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行教と一切経 : 『今昔物語集』巻十二第10話・『 大安寺塔中院縁起』と絡めて

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(1)

行教と一切経 : 『今昔物語集』巻十二第10話・『

大安寺塔中院縁起』と絡めて

著者 生井,真理子

雑誌名 同志社国文学

号 92

ページ 63‑75

発行年 2020‑03‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/00027184

(2)

行 教 と 一 切 経

﹃ ︱

今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 十 二 第 10 話

・ ﹃ 大 安 寺 塔 中 院 縁 起

﹄ と 絡 め て ︱

生 井

真 理 子

一︑ はじ めに 大安 寺の 僧︑ 行教 が︑ 山崎 津の 対岸 に石 清水 八幡 宮を 建立 した こ とは よく 知ら れて いる

︒石 清水 八幡 宮に は根 本縁 起と して

︑奥 書に 行教 自身 の名 が記 され る﹃ 護国 寺略 記﹄ と︑ 奥書 が長 徳元 年︵ 九九 五︶ で︑ 新た に旧 記等 を参 考に 造ら れた とい う長 徳の

﹃遷 座縁 起﹄ の二 種が ある

︒両 縁起 とも に︑

﹁行 教の 遺言

﹂と もい うべ き最 後の 箇所 には

︑一 切経 書写 の継 続と 完成 を︑ 弟子 安宗 に託 すこ とが 記さ れる

︒﹃ 護国 寺略 記﹄ の奥 書は

︑貞 観五 年正 月十 一日 付け で︑ 行教 の忌 日は 一月 十八 日で ある

︒そ して

︑﹃ 三代 実録

﹄貞 観十 七年

︵八 七五

︶三 月二 十八 日の 条に は︑ 故太 政大 臣藤 原朝 臣︵

=良 房︶ が清 和天 皇の 御代 がよ く治 まり

︑人 民を 安ら かに する こと を望 んで

︑八 幡大 菩薩 のた めに 一切 経書 写の 願を 発し

︑故 行教 を検 校︵ 責任 者︶

にし て行 わせ たが

︑そ の遺 志を 継い で︑ 安宗 が一 切経 を弥 勒寺 に収 めた

︑と ある

︒安 宗は 行教 の後 を継 いで

︑石 清水 八幡 宮の 初代 別当 とな り︑ 八幡 宮と 護国 寺の 基礎 を作 り上 げた

︑大 安寺 の学 僧で ある

︒ 長徳 の﹃ 遷座 縁起

﹄に よれ ば︑ 天安 三年

︵八 五八

︶清 和天 皇が 即 位し た時 に︑ 宇佐 宮使 とし て﹁ 修練 加行

﹂の 僧を 求め

︑大 僧都 真雅 が推 薦し たの が︑

﹁大 安寺 伝燈 大法 師位 行教

﹂だ った とい う︒ 翌年 の貞 観元 年︵ 八五 九︶

︑太 政大 臣良 房の 命に よっ て︑ 宇佐 使と 一切 経書 写の 任務 を帯 びて

︑即 位報 告を する 勅使 とほ ぼ同 じ頃

︑都 を出 発し たと いう

︒時 に︑ 清和 天皇 はま だ数 え年 で九 歳と いう 幼帝 で︑ 実質

︑政 治を 動か して いた のは

︑太 政大 臣藤 原良 房で ある

︒こ のこ とか ら︑ 藤原 良房 の娘

︑明 子が 生ん だ清 和天 皇が 即位 する にあ たり

︑ 清和 天皇 のた めに

︑太 政大 臣藤 原良 房が

︑行 教に 八幡 神を 勧請 させ た︑ とい う見 方が ほぼ 定説 とな って いる

︒こ の点 につ いて 異論 はな 行教 と一 切経

六三

(3)

い︒ しか し︑ その 理由 を清 和天 皇の ため の﹁ 飾り

﹂や

﹁権 威付 け﹂ と見 ると

︑な ぜ八 幡神 なの か︑ なぜ 行教 は国 ごと の諸 明神 に三 十三 人の 得度 者を 申請 した のか

︑あ るい は一 切経 書写 の目 的や

︑大 安寺 の行 教伝 承の 存在 の意 味が 分か らな くな って しま うだ ろう

︒八 幡神 への 一切 経書 写奉 納は

︑む しろ 文徳 天皇 の時 代状 況と

︑東 大寺 大仏 の大 破が 関係 して いる と思 われ るか らで ある

︒ 二︑ 八幡 大菩 薩と 即位 報告 嘉祥 三年

︵八 五〇

︶三 月二 十一 日︑ 仁明 天皇 が崩 御し

︑文 徳天 皇 が即 位し た︒ その 四日 後︑ 第四 皇子 の惟 仁親 王が 誕生 する

︒母 は藤 原良 房の 娘︑ 明子 であ る︒ 文徳 天皇 の母 は藤 原順 子で 良房 の妹 であ る︒ 十一 月二 十五 日に は︑ 惟仁 親王 がわ ずか 生後 九か 月で 立太 子し た︒ 従来 から すれ ば︑ 異例 のこ とで ある

