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(1)

著者 藤原 佐和子

雑誌名 基督教研究

巻 74

号 1

ページ 125‑146

発行年 2012‑06‑25

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013548

(2)

プラカイ・ノンタワシー再読

   アジアの女性たちの神学における翻訳の問題   

1

Prakai Nontawasee Reread: The Problem of Translation in Asian Women’s Theologies

藤原 佐和子

Sawako Fujiwara

キーワード

アジアの女性たちの神学、タイ北部、開発の時代、タイ・キリスト教団、エキュメニ カル運動

KEY WORDS

Asian women’s theologies, Northern Thailand, the era of development, Church of Christ in Thailand, the ecumenical movement

要旨

 本稿は、1970年代以降のエキュメニカル運動に参与し、タイの女性キリスト者とし て初めて国際的発言力を持ったプラカイ・ノンタワシーが1975年から1999年にかけて 発表した7点の論攷を再読することにより、彼女の記述がアジアの女性たちの神学に おいて主として採用される「物語を聞き取ること」「社会的分析」「神学的考察」とい う学際的プロセスを早くも実践したものであったことを示すものである。本稿におい て今一つの焦点となるのは、当該分野における翻訳の問題である。当該分野は幅広い 筆者と読者を得るために英語を共通語として採用しているが、アジアが多様な差異を 含むこと、筆者と読者にとって英語が第二言語である場合も多いことから、共通語で の記述と読解には独自の困難がある。ノンタワシーの母語であるタイ語を第三言語と する者が、共通語である英語で読み、日本語で記述するという本稿の試みは、この問 題に関する一つの実例を提供することになる。

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SUMMARY

By rereading Prakai Nontawasee’s writings from the 1970s to 1990s, this paper shows that her works have already adopted an interdisciplinary methodology, including “story-telling,” “critical social analysis,” and “theological reflection,” which are mainly endorsed in Asian women’s theologies today. This paper also focuses on the problem of translation in this realm. Although female Asian theologians adopt English as the common language in order to share their experiences and ideas among people with different linguistic backgrounds, “Asia” includes a wide range of differences, and English is not the first language for most Asian Christian women.

Because it is a challenge for the Japanese author, with Thai as a third language, to reread Nontawasee’s writings in the common language of English and consider its own difficulty of translation, this paper provides an interesting example of this very problem.

はじめに

 1970年代末期を発端とし、1980年代以降に本格化した「アジアの女性たちの神学」

に関する網羅的著作2においては認識されていないが、最初期にエキュメニカル運動 に参与し、タイの女性キリスト者として初めて国際的発言力を持った人物にプラカ イ・ノンタワシー( )がいる。1929年にチェンマイに生まれたノンタ ワシーはチュラロンコーン大学を卒業後、タイ人として初めてフルブライト奨学金を 獲得してシカゴのマコーミック神学校にてキリスト教教育の修士号を得た。彼女はタ イ神学校(Thailand Theological Seminary、現パヤップ大学マクギルバリー神学校)

校長、パヤップ大学人文学部長の職を歴任し、タイ・キリスト教団(Church of

Christ in Thailand、以下 CCT)、アジア・キリスト教協議会(Christian Conference in Asia

、以下

CCA

)、世界教会協議会(

World Council of Churches

、以下

WCC

)などに おいて幅広く活躍した。タイのプロテスタント教会は上座部仏教と比較して女性に実 質的な役割を与えてきたが、彼女たちによって記述された論攷の出版や分析がほとん ど行われなかったことは、ジョン・C・イングランド3(John C. England)の指摘す る と こ ろ で あ る。 そ こ で 私 は、 イ ン グ ラ ン ド や ハ ー バ ー ト・

R

・ ス ワ ン ソ ン

(Herbert R. Swanson)による先行研究においては不備の見られた論攷リストを改良 し、当該分野の試みとして1975年から1999年にかけて発表された7点の論攷を収集し た4。本稿は、本人の了承のもとにこれを再読することによって、ノンタワシーの論

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攷においては、当該分野で主として採用される「物語を聞き取ること」「社会的分析」

「神学的考察」という学際的プロセスが早くも実践されていたことを示そうとするも のであるが、そこで注意を要するのは翻訳の問題である。当該分野は共通語としての 英語の採用によって幅広い筆者と読者を得ようとするものであるが、「アジア」が多 様な差異を含み、著者と読者にとって英語が第二言語である場合も多いことから、共 通語での記述と読解には独自の困難があるのではないだろうか。ノンタワシーの母語 であるタイ語を第三言語とする私が、共通語で読み、日本語で記述するという試み は、この問題に関する一つの実例を提供することにもなるだろう。以下に、彼女の論 攷を時系列で再読する。

Ⅰ タイにおける日本人のイメージ(1975年)

 この論攷はノンタワシーがタイ神学校校長を務め、CCT女性部門を牽引し、世界 祈祷日(World Day of Prayer)の議長に選出された時期、Japan Christian Quarterly に発表された。ノンタワシーは始めにこの主題が彼女にとって非常に困難なものであ ると告白し、タイ人の視点を単独で代表することを避けるため、知人たちからの聞き 取りをもとに論攷を執筆している。

Ⅰ−1 戦前・戦中

 戦前のイメージについては3点に絞って紹介されている5。第一に、戦前のタイには 日本人が少なかったが、勤勉、友好的で、賢い人々であると考えられていた。第二 に、タイ・フランス領インドシナ紛争(1940年)が勃発する直前、多くのビジネスマ ンが国中を旅する様子が観察された。第三に、当時チェンマイにいた日本人は3名の 写真家と1名の歯科医であり、彼らは幸福に暮らし、社交的な態度を示していた。し かし、第二次世界大戦が勃発した際に彼らの多くは直ぐさま武装した。日本人のイ メージは突然に変わってしまい、タイ人は多かれ少なかれ不信感を抱くようになった と記されているが、武装した日本人がチェンマイの4名と符合するかについては明瞭 でない。大東亜共栄圏6への参加以降、タイ人は「非常に愛国的、国粋主義的、攻撃 的、規律の厳しい7」日本人と緊密に協力したが、その本音はアメリカ、イギリスの タイ人外交官・留学生たちを中心とする抗日の「自由タイ運動」に表れていた。しか し、戦場から徒歩で帰らなければならず、病、疲労、ホームシック、飢えに苦しんだ 日本兵に対しては同情を感じ、可能な時にはいつでもタイ人は彼らに助けを差し伸べ た8。ノンタワシーの聞き取りに対してパヤップ・カレッジの歴史学教授は、どこに でも良い人間と悪い人間がいるということを前提としながらも、タイ人は日本人を心

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から信じてはいないと述べている。「タイ人的な考え方をすれば、彼らは器用過ぎ、

狡猾だ。それはなぜか。ビジネスにおいて、日本人はタイ人に多くつけ込んでいるか らである9」。隠退牧師は戦中、礼拝の様子を日本兵に監視されたが、礼儀正しく、い つも非礼を詫びていた彼らについてよく躾けられた人々との印象を抱いている。聞き 取りの行われた1975年にタイに駐留していた米兵と比べ、日本兵は性的に乱れず、道 で酒に酔うこともなく、降伏も迅速であった。彼らが天皇に対して非常に従順であっ たことも、国王を敬愛する隠退牧師には尊敬すべき点として記憶されている。

