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ソーシャルワークと物語 ― 「物語モデル」をめぐ るさまざまな文脈 ―

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ソーシャルワークと物語 ― 「物語モデル」をめぐ るさまざまな文脈 ―

著者 松倉 真理子

雑誌名 評論・社会科学

号 71

ページ 25‑45

発行年 2003‑08‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004441

(2)

ソ ー シ ャ ル ワ ー ク と 物 語

││﹁物語モデル﹂をめぐるさまざまな文脈││

松 倉 真 理 子

︵文学研究科社会福祉学専攻博士課程後期︶

一はじめに

近年︑ソーシャルワークの援助理論における新たな展開として︑欧米を中心に﹁ナラティブ・セラピー﹂﹁ナラティ

ブ・ミーンズ﹂など﹁物語﹂が一つのキーワードとなっている︒日本でも翻訳や紹介が多かった一九九〇年代前半が過

ぎると︑国内での理論研究や事例などが論題として上がるようになり︑少なくとも﹁物語﹂というタームについてはす

︵1︶でに市民権が得られつつある︒しかし︑ここでの﹁物語﹂のとらえ方は︑従来の援助論における専門家の権威主義や知

識の独占を批判するポストモダニズムの影響を受けているという点では共通しているものの︑細分化された専門領域や

背景の異なる論者によってさまざまな意図から語られており︑その含意するところにも混乱が見られるのが現状であ

る︒最近の傾向としては︑﹁物語﹂を新しい﹁技法﹂としてのみソーシャルワークに取り込もうとする論述が目立つが︑

﹁物語﹂に含まれる問いは︑単に新しい﹁技法﹂を提起するものというよりも︑よりラディカルな思考様式のパラダイ

ムにまで及ぶものというべきあって︑専ら﹁技法﹂に﹁応用﹂するということだけでは﹁物語﹂を論じたことにはなら

― 25 ―

(3)

ない︒つまり︑ソーシャルワークにおける﹁物語﹂の出現が客観主義や本質主義を本流とする既存の理論にどのような

新しい地平を開くのか︑どのような価値をもたらすのかという︑まさに﹁物語﹂の問う意味において︑殆ど議論に晒さ

れてこなかったということこそ問題とされるべきである︒

そこでこの小論では︑今後︑ソーシャルワーク理論としての﹁物語モデル﹂の枠組みが提示される際︑手続きを共有

するための準備段階として︑関連する議論を分析することから︑さまざまな意図や次元で語られてきた﹁物語﹂をいく

つかの文脈に整理し配置することを目的とする︒すなわち﹁物語モデル﹂を︑﹁実践レベル﹂として従来の専門職主義

に則った援助とは異なる新しい援助のありかたの提案とみる文脈と︑援助にまつわることがらを﹁メタレベル﹂︵物語︶

の視点から問い直すという自己言及の視角の提起とみる文脈から考察する︒これらの文脈はさらにミクロ・アプローチ

とマクロ・アプローチ︑技法志向と価値志向の指標によって再分類される︒こうした文脈に整理した上で︑近代以降︑

人間の生活を援助することを標榜してきたソーシャルワークにおいて︑﹁物語モデル﹂の枠組みが新たに提示する問題

について論究する︒

二﹁物語モデル﹂の台頭

人間は意味を糧として生きている︒意味は﹁理解﹂という人間の存在様態と密接に関係する︒理解されているものは

何であれ﹁意味﹂と呼べる︒即ち︑﹁意味﹂とは﹁理解されるところのもの﹂である︒人の﹁人生﹂とは﹁意味﹂の積

み 重ねによって成り立っている

︒ 人 は

﹁ 意 味

﹂ なしでは何も知覚出来ず

︑ ま た

﹁ 意 味

﹂ の外に出ることも出来ない

﹁意味﹂こそがわれわれの世界の秩序︵

現実︶を決定付けている︒人はそれぞれ︑﹁意味﹂を求めて自分の﹁物語﹂を

生きているが︑そこでは貧困︑障害︑病︑老い⁝⁝といった﹁福祉問題﹂もまた否応なくその﹁物語﹂の一部である︒ ソーシャルワークと物語

― 26 ―

(4)

︵2︶こうした﹁物語としての自己﹂の考え方は社会構成主義に基づくものである﹇McNamee&Gergen1992=1997﹈が︑その

ルーツとしては人間存在を意味関連として捉える実存主義の考え方や︑人間や﹁問題﹂を切り刻み顕微鏡を用いて理解

しようとする実体・客観・普遍主義に対抗するものとして一九九〇年代以降顕著に反映されるようになったポストモダ

ニズムの思考様式も汲んでいる﹇White&Epston1990,Parry1994,Fawcetted.2000ほか﹈︒

しかし︑現状のソーシャルワーク理論においては︑﹁クライエント﹂も﹁問題﹂も︑その﹁意味﹂を﹁定義し﹂たり

﹁理解する﹂場からは疎外された﹁問題ケース﹂の一つでしかなく︑どこまでも﹁対象﹂化された客体としての存在を

余儀なくされる︒その﹁問題﹂が物理的援助として解決が可能な場合は別としても︑むしろ﹁問題﹂が物理的援助のみ

に終始する場合は少ない︒それは︑﹁福祉問題﹂はしばしばスティグマが刻印されて語られることが多く︑クライエン

トにとっても援助者にとってもその﹁意味﹂を圧殺して﹁こと﹂を進めることは

できないからである

︒ 何 故

︑ それが

﹁問題﹂とされるのか︒何故︑﹁問題﹂はそのように﹁説明され﹂︑﹁理解される﹂のか︒クライエントにとって﹁問題﹂

とは何なのか︒ここでは︑クライエントは﹁問題﹂の﹁意味﹂によって︑すなわち﹁支配的な物語﹂と﹁自分の生きて

︵3︶いる/きた物語﹂とのズレによって抑圧されている︒したがって︑援助の際︑援助者の﹁物語﹂︵

援助理論︶によっ

て物理的援助を満足させたからといってクライエントの語る﹁物語﹂に傾着しないことは︑クライエントの人生に侵略

するだけでなく破壊することにすらつながる危険性をもつ︒こうして﹁物語モデル﹂は︑援助を受ける側が自ら語り出

す﹁ナラティブ﹂を重視し対話を援助実践に活かすという発想に由来するのである︒

﹁物語モデル﹂が主張する着眼点として︑①社会における権力関係︑②問題の外在化︑③もう一つの語り︑の三つが

挙げられる︒それぞれ︑①問題の背後にはそれを問題として成りたたせる権力作用がある︑②問題とは個人ではなく社

会における権力作用の結果おこる産物である︑③﹁大いなる物語﹂にかわる物語を紡ぐことにより自己や問題は再定義

可能である︑という見方である︒すなわち︑﹁物語モデル﹂とは︑援助者とクライエントが﹁共同で物語としての自己

― 27 ―

ソーシャルワークと物語

(5)

