一九六〇年代の沖縄観光について : 観光行政の確 立過程と観光開発構想の変容
著者 櫻澤 誠
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 47
ページ 41‑95
発行年 2020‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00023255
一九六〇年代の沖縄観光について —観光行政の確立過程と観光開発構想の変容—
櫻 澤 誠
はじめに
本稿の課題は、一九六〇年代を通して沖縄における観光行政が確立していく過程、および、そのなかで観光開発構想がどのように変容していくのかを明らかにすることである。特に、占領政策転換と連動した渡航条件の緩和、そして、沖縄と日本(本土)との影響関係に注目して検討していく。戦後の沖縄観光については、まず、多田治による沖縄国際海洋博覧会(以下、海洋博)を画期と捉えた研究がある。多田は、戦後の観光は一九五〇年代半ばの本土慰霊団受け入れから本格的に始まり、一九六〇年代には戦跡観光・舶来品ショッピング、そして売春観光へと拡大し、一九七五〜七六年の海洋博で「海」「亜熱帯」「文化」という「沖縄イメージの三種の神器」が確立するとした
)1
(。それ
に対して、神田孝治は、「亜熱帯」イメージは戦前、「文化」イメージは戦中、「海」イメージも米軍統治期の一九六〇年代には確立しており、海洋博はこれら既存イメージを強化・流布する役割を果たしたとする
)2
(。本稿では、多田が一九六〇年代を「戦跡観光・舶来品ショッピング」の時代とするのに対して、「観光団」の内実を検討することで、従来見落とされてきた側面を示す。売春観光についても実態について論究しているわけではなく、本稿では、この点についても、より検討を進めたい。また、神田は一九六〇年代の観光資源の変容や観光開発構想、観光行政の推移の概要についても言及しているが、本稿では、占領政策や沖日関係をふまえて歴史過程を再検討していく。これまでも社史・団体史
)3
(
や重要な役割を担った個人の回想・顕彰
)4
(などで断片的に触れられてはきたが、観光行政の確立過程に関する研究がほとんど存在しないことに鑑み、まずは事実経過をおさえることを重視したい。ところで、米軍統治期の経済史研究を代表する松田賀孝
)5
(、琉球銀行調査部編
)6
(による両大著においても、意外なことに観光産業についての分析はほとんどなされていない。観光収入は一九六〇年代初頭にはすでに糖業にせまる位置にあり、復帰/返還時点の一九七二年度には糖業を含めた第一次産業全体を凌駕するまでに成長していたにもかかわらずである
)7
(。このことは、一九六〇年代末にようやく観光行政が確立されるまで、総合的な計画がなされていなかったことを逆説的に裏付けているといえよう。
以上をふまえて、第一章では、一九六〇年代前半における観光行政の変容と観光開発構想、そしてその実態について検討していく。第二章では、二段階での大きな渡航手続緩和の過渡期にあたる一九六一〜六三年頃における観光団の実態や、観光客にとっての「魅力」の創出について検討していく。第三章では、一九六〇年代後半において日本政府・財界との関係強化のなかで観光行政が確立していく過程と観光開発構想の変容について検討していく。
第一章 観光行政の制度化と「観光資源」
第一節 「ジェット機時代」の到来と観光課設置一九六〇年一月、琉球政府工務交通局陸運課に観光係(係長以下四名)が新設され、さらに、一九六一年八月には行政府機構改革に伴い、陸運課観光係は廃止となり、新たに経済局に観光課(課長以下七名)が設置される
)8
(。それ以前の観光事業は、沖縄観光協会(一九五四年一月設立。一九五六年二月、社団法人へ改組)が、政府の補助機関として補助金を受ける形で実施される比重が高かった。琉球政府への観光課設置は、沖縄観光協会などによって再三要請されてきたが、長年実現してこなかった
)9
(。そうした状況を変えたのは、日本本土からの渡航条件が緩和されていくという外的要因の変化で
に対して、神田孝治は、「亜熱帯」イメージは戦前、「文化」イメージは戦中、「海」イメージも米軍統治期の一九六〇年代には確立しており、海洋博はこれら既存イメージを強化・流布する役割を果たしたとする
)2
(。本稿では、多田が一九六〇年代を「戦跡観光・舶来品ショッピング」の時代とするのに対して、「観光団」の内実を検討することで、従来見落とされてきた側面を示す。売春観光についても実態について論究しているわけではなく、本稿では、この点についても、より検討を進めたい。また、神田は一九六〇年代の観光資源の変容や観光開発構想、観光行政の推移の概要についても言及しているが、本稿では、占領政策や沖日関係をふまえて歴史過程を再検討していく。これまでも社史・団体史
)3
(
や重要な役割を担った個人の回想・顕彰
)4
(などで断片的に触れられてはきたが、観光行政の確立過程に関する研究がほとんど存在しないことに鑑み、まずは事実経過をおさえることを重視したい。ところで、米軍統治期の経済史研究を代表する松田賀孝
)5
(、琉球銀行調査部編
)6
(による両大著においても、意外なことに観光産業についての分析はほとんどなされていない。観光収入は一九六〇年代初頭にはすでに糖業にせまる位置にあり、復帰/返還時点の一九七二年度には糖業を含めた第一次産業全体を凌駕するまでに成長していたにもかかわらずである
)7
(。このことは、一九六〇年代末にようやく観光行政が確立されるまで、総合的な計画がなされていなかったことを逆説的に裏付けているといえよう。
以上をふまえて、第一章では、一九六〇年代前半における観光行政の変容と観光開発構想、そしてその実態について検討していく。第二章では、二段階での大きな渡航手続緩和の過渡期にあたる一九六一〜六三年頃における観光団の実態や、観光客にとっての「魅力」の創出について検討していく。第三章では、一九六〇年代後半において日本政府・財界との関係強化のなかで観光行政が確立していく過程と観光開発構想の変容について検討していく。
第一章 観光行政の制度化と「観光資源」
第一節 「ジェット機時代」の到来と観光課設置一九六〇年一月、琉球政府工務交通局陸運課に観光係(係長以下四名)が新設され、さらに、一九六一年八月には行政府機構改革に伴い、陸運課観光係は廃止となり、新たに経済局に観光課(課長以下七名)が設置される
)8
(。それ以前の観光事業は、沖縄観光協会(一九五四年一月設立。一九五六年二月、社団法人へ改組)が、政府の補助機関として補助金を受ける形で実施される比重が高かった。琉球政府への観光課設置は、沖縄観光協会などによって再三要請されてきたが、長年実現してこなかった
)9
(。そうした状況を変えたのは、日本本土からの渡航条件が緩和されていくという外的要因の変化で
あった。一九五九年六月、外貨申請額が一〇〇ドルを越えない場合、渡航審査連絡会の審査を経ずに総理府の認定で許可される形に渡航制限が緩和される。そうした変化を受けて、一九六〇年一月には戦後最初の日本観光団として「京都観光団」(日本交通公社・京都新聞社共催)が来沖し、以降、続々と観光団が訪れるようになる。同年二月には、ドル持ち出し制限が一〇〇ドルから二〇〇ドルに緩和され、三月には身元引受証が事実上廃止されたことで手続きが一層容易となった
)(1
(。さらには、世界的に「ジェット機時代」を迎えんとする時代状況があった。一九六〇年九月には、ノース・ウエスト社が東京—沖縄間に
DC‐
