ランドマーク商品としてのアスファルト
著者 石川 健次郎
雑誌名 同志社商学
巻 57
号 5
ページ 53‑64
発行年 2006‑03‑10
権利 同志社大学商学会
ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007331
ランドマーク商
1
品としてのアスファルト
石 川 健 次 郎
はじめに──アスファルトと自動車──
蠢 クルマ社会日本のはじまり 蠡 アスファルトの誕生
蠱 わが国におけるアスファルト舗装の実態 おわりに──アスファルトへの依存──
はじめに──アスファルトと自動車──
江戸時代,京都から江戸(東京)まで東海道を行く旅人の旅程は,足の早い人で12 日間,普通ならば15日間というところであっ
2
た。現在自動車で,高速道路を利用する と,7〜8時間で移動できる。自動車の登場によって,両地間の移動に要する時間が,
約36分の1あるいは45分の1に短縮されたことになる。時間を短縮しただけではな い。自動車は,移動のスタイル,人の流れ,ものの流れ,情報の流れを大きく変え,経 済活動のみでなく,ライフスタイル全般の変化,また移動そのものに関する考え方や価 値観の変化にまで,劇的でかつ甚大な影響を及ぼし
3
た。この変化の起爆剤として,自動 車の威
4
力はいうまでもないが,その威力を支えるアスファルトの存在は,時として忘れ られがちではであるが,決して無視できない。信号のない高速道路がなければ,自動車 だけでこの画期的な時間の短縮の実現は不可能であった。しかもそれは,アスファルト で100% 舗
5
装された道路でなければならなかった。ここに自動車と合体して,パワーを 発揮するアスファルトの商品史的特
6
性がある。
わが国に漸く自動車が普及し始めた明治44(1911)年,東京銀座の機械商山口勝蔵
────────────
1 ランドマーク商品の意味については,石川健次郎編著『ランドマーク商品の研究』同文舘出版,2004 年を参照。
2 武部健一『道蠡』法政大学出版局,2003年,162ページ。
3 自動車の普及によって,広域かつ長距離間に,しかもスピーディに人・物・情報などの交流が可能とな り,それまで考えられなかったようなステージが展開された。
4 ランドマーク商品としての自動車については,瀬岡誠「負の商品史−消費社会における自動車と人間
−」,瀬岡和子「日本におけるモータリゼーションの進展とその負性」(石川編著『前掲書』所収)に詳 しい。
5 昭和61(1986)年現在,3700 kmの高速道路のうち,97% がアスファルトコンクリート舗装で,3%
がコンクリート舗装であった。日本道路公団30年史編集委員会編『日本道路公団三十年史』日本道路 公団,1986年,396ページ。
6 鉄道も同じく,移動時間を短縮させはしたが,直接目的地そのものに着ける即時(地)性,自由さ,個 人空間の確保などの面で,移動手段としての自動車のパワーは大きい。
(269)53
が,イタリア製の大型車を長距離用に改造して,山陽山陰ドライブ旅行を試みた。行程 は,東海道を経て,関西・中国地方をめぐる1か月余の大旅行であった。しかし,途中 ぬかるみにはまって村人の応援を求めることは日常のこと,道路崩壊や故障で走行不能 となり,自動車自体を貨車輸送にすることもたびたびで,ついには旅行を断念しなけれ ばならなかった。大阪から帰ってきた山口は,「日本の道路はまだまだ自動車旅行に適 当ではない。途中の府県も道路の維持管理の念が乏しく,県庁付近の3, 4里は道幅も あり,修理もされているが,10里20里離れた所になると,まるで壊れ放題,造り放し だという感じ
7
だ」と嘆息した。自動車の威力も,それを支える道路が十分に整備されて いないと,走行さえ断念せざるを得ない状態に陥ることを端的に物語っており,自動車 走行を支えるアスファルト舗装道路の重要性を思い知らされる。
アスファルト舗装道路の現代的意義と効用については,「砂利道での自動車交通は,
雨天時の泥濘化や,乾燥時の砂塵による車両の走行困難を招くばかりでなく,沿道に著 しい被害を及ぼします。舗装はこのような状況を改善し,車両走行の快適性を向上する とともに,環境の保全にも寄与します。さらに路面に適度のすべり抵抗性を持たせるこ とによって,安全性が確保されます。また平坦性に優れた舗装では,耐久性が向上し,