︒文 徳天 皇は

︑四 月に は仁 明天 皇の 深草 山稜 に︑ 六月 には 伊勢 太神 宮に 即位 を報 告︑ 八月 五日 には 諸国 諸神 へ班 幣と 即位 報告 の後

︑十 二日 に賀 茂社

・松 尾社 に勅 使を 遣わ して 即位 を報 告を 行う

︒続 いて 二十 三日 には 九州 の香 椎廟 と八 幡宮 へ︑ 散位 従五 位下 高原 王を 使い とし て遣 わし

︑宝 剣・ 明 鏡・ 名香

・綵 帛等 を奉 った

︒こ れも 即位 報告 であ ろう

︒ 桓武

・平 城の 時代 には 即位 報告 は伊 勢太 神宮 だけ であ った

︒だ が︑ 弘仁 元年

︵八 一〇

︶九 月に 起き た薬 子の 変を 機に

︑都 の地 主神 賀茂

社と

︑九 州の 八幡 宮・ 香椎 廟の 位置 が大 きく 上昇 する

︒平 城上 皇の 奈良 遷都 の動 きを

︑長 らく 病床 にあ った 嵯峨 天皇 はす ばや く封 じ︑ 平城 上皇 は出 家︑ 皇太 子の 高岳 親王 は廃 太子 とな り︑ 嵯峨 天皇 の弟 の大 伴親 王が 立太 子し た︒ 事後 処理 が落 ち着 いた 十二 月十 六日 には

︑ 参議 正四 位下 巨勢 朝臣 野足 を遣 わし

︑八 幡大 神宮

・香 椎廟 に︑ 乱鎮 静の 感謝 とし て幣 帛を 奉っ てい る︒

﹃日 本後 紀﹄ には 特に 賀茂 社へ の記 載は ない が︑ 薬子 の変 の際

︑ 嵯峨 天皇 が乱 鎮静 の後 には

︑伊 勢と 同じ く皇 女か ら斎 王を 立て よう と祈 願し たと いわ れ︑ 有智 子内 親王 が初 代齋 院と なり

︑弘 仁九 年

︵八 一八

︶五 月二 十二 日に は齋 院司 も設 置さ れた

︵﹃ 類聚 国史

﹄︶

︒京 都に 都が 移さ れて から

︑桓 武天 皇以 後︑ 地主 神と して

︑上

・下 賀茂 社の 神職 への 待遇 も含 めて の崇 敬は 厚か った が︑ 薬子 の変 が奈 良へ の遷 都問 題に 絡ん でい ただ けに

︑そ の期 待と 厚遇 は当 然と も言 える

︒ しか し︑ 桓武

・平 城の 時代 には

︑さ して 国史 に現 れな かっ た八 幡 宮・ 香椎 廟が

︑な ぜ薬 子の 変の 際︑ 戦勝 祈願 の対 象と なっ たの か︒ おそ らく

︑そ れは 藤原 仲麻 呂の 乱が

︑︿ 上皇 対 天皇

﹀の 対立 の 構図 で類 似し てい たこ とに よる だろ う︒ 淳仁 天皇 の後 見役 を以 て実 権を 握っ てい た藤 原仲 麻呂 が︑ 道鏡 を除 くこ とを 求め て挙 兵し た際

︑ 孝謙 上皇 は勝 利祈 願の ため に西 大寺 建立 を発 願し

︑八 幡神 に援 護を 祈っ た︒ 八幡 神は

﹁隼 人の 反乱

﹂﹁ 藤原 弘嗣 の反 乱﹂ で︑ 祈る 者を

行教 と一 切経

六四

(4)

勝利 に導 く軍 神と して の実 績を 持っ てい た︒ また

︑香 椎は 仲哀 天皇 が熊 襲制 圧に 赴き

︑こ の地 で亡 くな った ゆえ の廟 で︑ 神功 皇后 と仲 哀天 皇を 祀る とい われ る︒

﹃日 本書 紀﹄ にお いて

︑神 功皇 后が 胎内 に︑ 後の 応神 天皇 を宿 しな がら

︑男 装し て新 羅と 戦っ たこ とは 名高 い︒ 神功 皇后 は︑ 仲哀 天皇 の皇 子で 兄の 二人 を戦 いで 退け

︑弟 にあ たる 応神 天皇 を皇 位に 即け る︒ つま り︑ 香椎 は皇 祖神 であ ると 同時 に︑ 大陸 から の防 衛を 請け 負う 神で あっ た︒ 聖武 天皇 は新 羅対 策に 香椎 廟に 奉幣