C型機(乗客一四三名)を導入して従来の約半分の一8
時間五六分で結び、沖縄の民間航空も「ジェット機時代」のスタートを切り、日本航空がそれに続くことになる
)((
(。日本航空調査団は、「ジェット機時代の沖縄は観光地としての条件が具備され、日本での沖縄観光ブームと日本人がちょっとした外遊気分を味うに手近な場所にあるから、観光事業に対して強力に推進する必要がある」として、大きな期待を寄せており、「自然の美しさに対して、誤 ママ楽施設にみるべきものがない(中略)誤 ママ楽施設を完備して沖縄をして日本のハワイにしてもらいたい」といった過度な期待は、地元沖縄との認識の「ギャップ」を生じさせてもいた
)(1
(。その「ギャップ」を埋めるためもあってか、護得久朝光(沖縄観光協会顧問)は『観光沖縄』四四号(一九六一年三月)で次のような提案を行っている
)(1
(。まず、「自立経済に役立つ様な大産業は、天然資源に恵まれない沖縄においては茲に提唱する観光事業以外皆無であると言っても過言ではあるま
い」として、その重要性を強調する。そして、「私のいう観光資源とは、外客を誘い込む種のことであるから、特に戦後の沖縄には皆無である」としつつ、「観光事業の要素は立派に備っている」として次の三要素を挙げる。
第一、
米軍の造ってくれた自動車道路である。戦前の様な道では外客の案内は出来かねる。
第二、
第三、 け増しか想像にかたくない。 十らら雪にとじ込めれとるより、どれだかもく三な月までの温暖気月候である。降雨は多
沖縄人の人柄である。特に女性は甚しく気のきかぬ点はあるが、その物優しさは天下一品
である。従来外客に好感を与えたのは見知らぬ女性の人柄である。
そして、「私のこの提唱が右の三要素と抱き合わせて実現されれば、自立経済は確立し、進んでは世界的特異性の島として発展し、祖国復帰に対する日本政府の熱意を百倍にすることが出来ると確信する」として、次の四項目を提唱する。
第一、
沖縄本島の全島をフリーゾーンにし世界的ショッピングセンターとすること。
第二、
洋備、(特に衛生設即こち台所、便所、浴と。る式式ホテル及び和旅計館の整備充実を場
あった。一九五九年六月、外貨申請額が一〇〇ドルを越えない場合、渡航審査連絡会の審査を経ずに総理府の認定で許可される形に渡航制限が緩和される。そうした変化を受けて、一九六〇年一月には戦後最初の日本観光団として「京都観光団」(日本交通公社・京都新聞社共催)が来沖し、以降、続々と観光団が訪れるようになる。同年二月には、ドル持ち出し制限が一〇〇ドルから二〇〇ドルに緩和され、三月には身元引受証が事実上廃止されたことで手続きが一層容易となった
)(1
(。さらには、世界的に「ジェット機時代」を迎えんとする時代状況があった。一九六〇年九月には、ノース・ウエスト社が東京—沖縄間に
DC‐
C型機(乗客一四三名)を導入して従来の約半分の一8
時間五六分で結び、沖縄の民間航空も「ジェット機時代」のスタートを切り、日本航空がそれに続くことになる
)((
(。日本航空調査団は、「ジェット機時代の沖縄は観光地としての条件が具備され、日本での沖縄観光ブームと日本人がちょっとした外遊気分を味うに手近な場所にあるから、観光事業に対して強力に推進する必要がある」として、大きな期待を寄せており、「自然の美しさに対して、誤 ママ楽施設にみるべきものがない(中略)誤 ママ楽施設を完備して沖縄をして日本のハワイにしてもらいたい」といった過度な期待は、地元沖縄との認識の「ギャップ」を生じさせてもいた
)(1
(。その「ギャップ」を埋めるためもあってか、護得久朝光(沖縄観光協会顧問)は『観光沖縄』四四号(一九六一年三月)で次のような提案を行っている
)(1
(。まず、「自立経済に役立つ様な大産業は、天然資源に恵まれない沖縄においては茲に提唱する観光事業以外皆無であると言っても過言ではあるま
い」として、その重要性を強調する。そして、「私のいう観光資源とは、外客を誘い込む種のことであるから、特に戦後の沖縄には皆無である」としつつ、「観光事業の要素は立派に備っている」として次の三要素を挙げる。
第一、
米軍の造ってくれた自動車道路である。戦前の様な道では外客の案内は出来かねる。
第二、
第三、 け増しか想像にかたくない。 十らら雪にとじ込めれとるより、どれだかもく三な月までの温暖気月候である。降雨は多
沖縄人の人柄である。特に女性は甚しく気のきかぬ点はあるが、その物優しさは天下一品
である。従来外客に好感を与えたのは見知らぬ女性の人柄である。
そして、「私のこの提唱が右の三要素と抱き合わせて実現されれば、自立経済は確立し、進んでは世界的特異性の島として発展し、祖国復帰に対する日本政府の熱意を百倍にすることが出来ると確信する」として、次の四項目を提唱する。
第一、
沖縄本島の全島をフリーゾーンにし世界的ショッピングセンターとすること。
第二、
洋備、(特に衛生設即こち台所、便所、浴と。る式式ホテル及び和旅計館の整備充実を場
の衛生完備、掃除完璧)第三、
第四、 —ルフコース、海水浴、つり場、馬場)櫻澤注〕 観ツス用スポーゴ場、習練フルゴト、ーコニのこ設備を整えると。テ(中略〔プ光ル、ー
観光客を主とした歓楽境を造ること。欧州風の小規模なカ
ヂノを造るのが適当(後略)
そして、「私の提唱は大体以上の如きものであるが、短 ママ的にいうと、沖縄には観光すべき何物もないから、右に述べた三要素を活用して、世界人の冬季における遊び場、夏季における買物市場にしようとするのだ」という。だが、一九六一年段階の沖縄において、このような護得久の提唱を検討するための法整備や行政組織、観光に関わる予算措置は皆無ともいえる状況であった
)(1
(。先述の通り、一九六一年八月には琉球政府内に観光課が設置されるが、「事務引継書」には「観光課の現況」が次のように端的に示されていた。
8月 1日をもって観光係の課への昇格をみましたが、これまで観光係によってなされてきた観光
行政事務は、組織の充実に重点をおき、観光関係諸法規の整備、観光施設の整備強化、外客接遇の改善、政府立公園の指定について、努力をしたが、充分な成果を得ることが出来なかった。
従って、今後は課として、これらの課題を慎重に検討し、その推進を期す必要がある。 )(1(
観光課の文書によれば、一九六二年一月段階においても、本土の国際観光ホテル整備法(一九四九年施行)を参考に、「琉球における外客の宿泊施設を整備促進するため、「観光ホテル整備法」を来たる二月の琉球立法院議会に立法勧告すべく準備をすゝめて」いるとしながら、「観光課が新設されたばかりで、かゝるホテル旅館関係の参考書がなく、島内の書店にもそれらしい解説書もみあたらず、法の解釈や立案にあたって甚だ困惑を感じている状態であります」として、運輸省の事務官が執筆した解説書の分譲を、著者本人に依頼するような状態であった
)(1
(。そのようななかで行われたのが、次節で扱うキャラウェイ高等弁務官による立法院演説である。
第二節 キャラウェイ演説とその影響一九六二年二月一日、立法院定例議会が開会する。同日は「二・一決議」が行われた日として知られるが、その冒頭でキャラウェイ高等弁務官は登院し、「一九六三年度重点施策」についての演説を行う。特に、第一に「外資導入および観光事業」を掲げ、「観光事業育成」のため、次のような勧告を行った
)(1
(。
の衛生完備、掃除完璧)第三、
第四、 —ルフコース、海水浴、つり場、馬場)櫻澤注〕 観ツス用スポーゴ場、習練フルゴト、ーコニのこ設備を整えると。テ(中略〔プ光ル、ー
