節度使が継母を射殺した話
その他のタイトル A Case in Tenth‑century China that a Judge killed a Plaintiff in his Court
著者 佐立 治人
雑誌名 關西大學法學論集
巻 53
号 2
ページ 291‑313
発行年 2003‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023353
節度
使が
継趾
を射
殺し
た話
話の内容と出処
十二世紀前半︑南宋が建国されて間もない時期の中国で編纂された﹃折獄亀鑑﹄には︑三百九十余の裁判実話が収
録されている︒左に揚げる話はその︱つである︒
(2 )
後晋︵西暦九三六年建国︶の安重栄が鎮州節度使であった時︑ある夫婦が一緒に︑その子供が親不孝であると 訟えてきた︒重栄は︑子供に向かって詰責し︑剣を抜いて父親に渡し︑自分で子供を殺すよう命じた︒父親は︑
殺すに忍びませんと泣いて言った︒母親は罵りながら子供を追いかけた︒この母親は実は継母であった︒重栄は︑
叱りつけて追い出し︑一矢を射て彼女を殺した︒この話を聞いた者は︑よくやったと称えた︒
︵原文︶晋安重栄︑鎮常山︒有夫婦︑共訟其子不孝者︒重栄面加詰責︑抽剣令自殺之︒其父泣言不忍︒其母訴詈
逐之︒乃継母也︒重栄咄出︑
一箭
斃之
︒聞
者称
快︒
︵﹃
折獄
亀鑑
﹄巻
五︑
懲悪
︑安
重栄
︒﹃
折獄
亀鑑
﹄は
四庫
全書
本を
見
節度使が継母を射殺した話
佐
立
︵二
九一
︶
治 人
︵原文︶晋安仲栄之鎮常州日︑嘗有夫婦共訟其子不孝者︒仲栄面加詰責︑抽錬令自殺之︒其父日︑不忍也︒其母 訴詈︑伎勉逐之︒仲栄重問之︒乃継母也︒因咄出︑自後射一箭而斃︒聞者莫不増快︒由此︑境内以為強明之政︒
安重栄の名が︑この文章では﹁仲栄﹂となっているのは︑後晋の第二代皇帝少帝の誰︑重貴の﹁重﹂字が避けられ たためであろう︒仲は重と同じ発音である︒﹁仲栄重問之﹂の﹁重﹂字は︑右の読み下し文では﹁重ねて﹂と読んで
快を増さざるは莫し︒此れに由り︑境内︑以て強明の政と為す︒
(4 )
晋の安仲栄の︑常州に鎮する日︑嘗て︑夫婦の共に其の子の不孝を訟うる者有り︒仲栄︑面のあたりに詰責を 加え︑姻を抽き︑自らこれを殺さしむ︒其の父日わく︑忍びざるなり︑と︒其の母︑訴詈して︑鍍に使りてこれ を逐う︒仲栄︑重ねてこれを問うに︑乃ち継母なり︒因りて咄し出だして︑後ろより一箭を射て斃す︒聞く者︑
は︑次の通りである︒
この文章には︑﹁旧不著出処︵旧︑出処を著さず︶﹂という注が付されている︒﹃折獄亀鑑﹄の注の﹁旧﹂字は︑和
(3 )
凝︵九五五年没︶が著し︑その子︑崚︵九九五年没︶が増補した﹃疑獄集﹂を意味しているので︑この注から︑﹃折獄 亀鑑﹄の編者はこの話を﹃疑獄集﹄から採録し︑しかも︑﹃疑獄集﹄にはこの話の出処が記されていなかったことが
知られる︒四庫全書に収められている﹃疑獄集﹄ た ︒ ︶
関法第五三巻二号
︵二
九二
︶
の巻三に︑﹁仲栄射継母﹂と題して掲げられている︑この話の文章
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
おいたが︑おそらくは︑﹁仲栄﹂の﹁仲﹂字の横に傍書されていた﹁重﹂字が紛れ込んだものであろう︒﹃折獄亀鑑﹄
の﹁其母訴詈逐之﹂の句に当たる箇所が︑﹃疑獄集﹄では﹁其母栃詈使姻逐之﹂となっており︑﹁訴詈﹂と﹁逐之﹂と
の間に﹁杖勉︵剣に僑りかかりながら︶﹂の語句がはさまれている︒この語句から︑継母が︑子供の父親に安重栄が
渡した剣を︑子供を殺そうとしない父親の手から奪い取って︑その剣を杖つきながら︑子供を追いかけまわしたこと
がわかる︒また︑﹃折獄亀鑑﹂の﹁一箭斃之﹂の句に当たる箇所が︑﹃疑獄集﹄では﹁自後射一箭而斃﹂となっている︒
この句から︑安重栄が︑法廷から出てゆく継母の背面に一矢を射たことがわかる︒また︑﹃疑獄集﹂の文章は︑﹃折獄
亀鑑﹂にはない︑﹁由此︑境内以為強明之政﹂という文言で締め括られている︒
右の﹃疑獄集﹄の文章は︑﹃旧五代史﹄巻九十八︑晋書︑安重栄伝の文章とよく似ている︒左にその原文を掲げる︒
嘗有夫婦共訟其子不孝者︒重栄面加詰責︑抽剣令自殺之︒其父泣日︑不忍也︒其母訴詈︑使剣逐之︒重栄疑而問
之︒乃其継母也︒因叱出︑自後射之︑一箭而斃︒聞者莫不快意︒由此︑境内以為強明︑大得民情︒︵﹃冊府元亀﹄
(5 )
旧﹃五代史﹄が編纂されたのは︑宋の太祖の開宝六年︵九七三︶四月から翌七年︵九七四︶閏十月までの間である︒
﹁宋史﹄巻四三九︑文苑伝に拠れば︑和峨が﹃疑獄集﹄を太宗にたてまつったのは︑太平興国八年︵九八三︶に進+1
に及第してから後である︒﹃折獄亀鑑﹄巻七の慕容彦超の条に︑﹁旧出五代史本伝﹂という注が付されており︑これは︑
この慕容彦超の話は﹃疑獄集﹄から採ったものであり︑﹁疑獄集﹄はこの話を旧﹁五代史﹄の慕容彦超伝から採録し
巻六
九
0も
ほぼ