︑藤 原仲 麻呂 も新 羅征 討の ため に香 椎に 奉幣 して いる

︒ とす れば

︑嵯 峨天 皇と して は︑ 薬子 の変 の混 乱に 乗じ て︑ 西側 か ら外 国が 攻め たり

︑九 州で 反乱 が起 きな いよ う祈 願し たも ので あろ うか

︒し かも

︑弘 仁六 年︵ 八一 五︶ 十二 月十 日の 大宰 府解 によ れば

︑ 神主 大神 清磨 が︑ 八幡 大菩 薩は

﹁品 太天 皇︵ 応神 天皇

︶御 霊﹂ であ るこ とを 主張 して いる

︒現 存の

﹃東 大寺 要録

﹄引 用の 大宰 府解 では

﹁件 大菩 薩是 亦太 上天 皇御 霊﹂ とな って いる が︑ 文意 が通 らず

︑﹃ 弥 勒寺 縁起

﹄や

﹃諸 起記

﹄と 照ら し合 わせ ても

︑平 野博 之氏 が指 摘す るよ うに 明ら かに 誤写 であ る

︒﹃ 宇佐 御託 宣集

﹄で は︑ 伝承 が混 交 して いる が︑ 九州 では 神功 皇后 を思 わせ る女 神は 大帯 姫と 呼ば れる

﹃宇 佐御 託宣 集﹄ 巻四 に︑

﹁嵯 峨天 皇御 宇弘 仁年 中に 託宣 有り

︑大 帯 姫は 皇后 の霊 誕な るこ とを 示現 する 也﹂ とあ る︒ 弘仁 十四 年︵ 八二 三︶ 四月 十四 日の 官符 によ れば

︑こ の弘 仁十 一年

︵八 二〇

︶の 神託

で︑ 宇佐 宮に 大帯 姫の ため に新 たな

﹁細 殿﹂

︵斎 殿・ 祭殿 の当 て字 か︶ に加 わる こと にな る︵

﹃諸 起記

﹄︶

︒ この 官符 が出 され た二 日後 の四 月十 六日 に嵯 峨天 皇は 譲位 して

︑ 淳和 天皇 が即 位し た︒ 十一 月二 十四 日に 左兵 衞督 従四 位上 藤原 朝臣 綱継 を使 とし て︑ 八幡 大神

・樫 日廟

︵香 椎廟

︶に 幣帛 を奉 った のは

︵﹃ 三代 実録

﹄︶

︑大 帯姫

=神 功皇 后の 新祭 殿の 検分 と即 位報 告を 兼ね るも ので あっ ただ ろう

︒翌 年の 天長 元年

︵八 二四

︶九 月二 十七 日に は︑ 和気 真綱

・仲 世た ちが 奏上 して

︑故 父た る和 気清 麻呂 が建 立し た神 願寺 を廃 し︑ 替わ りに 高雄 山寺 を定 額寺 とす るこ とを 許さ れて いる

︒高 雄山 寺は 神護 寺と なり

︑空 海に 付託 され るこ とに なっ た︒ 和気 真綱 たち の奏 上に よれ ば︑ 神護 景雲 年中 に法 王道 鏡が 皇位 を 狙い

︑称 徳天 皇の 命令 で宇 佐に 下っ た和 気清 麻呂 が八 幡大 神か ら︑

﹁皇 位は 皇孫 を立 てる べし

﹂と の神 託を 受け た際

︑仏 力の 加護 を受 けて 八幡 神の 霊力 を強 化す るた めに

︑和 気清 麻呂 は一 切経 書写 と仏 像を 造り

︑最 勝王 経を 一万 巻諷 誦し

︑一 伽藍 を建 立す るよ う命 じら れた とい う︒ 和気 清麻 呂は 神願 寺を 建立 する が︑ 一切 経の 書写 は果 たせ なか った らし い︒

﹃日 本後 紀﹄ の和 気清 麻呂 卒伝 には

︑和 気清 麻呂 が称 徳天 皇の 怒り を買 って 流罪 にな った 時に は︑ 藤原 百川 がひ そか に生 活の 援助 をし たと 伝え る︒ 淳和 天皇 は藤 原百 川女 を母 とす る︒ 和気 清麻 呂と その 長男 弘世 は桓 武天 皇の 側近 とな り︑ 五男 真綱 行教 と一 切経

六五

(5)

は弘 仁六 年︵ 八一 五︶ に春 宮大 進と なる など

︑淳 和天 皇の 春宮 時代 から 仕え てい た関 係に ある

︒ 天長 六年

︵八 二九

︶に は宇 佐の 弥勒 寺で 一切 経転 読を 行わ せ︑ 大 宰府 に命 じて 一切 経の 書写 をさ せて いた 淳和 天皇 は天 長十 年︵ 八三 三︶ 二月 二十 八日 に譲 位し

︑嵯 峨天 皇の 皇子 正良 親王 が即 位し て仁 明天 皇と なる

︒四 月五 日に は従 四位 伊予 権守 和気 真綱 が勅 使と なっ て︑ 八幡 大菩 薩宮

・香 椎廟 に即 位報 告を 行い

︑御 剣・ 幣帛 を奉 った

︒ この 頃︑ 恵運 を観 世音 寺講 師︑ 筑前 国講 師と して 九州 に送 り︑ 一切 経書 写の 勾当 を行 わせ た︒ 十月 二十 八日 には 大宰 府に 命じ て︑ 宇佐 の弥 勒寺 に︑ 完成 した 一切 経写 本を 収め たが

︑そ の上 にも う一 セッ トの 一切 経を 神護 寺に 安置 した のは

︑和 気真 綱た ちの 奏上 に応 えた 形で ある

︒さ らに

︑淳 和天 皇は 神護 寺に 五大 明王 堂も 建て た︒ 文徳 天皇 が即 位し た年 に八 幡宮 に勅 使を 遣わ すの も︑ この 流れ を受 け継 いだ もの とい える