観光客を主とした歓楽境を造ること。欧州風の小規模なカ
ヂノを造るのが適当(後略)
そして、「私の提唱は大体以上の如きものであるが、短 ママ的にいうと、沖縄には観光すべき何物もないから、右に述べた三要素を活用して、世界人の冬季における遊び場、夏季における買物市場にしようとするのだ」という。だが、一九六一年段階の沖縄において、このような護得久の提唱を検討するための法整備や行政組織、観光に関わる予算措置は皆無ともいえる状況であった
)(1
(。先述の通り、一九六一年八月には琉球政府内に観光課が設置されるが、「事務引継書」には「観光課の現況」が次のように端的に示されていた。
8月 1日をもって観光係の課への昇格をみましたが、これまで観光係によってなされてきた観光
行政事務は、組織の充実に重点をおき、観光関係諸法規の整備、観光施設の整備強化、外客接遇の改善、政府立公園の指定について、努力をしたが、充分な成果を得ることが出来なかった。
従って、今後は課として、これらの課題を慎重に検討し、その推進を期す必要がある。 )(1(
観光課の文書によれば、一九六二年一月段階においても、本土の国際観光ホテル整備法(一九四九年施行)を参考に、「琉球における外客の宿泊施設を整備促進するため、「観光ホテル整備法」を来たる二月の琉球立法院議会に立法勧告すべく準備をすゝめて」いるとしながら、「観光課が新設されたばかりで、かゝるホテル旅館関係の参考書がなく、島内の書店にもそれらしい解説書もみあたらず、法の解釈や立案にあたって甚だ困惑を感じている状態であります」として、運輸省の事務官が執筆した解説書の分譲を、著者本人に依頼するような状態であった
)(1
(。そのようななかで行われたのが、次節で扱うキャラウェイ高等弁務官による立法院演説である。
第二節 キャラウェイ演説とその影響一九六二年二月一日、立法院定例議会が開会する。同日は「二・一決議」が行われた日として知られるが、その冒頭でキャラウェイ高等弁務官は登院し、「一九六三年度重点施策」についての演説を行う。特に、第一に「外資導入および観光事業」を掲げ、「観光事業育成」のため、次のような勧告を行った
)(1
(。
外資と密接な関係を持つ観光事業はジェット機時代で実現性が増大した。観光開発委員会を設け専門家に調査させ観光事業計画を作成にかかっているが、次の点は研究を待つまでもなく必要である。①一流ホテルやレストランの建築②レクリエーシヨン設備の増設③海外への宣伝④島内交通施設の改善および拡大。私は立法院がこの問題を取り上げ観光事業発達に必要な法律を制定するよう強く勧告する。
一九六〇年初めごろには米国商務省に依頼を受けた調査班が来沖し、一九六一年に「調査報告」をまとめている。「効果的な観光旅行事業計画を開発するなら」、一九六八年までに観光入域者数を年間一〇万人とすることが可能であり、「琉球政府は適切な予算の裏づけをもつた、しかも行政的にも開発計画を完全に遂行できる公式な観光事業開発団体を組織する必要がある」こと、その組織には「一九六八年までに年間十六万ドルの予算を必要とする」こと、などが勧告されていた
)(1
(。観光課設置時(一九六一年八月)の「事務引継書」では、「旅行あっ旋業法の立法勧告について」の項目において、「これまで、民政府は沖縄に当該法の立法はその必要を認めないという時期尚早論を唱えているが、観光関係者の懇談会では、立法の必要性を認め、その促進を求めている。関係諸法規の整備の必要もあるので、早目に調整を行う必要がある」と述べられていた
)(1
(。キャラウェイ高等弁務官による立法院演説は、そうした米国民政府の方針が積極姿勢へと転換したことを意味していた。
それを受けて、二月五日には観光課が「高等弁務官メッセージに対する施策について」をまとめ、経済局長宛に報告している。「
「こ備法」の改正方をのル定例会に勧告する」。整テ護ホとともにその保育成を図るため「観光る 助成的措置(固定資産税の軽減、固定資産の法定耐用年数の短縮)を講じて宿泊施設の増加を促進す 1「ホテル、旅館に.一流のホテル、レストランの建築」については、
「ある。 休憩所、便所等の施設」、「戦跡記念館敷地購入費」、「平和慰霊像建立助成費」の三件を予算要求中で レクリエーション設備の増設」については、「観光地に通ずる道路の補修及び観光地における展望台、 2.
求要中である。「 、「観光観念の普及のため観光週間を開催する経費」の三件を予算の、印刷物作成のための経費補助」 印刷物、映画の作成及び海外における観光展開催」、「観光協会の行う事業のうち、接遇改善、催しも 3.海外に対する宣伝、啓蒙」については、「観光事業の調査並びに観光客誘致のため宣伝用
に「を観光地に通ずる道路の改装計う画している」としていた 11) 4てに島や路道う伴展交発の業事光観内通は、に.掲のよいつ」施大拡善改の設前
(。このうち、観光ホテル整備法(一九五七年九月公布)については、「業者に対する助成措置を取り入れて宿泊施設の拡充を図る趣旨で全面改正がなされ」、八月一六日に公布・施行されている )1(
(。翌一九六三年の「高等弁務官メッセージ」においても、「私は昨年、ドル投入の財源としての観光事業の将来性についても指摘したが、当時の見解は今なお変っていない」との文言があり、観光課では二月五日までに「高等弁務官メッセージに対する施策」を前年同様にまとめている )11
(。
外資と密接な関係を持つ観光事業はジェット機時代で実現性が増大した。観光開発委員会を設け専門家に調査させ観光事業計画を作成にかかっているが、次の点は研究を待つまでもなく必要である。①一流ホテルやレストランの建築②レクリエーシヨン設備の増設③海外への宣伝④島内交通施設の改善および拡大。私は立法院がこの問題を取り上げ観光事業発達に必要な法律を制定するよう強く勧告する。
一九六〇年初めごろには米国商務省に依頼を受けた調査班が来沖し、一九六一年に「調査報告」をまとめている。「効果的な観光旅行事業計画を開発するなら」、一九六八年までに観光入域者数を年間一〇万人とすることが可能であり、「琉球政府は適切な予算の裏づけをもつた、しかも行政的にも開発計画を完全に遂行できる公式な観光事業開発団体を組織する必要がある」こと、その組織には「一九六八年までに年間十六万ドルの予算を必要とする」こと、などが勧告されていた
)(1
(。観光課設置時(一九六一年八月)の「事務引継書」では、「旅行あっ旋業法の立法勧告について」の項目において、「これまで、民政府は沖縄に当該法の立法はその必要を認めないという時期尚早論を唱えているが、観光関係者の懇談会では、立法の必要性を認め、その促進を求めている。関係諸法規の整備の必要もあるので、早目に調整を行う必要がある」と述べられていた
)(1
(。キャラウェイ高等弁務官による立法院演説は、そうした米国民政府の方針が積極姿勢へと転換したことを意味していた。
それを受けて、二月五日には観光課が「高等弁務官メッセージに対する施策について」をまとめ、経済局長宛に報告している。「
「こ備法」の改正方をのル定例会に勧告する」。整テ護ホとともにその保育成を図るため「観光る 助成的措置(固定資産税の軽減、固定資産の法定耐用年数の短縮)を講じて宿泊施設の増加を促進す 1「ホテル、旅館に.一流のホテル、レストランの建築」については、
「ある。 休憩所、便所等の施設」、「戦跡記念館敷地購入費」、「平和慰霊像建立助成費」の三件を予算要求中で レクリエーション設備の増設」については、「観光地に通ずる道路の補修及び観光地における展望台、 2.