を構成していく実践﹂であり︑﹁現実認識の仕方や問題設定の仕方は決して一つではなく︑それは構成されるものであ

り︑従って再構成が可能である﹂﹇野口二〇〇一﹈とする思考的立場にたった実践論をひとまずは指すことにする︒従来

のように援助者を含む社会的多数派に属する者たちの論理に則った﹁問題﹂の設定や解決方法ではなく︑社会的周辺に

位置する声なきクライエントの論理によって︑何が﹁問題﹂であるかを設定しなおすことから出発するのが共通の立場

である︒

ところで小論における﹁物語モデル﹂の用語法について前置きしておこう︒最近︑隣接領域を含めキー・タームとし

てよく見かけるようになった﹁ナラティヴ・セラピー﹂は︑直訳すれば﹁物語療法﹂﹁語り治療﹂であるが︑当初はホ

ワイトらによる

narrative m odel

が﹁物語モデル﹂として紹介されていた﹇White&Epston1990=小森一九九二﹈︒﹁ナラティ

ヴ・セラピー﹂という言葉が登場したのは︑一九九六年にフリードマンとカッブによる

“Narrative T herapy

によって

であり︑それ以来﹁ナラティヴ・セラピー﹂が一般的に使われるようになった﹇Freedman&Comb1996﹈︒そして︑一九

九七年に野口らによってマクナミーとガーケンの

“Therapy as Social Construction

の邦題にはじめて﹃ナラティヴ・セ

ラピー﹄という呼称が使われることになり﹇McNamee&Gergen1992=野口ほか一九九七﹈︑以後︑日本において﹁ナラティ

ヴ・セラピー﹂という名称で通るようになったのである︒野口によると﹁ナラティヴ・セラピー﹂は︑もともと﹁広義

の用法﹂として従来の﹁診断モデル﹂に対抗する新しい実践の共通性を強調する用語であった︒しかし︑最近の傾向と

しては︑新しい実践の共通性というよりは︑セラビーや技法としての個別性独自性をあらわす﹁狭義の用法﹂に移りつ

つあるという﹇野口二〇〇一﹈︒

ここでは︑後に述べるように︑ソーシャルワークにおいて﹁物語﹂の議論は療法や治療︵いわゆるセラピー︶︑また

それらの技法に収斂するものではなく︑さまざまなコンテクスト︑範域︑方向性を持って展開されるべきものであると

の立場にたつ︒それはひとえに︑そもそもソーシャルワークの働きかける領域が生活︑経済︑政策︑地域など縦断的︑ ソーシャルワークと物語

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(6)

重層的︑包括的であるからに他ならない︒そこで︑ここではいわゆる﹁ナラティヴ・セラピー﹂にも一定の同意をしつ

つも︑最終的には﹁ソーシャルワークの﹂理論モデルを構築することを前提として︑﹁物語モデル﹂の用語を選びなお

すこととする︒

三物語モデルの﹁ものの見方﹂

﹁物語モデル﹂を論じる際︑その理論的基礎にあるのは﹁社会構成主義﹂である︒モダニズムにおける﹁知の枠組み﹂

は︑実体主義︑客観主義︑普遍主義によって支えられてきた︒これらによって学問の結果を正当化し︑もっともらしさ

を作り︑真理の追究に裨益することができると信じられてきた︒

社会構成主義は︑社会科学や行動科学を支えるものの見方においてこれまで主流をなしてきた①﹁事象Aには︑実態

としての本質がある﹂とする実体主義︑②﹁事象Aは人びとの主観的な意識のありようBとは独立に存在する﹂とする

客観主義︑③﹁①②から導かれた事象Aのあり方は普遍的に説明可能である﹂とする普遍主義に対して︑異議を唱え︑

別のものの見方を提示する︒﹁科学の知﹂によって﹁普遍﹂的に﹁客観﹂

的に実在する

﹁ 実 体

﹂ とされている事象は

実は人びとの認識や言語活動によって︑社会的・文化的・歴史的に﹁つくられた﹂ものであり︑相対的かつ流動的︑可

変的であることを主張してきた︒端的には︑﹁ことばが現実をつくる﹂というポスト・モダニズムの世界観である︒

千田は社会構成主義の指標として①社会を知識の観点から検討しようという志向性をもつ︑②それらの知識は︑人々

の相互作用によって絶えず構成されつづけている︑③知識は広義の社会制度とむ

すびついている

﹇ 千田二〇〇一

四︱ :

七﹈の三つを挙げる︒ここでいう知識とは︑いわゆる専門的知識のみならず︑日常的知識も含まれている︒つまり︑あ

らゆるものを﹁理解﹂したり﹁説明﹂したりする際に参照される判断基準のことをさす︒

― 29 ―

ソーシャルワークと物語

(7)

