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「孝女知恩」と「貧女養母」 : そこに記された米 ・粟・租・穀・を繞る諸問題

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(1)

「孝女知恩」と「貧女養母」 : そこに記された米

・粟・租・穀・を繞る諸問題

その他のタイトル On The Four Kinds Of Grain Referred To In The Sangoku‑Shiki and Sangoku‑Iji

著者 鋳方 貞亮

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 2

ページ 1‑21

発行年 1969‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/16132

(2)

﹁孝女知恩﹂は︑三国史記・巻第四十八・列伝第八に︑﹁貧女養

母﹂は︑三国遣事・巻第五・孝善第九に収録されているが︑もとも

と同一の事件を素材としていると思われる︒

先ず前者を掲げよう︒

孝女知恩︒韓岐部百姓連権女子也︒性至孝︒少喪し父︒独養一其

母↓年三十二︒猶障不陰從睦人︒定省不レ離一左右↓而無一以為轌養︒或傭0○000○○O作或行乞︒得し食以飼し之︒日久不吟勝一困億争就二富豪一請陸寶レ身為し蝉︒○○○○○○○○0000得一米十餘石聿窮日行二役於其家圭暮則作し食帰養睦之︒如し是三四日︒

其母謂一女子︸日︒向食儀而甘︒今則食錐し好︒味不ン如レ昔︒而肝心

若示以二刀刃一刺巻之者︒是何意耶︒女子以陸実告し之︒母日︒以二我故一

使一爾為彦脾︒不し如二死之速一也︒乃放レ聲大奥︒女子亦突︒哀感行し路︒

︑︑︑○O○0000時孝宗郎出遊見睦之︒帰請一父母↓輸二家粟百石及衣物一予し之︒叉償一︒○○○0◎0O○O◎0000O買主一以從レ良︒郎徒幾千人各出二粟一石一為シ贈︒大王聞し之︒亦賜二租

000五百石家一区至復除二征役争以二粟多一恐睦有二剰籍者弐卯一所司一差し兵番

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂

lそこに記された米・粟・租・穀を焼る諸問題I

守︒標弓傍其里↓日二孝養坊↓︵下略︶

右の内容を説明する必要はないと思う︒わたくしが︑ここで取り

上げたいのは次の四つの項目である︒

一︑富豪に就いて身を責らんことを請い︑脾と為り︑米十餘石を

得︒

オクアタ

ニ︑家の粟百石及び衣物を輸りて之に予う︒

オクリモノ三︑郎徒幾千人︑各ご粟一石を出して贈と為す︒

四︑大王之を聞きまた租五百石︑家一区を賜う︒

右の四項目を取り上げた上で︑今度は三国遣事の﹁貧女養母﹂に

眼を鱒じよう︒

︑︑︑才クル孝宗郎遊南山鮠石亭一鰄娠三︒門客星馳︒有三客至濁後︒郎問ニ

パカリ其故士日︒芽皇寺東里有峰女︒年二十左右︒抱一盲母一相號而突︒問一一

同里一日︒此家女貧︒乞レ畷而反哺有修年美︒適之歳荒︒掎門難︒以○00000000◎0︒◎︒○0000000藷手蹟一賃他家↓得二穀三十石↓寄弓置大家一服役︒日暮豪米而来陵家

炊睦餉伴レ宿︒如レ是者数日英︒母日︒昔日之糠枇心和旦平︒近日之

0O香抗胴肝若し刺而心未レ安何哉︒女言二其実至母痛突︒女嘆已之︒但能二

鋳方貞亮

(3)

ノミ00O口腹之養﹁而失二於色難一也︒故相持而泣︒見修此而遅留余︒郎聞吟之0○0O○OOO○0○◎O◎︒◎潜然送一穀一百餌↓郎之二親亦送一衣袴一蕊至郎之千徒欽二租一千石一

オクル︒◎000o

潭之︒事達二晨聰↓時真聖王賜二穀五百石井宅一塵至遣二卒徒一衛二其

オサメ家圭以倣二劫掠争雄一其坊一為二孝養之里圭後拾一其家一為〆寺︒名二両尊寺壬

右は﹁貧女養母﹂の全文であるが︑内容的に見た場合︑﹁孝女知

恩﹂と酷似していることがわかると思う︒

先ず︑史記では女の年は独身の三十二才であり︑遣事では二十ば

かりであるが︑ともに貧しく︑母に孝養を誌している︒

両者とも自ら進んで富豪大家の脾︑I奴隷lとなっている︒

その対価として米十餘石を︑或は穀三十石を受け取っている︒

両者の母は︑ともに食物のことから娘が蝉になったことを悲しみ

号泣する︒

孝宗郎は彼女の孝心に感激して穀類を与え︑彼の子分達はカムパ

を行なった︒

それが大王︵眞聖王︑五十一代︒西暦八八七年八九六年︶の耳に

入り︑穀類や家を与えられるキッヵヶとなった︒

穀類が多量なので盗難に逢う心配があるので︑王は兵を出して彼

女の警備にあたらせた︒

その里を孝養坊といい︑或はその坊を孝養の里とした︒

これだけ類似のことがらがあれば︑これらが同一の事件を取扱っ

たであろうことを︑最早︑疑う人は無いであろう︒

さて︑前の場合同様︑ここでも四つの項目を取り上げよう︒ ー︑以て手を籍し賃を他家に蹟い︑穀三十石を得︒

コクニ︑郎これを聞き︵後れた二客から︶潜然として穀一百餌を送る︒

オサガク

三︑郎の千徒︑租一千石を敏︵正字は敏︶めて之を遣る︒

四︑時に真聖王穀五百石井びに宅一塵を賜う︒

ここで先にあげた四項目と︑ここに掲げた四項目とを比較して見

﹄︲︽シ︹ソO

先ず︑一について︒

両者とも富豪大家に脾となる契約をしたときに︑それぞれ米十餘

石更記︶あるいは穀三十石︵遣事︶を得ているが︑わたくしが注目

したいのは︑十餘石とか三十石という数量ではなく︑何故に︑一方

では﹁米﹂と記し︑他方では﹁穀﹂と書いてあるかということであ

る︒

フクロまた︑遣事において︑﹁日暮るれば﹁米﹂を棄して家に来り餉を炊

○○ぎ宿を伴にす﹂︑﹁近日の香杭隔肝刺すが如くして心未だ安からざる

は何ぞや﹂とあるが︑ここの﹁米﹂﹁香杭﹂と三十石の﹁穀﹂との

関係は︑如何なっているのであろうか︒

史記の場合︑知恩は脾となって﹁米﹂十餘石を得た後︑富豪の家

で労役に服し︑暮に家に帰るとき︑何も貰っていないのであるから︑

脾の対価として得た﹁米﹂で母を養っていたことがわかる︒﹁米﹂︒︒︒◎の飯であればこそ﹁今は則ち食は好しと錐も云々﹂という言葉も生

きて来る︒

これに反して遣事の場合︑脾となったとき﹁穀﹂三十石を得てい

(4)