求要中である。「 、「観光観念の普及のため観光週間を開催する経費」の三件を予算の、印刷物作成のための経費補助」 印刷物、映画の作成及び海外における観光展開催」、「観光協会の行う事業のうち、接遇改善、催しも 3.海外に対する宣伝、啓蒙」については、「観光事業の調査並びに観光客誘致のため宣伝用
に「を観光地に通ずる道路の改装計う画している」としていた 11) 4てに島や路道う伴展交発の業事光観内通は、に.掲のよいつ」施大拡善改の設前
(。このうち、観光ホテル整備法(一九五七年九月公布)については、「業者に対する助成措置を取り入れて宿泊施設の拡充を図る趣旨で全面改正がなされ」、八月一六日に公布・施行されている )1(
(。翌一九六三年の「高等弁務官メッセージ」においても、「私は昨年、ドル投入の財源としての観光事業の将来性についても指摘したが、当時の見解は今なお変っていない」との文言があり、観光課では二月五日までに「高等弁務官メッセージに対する施策」を前年同様にまとめている )11
(。
この間、一九六二年二月には沖縄観光協会の招聘によって千家哲麿(国立公園協会常務理事)が来沖して「沖縄観光診断」を行い、同年一一月に『沖縄観光診断書』
)11
(が沖縄観光協会から発行されている。内容は、「第一 概要」「第二 観光資源」「第三 観光の現況とその分析」「第四 観光開発の基本的事項」「第五 むすび」からなる。「第二 観光資源」は、文化財、戦蹟、自然景観、観光都市、風俗・その他の五点に分けて整理されている。また、「第四 観光開発の基本的事項」では、「沖縄が多数の観光客を誘致し、観光収入を増大するためには、観光資源を充分に活用し、その持っている魅力を発揮させることが必要である」として、次の提言を行っている。
(
1)現在の沖縄本島のみに局限された観光を全沖縄観光とすること
(
現2)
存の観光資源の保護をはかるだけでなく、進んで資源特に、南国的気分を増大させるための熱帯性植物の育成をはかること(
3)戦蹟の保存と戦争記念館の設置
(
4)沖縄を理解させるための博物館、水族館、植物園等教育的施設の整備
(
5)気象を活用した海水浴場の整備
(
6)海浜新観光地の建設等が必要である。
「第五 むすび」では、「特に政府に対し要望したいこと」として、全沖縄を対象とした総合開発計画の樹立、観光開発審議会の設置、諸法規の整備、観光課および沖縄観光協会の充実、島内観光の促進などが挙げられていた。千家の『沖縄観光診断書』による助言は、「沖縄観光の貴重な指針として官民に指示を与えた」 )11(とされ、先行研究においても多くの言及がなされている
)11
(。ただし、次のような状況をふまえると、千家の助言をその後の観光開発の前提として直結することには慎重であるべきだろう。一九六一年八月に観光課が設置されて観光行政が形を整えはじめ、翌一九六二年二月にはキャラウェイ演説があり、「ジェット機時代」を迎えようというなかで、観光業には大きな追い風が吹いていたように感じられる。だが、例えば、照屋寛祐(観光課宣伝係長)は『観光沖縄』七〇号(一九六三年五月)において、依然として観光行政が厳しい状況であることを吐露している
)11
(。照屋は、「「沖縄観光は戦跡と舶来品の買物だけがとりえで、政府は観光無策である」というのがマスコミや関係者の意見となっている。このような人々の考えは、さる四月十五日の立法院一般質問における星議員(自民)の質問にあらわれた」とする。星克は、「観光資源開発の構想を聞きたい。観光地としての立地条件は備えているが、南部戦跡としやし品の安いということだけしか沖縄の魅力はないが、これでは全くの無策ではないか」と質問していた。それに対して、照屋は「現在(一九六三年度の)政府観光予算は本土都道府県観光予算と比較すると十八番目に位する」、「何故観光無策と評
この間、一九六二年二月には沖縄観光協会の招聘によって千家哲麿(国立公園協会常務理事)が来沖して「沖縄観光診断」を行い、同年一一月に『沖縄観光診断書』
)11
(が沖縄観光協会から発行されている。内容は、「第一 概要」「第二 観光資源」「第三 観光の現況とその分析」「第四 観光開発の基本的事項」「第五 むすび」からなる。「第二 観光資源」は、文化財、戦蹟、自然景観、観光都市、風俗・その他の五点に分けて整理されている。また、「第四 観光開発の基本的事項」では、「沖縄が多数の観光客を誘致し、観光収入を増大するためには、観光資源を充分に活用し、その持っている魅力を発揮させることが必要である」として、次の提言を行っている。
(
1)現在の沖縄本島のみに局限された観光を全沖縄観光とすること
(
現2)
存の観光資源の保護をはかるだけでなく、進んで資源特に、南国的気分を増大させるための熱帯性植物の育成をはかること(
3)戦蹟の保存と戦争記念館の設置
(
4)沖縄を理解させるための博物館、水族館、植物園等教育的施設の整備
(
5)気象を活用した海水浴場の整備
(
6)海浜新観光地の建設等が必要である。
「第五 むすび」では、「特に政府に対し要望したいこと」として、全沖縄を対象とした総合開発計画の樹立、観光開発審議会の設置、諸法規の整備、観光課および沖縄観光協会の充実、島内観光の促進などが挙げられていた。千家の『沖縄観光診断書』による助言は、「沖縄観光の貴重な指針として官民に指示を与えた」 )11(とされ、先行研究においても多くの言及がなされている
)11
(。ただし、次のような状況をふまえると、千家の助言をその後の観光開発の前提として直結することには慎重であるべきだろう。一九六一年八月に観光課が設置されて観光行政が形を整えはじめ、翌一九六二年二月にはキャラウェイ演説があり、「ジェット機時代」を迎えようというなかで、観光業には大きな追い風が吹いていたように感じられる。だが、例えば、照屋寛祐(観光課宣伝係長)は『観光沖縄』七〇号(一九六三年五月)において、依然として観光行政が厳しい状況であることを吐露している
)11
(。照屋は、「「沖縄観光は戦跡と舶来品の買物だけがとりえで、政府は観光無策である」というのがマスコミや関係者の意見となっている。このような人々の考えは、さる四月十五日の立法院一般質問における星議員(自民)の質問にあらわれた」とする。星克は、「観光資源開発の構想を聞きたい。観光地としての立地条件は備えているが、南部戦跡としやし品の安いということだけしか沖縄の魅力はないが、これでは全くの無策ではないか」と質問していた。それに対して、照屋は「現在(一九六三年度の)政府観光予算は本土都道府県観光予算と比較すると十八番目に位する」、「何故観光無策と評
されねばならないのか」と反論する。そして、「観光行政にたずさわっていて、何に一番困難を感ずるか」について次の二点を挙げる。