路上工事の回数が減るなどの効果も期待できます。舗装することによって,道路の維持 費用が抑制されるだけでなく,輸送の定時制,荷傷みの減少,さらには走行時間の短縮 による輸送コストの低減など,旅客・物流が得る利益はきわめて多大となります。構造 や表層材料の適切な選定によって,車両走行による騒音・振動を減らすこともできま す。空隙率の大きい表層(排水性舗装)の採用は安全性の向上だけでなく,タイヤ騒音 を減ずるなどの効果もあります。最近は地球環境保全の観点から, ゼロ・エミッショ ン の考え方が世界的に検討されています。これは生産から再構築までのサイクルにお いて,廃棄物を出さないという考え方です。(アスファルト舗装では)再生舗装が,す でに10数年前より実用化されており,建設業界では優等生として技術開発に取り組ん できまし
8
た」という主張もある。
また自動車道路だけでなく,生活道路さえアスファルトによって舗装され,町の景観 を一変させることになった。昭和25(1950)年生まれの清水慶一は,「私(大阪市生ま れ)が子供の頃,道路といえば砂利か土と相場が決まっていた。確かに幹線道路は,ア スファルトなりコンクリートで舗装されていたが,一歩裏道に入れば,日照りの日には モウモウと砂ぼこりが舞い,雨の日にはぬかるみとなる,古式ゆかしい道路ばかりだっ た。近頃は,ひなびた村の林道や裏町の路地まで,すっかりアスファルトで舗装されて
────────────
7 齊藤俊彦『くるまたちの社会史』中公新書,1997年,177−178ページ。
8 道 建 協 ホ ー ム ペ ー ジ(舗 装 技 術)http : //www.dohkenkyo.or.jp/menu/hosou/kurasi.html(2002年10月11 日)
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
54(270)
いる。日本の道路もひと昔前と比べてずいぶん整備されてしまっ
9
た」という。時代をさ かのぼれば,なおのことで,大正時代には,首都東京の道路でさえ「晴天なれば砂漠,
雨なれば泥沼,ハネは天に冲し,砂塵は地を蓋う。玄界灘は東京の中央にあり」とまで 皮肉られ
10
た。いまわれわれは,砂利や土を踏むことなく,したがってモウモウたる砂ぼ こりや泥沼,ぬかるみ,ハネなどに悩まされることなく,アスファルトで舗装された道 だけを歩くことで日常生
11
活を送っている。われわれがじかに土を踏まずに,歩くように なったのはいつの頃からだろうか。アスファルト舗装によって,「古式ゆかしい」,情緒 ある道路が少なくなったことは事実であろうが,同時に清潔で,衛生的な歩行が可能に なった。
とはいうものの,やはりアスファルト舗装に対する批判もある。たとえば,自動車の 利用を便利にするために,路地まで舗装を敷きつめ,駐車場を造り,水面,植物,土を 消失させてしまった影響も大きい。これに大気汚染と騒音が加わり,都市の環境は耐え 難いものとなってい
12
るという指摘がある。また「米国内では,車1台につき平均700 m2 の舗装された土地が道路や駐車場のために必要とされる。米国の保有車両が5台増える ごとに,サッカー場1面分の土地がアスファルトで覆われることになる。(中略)米国 で道路と駐車場にささげられている土地は,1600万haにのぼる。これは2000年,米 国民が小麦を栽培した2100万haに,もうすぐ届きそうな広さである。(中略)このこ とは,小麦畑と稲田をめぐる車と作物の戦争が,飢餓が珍しくない国々でも起きている ことを意味する」というワールド・ウォッチ研究所のレスター・ブラウンの言葉を引 き,アスファルト舗装が食料生産までも脅かす実態を指
13
摘するものもある。
アスファルト舗装道路は,一方で自動車のバイプレヤーとして,人間の移動,物資の 流通の迅速性,安全性,快適性,経済性そして衛生向上などの面で強力なパワーを発揮 するが,同時に自然破壊,低周波公害,都市の景観変容などの課題を生み出す。このよ うな創造力と破壊力を併せもち,その登場によってわれわれの生活,ライフスタイルお よび価値観までも劇的に変容させたところにランドマーク商品としてのアスファル
14
トが あるといえる。
わが国のアスファルト舗装の歴史と実態を見る前に,それと不可分の関係にある自動 車の歴史について概観しておこう。
────────────
9 清水慶一『建設はじめて物語』筑摩書房,1994年,55ページ。
10 齊藤,前掲書,174ページ。
11 日常的な履き物が,下駄・草履から靴・つっかけなどへ変化したのも,服装だけでなく生活道路のアス ファルト舗装化とも関係があろう。
12 上岡直見『自動車にいくらかかっているか』コモンズ,2002年,29−30ページ。