ながら︑その大家で労役に服し︑またまた﹁米﹂を小袋に入れても

って帰ったように書いてある︒︵棄は小袋︶この﹁米﹂が﹁近日の香

抗﹂であると思われるが︑三十石もの﹁穀﹂を出して脾を買いなが

ら︑毎日︑﹁米﹂の小袋を呉れる大家がいただろうか︒釣った魚に

餌をやる類ではあるまいか︒わたくしは︑これを僧一然三国遺事の

著者︶の潤色であると思わざるを得ない︒史記の場合﹁米﹂と﹁穀﹂

とを可成判然区別して用いているが︑遣事の場合︑どうもそうでは

ないらしいのである︒

二について︒

史記の場合︑孝宗郎は父母に頼んで︑家の﹁粟﹂百石と衣物とを

與えているが︑遣事の場合︑彼は内密に﹁穀﹂一百餌を送り︑衣袴

一揃は彼の両親が送っている︒史記と遣事とではやや趣きを異にし

てはいるが︑女の側からすれば︑﹁粟﹂百石と衣物︑あるいは﹁穀﹂

一百石と衣袴一揃へを贈られたことになるのであって︑そこに多少

の差異はあるとしても︑問題とするには当るまい︒ここで気になる

ことは︑﹁粟﹂百石と﹁穀﹂一百餌の相違である︒石と餌は同義で

あるから数量においては全く同じであるが︑一方では﹁粟﹂を︑他

方では﹁穀﹂をおくっている︒何故に史記と遣事との記載が食い違

っているのであろうか︒

三について︒

前者では孝宗郎の子分達数千人が各自﹁粟﹂一石づつを出し合っ

て彼女におくり︑後者では孝宗郎の子分達千人が義損して︑合計一

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶ 千石の﹁租﹂を彼女におくっている︒その数量を機械的に見れば︑前者は数千石の粟になるので︑後者とは大きな開きはあるが︑ここでも疑問に思うのは︑﹁粟﹂と﹁租﹂の違いである︒

四について︒

史記では︑これを聞いた大王が﹁租﹂五百石と家一軒を賜ってい

るが︑遺事では真聖王が﹁穀﹂五百石と家一軒を賜っている︒ここ

で食い違っているのは﹁和﹂と﹁穀﹂とである︒他は全く同じであ

るといってよい︒それであるのに︑何故に︑一方では﹁粗﹂と記し︑

他方これを﹁穀﹂と書いているのであろうか︒著者が異っているか

らだと簡単に片付けてよいものであろうか︒

右に述べたように︑同一の内容をもった一つの事柄を記録した筈

であるのに︑何故に金富執︵三国史記の著者︶と僧一然︵三国遣事の著

者︶とは︑穀類について別々の文字を用いたのであろうか︒

若し仮りに機械的に︑そしてまた筋書に重点をおいて眺めたとす

ると︑次のようになる︒

一︑孝女知恩が蝉となって得たものは﹁米﹂︵史記︶であり︑貧女

が同様にして得たものは﹁穀﹂︵遺事︶であった︒すなわち﹁米﹂と

﹁穀﹂とは内容的に同一のもの︑換言すれば︑﹁米﹂イコール﹁穀﹂

という関係が成立する︒

二︑孝宗郎は孝女知恩に﹁粟﹂一百石︵史記︶を與え︑貧女には

■■■■■■

(5)

﹁穀﹂一百餌︵石︶︵遺事︶を與えたことになっているが︑孝女知恩

と貧女とが同一人であることを認めているわたくしには︑﹁粟﹂も

また﹁穀﹂と同じ内容をもった穀類でなければならないと思われ

る︒すなわち﹁粟﹂イコール﹁穀﹂という関係が成立する︒

三︑孝宗郎の子分達は︑知恩に﹁粟﹂︵史記︶を與えているが︑貧

女には﹁租﹂︵遺事︶を與えた︒知恩と貧女とが同一人であることを

思えば︑これまた﹁粟﹂と﹁租﹂が別々の中味をもっていたとは考

えられない︒ここでも﹁粟﹂イコール﹁租﹂という関係が成立する︒

四︑大王は知恩に﹁租﹂五百石︵史記︶を賜わり︑真聖王は貧女

に﹁穀﹂五百石︵遺事︶を賜わっているが︑大王と真聖王とが別人

で無いかぎり︑同一の女に別々の穀物を賜わったとは考え難い︒こ

こでもまた﹁租﹂イコール﹁穀﹂という関係を認めなければならな

い︒以上はもとより両者の記述を表面的に︑また単純に眺めた結果で

あるが︑今︑試みにこれを表にすると次のようになる︒

一︑米1穀

二︑粟I穀

三︑粟I租

四︑租I穀

﹁米﹂は﹁穀﹂に等しく︑一︲粟﹂は﹁穀﹂に等しく︑﹁粟﹂は﹁租﹂

に等しく︑﹁租﹂は﹁穀﹂に等しい︒

つまり︑﹁米﹂と﹁穀﹂も﹁粟﹂も﹁租﹂も︑すゃへて同一の穀物 ここでは三国史記に於いて﹁粟﹂と記しているものを︑三国遣事に於いて﹁穀﹂または﹁租﹂と記している例を掲げよう︒

先に學げたように︑遣事は﹁貧女養母﹂の記述の中で︑史記が

﹁粟﹂と記しているものに対して一方では﹁穀﹂︑他方では﹁粗﹂を

当てていた︒如何なる意図で僧一然がこのような区別を行なったか

知るよしも無いが︑他にも同様な記載があるのである︒

例えば︑新羅本紀︑文武王十年六月︵西暦六七○年︶の条に①

⁝・漢祇部女人︒一産二三男一女至賜一粟二百石圭

とあるが︑三国遣事︑文虎王法敏の項をみれば︑次のような記事

がある︒②

⁝・總章三年庚午正月七︒漢岐部一山級干︒一作二成山何干聿脾

一乳珪四子串一女三子︒国給二穀二百石↓以賞し之︒

總章三年は︑唐の高宗の時代であって︑西暦六七○年︑あたかも

文武王十年にあたる︒︵三国史記にも無いでは無いが︑三国遺事は屡々シ であるという結果になる︒これでは全く四種に区別した意味がないといわざるを得ない︒このような結果は︑わたくしが金富賦の﹁米﹂﹁粟﹂﹁租﹂に対する概念と︑僧一然の﹁穀﹂﹁租﹂に対する概念とを︑一応対等のものとして組み立てたものであるが︑矢張りそこには金富拭は金富賦としての︑そして僧一然は僧一然としての考えがあった筈である︒

一一一

(6)

.⁝五年秋八月・⁝穀不し登︒

六年春正月︒民多鑛死・給ン粟人一日三升︒至毛月至

とあるが︑三国遣事︑聖徳王の項の冒頭には次のような記載があ

る︒①

第三十三代聖徳王︒神龍二年丙午歳︑禾不レ登︒人民飢甚︒丁未

正月初一日︒至一七月三十日一救吟民︒給二租一口一日三升圭為レ式︒

終し事而計三十万五百碩也︒

神龍二年丙午は唐の中宗の元号であって︑西暦七○六年︑聖徳王

五年にあたる︒從って翌丁未の年は︑聖徳王六年である︒元来︑同

事件を取扱った記事であるとすることに異論は無いと思う︒

先の孝宗郎の子分達は︑﹁粟﹂を︵史記︶知恩に與え︑貧女には

﹁租﹂を︵遣事︶與えた︒ここではへ五年が凶作で鑑死するものが多

かったので︑六年には正月から七月まで︑一人当り一日三升の﹁粟﹂

吏記︶あるいは﹁租﹂︵遺事︶を給している︒

このように見たとき︑一方では︑金富賦が﹁粟﹂と記しているも ナの元号を用いている︶︒月は六月と正月で異っているが︑漢岐部の女が四シ児l三男一女lを生んだので︑賞を賜わったことは同じである︒前者では﹁粟﹂二百石︑後者では﹁穀﹂二百石となっているが︑これを先に︑孝宗郎が知恩に﹁粟﹂百石を︵史記︶︑貧女に﹁穀﹂一百石を︵遣事︶與えた場合と比較すると﹁粟﹂と﹁穀﹂は︑著者それぞれの決った概念によって使われていたと思われる︒