社会構成主義における理解の例として︑パーソナリティを挙げると︑伝統的にはパーソナリティが実体として人間に

内在することを暗黙の了解としてきたが︑社会構成主義ではパーソナリティは人々の内部ではなく外部にあると考え

る︒

Burr

﹇1995﹈は︑﹁自己﹂といった文法的装置は存在論的地位をもつものであり︑言語やテクストの外に何らかの実

在をもっていると間違って思い込まさせる効果があると説明する︒また︑貧困︑障害︑病︑逸脱行動︑家族や性の規範

⁝⁝といったソーシャルワークの対象となる問題や対象者の理解として︑実体・客観・普遍主義ではそれを例えば遺伝

的家系的素質︑本能︑無意識︑ホルモンといったようにクライエントの内なる世界において完結する自律的な産物とし

て説明してきたが︑社会構成主義では近代的家族制度︑経済システム︑社会的階層︑社会的通念︑政治体制︑文化︑価

︵4︶値といった社会的諸要素によって説明しようとする︒つまり︑事象は単独で客観的に存在するのではなく︑言語によっ

て生産され︑人々の相互作用によって再生産され︑またこのような知識は社会の制度によって支えられ︑政治的に用い

られる︒

社会構成

主義における対象者の理解については

︑ すでにいくつかの研究がある

﹇ 狭間一九九九ほか

﹈が

︑ ここでは

﹁ソーシャルワークにおける物語モデル﹂とは︑社会構成主義のものの見方に基づいたソーシャルワーク実践や理論研

究をする際の総称であるという考え方﹇木原二〇〇二﹈を採用する︒以下では︑こうした社会構成主義のものの見方を

踏まえて︑﹁ソーシャルワークにおける物語モデル﹂について論じていきたい︒

四物語モデルをめぐる文脈

﹁物語モデル﹂とは社会構成主義に基づいた視点によるソーシャルワークを論ずる際の総称であり︑クライエントの

語る﹁物語﹂に意味を見出すというのが基本的立場のようである︒しかしながら︑総称として一口に﹁物語モデル﹂と ソーシャルワークと物語

― 30 ―

(8)

いっても微妙にニュアンスが異なる様々な場合があ

︒ こ れ

は︑それぞれの分野における基本的研究方法やスタンスの違い

にもよる︒

ここでは社会構成主義が前提とするものの見方から︑導き出

されるいくつかの文脈について交通整理すること試みたい︒ま

ずは﹁物語﹂の次元をめぐって大きく二つの文脈を導き出すこ

とができる︒一つは︑﹁ことばが現実をつくる﹂

という視点か

ら実際のソーシャルワークの﹁実践レベル﹂において新たな援

助のありかたを展開するという文脈であり︑もう一つは︑こう

した視点に基づいて︑さらに﹁メタレベル﹂から援助という行

い自体をどのように記述するのか/してきたのか物語という概

念において問いなおすという文脈である

︒ このことを小

森 ら

﹇一九九九﹈は︑﹁新しい種類の治療的介入を提唱すること﹂と︑

﹁治療にまつわることがらをナラティヴ・アプローチによって

分析すること﹂と表現している︒すなわち︑社会構成主義の視

点から︑前者では援助論を︑後者では自己言及論を意味するも

︵5︶のとして﹁物語モデル﹂を用いることができる︒これらは︑さ

らにミクロ︑マクロといったアプローチのしかたによって再分

類される︒また︑横断的には技法か価値かという文脈も内包す

図 「物語モデル」議論の内包する文脈

― 31 ―

ソーシャルワークと物語

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る︵図参照︶︒

︵一︶ソーシャルワークにおける﹁物語﹂の展開

一つ目の文脈では︑実践レベルにおいてソーシャルワークの新たな援助のありかたが模索される︒ここでは︑援助の

技法として﹁ソーシャルワーク﹂という枠組みのなかで︑従来の専門的知識や権威を傘に着た援助者︱クライエント関

係を問うような論理が展開される︒また︑援助者︱クライエントという二者関係の限界を止揚し︑連動するものとして

のソーシャル・アクションがインパクトを持って語られる︒その際︑これまで︑意図的に捨象されてきたクライエント

のナラティヴやヴォイス︑価値といった側面にスポットが当てられる︒

.

ナラティヴ・アプローチ

最近︑盛んに論じられている﹁ナラティヴ・セラピー﹂もろもろの理論がこの領域に含まれる︒すなわち︑相談援助

の場面を想定した新たな援助技法という文脈である︒﹁物語モデル﹂における援助とは︑ナラティヴ形成の過程を意味

する︒ここでは﹁問題﹂の原因究明に重きをおかない︑臨床的な問題が形成する包括的プロセスに焦点を当てるという

方法が合意されている︒そのためには︑論者によってネーミングが異なるものの︑問題がクライエントの生活に影響を

与えていないときの記述を引き出し︑明確にし︑そして豊かにするために質問する︑という方法をとるようである︒例

︵6︶えば︑ホワイトの﹁ユニークな結果﹂﹇White&Epston1990﹈︑ドゥ・シェイザーの﹁例外﹂﹇deShazer1991﹈という方法が

その典型である︒これは︑従来の援助方法におけるオーソドクスな原因探しや心理還元主義を批判するものであり︑こ

とばが現実をつくるという視点に基づき問題を社会的産物として捉えようとする︒心理還元主義では﹁問題﹂が実在

し︑﹁客観的﹂立場から援助者の専門的知識や技術によってそれが説明されたり処理されたりすることが前提とされる

が︑ここでは︑その﹁問題﹂を﹁問題﹂足らしめているドミナント・ストーリー︵世の中の支配的な言説︶を発見し︑ ソーシャルワークと物語

― 32 ―

(10)