︒ 三︑ 災害 と疫 病 だが

︑文 徳天 皇の 時代 は決 して 平穏 な時 代で はな かっ た︒

﹃文 徳 実録

﹄に は在 位八 年の 間に

︑九 十九 回も の地 震の 記録 が残 され てい るよ うに

︑度 々の 自然 災害 に見 舞わ れた

︒﹃ 三代 実録

﹄よ り︑ 都を 中心 にし て︑ 主な もの を示 せば

① 嘉祥 三年

︵八 五〇

︶七 月︑ 大雨 大水 によ り山 崎橋 も破 壊︒

② 仁寿 元年

︵八 五一

︶八 月︑ 大雨 によ る大 水害

﹁去 夏は 人民 或は 坐し て魚 と為 り︑ 今秋 は廬 宅乍 ち涌 川と 成る

﹂︒

③ 仁寿 二年

︵八 五二

︶七 月の 暴風 雨で 秋の 実り を損 ない

︑閏 八 月は 大風 に襲 われ て︑ 家が 倒れ 木が 抜け るほ どの 風害

④ 仁寿 三年

︵八 五三

︶二 月︑

﹁京 師及 び畿 外﹂ で疱 瘡が 流行

︑ 多く の死 者を 出す

⑤ 斉衡 二年

︵八 五五

︶五 月二 十三 日︑ 地震 によ り東 大寺 の大 仏 の頭 が落 下︒

⑥ 斉衡 三年

︵八 五六

︶三 月︑ 都と 城南 に大 地震 と余 震が 頻発

︒ 六月 二十 五日

︑藤 原良 房の 妻で

︑嵯 峨天 皇皇 女の 源潔 姫が 薨去

︒ 七月 三日

︑藤 原良 房の 兄で ある 権中 納言 藤原 長良 が薨 去︒

⑦ 天安 元年

︵八 五七

︶︑ 地震 が頻 発︑ 七月 には 再び 都に 大地 震︒

⑧ 天安 二年

︵八 五八

︶五 月二 十二 日︑ 大雨 大洪 水が 都を 襲い

︑ 全国 では 旱魃

︒ 八月 二十 七日

︑文 徳天 皇崩 御︒ とい った 状況 で︑ ほぼ 毎年

︑深 刻な 災害 に見 舞わ れて いる

︒ この よう な災 害に 対し て︑ 八幡 宮祈 念の 例を 挙げ れば

︑② の大 水 害の 後︑ 攘災 のた めに 十月 十一 日に 勅使 を遣 わし て香 椎・ 八幡 大菩 薩宮 に奉 幣し てお り︑

④の 疱瘡 流行 の際 には

︑五 月十 三日 に大 宰府

行教 と一 切経

六六

(6)

に命 じて

︑観 音寺

・弥 勒寺

・四 王院

・香 椎廟

・各 国分 寺で 大般 若経 を読 ませ てい る︒ 弥勒 寺は 宇佐 八幡 宮の 神宮 寺で ある

︒ そん な中 で朝 廷を 慌て させ たの が︑ 東大 寺大 仏の 頭が 落ち ると い う事 態だ ろう

︒東 大寺 は国 家に とっ ての 主要 寺院 の一 つで ある だけ でな く︑ かつ て︑ 聖武 天皇 の大 仏造 立の 際に は︑ 八幡 神が 天神 地祇 の神 々を 率い て協 力す る旨 の託 宣を し︑ 奈良 に入 京し て大 仏を 拝し たと いう 経緯 があ るか らで ある

︒六 月七 日に は参 議藤 原氏 宗を 遣わ して 大破 の状 況を 確認 し︑ 七月 二日 には 聖武 天皇 陵︵ 佐保 山陵

︶に 報告

︒さ らに

︑九 月六 日に は少 納言 利見 王を 勅使 とし て八 幡大 菩薩 宮に 遣わ し︑ 大仏 修理 の護 助と 天下 の平 安を 祈ら せた

︒破 損状 況は 深刻 で︑ 修理 とい って も︑ ほと んど

﹁新 造﹂ に近 く︑ 地震 が続 く中

︑ 修理 東大 寺大 仏司 検校 に任 ぜら れた 伝燈 修行 賢大 法師 位真 如と 長官 の大 納言 藤原 良相 が中 心と なり

︑大 プロ ジェ クト が始 まっ た︒ だが

︑翌 斉衡 三年

︵八 五六

︶三 月に

︑都 と城 南に 大地 震と 余震 が 頻繁 に起 こり

︑屋 舍は 壊れ

︑仏 塔は 傾く とい う大 惨事 とな った

︒五 月二 十三 日に は聖 武天 皇山 稜に 勅使 を遣 わし て策 命を 読ま せ︑ なか なか 進ま ない 大仏 修理 の怠 りを 詫び てい る︒ 天皇 家の 祖霊 の怒 りを 恐れ

︑地 震に よる 被害 の後 始末 に追 われ なが ら︑ 六月 十四 日に は名 僧二 百六 十五 人を 請じ て︑ 十四 箇寺 に﹁ 七日 間を 限っ て︑ 写す とこ ろの 一切 経を 三遍 読ま せた

﹂︒ 佐伯 有清 氏は

︑こ の十 四箇 寺の 仏事

を﹁ 災疫 を攘 うた めか

﹂と する

︒た だ︑

﹁七 日間 を限 って

︑写 す所 の一 切経 を三 遍読 ませ た﹂ とは

︑単 なる 一切 経の 転読 では なく

﹁写 した 所の 一切 経の 各経 典の 一部 をそ れぞ れ三 遍︑ 七日 間に わた って 読ま せた

﹂の 意味 だろ うか

︒あ るい はこ の時 点で すで に︑ 文徳 天皇 や良 房・ 良相 たち は次 の一 切経 書写 を考 えて いた ので はな いか

︒ 保立 道久 氏は

︑仁 明天 皇時 代の 地震 事情 につ いて

︑ 単な る偶 然と はい え︑ 仁明 の即 位と とも に京 都の 有感 地震 も 徐々 にお さま る様 子を 見せ た︒ 即位 して から 三年 の間 は地 震が 一度 のみ

︒在 位中 の京 都有 感地 震の 年間 平均 も઄

・ઇ 回ほ どで

︑ 他の 天皇 と比 較す ると 例外 的に 京都 は平 穏だ った

︒ と述 べて いる

︒淳 和天 皇が 即位 した 年︑ 恵運 は勅 命で 一切 経書 写の 検校 を行 った が︑

﹃安 祥寺 伽藍 縁起 資財 帳﹄ にお いて

︑恵 運は

﹁坂 東で

﹂と しか 記さ ない

︒た だ︑

﹃続 日本 後紀

﹄承 和元 年︵ 八三 四︶ 五月 十五 日条 には

︑仁 明天 皇の 勅命 とし て﹁ 相模

・上 総・ 下総

・常 陸・ 上野

・下 野等 国﹂ の国 司に 一切 経一 部の 書写

・貢 進を 命じ たが

︑ 書写 のた めの 原本 は上 野国 緑野 郡の 緑野 寺に ある とい う︒ 緑野 寺は 鑑真 和尚 の弟 子道 忠の 創建 とい われ

︑こ の原 本が 恵運 の検 校し た一 切経 だと すれ ば︑ 弘仁 九年

︵八 一八

︶七 月に 北関 東を 襲っ た大 震災 の復 興事 業だ った だろ う︒ これ をも とに 承和

・仁 寿の 三度 の一 切経 書写 が東 国で 分担

・京 進さ れ︑ 斉衡 三年 に転 読さ れた と思 われ る︒ 行教 と一 切経

六七

(7)