Ⅰ−2 戦後から1975年

 若い社会科教師は、日本人に対する高度に文化的で、柔和で、芸術的な人々という イメージと、利潤追求に奔走するエコノミック・モンスターというイメージとの間で 葛藤し、後者に対しては不信と恐怖の感情を持つようになったと語っている。戦争で 悲惨な目に遭ったにもかかわらず、なぜ日本はこんなにも早く勢いを取り戻したの か。なぜ日本製品はタイの市場に溢れているのか。彼は、アジアの経済開発を牽引す る日本人資本家たちがタイに工場を建てて利潤を追求する一方、汚染された空気と水 に苦しむその土地の人々については無関心であることにショックを受け、これを「組 織的な非人間化10」と批判すると共に、このような開発に同意した前タイ政府の未熟 な判断を悔やんでいる。ツアーガイドとして働いた経験のある大学生が特に指摘する のは、タイで買春のために強い通貨を湯水のように使う男性旅行者の姿である。ノン タワシーも「それ(経済開発)がもたらした距離0 0はタイ人に、タイ人と日本人は互い に近しい存在ではないのだという風に感じさせた。日本人はアジア諸国と共通するも のを多くは持っていないように思われた。彼らは私たちが再度理解を試みなければな らない、見知らぬ人々となった11」と述べている。このようなイメージには、「開発の 時代」における日本製品・ブランドの氾濫がタイ人にとって「日本人のパワーが日常 生活に知らず知らずのうちにしみ込んでいるように12」感じられ、1972年のタイ全国 学生センターによる抗日運動においては激しい反発が示されたという背景がある13。 ノンタワシーは日本人のイメージを「賢いが狡智に長け、柔和であるが攻撃的で、親 切だが自分本位、友好的だが熱狂的なほどに国粋主義的である14」と総括しながら も、論攷の末尾においては日本人キリスト者との兄弟愛に言及し、1960年代以降、タ イの神学教育の再生に尽力した小山晃佑と望月賢一郎を「信仰の篤い、主の僕として 真に仕える、非常に真摯なキリスト者15」と賞賛し、彼らを

CCT

に派遣した日本基 督教団に対する感謝を示している。続く「奥田道子、河合ハナをはじめとする日本の 女性キリスト者との結びつきを讃美し、慈しんで筆を置きたい16」との言葉から理解 できるのは、聞き取りにおいて様々に語られた「日本人」が日本人男性とほぼ同義で

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あったということである。日本人が傲慢なビジネスマンとして一般に表象されること は、戦後の経済的利害関係によって生じた甚大な副作用の一つと受け止めることがで きる。

Ⅱ 与えるために捜し求める(1977年)

 1975年の

WCC

ナイロビ会合を総括する論集において、ノンタワシーはヨハネ1:

14を引き、「コミュニティーにおける対話」「他なる信仰とイデオロギーを持つ人々の 間において神は働いているのか」とのテーマに応答する論攷を寄せている。彼女がナ イロビ会合の初日に「自分の不得意な英語のせいで、誰も私を理解しないのではない かと考え、自信をなくし、怯えていた17」ために冷淡でよそよそしい態度を取ってし まったと告白していることは、後の活躍からは想像しがたいことであるが、彼女が対 話の努力を長く積み重ねてきたことの証の一つと見ることができる。

Ⅱ−1 タイ人の視点から見た「対話」

 ノンタワシーは始めに「対話(dialogue)」に相当する純粋なタイ語はなく、これ を表すにはパーリ語で「親しみのこもった態度での会話」を意味する “visasa” という 語を借りなければならないと述べる。彼女にとって対話とは「関係性を妨げるあらゆ る障害物があるにもかかわらず、意味の流動(

a flow of meaning

)のある場におい て、人と人とが応答すること18」であるので、辞書的に

dialogue

に相当する語よりも むしろ、「なじみ、親しさ、親しく交際すること、遠慮のない間柄であるとみなすこ と19」を意味するパーリ語からの借用語、ウィッサーサ( )を「最適な言葉の 一つ」と見なしたのであろう。タイ語に「対話」という語がないことの背景には、物 事をオープンに語ることを咎める控えめな態度、猜疑心と確信の無さがあるので、タ イ人にとって「異なる人々」に対し自身を表現することは向こう見ずなことであるだ けでなく、最も恐ろしいことですらある。よって、タイ文化に対話の概念を導入する ことは容易でないが、こうした不安を乗り越えるために役立つのは、他者を人間とし て自分自身のように扱い、相手に耳を傾けることによって養うことのできる「受容の 感覚」である。会合の聖書研究セッションは、国籍の異なる12名によって構成され た。彼女にとっては、そこにはただ早口で不明瞭なお喋りがあるばかりで「何のコ ミュニケーションもないように思われた20」が、翌日に猜疑心と恐怖心が解消された のは、3つのグループに分かれて話し合った際に真摯な関心をもって「聴かれる」と いう経験によってであった。対話の積み重ねによって、彼女はますます連帯感をもっ て他者の人生に関心を寄せるようになり、会合が終わる頃には参加者たちは初日のよ

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うな余所者同士ではなく、キリスト者の盟約(covenant)に結ばれた者同士となるこ とができた。

Ⅱ−2 対話の困難性

 ノンタワシーは「受容の感覚」から始まる対話の可能性に気付くだけでなく、対話 の困難性についても認識した。彼女はまず、「幾つかの言葉は、私たちが心の中に抱 いているものそのものを言い表したり、十分に翻訳したりすることができない。特 に、異なった文脈における言語は頻繁に誤解を引き起こす21」として翻訳の問題を挙 げ て い る。 彼 女 は ア メ リ カ 留 学 中、 長 期 休 暇 後 に 戻 っ た 学 生 寮 に お い て “hi,

stranger!” と挨拶され、自分は排除されているのだと考えて惨めな思いをしたことが

あった。「誤解を解くのには時間を要した22」とあり、

stranger

が中立的な語であるこ とから、彼女を狼狽させた挨拶は「ずいぶん久し振り」「長い間会っていなかったね」

との意であったようだ。続いて挙げられる例は、タイのプロテスタント教会の持つ 偏った自己理解と諸宗教理解の問題である。チェンマイのカトリック教会とプロテス タント教会は距離的に離れているわけではないが、僅かな交流しかない。「私は子ど もの頃、プロテスタント教会は完全に正しく、ローマ・カトリック教会は全く間違っ ていると教えられた。仏教徒とキリスト者の関係についても同じことが言える。キリ スト者は非キリスト者を『アウトサイダー』と呼び、キリスト者は『インサイ ダー』、ということになる23」。ノンタワシーは優越感を孕んだこのような理解を「不 健康な態度」と呼び、痛みを伴い、困難なことであっても、新しい何かを創造する喜 びと希望をもって対話を試みるよう勧めている。彼女はその方法として「住み込みの 経験(“live-in experience”)24」が効果的であるとして、若者が神学校に泊まって共に 食事し、遊び、歌い、お喋りをし、色々なことについて議論する場を提供する「週末 神学校」のプログラムを紹介している。彼女は「もし私たちが本当に人々と生きるな らば、私たちは互いの一部となることができる25」と確信し、その暁には人々はもは や余所者同士ではなくなると述べている。

