分の中に生まれ,自分が考えていることを相手に伝え,理解してもらい,
自分が意図していたアクションを起こすことができた。これも一つの「自 己実現」だと思います。自分が考えていることを伝え,相手に理解して もらうこともしかりです。
このとき,相手と何度インターアクションを重ねても自分を理解して もらえないこともあると思います。しかし,それでも,相手と相互交渉 を重ねる過程で,自己理解を深化させることができたのであれば,それ も一つの「自己実現」なのかなと思います。それまで知ることのなかっ た「自己」を知ることができたと言う意味で。̶̶山本(2005. 4. 24)
2.6 「アイデンテイテイー」と価値観
樋口(2004,p.33)によれば,自分の価値観をしっかり持つことは大事だ。
価値観が曖昧なために,何を信じてよいか分からない人が増えている。そ の結果,「アイデンテイテイー」も曖昧でしっかりした指針もなしに暮ら す人が多い。
それに,当然のことだが,最終的にはあらゆることを自分の価値観で 判断する必要がある。他人の判断を頼りに生きていくことはできない。自 分の価値観によって自分の生き方を決定し,他人の価値観を肯定したり,
否定したりする必要がある。「それもよい。あれもよい」と言っていたの では,すべてが許される社会になってしまう。「売春もよい。万引きもよ い。犯罪もよい」という社会になってしまう恐れがある。それでは,社会 は成立たない。
しかし,だからといって,自分の価値観だけで判断するべきではない。
「言語文化教育」の行動の核心となる他者との「インターアクション」と いう協働作業の共振性こそ,自分とは別の価値観も許容するということ だ。自分だけの狭い価値観にとらわれず,別の価値観を理解し,広い立場 に立って判断するということである。勿論,自分の価値観はしっかりと持 ちながらも,別の価値観の持ち主の他者のことも理解し,協働的な相互関 係を構築していく過程で,他者から自分の存在性または同一性が認められ,
一貫性が成立つとそこから「アイデンテイテイー」も自然的に生まれてく るのではないかと思うのである。
3 集団文化論
今まで筆者は「文化」とは集団構成員によって作られて,集団で共有さ れていくものであり,「文化」という言葉は「集団文化」として存在してあ るものと,はっきりしないまま漠然とした考えに支えられてきたのである。
何故そのように考えたかと言うと,例えば「○○人の意識構造」とか「○
○国は−−だ」などの論説文の殆どが,文化的特徴や背景を「集団文化」
に焦点を絞ってきたわけである。
3.1 「文化論」とその一例
講談社の Bilingual Books 企画で出版された,賀川(1997)と韓国の李
(1998)が分かりやすく説明されている「日本人論」の代表的な論説文であ ろう。以下「誤解される日本人」の一部分を紹介する。
日本人はある程度,相手との物理的な距離を保って話しをするようです。
このように人と人との心地良いとされる距離感は,国や文化によって違 いがあり,ここから思わぬ誤解が生まれることがあります。話をしてい る間中,日本人は後ずさりを繰り返し,おまけにまっすぐ人の目もみず,
すべての返事がメイビーで,本当にこちらの意図が伝わったのかどうか も,分からなったとのことである。
以上の「誤解される日本人」や「縮み志向の日本人」などの論説文は,
ある特定のモノ,コト,ヒトの意識構造や行動様式などを,まるで鋳型に 溶かした金属を流し込んで鋳物を造るように類型化し,あるパタンーに強 制的に当てはめている。
これらを説明するために取り出されたもの,すべてが個人の中でない,
外側からの解釈であるという意味で,細川は「文化」とは区別して「文化 論」と呼んでいる。
3.2 「文化論」の生成「メカニズム」と問題点
以上の文章のなかにある「日本人は話すとき,相手との距離を保つた めに,若し話の途中,相手が近づいてくると後ずさりをする。」というこ とであるが,しかしながら,今現在の時点に立って考えて見ると,はたし て,そのように行動する日本人がいるかということと,若し,いるとすれ ば,どのくらいの人数になるかということである。このように分析してみ ると,分かる人誰もいないのであろう。
例の「誤解される日本人」や「縮み志向の日本人」も書店街に陳列され ている「○○人」の一種類であるが,類が友を呼ぶ「類類相従」という言 葉があるように,そういう類の「日本人」が友の「日本人」を呼ぶことに よって類型の「日本人」が生まれるわけで,また,そのような類型の「日 本人」が集まることにより,集団類型の「日本人論」が誕生して,其々の 座を固めていくのではないかと筆者は思うのである。
人間誰でも伝統や習慣などにとらわれず,自由奔放に自分自身の考え を広げて生きたいと思うのだが,このような論説文に接すると,時代の変 化により,かつて言われたすべてのことが当てはまらなくなる事で,外部 からの知識や情報に関する判断基準が立てられなくなってしまう可能性も あるのである。以上の「誤解される日本人」の例文のような人が,仮に昔,
たくさんいて,そのような論説文が書けるようになったとしても,いま現 在のところ,状況がすっかり変わっているのであれば,何の知識にも,情 報にもならないばかりでなく,かえって,読者を惑わすわけであり,何も 役に立たないのであろう。
4 「インターアクション」の進め方
ちょっと余談になるが,筆者が始めて日本に来たのは昭和48年第一次 オイル・ショックの時であったが,日本語が好きになった原因の一つは日 本という国全体が,いわゆる企業の管理用語である「5S」にそっくりだっ たのである。「5S」とは整理,整頓,清潔,清掃,躾(し付け)であり,特 に企業の生産管理,品質管理に基本的な行動指針として使っている言葉で ある。逆説に聞こえるかも知れませんが,私の場合,始め日本の国が気に 入って,日本人と付き合って,そうするうちに,いつの間にかすでに,日 本語が好きになっていたということである。この「5S」とペアになってい