更に︑新羅本紀・聖徳王の條を見れば︑③

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶ のを︑他方︑僧一然は﹁穀﹂と書いたり︑﹁租﹂と書いたりしているが︑後者は一体何を基準として︑﹁粟﹂を﹁穀﹂と﹁租﹂に書き分けているのであろうか︒

ミノなお︑三国史記に﹁﹃穀﹄登らず﹂とあるものを︑三国遣事はこと

さら弓禾﹄登らず﹂と記していることに留意したい︒

前項では三国史記に記された﹁粟﹂が︑三国遺事の中で﹁穀﹂ま

たは﹁租﹂と書かれていることについて述べた︒しかも︑それらを

書き分けた根拠は不明ながら一致していた︒

ここでは︑前者と全く異った例を掲げよう︒先ず三国史記・列傳

・向徳の段である︒⑤

天宝十四年乙未︒年荒民鑛︒加し之以二疫痕聿父母飢且病︒母叉

発し擁︒皆濱二於死↓向徳日夜不し解し衣︒蓋し誠安慰︒而無一以為言養︒

乃到二静肉一以食し之︒叉坑二母擁圭皆致し之平安︒郷司報二之州↓州報二

於王↓王下︾教︒賜二租三百解︒宅一区︑口分田若干記︵下略︶

簡単ではあるが︑これに酷似した記事が三国遣事にもある︒⑥

向得舎知割し股供し親景徳王代

熊川州有二向得舎知者主年凶︒其父幾二於饅死宛向得割吟股以給養︒

州人具し事奏聞︒景徳王賜二租五百碩︽

︑︑さて︑三国史記・列傳と新羅本紀︵註⑤参照︶はともに向徳︑三国

︑︑遣事は向得と記しているが︑これらは同一人であると見て間違いは

(7)

ない︒列傳は居住地名を欠いているが︑新羅本紀︑③三国遣事はと

もに熊川州と書いている︒濱死の父に股︵牌肉も股の肉︶を割いて食

べさせたことも三者同様である︒また新羅本紀⑤では景徳王十四

年︑列傳では天宝十四年とあるが︑後者は唐の玄宗の元号であって

新羅では景徳王十四年に当る︒︵ともに西暦七五五年︶從って三国遺事

に記された景徳王代とは何等抵触しない︒つまり出虚は同一事件な

のであった︒最後に︑新羅本紀⑤では賜物の具体的記載を欠いてい

るが︑列伝では﹁租﹂三百解を︑三国遺事では﹁租﹂五百碩を賜わ

ったことになっている︒三百石︑五百碩という数量には相当懸隔は

あるが︑わたくしがここで問題としたいのは︑﹁租﹂についてであ

プ︵︾︒

先に列傳︑﹁孝女知恩﹂の場合︑大王は﹁租﹂五百解を︑三国遣事

﹁貧女養母﹂の場合︑眞聖王は﹁穀﹂五百石を賜わっている︒この

方式でゆけば︑向徳︵向得︶の場合もまた︑列傳︵三国史記︶の﹁粗﹂

は︑三国遣事では﹁穀﹂と書くべきではなかったか︒ここでは両者

ともに﹁租﹂である︒﹁租﹂と﹁穀﹂とが別箇のものとして書きわ

けられていたと考える以上︑このような記載の仕方は了解し難いの

である︒今まで述べたところは︑同一内容の事件を取扱かつた三国史記お

よび三国遣事のそれぞれに対する記載上の比較であった︒そして︑

それらは両者に記された﹁米﹂﹁粟﹂﹁租﹂|︲穀﹂等に関するものであ

った︒ここでは三国史記には触れず︑三国遣事の内部における﹁租﹂と

﹁穀﹂について述べよう︒

霊妙寺丈六⑦

善徳王創レ寺︒塑像因縁︒具載二良志法師傳↓景徳王即位二十三

年︒丈六改レ金︒租二万三千七百碩︒良志傳作ソ像之初成之費︒今雨存し

之︒善徳王が創った寺は︑新羅本紀・善徳王・三年春正月の條に﹁芽

皇寺成る﹂③とあるから︑恐らくこの寺であろう︒﹁塑像・因縁は

ともに良志法師の傳に載す﹂とあるから︑その方に眼を鱒じよう︒

目的は言うまでもなく︑﹁租二万三千七百碩﹂を調べることにある︒

良志使︾錫⑨

程良志未レ詳・祀考郷邑︑唯迩一於善徳王朝↓︵中略︶又善二筆札圭

露店︵店は廟︶丈六三尊︒天王像︒井殿塔之瓦︒天王寺塔下八部神

将︒法林寺主佛三尊︒左右金剛神等︒皆所陛塑︵塑の誤か︶也︒書一

露店・法林一一寺額至叉嘗彫一碑造一小塔一丼造二三千佛壬安一其塔↓

置一於寺中至致し敬焉︒其塑一霊店之丈六一也︒自入定︒以正受所対為二

操式賀以正受所対為操式の意味不明︶故傾城士女争運二泥土↓風謡云︒

来如来如来如︒来如哀反多羅︒哀反多英徒良︒功徳修叱如良来如︒

︵歌意不明︶至吟今土人舂相役作皆用し之︒蓋始二子此像成壱之︒費入二穀

二萬三千七百碩一︵下略︶

(8)

さて︑善徳王が芽皇寺を建てたのは︑王の三年︵西暦六三四年︶で

あり︑景徳王が丈六佛の金を改めたのは︑王の二十三年︵西暦七六四

年︶であるから︑その間︑一三○年の隔りがある︒何故に金の丈六

佛を塑像のそれにしたのか︑その理由は不明であるが︑その為の費

用は︑両者とも数量に関するかぎり一致している︒両者ともに二万

三千七百碩であるが︑前者はそれを﹁租﹂と記し︑後者はこれに

﹁穀﹂を当てているのである︒

さて︑今までわたくしは︑同一内容の記事であると見られる記述

について︑三国史記と三国遣事との相違を︑﹁米﹂﹁粟﹂﹁租﹂﹁穀﹂

等を通して眺めて来たが︑ここでは趣きを全く異にする︒それは三

国遣事の内部同志における﹁租﹂と﹁穀﹂との比較である︒

先ず︑考えられることは︑﹁霊妙寺丈六﹂の段において﹁租﹂二

万三千七百碩と記しておきながら︑﹁良志使錫﹂の段において︑同

一の内容である筈のものを︑何故に﹁穀﹂二萬三千七百碩と書かな

ければならなかったかということである︒そこに﹁租﹂を﹁穀﹂と

書き替える何等かの理由があったのであろうか︒一然は高麗・麟角

寺の僧侶である︒︵西暦一二○六年一二八九年︶佛教的説話を書くこ

とが︑三国遣事を著わす主目的であったであろうが︑それにしても︑

あまりにも穀物に対する知識が薄かったのではあるまいか︒二万三

千七百碩という数字を几帳面に合わせながら︑しかも﹁租﹂と﹁穀﹂

とを恰かも同一物のように取扱っているのである︒

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶

︒︒︒︒

今︑米・粟・穀・租を眺めるとき︑穀は他の三者と異った性格をもっている︒例えば天災l旱・鯉・霜・雷・大水等lによる被

害を示す場合︑三国史記は殆んど︑穀の字を用いている︒他に寂・

麦が数件あるのみである︒また︑田畑に栽培された姿︑言い換えれ

0︒︒

ば︑栽培植物の姿で記されているものには︑穀・麦・寂等の他に稲

・禾の二つが極く僅か見られるに過ぎない︒

O○0

米・粟・租の三者はすでに収穫された姿の穀物であるが︑穀のみ

は栽培植物の姿で記されていると同時に︑収穫された姿の穀物とし

ても記されている︒つまり二重性格をもっている︒

粗もまた二重の性格をもっている︒本来の意味である租税︑例え︒ノゾば凶作・識饅の場合における﹁租調を復く﹂という文句は屡々見ら

れるのであるが︑他に王の倉庫︵国庫︶に収められたl田租l穀

類としての意味をも兼ね具えていた︒例えば︑功労者に﹁租を賜﹂

い︑あるいは軍粗として﹁粗を運﹂んでいる︒

粟はアワではなくモミのことである︒例えば三国史記巻第四十八

・例傳第八に﹁百結先生﹂という段があるが︑その中に﹁︵前略︶歳

0︒◎︒︒︒︒︒◎将腸暮︒隣里舂レ粟︒其妻間一杵聲一日︒人皆有し粟舂乏︒我独無焉︒何

以卒陵歳︒先生仰レ天嘆日︒夫死生有し命︒富貴在し天︒其来也不修可レ拒︒

其往也不し可レ追︒汝何傷乎︵下略︶﹂とある︒これは歳の暮に百結先生

が極貧の生活をしていたことを表しているが︑この中に粟を杵で舂 一ハ

(9)