同文
︒︶
︵
1 1九 三
︶
第五三巻二号
和峨が旧﹃五代史﹂から採録したものである可能性がある︒
︵ 二
九 四
︶ た︑という意味であるから︑和峨が旧﹃五代史﹄を読んだことは確かである︒そこで︑﹃疑獄集﹄の安重栄の話は︑
安重栄が継母を射殺した話は﹁棠陰比事﹄にも見られるが︑これは﹃疑獄集﹄及び﹃折獄亀鑑﹄から採られたもの
﹃旧五代史﹄巻九十八及び﹃新五代史﹄巻五十一の安重栄伝に拠れば︑安重栄は弓の達人であった︒そのせいか︑
何かと言えばすぐに弓を持ち出す癖が彼にはあったようである︒
後唐の末帝の清泰三年︵九三六︶夏に︑晋陽︵現山西省太原市の南南西︶
が︑振武節度使︵治所は朔州︒現山西省朔県︶ で末帝が遣わした軍隊に囲まれた石敬塘
(6 )
の下で西北界巡検使に任じられていた安重栄を味方に誘った時︑重栄
の母と兄とは︑重栄が石敬塘に付くことに反対した︒重栄は﹁お母さんのために占ってみましょう︒﹂と言って︑
本の矢を立て︑百歩離れた場所から狙いを定めて︑﹁石公が天子になるのなら当たれ︒﹂と唱えて射たところ︑
当たった︒さらに一本の矢を立て︑﹁私が節度使になるのなら当たれ︒﹂と唱えて射たところ︑また一発で当たった︒
母と兄とは重栄が石敬塘に付くことを許した︵﹃新五代史﹄本伝︶︒重栄は配下の千騎を率いて晋陽に赴いた︒石敬塘
(7 )
が皇帝︵後晋の高祖︶になると︑成徳軍節度使を授けられた︒
重栄は︑後唐の末帝や石敬塘が節度使から帝位に登ったのを見てきたので︑自分も皇帝になれるかもしれないと野
心を抱いていた︒重栄が契丹の使者と轡を並べて行進していた時︑重栄は飛ぶ鳥を指差して弓を引いた︒烏は弦に応 で
ある
︒
関法
安重栄について
四
一発
で
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
五
じて落ちた︒大勢の群衆がそれを見て︑拍手喝采した︒契丹の使者は馬を停めて慶賀した︒これにより︑名声が北方
に鳴り響いた︒重栄は︑天下は一矢でもって定めることができる︑と思い上がってしまった︵﹁旧五代史﹄本伝︶︒
天福六年︵九四一︶冬︑重栄はついに兵を挙げた︒しかし︑部下の裏切りもあって︑あっけなく敗れ︑翌年春︑鎮
州で斬首された︒重栄が反乱を起こそうとした時︑重栄の母はまたもや反対した︒重栄は︑﹁お母さんのために占っ
てみましょう︒﹂と言って︑庭に立つ旗竿の先に付けられた龍の飾りを指差して︑﹁私が天下を取るのなら︑龍の口に
一発で当たった︒重栄の母は仕方なく許した︵﹃新五代史j本伝︶︒弓の達人である
石敬塘は︑契丹が援助してくれたおかげで帝位に即くことができたので︑雁門関︵現山西省代県の北西︶以北およ
び幽州︵現北京市︶の地を契丹に割譲した︒また︑歳ごとに吊三十万匹を契丹に貢ぐことを約束した︒重栄は︑石敬
塘が契丹に対してへりくだった態度を取っていることを恥とし︑鎮州を通過する契丹の使者と面会するたびに︑必ず
(8 )
横柄な態度で罵った︒時には使者を殺してしまうこともあった︒また重栄は︑契丹の虐政に苦しむ吐揮を誘って契丹
から離叛させ︑国境内に招き入れた︒天福六年夏︑重栄は︑契丹の使者を執え︑軽騎を遣わして︑石敬塘が契丹に割
譲した幽州の南境の民を掠し︑博野︵現河北省叢県︶に移した︒そして︑石敬塘に上表文を奉り︑﹁中国の天子が契
丹の国主に対して︑子が父に対する礼を執っているのをよいことに︑契丹は貪欲で厭くことを知らず︑中国を困耗さ
せています︒すでに戦さの準備はできましたので︑契丹と決戦するつもりです︒﹂と述べた︒石敬塘は詔を発して重
( 9)
栄を説諭して思い止まらせた︒
鎮州から重栄の首が送られてくると︑石敬塘は︑それに漆を塗らせて︑箱に入れて契丹に献上した︒ Jとが︑最後に災いしたのである︒ 当たれ︒﹂と唱えて射たところ︑
︵ 二
九 五
︶
は手出しができなかった︒
第 五 三 巻 二 号 節度使の裁判
安重栄に射殺された継母の夫は︑軍士であったとは書かれていないから︑おそらくは民間人であったであろう︒
節度使は︑﹁通典﹄巻三十二︑職官に﹁軍事を以て専殺するを得︒﹂︑﹃新唐書﹂巻四十九下︑百官志に﹁軍旅を総べ︑
もっぱ誅殺を頗らにするを掌る︒﹂とあるように︑軍事行動に関係する限りで専殺権が認められていたけれども︑民間の紛
( 10 )
争に対する裁判権が与えられていたわけではない︒しかし節度使は︑おおむね治所の州の刺史を兼ねており︑刺史の
立場で︑民間の紛争に対する裁判権を行使することができた︒成徳軍節度使︵鎮州節度使︶の安重栄も︑鎮州刺史と
して︑民間人の夫婦の訴えに対する裁判を行ったのであろう︒ただし︑安重栄が鎮州刺史であったことを明記する史
後梁・後唐朝以来︑節度使や州の刺史は︑戦功によって授けられることが多く︑行政や裁判の方法がわかって
おらず︑左右に侍る小人どものために惑乱されがちであった︒官職を売り︑賄賂をもらって判決を曲げ︑人民を