Ⅲ 解放:タイ人キリスト者の見方(1980年)

 タイ神学校がパヤップ・カレッジの一部へと再編成された時期、ノンタワシーが幹 部 会 の メ ン バ ー に 名 を 連 ね る 世 界 改 革 教 会 連 盟(

World Alliance of Reformed

Churches)の Reformed World

に掲載されたこの論攷は人名、地名などの固有名詞を

多く含むため、タイ現代史の知識なしに読解することは難しい。

(8)

Ⅲ−1 解放、自由、民主主義とは何か

 ノンタワシーは冒頭において、「解放(liberation)」がタイ人のアイデンティ ティーの一部であると述べる。現チャックリー王朝においても、隣国が植民地支配に よって政治的自由を失う中、タイはその自由(外交上の独立)を維持してきたので、

「タイ人は国家の統治と諸外国との関係の双方において先見の明を持つ有能な国王た ちに感謝している26」。ラーマⅦ世の統治下であった1930年代初頭、フランス留学中 のプレーク・ピブーンソンクラーム、プリーディー・パノムヨンらによって結成され た人民党の立憲革命27によって、絶対王政は終わりを迎え、タイは立憲政治に向かっ ていくと思われたが、自由(民主主義)をめぐるその後の道のりは平坦なものではな かった。ノンタワシーが特に喚起する

People’s Revolution(1973年)は、一般にタイ

語では「10月14日事件」と呼ばれ、英語や日本語では「学生革命」とも称される歴史 的事件を指す。これは、憲法制定を求める学生運動が都市部の民衆を加えた大規模な 反政府デモへと発展し、1958年から続いた軍事政権が崩壊した事件である。タマサー ト大学から民主記念塔付近のラーチャダムヌーン通りにかけて40万人を超える人々が 集結したが、「突然、何処からか離陸した3機のヘリコプターが学生たちの上空に飛来 し、手当たり次第に発砲し28」、「武装した者と非武装の者との戦闘が続いた。それは 衝撃的な経験であった。国王陛下は軍部に対し、学生や罪のない人々を殺さないよう にと嘆願した29」。三暴君と呼ばれたタノーム・キッティカチョーン首相、ナロン・

キッティカチョーン大佐、プラパート・チャールサティエン元帥は国外へと追放され たが、事件後の混乱状態においてはあらゆる形態の暴力が激化し、「群衆は『私たち には自由がある』と叫んだ。しかし、そこに自由はなかった30」。この事件はタイ人 にとって「民主主義」「解放」を深刻に考える出発点となったが、当時の新聞によっ て日々指摘されたのは、人間を商品として売ること、金銭やドラッグの奴隷であるこ と、世論に迎合すること、莫大な富と長く書き連ねることのできる学位を成功や真っ 当な人間の証であると信じることといった「奴隷制度の新たな諸形態」であった。ノ ンタワシーは

CCT

第一教区(チェンマイ)の女性キリスト者たちによって企画され た、若者向けの職業訓練旅行に参加した少女から手紙を受け取り、そこに描かれた家 庭の困窮と絶望を「神が聴く嘆き」の例として紹介した上で、自国について以下のよ うに述べている。

個人的には、私の国は豊かな者がより豊かになり、貧しい者がより貧しくなり、

自分本位と無責任が人々の心を支配する間中、自身を民主主義であると言うこと によって、自身や国の人々を欺いてきたように思う。タイ人が「長い腕を持つ者 だけが届くことができる」という格言を信じている限り、世の中には特権階級が

(9)

存在し、貧しく無学に生まれることが非常な不運を意味することになる。高速道 路、実利主義的な開発や技術の進歩が全てを支配する間に、私の国は真の民主主 義を尚も保証することができるのか。そして、解放は可能なのだろうか31

Ⅲ−2 神の僕となることによる解放

 ノンタワシーは、これら奴隷状態からの解放は神に命ぜられた「私たち」の使命で あるとして、その方法を「自分自身への奴隷状態」からの解放、すなわち「物質主義、

政治的権力、裕福な社会的存在を越えた何か、他のあらゆる開発0 0に先立つ何か32」と しての神へ立ち帰ることに求めている。「開発」の一語は、舗装道路や電化といった インフラ整備によって開発の可視化が試みられる一方、その恩恵は国民に等しく配分 されず、格差の拡大を招いたことなどを指すものである。彼女は人々を自由になれる ようにと力づけ、他の人々をも自由へ導くことを助ける「力の源」、私たちを十全に 生きさせ、他の人々もまたそのように生きられるよう手助けさせる「命の源」として の神を語り、イエスがまず神と御国を捜し求めるようにと弟子たちを鼓舞したマタイ 6:33を、次いで出エジプト3:7を引き、「重要な事実は、自由のための力が神(御自 身)であるということだ33」と述べる。彼女の論攷では、時に聖書からの引用が連続 して詩的に並べられたり、信仰による確信を窺わせる情感的な文章が綴られたりして いる。以下にその一例を示す。

荒れ野において、神は彼らが自由に向かっての次のステップ、すなわち、約束の 地における生活に備えるために、責任あるコミュニティーへと成長するようにと 教えられた。彼らは自身の必要を満たすだけでなく、他者の必要を満たすことを 学んだ。彼らは他者を解放し、回復するために解放された。神がその民と結んだ 契約はそれ自体で完結するものではなく、契約によって、イスラエルは契約の民 となったからである(イザヤ42)。『救いは、主にこそある。』(ヨナ2:9)34

 ノンタワシーにとって神の僕となることによる解放は、他者と共に、他者のために 生きることと不可分であり、ガラテヤ5:13-14と思われる箇所を引いて、パウロもま た「解放」と「隣人愛」の不可分性に気付いていたであろうと述べる。彼女はかつて カンチャナブリー県のクワイ川近くの墓地で『戦場にかける橋』のアーネスト・ゴー ドンについて回想したことを思い返す。捕虜であったゴードンは日本軍による強制収 容所において、餅米と水による聖餐式を行う。「憎しみ、苦痛、窃盗、病、死の場所 であったところが、彼らをもう一度生きることの可能にする信仰の甦りという一筋の 光35」に変えられたという御業に、ノンタワシーは身震いさせられた。彼女に強烈な

(10)

印象的を与えているのは「死の谷」を越えて行くための信仰をもたらす第一運動者が 他ならぬ神であるいうことだ。彼女は

WCC

ケニア会合で歌った「アッバ、父よ、私 たちを自由にしてください」との一節を回想し、論攷を閉じている。

Ⅳ ピー・カとキリスト教の対峙(1987年)