また

︑淳 和天 皇の 代で は特 に地 震が 多く

︑天 長四 年︵ 八ニ 七︶ は 京都 を中 心に 計四 十五 日の 地震 の記 録が あり

︑﹁ 大動

﹂﹁ 声雷 の如 し﹂ と激 震を 表す 大地 震が 繰り 返し 襲い

︑多 大な 被害 を被 る︒ 東大 寺の 大仏 もす でに この 時期 に揺 らい でお り︑ 八月 十五 日に

﹁固 め奉 る﹂ こと を聖 武天 皇の 山稜 に報 告し てい る︒ 大地 はさ らに 揺れ 続け

︑ 天長 六年

︵八 二九

︶三 月の 大地 震の 後︑ 五月 に八 幡大 菩薩 宮寺 で十 人の 僧に より

︑一 切経 の転 読が 始め られ るの であ る︒ おそ らく 一切 経の 書写 もそ の頃 から 始ま った と思 われ

︑恵 運が 最終 的に 一切 経書 写を 勾当 し︑ 仁明 天皇 が即 位し た年 に︑ 弥勒 寺と 神護 寺に 納め てい る︒ 再び の斉 衡三 年三 月の 大地 震の 後︑

﹁仁 明天 皇の 時に は書 写し た一 切経 を八 幡大 菩薩 に奉 納し た功 徳で 平穏 にお さま った ので はな いか

﹂と いう 意見 も出 たの では ある まい か︒ ちょ うど この 頃︑ 恵運 は承 和九 年︵ 八四 二︶ に入 唐し て帰 朝し てか ら︑ 文徳 天皇 の生 母︑ 藤原 順子 の帰 依を 得て

︑嘉 祥元 年︵ 八四 八︶ 順子 の発 願で 安祥 寺を 建立 し︑ 開基 とな って

︑存 在感 を示 して いた こと もあ る︒ かつ て︑ 聖武 天皇 は八 幡神 入京 の年 に︑ 十二 大寺 の大 修多 羅衆 に 対し て︑ 一切 経転 読・ 講説 の永 続を 命じ

︑そ の料 とし て修 多羅 供を 施入 して いる

︒大 仏修 復に あた り︑ 天平 時代 の記 録を 参考 にし つつ

︑ 当世 に合 った 方法 を模 索し なが らで ある なら

︑一 切経 書写 の発 願は

︑ 変則 的な 踏襲 にも なる だろ う︒ 北関 東大 震災 に際 して

︑嵯 峨天 皇も

﹁地 震と 疫病

﹂に つい て︑

﹁天 平の 時代 を手 本と すべ し﹂ と述 べて い る︵

﹃類 聚国 史﹄ 地震

︑弘 仁九 年九 月十 日︶

︒天 然痘 の大 流行 に苦 し んだ のも

︑聖 武・ 嵯峨

・文 徳の 時代 であ った

︒ しか し︑ それ から も不 幸は 続く

︒藤 原良 房の 妻源 潔姫

︑兄 であ る 権中 納言 藤原 長良 の死 去︑ 翌年 の天 安元 年︵ 八五 七︶ も地 震が 頻発 し︑ 七月 には また して も︑ 大地 震が 都を 襲っ た︒ さら に︑ 天安 二年

︵八 五八

︶五 月に は大 雨大 洪水 が都 を襲 い︑ 全国 では 旱魃 で苦 しん だ︒ そう した 中で

︑八 月二 十三 日に 文徳 天皇 が倒 れて 言語 不通 とな り︑ 二十 七日 には 崩御 とな った

︒﹁ 倉卒 に不 予の 事あ り︒ 近く に侍 る男 女︑ 騒動 し精 を失 う﹂ とあ るか ら︑ 予想 され てい なか った ので あろ う︒

﹃文 徳実 録﹄ の最 後に は︑

﹁聖 体は 弱く 病気 がち で︑ 頻り に 政務 を廃 した

﹂と ある

︒病 弱で はあ った が︑ まだ 三十 二歳 と若 いだ けに

︑周 囲の 回復 への 期待 も強 かっ たと 思わ れる

︒護 持僧 の真 済は 冷然 院で つき きり で看 病し たが

︑文 徳天 皇が 亡く なっ た時 には

﹁時 論嗷 嗷﹂ で︑ 非難 の声 に真 済は 失意 のま ま︑ 神護 寺に 隱居 して しま う︵

﹃三 代実 録﹄

︶︒ 災害 と疫 病は 人民 を失 い︑ 物を 失い

︑飢 餓と 新 たな 病気 の流 行の 連鎖 を呼 ぶ︒ 多事 多難 で国 力も 疲弊 しき った 中で

︑ 東大 寺大 仏の 修復 完成 と一 切経 書写 は清 和の 代に 持ち 越さ れる こと とな った

﹃江 談抄

﹄︵ 類聚 本・ 巻二

︶に は︑ 文徳 天皇 が第 一皇 子惟 喬親 王に

行教 と一 切経

六八

(8)

位を 譲り たい と望 みな がら

︑藤 原良 房に 憚り

︑神 仏に 起請 した とい う︒ 真済 僧正 は惟 喬親 王の 祈り の師 であ り︑ 真雅 は春 宮惟 仁親 王の 護持 僧だ った ため に︑ 対立 関係 にあ った と伝 える

︒文 徳天 皇の 惟喬 親王 への 譲位 願望 は︑ 早い もの で﹃ 李部 王記

﹄︵

﹃大 鏡﹄ 裏書

︶に 記 載が ある

︒が

︑重 明親 王に 語っ たの が藤 原実 頼で

︑承 平元 年︵ 九三 一︶ とい えば

︑八 歳の 朱雀 天皇 が即 位し たば かり の頃 で︑ この 時期 の藤 原氏 が置 かれ た状 況を 勘案 する 必要 があ る︒ 今は 事の 真相 は措 くと して