虐げ︑ほとんどの者が︑貪欲で卑しいという悪名を被っていたが︑その実︑賄賂の半分は部下の手に渡っていた
のである︒ただ重栄だけは︑隠れている事情を探り当てる能力があり︑争訟があれば︑多くの場合︑法廷で黒白
( 11 )
を判断することができた︒倉庫の耗利や人民の税役に至っては︑ことごとく自己の管理下に置き︑配下の諸官司 ﹃
旧五
代史
﹄の
安重
栄伝
に︑
料は︑今のところ見当たらない︒ 関法六
二九
六︶
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
一 七
︵中
略︶
と︒
これ
に従
う︒
﹂と
記
︵原文︶自梁唐已来︑藩侯郡牧︑多以勲授︑不明治道︑例為左右群小惑乱︒売官親獄︑割剥蒸民︑率有貪猥之名︑
其実賄賂半帰於下︒惟重栄自能鉤距︑凡有争訟︑多廷辮之︒至於倉庫耗利︑百姓科待︑悉入於己︑諸司不敢窺蜆゜
節度使の多くが︑賄賂を貪る部下の議言に惑わされ︑あるいは自らも賄賂を受け取り︑でたらめな裁判を行ってい たのに対し︑重栄は︑部下の働きかけによって目を曇らされることなく︑訴訟当事者の黒白を正しく判断することが できた︑と言うのである︒この文章に続いて︑重栄が継母を射殺したエピソードが記されているから︑旧﹃五代史﹂
の編者は︑このエピソードを︑重栄が訴訟当事者の黒白を正しく判断した一例として紹介したのであろう︒
後晋では︑唐の律令格式及び後唐明宗朝で施行されていた勅命が行用されていた︒﹃旧五代史﹄巻七十六︑晋書︑
高祖紀︑天福元年︵九三六︶十一月己亥制に︑﹁あらゆる明宗朝︑行うところの勅命・法制︑所在に仰せて遵行せしめ︑
改易するを得ず︒﹂とあるように︑石敬塘は︑後唐明宗朝で施行されていた﹁勅命・法制﹂を行用することを命じた︒
後唐明宗朝で施行されていた﹁法制﹂とは︑唐の律令格式を指す︒少なくとも︑それを含むものである︒なぜなら︑
﹃旧五代史﹄巻三十︑唐書︑荘宗紀︑同光元年︵九二三︶十二月庚辰条に︑﹁御史台︑上言すらく︑本朝︵後唐ではな
く︑九〇七年に滅亡した唐朝を指す︒佐立注︶の律令格式を行用せんことを請う︒
されているように︑後唐荘宗の時に︑唐の律令格式を行用する決定が下されており︑しかも︑この決定は︑明宗の時
( 12 )
にも変更されてはいなかったからである︒
安重栄に夫婦がその子の﹁不孝﹂を訟えたと言うが︑﹁不孝﹂については︑唐律の名例律︑十悪条﹁七に日わく︑ と
記さ
れて
いる
︒
︵ 二
九 七
︶
たと
は思
えな
い︒ 第
五 三 巻 二 号
︵ 二
九 八
︶
不孝︒﹂の注に︑﹁祖父母父母を告言・阻晋し︑及び祖父母父母在りて︑別籍・異財し︑もしくは供養︑関くる有り︑
父母の喪に居りて︑みずから嫁姿し︑もしくは楽をなし︑服を繹きて吉に従い︑祖父母父母の喪を聞きて︑匿して挙
哀せず︑詐りて祖父母父母の死を称するを謂う︒﹂と定義されている︒この内︑例えば`祖父母父母を晋る者に対す
る刑は絞︵闘訟律︶︑子孫の︑供養︑嗣くる有る者に対する刑は徒二年︵闘訟律︶︑と唐律の各条に定められている︒
唐名例律に︑﹁其れ嫡・継・慈母︵中略︶は︑親と同じ︒﹂と規定されており︑継母は︑唐律では︑実の母と同じ扱
いである︒そして︑闘訟律に︑﹁もし子孫︵中略︶を匪告する者は︑おのおの論ずること勿かれ︒﹂と定められている
から︑唐律では︑継母が継子を謳告しても︑謡告した罪が何であれ︑継母は無罪である︒安重栄に射殺された継母は︑
たとえ夫を唆して︑共に子供を不孝の罪で誰告したとしても︑唐律に依拠する限り︑死刑を受けなければならないい
われは全くない︒もっとも︑唐の格や後唐明宗朝あるいは後晋の勅命の中に︑継母が継子を匪告した場合の特別規定
が存在した可能性はあるが︑それにしても︑継母が継子を不孝の罪で匪告した場合は死罪とする︑という規定があっ
宋の太祖が宰臣に︑﹁五代には諸侯︑跛屋し︑法を柱げ人を殺すこと多し︒朝廷︑置きて問わず︒刑部の職︑廃す
( 13 )
るにちかし︒﹂と語ったように︑五代の節度使は︑法を柾げて訴訟当事者を死刑に処することが多かった︒例えば︑
後唐の明宗及び末帝の下で︑鎮州節度使︑青州節度使︵青州は現山東省益都県︶︑天平軍節度使︵治所は椰州︒椰州
は現山東省東平県の西北︶を歴任した王建立について︑﹃旧五代史﹄巻九十一の本伝に︑次のように記されている︒
建立は若い時︑軍の部隊長として︑もっぱら盗賊の追捕に従事していた︒節度使の地位に就いてからは︑厳烈 関法
八
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
︵原文︶建立︑少歴軍校︑職当捕盗︒及位居方伯︑為政厳烈︒閻里有悪跡者︑必族而誅之︒其刑失於入者︑不可
( 14 )
勝紀︒故当時人︑目之為王探畳︒言殺其人而積其屍也︒
王建立は︑晩年は︑仏教を信仰し︑僧に食事をふるまい︑寺を造営し︑殺生を戒め︑裁判を慎重に行うようになっ
( 15 )
たので︑民は少しずつ安らいだという︒