13 上岡,前掲書,33−34ページ。
14 アスファルトについては,ランドマーク商品の代表ともいえる3種の神器や3 Cとは異なり,生活者が 直接購入できないという特性がある。今後ランドマーク商品の定義を考慮する上で,課題とすべき点と なろう。
ランドマーク商品としてのアスファルト(石川) (271)55
Ⅰ クルマ社会日本のはじまり
いま日本には,節水や節電と同じように「節車」という考え方がある。あるシンポジ ウムで,障害者向け仕様の自動車を使っている人から,「自動車という移動手段は,自 動車しか使えない人のために残しておいてほしい」と提言されるほど,自動車濫用の事 態は深刻化している。私たちは,「節車」すなわち,自動車交通そのものを減らす対策 であるTDM(交通需要管理,Trafic Demand Management)をすぐに実行する必要があ
15
る,という。交通事故による死者数は,自動車の走行距離に比例
16
し,日本における乗用 車の走行距離は,経済情勢とほとんど関係なしに伸び続けてお
17
り,最近こそ減少傾向に あるとはいえ,その死者数は無視し得ない。自動車の走行量が増え続ければ,それにと もなって排気ガスや騒音による被害も増え
18
る。また自動車から放出される熱で気温が上 昇,都市の熱帯化に自動車も関与している。走行せずとも,カーエアコンの使用やアイ ドリングにより,莫大な廃熱を路上に放出する。その熱が,自動車が集中する都市の気 温を上昇させ
19
る。自動車は地球温暖
20
化の大きな一因となっている。また自動車はその製 造段階においても,鉄道を上回る量の電力を消費してい
21
るという。
わが国の自動車保有台数の推移は,1950年40万台,1960年330万台(乗用車45万 台),平成2(1990)年5500万台,平成7(1995)年6680万台(乗用車4466万台)と なっており,45年間で160倍に増えたことにな
22
る。平成11(1999)年には,8860万台
(乗用車5140万台,貨物車2288万台,2輪車1432万台)に達し,免許年齢に満たない 人を除いて,1人1台にまで普
23
及した。平成17(2005)年現在,乗用車保有台数約5629 万台,全車種保有台数約7828万
24
台となった。いまや自動車運転免許証を取得していな い人の方が,希少価値があるような状態になった。
わが国でクルマ社会が発達した要因には,自動車の低廉化もさることながら,自動車 交通自体がもっている自由性,迅速性,快適性などの機能特性が,一般大衆のニーズに 適合したからであろう。とりわけ自動車の機能特性である迅速性,快適性は,道路の整 備と絡み合いながら高められてきている。つまり,交通用具の発達と(アスファルト舗
────────────
15 上岡,前掲書,2ページ。
16 上岡,前掲書,16ページ。
17 上岡,前掲書,10ページ。
18 上岡,前掲書,15ページ。
19 上岡,前掲書,27−29ページ。
20 上岡,前掲書,18ページ。
21 上岡,前掲書,23ページ。
22 三本和彦『クルマから見る日本社会』岩波書店,1997年,2ページ。
23 上岡,前掲書,10ページ。
24 自動車検査登録協力会編『平成17年版 わが国自動車保有動向』同会,2005年,3ページ。
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
56(272)
装道路をはじめとする)交通施設の改善とが表裏一体となり,今日における自動車交通 の座を不動のものにしてい
25
るといえる。
いまや自動車は,われわれの社会や生活にとって不可欠の商
26
品となっており,その強 力な有用性,効用について疑義を唱える人はいまいが,その影響力の大きさために,逆 にマイナス(負)に作用する力もまた甚大なものとならざるを得ない。わが国が,この ようなクルマ社会になったのは,いつごろのことだろうか。
ドイツのベンツとダイムラーによって,初めて自動車が作られたのは,1885(明治 18)年のことであ
27
るが,日本に最初に自動車が輸入された日時,その車種については,
これまでにさまざまな異説があった。なかでも最も長く信じられていたのが,サンフラ ンシスコの在留邦人会が,当時の皇太子(のちの大正天皇)の御成婚記念に際して献上 した電気自動車(明治32(1899)年)であるとする説である。しかし現在では,同じ 年ながら皇太子への献上の電気自動車の上陸より1カ月早く,アメリカン・トレーディ ング・カンパニーの手を経て輸入され,横浜の山手に住んでいたJ・W・トムソンが購 入した,アメリカのロコモービル蒸気自動車を輸入第1号とするのが定説となってい