︑真 済が 文徳 天皇 の厚 い信 頼と 破格 の待 遇を 受け てい たこ と︑ 真雅 が藤 原良 房の 意を 受け て︑ 惟仁 親王 の幼 少時 から 春宮 の護 持僧 であ った こと は事 実で ある

︒﹃ 三代 実録

﹄貞 観二 年︵ 八六

〇︶ の真 済卒 伝な どに よる と︑ 仁明 天皇 は真 済を 権律 師に 抜擢 し︑ 文徳 天皇 の代 では 少僧 都と なっ て︑ すぐ に大 僧都 に転 じ︑ 疱瘡 の流 行し た仁 寿三 年︵ 八五 三︶ には

︑金 剛峯 寺と 対等 に年 分度 者三 人を 神護 寺に 許さ れる

︒斉 衡三 年︵ 八五 六︶ 文徳 天皇 は真 済を 僧正 にし よう とし て︑ 真済 は故 空海 に僧 正位 を譲 るこ とを 願い

︑天 安元 年︵ 八五 八︶ に空 海は 大僧 正位 を追 贈さ れた

︒ま た︑ 仁明 天皇 は︑ 高雄 の神 護寺 に一 重宝 塔を 建て

︑五 大虚 空藏 菩薩 像を 造立

・安 置し てい る︒ 文徳 天皇 の崩 御は

︑護 持僧 とし ての 真雅 の時 代が きた こと を意 味 し︑ 真雅 が宇 佐宮 使に 行教 を推 薦し たと いう のは

︑行 教が 真雅 の周 辺に いた こと を暗 示し よう

︒清 和天 皇の 春宮 時代 の護 持僧 には

︑も

う一 人︑ 宗叡 がい た︒ 石清 水八 幡宮 の系 図の 多く は︑ 大安 寺の 行表 を師 とす るが

︑宗 叡を 行教 の師 とす るも のが 一本 ある

︒行 教の 弟と され る益 信︵ 八二 七~ 九〇 六︶ は︑ 大安 寺で 出家 し︑ 元興 寺明 詮に 師事 して 法相 宗を 学ん だ後

︑真 雅に 真言 を学 び︑ 真雅 の死 後は 宗叡 に師 事し たと いう

︒ そし て︑ 真済 が神 護寺 に隠 居し てし まっ た以 上︑ 藤原 良房 と清 和 天皇 は︑ 八幡 大菩 薩へ の奉 仕と いう 点で

︑八 幡大 菩薩 が建 てさ せた 神護 寺と いう ツー ルを 失う こと にな る︒ 行教 が宇 佐八 幡宮 での 読経 と一 切経 書写 の任 務を 持ち なが ら︑ 宇佐 で八 幡大 菩薩 の示 現を 受け て都 に戻 り︑ 石清 水山 に八 幡宮 の建 立が 即時 に許 可さ れ︑ 早速 に木 工寮 の役 人を 派遣 して 建築 を始 める のは

︑朝 廷の 側に すれ ば︑ 神護 寺に 替わ り︑ 都に 近く

︑よ り直 接的 に八 幡神 に対 峙で きる メリ ット があ った から では ない だろ うか

︒仁 明天 皇の 承和 八年

︵八 四一

︶五 月に は︑ 阿蘇 の神 霊池 の異 変や 伊豆 の地 震は

︑﹁ 旱疫 の災 及び 兵事 有る べし

﹂と いう 卜占 結果 があ り︵

﹃続 日本 後記

﹄︶

︑八 幡・ 香椎 は 攘災 疫の 祈り の対 象と なる よう にな った

︒い うな れば

︑東 大寺 大仏 の大 破と

︑大 地震

・う ち続 く水 害・ 旱魃

・疫 癘な どの 災害 に︑ 文徳 天皇 の崩 御・ 清和 天皇 の即 位と いう 不測 の事 態が 重な った 上で の︑ 八幡 大菩 薩対 策と して 行教 は起 用さ れた ので はな いだ ろう か︒ さら に︑ 大仏 御頭 供養 の前 に﹁ 八幡 大菩 薩が 都近 くに 遷座 する

﹂と は︑ 行教 と一 切経

六九

(9)

天平 の東 大寺 大仏 造立 の最 中︑ 開眼 供養 の前 に八 幡神 が入 京す ると いう パフ ォー マン スの 変則 的な 再来 でも ある

︒ 四︑ 修多 羅衆 と南 塔院

・塔 中院 天平 感宝 元年

︵七 四九

︶閏 五月 廿日

︑聖 武天 皇︵ 太上 天皇 沙弥 勝 満︶ は大 安寺

・薬 師寺

・東 大寺

・元 興寺

・興 福寺 以下

︑十 二大 寺の 大修 大羅 衆に 華厳 経を 本と して 一切 大乗 小乗 経律 抄疏 章等

︵= 一切 経︶ の転 読・ 講説 の永 続の ため に修 大羅 供の 施入 を行 った

︒修 多羅 衆と は一 切経

︵= 大蔵 経︶ の管 理や 研究 を行 い︑ 読経

・講 説を 行う 学僧 集団 で︑ その メン バー は南 都六 宗の 僧と 重な ると 考え られ てい る︒ その 活動 のた めの 料が 修大 羅供 であ る︒