安重栄は継母を矢で射殺したのであるが︑当時の法律に定められた死刑の方法の中に︑矢で射殺すという方法はな
かった︒しかし︑後晋時代︑節度使が法律に定められていない方法で死刑を行うことは︑安重栄の一例に限らず︑珍
しいことではなかった︒﹃宋史﹄巻二六三︑寅儀伝︑弟像の項に︑左のような記事が載せられている︒
蜜懺は左拾遺に任命された︒後晋少帝の開運年間︵九四四年から九四六年︶︑各地の節度使は勝手に︑残酷な
( 16 )
刑罰を行っていた︒そこで懺は︑皇帝に次のように申し上げた︒﹁名例律に﹁死刑二﹂とありますのは︑絞刑と
斬刑のことです︒絞刑は︑筋骨がつながったままであり︑斬刑は︑頭と首とが離れます︒死刑の種類は︑この二
種類の他にはありません︒ところが︑近頃︑法律に定められていない方法で死刑が行われており︑その方法は数
種類ある︑と聞きます︒地方では︑中央の監視の目が届かず︑法律が遵守されないせいでありましょう︒長釘で 積み重ねる︑という意味である︒
一 九
な態度で政治を行った︒村里に悪事を働いた者がいれば︑必ず一族諸共に死刑に処した︒刑が重過ぎるのは︑
しよっちゅうのことであった︒故に当時の人は彼を名付けて﹁王堆積﹂と呼んだ︒人を死刑に処して︑その屍を
︵二
九九
︶
れな
い︒
四
第五三巻二号
死刑を行うことを禁止して下さることを希望申し上げます︒﹂皇帝はこの意見に従った︒
︵ 三
00
)
もって人の手足を貫いたり︑短刀でもって人の肌膚を切り刻んだりしています︒二晩も生かしたままにしておき︑
すぐには死なせないのです︒恨み声が天にまで達し︑和気が傷われております︒法律に定められていない方法で
︵原文︶拝左拾遺︒開運中︑諸鎮恣用酷刑︒懺上疏日︑案名例律︑死刑二︑絞斬之謂也︒絞者筋骨相連︑斬者頭
頸異処︒大辟之目︑不出両端︒淫刑之興︑近聞数等︒蓋縁外地不守通規︒或以長釘貫人手足︑或以短刀欝人肌膚゜
( 1 7 )
遷延信宿︑不令就死︒寃声上達︑和気有傷︒望加禁止︒従之︒
( 18 )
齋懺は︑後晋の天福六年の進士に挙げられ︑滑州藩鎮︵滑州は現河南省滑県の東南︶の従事を経て︑天平軍節度使
( 19 )
の掌書記となった後︑左拾遺に任命された︵﹃宋史﹄巻二六三︶︒天福六年は安重栄が挙兵した年である︒寅像は︑藩
鎮の幕職官を勤めていた時︑節度使の命令で残酷な方法で死刑が執行されるのを︑実際に見たことがあったのかもし
後世の評価
﹃折獄亀鑑﹄の編者鄭克は︑安重栄が継母を射殺した話を掲げた後︑次のようなコメントを付け加えている︒
いにしえの純朴な時代でさえ︑後妻が前妻の子供を憎むことは︑すでに多かったのです︒いやしくも︑ある婦
人が後妻として前妻の子供を憎んでいる︑という実情を探り得たならば︑その婦人を切に責め︑厳しく戒めれば 関法
四〇
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
術﹂は︑多少評価していた︒
に批
評い
たし
まし
た︒
四
十分です︒どうして一時の快を求めて︑その婦人に非法の酷刑を加える必要がありましょうか︒論語に︑﹁教え
ずして殺す︑これを虐と謂う︒﹂とあります︵廃日篇︶︒重栄はもともと語るに足りない人物ですし︑このエピ
ソードも私自身が選び取ったものではありませんが︑﹃疑獄集﹄がこのエピソードを載せておりますので︑簡単
︵原文︶古之後婦︑疾前妻子︑亦巳多突︒荀得其情︑則切責而厳戒之可也︒何必取快一時︑加之非法乎︒語曰︑
不教而殺︑謂之虐︒重栄固不足道︑此事亦非所取︒旧集載之︑故略辮焉︒︵﹃折獄亀鑑﹄巻五︶
( 20 )
︵2 1 )
鄭克は︑北宋の宣和六年(‑︱二四︶の進士に及第し︑南宋の高宗の紹興三年︵︱‑三三︶︑湖南路の提刑司の幹官
であった時︑裁判を慎重に行うよう戒める詔が下され︑そのことをきっかけに︑和氏父子の﹃疑獄集﹂を閲覧し︑そ
( 22 )
の趣旨に共鳴して︑﹃折獄亀鑑﹄を編纂した︒右の評言は︑裁判の実務に携わる官吏の評言として︑真当至極なもの
である︒ただし︑鄭克は︑﹃折獄亀鑑﹄の別の箇所で︑安重栄が継母を射殺した話に寄せて︑﹁撞姦鈎悪の術は皆︑鞄
情と相い似れども︑必ず議︵いつわり︶を用いる︒心を盛くさんとする君子も亦た忽せにすべからざるなり︒﹂と述
べており︵巻六︑摘姦︑安重栄︶︑父親を試すことによって︑継母の悪意を明るみに出した︑安重栄の﹁撻姦鈎慇の
また︑明の方鵬の﹃責備余談﹄は︑﹁安重栄は︑吏事に暁習す︒夫婦の︑其の子の不孝を告する者有り︒重栄︑剣
を抜き︑其の父に授け︑自ら之れを殺さしむ︒父︑泣きて曰わく︑忍びず︑と︒其の母︑労より訴詈す︒之れを問う
に︑乃ち継母なり︒重栄︑母を叱りて出だし︑行くことほとんど百歩にして︑之れを射殺す︒﹂と︑﹃新五代史﹄巻五
︵ 三
0
I )
ります︑というだけのことです︒ 第五三巻二号
( 23 )
十一︑安重栄伝の記事を引いた上で︑安重栄を次のように非難している︒
︵ 三
0二 ︶
︵原
文︒