抑圧され葬り去られてきたクライエントの経験や物語をオルタナティヴ・ストーリーとして構築していくのに協力する

ことを援助とする︒その際︑援助者はよく﹁共同著述者﹂にたとえられる︒ここでは︑クライエントの主観や価値観を

優先する文字通り﹁クライエント本位﹂の援助が目指される︒

﹁ナラティヴ・アプローチ﹂に基づく援助の手順について︑さまざまな論者による手法を仔細に述べるには枚挙に暇

がないが︑この技法の唱道者であるホワイトにおけるキーワードをごく簡単に列挙すると︑まずは︑﹁新しいコードブ

ック﹂を用いてサイバネ

ティックな世界観や

︑ 家族における

﹁ 問 題

﹂ 維持補完要因についての特有の前提を紹介し

﹁サイバネティックな質問﹂﹁補完要因に関する質問﹂をすることで︑クライエントが﹁問題﹂をドミナント・ストーリ

ーから相対化する準備に取り掛かる︒次に︑クライエントの語りの中から﹁問題を外在化﹂し︑﹁問題﹂が家族に与え

る影響に関する記述と︑家族が﹁問題﹂に与える影響に関する記述を明らかにしていく︒その中から︑﹁ユニークな結

果﹂についての質問をとおして︑直接的なもの︑間接的なものがクライエントによって語られる︒ユニークな結果が歴

史化されることによって︑﹁問題﹂が染み込んだナラティヴは脱構築される︒こうなると援助は佳境に入る︒援助者の

驚きや驚嘆によって表現する﹁変化へのハイライト﹂によって︑よりスムースにクライエントの物語が紡がれていく︒

最後に﹁ユニークな説明﹂﹁ユニークな可能性﹂を問う質問によって︑﹁物語﹂は完全にオルタナティヴなものとして再

構築︵再著述︶されることになる︑という流れを追うのが援助の雛型とされる﹇くわしくはWhite&Epston1990﹈︒

ここで目指されているのは︑クライエントの状態について援助者が専門用語による説明を試みることを放棄し︑自己

の語り︑個人的な語り︑もう一つの語りを引き出すことでクライエント自身のエンパワーメント︑生きる喜びや生き直

しの意欲を促すことを図るということである︒クライエントのことはクライエントが一番よく知っている︒クライエン

トにとっての意味づけを重視しクライエントの価値観を本位とするものといえるが︑あくまで個人を対象とするミクロ

な援助であり︑個人へのコミットメントに焦点化する︒

― 33 ―

ソーシャルワークと物語

(11)

ここでの議論は︑実用的でこそあれ政治性は薄く︑ケースの展開としてはひとえに﹁技法﹂を重視している︒クライ

エントにとっては個人的レベルでの癒し︑ガス抜きとも言えなくもない︒過度に技法に執着すれば︑ややもすると︑単

なる質問や傾聴の﹁技術﹂を洗練させていくという伝統的方向に陥る嫌いがあることは否めない︒

.

ナラティヴ・ソーシャルアクション

次に︑同じ援助のありかたを問うものといっても︑﹁物語モデル﹂では︑物理的動きのない個室での二者によるやり

とりに留まらない広義の援助を意味し︑政治︑制度的コンテクストをも物語としてとらえ︑よりポリティカルにクライ

エントのエンパワーメントをめざす︑マクロなレベルでのアプローチも射程とされるところに特徴がある︒すなわち︑

物語によるポリティカル・プラクティスである︒個人の物語をグループの物語につなぎ︑物語を世に伝えることで︑援

助者は社会へコミットメントする︒例えば︑住民や当事者運動の展開を通して︑世論の形成にもかかわり︑社会の側に

ニードを発見させるというやり方をとる︒そして︑ドミナントな価値に対抗するオルタナティヴな価値を提示すること

で︑社会改革や施策の改善を図るソーシャル・アクションとしての要素を強くもつ︒すなわち︑個別の︑ともすれば忘

れ去られてしまう個々のクライエントの物語について︑いわば新しいカテゴリーとその意味付けを提示することで従来

あまりにも自明とされてきたドミナントなストーリーに異議申し立てをし︑これとは別の新たな存在様式を提示してい

くことである︒そのことが︑似たような経験をもつドミナント・ストーリーのはざまにある人々にそのようなストーリ

ーの存在を伝え︑彼らが経験の再定義をおこなう﹁力︵

power

︶﹂を与えることになる︒

物語によるポリティカル・プラクティスが標的とするのは︑世の中を左右している近代的治療システム︑家族観︑期

待される階層・性別役割︑近代的個人思想にみられるような近代的な知の体系や権力の構造である︒しばしばM・フー

コーの﹁客体化﹂﹁知の征服﹂の概念が引用されるが︑人類学︑文学︑哲学︑社会学︑女性学など︑近代主義に則らな

い︑むしろ反近代的立場の研究における一九六〇年代以降の世界的な思想的潮流の影響を受けている︒ここでは︑﹁個 ソーシャルワークと物語

― 34 ―

(12)

人的なことは政治的なこと﹂が象徴するように︑われわれが日々生活する些細な日常に忍び込んでいる政治性を暴露し

ていくことが共通の課題となっている︒クライエントの語りから︑ドミナント・ストーリーに対抗するオルタナティヴ

・ストーリーを構築しようという方法は︑言うまでもなく十分に政治的である︒

︵7︶また︑エンパワーメント運動やセルフヘルプといった機運の高まりにおける﹁障害者運動﹂︑﹁レイグループ﹂︑﹁当事

者の会﹂などの活動などは︑これらの一環として捉えられるかもしれない︒当事者自身によるストーリーの拡大を出発

点として︑そこから社会変革︑政策の改善にまで展開していくという一貫性と連動性を具える点において注目すべき動

向である︒

ただし︑残念ながら︑実践レベルにおいては︑上述のミクロな領域での面接技法にあたる部分だけを抽出した﹁ナラ

ティヴ・セラピー﹂の議論が多いのが現実である︒勿論︑援助とは︑基本的にはクライエントとの言語的なコミュニケ

ーションを介して行われるものであるから︑クライエントとの面接技法が問題とされるのは当然であるし︑そこで提示

されるある種の﹁作法﹂が﹁物語モデル﹂の最たるものと言わなければならない︒しかし︑われわれがソーシャルワー

クの﹁ソーシャル﹂たるゆえんにも気を配るなら︑むしろ︑マクロに展開する後者の政治性を含む実践にこそ力をいれ

るべきである︒今日のポストモダニストの援助者に求められるのは︑クライエント︵たち︶についての新しい存在様式

や記述様式をめぐる物語を拡大する運動への積極的な協働である︒

︵二︶﹁物語﹂におけるソーシャルワーク援助の照射

二つ目の文脈では︑より高次のメタレベルからソーシャルワークという行いをわれわれがこれまでどのように語り︑

記述してきたかという︑ソーシャルワークの自己言及への視角が提示される︒これまでは︑ソーシャルワーク援助とい

う枠組みの中で︑実践レベルとして物語がどのように新しい援助となりうるかが問題とされたが︑今度は︑物語論をメ

― 35 ―

ソーシャルワークと物語

(13)

タに据え︑ソーシャルワーク援助自体を物語として逆照射するとどうなるかが問題とされる︒これは︑ソーシャルワー

ク理論の調査・研究スタイルや立場︑方法にも密接に関連するところである︒

.