るもう一つの管理用語が「6K」(1 から 6 までの文字の読み方がカ行で始 まるので K で表示している)で,(1)聞いて(聞),(2)見て(見),(3)考 えて(考),(4)行う(行),(5)効(効果),(6)幸(幸福)などである。これ を品質管理の「PDCA サイクル」として示してみると下記の図になる。
P
D
A
C
(P) Plan (計画)― 聞・見・考
(D) Do (実施)― 行
(C) Check (確認)― 効
(A) Action (処置)― 幸 品質管理サイクル
「PDCA サイクル」とは品質管理が必要とする項目に対して先ず計画を 立て,実施して,結果がどうなっているかを確認しながら効果の程度を把 握することである。また問題点があれば改善などの処置のプロセスを経て,
再び計画の段階に入って,所要の満足される結果が出るまで,つまり,満 足の幸福感が出るまで,PDCA サイクルは P → D → C → A → P → D → C → A…のように繰り返して続くのである。
筆者は「総合活動型日本語教育」における学習者の動機文作成から他者 とのインターアクションを通じて,相手とともに共振し合って,満足の結 果が出るまでの一連の「インターアクション」のプロセスを,この品質管 理の「PDCA サイクル」を適用して進めていきたいと考えているのである。
その理由としては以下3点が挙げられる。
(1) Plan(計画),Do(実施),Check(確認),Action(処置)というように,学 習者の「インターアクション」行動のステップがはっきり区切ることが できる。
(2) ステップ毎の管理記法上の重要度がそのまま利用できる。例えば,下記 の通りである。
P (聞・見・考):百聞は一見にしかず╱百見は一考にしかず D (行):百考は一行にしかず
C (効):百行は一効にしかず A (幸):百効は一幸にしかず
(3) 実際,日本の企業が 60年代からこの「PDCS サイクル」を品質管理シス テムに利用し,成功してきた。
始めの(P)の段階では,いままでの知識や経験によって獲得している ものや興味や関心のある部門に対して,頭の中に概要図として内言化する ことである。―聞・見・考
次の(D)の段階では,動機文などを作って,外言化して表現すること である。勿論,教室の内外で他者とのインタビューやデイスカッションな どを通じて,「自分の考えていること」を他者に向けて自分の言葉として 発信を行うことである。この段階では他者との「インターアクション」と いう言葉の往還から出てくる,言葉の表現をお互いに共有し,他者の考え を取り込むことで,〈話し合いの共感度のレベルが同じ水準〉に達するの が大事なポイントとなるわけである。―行
次の(C)の段階では他者との「インターアクション」や言葉のやり取り のプロセスの中で「自分の考えていること」が存分に伝えているか,言葉 の往還の中で相手からの反応,批判,アドバイスなどがあったか,あった らどんなものであったかなどを,具体的にかつ項目別に確認して効果を確 認することである。―効
最後の(A)の段階では他者からの指摘あるいはアドバイスしてもらっ たこと,不十分であった文脈,また自分自身の考えでこういうふうに直し たらと思っている点など,もう一度全体的に点検して捉えなおすことであ
る。このステップに大切なことは,自己を相対化すること,つまり,自分 から離れて客観的に自分自身を観察すると同時に,今までの自分でない新 しい自分として,生まれ変わっていく心構えができているかどうかである。
(A)の段階では所期の好ましい結果が得られるまで,再びアクションを 取るプロセスであり,処置すると同時に再び(P)へと言うふうに「PDCA サイクル」は学習者同士あるいは学習者と他者との「コミュニケーション」
により,相互関係が結ばれて信頼関係が構築できるまで,つまり両者の達 成感,幸福感が得られるまで回り続くのである。―幸
5 おわりに
言葉というのは,考えれば考えるほど巧妙な,人間の発明品である。
言葉を使うと,我々はわかりあうことができるのである。言葉の使用を抜 きにして,人間関係を論じることは不可能である。つまり人間関係とは,
「コミュニケーション」という言葉のやりとりを通じての関係である。
それに対して,文化とはグッドイナフが定義したように,各個人の頭 の中にある行動の見取図(筆者の表現としては場面認識としての頭の中に 描いている概要図)であるとすると,如何に洗練された,具体的な設計図 としての言葉に外言化するかが,「個の文化」の優位性を求めていくプロ セスではないかと思うのである。「個の文化」への優位性を確立するため の「インターアクション」その自体が,同時に「自己実現」への道となる のではないだろうか。
そうするため,「個の文化」の主人公である各個人は,しっかりした「ア イデンテイテイー」と価値観はいうまでもなく,「個」の確立,自己相対化,
考える力を育まなければならないし,それと同時に,生まれ変わる自分自 身の変容,他者と共にする共振性などが欠かせないものであろう。
「総合学習型日本語教育」の狙うところは,ひたすら自分のみできる「自 分の考えていること」を他者と言葉の「インターアクション」という「コ ミュニケーション」を通じて他者と共振しながら,最終的には対人相互関 係を取り結んでいく学習者個人個人の自己実現にある。
筆者は「言語文化」とは各個人の固有の「個の文化」をより優位の「個 の文化」へと細かく磨いて,育んでいくプロセスであると解釈して,「私 にとって言語文化教育」とは「個の文化」の優位性を求めていく一連の
「インターアクション」と定義をしてみるのである。
文献
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