28
る。ただし齊藤俊彦は,日本自動車史を語るうえで,最も権威ある文献とされる『日本 自動車工業史稿』(日本自動車工業会,1965年)の説を紹介,整理したあと,新たな発 見として,明治31(1898)年,フランス人技師テブネ(Jean Marie Thevenet)が持ち込 んだフランス車が,わが国第1号車のルーツであると主張し
29
た。だが,その車種,また 日本人とのかかわりについては不明の点も多
30
いという。わが国の自動車のルーツについ ては,戦前からさまざまに模索されてきたが,いまだ決定説にまで達していない。
貨物輸送については,明治35(1902)年に,銀座の食料品店・亀屋が貨物自動車を 運送に使っ
31
たとか,明治36(1903)年に,三越呉服店がトラック「クレメント号」を 輸入して,商品の搬送に使用し
32
たとする説がある。
日本の国産車第1号は,明治36(1903)年,岡山の森房蔵と楠健太郎が山羽電機工 場の山羽虎夫に依頼して造った蒸気自動車であり,ガソリン車国産第1号は,明治40
(1907)年東京自動車製作所において,吉田真太郎と内山駒之助の二人が協力して製作 した自動車であっ
33
た。
────────────
25 播磨荘一郎『日本の道 世界の道』毎日新聞社,1991年,340ページ。
26 自家用車を持っていない人でも,トラック輸送など自動車そのものの恩恵を受けおり,トラックの間接 的なユーザーであるという認識を持つべきである。上岡,前掲書,13ページ。
27 これについても,様々な異説がある。折口透『自動車の世紀』岩波書店,1997年,2−3ページ。
28 折口,前掲書,39−40ページ。
29 齊藤,前掲書,99−107ページ。
30 折口,前掲書,39−40ページ。
31 社団法人日本自動車工業会編著『モーターサイクルの日本史』山海堂,1995年,142ページ。
32 播磨,前掲書,85ページ。
33 折口,前掲書,41−43ページ。
ランドマーク商品としてのアスファルト(石川) (273)57
わが国の自動車保有台数についても,文献によって多少の不統一がある。明治41
(1908)年9台,同42年19台,同43年121台,同44年235台,大正元(1912)年512 台,同2年892台,同3年1066台,同4年1244
34
台(『内務省警保局統計』による),明
治42(1909)年,警視庁へ登録されていた自動車61台,うち自家用乗用車58
35
台,大 正13(1924)年2.7万台,昭和8(1833)年10万台,同20年14万
36
台,日本の自動 車 台数は,関東大震災を挟んで急激に増加し,震災後の大正15(1926)年には,3万2000 台に達し,昭和7(1932)年には10万台を超え
37
た,太平洋戦争末期には13万台であっ た 自 動 車 は,昭 和27(1952)年 に は50万 台,同31(1956)年 に は100万 台,同36
(1961)年には200万台と急速に増加し
38
た,といったものである。
わが国の自動車事情については,明治30年代初めに外国から輸入車が上陸し,その 5〜8年後に国産車が製造され,大正末期から昭和初期にかけて,本格的に普及し始め たと要約できよう。
クルマ社会日本の現状については,すでに見たとおりであるが,他の先進諸国と比べ て,特にわが国は自動車密度(可住面積1平方km あたりの自動車保有台数)が異常に 高いといわれる。1994年現在でアメリカが31台,イギリスが126台,ドイツは174台 だが,日本は452台で,とくに首都東京は4433台,大阪は2589台という圧倒的な自 動車密度の高さであり,この数値とインフラ整備の遅れが,日本の交通にまつわるあら ゆる問題を惹き起こしている(東京と大阪のデータは平成3(1991)年3月末現
39
在)と いう。次に交通に関するインフラ整備の核心ともいえる道路舗装について,わが国の歴 史をみよう。
Ⅱ アスファルトの誕生
明治初期の道路舗装には,盛り土をし,砕石を突き固めるマカダム式と称される舗装 があった。アスファルトを道路舗装用に利用する以前の方式である。
かって江戸時代の東海道は,往来する外国人から道路の手入れがよく行き届いている とほめられた。しかし,その道路はあくまでも人や牛馬が歩く道であって,車を通すこ とを計算して作られたものではなかった。したがって,明治に入り車両交通が盛んにな ってくると,早速に道路や橋の傷みがひどくなった。それに,明治5(1872)年の新橋