 この論攷は、ノンタワシーがパヤップ大学人文科学部長を務めた時期に、

WWC

の 定期刊行物

International Review of Missions

に掲載された。人類学者、宣教師ら7名に よる専門書を引く学術的な内容となっているが、聖書の引用箇所は不明であり、該当 箇所も確認できない36。ピー信仰と宣教、悪霊とキリスト教を主題としているため、

内容を理解するためにはアルファベットに当てられたタイ語表記をタイ文字に戻す作 業が必要となる。一部にラーンナー語が使用されている点にも注意を要する。

Ⅳ−1 タイ北部の悪霊ピー・カ

 1986年、チェンマイ大学のタイ北部研究会において、北部の仏教徒の間にアニミズ ム、特に先祖霊に対する崇拝があることを学んだノンタワシーは、19世紀後半の北部 における宣教の先駆者ダニエル・マクギルバリー37(Daniel McGilvary)もまた、北 部の諸部族における精霊信仰の多大な影響力について言及していることを発見する。

記録によれば、1870年代からの10年間、ラーンナー38において毎年数百人がピー・カ

(phii-ka, )であると告発され、土地や村から追放されてチェンセーンへと移住し た39。放棄された土地に敢えて手を出す者はいなかったが、貴族であるジャオ(caw,

)は例外的にその土地を没収して利益を得ていた。ノンタワシーは社会人類学者 アナン・ガンジャナパンを参照し、北部において悪霊を体現したと信ぜられた人々が ピー・カと呼ばれたと説明している40。これは宿主の肩に見えずして乗る、タイ語で 言うところのピー・ポープ(phii-pawb or phii-ka, )とほとんど同じである。祖 先霊であるピー・プーニャー(phii puu njoa)は本来守護霊であるが、祭司や霊媒師 によって行われる定期的な供応の儀礼が怠られて生け贄を受け取っていなかったり、

見捨てられていたりするとピー・カへと変形する41。現地の人が高熱を出すとラオ族 において医療を担う “the spirit doctor”、モー・ピー42( )と総称される悪霊祓い が呼ばれ、ピー・カが位置していると信ぜられた上腕部を紐で固く縛り、今にも破裂 しそうなこぶとなるまで腫れさせる43。その後、誰の呪縛の下にあるかとの問いかけ に対する明確な返答を行うまで、患者は肉体的にも精神的にも苦しめられる。もし患 者が錯乱状態の中でその人物の名を叫べば、その者がピー・カと呼ばれ、患者は告発 されないが、どこか別の場所で再出発するために住まいを焼き払われ、木々を切り倒

(11)

され、田を押収され、家族全員と共に追放される。とりわけノンタワシーの興味を引 いたのは、「ピー・カに取り憑かれた者がキリスト者となった時、その人物が『健全』

あるいは正常にされる44」ということが、キリスト者と非キリスト者の双方によって 信ぜられていたという記録である。人類学者サンウアン・チョッスッガラットが北部 と東北部の宣教師に尋ねてみたことには、「ピー・カはイエスの力を恐れているので 宿主から去らなければならなかった45」ということであった。スワンソンが「後の改 宗者たち(1869年以降)のほとんどは、宣教師の薬によって癒された悪魔憑きを告発 されていた人々か、重度に慢性的に病んでいた人々であった46」と述べていることか ら着想を得たノンタワシーは、以下の二つの事件についての調査を行う47

Ⅳ−2 北部における二つの事件

 一つ目の事件は、ランプーンのバン・パンで起こった。熱病の一種が蔓延してほと んどすべての人が苦しんだが、ただ一人発症しない者がいた。人々はこの者の家族が ピー・カに取り憑かれていると疑い、子どもや年老いた女性を含めた家族全員が村を 追われた。チーク材の家は取り壊され、木々は引き抜かれた。マクギルバリーはピン 川のほとりでこの家族を見つけて援助を申し出た。彼は男たちに残された材木の破片 を集めて、小屋を建て始めるように言った。奉納の礼拝には近所の人々も招待された が、何人かの村人は小屋に上がらず、その下に座った。礼拝の後、「白い薬(“white

medicine

”)48」( )と呼ばれる薬が配られたことによって緊張と疑念は取り除か

れ、人々の間で災いをもたらす悪霊の風説も収まった。

 二つ目の事件は、バーン・トン・ガイと呼ばれる村で起こった。ノイ・スッパー

(Noi Supe)という男は、町にある宣教師の「サラ」(missionary’s sala in town)を訪 ねることに興味を持っていたが、キリスト教は異質なもの、宣教師は余所者と考えら れていたため、人々はこれを快く思わなかった。ノンタワシーは

sala

と記すのみで あるため、読者は困惑させられるが、スワンソンの他の論攷に “porch-like sala

(ʻPavilion’)”との表現があることから、これを「東屋、休憩所」を指す と特定で きる49。何度かの訪問の後、ノイ・スッパーは悪霊憑きを告発され、彼とその家族は ジャオによって生家を離れるよう命ぜられた。ある宣教師は東に100キロメートルの ウィアンパパオへ移ることを提案したが、村長が彼に種まきを許さなかったので、彼 は新しい土地でも再び苦しむことになった。後に天然痘が村に蔓延したが、キリスト 者グループの指導者たちは人々に予防接種をするよう訓練されていたので無事であっ た。ノイ・スッパーは人々に助けを申し出たが、人々は「ピー・カはワクチンを住ま いとする」と信じていたのでほとんどがそれを拒否した。その後、村長の一人息子が 天然痘で死んだ。村長はノイ・スッパーのところへ来て、彼の肩で泣いた。彼らは良

(12)

い友人になった。

Ⅳ−3 悪霊の再解釈

 ノンタワシーはこれらの事件について、第一に、告発された人々は法律、結婚、仕 事、自己同一性の完全な喪失に苦しみ、深刻なアイデンティティー・クライシスに 陥っていたと考える。宣教師による援助は人々が完全な人間性(full humanity)を得 るための助けとなり、新しいアイデンティティーの形成に役立ったが、ここでノンタ ワシーが否定的な意味で使われることの多い「『パトロン』としての宣教師50」とい う表現を用いていることには多少の皮肉が込められているようにも思われる。彼女は 第二に、人々に健全なパーソナリティをもたらし、コミュニティーを再生させたのは

「白い薬」そのものと言うよりも、問題を解決するために他の村々からやって来たキ リスト者たちという「人による支援」であり、第三に、こうした人々の自尊心は新し い信仰と希望によって取り戻されたと考える。第四に、宣教師たちからの金銭的援助 は、告発された人々が仕事を得て自立するための確かな手助けと生活保障となり、第 五に、ノイ・スッパーと村長のエピソードは関係性の再確立において愛がどのように 働くか、キリスト者の配慮が互いに理解し合い、気遣い合うことへのきっかけをどの ようにもたらすかを示すものであるとして、彼女はこれらの事件にキリスト者-非キ リスト者間の平和的な生活の一致を見ている。彼女は「人間から神の子どもというア イデンティティーを失わせる51」悪霊が現代においても多くの人々の命に攻め込み、