ナラティヴとしてのモダン・ソーシャルワーク

ポストモダンの影響を受けた最近の理論研究においては︑ソーシャルワークという社会装置自体が問題となってい

る︒なぜなら︑ソーシャルワークという発想やそれが国家的に発展していく過程は︑モダンの歴史そのものでありソー

シャルワークはまさにその申し子としか言いようがないからである︒﹁物語としてのソーシャルワーク﹂とは︑ソーシ

ャルワークそのものを歴史的に﹁発明﹂された知の体系として読むことを意味する︒すなわち︑モダン・ソーシャルワ

ークの﹁自己問い直し﹂を迫る視点である︒

自己の問い直しとは︑すでに正当化し流通しているソーシャルワークの物語について︑専門家が果たしてきた役割を

顧みるということである︒ポストモダニストに言わせると︑﹁ソーシャルワーク援助﹂とはクライエントをこの現実世

界に再適応させる﹁専門技術﹂の別名である︒近代市民社会において︑ソーシャルワークは理論や専門職の発展とあい

まって︑患者やクライエントと呼ばれる人たちやその問題とはかくかくしかじかのものであるとするさ

まざまな

﹁ 物

語﹂を生産してきた︒それらの物語は︑いつしか事実として受容され︑参照され︑引用され︑時に修正されて︑﹁クラ

イエント﹂に関する膨大な﹁知識﹂が形成されていく︒それらは︑確かに顕在的なレベルではケースごとに種々の違い

︵﹁個別性﹂と呼ばれる︶に配慮されるが︑

潜在的には

﹁ クライエン

ト﹂の﹁怠惰さ﹂﹁

非道徳さ

﹂﹁

幼稚さ

﹂﹁

奇矯さ

﹁未発達さ﹂﹁女々しさ﹂﹁受動性﹂を含む口吻で語られる︒こうして貧困や病を始めクライエントとして生きる人々は︑

その個別具体性や多様性が忘却され︑クライエントであるがゆえにモラルが低く人格発達途上であるというスティグマ

とともに︑支配的な物語の周縁に一方的に位置づけられる︒ここでは︑﹁物語﹂の記述者もしくはナレーターの役割は

常に援助者によって演じられるのであり︑クライエントとは畢竟︑援助者によって教化︑救済される対象ということに ソーシャルワークと物語

― 36 ―

(14)

なる︒それは︑当時の啓蒙思想や進化論的な学説ともあいまって︑近代国民国家を支えるイデオロギーとなった︒

クライエントが援助者による教化︑救済の対象として語られるのは︑クライエントが実際に︑先に上げたような属性

を本質的な特徴としてもっているからというよりはむしろ︑そのようなものとして語られることによって︑そのような

﹁現実﹂としての﹁クライエント﹂がつくられるからである︒

こうして

﹁ クライエン

ト﹂は﹁発見﹂

されるのである

そして︑ネガティブなイメージが纏わりつく属性を本質とする﹁クライエント﹂なる均質的なカテゴリーを創出し︑そ

の結果として︑それとは正反対の﹁道徳的﹂で﹁健康﹂な物語の中心としての﹁援助者﹂が形成される︒ここでは︑動

員されたソーシャルワーク理論や専門的知識が︑世界を﹁わたしたち﹂と﹁あなたたち﹂に二分しその一方に﹁クライ

エント﹂という名前を与え︑そこで生じることの全てをクライエントという単一のカテゴリーに還元し︑そしてその効

果として語り手の﹁わたしたち

援助者﹂を中心に位置づける︒﹁物語﹂の視点が照らすのは︑われわれがもし自らを

﹁健康﹂の側に位置づけ︑多様で具体的な個々の人間たちの存在を思考の周縁に追いやってきたとすれば︑われわれも

︵8︶またモダンの思考そのものに弄ばれていることになるということを問い掛けている︒

ソーシャルワークとは何をすることなのか︒また︑何をしてきたのか︒﹁物語﹂が問うのは︑社会において人が人を

助けたり︑支えあったりすることの意味である︒近代的な価値観︑科学万能能主義︑専門職至上主義の自明性への懐疑

は︑モダン・ソーシャルワークの問い直しを迫ることになる︒

こうしてソーシャルワークという行い自体を問い直し︑ソーシャルワークの枠組みや存立意義をも揺るがすラディカ

ルな議論を巻き起こす﹁物語﹂の視点は︑ソーシャルワークの歴史性や価値論を志向する議論と相即することになる︒

.

ナラティヴ・ベイスト・プラクティス

ところで︑これらの思考様式は︑最近まで強調されてきたエビデンス・ベイスト・プラクティス︵

evidence based p rac-

tice

︶ ︵

根拠に基づく実践︶に対して︑それへの反省を促し︑補完的な意味をもつ方法として︑ナラティヴ・ベイスト

― 37 ―

ソーシャルワークと物語

(15)