﹁米﹂と﹁粗﹂とについて︒

両者は︑ともに識饅が起った場合の賑給・救伽・賑Ⅲ︵意味同じ︶

に用いられたという記録を欠いている︒三国史記を通じて︑賑給に

は他の穀類がそれに当てられたと考えざるを得ない︒︵後に述べる︶

このことは︑﹁米﹂と﹁租﹂とはともにいわゆる大衆的な穀類では

無かったことを示している︒

左に﹁米﹂と﹁租﹂とが同時に登場してくる二つの例を掲げよ

う︒一は文武王二年春正月の條︑⑪他は神文王三年春二月の條⑫で

ある︒

::王命手二庚信與仁問良図等九将軍↓以二車二千餘両一載一米四千

石︒租二萬二千餘石↓赴蝿平壌苧⁝

右の引用文中に記された﹁米﹂と﹁租﹂が兵狼であることは申す

までもない︒﹁米﹂と﹁租﹂とを判きり書き分けている以上︑これ く風習を見ることが出来ると同時に︑粟がモミであったことをも知ることが出来よう︒しかし︑それが如何なる種類の穀物のモミであるかは判きりしない︒

米は恐らく稲米であると思う︒⑩

以下︑述べたいことは︑﹁米﹂﹁粟﹂﹁穀﹂﹁租﹂の社会経済的軽

重︑言い換えれば︑どの穀物が上等で︑どの穀物が下等であったか

ということである︒

等が実質的に異った形の穀物であったことは確かである︒しかもそ

の数量において︑﹁租﹂は﹁米﹂の五・五倍であった︒この点から︑

たとえば﹁米﹂は将校用︑﹁租﹂は兵用と観るわけには行かないで

あろうか︒そしてまた︑﹁米﹂が﹁租﹂より高級な穀物であったと

考えられないであろうか︒わたくしは︑このように思わざるを得な

い0次は神文王が夫人をむかえる時の︑いわば結納品に関するもので

ある︒

三年春二月︒以二順知一為二中侍圭納一一一吉喰金欽運小女一為二夫人幸

先差一伊喰文頴︒波珍喰三光定期↓以二大阿喰知常一納レ采︒幣帛十五

蟹︒米・酒・油・密・醤・鼓・臆・酷︵恐らく醗の誤りであろう︶一

百三十五髪︒粗一百五十車︒

右の結納品の内︑﹁米﹂は﹁粗﹂と区別され︑酒その他油・密・

クキホジシシオカラ

醤・鼓︵豆と塩をまぜて発酵させたもの︶等の調味料や︑肺︵乾肉︶︑鮪

等の副食物と同列に記されている︒また幣帛十五霞︵輿︶はこの場

合︑賓客に贈る禮物の帛︵絹・錦︶を意味し︑最も貴重な結納品であ

った︒次が﹁米﹂に始まり醜に終る二番目の一百三十五蟹︵輿︶︑最

後が﹁租﹂一百五十車であるが︑これは社会経済的に価値の高いも

のから低いものえの順を追って記されたものであると思う︒

例えば︑新羅・文武王は︑王の八年に︵西暦六六八年︶高句麗を滅

ぼしているが︑翌々十年︑最後の高句麗王・宝蔵の嗣子・安勝を高

○0句麗王に封じ︑|︲綾米二千石︑甲具馬一匹︑綾五匹︑絹細布各十匹︑

(10)

綿十五瀞︵斤両︑重さの単位である︶﹂を彼におくっているが︑⑬ここ

でも﹁糧米﹂二千石から︑綿十五稗にいたる順序は︑それぞれ社会

経済的償値の高いものから低いものえの順に擦っている︒

一つの記事の中に﹁米﹂と﹁租﹂が記され︑しかも︑そこに優劣

があらわれている以上︑わたくしは跨踏することなく︑﹁米﹂を

﹁租﹂より上等の穀類であると見る︒

﹁租﹂と﹁粟﹂とについて︒

﹁租﹂は賑給には決して用いられていないが︑﹁粟﹂は賑給に当

てられる︒両者とも﹁賞賜﹂に用いられることは同様である︒

先ず﹁租﹂と﹁粟﹂とが一つの記事に同時に表われた場合を掲げ

よう︒優劣を比較する場合︑最も判り易いからである︒

新羅・文武王が高句麗を滅した直後における論功行賞の條であ

る︒⑭

八年.⁝冬十月二十二日︒賜二庚信位太大角干︒仁間大角干至已

外伊痕将軍等並為二角干↓蘇判已下並増二位一級一大橦少監本得︑馳

川戦功第一・漢山州少監朴京漢︑平壌城内殺軍主述脱一功第一・

黒嶽令宣極︑平壌城大門戦功第一・並授一位一吉喰↓賜二租一千石↓

誓橦橦主金遁山︑平壌軍営戦功第一・授一位沙喰一賜二租七百石︽軍

師南漢山北渠︑平壌北門戦功第一・授二位述干︽賜一粟一千石一軍師

斧壊仇杷︑平壌南橋戦功第一・授二位述干↓賜二粟七百石辛假軍師

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶

比列忽世活︑平壌少城戦功第一・授一位高干↓賜二粟五百石↓漢山

州少監金相京︑岫川戦死功第一・贈位一吉喰︒賜租一千石︒︵下略︶︒

右を見ると︑一吉喰・沙喰を授けられたものには﹁租﹂を︑述干

・高干を授けられたものには﹁粟﹂を賜わった︒今︑新羅の職官制

によれば︑一吉喰は七等官であり︑沙喰は八等官である︒⑮述干︑

高干は職官志に見えないが︑この論功行賞の順序l太大角干︑大

角干︑伊喰︵別名伊尺喰・二等官︶︑蘇判︵別名迎痕・三等官︶︑一吉喰

︵七等官︶︑沙喰︵八等官︶︒最後の金相京は一吉喰を贈られ︑租一千

石を賜わっているが︑戦死しているので後廻しになっているlか

ら察するに︑沙喰より下級であったことは確かである︒このように

観た場合︑位の上のものには﹁租﹂を賜わり︑下のものに﹁粟﹂を

賜わったことになる︒そして︑﹁租﹂が﹁粟﹂より高級な穀類であ

ったことは︑八等官︑沙喰を授けられたものが﹁租﹂七百石を賜わ

00つたのに対し︑述干を授けられたものが︑数量的に多い﹁粟﹂一千

石を賞として受けていることからも推察出来るのではないであろう

か︒なお同王︑七年十一月十一日の記事には︑大奈麻江深︵十等官︶

が戦功により級喰︵九等官︶を授けられ﹁粟﹂五百石を賜わったとあ

るが︑⑯これは寧ろ例外であるらしい︒というのは︑同五十年秋七

月の條には︑﹁各授一位級喰至賜レ租有差︒﹂とあり︑⑯また︑同十三

年春正月の條には︑﹁拝二彊首一為二沙喰↓歳賜租二百石一﹂とあって︑⑰

級喰以上の位にあるものに﹁粟﹂を賜わった例を他に見出せないか

らである︒︵すべて﹁租﹂︶

(11)