取り憑いているとし、「神の子どもたちの心からの必要は、彼らを強めて、再び『全 き』存在とする力の源によって下から支え上げられる。これはイエス・キリストの福 音の根本であり、本質である。それは昨日と同様に、今日のチャレンジでもある」と 結論した。

Ⅴ 相互の連帯によるはたらき(1989年)

 この論攷は、アジアの女性たちの神学の専門誌

In God’s Image

に発表されたもので ある。ここではマルコ6:30-4252、ヨハネ4:1-42に加え、アユッタヤー時代に作られ た金言集『クローン・ローガニット集』の一節が引かれている。難読語については脚 注に記した53

Ⅴ−1 五千人に食べ物を与える

 マルコ6:30-42においてノンタワシーが始めに注目するのは、弟子たちとイエスの 感覚のコントラストである。弟子たちが人々を解散させようとしたのは、時間、距

(13)

離、費用の点から言って合理的なことであったし、イエスがすでに人々に霊的な糧を 与えていたので、身体的に必要な糧を得ることはその者たち自身の責任であると考え ていたかもしれないが、いずれにせよ、そこには憤りのニュアンスがあった。これ対 して、ノンタワシーはイエスが人々に感じた深い「憐れみ」こそ、相互の連帯による はたらき(mission)の出発点であると考え、「相互の連帯によるはたらきは、全体的0 0 0 な人間性0 0 0 0(full humanity)のホーリスティックな性質の理解の中に置かれるべきであ る54」と述べる。イエスの行ないは、第一に、人間をトータルに扱うということに他 ならないので、例えばタイの女性キリスト者が売買春について行なった「立ち向かう には(この問題は)大き過ぎ、難しすぎます。私たちにできる唯一のことは、彼らの ために祈ることです55」との発言は、ノンタワシーにとっては部分化した人間理解の ように感じられた。そして第二に、食料に限りがあるということを十分自覚していた にもかかわらず、分け合うことによって人々に食べさせるということをイエスは決し て諦めなかった。弟子たち対する「行って、どのくらいのパンがあるのか見てきなさ い」との言葉の今日的な意味は、資源に限界のある困難な状況が、連帯、分かち合 い、パートナーシップを妨げたり弱めたりするものではなく、神が私たち全員に今も 呼びかけ続けているはたらきに対する真摯なコミットメントをもって、その資源を開 発したり増やしたりする方法を捜すべきとの示唆である56。そして、もう一つの今日 的意味は「しばしば見過ごされ、軽んじられているローカル・リソース(local

resources

)を捜す57」ことである。「私はこのことを、私自身のコンテキスト的な背

景から言うのです。タイで私たちはしばしば、西洋に目を向けたり、『最良のものは 西洋から来るのみである』と考えたりする傾向にある58」。この着想は、数年前に彼女 が「タイ人発祥の地である」南詔や大理を旅し、その地における社会科学や人類学の 重要性に気付き、「手の届く範囲にある『宝』をどれだけ等閑視してきたかを実感59」 したことをきっかけとしているが、例えばイングランドが「雲南にあるタイ人の起源

(と、彼女が信じる0 0 0 0 0 060」と記しているように、いわゆる「南詔タイ族説」は現在否定 されている。これが1930年代に芸術局長ルアン・ウィチットワータカーンによって提 唱され、ピブーンのタイ・ナショナリズムの代名詞の一つともなっている「大タイ主 義」に由来し、「タイ族は漢民族よりも古い由緒ある民族である61」などの命題を主 張するものであったことは、今日の再読に当たっては注意を要する点である。

Ⅴ−2 イエスとサマリアの女

 ヨハネ4:1-42を引くに当たっては、ノンタワシーは当時のユダヤ人男性は絶対に 公衆の場において女性に話しかけなかったこと、殊にこの女はユダヤ人が関わること を禁じられているサマリア人であったことに触れ、同じようにイエス・キリストの福

(14)

音の光のもとで批判されるべきタイの慣習を示すものとして「男は象の前足、女は象

の後ろ足」( )という有名な行を引いている。

ノンタワシーの解釈によれば、この物語においてイエスはあらゆる種類の差別と偏見 を打ち壊しているので、ある文化が人々に対して何を行い、何を行い続けているかは 問われなければならないし、それが解放的な要素を持つのかについても併せて探求し なければならない62。イエスの言葉によって女は自己を見つめ、葛藤することによっ て彼女自身となり、彼女自身を育んでいくようにと解放された。イエスの受容と関係 性のプロセスを通して、彼女は与えられた賜物を十分に用いていけるように欠けたと ころのない者とされ、ついには「彼がメシアなのではないか」との思慮深い問いへと 導かれた。ノンタワシーが「使命(mission)は、主イエス・キリストとの出会いに よって始まり、神の栄光を現し、人間性の全体性に資する、彼ら彼女らの(

his/her

) 文脈における人間の経験0 0 0 0 0の葛藤の中に起こる。それが、文化の別に関係なく、神がど の時代、どの場所においても支配しているということの証左なのである63」と述べて いることは、アメリカの初期フェミニスト神学において「女性の経験」が強調された ことと比較してジェンダー中立的である。

Ⅵ WCC 草稿「信仰の問題としての経済」に応えて(1992年)

 この論攷は、ノンタワシーが

CCT

副議長、

CCA

最高幹部会のメンバーであった時 期に、1992年に

WCC

中央委員会において採択された「すべての人にとっての豊かな 人生─キリスト教信仰と今日の世界経済─」の草稿、「信仰の問題としての経済─経 済生活に関するエキュメニカルな宣言─」(以下、WCC草稿)のレビューとして

Reformed World

に収録されたものである64

Ⅵ−1 貧富の格差の拡大

 ノンタワシーはまず、タイにおいて貧富の格差の拡大を招いた原因として、第一次 国家経済開発六カ年計画(1961年)に言及する65。1958年のクーデター以後のサリッ ト政権は「開発」( )を掲げ、首相に政治権力を集中する権威主義体制を敷い た66。こうした開発独裁体制を彼女が1992年の論攷においても引き合いに出すのは、

この計画がタイの歴史研究において「現在にいたるまで国家レベルの開発計画の根幹 をなして67」いると指摘され、「政治的にも経済的にも今日のタイの原点はこの時代 にあった68」と捉えられているためである。ノンタワシーは

WCC

草稿が大量消費主 義について強調しなかったことは期待に反することであると述べ、消費文化が「物」

(“things”)は人間よりも価値のあるものであるという物質主義的な感じ方を徐々に社

(15)

会にしみ込ませていることに対して警鐘を鳴らす。「タイでは、消費文化の力は、両 親が娘を売春宿のオーナーや仲介人に売り渡すほどに強い。こうしたことは、サバイ バルのために、場合によっては貧しい女性たちや子どもたちが彼らの赤ん坊を売らな ければならないような社会を作る。子どもたちや若者は物を得るために自らの体を売 るように動機付けられている。不平等で、不適切に管理された経済的開発は人々か ら、神から授けられた尊厳を奪い、彼らを商品に過ぎないものにまで貶めている69」。