﹃日 本霊 異記

﹄︵ 中巻 第24 縁︶ には

︑大 安寺 の修 多羅 分の 銭を 借り た磐 島が

︑冥 界・ 閻羅 王の 使者 であ る鬼 に牛 一頭 と引 き換 えに 命を 助け ても らい

︑鬼 の免 罪の ため に︑ 大安 寺南 塔院 に参 り︑ 僧仁 燿を 請じ て﹃ 金剛 般若 経﹄ 百巻 を読 んで もら う話 があ る︒ また

︑﹃ 日本 霊異 記﹄ 中巻 第28 縁で は︑ 貧し い女 が与 えら れる 銭に

︑﹁ 大安 寺の 大修 多羅 供銭

﹂﹁ 大安 寺の 常修 多羅 供銭

﹂﹁ 大安 寺の 成実 論宗 分の 銭﹂ があ る︒ 天平 十九 年の 大安 寺資 材帳 には すで に修 多羅 銭が 存在 し︑ この こと から

︑堀 裕氏 は︑ 天平 感宝 元年 に修 多羅 衆が 大修 多羅 衆と 常修 多羅 衆︵ もと の修 多羅 衆︶ に分 かれ たと 見る

︒堀 氏は

○大 修多 羅衆 は一 切経 を基 礎に

︑各 寺の 六宗 など を統 括︑ 十一 世紀 以降 にも 興福 寺や 薬師 寺で は︑ 学侶 集団 の中 核に 位置 し てい た︒

○大 修多 羅衆 は︑ 寺内 僧尼 の学 習の 場で もあ る安 居と の関 連も 指摘 され てい る︒ など とい う先 行研 究の 成果 から

︑﹁ 常修 多羅 衆も また

︑一 切経 を基 盤に

︑経 典の 講説 を担 いう る僧 侶育 成を 目指 すも ので あっ たと 推測 され る﹂ と結 論付 けた

︒ そこ で問 題は

︑南 塔院 であ る︒

﹃法 隆寺 東院 縁起

﹄︵ 上宮 王院 縁 起︶ に引 く官 符に よれ ば︑ 大安 寺で は摂 論宗 と修 多羅 宗が 精舎 を構 えて いる こと に倣 い︑ 東院 建立 が許 され たこ とを 記す

︒天 平十 九年 二月 十一 日付 の奥 書を 持つ

︑大 安寺 の資 財帳 には

︑寺 地と して の塔 院の 名は あっ ても

︑﹁ 南塔 院﹂ の記 述が ない

︒﹃ 法隆 寺東 院縁 起﹄ で は︑ 天平 十九 年十 二月 十四 日の 僧綱 牒を 引い てい るこ とか ら見 て︑ 修多 羅衆 のた めの

﹁精 舎﹂ は天 平十 九年 に建 立さ れた もの であ ろう か︒ とす れば

︑﹃ 日本 霊異 記﹄

︵中 巻第 24縁

︶の 内容 から 勘案 して

︑ この

﹁修 多羅 宗の ため の精 舎﹂ が南 塔院 では なか った だろ うか

︒天 平の 資材 帳で は大 安寺 がす でに 一切 経を 所有 して いる こと が知 られ るが

︑南 塔院 は一 切経 の研 究セ ンタ ーと して 機能 して いた ので はな いか

︒大 安寺 の入 唐留 学僧 戒明 は︑ 宝亀 九年

︵七 七八

︶に 遣唐 使と

行教 と一 切経

七〇

(10)

とも に帰 朝し たと みら れて いる が︑ 多く の仏 典と とも に︑ 中国 で

﹁観 音の 化身

﹂と して 名高 い宝 誌和 尚の 像を 請来 し︑ その 像を

﹁南 塔院 中堂

﹂に 安置 した こと が﹃ 延暦 僧録

﹄に 記さ れて いる

︒ もう 一つ

︑大 安寺 の修 学の 場と 見ら れる のが

︑塔 中院 であ る︒ 弘 仁五 年︵ 八一 四︶ の春

︑最 澄は 入唐 留学 の折 の願 を果 たす ため に筑 紫国 に赴 き︑ 宇佐 の八 幡宮 で法 華経 を講 じて

︑こ れに 感嘆 した 八幡 大菩 薩は 最澄 に紫 袈裟

・紫 法衣 を最 澄に 奉っ た

︒翌 年の 三月

︑桓 武 天皇 が和 気弘 世に 命じ て︑ 最澄 が請 来し てき た﹁ 天台 法文

﹂を 新写 させ たも のが 完成 し︑ 嵯峨 天皇 は七 大寺 に安 置し て︑ 学ば せる こと とし た︒ その 関係 でで あろ うか

︑和 気氏 の請 によ り大 安寺 塔中 院で

︑ 最澄 は法 華経 を講 ずる こと とな る︒ 和気 弘世 はす でに 故人 とな って いた よう で︑

﹁和 気氏

﹂は 和気 真綱

・仲 世の 兄弟 と考 えら れて いる

︒ 諸寺 の碩 学が 参集 した とい い︑ これ は︑ 天長 元年

︵八 二四

︶に 大安 寺別 当平 等の 上表 によ り︑ 大安 寺で 八月 に法 華会 を始 める きっ かけ とな り︑ 立義 に及 第し た者 は興 福寺 の維 摩会 に准 じ︑ 安居 講師 とな るこ とが でき るよ うに なっ た︵

﹃類 聚三 代格

﹄巻 二︶

﹃三 宝絵 詞﹄ では

︑三 月の

﹁高 雄法 華会

﹂は 和気 弘世

・真 綱た ち が︑ 高雄 山寺 に最 澄を 招い たこ とに 始ま ると 伝え る︒ 石清 水別 当幸 清撰 の﹃ 諸縁 起﹄ に引 く﹃ 大安 寺塔 中院 縁起