甚しいですね︒重栄が粗雑で乱暴なことは︒継母で︑前妻の子供に慈愛の心を持たない者は多いです︒けれど も︑子供で︑継母が原因で親不孝になってしまった者もまた多いのです︒必ず親類や地域の人達を法廷に召集し て︑詳しく訊問すべきです︒非が子供にあれば︑子供が罪に伏します︒非が継母にあれば︑継母が罪に当たりま す︒しかし︑継母の罪は︑死刑には至らないのです︒いきなり剣を子供に加えますと︑子供は死んでしまいます︒
子供が濡衣を着せられたのではないと言い切ることができるでしょうか︒粗雑ですね︒重栄の剣は︒矢が継母に 当たって︑継母は即死しました︒継母はさぞかし恨めしかったことでしょう︒乱暴ですね︒重栄の矢は︒重栄は もともと語るに足りない人物ですが︑ただ︑このエピソードに即して︑道理を論じますならば︑以上の通りにな
︵原文︶甚哉︒重栄之疏且暴也︒継母之不慈者衆突︒然子因継母而不孝者亦衆突︒必召族人里人︑集於庭下︑而 詳訊焉︒曲在其子︑則子伏奉︒曲在其母︑則母当罪︒然不至於死也︒剣加於子︑子或死焉︒能無遺寃乎︒疎突哉︒
重栄之剣也︒矢及其母︑母即死焉︒能無遺憾乎︒暴突哉︒重栄之矢也︒重栄本不足道︑特論其理︑当如此爾゜
︵巻
下︑
重栄
射殺
継母
︒﹃
責備
余談
﹄は
筆記
小説
大観
第二
十二
編所
収本
を見
た︒
︶
( 2 4 )
方鵬
は︑
正徳
一二
年(
‑五
0八︶の進士︒官は太常寺卿に至った︒﹃責備余談﹄には︑嘉靖五年(‑五二六︶に書かれ
た自序が付されている︒右の非難も︑尤も千万な内容である︒﹁重栄はもともと語るに足りない人物ですが
関法四
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
に述
べて
いる
︒
のか
もし
れな
い︒
四 一
重栄本不足道︶﹂という言葉は︑﹃折獄亀鑑﹄の﹁重栄は固より道うに足らず︒﹂という評言を踏襲したものであろう︒
﹁必ず親類や地域の人達を法廷に召集して︑詳しく訊問すべきです︒﹂という意見は︑﹃明律﹂刑律︑闘殴の殴祖父母
父母条に附された︑﹃弘治問刑条例﹄の﹁継母︑子の不孝を告︵中略︶すれば︑倶に四瑯親族人等を行拘し︑審勘す
( 25 )
るに是れ実なれば︑律に依り問断す︒もし匪柾あれば︑即ち辮理をゆるす︒﹂という規定を念頭に置いたものである
なお︑﹁非が継母にあれば︑継母が罪に当たります︒しかし︑継母の罪は︑死刑には至らないのです︒﹂と述べられ
ているが︑前節で説明したように︑唐律では︑継母が継子を誤告しても︑継母は無罪である︒明律でも同様である︒
また︑唐闘訟律に︑﹁もし子孫︑教令に違犯し︑しかして祖父母父母︑殴殺すれば︑徒一年半︒刃を以て殺せば︑徒
二年︒故らに殺せば︑各々一等を加う︒もし嫡・継・慈・養︑殺せば︑又た一等を加う︒﹂と定められており︑しか
も︑祖父母父母が子孫を傷つけるに止まった場合の罪の規定は︑唐律には置かれていないから︑唐律では︑継母は︑
( 26 )
継子に対してどのような酷い仕打ちをしても︑継子を殺さない限りは無罪である︒明律でも同様である︒
明の部賓の﹃学史﹂は︑﹃新五代史﹄安重栄伝の︑重栄が継母を射殺した話を記した文章を掲げた後で︑次のよう
剣を持ち出してはじめて︑子供の不孝を訟えた母親が継母であることを知ったとは︑この裁判を行った者は大
変迂濶である︒この時に当たって︑もし父親が︑子供が死んでも惜しむに足りないとばかりに︑残忍にも重栄の
指示通りに子供に剣を加えたならば︑子供の方では︑思い残すことが無いというわけにはいかなかったであろう︒
︵ 三
0 1 ︱
‑ ︶
は﹃学史﹂の影響を受けたのかもしれない︒
つ
史﹄
は四
庫全
書本
を見
た︒
︶
第五三巻二号
︵ 三
0 四
︶ しかし︑そもそも︑母親が継母ではなかったとすれば︑重栄のやり方で裁判を行うのはどうであろうか︒恩は家 に在り︑法は国に在る︒恩が絶えてはじめて法が用いられる︒法を用いるには義を以てする︒﹃尚書﹄康詰に︑
﹁速やかに︑文王が作った罰を用いて︑これを刑しなさい︒赦してはいけない︒﹂とある︵ように︑不孝の罪を 犯した子供には︑容赦なく︑法律が定める刑罰を科するべきである︒容赦しない点では︑重栄のやり方はよい︒
佐立
補︶
︒
︵原文︶剣而后︑知為継母︒聴斯獄者︑亦疎芙︒当是時也︑使其父忍必剣之︑子死不足惜︑得無遺情乎︒凡非継 母者︑準是以聴何如︒恩在家︑法在国︒恩絶而法用︒用法以義︒康詰日︑速由文王作罰︑刑荘無赦︒︵巻八︒﹃学
( 27 )
部賓は︑成化二十年(‑四八四︶の進士︒官は南京礼部尚書に至った︒﹃千頃堂書目﹄巻五︑史学類に拠れば︑﹁学
( 28 )
史﹄には弘治年間(‑四八八年から一五0五年︶に書かれた序文が付されていたので︑嘉靖五年(‑五二六︶の自序を持
﹃責備余談﹄よりも︑﹃学史﹂は早い時期に完成していたと考えられる︒﹃責備余談﹄の﹁剣を子に加えば︑子︑或 いは死なん︒能く遺寃無からんや︒疎なるかな︒重栄の剣や︒﹂という文は︑﹃学史﹄の﹁剣して后︑継母たるを知る︒