1
め、その統一的強力な観光行政の推進が困難なこと。 観事囲あまりに広範に容わたっているたが内業、観それに対処する光光行政というものの
2
観光事業に関心の深い人々、政府上層部の人々でさえ観光行政の内容を
莫 ママ然とした、何となく取りとめのない考えしかなく、そういう意識の低さが観光事業の推進をはばんでいること。
観光収入は一九六〇年代初頭においてすでに糖業にせまる位置にあり
)11
(、観光予算も本土都道府県と比較しても決して低いわけではなかった。そのようななかで、現場から喫緊に求められていたものとして、「統一的強力な観光行政の推進」が可能となる法整備やそれに基づく組織編制や計画の立案、そして、「観光事業に関心の深い人々、政府上層部の人々」を含めた意識改革があったということができる。
第三節 一九六〇年代前半の観光開発構想と実態千家哲麿の『沖縄観光診断書』では、「観光資源」について、文化財、戦蹟、自然景観、観光都市、風俗・その他の五点に分けて整理していた。このような位置づけは、一九五〇年代の沖縄観光協会を中心とした取り組みをふまえた的を射たものであったと考えられる。従来、戦後の沖縄観光は本土慰霊団受け入れから戦跡観光・舶来品ショッピングへの流れで理解されており、「観光資源」としては戦跡に注目が集まってきた。だが、拙稿
)11
(で明らかにしたように、一九五〇年代に沖縄観光協会が取り組んだ観光地及びコースの選定では、戦跡が最も重視されていたことは確かだが、それにとどまらず、郷土史を生かし、戦前の観光案内をふまえた名所旧蹟も取り入れられていた。また、琉球政府が策定した「経済振興第一次五カ年計画」(一九五六〜六〇年度)における「観光道路整備」には、戦跡だけでなく、斎場御嶽、中城公園、轟滝、北山城跡、ようどれ、などが含まれていた。観光への理解が乏しく、予算も限られたなかにおいても、「観光資源」として、戦跡だけでなく名所旧蹟への注目はなされており、一九六〇年代に入ってもその延長線上で整備が進められていくことになる。観光課設置直後の一九六一年一〇月に琉球政府が策定した「民生五ヶ年計画」
)11
(には「観光」の項目があるが、「現況及び主要施策」には次のように書かれている。まず、「琉球はマニラ、香港、東京からそれぞれ約
1、
52
K0
mの距離にあり、又東南アジヤから東京経由北米への航空路上に位置して
されねばならないのか」と反論する。そして、「観光行政にたずさわっていて、何に一番困難を感ずるか」について次の二点を挙げる。
1
め、その統一的強力な観光行政の推進が困難なこと。 観事囲あまりに広範に容わたっているたが内業、観それに対処する光光行政というものの
2
観光事業に関心の深い人々、政府上層部の人々でさえ観光行政の内容を
莫 ママ然とした、何となく取りとめのない考えしかなく、そういう意識の低さが観光事業の推進をはばんでいること。
観光収入は一九六〇年代初頭においてすでに糖業にせまる位置にあり
)11
(、観光予算も本土都道府県と比較しても決して低いわけではなかった。そのようななかで、現場から喫緊に求められていたものとして、「統一的強力な観光行政の推進」が可能となる法整備やそれに基づく組織編制や計画の立案、そして、「観光事業に関心の深い人々、政府上層部の人々」を含めた意識改革があったということができる。
第三節 一九六〇年代前半の観光開発構想と実態千家哲麿の『沖縄観光診断書』では、「観光資源」について、文化財、戦蹟、自然景観、観光都市、風俗・その他の五点に分けて整理していた。このような位置づけは、一九五〇年代の沖縄観光協会を中心とした取り組みをふまえた的を射たものであったと考えられる。従来、戦後の沖縄観光は本土慰霊団受け入れから戦跡観光・舶来品ショッピングへの流れで理解されており、「観光資源」としては戦跡に注目が集まってきた。だが、拙稿
)11
(で明らかにしたように、一九五〇年代に沖縄観光協会が取り組んだ観光地及びコースの選定では、戦跡が最も重視されていたことは確かだが、それにとどまらず、郷土史を生かし、戦前の観光案内をふまえた名所旧蹟も取り入れられていた。また、琉球政府が策定した「経済振興第一次五カ年計画」(一九五六〜六〇年度)における「観光道路整備」には、戦跡だけでなく、斎場御嶽、中城公園、轟滝、北山城跡、ようどれ、などが含まれていた。観光への理解が乏しく、予算も限られたなかにおいても、「観光資源」として、戦跡だけでなく名所旧蹟への注目はなされており、一九六〇年代に入ってもその延長線上で整備が進められていくことになる。観光課設置直後の一九六一年一〇月に琉球政府が策定した「民生五ヶ年計画」
)11
(には「観光」の項目があるが、「現況及び主要施策」には次のように書かれている。まず、「琉球はマニラ、香港、東京からそれぞれ約
1、
52
K0
mの距離にあり、又東南アジヤから東京経由北米への航空路上に位置して
いるので、観光誘致に有利である」としており、「ジェット機時代」を強く意識したものといえる。そして「観光資源」について次のように述べる。
島内には御岳、戦跡、史蹟、珊瑚礁等の観光資源がある。(中略)沖縄を訪れる観光客は、沖縄戦で死没した肉親、旧友の霊を弔う戦跡視察者が多いので観光地として多数の観光客を誘致するためには沖縄独特のカラーを出す必要があり戦跡記念館を建設して、戦争に使用された兵器、遺書、遺物、写真及び記録等を蒐集して一般の参観に供したい。
計画期間の予算は、一九六三年度:二一万九三〇〇ドル、一九六四年度二一万九二〇〇ドル、一九六五年度:二八万四九〇〇ドル、一九六六年度:四三万三三〇〇ドル、一九六七年度:二〇万八〇〇〇ドルとなっていた
)11
(。「経済振興第一次五カ年計画」(一九五六〜六〇年度)は執行予算総額が八万二二八二・四一ドルであり
)1(
(、あくまで計画段階だが、予算面でも大幅な拡張がなされていた。事業計画は、観光事業(観光宣伝、植樹、観光展出品):計画期間総額一四万五八〇〇ドル(以下同)、観光施設(道路、休憩所・便所、展望台、吊橋加設):四一万八九〇〇ドル、補助金(観光協会補助、平和慰霊像建立補助):一〇万五〇〇〇ドル、戦跡記念館(敷地、建物及び設備、維持管理、
設備拡充):一三万三〇〇〇ドル、政府立公園(一九六五年度以降実施):四六万二〇〇〇ドル、観光宣伝事務所(一九六七年度以降実施):一〇万ドルからなっていた。いくつかの項目について、実際の推移を確認しておく。まず、琉球政府が中心となって実施された観光宣伝としては、「宣伝印刷物」(観光ポスター、パンフレット、リーフレット、観光案内地図、絵葉書等)、「観光映画」、「観光物産展」などが挙げられる
)11