なお今一つ気になることは︑新羅・憲徳王・十七年夏五月︵西暦八

︑︑二六年︶の記事に﹁牛頭州大楊管郡黄知奈麻妻︒一産一二男二女記賜二

租一百石匡⑬とあることである︒奈麻といえば︑十一等の官であ

り︑普通ならば︑妻が四シ児を生んだとしても﹁粟﹂を賜わるべき

ところである︒文武王十年六月︵西暦六七○年︶︑漢祇部の女が三男

一女の四シ児を生んだが︑賜わったものは﹁粟﹂二百石であった︒⑪

奈麻という位あるものの妻と︑庶民の妻との区別が﹁租﹂と﹁粟﹂

との違いになったのであろうか︒︵原則として大奈麻以下は﹁粟﹂を賜わ

る︶それとも︑両者の間に流れた一五六年という年月が︑そうさせ

たのであろうか︒それにしても︑﹁粟﹂の方は二百石であり︑﹁粗﹂

はその半分の一百石である点︑そこに穀物としての価値関係が窺わ

れるような気もするのである︒この事情はしばらく措くとして︑全

体的に眺めるとき︑﹁粗﹂が﹁粟﹂より高級な穀物であったことを

認め得ると思う︒

﹁粟﹂と﹁穀﹂とについて︒

先に﹁米﹂と﹁粗﹂︑﹁租﹂と﹁粟﹂について︑比較的容易にそれ

らの優劣を見ることが出来たが︑その原因は一つの記事の中に︑同

時に﹁米﹂と﹁租﹂︑そして﹁租﹂と﹁粟﹂とが同時に登場したこ

とにあった︒ところが﹁粟﹂と﹁穀﹂の場合はそのような記事は一

つも無いのである︒試みに饒鯉の際の﹁賑給﹂と︑王が賜わる﹁賜

物﹂とを両翼として論を進めて見よう︒

先ず例を飢鯉の場合に行なわれた賑給にとって見よう︒それらの

中︑﹁粟﹂と判きり記してあるものは次の数例である︒

逸聖尼師今⑲

十二年︒春夏旱︒南地最甚︒民飢︒移一其粟一賑一給之↓

聖徳王⑳

六年春正月︒民多機死︒給レ粟人一日三升︒至二七月↓

元聖王⑳

二年秋七月︒旱︒九月︒王都民銭︒出一粟三萬三千二百四十石至

以賑弓給之至冬十月︒叉出一粟三萬三千石一以給乏︒

四年︒::国西旱蝶︒

五年春正月::漢山州民談︒出し粟以鯛し之︒

六年三月︒大旱︒五月︒出し粟賑二漢山・熊川二州磯民至

右の中︑逸聖尼師今十二年の記載を持ち出したことについては︑

必ず反対があると思う︒從来︑新羅本紀について︑旗田巍氏は二十

一代昭知麻立干以前は全く信じ得ないとされ︑⑬三品影英博士は十

七代奈勿麻立干以後は︑歴史時代とみて差支えないと考えておられ

る︒⑳しかしわたくしは︑いわゆる﹁傳説時代﹂といわれているも

のについて次のように考えている︒ここに記された逸聖尼師今十二

年︵年表を見ると西暦一四五年︶はもとより信じられないが︑その内容

において捨て難いものがあると思う︒春夏連続で旱ならば︑秋の収

穫はなく従って飢鯉が起る︒そこで国が粟を放出して磯民を救う︒

(12)

このようなことは金富賦の時代︵西暦一○七五年二五一年︶には周

知のことであった︒わたくしは︑このような周知の事実を﹁傳説時

代﹂に持ち込んだ意図は︑例えば軍事・外交・政治面における出鱈

目な記事を正当化︑あるいは史実化することにあったのではないか

と思っている︒特に農業関係の記載において其の感が深い︒そこで

今の場合︑飢民に粟を放出したことを︑それが﹁傳説時代﹂の記事

であるからといって抹殺し去る態度には賛成しかねるのである︒す

なわち︑この賑給の記事は︑年代を引き下げることによって︑史的

価値あるものとして取り扱うことが出来ると解釈する︒︵絶対年代は

勿論考慮の餘地がある︶

さて︑賑給に用いられた穀物は︑右に掲げた﹁粟﹂六件と︑他に

﹁倉穀﹂と記されたものが二件あるにすぎない・左に掲げよう︒

招知麻立干②

︒◎二年︒::夏五月︒京都旱︒冬十月︒民飢︒出二倉穀一賑一給之塾

憲徳王⑳

九年︒::夏五月︒不し雨︒遍祈一山川圭至一秋七月一乃雨︒冬十月︒

︒◎人多飢死︒教ご州郡一発二倉穀一存仙埜

賑給の記録は三国史記を通じて三十二件見られるが︑その内訳は

新羅二十件︑高句麗十件︑百済二件である︒新羅の件数が多いこと

は︑朝鮮半島統一後︑二六七年間︑新羅王国が続いたことを想い起

せば直ちに理解出来ると思う︒言済は西暦六六三年に︑高句麗は同六六

八年に滅亡︶

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶ 次に述べるが︑賑給記録三十二件のうち︑﹁粟﹂六件︑﹁倉穀﹂二

件︑計八件を除いた二十四件は︑一体︑如何なる種類の食料を放出

したのであろうか︒飢鯉の際であるから︑食物であることだけは確

かであるが︑判きりしたところは不明である︒ただ不思議に思われ

ることは︑その表現の仕方が殆んど全部異っているのである︒やや

冗長になる嫌いはあるが︑左にそれらを列筆する︒

南解次次雄⑳︵新羅︶︒○◎○.十五年︒京城旱︒秋七月︒蟷︒民磯︒発二倉廩一救乏︒

婆娑尼師今⑳薪羅︶○○00.○0O二十九年夏五月︒大水︒民飢︒発二使十道︽開吟倉賑給︒

奈解尼師今⑳︵新羅︶0◎0O○三十一年︒春不レ雨︒至一秋七月一乃雨︒民飢︒発二倉廩一賑給︒

詑解尼師今︑薪羅︶0O○◎O四年秋七月︒旱蝶︒民飢︒発し使救弓伽之車

奈勿尼師今⑳︵新羅︶0○︒︒○︒◎十七年︒春夏大旱︒年荒︒民飢多二流亡屯発し使開一倉廩一賑し之︒

智證麻立干⑳︵新羅︶◎O○O七年︒春夏旱︒民磯︒発ン倉賑給︒

聖徳王⑳︵新羅︶○︒◎○四年⁝夏五月︒旱︒・・・冬十月︒国東州郡磯︒人多流亡︒発し使賑伽︒00◎0○五年春正月︒.⁝国内磯︒発一倉廩一賑之︒

元聖王⑪︵新羅︶

一一

(13)