︵9︶・プラクティス︵

narrative b ased practice

︶を提示する︒すなわち︑もう一つの調査・研究方法の提案という文脈である︒

これまでのソーシャルワークの自己言及の仕方では︑評価を下すときに援助者の主観や価値観を排除した科学的︑客

観的︑実証的なエビデンス・ベイスト・プラクティスこそが重要であると強調されてきた︒こうした思考においては︑

例えば︑一〇〇例のうち九九例の実践による効果が実証されれば︑評価としては十全であり微塵も疑いを感じさせない

かもしれない︒だが︑残る一例のクライエントについては︑単なる失敗例として

かむりを決め込

んでよいのだろう

か︒生身の人間を相手とするソーシャルワークにとって︑﹁個別具体性﹂とは何かが問われるだけでなく︑そもそもこ

うした方法が最も適切なのかどうか疑わずにはおれない︒頻度や妥当性を中心に据えた統計学的データに基づく援助

は︑ある意味で個別具体性を切り捨てる乱暴な論理になる危険性を孕んでいる︒

実践において︑援助者もクライエントも語るという方法で物事を理解している︒エビデンス・ベイスト・プラクティ

スでさえ︑それを他人に理解してもらおうと思ったら︑先ずそのデータをことばにしなくてはならない︒社会構成主義

の立場にたてば︑そもそも純粋のエビデンスはあり得ず︑エビデンスを見出すときにも援助者は半意識的に何らかの物

語︵価値基準︶を働かせている︒どんな数字も︑それが大きいのか小さいのか解釈なしには意味をなさない︒意識しよ

うとしまいとアセスメントに物語はついてまわっている︒何をもって効果とするのか︒例えば不登校の場合︑援助の結

果として︑不登校児が学校に行くようになったとしよう︒援助者︑親︑担任の教師︑クラスメイト︑周りの皆にとって

それが最善の結果として受け止められたとしても︑本人にとってそれがどうであるのかは分からない︒とすると︑効果

があった︑とするその根拠は何かを問えば︑結局のところは︑世の中の大多数がよしとする支配的な物語に沿う結果を

出したということにしかならない︒そのとき︑援助者は︑﹁まっとうな人﹂たちの代表者として﹁この社会﹂の﹁番人﹂

をしたに過ぎないということになる︒

エルウィン﹇二〇〇一﹈らは︑医療現場における対話分析をとおして︑患者の認識のほうがコード分析よりもおそら ソーシャルワークと物語

― 38 ―

(16)

く価値があり︑見解の一致は客観的知見より感覚的になされていること︑また︑不一致︑苦悩︑優柔不断に付き合い︑

患者と共に考えて方針をきめていくことが︑その後の検査や専門医への紹介を少なくしているという事実を明らかにし

ている︒

人はそれぞれ︑自分の﹁物語﹂を生きている︒﹁問題﹂もその物語の一部としての意味をもっているにもかかわらず︑

一般の援助者はそれを忖度することなく︑取り出した﹁問題﹂に﹁名前﹂を与えるこ

とで満足する

︒ しかし時にそれ

は︑その人の物語の破壊につながってしまう︒つまり︑個別具体性を重視するソーシャルワーク実践において︑パーセ

ンテージの発想では︑残り一例のクライエントや﹁学校に行く﹂ことで問題が解決した児童にとって︑すなわち︑もっ

ともユニークな︑最後の一人のクライエントが︑自分に相応しい援助や施策を組み立てていけるような方法にあえて背

を向けることになるのではないか︑ということをナラティヴ・ベイスト・プラクティスは提起するのである︒

そのような視点から︑科学性︑客観性︑実証性とは全く相容れない﹁語り﹂こそを素材とする︑ナラティヴ・アナリ

シスや聞き語り︑ヴォイス・インタヴュー︑自由記述アンケートなどの方法をとる研究や実践が提案されている︒ナラ

ティヴ・ベイスト・プラクティスではローカルで身体性をおびたクライエントの知をそのまま研究の際の言説とする︒

勿論ここでは︑初めから効果の測定として計量斟酌を前提としない︒ここで大切なのは︑そのような﹁物語﹂を援助者

が見つけ出すのではなく︑クライエントが自ら生み出してくる物語を受けいれる感性である︒このような感度を養うた

めにはある程度の素養が必要であり︑ソーシャルワーク教育もそうした視点から見直す必要があるだろう︒ナラティヴ

に敏感な援助者を目指すには︑﹁サイエンス﹂系の教養だけではなく︑﹁アート﹂系の教養が必要である﹇山下二〇〇三︑

グリーンハルほか二〇〇一﹈︒そのためには︑文学作品︑映画︑病の経験者の著作などがナラティヴ・ベイスト・プラク

ティスを習得する教材となりうる︒すなわち︑日ごろから﹁物語﹂に不可欠である言語的感覚やリアリティ感覚を磨く

ことが一つの方法かもしれない︒

― 39 ―

ソーシャルワークと物語

(17)

これらの質的研究や実践を総称してナラティヴ・ベイスト・プラクティスと呼ぶことができるが︑数的データに頼ら

ない別の次元での︑やはり︑評価の方法の議論が展開するのを待つところである︒

五結びにかえて

実践レベルとメタレベルでの文脈︑さらにabcdに示した文脈は︑双方向に連鎖連動しあっている︒このように︑

提示したようないくつもの文脈において﹁物語モデル﹂がソーシャルワークに影響を与えていることの背景には︑ソー

シャルワーク理論史において︑ソーシャルワークの対象は﹁個人なのか社会なのか﹂︑はたまた学問領域として社会福

祉学は﹁人文科学なのか社会科学なのか﹂と振り子のように揺れ動いてきたということがある︒上述のように︑﹁物語

モデル﹂がソーシャルワークにおいてさまざまな次元で異なる文脈をもち︑それぞれに重要な問いとして受けとめられ

ることはある意味当然なのである︒むしろ︑社会福祉学においては︑両者が相互に関連しあうというところに研究スタ

ンスのユニークさがあるようにも思われる︒﹁物語モデル﹂について議論することは︑ミクロからマ

クロまで広範に

かつラディカル︵根源的︶な問題を内包するものとして受けとめられるべきである︒

﹁物語モデル﹂の可能性の一つは︑このように面接室での援助から住民運動への展開まで理論的に連動すること︑す

なわち同じ﹁哲学﹂の中にミクロ・アプローチとマクロ・アプローチが同居することである︒ミクロとマクロとを反復

する実践こそがソーシャルワークではないだろうか︒理論史において従来のモデルでは個人か社会かを二者択一的にし

か対象として選択出来なかったことを思えば︑ソーシャルワーク理論にとって一つの貢献であることは多言を要すま

い︒ミクロレベルでの援助の技法と社会政策を視野に入れたマクロレベルでの実践が︑一貫性と連動性をもって展開さ

れるところこそが物語モデルの身上である︒ ソーシャルワークと物語

― 40 ―

(18)