(。「宣伝印刷物」については、一九六三年度には「パンフレット 沖縄の観光」(年刊)、「リーフレット 観光事業のしおり」(随時刊)をそれぞれ一万五〇〇〇部発行している(前年度にはそれぞれ七〇〇〇部、一四〇〇部)
)11
(。「観光映画」については、アルパイン・シネ・グループに依頼して一九六三年度中に制作され、「沖縄の名所、旧跡、年中行事、民族芸能、唐手琉舞、風俗習慣、産業等各方面の撮影」がなされた
)11
(。「観光展」については、各都道府県において一九六四年度:単独展七回・協力展一四回、一九六五年度:単独展七回・協力展二二回、一九六六年度:単独展八回・協力展八回、一九六七年:単独展一〇回・協力展四回、それぞれ実施されている
)11
(。さらには、一九六三年五月三一日・六月一日の二日間、沖縄観光協会主催により、東京で初めての「沖縄観光懇談会」が開催されている。沖縄からは「政府代表として久場川経済局長、那覇市代表として小橋川商工観光課長、琉球商工会議所代表として砂川業務課長等が参加」し、「両日にわたり運輸省観光局、特連局、南方同胞援護会、東京事務所、沖縄タイムス、琉球新報、沖縄テレビ、日本観
いるので、観光誘致に有利である」としており、「ジェット機時代」を強く意識したものといえる。そして「観光資源」について次のように述べる。
島内には御岳、戦跡、史蹟、珊瑚礁等の観光資源がある。(中略)沖縄を訪れる観光客は、沖縄戦で死没した肉親、旧友の霊を弔う戦跡視察者が多いので観光地として多数の観光客を誘致するためには沖縄独特のカラーを出す必要があり戦跡記念館を建設して、戦争に使用された兵器、遺書、遺物、写真及び記録等を蒐集して一般の参観に供したい。
計画期間の予算は、一九六三年度:二一万九三〇〇ドル、一九六四年度二一万九二〇〇ドル、一九六五年度:二八万四九〇〇ドル、一九六六年度:四三万三三〇〇ドル、一九六七年度:二〇万八〇〇〇ドルとなっていた
)11
(。「経済振興第一次五カ年計画」(一九五六〜六〇年度)は執行予算総額が八万二二八二・四一ドルであり
)1(
(、あくまで計画段階だが、予算面でも大幅な拡張がなされていた。事業計画は、観光事業(観光宣伝、植樹、観光展出品):計画期間総額一四万五八〇〇ドル(以下同)、観光施設(道路、休憩所・便所、展望台、吊橋加設):四一万八九〇〇ドル、補助金(観光協会補助、平和慰霊像建立補助):一〇万五〇〇〇ドル、戦跡記念館(敷地、建物及び設備、維持管理、
設備拡充):一三万三〇〇〇ドル、政府立公園(一九六五年度以降実施):四六万二〇〇〇ドル、観光宣伝事務所(一九六七年度以降実施):一〇万ドルからなっていた。いくつかの項目について、実際の推移を確認しておく。まず、琉球政府が中心となって実施された観光宣伝としては、「宣伝印刷物」(観光ポスター、パンフレット、リーフレット、観光案内地図、絵葉書等)、「観光映画」、「観光物産展」などが挙げられる
)11
(。「宣伝印刷物」については、一九六三年度には「パンフレット 沖縄の観光」(年刊)、「リーフレット 観光事業のしおり」(随時刊)をそれぞれ一万五〇〇〇部発行している(前年度にはそれぞれ七〇〇〇部、一四〇〇部)
)11
(。「観光映画」については、アルパイン・シネ・グループに依頼して一九六三年度中に制作され、「沖縄の名所、旧跡、年中行事、民族芸能、唐手琉舞、風俗習慣、産業等各方面の撮影」がなされた
)11
(。「観光展」については、各都道府県において一九六四年度:単独展七回・協力展一四回、一九六五年度:単独展七回・協力展二二回、一九六六年度:単独展八回・協力展八回、一九六七年:単独展一〇回・協力展四回、それぞれ実施されている
)11
(。さらには、一九六三年五月三一日・六月一日の二日間、沖縄観光協会主催により、東京で初めての「沖縄観光懇談会」が開催されている。沖縄からは「政府代表として久場川経済局長、那覇市代表として小橋川商工観光課長、琉球商工会議所代表として砂川業務課長等が参加」し、「両日にわたり運輸省観光局、特連局、南方同胞援護会、東京事務所、沖縄タイムス、琉球新報、沖縄テレビ、日本観
光協会、日本交通公社始め大小五十余の日本々土における斡旋業者八十余名を招待して懇談した」。「斡旋業者が主体となって経費の不足を各業界より集め、政府補助金に加えて盛大な催し」となった
)11
(。政府補助金の支出先でもある沖縄観光協会の事業は多岐にわたるが、ここでは「観光資源」の開発に関わって確認しておきたい
)11
(。力を入れていた一つが戦跡の復元である。特に、首里の第三十二軍司令部壕跡については、「山城(善三—櫻澤注)が沖縄遺族会の事務局長をしていた際、当時高級参謀八原博道大佐に会って、司令部壕の復元計画をお話申し地図を書いて貰った。爾来計画を進めているが五九年度には七月十九日と八月一日、二回に渡り現地調査を行い、又当時壕を掘ったという人、壕内にいたという人を招き、入口等を探究した」とされ、その取り組みは一九五〇年代前半にさかのぼる
)11
(。一九六二年一一月には、「将来観光資源にする考で」、「那覇市、政府、観光協会合同で首里城下にある第三十二軍司令官壕の調査」を行っている
)11
(。そして、那覇市が復元予算を計上し、一九六三年度には着手したものの、「壕の入口を探すに相当の日数と経費を要し」、追加予算を加えて「ようやく一ヶ所の入口を見当てた」という状況で、那覇市議会で問題となって予算措置が打ち切られて工事はストップした
)11
(。このほか、戦跡だけでなく、金武鍾乳洞の整備(一九六二年完工)
)1(
(なども行っている。もう一つの補助金(平和慰霊像建立補助)の支出先は、社団法人沖縄平和慰霊像建立奉賛会(会長:稲嶺一郎・琉球石油社長)であった。一九五七年一月、山田真山は平和慰霊像の製作に着手にす
るが、「山田画伯に依って発願されたこの願いは実に又そのまゝ我々九十万沖縄同胞の心からの願いであり、世界人類に通ずる祈りであります」として、一九五七年五月に「沖縄戦跡平和慰霊像建立奉賛会」が結成され、一九五九年六月に「社団法人沖縄平和慰霊像建立奉賛会」へと改組される。本稿との関連では、補助金申請にあたって、次のように「観光上の価値」を強調していることが注目される。
我が平和慰霊像は規模雄大にして極めて優れた芸術作品であると共に、人類最大の願望である世界の恒久平和をシンボルし、全世界の人々の心を慰霊と平和を通じて沖縄にシツカリと結びつけるものであります。本像並に本像建立の平和公園(首里末吉)完成の暁には、世界平和のシンボルトして世界平和の推進に大なる貢献を為すは勿論、その境内に於て国際的に定期的に行はれる諸行事と相俟って、観光立国を目指す沖縄の中心的観光資源として、観光産業の振興並に沖縄の対外的紹介宣伝に此の上ない大なる役割を果し得る事を確信するものであります。 )11(