こうした記述の背景には、性産業もまた「タイ国観光振興機構70」設置を中心とした サリット政権の観光促進政策によって追い風を受け、ベトナム戦争下の米兵慰安所

(Rest and Recreation)を経て繁栄を続けているという事情がある。

Ⅵ−2 ジェンダーと経済

 貧しい人々における経済的圧迫の影響を示す例として、ノンタワシーは、暑期に起 こる干ばつの影響によって農業だけでは生計を立てられなくなった東北部の人々によ る、バンコクなどの大都市への集団的移住を挙げている71。上述のように政府はツー リズムを奨励しているので、地方の女性たちは観光産業での職を求めてバンコクに来 るが、その多くは最終的に性産業や違法な工場で働くことになる。国内や現地の仲介 人に良い給料を約束されて香港、台湾、日本、ドイツに渡る人々もいるが、彼ら彼女 らは生活にリスクを負った移民労働者となる場合が多い。ノンタワシーがあるタイ人 女性から聞いた話によれば、外国の女主人からの虐待は窮屈な住居や足りない食事よ りも更にひどいものであった。CCA、香港とフィリピンの

NCC

が協力し、香港の フィリピン人移民労働者のために働いているが、彼女は香港で働くタイ人女性が、英 語が流暢でないことを理由に加えて抑圧されている現状をも示唆した72

Ⅵ−3 市場の役割

 続いてノンタワシーは、台湾、韓国、日本、オーストラリア、アメリカの貿易業者 や企業による投資を奨励するタイ政府の自由経済政策を既述した「長い手を持つ者た ちは幸せである。彼らは欲しいものに手が届くから73」との格言に譬えているが、こ れについては捕捉を要する。戦後のピブーン政権は経済復興の一環としてタイの工業 化を目指したが、当時の経済活動は西洋人や中国人などの外国人に独占されており、

タイ人の担い手はわずかであった。そのため「経済ナショナリズム」によって民族資 本の育成が図られたが、当初の試みが国営企業を中心とする国家主導型であったこと から軍部との癒着、汚職の温床化などが生じた74。対して、開発の時代における工業 化は民間主導型の経済発展を目指したため、政府の役割をインフラストラクチャーの 整備に限定し、「産業投資奨励措置を講じて、外資の積極的な導入75」を行ったので

(16)

ある。タイにやって来た外資系企業、多国籍企業、政府で働く外国人向けのサービス や娯楽として多くのリゾートやスパが建設された。外国人労働者の流入による最も悪 い影響の一つに、ゴルフコースの開発がある。農地であった何百「ライ76」(“

rai

”)も の土地は売られ、何トンもの化学肥料、数百ガロンの水が日々使用される。政府や諸 外国のエリートの要求に応えるために苦しんでいるのは土地を失った農民や、化学肥 料に汚染された水を使わなければならない近隣の住民である。彼女はどのように政治 的自由と経済的自由とを組み合わせることが正義、参加型、持続可能な政治経済秩序 をもたらすのかとの

WCC

草案の問いに対して、「社会における脆く傷付き易いグ ループの需要に対する特別の配慮77」が不可欠であると回答した。

Ⅵ−4 軍国化

 最後に、WCC草案における「軍事文化は腐敗、権力の濫用を生み、人権、人々の 参与、政府による説明責任といった指針を脅かす」との文言は正にタイの現実を示す ものであるとして、ノンタワシーはある政治的事件について語り始める。「軍部の トップの男性」「民主化支持運動」のような抽象的な表現による簡略な説明は読者に 対する配慮であると考えられるが、少なくともこの論攷においては読者を理解から遠 のかせている。ここで語られているのは、タイ語で (暴虐の5月)、英語

Black May

78と呼ばれる事件である。1991年のクーデターの実質的指導者であった

軍部の総司令官スチンダー・クラープラユーンは、首相に就任しないとの発言を選挙 後に覆して首相となった。これに対する大規模な抗議集会が5月に開かれたため、首 相を支持する軍部が人々に向かって発砲し、建物やバスは燃やされ、抗議運動の指導 者は逮捕された。スチンダーは、抗議運動を国家、宗教、国王に対する攻撃であると 主張し、政府の息のかかったテレビ局は抗議者たちによる破壊活動のみを報道した が、CNN、BBCなどの外国メディアが取り上げた軍部による暴力行為の有様は直ぐ さま録画されて国内に出回った79。ノンタワシーは先に述べた諸要素すべての結びつ きに対する危機感を込めて、ビルマ(ミャンマー)の伐木搬出業に最初に投資した

ASEAN

加盟国はタイであったが、この投資はミャンマーの支配勢力である国家法秩

序回復評議会の武器の購入、軍人の雇用につながっていたという事件を紹介してい る。「このような投資は本当に、ビルマの人々の死への投資である。だから、私たち はここに軍国主義と経済活動との緊密な関係を見るのだ80」。

Ⅶ 女性を力づけるイエス(1999年)

 この論攷は、Programme for Theology & Cultures in Asia(PTCA)の会合の開会礼

(17)

拝にて行なわれた説教に基づくものである81。この頃、ノンタワシーはすでに

WCC

の職を引退していたが、女性や子どもの人権擁護活動には継続して関わり、パヤップ 大学マクギルバリー神学校で教え、アジア・キリスト教高等教育連合(

United Board for Christian Higher Education in Asia)のメンバーであった。ノンタワシーが按手を

受けた時期についての本人の記憶は定かでないが、この論攷において初めて

Reverend

との表記が見られる。この論攷では、アジアの女性神学者2名についての言

及がある。

Ⅶ−1 安息日に、腰の曲がった婦人をいやす

 ノンタワシーはルカ13:10-17を引き、イエスが「不」をどのように癒した かについての物語は「イエスがどのように女性を力づけたか」という点において非常 に興味深いものであると述べている82。女は宗教的コミュニティーにおいて名を持た ない女であり、病気のために18年間苦しんでいた。当時の伝統では、男性は公衆の場 で女性に話しかけるべきでないとされていたにもかかわらず、イエスは女のところへ 行って話しかけ、彼女に触れた。彼の行いの最も偉大な点は、彼が安息日に彼女を癒 したということであった。イエスが女を身体的にも霊的にもまっすぐにしたことは 人々の間に讃美をもたらし、彼は彼女がアブラハムの娘であり、彼女が解放されるに 相応しいことを宣言した。

Ⅶ−2 タイ北部のメー・ヨッドとメー・ママラ

 次いでノンタワシーが語るのは、「イエスがどのように女性を力づけたか」に関す る北部における事例である。北部には女性らしさ(womanhood)の模範であり、人 生を十全に生きたとして覚えるべき二人の女性、メー・ヨッド(