第二に﹁物語モデル﹂は︑ソーシャルワークを︑生活の矯正︑適応指導のための援助ではなく︑トータルとしての人

間存在の意味を見いだすための援助として位置づけていることである︒これまでのソーシャルワークは︑確かに︑合理

的︑科学的︑近代的かつ︑ジェンダー役割に則った﹁まっとうな﹂生活ができるのかどうかに偏重してきた︒しかし︑

人間生活︵人生︶とは︑そうしたこまごました動作や行為の積み重ねで成り立っていると同時に︑刻一刻の意味の積み

重ねでもある︒量の積み重ねであると同時に質の積み重ねである︒そのように考えるならば︑徹底した量的援助を図る

システミックな援助一辺倒のソーシャルワークの現状に対して︑﹁物語モデル﹂は一石を投じるものとなるだろう︒

ただし︑上述したことを総合すると︑いくつかの課題が提示される︒第一に︑﹁実践レベル﹂においての新しい援助

論としての﹁物語モデル﹂という文脈では︑未だ実際の実践報告が少ないため︑パースペクティブの議論ばかりが先行

し︑具体的な援助プロセスの研究は途上である︒そこで︑より多くの適応例などの提示が求められる︒第二に︑﹁物語

モデル﹂の強みは︑ミクロとマクロのレベルにおいて同じものの見方のもと︑同心円状に広がるように連続した援助を

展開する点であるが︑技法論と価値論の一貫性が理論的に明示されることが急がれる︒貧困や病は﹁心理的﹂問題を引

き起こすが︑﹁心理的﹂援助だけでは貧困や病の解決はできない︒単なる︑﹁流行﹂の一﹁技法﹂に終始しない︑ミクロ

︵個人の語り︶からマクロ︵ソーシャルアクション︶までを射程に串刺しにする論理︑枠組みの構築が期待される︒

第三に︑﹁メタレベル﹂における自己言及論としての﹁物語モデル﹂という文脈においては︑物語の概念からソーシ

ャルワークの歴史や理論を書き直すことが試みられるべきである︒しかし︑自己言及をすればするほど︑すなわちミク

ロからマクロへ︑技法論から価値論へシフトし抽象度が上がるほど︑﹁物語モデル﹂の基本的立脚点にたいする螺旋状

の難問が待ち受けている︒これに回答することが︑地続きであるポストモダニズムにおける自己論駁性のアポリアに対

してソーシャルワークからの一見解を示すことともなろう︒第四に︑これまで専門家の言説を正当化するための科学的

・量的調査・研究方法が望ましいとされてきたが︑ここでは質的方法ともいうべきもう一つの方法としてのナラティヴ

― 41 ―

ソーシャルワークと物語

(19)

・ベイスト・プラクティスにおける調査・研究方法の確立と︑数的データに遜色ないナラティヴ・データによる評価方

法の明示が待たれるところである︒

こうした課題に底通するのは︑言うまでもなく︑ソーシャルワークとは何かを︑価値論を軸に問い直すことである︒

これは︑社会福祉のパラダイム転換という流れの中でもより意味があるように思われる︒さまざまな文脈における﹁物

語﹂について述べてきたが︑﹁物語モデル﹂が︑援助方法から研究方法へ︑個人から社会へ︑次元が異なっていてもそ

れぞれが同一の軸のもと一貫した論理を展開できるか否かが最大の論点となることは間違いないだろう︒単なる技法論

に留まることなく︑﹁物語モデル﹂が発信源となって各方面にそのような問題を惹起するような包括的な議論をするこ

とは非常に生産的である︑と同時に難しい挑戦でもある︒この小論で示したそれぞれの文脈における﹁物語モデル﹂に

ついて今後さらに検討していきたい︒

小論の執筆にあたり︑岡本民夫教授より教示をうけた︒記して感謝する︒

注︵1︶最近では︑学習者向け用語解説書にも﹁ナラティヴ﹂が登場する﹇黒木他二〇〇二

︒六四︱六五﹈ :

︵2︶なお浅野﹇二〇〇一﹈は︑﹁自己は自分自身について物語ることを通して産み出される﹂としながらも︑﹁語る自分﹂と﹁語

られる自分﹂の一致・不一致において﹁語られたもの﹂と﹁語られ得ないもの﹂が存在することを指摘し︑この両者を含ん

で自己や現実がなりたつとする﹁物語論﹂と﹁語られたもの﹂のみを自己や現実とする﹁構成主義﹂とを区別している︒

︵3︶クライエントの苦悩や不条理感といった﹁意味﹂を介した質的援助の必要性については︑すでに論じたことがある﹇松倉二

〇〇〇﹈︒

︵4︶社会構成主義については︑平﹇二〇〇〇﹈︑上野ほか﹇二〇〇二﹈︑Burr﹇一九九五﹈︵=田中一九九七︶︑バーガー&ルック

マン﹇一九七七﹈ほか参照のこと︒社会構成主義︵socialconstructionism︶の用語について︑社会学の世界では﹁社会的構築 ソーシャルワークと物語

― 42 ―

(20)

主義﹂﹁社会構築主義﹂との邦訳もあり﹇Burr1985;Gergen1994ほか﹈紛らわしいという指摘があるが︑﹁ナラティヴ・セ

ラピー﹂の文脈においてはもっと複雑な背景がある︒それは一九八〇年代に生物学や発生学から登場したコンストラクティ

ヴィズム︵constructivism︶の邦訳が﹁構成主義﹂﹁構築主義﹂とされていることである︒このコンストラクティヴィズムの概 念が他の学問領域で用いられ家族療法にも流入してきたとされている︒その後︑constructivismとconstructionismの違いを明 示させるためにconstructionismにsocialという語を付記することでその違いははっきりしてきたものの︑現在もこの違いに