────────────
34 朝倉治彦ほか編『事物起源辞典(衣食住編)』東京堂出版,1976年,170ページ。
35 齊藤,前掲書,109−111ページ。
36 昭和の道路史研究会編著『昭和の道路史』全国加除法令出版,1990年,234ページ。
37 武部,前掲書,211ページ。
38 武部,前掲書,221ページ。
39 三本,前掲書,3ページ。
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
58(274)
〜横浜間鉄道の開業以来,政府は一貫して鉄道重視政策をとってきたため,道路整備は とかく後回しにされる傾向となってい
40
た。明治14(1881)年に来日したイギリスの旅
行家クロウは,「東海道は道の状態が非常に悪く,わだちや穴は荷車1台も飲み込みか ねないほど大きい。それでもなお交通量は,馬,人力による車両とも多
41
い」と記してい る。
わが国の道路整備が遅れた理由は,古くから移動が人力に頼るものであり,道路の舗 装,あるいは車道と歩道の区別を必要としなかったため,機械的交通用具を利用する道 路についての意識が生まれてこなかったばかりでなく,徳川時代における道路政策が政 略的観点から意識的に展開されなかったこと,明治維新後においても軍事体制の強化を 図るため海運・鉄道偏向政策が進められたことなどが考えられ
42
るという。
明治時代における道路舗装の技術水準は,砕石道,通称は砂利道程度が永く続いた。
砕石道は開発者であるジョン・マカダム(Jhon Loudon McADAM, 1756〜1836年)の名 をとりマカダム式舗装と称され,日本では,神戸と横浜の外国人居留地の街路にこの方 式が真っ先に導入され
43
た。その後明治6(1873)年着工の生野鉱山から飾磨港までの50 キロの馬車道の修造に,このマカダム式舗装が採用され,お雇い仏人技師シスレ
44
ーが技 長として工事の監督に当たり,同9(1876)年に開通し
45
た。この道路については,輸送 に関わる費用計算がなされており,旧道路を用いれば,1トンの物品を1キロ運ぶのに は34銭6厘,これがマカダム式の道路では約9分の1の4銭で済むという計算だっ
46
た という。
マカダム式道路の特徴は,「地盤を乾燥状態にする」という点に要約される。両側に 排水溝を建設して,中央に盛り土をする,こうして道路の下の地盤の水を抜くようにす るだけで,かなり丈夫な道路となる。雨水から道路の表面を守るため,細かく砕いた石 を突き固めて敷き,ローラーで固める。これで完全ではないとしても,水を通さない道 路面を作ることが出来
47
たという。
明治期の道路状況を通観すれば,あとで見るようにスチーム・ローラーの開発,アス ファルト舗装の試行など道路技術あるいは道路施行法の改良がなされなかったわけでは ないが,(中略)技術上の進展はきわめて緩慢といわざるをえず,さしたる変化のない まま大正期の自動車対応時代を迎えることになるのであ
48
る。大正12(1923)年の「東
────────────
40 齊藤,前掲書,176ページ。
41 武部,前掲書,170ページ。
42 播磨,前掲書,88ページ。
43 堀 勇良「明治の道路技術」高村直助編『道と川の近代』山川出版社,1996年所収)260−261ページ。
44 堀「前掲論文」263ページ。
45 木谷幸夫「鉱山寮馬車道について」『歴史と神戸』23巻6号,1984年。
46 清水,前掲書,59−60ページ。
47 清水,前掲書,57−58ページ。
48 堀「前掲論文」265ページ。
ランドマーク商品としてのアスファルト(石川) (275)59
京・下関間自動車縦断記」によれば,往路は中山道,山陽道を経て下関まで9日間,帰 路は山陽道,東海道を経て3日目に東京に帰着している。この頃になると,前に見た山 口勝蔵の旅行とは違って,悪路ながらも自動車周遊旅行が可能なほどに道路改良は進み つつあっ
49
たといえる。
自動車の本格的普及により,道路も従来の自然性の強い砂利や土の舗装では不十分と なり,耐久性に優れ,自動車走行に適したアスファルト舗装へと切り替えられていっ た。つまり,マカダム式道路からアスファルト道路に造り替えられたのは,ほこりがひ どいというのも理由の一つだが,より大きな理由はこの頃,新しく登場した空気入りの 車輪,つまり自動車のタイヤにはアスファルト道路の方が適していたからだといわれて い
50