この時点で予定されていた首里ではなく、摩文仁において平和慰霊像が完成・公開されるのは復帰後のことだが、製作初期段階から観光と強く結びつけられていたことがわかる。そして、事業計画にある「戦跡記念館」もまた、実現するのは復帰後のことだが、一九六三年には「沖縄戦資料館設置期
光協会、日本交通公社始め大小五十余の日本々土における斡旋業者八十余名を招待して懇談した」。「斡旋業者が主体となって経費の不足を各業界より集め、政府補助金に加えて盛大な催し」となった
)11
(。政府補助金の支出先でもある沖縄観光協会の事業は多岐にわたるが、ここでは「観光資源」の開発に関わって確認しておきたい
)11
(。力を入れていた一つが戦跡の復元である。特に、首里の第三十二軍司令部壕跡については、「山城(善三—櫻澤注)が沖縄遺族会の事務局長をしていた際、当時高級参謀八原博道大佐に会って、司令部壕の復元計画をお話申し地図を書いて貰った。爾来計画を進めているが五九年度には七月十九日と八月一日、二回に渡り現地調査を行い、又当時壕を掘ったという人、壕内にいたという人を招き、入口等を探究した」とされ、その取り組みは一九五〇年代前半にさかのぼる
)11
(。一九六二年一一月には、「将来観光資源にする考で」、「那覇市、政府、観光協会合同で首里城下にある第三十二軍司令官壕の調査」を行っている
)11
(。そして、那覇市が復元予算を計上し、一九六三年度には着手したものの、「壕の入口を探すに相当の日数と経費を要し」、追加予算を加えて「ようやく一ヶ所の入口を見当てた」という状況で、那覇市議会で問題となって予算措置が打ち切られて工事はストップした
)11
(。このほか、戦跡だけでなく、金武鍾乳洞の整備(一九六二年完工)
)1(
(なども行っている。もう一つの補助金(平和慰霊像建立補助)の支出先は、社団法人沖縄平和慰霊像建立奉賛会(会長:稲嶺一郎・琉球石油社長)であった。一九五七年一月、山田真山は平和慰霊像の製作に着手にす
るが、「山田画伯に依って発願されたこの願いは実に又そのまゝ我々九十万沖縄同胞の心からの願いであり、世界人類に通ずる祈りであります」として、一九五七年五月に「沖縄戦跡平和慰霊像建立奉賛会」が結成され、一九五九年六月に「社団法人沖縄平和慰霊像建立奉賛会」へと改組される。本稿との関連では、補助金申請にあたって、次のように「観光上の価値」を強調していることが注目される。
我が平和慰霊像は規模雄大にして極めて優れた芸術作品であると共に、人類最大の願望である世界の恒久平和をシンボルし、全世界の人々の心を慰霊と平和を通じて沖縄にシツカリと結びつけるものであります。本像並に本像建立の平和公園(首里末吉)完成の暁には、世界平和のシンボルトして世界平和の推進に大なる貢献を為すは勿論、その境内に於て国際的に定期的に行はれる諸行事と相俟って、観光立国を目指す沖縄の中心的観光資源として、観光産業の振興並に沖縄の対外的紹介宣伝に此の上ない大なる役割を果し得る事を確信するものであります。 )11(
この時点で予定されていた首里ではなく、摩文仁において平和慰霊像が完成・公開されるのは復帰後のことだが、製作初期段階から観光と強く結びつけられていたことがわかる。そして、事業計画にある「戦跡記念館」もまた、実現するのは復帰後のことだが、一九六三年には「沖縄戦資料館設置期
成会」(会長:金城和信)が組織され、沖縄戦に関する資料の収集が開始されている
)11
(。さらには、一九六二年以降、「霊域整備事業」が行われていくことも重要である。北村毅によれば、「同事業は、日本政府から南方同胞援護会(以下、南援)を通して国庫補助金を受け、沖縄の戦跡(「霊域」)を「公的管理」のもとに置くことを目的として実施され、各集落の納骨所の整理統合だけではなく、慰霊碑の建立や改修、清掃管理、遺骨収集など多岐にわたっていた」 )11(。「一連の整備事業の実施によって戦跡景観は激変する」 )11(。それは「霊域」であると同時に、「観光資源」としての整備ともなったのである。
第二章 一九六〇年代前半における観光客の特徴 第一節 「観光団」について第一章第一節で示した一九五九〜六〇年、そして、第三章第一節で示す一九六四〜六五年という二段階での大きな渡航手続緩和は、観光入域客数にも大きな影響を与えていることが想定される。その前後の実際の観光入域者数の推移は、表
1の通りである。
統計上も渡航手続緩和の翌年(一九六一年、一九六六年)に「日本国籍」すなわち日本本土からの観光入域者数の増加率が上昇しているのがわかる。また、観光入域者全体に占める「日本国籍」の割
合も短期間の間に六〇%前半から七〇%後半へと上昇している。さてここで注目したいのは、二段階での渡航手続緩和のはざま、一九六一〜六三年頃の日本本土からの観光入域者の内実についてである。既述したように、一九六〇年一月の「京都観光団」以降、
表1 観光入域者数推移(1958~66年)
年次 観光入域者数 (内、日本国籍)(国籍別構成比)(日本国籍増加率)
1958年 19,136名 12,139名 63.4%
1959年 21,488名 13,081名 60.9% 108%
1960年 20,811名 14,829名 71.3% 113%
1961年 30,303名 21,596名 71.3% 146%
1962年 38,993名 28,765名 73.8% 133%
1963年 47,239名 35,213名 74.5% 122%
1964年 53,432名 40,158名 75.2% 114%
1965年 64,278名 48,845名 76.0% 122%
1966年 85,822名 66,922名 78.0% 137%
(「年次別国籍別外客数」(『観光統計要覧 1966年版』琉球政府通商産業 局商工部観光課、1967年、9頁)により作成)
成会」(会長:金城和信)が組織され、沖縄戦に関する資料の収集が開始されている
)11
(。さらには、一九六二年以降、「霊域整備事業」が行われていくことも重要である。北村毅によれば、「同事業は、日本政府から南方同胞援護会(以下、南援)を通して国庫補助金を受け、沖縄の戦跡(「霊域」)を「公的管理」のもとに置くことを目的として実施され、各集落の納骨所の整理統合だけではなく、慰霊碑の建立や改修、清掃管理、遺骨収集など多岐にわたっていた」 )11(。「一連の整備事業の実施によって戦跡景観は激変する」 )11(。それは「霊域」であると同時に、「観光資源」としての整備ともなったのである。
第二章 一九六〇年代前半における観光客の特徴 第一節 「観光団」について第一章第一節で示した一九五九〜六〇年、そして、第三章第一節で示す一九六四〜六五年という二段階での大きな渡航手続緩和は、観光入域客数にも大きな影響を与えていることが想定される。その前後の実際の観光入域者数の推移は、表