十一年︒⁝・夏四月旱︒⁝・至二六月一乃雨︒秋八月︒損し霜害し穀︒0000O○十二年春︒京都飢疫︒王発二倉廩一賑一Ⅷ之圭

憲安王⑫︵新羅︶

二年︒夏四月︒降し霜︒自二五月一至二七月一不し雨︒0000○三年春︒穀貴人鍵︒王遣レ使賑救︒

景文王⑫︵新羅︶○︒○○0C七年︒.⁝秋八月︒大水︒穀不壹︒冬十月︒発し使分咳道撫問︒0︒00O十三年春︒民饒且疫︒王発し使賑救︒

閏中王⑬︵高句麗︶000O二年︒⁝・頁五月︒国東大水︒民饒︒発し倉賑給︒

慕本王⑬︵高句麗︶0O二年︒⁝・三月︒暴風抜し樹︒夏四月︒隈し霜雨︾雷︒秋八月︒発し使○○○○0○賑一Ⅷ国内磯民↓

太祀大王⑳︵高句麗︶◎OG00五十六年春︒大旱︒至夏︒赤地︒民磯︒王発し使賑伽︒

故国川王⑳︵高句麗︶0○0O十六年秋七月︒堕し霜殺し穀︒民飢︒開し倉賑給︒

西川王⑮︵高句麗︶

三年夏四月︒隠し霜害し麥︒六月︒大旱︒0000四年秋七月・:・民饒︒発し倉賑し之︒

故国壊王⑳︵高句麗︶

五年夏四月︒大旱︒秋八月︒蝮︒ ○○00O六年春︒磯︒人相食︒王発し倉賑給︒安蔵王⑬︵高句麗︶00.○五年春︒旱︒⁝・冬十月︒銭︒発し倉賑救︒安原王⑬︵高句麗︶○○00︒O六年︒春夏大旱︒発咳使撫弓伽饒民圭秋八月︒蝮︒O○○0○七年春三月︒民磯︒王巡撫賑救︒平原王⑳言句麗︶二十三年春二月晦︒星隈如レ雨︒秋七月︒霜雷殺し穀︒冬十月︒民

0○○00銭︒王巡行撫伽︒

古余王⑲︵百済︶○○○◎十五年春夏︒旱︒冬︒民磯︒発し倉賑仙︒

武寧王⑳言済︶︒○○O六年春︒大疫︒三月至一五月↓不雨︒川澤喝︒民銭︒発し倉賑救︒

右のように︑いわば無記名の賑給件数は二十四を数えるが︑︵粟六

◎◎件︑倉穀二件を差引いたので新羅十二件︑高句麗十件︑百済二件︶その中︑完

全に同じ表現の仕方は︑智證麻立干七年と︑閏中圭一年とに︑ただ

の一回﹁発し倉賑給﹂とあるだけである︒同じ賑給にしても︑他のも

○00O◎のは意識的に細部の表現を替えたのではないかとさえ思われる︒梢

之似ているものに﹁発し倉﹂または﹁発二倉廩一﹂が計二件︑﹁発し使﹂

または﹁遣レ使﹂が計九件見られるが︑それは賑給に当てられる穀物

の内容を記す必要が無かった程︑周知のことl賑給の場合は︑通

常しかじかの穀物が当てられるlであったからであろうか︒ここ 一一一

(14)

で疑問に思われることは︑聖徳王四年の條に︑﹁夏五月︒旱す︒⁝・0︒︒○0◎0O冬十月︒国東の州郡磯え︒人多く流亡す︒使を発して賑仙す﹂︒⑳同︒︒◎ビラ0○◎◎000五年春正月の條に﹁・⁝国内磯ゆ︒倉廩を発いて之を賑わす︒﹂⑳と◎00Oあるのに対し︑同︑六年春正月の條には﹁民多く餓死す︒粟を給う︒○◎○000○0O◎こと︑人一日に三升︑七月に至る﹂⑳とあること︒また︑元聖王二0000︒00○00年の條に﹁秋七月旱す︒九月王都の民磯ゆ︒粟三萬三千二百四十石0O○000000○◎O○00○0○○00○○を出し︒以て之を賑給す︒冬十月︒叉粟三萬三千石を出し以て之を

0︒給う﹂︒同五年の條に﹁⁝・漢山州の民磯ゆ︒粟を出して以て之を

ニギア◎00○︒○○00○○00鯛わす︒﹂⑳同六年の條に﹁..:五月粟を出し︑漢山熊州二州の磯民◎○0Oを賑はす﹂⑳とあるのに対し︑同十二年の條には﹁春︒京都飢え疫︒0000○00000◎む︒王倉廩を発いて之を賑仙す﹂とあることである︒

前者の場合︑四年︑五年の條は︑いわば無記名であり︑六年の條

は︑一人に対し一日三升の割で約半年にわたって﹁粟﹂を給わって

いる︒後者の場合︑九月と十月の二ケ月で計六万六千二百四十石の

﹁粟﹂を放出し︑五年︑六年にも﹁粟﹂を賑給にあてているが︑十

二年の條は無記名の賑仙であった︒

このように︑同じ王の時代に判きり﹁粟﹂と記されているものと︑

無記名のものとが列記してあるが︑これらを如何に解釈すべきであ

ろうか︒﹁粟﹂の場合︑一人当りの数量を記し︑あるいはまた全体

の数量を記しているのである︒賑給に﹁粟﹂を用いることが珍らし

かったので︑﹁粟﹂について特に数量まで記したと見るわけには行

かないだろうか︒﹁粟﹂︵もとよりアワではない︶より下等な穀類が賑

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶ 給の際︑用いられるのが一般であったと考えるのは無理であろうか︒

ひるがえって眼を﹁穀﹂を賜わった事例に鱒じよう︒

基臨尼師今⑪薪羅︶

三年︒.⁝二月︒巡一幸比列忽韮親問二高年及貧窮者主賜穀有差︒

調祇麻立干⑫︵新羅︶

七年夏四月︑養一老於南堂↓王親執し食︒賜二穀帛一有差︒

二十五年春二月︒史勿縣進一長尾白維↓王嘉吟之︒賜二縣吏穀↓

昭知麻立干⑫薪羅︶

十年⁝・二月︒幸一一一善郡至存ョ問鰈寡孤独圭賜障穀有し差︒

聖徳王⑬︵新羅︶

十一年⁝・秋八月︒封二金庚信妻一為一夫人↓歳賜二穀一千石記

景徳王⑭︵新羅︶

十四年︒::秋七月︒⁝・存藺老疾鰕寡孤独﹃賜一穀有し差︒

興徳王⑮︵新羅︶

九年︒::冬十月︒巡↓幸国南州郡圭存︲問耆老及鰈寡孤独至賜一一

穀布一有ン差︒

安蔵王⑯︵高句麗︶

三年夏四月︒王幸二卒本↓祀二始祀廟至五月︒王至し自一卒本↓所彦経

州邑貧乏者賜レ穀人一解︒

多婁王⑰言済︶

十一年.⁝冬十月︒王拳撫東西両部↓貧不彦能一自存一者︒給吟穀人

一一一一

(15)

二石︒

肖古王⑰︵百済︶

四十八年秋七月︒西部人面會︒獲一白鹿一献し之︒王以為峻瑞︒賜一穀

一百石一比流王⑲言済︶

九年春二月︒発し使導問百姓疾苦至其鰈寡孤独不能自存者︒賜二

穀人三石↓

砒有王⑳︵百済︶

二年春二月︒王巡弓撫四部王賜二貧乏穀一有し差︒

義慈王⑮︵百済︶

二年︒⁝・八月︒遣望将軍允忠壬領二兵一萬圭攻圭新羅大耶城↓

城主品程與一妻子一出降︒允忠霊殺し之︒斬二其首↓傳二之王都↓生獲男

女一千餘人︒分一居国西州縣一留吟兵守二其城↓王賞二允忠功一賜二馬二

十匹︒穀一千石︾

右に掲げた十三例の中︑四例︵詔祇麻立壬一十五年︒聖徳王十一年︒

肖古王四十八年︒義慈王二年︒︶は他の九件と趣きを異にしている︒

先ず︑聖徳王十一年の條であるが︑これは新羅が三国を統一した

時代の元勲ともいうべき太大角干︵日本でいえば太政大臣に当る︶金庚

信の遺功を穂えて︑その妻に夫人︵妃の次の位︶の位を授け︑これに

年俸として﹁穀﹂一千石を賜わったこと示している︒また︑義慈王

二年の條は︑将軍允忠の戦功を賞して馬二十匹と﹁穀﹂一千石とを

賜わっている︒ タデマツ調祇麻立干二十五年の條は︑史勿縣から長尾白維を進ったので縣の役人に﹁穀﹂と帛とを賜い︑肖古王四十八年の條は︑西部の人︑薗會という者が白鹿を献ったので﹁穀﹂一百石を賜わったと述べている︒この白維や白鹿はたしかに珍らしい動物ではあるが︑古くはシナでも日本でも祥瑞︵めでたいしるし︶であった︒試みに︑延喜式・治部省︑祥瑞の項を見ると︑これには大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の四種があって︑白鹿は上瑞︑白維は中瑞にあたる︒⑲︵因に日本では