ついての混同は多くの場面で見られる︒

︵5︶ただし︑﹁物語モデル﹂といったとき︑日本の臨床サービスを提供している専門家から見た場合には︑古くからユング派など

の使っている︑また最近の精神分析で再評価されている﹁物語﹂という概念もあり︑これは前者の立場に属するものとの共

通点が多くみられ︑より混乱を生んでいると思われる︵河合﹇二〇〇三﹈︑森岡﹇二〇〇二﹈など︶︒事実︑欧米でも精神分

析における﹁物語﹂の意義が再評価されている︒ただ︑ナラティヴ・セラピーについて先行して議論されてい

る欧米では

前者後者含めて﹁ナラティヴ・セラピー﹂としているようである︒

︵6︶なおドゥ・シェイザーとホワイトとでは︑援助の立場として微妙に差異がある︒前者はよりシンプルでミクロな援助の技法

を提唱し︑後者はよりラディカルでマクロな援助の方向性を志向する﹇児島ほか二〇〇二︑ホワイトほか二〇〇二﹈︒また︑

北米・豪州・欧州など地域によっても重点のおき方が異なっている︒新たな援助論という文脈のなかで︑先行研究における

論者たちの多様な主張や内容について吟味することが必要であるが︑別稿に譲る︒

︵7︶レイとは﹁素人﹂の意︒レイグループとは︑その﹁問題﹂を体験し回復した人を援助者とした専門家なしのグループのこと

をいう︒

︵8︶ソーシャルワークの自己言及性については︑﹁他者﹂という概念をもちいることから試論した別稿﹇松倉二〇〇一﹈参照︒

︵9︶この領域については﹇グリーンハルほか二〇〇一﹈を参照した︒

10︶ここでは︑統制群実験計画法︑単一事例実験計画法などの︑頻度のグラフ化によって事象に記号︑数値を当てはめる﹁測定﹂

評価の様式を想定している︒

11︶エルウィン﹇二〇〇一

一七三﹈によれば︑対話分析とは︑口頭であれ記述であれ︑知識と信念︑事実と誤解︑真実と解釈 :

といった認知に関する問題が︑どのように思いつかれ︑表現されるかを理解するために︑対話を調査すること︒この論文の

なかでは逐語記録の様式が取られている︒

― 43 ―

ソーシャルワークと物語

(21)

︵ 12︶ただし︑エビデンス・ベイスト・プラクティスに代わるナラティヴ・ベイスト・プラクティスを主張しているわけではない︒

エビデンス・ベイスト・プラクティスとナラティヴ・ベイスト・プラクティスとは相容れぬものではなく︑むしろ互いに補

完し合うものである︒

13︶これに関連して︑社会福祉学における研究方法やリアリティの捉え方をめぐる文学作品からのアプローチの可能性について

論じたことがある﹇松倉二〇〇二﹈︒

参考文献一覧

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G・エルウィン︑R・グイン﹇二〇〇一﹈﹁聞く物語と語る物語﹂グリーンハルほか﹃ナラティヴ・ベイスト・メディスン﹄金剛出

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河合隼雄﹇二〇〇三﹈﹃物語と人間﹄岩波書店

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児島達美︑森俊夫﹇二〇〇二﹈﹁ブリーフ・セラピーへの招待﹂﹃現代思想﹄三〇︵四︶︑青土社

小森康永︑野口裕二︑野村直樹﹇一九九九﹈﹃ナラティヴ・セラピーの世界﹄日本評論社

松倉真理子﹇二〇〇〇﹈﹁ソーシャルワークにおけるストーリーの思考﹂﹃ソーシャルワーク研究﹄二六︵三︶︑相川書房

同右﹇二〇〇一﹈﹁社会福祉実践における﹃他者﹄の問い︱脱近代ソーシャルワーク議論の意味﹂﹃社会福祉学﹄四二︵一︶︑日本社 ソーシャルワークと物語

― 44 ―

(22)

会福祉学会

同右﹇二〇〇二﹈﹁社会福祉学研究方法におけるリアリティ︱ある﹃物語﹄にみる障害者の家族と共生の思想﹂﹃福祉文化研究﹄一

一︑日本福祉文化学会

S.McNamee,K.J.Gergen﹇1992﹈TherapyasSocialConstruction,Sage︵野口裕二ほか訳﹇一九九七﹈﹃ナラティヴ・セラピー﹄金剛

出版︶

森岡正芳﹇二〇〇二﹈﹃物語としての面接﹄新曜社

野口裕二﹇二〇〇一﹈﹁ナラティヴ・セラピーと社会個性主義の概念をめぐって﹂﹃家族療法研究﹄一八︵二︶︑金剛出版

同右﹇二〇〇二﹈﹃物語としてのケア﹄医学書院

A.Parry﹇1994﹈Storyre-visions:Narrativetherapyinthepostmodernworld,Guilford千田有紀﹇二〇〇一﹈﹁構築主義の系譜学﹂上野千鶴子編﹃構築主義とは何か﹄勁草書房 S.deShazer﹇1991﹈PuttingDifferencetoWork,Norton︵小森康永訳﹇一九九四﹈﹃ブリーフセラピーを読む﹄金剛出版︶

平英美ほか﹇二〇〇〇﹈﹃構築主義の社会学﹄世界思想社

上野千鶴子編﹇二〇〇一﹈﹃構築主義とは何か﹄勁草書房

C・ホワイト︑D・デンボロウ﹇二〇〇〇﹈﹃ナラティヴ・セラピーの実践﹄金剛出版

M.White&D.Epston﹇1990﹈NarrativeMeanstoTherapeuticEnds,Norton︵小森康永訳﹇一九九二﹈﹃物語としての家族﹄金剛書房︶

M・ホワイト︑S・ドゥ・シェイザー﹇二〇〇二﹈﹁家族療法の新しい方向性﹂﹃現代思想﹄三〇︵四︶︑青土社

山下文雄﹇二〇〇三﹈﹁患者医療学﹂﹃現代のエスプリ﹄四三一︑至文堂

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ソーシャルワークと物語

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