1の通りである。
統計上も渡航手続緩和の翌年(一九六一年、一九六六年)に「日本国籍」すなわち日本本土からの観光入域者数の増加率が上昇しているのがわかる。また、観光入域者全体に占める「日本国籍」の割
合も短期間の間に六〇%前半から七〇%後半へと上昇している。さてここで注目したいのは、二段階での渡航手続緩和のはざま、一九六一〜六三年頃の日本本土からの観光入域者の内実についてである。既述したように、一九六〇年一月の「京都観光団」以降、
表1 観光入域者数推移(1958~66年)
年次 観光入域者数 (内、日本国籍)(国籍別構成比)(日本国籍増加率)
1958年 19,136名 12,139名 63.4%
1959年 21,488名 13,081名 60.9% 108%
1960年 20,811名 14,829名 71.3% 113%
1961年 30,303名 21,596名 71.3% 146%
1962年 38,993名 28,765名 73.8% 133%
1963年 47,239名 35,213名 74.5% 122%
1964年 53,432名 40,158名 75.2% 114%
1965年 64,278名 48,845名 76.0% 122%
1966年 85,822名 66,922名 78.0% 137%
(「年次別国籍別外客数」(『観光統計要覧 1966年版』琉球政府通商産業 局商工部観光課、1967年、9頁)により作成)
続々と観光団が訪れるようになる。沖縄観光協会が把握している一九六〇年中の観光団数は四三団体、総参加者数は一五二九名であった(内、二団体・四〇名はハワイから) )11(。観光入域者の男女比、年齢構成については、『観光統計要覧』を含め、分けて記載されていないため、把握することは困難だが、一九六一年の男女比については、観光課の文書からまとめた表
2に
よって確認することができる。訪問者の男女比は七対三であった。渡航手続や旅行動機に大きな変化がないと考えられる一九六一〜六三年頃の大要はひとまず把握可能であろう。
表2 1961年観光入域者数男女比
種別 男 女 計
公用客 1,422名 168名 1,590名 訪問客 18,789名 8,146名 26,935名
商用客 518名 46名 564名
通過者 767名 447名 1,214名 計 21,496名 8,807名 30,303名
(「1961年港別空航別観光客調」(沖縄県公文書館 琉球政府文書R00070383B「観光関係(1961年観光 収入推定額 国籍別入域者 都道府県別観光団来 訪状況)1962年」)により作成)
それでは、一九六一〜六三年頃に沖縄を訪問する手段として大きな位置を占めた「観光団」とはどのようなものだったのか。これについても、観光課の文書から、一九六三年については把握することが可能である
)11
(。観光課は、沖縄側「取扱会社」(沖縄旅行社、沖縄ツーリスト、沖縄エアサービス、昭和観光
KK、
暁旅行社、遺族連合会)を介して資料を取りまとめている。それによると、本土からの観光団数は六一五団体、総参加者数は一万二九一四名であった(他、ハワイ:一六団体・二二八名、
US
A:
二四団体・四七九名)。一九六三年の本土からの観光入域者数三万五二一三名のうち、約三七%が「観光団」だったことになる。また、都道府県別でみると、一位:東京(一六二団体・三〇八三名)、二位:大阪(一二三団体・二七八九名)、三位:福岡(三三団体・六五四名)、四位:京都(一九団体・四二七名)、五位:兵庫(一九団体・四一二名)と続く。都市部が上位を占めており、「新婚旅行」等と付記された個人名もみられるが、団体名には企業名が多く、慰安旅行の行先として沖縄が選ばれていたのではないかと推測される。個別事例ではあるが、一九六三年一月九日、大阪物産斡旋所所長は経済局長に対し、「沖縄観光客の増加に伴い、観光資料について当所へ関係者の照会が激増していますが、下記事項について御調査の上、至急に御回報下さい」と依頼している。下記事項として挙げられていたのは、「
1ゴルフ場
続々と観光団が訪れるようになる。沖縄観光協会が把握している一九六〇年中の観光団数は四三団体、総参加者数は一五二九名であった(内、二団体・四〇名はハワイから) )11(。観光入域者の男女比、年齢構成については、『観光統計要覧』を含め、分けて記載されていないため、把握することは困難だが、一九六一年の男女比については、観光課の文書からまとめた表
2に
よって確認することができる。訪問者の男女比は七対三であった。渡航手続や旅行動機に大きな変化がないと考えられる一九六一〜六三年頃の大要はひとまず把握可能であろう。
表2 1961年観光入域者数男女比
種別 男 女 計
公用客 1,422名 168名 1,590名 訪問客 18,789名 8,146名 26,935名
商用客 518名 46名 564名
通過者 767名 447名 1,214名 計 21,496名 8,807名 30,303名
(「1961年港別空航別観光客調」(沖縄県公文書館 琉球政府文書R00070383B「観光関係(1961年観光 収入推定額 国籍別入域者 都道府県別観光団来 訪状況)1962年」)により作成)
それでは、一九六一〜六三年頃に沖縄を訪問する手段として大きな位置を占めた「観光団」とはどのようなものだったのか。これについても、観光課の文書から、一九六三年については把握することが可能である
)11
(。観光課は、沖縄側「取扱会社」(沖縄旅行社、沖縄ツーリスト、沖縄エアサービス、昭和観光
KK、
暁旅行社、遺族連合会)を介して資料を取りまとめている。それによると、本土からの観光団数は六一五団体、総参加者数は一万二九一四名であった(他、ハワイ:一六団体・二二八名、
US
A:
二四団体・四七九名)。一九六三年の本土からの観光入域者数三万五二一三名のうち、約三七%が「観光団」だったことになる。また、都道府県別でみると、一位:東京(一六二団体・三〇八三名)、二位:大阪(一二三団体・二七八九名)、三位:福岡(三三団体・六五四名)、四位:京都(一九団体・四二七名)、五位:兵庫(一九団体・四一二名)と続く。都市部が上位を占めており、「新婚旅行」等と付記された個人名もみられるが、団体名には企業名が多く、慰安旅行の行先として沖縄が選ばれていたのではないかと推測される。個別事例ではあるが、一九六三年一月九日、大阪物産斡旋所所長は経済局長に対し、「沖縄観光客の増加に伴い、観光資料について当所へ関係者の照会が激増していますが、下記事項について御調査の上、至急に御回報下さい」と依頼している。下記事項として挙げられていたのは、「
1ゴルフ場