シコフ穴門I長門l国司・草壁連醜経が白維を献じたので︑元号大化を白惟に改め

ている︶すなわち︑白雄も白馬もともに国家的瑞兆であって︑これら

を献上したのであるから﹁穀﹂を賜わったのである︒

他の九例は︑﹁高年および貧窮者﹂﹁老﹂﹁鰈寡孤独︲|﹁老疾鰈寡孤

独﹂﹁耆老および鰕寡孤独﹂﹁貧乏者﹂﹁貧にして自存する能わざ

る者﹂﹁鰈寡孤独自存し能わざる者﹂﹁貧乏﹂等であるが︑一括して

言えば︑社会的に生活困難な人々を賜物の対象としている︒前の四

者もそうであるが︑後の九者が王の善政を示すものであることは︑

申すまでも無いであろう︒食料を与える点において掴﹁賜穀﹂は

﹁賑給﹂の場合と同じではあるが︑その意図において全く相異して

いる︒︵後述︶

﹁賑給﹂の場合も︑百済・近仇首王・八年春の條に﹁雨ふらず︒

ヒサアガナ六月に至りて民磯え︑子を賓ぐ者有り︒王官穀を出して之を贈う﹂⑳

を想起するとき︑寧ろ善政であるといえよう︒子を實れぱ︑その子

は奴牌となるわけであるが︑王が子を買ったとしても︑l王の奴

(16)

牌の方が私奴牌よりも社会的経済的地位は上であったであろうI

矢張り奴脾には違いない︒磯鯉のため子女を責った記事は三件ある

○◎が後に述べる︒王が官穀を出して子を買った記録は︑これ一件であ

○Oるが︑特に官穀と記していることに留意したい︒先の孝女知恩は自○○○Oらの身体を責って脾となり︑富豪から米十餘石を得ている︒

さて︑賑給はもとより餓死を防ぐことが目的である︒從って︑放

出される食料は質の如何を問う餘裕はない筈である︒すなわち食え

るものなら何でもよい筈である︒ところが畿鯉が起っても︑何等の

策を施していない場合が屡々見られるのである︒左にそれらの例を

示そう︒

祇摩尼師今⑳薪羅︶

0◎十一年秋七月︒飛蟷害し穀︒年磯多咳盗︒

阿達羅尼師今⑰︵新羅︶

︒◎十八年春︒穀貴民飢︒

調祇麻立干︒⑳︵新羅︶

0O四年︒春夏大旱︒秋七月︒唄霜殺し穀︒民飢︒有下實二子孫一者望

眞平王⑳︵新羅︶

○O五十年︒夏大旱︒移し市画陽龍祈レ雨︒秋冬民磯︒責一子女壬

文武王⑫薪羅︶

0O十二年︒是歳︒穀貴人磯︒

景徳王⑭︵新羅︶

◎◎十四年春︒穀貴民磯︒

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶ 憲徳王⑬薪羅︶

十二年︒春夏旱︒冬飢︒

︒◎十三年春︒民饅︒寶二子孫一自活︒

興徳王⑮︵新羅︶

○O八年春︒国内大飢︒

峰上王⑳︵高句麗︶

○O七年秋九月︒霜雷殺し穀︒民磯︒

︒◎九年︒自二二月一至一秋七月一不陸雨︒年鱗︒民相食︒

小獣林王⑰︵高句麗︶

○○七年冬十月︒無し雪︒雷︒民磯︒

00八年︒旱︒民鱗相食︒

文杏王⑬︵高句麗︶

︒O八年︒百済民磯︒二千人来投︒

宝蔵王③︵高句麗︶

︒O九年秋七月︒霜看害し穀︒民磯︒

始祀温昨王⑰︵百済︶

四年︒春夏旱︒磯疫︒

0.三十七年︒夏四月旱︒至一六月一乃雨︒漢水東北部落鱗荒︒亡叉

高句麗一者一千餘戸︒狽帯之間空無二居人↓

己婁王⑰︵百済︶0O三十二年︒春夏旱︒年磯︒民相食︒

肖古王⑰言済︶

(17)

00四十六年秋八月︒国南︒蝶害し穀︒民磯︒

比流王⑳︵百済︶

0O二十八年︒春夏大旱︒草木枯︒江水渇︒至二秋七月一乃雨︒年饒

人相食︒

吐有王⑬︵百済︶

0○二十一年︒秋七月︒旱︒穀不し熟︒民鯉︒流一入新羅一者多︒

O○二十八年︒秋八月︒蟷害吟穀︒年鱗︒

東城王︑言済︶

◎O十三年夏六月︒熊川水脹︒漂弓没王都二亘星秋七月︒民磯︒

亡弓入新羅一者六百餘家︒

武寧王⑪︵百済︶

0○二十一年夏五月︒大水︒秋八月︒膿害し穀︒民儀︒亡ス新羅一者

九百戸︒右の二十四例は︑何ら策を施していない記事である︒内課は︑﹁多

盗﹂一︑﹁責一子孫一︵賓二子女一︶﹂が三︑﹁相食﹂が三︑﹁流亡﹂が四︑

他の十三例は何も記していない・鱗鯉は︑いわば偶発的なものであ

るから︑国に貯蔵食料が無い場合︑何一つ打つ手は無い・国の袖手

傍観は或は止むを得なかったといえるかも知れない︒しかし必ずし

も︑そうでは無いのである︒唯一の例ではあるが百済・東城王・二

十一年の條を挙げよう︒⑳

0O︑︑︑︑︑︑︑夏大旱︒民饅相食︒盗賊多起︒臣寮請一発し倉賑給一王不修聴︒漢

山人亡又高句麗一者二千︒ 右は明かに国には貯蔵食料が充分あったことを示している︒貯蔵

食料が充分にあったればこそ︑臣寮は﹁倉を発いて賑給せんことを

請う﹂たのである︒王が許さなかった結果は︑二千人の流亡となっ

てあらわれている︒

ここで先に挙げた賑給の記録三十二件と︑飢鯉の善後策を講じな

かった二十四件︑それと賑給を拒否した一件︑合計五十七件に対す

る賑給の比率をみると︑飢餓總数の約五十六パーセントに当る︒放

置した場合が約四十四パーセントもあったことを思えば︑賑給もま

た善政であるといわなければならない︒

ただ︑ここで考慮しなければならないことは︑﹁賑給﹂も﹁賜物﹂

も︑ともに穀類を与える点では同じであるが︑次の点において異っ

ているということである︒

先ず︑原則として︑﹁賑給﹂の場合は︑地域が広く︑また人数も

多い︒﹁賜穀﹂の場合︑地域も狭く︵無関係の場合もある︶人数もま

た少ない・

前者は︑いわば受身の態勢︵消極的︶の下で行なわれるのが一般で

あるが︑後者は恩恵的︵消極的︶に善政を行なっていることを国人に

示す意図が含まれている︒

前者では莫大な数量の食料を必要とするが︑後者では比較的少な

くて済む︒前者の場合︑生きるか死ぬかの瀬戸際であり︑賑給され

る食料も質より量が望まれるのは当然である︒

後者の場合︑どうせ物を賜うなら︑あまり粗末なものよりも︑少

(18)