Mae Yod

)とメー・

ママラ(Mae Mamala)がいる。メー( )は「母」を指す語であるが、名誉ある女 性に対する敬称としても用いられる。メー・ヨッドは田舎の女の子で、町から30キロ 東の小さな村に住んでいた。マクギルバリーが彼女の村の教会を訪れた時に13才ほど であったヨッドは、歌ったり読んだりできるようになりたいと考えていた。ある日曜 日、ヨッドはマクギルバリーの象の背中で飛び跳ねていたが、彼は彼女が揺れに酔っ て嘔吐するまでそれに気付かなかった。マクギルバリーはヨッドに家に帰るように 言ったが、彼女がそれを頑に拒んだので、マクギルバリー夫妻はヨッドを他の少女た ちと共に読み書きや自分で物事を考えることを学ばせるために家に住まわせた83。 メー・ママラは町から45キロほど離れたフアイ・ナーム・カオという小さな村から、

宣教師のキャンブル夫妻と共に歩いてやって来た。ママラはダーラー女子学校へ送ら れ、最初期の女性ピアニストの一人となった。彼女は後に、ピアノの練習中、手を軽

(18)

く叩かれることがどれだけ辛かったかを子どもたちに語っている84。ノンタワシー は、彼女たちの強さを秘めたライフストーリーに示された、社会的、文化的、伝統的 な障壁のただ中でどのように最後まで戦い抜くかを、強い自己決定、粘り強さを、そ して、行動の原動力となった大きな心の切望を讃美しているが、女性たちを取り巻く 困難に対する眼差しを欠いているわけではない。

彼女たちの時代は、読み書きのできる女性、更には楽器を演奏することのできる 女性は、大きな畏敬の眼差しで見られていましたが、同時に、男性たちからの猜 疑と侮蔑の目で見られてもいました。家庭の境界線を飛び越えて、公の世界へ飛 び出すことは、個人の役割モデルの非凡なシフトでありました。そうした行動 は、女性にとっては最も並外れたものでしたし、女性がプロフェッショナルとな ることは考えられないことでした。メー・ヨッドとメー・ママラが伝統的なやり 方の足枷から解放されたという事実は、全ての女性に対する賞賛の理由となるべ きであるし、彼らの創造的な抵抗のために力を授けた神に感謝する理由ともなる べきものです。しかしながら、悲嘆の声の原因というものもまた、決して見過ご されるべきではありません85

Ⅶ−3 神と協同する働き手

 ノンタワシーは次に、スリランカのランジニ・レベラ(

Ranjini Rebera

)を引いて

「生まれてから死ぬまでの間、すべての人間の中に息づいている人間力(human

force)

86」の素晴らしさに言及する一方、グローバリゼーションの時代における力の

濫用の問題について語り始める。タイ社会に蔓延する苦しみの一例に、北部で

HIV

に苦しむ女性たちの姿がある。北部の女性たちは家族に対するケアを最も求められる 立場にあるので、彼女たちはまず病んだ夫の世話をしなければならず、夫が死んだら その祖父母や子どもたちの世話をしなければならない。一家の稼ぎ手がいなくなった らその損失を補うために働き、そして最後に彼女たちは夫から

HIV

に感染した自身 の世話をしなければならないのである。ノンタワシーは、酷使され、自身の為したこ とではないことによって苦しむ女性たちを悼むと同時に、イエスによって与えられた 言葉が、尚も私たちを力づけていると語る。「わたしの父は今もなお働いておられ る。だから0 0 0、わたしも働くのだ0 0 0 0 0 0 0 0」(ヨハネ5:17)というイエスの言葉に励まされ、彼 女は「私たちは神と働く0 0 0 0ための協同的なエージェント(

the cooperative agents

)とな る。そして、私たちは怖じ気づかせられたり、愕然とさせられたりすることはないの だと宣言する87」と語る。彼女がインドのモニカ・メランクトン(Monica Melancthon)

の言葉、「私が今日生きている世界は、完成し終わった創造の世界なのではない。そ

(19)

れはまだ創造の過程におり、神の愛の神秘は、神の共同の創造者0 0 0 0 0 0 0 0(co-creators with

God)となるよう私たちに呼びかけている

88」という言葉を引いてこのメッセージを

終えているように、神が今も生きて働いているとの確信は、神と人々と共に長く働い てきた彼女を支える確かな動機付けとなっているのである。

おわりに

 再読から得られた考察を以下に短くまとめたい。第一に、ノンタワシーの論攷にタ イ、アジア諸国の政治、経済、社会に関する言及が多いことは、EATWOT女性委員 会によって提起された帰納的・共同的・包括的方法論に含まれる「物語を聞き取るこ と」「社会的分析」「神学的考察」、また、1972年に東南アジア神学大学院連合の神学 教育ガイドラインとして採択された神学における「批判的アジア原理(The Critical

Asian Principle)

89」が積極的に導入されているものと見ることができる。第二に、再

読においてはアジアの女性たちの神学における共通語の利便性が実感される一方、ノ ンタワシー自身によって対話の困難性の一例として「翻訳の問題」が指摘されたよう に、タイ語で思考され、共通語で書かれた彼女の論攷を読みこなすことは決して容易 ではない。タイ語、ラーンナー語が適切でない形で写音されたり、固有名詞が省略さ れたり、出典が示されなかったり、タイ現代史の知識が前提とされたりする点は、読 解の難易度を上げていると言える。第三に、晩年の論攷において彼女が尚も、「神と 協同する働き手」となることを自身と人々に対して語っているということには、彼女 の思想の核心が表れているように思われる。2011年の暑期と雨期にノンタワシーの自 宅を訪問した際、「女性たちの0 0 0 0 0神学において一番大切なことは何ですか」との私の質 問に対して、彼女は「大切なのは、男性と女性が共に働くことです」と答えた。彼女 の人生を凝縮したかようなシンプルな一言は、当該分野のジェンダー中立性を示すと ともに、タイと同じくキリスト者が少数者である日本に生きる男性たち、女性たちに 対しても一筋の希望の光を指し示すものである。

1 本稿は、公益財団法人三島海雲記念財団より受けた平成23年度(第49回)学術研究奨励金に基づく研 究成果の一部として、2011年度日本基督教学会全国大会(於同志社大学)にて行った研究発表を加 筆・修正したものである。本稿では便宜的にThai peopleを「タイ人」と訳した。

2 Hyun Kyung Chung, Struggle to be the Sun Again: Introducing Asian Women’s Theology, SCM Press, 1991. Kwok Pui-lan, Introducing Asian Feminist Theology, Sheffield Academic Pr, 2002.

(20)

3 John C. England, Asian Christian Theologies: A Research Guide for Authors, Movements, Sources, Orbis Books, 2004, p. 503 and 509.

4 イングランド、スワンソン(http://www.herbswanson.com/)を参考にし、書誌情報に合致しない論 攷の使用は差し控えた。ドイツ語で書かれた “Die Frau in einer sich wandelnden Welt”(in Jesus Christus Befreit und Eint, Verlag Lembeck, 1976, pp. 66-63.)、1981年、1982年にReformed Worldに掲載 されたニュース記事(Vol. 36, No.6, p. 283及びVol. 37, No. 2, p. 165)、コメント記事 “Responses”(in Mission Studies, Vol. 2, No. 1, 1985, pp. 46-47)、 “Traditional Values in Asia” (ibid, p. 114)は除いた。

5 Prakai Nontawasee, “The Japanese Image in Thailand,” Japan Christian Quarterly, Vol. 41, No. 2(Spring 1975), Christian Literature Society(Kyo Bun Kwan), 1975, pp. 68.