斯の獄を聴く者︑亦た疎なり︒是の時に当たりてや︑其の父をして忍びて必ず之れを剣し︑子︑死するも惜しむに足 らざらしめば︑遺情無きを得んや︒﹂という文と︑内容が同じであるのみならず︑表現も少し似ている︒﹃責備余談﹄
﹃折
獄亀
鑑﹄
と
﹃責備余談﹄とが︑子供の不孝を訴えた継母を安重栄が射殺したことを非難しているのに対し︑
関法
四四
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
四五
﹃学史﹄は安重栄が継母を射殺したことに言及していない︒邪賓は︑鄭克や方鵬ほどには︑そのことが気にならな
清の周召の﹃雙橋随筆﹄は︑﹃折獄亀鑑﹄や﹃責備余談﹂とは異なり︑安重栄が継母を射殺したことを肯定的に評
価している︒まず︑﹁武人︑事を断じて明白痛快なること︑文吏の上に出づる者有り︒︵原文︶武人断事︑明白痛快︑
有出於文吏之上者︒﹂と述べ︑次に︑﹃新五代史﹄安重栄伝の︑重栄が継母を射殺した話を記す文章を掲げ︑最後に︑
﹁文吏︑筆を執りて断ず︒登に能<此くの如く直裁ならんや︒長鎗大戟︵長いやりと大きなほこ︶︑安んぞ毛錐︵筆
のこと︶を用いんや︑と謂うべし︒︵原文︶文吏執筆而断︒登能如此直裁︒可謂長鎗大戟︑安用毛錐︒﹂と述べている
︵巻二︶︒安重栄が継母を矢でもって射殺した裁判は﹁明白痛快﹂であり︑文官が筆を執って判決文を書いていては︑
安重栄のこの裁判のように手っ取り早くはいかない︑と言うのである︒
﹃四庫全書総目﹄巻九十四に拠れば︑周召は︑康熙の初め︵康熙元年は一六六二年︶︑映西省の鳳県︵現映西省鳳県の
( 29 )
東北︶の知県であった︒﹃雙橋随筆﹄は︑康熙十三年︵一六七四︶︑十四年(‑六七五︶の頃︑歌精忠の反乱に遭い︑山
中に避難して書いたものである︒﹁長鎗大戟︑安んぞ毛錐を用いんや︒﹂という言葉は︑五代後漢の武臣で宰相の地位
にあった史弘肇の言葉で︑﹃旧五代史﹄巻一〇七︑漢書︑史弘肇伝︑及びH
初五
代史
﹄巻
︱︱
‑+
︑漢
臣︑
史弘
肇伝
に出
てくる︒﹃新五代史﹂には︑﹁弘肇日わく︑﹁朝廷を安んじ︑禍乱を定むるには︑ただ長槍大剣をもちいるのみ︒毛錐
子のごときは︑安んぞ用いるに足らんや︒﹂と︒三司使︵財政担当の大臣︶の王章曰わく︑﹁毛錐子無くんば︑軍賦い
づくより集まらんや︒﹂と︒﹁毛錐子﹂とは︑けだし筆を言うなり︒弘肇︑獣然とす︒︵原文︶弘肇曰︑安朝廷︑定禍
乱︑直須長槍大剣︒若毛錐子︑安足用哉︒一二司使王章日︑無毛錐子︑軍賦何従集乎︒毛錐子︑蓋言筆也︒弘肇黙然︒﹂ かったのであろうか︒
︵ 三
0五 ︶
第五一二巻二号
﹃旧五代史﹂安重栄伝に拠れば︑重栄が継母を射殺したという話を聞いて︑意を快くしない者はなく︑この裁判に
より︑管内の人々は重栄を強明な人物であると評価し︑重栄は大いに民の心を掴んだという︒けれども︑﹁意を快く﹂
した者や︑重栄を﹁強明﹂と評価した人は︑暴力に慣れた武人や無責任な民衆であったであろう︒
の著者周召は︑裁判を行うことが職務の︱つである知県を勤めた経験がある人である︒その周召が︑安重栄が継母を
射殺した裁判を﹁明白痛快﹂と評価し︑﹁朝廷を安んじ︑禍乱を定むるには︑ただ長槍大剣をもちいるのみ︒﹂という
史弘肇の言葉を引き合いに出しているのは︑どうしたことであろうか︒しかも︑史弘肇のこの言葉は︑彼がこの言葉
を発したその時に︑三司使の王章によって即ちに否定され︑史弘肇は返す言葉もなく黙り込んでしまったのである︒
﹃四庫全書総目﹄巻九十四は︑﹃雙橋随筆﹄について︑﹁たまたま寇乱に逢い︑流離奔走す︒憤激の詞有るを免れず︒﹂
と述べるが︑周召は︑歌精忠の反乱のせいで余計な苦労をさせられて︑自暴自棄になってしまったわけではあるまい︒
( 30 )
蒲松齢の短編怪奇小説集﹃聯齋志異﹄は︑﹃雙橋随筆﹄と同じ時期に書かれた作品である︒その﹃聯齋志異﹄の巻
裁判は官に居る者の最も重要な務めであり︑陰徳を養うか︑天理を滅するかは皆︑裁判の出来不出来に繋って
います︒慎まないわけにはいきません︒せっかちに黒白を決めつけたり︑賄賂を貪ったり︑法律外の暴力を加え
たりするのは︑もちろん天の和に背きますが︑ぐずぐずと日数を掛け過ぎるのも︑また民の命を傷うのです︒
人が訴訟を起こすと︑数人の農民が農作業の時機を失います︒ 七︑寃獄で︑蒲松齢は次のようにコメントしている︒ と
記さ
れて
いる
︒
関法
︱つの裁判の判決文が書き上げられた時には︑既
四六
一方
︑﹃
雙橋
随筆
﹄
︵ 三
0六 ︶
命 ︒
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
一人
興訟
︑則
数農
失時
︒
えるならば︑紛争は悉く解決します︒
四七
に十組の家族が破産しています︒どうして裁判が細事であると言えましょうか︒︵中略︶たとい隣近所の無思慮
な住民達や︑山村の荒くれ者共が︑たまたま些細な事がきっかけとなり︑腹立ちまぎれに訴訟を起こすに到った