﹁粗﹂と﹁穀﹂とについて︒

今まで述べたところによると︑﹁米﹂は﹁粗﹂より上等であり︑

﹁租﹂は﹂粟﹂より上等であり︑﹁穀﹂は﹁粟﹂より上等の穀類であ

った︒それならば﹁粗﹂と﹁穀﹂とは一体どちらが上等なのである

雲つか・

先ず賑給の場合︑﹁租﹂は絶対に使用されていない︒これに反し

○Oて︑﹁倉穀を出︵発として賑給した場合が︑わずかではあるが二回

あった︒︵前出︑九参照︶先にも説いたように︑賑給に充当する食料

は︑その質を問わないのである︒食えさえすれば︑どんな食料でも

良い筈である︒賑給の際︑一度も﹁租﹂が記されていないことは︑

﹁租﹂が﹁穀﹂よりも上等の穀類であったことを示すものではある

まいか︒

先に神文王の條で述べたように︵前出︑七参照︶︑﹁租﹂は﹁米﹂よ

り下等な穀類ではあるが︑王の結納品の中大量に加えられている︒

しかし﹁穀﹂は完全に除外されているのである︒唯一の資料ではあ しでも良い物を与えたいと思うのは人情であろう︒その方が受取る側においても有難味が増すというものである︒

右はもとより常識論かも知れないが︑このように考えた場合︑

﹁穀﹂が﹁粟﹂をはじめ賑給にあてられた食料より上等の穀類であ

ったことが判るのではあるまいか︒

﹁孝女知恩﹂と﹁貧女養母﹂︵鋳方︶

るが︑この大事な結納品の中に﹁穀﹂が加えられていないことは︑

﹁穀﹂が﹁租﹂に劣る穀類であったことを思わせる︒

更に︑賜物の場合を考えよう︵前出︑九参照︶︒先に挙げた十三例

の中︑九例は老人・病人・鰈・寡・孤・独・貧乏者等︑いわば社会

的に不幸な人々を対象に行なわれているが︑それらにはすべて﹁穀﹂

を賜わっている︒﹁粗﹂は一度も給與されていないのである︒しか

も﹁租﹂は凡そ功労のあった者への賞賜に用いられるのが一般であ

った︒例を左に掲げよう︒三国史記・列傳︑金庚信の段である︒⑯

::至一秋七月一日辛莞二子私第之正寝↓享年七十有九︒大王聞陸000O計震働︒贈二鱒彩帛一千匹租二千石︽以供一喪事↓給二軍楽鼓吹一百

人辛出葬一子金山原↓命示二有司一立レ碑︒以紀二功名↓叉定一人民戸一以

守老墓焉︒.⁝時大王謂一夫人一日︒今中外平安︒君臣高し枕而無し憂

者︒是太大角干之賜也︒惟夫人宜二其室家↓倣誠相成・陰功茂焉︒○○○○0000寡人欲彦報二之徳↓未雲嘗一日忘二子心↓其魏二南城租毎年一千石ユ

右は西暦六七三年︑金庚信が死んだ時の記事である︒鱒はいわば

香糞である︒大王︵文武王︶は金庚信に彩帛一千匹と﹁租﹂二千石を

贈るとともに︑最高の礼を霊して彼を弔い︑彼の妻︵智招︶の内助

オクの功に対しては︑南城の﹁租﹂一千石を毎年醜ることとした︒

また聖徳王十五年三月の條を見れば︑⑬000O出二成貞聯転王后︽賜一彩五百匹︑里一百結︑租一萬石︑宅一区↓

宅買一康申公旧居一賜吟之︒

とあり︑更に元聖王元年三月の條には︑⑮

(19)

0000︒◎○出二前妃具足王后於外宮至賜二租三萬四千石一

とあるように︑王后に賜わったものは穀類に関するかぎり﹁租﹂

であった︒

なお冒頭に掲げた孝女知恩は﹁和﹂五百石を︑︵前出︑一参照︶孝子

向徳は﹁租﹂三百石を︵前出︑四参照︶賜わったが︑母を養うため﹁股

肉を割いて﹂食べさせた孝子聖覚も﹁粗﹂三百石を賜わっている︒︑

知恩・向徳・聖覚等は庶民であるにも拘らず︑﹁租﹂を賜わってい

るが︑それは当時︑孝子節婦を国家的に高く評価する風があり︑そ

のような政策をとったからである︒

ここで少々気になることは︑聖徳王は十五年三月︑成貞王后に

﹁租﹂一万石の他︑彩・田・宅等を賜わっているが︑その四年前の

十一年八月には︑金庚信の妻︵智紹I彼が死去した後︑比丘尼になっ

たl⑯︶に﹁穀﹂一千石を毎年賜わることとしたことである︒︵前出︑

九参照︶一方は王后︑他方は尼であったとしても︑もとは新羅の元勲

金庚信の妻である︒そして庚信死去の際︑文武王から﹁租﹂一千石

を毎年賜わっていた筈である︒尼であったので格下げしたと思われ

ないでもない︒しかし︑十一年秋八月は﹁金庚信の妻を封じて夫人

と為し︑歳に穀一千石を賜う﹂⑬とあって︑一応︑夫人の位︵資格︶

を与えているのである︒因みに︑﹁夫人と為す﹂は︑現実に夫人と

したのではあるまい︒というのは智招は男五人︑女四人︑計九人の

子女を産み︑庚信が死んだ時は西暦六七三年︑聖徳王十一年は西暦

七一二年であって︑その間三十九年を経過している︒尼になってか ら約四十年であって可成りな高齢であった筈である︒一応夫人としたのであるから﹁租﹂を賜わった方が條が通るとは思うが如何なものであろうか︒聖徳王十一年と十五年という極めて近接した年月の間の記載であることから見て︑書き間違であるとは考えられない・何かそこに区別すべき理由があったのではあろうが︑わたくしには些か理解し難い︒

以上述べたように︑賑給の際︑﹁穀﹂をそれに当てた記載はある

が︑﹁粗﹂は絶対に用いられなかった︒賑給の性質上︑﹁租﹂は﹁穀﹂

より上等の穀類であったと見なければならない・

神文王の結納品目の中︑﹁粗﹂は大量におくられているが︑﹁穀﹂

は除外されている︒結納の性質上︑﹁租﹂は﹁穀﹂より上等の穀類

であった筈である︒

賜物の場合︑老人・病人・鰈・寡・孤・独・貧乏人等︵令によれ

ば︑六十一以上にして妻無きを鰈と為す也︒五十以上にして夫無きを寡と為

す也︒十六以下にして父無きを孤と為す也︒六十一以上にして子無きを独と

為す也︒とある︒巻十・戸令︶に賜わるものはすべて﹁穀﹂であったが︑

位の高い者に賜わるものは殆んど﹁租﹂であった︒︵例外的に金庚信

の妻の場合はあるが︶社会的に不幸な人々を対象とする賜物が﹁穀﹂

であって﹁租﹂を用いず︑高位高官を対象とした場合には︑﹁粗﹂

を用いて﹁穀﹂を除外している︒

以上から結論を出す場合︑わたくしは﹁租﹂が﹁穀﹂より上等の

穀類を意味していたと思わざるを得ない︒

参照

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