6 柿崎一郎、『物語 タイの歴史─微笑みの国の真実─』中央公論新社、2007年、117-118頁。ピブーンは 植民地と同格に扱われたとして不快感を示し日本への不信感を募らせ、1943年、東京で大東亜会議が 開かれた際、出席の要請を拒み特命全権大使ではない代理を派遣するに留めたため、タイは大東亜宣 言に署名していない。

7 Nontawasee, op. cit., p. 68.

8 ビルマ戦線から引き上げた日本兵を示すものと思われる。

9 Nontawasee, op. cit., p. 68.

10 Idem.

11 Nontawasee, op. cit., p 70. 傍点筆者。

12 Idem.

13 柿崎、前掲書、206-217頁。日本タイ学会編『タイ事典』めこん、2009年、300頁を参照。

14 Nontawasee, op. cit., p. 70.

15 Nontawasee, op. cit., p. 70-71.

16 Ibid., p. 71. 2名の女性キリスト者については、恵泉女学園大学の木村利人氏より貴重なご指摘を頂い た。

17 Prakai Nontawasee, “To Seek in Order to Give: Insiders, Not Outsiders,” in S. J. Samartha(ed.,) Faith in the Midst of Faiths: Reflections on Dialogue in Community, World Council of Churches, 1977, p. 96.

18 Nontawasee, 1977, p. 95.

19 富田竹二郎『タイ日大辞典』日本タイクラブ、1997年、1403頁。

20 Nontawasee, 1977, Idem.

21 Ibid., pp. 96-97.

22 Ibid., p. 97.

23 Ibid., p. 96.

24 Ibid., p. 97.

25 Idem.

(21)

26 Prakai Nontawasee, “Liberation: The Thai Christian View,” Reformed World, Vol. 36, No. 2., World Alliance of Reformed Churches, 1980, p. 67.

27 1929年以降の経済恐慌の中で特権的王族に対する国民の不満が高まった1932年6月24日、人民党はナ コーンサワン親王以下の王族を人質としたクーデタを行ったが、立憲制論者であったラーマⅦ世の柔 軟な対応によって無血革命が達成された。

28 Nontawasee, 1980, p. 67.

29 Idem.

30 Ibid., p. 68.

31 Nontawasee, 1980, p. 68.

32 Ibid., p. 69. 傍点筆者。

33 Nontawasee, 1980, p. 69.

34 Idem.

35 Idem.

36 近いと思われるのはヨハネ10:7-21。

37 ピー信仰に関する言及はDaniel McGilvary, A Half Century Among the Siamese and Laos, Flemming H.

Revell Company, 1912, p. 204に見られる。

38 ラーンナー・タイ王国は、13世紀末から19世紀末までチェンマイを都として栄えた王国であるが、

1894年に現王朝に統合され、1899年にシャム王国内に編入された。

39 Alfred Carl Bock, Temples and Elephants, Lew Marston, Searle, and Rivington, 1884, p.p. 334-335.

40 Anan Ganjanapan, “The Idiom of Phii-ka: Peasant Conception of Class Differentiation in Northern Thailand,” in Mankind Vol. 14, No. 4, August, 1984, p. 325.

41 Prakai Nontawasee, “Confrontation of Phii-ka and Christianity: A Case Study.” International Review of Missions, 76, 301.,(January 1987) World Council of Churches, 1987, p. 82.

42 Ibid., p. 83.

43 Carl Bock, op. cit., p. 334.

44 Nontawasee, 1987, p. 83.

45 Sanguan Chotsukarat, Traditions in Northern Thailand, 2nd edition, Oden Store Printing Press, 1969, p.

383.

46 Herbert R. Swanson, Krischak Muang Nua, Chuaw Printing Press Ltd., 1984, p. 18.

47 Ganjanapan, op. cit., pp. 325 and 326.

48 Nontawasee, 1987, p. 84.

49 Herbert R. Swanson, “A New Generation: Missionary Education and Changes in Women’s Role in Traditional Northern Thai Society,” Sojourn, Vol. 3, No. 2, 1988, p. 192.

50 Nontawasee, 1987, p. 85.

(22)

51 Idem.

52 ノンタワシーが同6:44を意図的に省略したとも想像できる。

53 Prakai Nontawasee, “Mission in Mutual Solidarity,” In God’s Image, December 1989, Asian Women’s Resource Centre for Culture and Theology, 1989, p.34に「私たちが先進国であろうと、途上国であろ う と、“nicks” or “nacks” or in-betweenで あ ろ う と 」 と あ る が、 正 し く はNewly Industrialized Countriesの略語NICs、New Agricultural Countriesの略語NACsである。

54 Ibid., p. 34.

55 Idem.

56 Idem.

57 Idem.

58 Idem.

59 Nontawasee, 1989, p. 34.

60 England, op. cit., p. 522.

61 柿崎、前掲書、164-165頁。

62 Nontawasee, 1989, p. 34.

63 Idem.

64 CCA最高幹部会のメンバーであったのは1990年~1995年である。

65 Prakai Nontawasee, “Reflection on the WCC Draft ’Economy as a Matter of Faith.” Reformed World, Vol.

42, No. 3., World Alliance of Reformed Churches, 1992, pp. 101.

66 『タイ事典』153-154頁、225頁。

67 柿崎、前掲書、206頁。

68 同上、203頁。

69 Nontawasee, 1992, p. 102.

70 現タイ国政府観光庁。

71 Ibid., p. 103.

72 Idem.

73 Ibid., p. 104.

74 柿崎、前掲書、199-200頁。

75 『タイ事典』154頁。

76 1ライは1600平方メートル。

77 Nontawasee, 1992, p. 104.

78 Chris Baker and Pasuk Phongpaichit, A History of Thailand, Second Edition, Cambridge University Press, 2009, p. 249.

79 Baker and Phongpaichit, op. cit., p. 248.

(23)

80 Nontawasee, 1992, p. 105.

81 PTCAには定訳が認められない。

82 Prakai Nontawassee(原文ママ), “Jesus Empowering Women,” PTCA Bulletin, Vol. 12, No. 1 & 2(June

& December 1999), Programme for Theology & Cultures in Asia, 1999, p. 8.

83 Idem.

84 Ibid., p. 9.

85 Idem.

86 Ranjini Wickramaratne-Rebera, “Recognizing and Naming Power,” In God’s Image, Vol. 17, No. 1, Asian Women’s Resource Centre for Culture and Theology, 1988. 頁数不明。

87 Nontawassee, 1999, p. 9.

88 正確な書誌情報はない。

89 望月賢一郎『アジアの視点から見た日本』日本基督教出版局、1982年、55-59頁。

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