としても︑そのような訴訟は︑県知事の一言でもって終わらせればよいだけのことです︒関係者全員を法廷に呼
び出す必要はありません︒ただ両当事者だけが揃えばよいのです︒そして︑悪い方の当事者に笞杖をただちに加
︵原文︶訟獄乃居官之首務︑培陰隙︑滅天理︑皆在於此︒不可不慎也︒躁急汚暴︑固乖天和︑滝滞因循︑亦傷民
之争︑致起雀角之念︑此不過借官宰之一言︑以為平定而已︒無用全人︒祇須両造︒笞杖立加︑葛藤悉断︒︵﹃聯齋
志異
﹄は
会校
会注
会評
本を
見た
︒︶
一案既成︑則十家蕩産︒登故之細哉︒︵中略︶即或郷里愚民︑山村豪気︑偶因鶉鴨
几帳面に関係者を呼び出したり︑証拠調べを行ったりすると︑それだけでも裁判は時間がかかる上に︑裁判官が神
経質な性格だと︑黒白を判断するに当たって︑あれやこれやと気になって︑またもや時間がかかる︒ましてや︑下役
人が貪欲にも︑訴訟当事者や関係者から賄賂を受け取るまで手続を進めない︑という態度に出るならば︑ますます時
間がかかることになる︒そして︑蒲松齢が言う通り︑時間がかかり過ぎる裁判は︑﹁民の命を傷う﹂のである︒もし
かすると周召は︑知県をしていた時に︑裁判に時間がかかり過ぎることに悩んだ経験があり︑法廷で継母を有無を言
わせず射殺してしまった安重栄の無頓着さをうらやましく思ったのかもしれない︒
︵ 三
0七 ︶
第 五 三 巻 二 号
( ‑
︱
10
八 ︶
安重栄の子︑徳裕は︑重栄が挙兵した時︑まだ満一歳にもなっていなかった︒鎮州城が陥落すると︑乳母は徳裕を
抱いて下水溝の中に逃げた︒城外に出ようとしたところを守備兵に捕えられ︑部隊長の秦習の所に連れて行かれた︒
秦習は重栄と昔なじみだったので︑徳裕を匿った︒徳裕は秦習の家で養われた︒秦氏は代々︑武人の家柄だったが︑
徳裕は二︑三歳の頃から筆記用具を翫び︑文字を見れば声を出して読んだ︒秦習はこれを不思議に思った︒十五歳に
なると︑師に就いて学ぱせた︒秦習が亡くなると︑徳裕は︑子が父のためにする三年の喪に服した後︑秦家を出た︒
秦習の家族は銀一万両余りを徳裕に贈った︒徳裕は︑﹁これは秦家の蓄えです︒私の物ではありません︒
は自分の力で功名を立てて︑富や地位を手に入れるべきです︒どうして他人の物を平気で受け取ることができましょ
うか︒﹂と言って︑受け取らなかった︒宋の太祖の開宝二年︵九六九︶︑進士甲科に擢第した︒直史館︑知開封県︑直
昭文館などを歴任したが︑酒を飲み過ぎるので︑抜擢されることなく終わった︒咸平五年
(1
00
二︶
︑六
十三
歳で
没
した︵﹃宋史﹄巻四四0
︑文
苑伝
︶︒
南宋の李心伝の﹃旧聞証誤﹄は︑南宋の王明清の﹃揮塵前録﹄の﹁本朝︑父子状元及第は︑張去華︑子の師徳︑梁
( 3 1 )
瀬︑子の固のみ︒﹂という文を取り上げて︑﹁按ずるに︑開宝︱一年︑安徳裕︑状元及第し︑五年︵九七二︶︑子の守亮︑
これに継ぐ︒すべて三家︒仲言︵王明清の字︒佐立注︶︑その一を遺すのみ︒﹂︵巻一︒﹁旧聞証誤﹄は中華書局の点校
本を見た︒︶と述べている︒これに拠れば︑安徳裕とその息子と︑即ち安重栄の子と孫とは二人とも科挙の試験に
トップ合格を果たしたというのである︒﹃文献通考﹄巻︱︱︱十二︑選挙考︑挙士︑宋登科記総目に︑﹁開宝二年︑進士七 関法
五 後 日 談
四八
一人
前の
男
節度
使が
継母
を射
殺し
た話
違い
であ
ろう
︒
四九
人︒榜首安徳裕︒﹂﹁︵開宝︶五年︑進士十一人︒榜首安守亮︒﹂とあるから︑安徳裕と安守亮が進士科にトップで合格
したことは認められる︒徳裕と守亮が父子であったとすれば︑西暦一
0
0二年に六十三歳で没した徳裕は九四0
年生
まれであるから︑守亮が及第した時︑徳裕は三十三歳︒徳裕が十五歳の時に守亮が生まれたとしても︑守亮は十九歳
しかし︑北宋の張斉賢の﹃洛陽措紳旧聞記﹄には︑安彦威の子︑守亮が﹁状元及第﹂を果たしたことが記されてい
る︵巻四︑安中令大度︶︒﹁文献通考﹄の宋登科記総目に掲げられている榜首及び状元の姓名の中に︑安守亮の姓名は︑
開宝五年の榜首である安守亮の他にはない︒そこで︑﹃洛陽措紳旧聞記﹂の記述に拠るならば︑進士科にトップで合
格した安守亮は︑安徳裕の子ではなく︑安彦威の子であったのである︒安彦威は﹃旧五代史﹂巻九十一に伝がある︒
安彦威と安重栄との間に親族関係があったのかどうかわからない︒﹃洛陽措紳旧聞記﹄は︑﹁宋朝乙巳歳︵西暦一
0 0
五年︶﹂に書かれた自序を持ち︑南宋の李心伝の﹃旧聞証誤﹄よりも︑安守亮が及第した年にはるかに近い時期に著
されたものであるから︑﹃洛陽措紳旧聞記﹄の記述を採るべきであろう︒徳裕と守亮が父子であったというのは︑間
( 32 )
淳化元年︵九九
0)
八月二十五日︑安徳裕は直昭文館に任じられた︒翌二十六日︑和峨が直集賢院に任じられた︒
和崚は︑父の凝が著した﹃疑獄集﹂を増補した人である︒﹃疑獄集﹄の安重栄が継母を射殺した話は︑和崚が旧﹃五
代史﹂から採録したものである可能性があることは︑第一節に書いた︒昭文館と集賢院は一続きの建物の中にあった