るのである。
わが国におけるアスファルトの開発は,寛政年間(1789〜1801年)に,陸中黒沢尻
(現岩手県北上市)の黒澤利八が秋田県豊川村(現昭和町)で,天然アスファルト(土 瀝青)を採掘し,その油煙を利用して,墨や染料の生産をしたことに始ま
51
る。明治維新 後も,黒澤家が天然アスファルトの精製と販売を継続し,明治10(1877)年の第1回 内国勧業博覧会に,天然アスファルト原鉱,精製品,油煙製品,防水工事見本,舗床見 本,倉庫防湿目地見本などを出品し
52
た。明治10(1877)
53
年,東京府知事であった由利 公正は,欧米視察で見聞したアスファルト舗装道路を,将来の日本の道路のあるべき姿 と決め,神田昌平橋が石造アーチ式で建設されるのを機会に,その橋面舗装にアスファ ルトを使用することにした。これが小規模ではあるが,公共事業に使用されたアスファ ルト舗装の第1
54
号であった。これら博覧会や橋舗装などにより,それまであまり知られ ていなかったアスファルトの存在と効用が広く知られることになり,建築関係では,屋 根の防水工事,倉庫の床防湿工事,工場通路の舗装工事,耐酸・耐アルカリ工事などに 用途は広がっ
55
たという。
しかし,アスファルトが本格的に道路舗装に利用されるようになったのは,明治44
(1911)年,中外アスファルト株式会社(明治40(1907)年設立)の社長高桑藤代吉が 施行用重機械である6トンタンデム型ローラーを輸入して以来のことである。高桑はこ のほかアスファルトプラントもアメリカから1千ヤード機を輸入し,最初にアスファル ト合材を機械化し,アスファルト舗装が道路舗装に適していることを大いに宣伝し,事
────────────
49 「モーター」(大正12年8月号)。齊藤,前掲書,178ページ。
50 清水,前掲書,60−61ページ。
51 池田英一『日本アスファルト物語』日瀝化学工業株式会社,1981年,2−3ページ。
52 池田,前掲書,6ページ。
53 神田昌平橋の土瀝青を用いた橋面舗装は,明治11(1878)年であったとする説もある。日本道路協会 編『日本道路協会五十年史』日本道路協会,1997年,321ページ。
54 長崎のグラバー園の案内板によれば,日本におけるアスファルト第1号は,同園内にあるリンガー邸の アプローチであるという。民間で舗装に利用した第1号という意味であろうか。
55 池田,前掲書,8−9ページ。
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
60(276)
業拡大を図っ
56
た。大正3(1914)年には,京都駅から御所までアスファルト舗装がなさ
れ
57
た。
大正7(1918)年に「道路法」が成立(翌8年公布)し,わが国の道路整備の法的基
盤が整えられ始めたが,これさえも従来からの鉄道重視の政策のため,明治23(1890)
年に閣議にかけられて以来,帝国議会に2回提案されても実らず,28年もかかってや っと日の目を見るにいたった法
58
律だという。
この「道路法」が成立した年,渋沢栄一らの招請によって,アメリカから経済視察団 が来日した。この中にアメリカ道路界の有力者サミエル・ヒルがいて,日本各地の道路 を視察して廻り,帰国時の談話で,「話には聞いていたが,日本の道路はとても道路と 言えるものではない。田んぼの畦みちであり,特に東京市内の道路は酷い。雨が降った ら田んぼそのもの。一刻も早く道路を整備すべきだ」と忠告し,舗装をして清潔な都会 にすることを市の当事者に勧告し
59
た。このように道路でコメが取れると皮肉られた東京 市にも,大正9(1920)年に道路局が設置され,本格的に道路行政が展開されて,アス ファルト舗装,木塊舗装,セメントコンクリート舗装などが盛んに行われるようになっ
60
た。「道路法」の公布に伴い,道路工事請負専門業者あるいは道路舗装材料供給業者の 設立が相次いだ。東洋道路工業株式会社,合資会社日本道路工業所,日本舗装道路株式 会社,日本道路面材料製造合名会社,路面工業合資会社,都市工業株式会社などがそれ である。石油会社が道路部を設け,アスファルト舗装に本格的に進出してくるのもこの 頃のことにな
61
る。このあと大正12(1923)年の関東大震災という天災突発のため,舗 装計画は大幅に遅れたが,工種の選択については貴重な経験となった。木煉瓦舗装は燃 えることが分かり,アスファルト舗装は逆に燃えないことが実証された。セメントコン クリート舗装は一度破損したあとは修理が大変であることが認識され,市街地には適さ ないことが分か
62
り,こののちアスファルト舗装が最適の舗装材料と認識されるにいたっ た。
終戦後の昭和21(1946)年以降,アスファルトが,ほかの資材にさきがけてビルの 改修,道路の補修と駐車場の増設などの戦災復興に活用され,それによって疲弊してい たアスファルト工事業者に希望と活力を与え
63
た。その後一般国道,都道府県道,市町村 道などで,それぞれ程度の差はあったものの,着実にアスファルト舗装がなされていっ
────────────
56 池田,前掲書,30ページ。
57 池田,前掲書,256ページ。
58 齊藤,前掲書,176ページ。
59 池田,前掲書,54ページ。
60 池田,前掲書,55ページ。
61 堀「前掲論文」254−255ページ。なおアスファルト舗装の歴史に関しては,登芳久『アスファルト舗装 史』技報堂出版,1994年,を参照。
62 池田,前掲書,101ページ。
63 池田,前掲書,131ページ。
ランドマーク商品としてのアスファルト(石川) (277)61
た。本格的なアスファルト舗装が開始されたのは,高度経済成長と高速道路の敷設・延 長の時期であった。昭和31(1956)年,名古屋ー神戸間高速道路の調査に訪れた世界 銀行の調査団長ラルフ・J・ワトキンスは,「日本の道路は信じがたいほど悪い。世界の 工業国にしてこれほど道路を無視してきた国はない」という,日本の道路史に欠かすこ との出来ない名言を残し
64
た。この指摘に発奮した結果,「日本は道路で2度も恥ずかし い思いをしているが,昭和39(1964)年のオリンピック東京大会には,大勢の外国人 を迎えたが,誰一人道路を悪くいう人はいなかった。また【昭和45(1970)年の】大 阪の万国博覧会にはさらに多くの観光,ビジネスマンが来日したが,今度は逆にスバラ シイ道路だと称賛され
65
た」というまでに整備されることになった。
Ⅲ わが国におけるアスファルト舗装の実態
第2次世界大戦前の交通の整備は,前にも見たように,鉄道に重点を置いて進められ てきたこともあり,道路は貧弱そのもので,舗装された道路の割合もきわめて低いもの であった。また都市内の道路については,順次舗装されていったが,都市間の道路につ いて見ると,手つかずといっていい状況であっ
66
た。つまり,東京の舗装については,大
正10(1921)年には,市内の道路総面積のわずか10% にすぎなかったのに,大震災を
途中に挟んだ昭和5(1930)年には,道路総面積440万坪(約14.5ヘクタール)の55
%が舗装道路となっ
67
たが,全国的に見ると,わが国の自動車保有台数が戦前最高の20 万台に達した昭和13(1938)年ごろ,道路の舗装率は国道16% 弱,府県道2.6% 強で あった。今日からでは想像もつかないような粗末さであったことを考えると,日本の道 路の近代化には,なお長い年月を必要とするのは当然であっ
68
た。
終戦後の昭和25(1950)年時点でも,国道の実延長9,296 kmのうち舗装済道路の延 長は,1,840 kmと舗装率は20%,府県道では実延長12万4,396 kmのうち4,344 kmと 3% に過ぎず,自動車の円滑な交通は不可能な状況にあっ
69
たといえる。また昭和28
(1953)年になっても,一級国道の舗装率21.1%,二級国道では8.4% にすぎず,都道 府県道の舗装率は5.4% にとどまってい
70
た。しかし,昭和38(1963)年になると,一般 国道の舗装率が45.3%,都道府県道の舗装率が11.7% という低水準にあったものの,71 キロに渡って3メートルの中央分離帯,総幅員24.4メートル,しかも舗装率100% と
────────────
64 武部,前掲書,220ページ。
65 池田,前掲書,150−151ページ。
66 日本道路協会編,前掲書,321−322ページ。
67 東京市役所『東京市土木読本』1936年。武部,前掲書,204−205ページ。
68 播磨,前掲書,87ページ。
69 日本道路協会編,前掲書,322ページ。
70 建設省道路局『道路統計年報 昭和29年版』1954年。武部,前掲書,219ページ。
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
62(278)
いう巨大で近代的な名神高速道路(栗東ー尼崎間)が開通した。そのような高速道路の 開通は,わが国の自動車交通にとって驚異的であ
71
り,アスファルト舗装の歴史に一大画 期をなすものであった。