( 3 3 )
から︑安徳裕と和峨は顔見知りであったに相違ない︒
和峨は︑西暦九五一年に生まれ︑安徳裕より十一歳年下である︒安徳裕は三歳の時に父重栄を失い︑和峨は五歳の の若さで進士科にトップで合格したことになる︒
︵ 三
0九 ︶
か゜ 時に父凝を失った︒安重栄が弓の達人であったことは第二節に書いたが︑和凝も︑十九歳で進士に登第した勉強家で
( 34 )
あっただけではなく︑弓の名手でもあった︒そして︑安重栄が反乱を起こした時︑和凝は︑後晋の宰相の地位にあり︑
これを受けて立つ立場にあった︒安徳裕と和壕は︑それぞれの父親について親しく語り合ったことがあったであろう
(1
)
劉俊文訳注点校﹃折獄亀鑑訳注﹄︵上海古籍出版社︑一九八八年︶﹁前言﹂参照︒
(2
)
原文﹁鎮常山︵常山に鎮す︶﹂︒﹁常山﹂は鎮州の古名︒鎮州は現在の河北省正定県︒
(3
)
佐立﹁和氏父子撰﹃疑獄集l
の整 理﹂
︵﹃ 関西 大学 法学 論集
j第五一巻第六号掲載︑二
00 二年
︶︱
‑八 頁︒
(4
)
﹁常州﹂は︑鎮州の古名﹁常山﹂の誤りか︒鎮州は︑反乱を起こした安重栄が誅された天福七年︵九四二︶正月に︑恒州
と改名されたので︑﹁恒州﹂が︑宋の第三代皇帝真宗の誨﹁恒﹂の字を避けて︑﹁常州﹂と記された可能性もある︒
(5
)
﹃宋史﹄巻三︑太祖本紀︒﹃続資治通鑑長編﹄巻十四・巻十五︒
(6
)
﹃旧五代史﹄巻四十八︑唐書︑末帝紀下︑消泰三年五月己酉条︒
(7
) 治所は鎖州︒節度使の治所の州には︑州名の外に軍名があり︑成徳軍は鎮州の軍名である︒宮崎市定﹁宋代州県制度の由 来と その 特色
﹂︵
﹃全 集﹄
1 0 所収︑岩波書店︑一九九二年︒ニニ五頁︶を参照︒
(8
) もと吐谷揮と号した部族︒蔚州︵現河北省蔚県︶境内に散居していたが︑天福元年︵九三六︶に石敬塘が︑蔚州を含む+
六州を契丹に割譲したため︑吐渾は契丹に隷属することとなった︒﹃五代会要﹄巻二十八︑吐渾゜
(9
)
﹃旧五代史﹄巻七十九︑晋書︑高祖紀︑天福六年六月戊午条︒
( 1 0 )
﹃新唐書﹄巻四十九下︑百官志に︑﹁大率︑節度・観察・防禦・団練使︑皆︑治する所の州の刺史を兼ぬ︒﹂とある︒栗原
益男編﹃五代宋初藩鎮年表﹄︵東京堂出版︑昭和六十三年︶の序文に︑﹁節度使は使府の刺史を自動的に兼ねると同時に観察
処置使を兼任することによって︑藩鎮領内の軍事権のみでなく行政権をも行使する強大な権限をもつ存在であった︒﹂と説 関法
第五三巻二号
︵ 三 一
0)
平成十五年三月二十四日
五〇
節度使が継母を射殺した話
五
明さ れて いる
︒
( 1 1 )
﹁耗利﹂とは︑官に税物を納入する際︑損耗を補う名目で余分に課される税の収益の意味であろう︒
( 1 2 )
天成元年︵九二六︶十月二十一日に︑開元格ではなく開成格を使用する決定が下されただけである︒﹃五代会要﹄巻九︑
定格
令︒
( 1 3 )
﹃続資治通鑑長編﹄巻三︑太祖︑建隆三年︵九六二︶三月丁卯条︒
4 ) ( 1
﹃冊府元亀﹄巻四四八には︑﹁晋王建立︑仕後唐為青州節度使︒性悪生好殺︒為政厳烈︒︵以下︑﹃旧五代史﹂と同文︒︶﹂と 記さ れて いる
︒
( 1 5 )
﹃旧五代史﹄王建立伝︒建立晩年︑婦心釈氏︑飯僧営寺︑戒殺慎獄︑民梢安之︒
( 1 6 )
唐名 例律
︑死 刑条 に︑
﹁死 刑︱
‑︒ 絞斬
︒﹂ とあ る︒
( 1 7 )
ここに見られる左拾遺寅倣の上疏の文章は︑﹃旧五代史﹄巻一四七︑刑法志に︑より詳しく記載されている︒
( 1 8 )
﹁従事﹂は︑藩鎮の幕職官︵副使・判官・掌書記・推官等︶の総称︒渡邊孝﹁唐後半期の藩鎮辟召制についての再検討﹂
︵﹃東洋史研究﹄第六十巻第一号︑二
00 一年
︶三 十七 頁︒
( 1 9 )
﹃通典﹄巻三十二︑職官に︑﹁掌書記一人︒表奏書檄を掌る︒﹂とある︒
( 2 0 )
余嘉錫﹃四庫提要辮證﹄︵科学出版社︑一九五八年︶六一0頁︒彰百川﹃太平治迩統類﹄巻二十七゜
( 2 1 )
﹃宋史﹄巻一六七︑職官志︑提貼刑獄公事の項に︑﹁その属に検法官・幹塀官あり︒﹂とある︒﹁幹官﹂とは︑この﹁幹塀
官﹂のことであろう︒
( 2 2 )
注(
20
)所掲余著書︑六一0頁から一頁︒劉燻﹃隠居通議﹄巻三十一︒
( 2 3 )
﹃新五代史﹄の原文は次の通りである︒﹁重栄︑雖武夫︑而暁吏事︒其下不能欺︒有夫婦訟其子不孝者︒重栄︑抜剣授其父︑
使自殺之︒其父泣曰︑不忍也︒其屈従傍訴罵︑奪其剣而逐之︒問之︑乃継母也︒重栄︑叱其舟出︑後射殺之︒﹂﹃責備余談﹄
の﹁行くことほとんど百歩にして︵原文︒行幾百歩︶﹂の句が︑﹃新五代史﹄の文章には存在しないが︑おそらく﹃責備余 談﹄は︑第二節で紹介した︑安重栄が︑百歩離れた所に立てた一本の矢を一発で射当てた︑﹃新五代史﹄が記すエピソード
を混ぜてしまったのであろう︒
( 2 4 )
﹃四庫全書継目﹄巻六十一︑史部︑伝記類存目︑毘山人物志の項︒