それ以降,移動・輸送面での自動車および高速道路,それを支えるアスファルト舗
72
装 の役割は次第に大きくなり,社会的影響力も甚大になった。つまり,「昭和50(1975)
年の国鉄ストは,貨物輸送や旅客輸送にほとんど影響を及ぼさなか っ た が,同54
(1979)年に発生した「東名・日本坂トンネル事故」は,大手自動車会社の生産ライン をストップさせたばかりか,東京・後楽園で開催するプロ野球までも中止させてしまっ た。これらの事例は,高速道路がもつ社会的機能の重要さを如実に物語っているといっ ても過言ではな
73
い」というまでになったのである。国道の舗装率の推移を見ると,昭和 40(1965)年51.1%,昭和45(1970)年78.6%,昭和50(1975)年91.2% となってお り,地方道の舗装率は,昭和40(1965)年4.9%,昭和45(1970)年12.8%,昭和50
(1975)年29.4
74
%となっていた。
しかし,1990年代の実態は,一般道路は実延長110万キロ,国道舗装率86% である が,4車線以上の道路率は9% 強で,90% 近くの国道の車線数はそれ以下という実情で ある。都道府県道になると,舗装率45% 強,4車線以上の道路率は3% 弱といった劣 悪な状況に止まっている。また歩道の設置率は,国道と都道府県道とを合わせて30%
に満たない。市町村道にいたっては,5% にも及ばない現状であ
75
る。本論の「クルマ社 会日本のはじまり」の冒頭で見た自動車にまつわる社会問題の多くも,このようなわが 国の道路事情と密接に関連しているといえる。なお平成14(2002)年の道路舗装率 は,一 般 国 道89.4%,都 道 府 県 道57.6%,国・都 道 府 県 道 計67.0%,市 町 村 道17.3
%,合計25.0
76
%であった。
おわりに──アスファルトへの依存──
マイカー利用者が,「歩いてもよい」(抵抗なく歩ける)と許容する距離は,1970年 代のデータでは,およそ300 m,さらに1990年代のデータでは150 mという数字があ
────────────
71 播磨,前掲書,95ページ。
72 昭和61(1986)年現在では,道路舗装の95% がアスファルト舗装で,セメントコンクリート舗装は5
%を占めるに過ぎなかったが,昭和30年代までは,セメントコンクリート舗装の比率のほうが高かっ た。セメントコンクリート舗装は,耐久性に優れるものの,初期投資額が大きいこと,永い養生期間が 必要なことから,徐々にアスファルト舗装が採用されるようになり,昭和35(1960)年に,両者の比 率は逆転し,今日に至っている。日本道路協会編,前掲書,322ページ。
73 播磨,前掲書,111ページ。
74 日本道路協会編,前掲書,331ページ。
75 播磨,前掲書,「序文に変えて」
76 国土交通省編『国土交通白書 平成16年版』ぎょうせい,2004年,356ページ。
ランドマーク商品としてのアスファルト(石川) (279)63
る。統計によって乗用車の利用回数1回あたりの利用距離の分布をみると,一般に徒歩 や自転車でも支障ないと思われる2 km以下の移動が利用回数の10% を占め
77
るとい う。自動車への依存度が,想像以上に深刻になっているといえる。
われわれの生活にとって,もはや自動車は,それなしでの生活はあり得ないという意 味で不可欠の商品となり,自動車なしの生活には戻れないという意味で不可逆の商品と なっている。本論で見てきたように,自動車に依存することは,アスファルトで舗装さ れた道路に依存することであり,それは快適性,利便化,迅速化,衛生向上など現代人 のライフスタイルを新たに創造するパワーをもつと同時に,自動車公害,アスファルト 公害を助長する破壊的なパワーをももつ。このような強大なパワーをもつ商品,つまり ランドマーク商品とどのように関わっていくか,今後それとの関わり方,あるいはそれ への依存からの克服が,現代日本人の課題となろう。
誰からも強制されることなく,日常当然のように使用し続ける商品が,いつの間にか 不可欠で,不可逆な商品となって,われわれの生活に根を張り,結果としてわれわれの ライフスタイルに大きな影響を及ぼす。これら商品群がもつ影響力,つまり創造力と破 壊力とは一体どのようなものか,それを歴史的に明らかにし,今後克服すべき課題と方 向を提示しようとする研究分野,つまり商品史研究の学問的意義もそこにあろう。
────────────
77 上岡,前掲書,11−12ページ。
同志社商学 第57巻 第5号(2006年3月)
64(280)