﹄に よれ ば︑ 塔中 院に は五 間四 面の 御堂 と二 重高 楼と 竈屋 があ り︑ 二重 高楼 の上 階に は大

菩薩 絵像

︑下 階に は一 切経 を安 置し

︑蔵 に﹁ 修多 羅供

﹂を 置い たと いう

︒こ の修 多羅 供は

︑縁 起の 本文 では

﹁常 修多 羅供

﹂と なっ てお り︑ 日夜 読経 する 碩学 三十 人は 常修 多羅 衆で ある こと にな る︒

﹃神 護寺 略記

﹄に 引く 承平 実録 帳に よれ ば︑ 神護 寺に も空 海筆 と伝 える 八幡 大菩 薩の 絵像 があ り︑ 塔中 院と のつ なが りを 暗示 しよ う︒ そし て︑ 南塔 院と 塔中 院は それ ぞれ

︑行 教の 僧房 とも

︑行 教建 立 とも 伝え るの であ る︒ 五︑ 行教 と修 多羅 衆

﹃七 大寺 日記

﹄や

﹃七 大寺 巡礼 私記

﹄な どに は︑ 古老 の伝 とし て

﹁石 清水 の根 本﹂ と呼 ばれ る井 戸が 記さ れる

︒東 室の 井戸 のそ ばに ある 第四 室が 行教 の僧 房で

︑井 戸の 名前 が﹁ 石清 水井

﹂だ った こと から

︑石 清水 房と 呼ば れ︑ 宇佐 から 帰っ た行 教は

︑こ こか ら八 幡大 菩薩 を男 山に 遷座 した とい う︒

﹁石 清水 八幡 宮﹂ の名 前の 由来 伝承 であ る︒

﹃今 昔物 語集

﹄巻 十二 第10 話︵ 以下

﹃今 昔﹄

︶で は︑ 行教 は宇 佐か ら八 幡大 菩薩 を奉 じて

︑ま ず自 分の 僧房 の南 塔院 で丁 重に 祀り

︑そ の後 の託 宣に より

︑男 山に 八幡 宮を 建立 した とい う︒ また

︑神 がお わし まし た所 なの で︑ と大 安寺 境内 にも 八幡 宮を 建て た︑ とい う︒

﹃大 安寺 塔中 院縁 起﹄ にお いて は︑ 大同 二年

︵八

〇七

︶に 入唐 帰 行教 と一 切経

七一

(11)

朝し た行 教が

︑宇 佐八 幡宮 で示 現を 得て

︑ま ず石 清水 房に 来着

︑そ れか ら塔 中院 と八 幡宮 を建 て︑ その 後︑ 託宣 によ り男 山に 八幡 宮を 建立 した とい う︒ いず れが 本当 か︑ この 三系 統の 伝承 の分 析と 考察 は別 の機 会に 譲 ると して

︑ど れも が大 安寺 側か ら語 る石 清水 八幡 宮建 立の 由来 であ り︑ 石清 水八 幡宮 創建 縁起 の一 種と して 分類 でき る面 があ る︒ また

︑ これ らの 言説 の基 底に 共通 する のは

︑﹁ 大安 寺の 僧房 で祀 って から 行教 が石 清水 八幡 宮を 建て た﹂ とい う点 であ ろう

︒行 教の 生涯 に関 して は︑ 歴史 学で いう 一級 史料 に生 前の もの がな く︑ 没し た地 すら わか らな い︒ また

︑八 幡宮 を建 てる 期間 中︑ 行教 がど こを 拠点 とし てい たか

︑八 幡宮 を建 てて から も︑ どこ にい たの かを 伝え る資 料が

︑ 現在 に残 る石 清水 文書 の中 にも 見当 たら ない

︒ 石清 水八 幡宮 の文 書類 には 行教 の僧 房や 庵に 関す る伝 承が ない

︒ 長徳 の﹃ 遷座 縁起

﹄に よれ ば︑ すで に存 在し た石 清水 寺と いう 山寺

︵= 薬師 堂︶ を︑ 東面 から 南面 に改 めた とい う

︒﹃ 石清 水八 幡宮 末社 記﹄ によ れば

︑貞 観四 年十 二月 二十 三日 太政 官符 に︑

﹁石 清水 寺﹂ を﹁ 護国 寺﹂ に改 める 勅許 を出 して いる とい う︒ 東向 きを 南向 きに 変え る工 事が

︑新 しい 神殿 にふ さわ しい よう に改 築す るた めだ とす れば

︑貞 観五 年一 月に は行 教は 没し たと 思わ れる ので

︑護 国寺 に落 ち着 く暇 もな く︑ 逝去 した わけ であ る︒

もと もと 山寺 であ るな ら︑ さほ どの 規模 とは 思わ れな い︵ 現在 残 る跡 地も 決し て広 くは ない

︶︒ 石清 水の 縁起 では

︑行 教は 貞観 三年 正月 に宇 佐で 読経 の後

︑鎮 護国 家の ため に奏 聞を 経て

︑国 ごと の諸 明神 に僧 とし てそ れぞ れ一 人ず つ遣 わす ため の三 十三 人の 得度 者と

︑ 石清 水八 幡宮 のた めの 祈願 僧と して 得度 者十 五人 分を 申請 して いる

︒ 石清 水寺 が行 教の 本拠 地で

︑石 清水 寺か ら度 者か ら出 すな ら︑ この 数は 考え られ ない であ ろう

︒ だが

︑行 教が 大安 寺の

﹁修 多羅 衆﹂ の末 裔の 一員 であ るな ら︑ あ る程 度︑ 謎が 解け てく る︒ そも そも

︑石 清水 の縁 起を 見る 限り

︑行 教は 読経

・読 誦に 長け てい た︒ 貞観 二年

︑石 清水 の宝 殿が 完成 した 後︑ 十一 月二 十六 日に 宣旨 を蒙 って 再び 宇佐 に下 り︑ 貞観 三年 正月 三日 から 二十 七日 まで の間

︑百 人の 僧を 率い て宇 佐で 大規 模な 読経 をす るの は︑ 宝殿 が無 事完 成し たこ とへ の報 告・ 感謝 とと もに

︑ほ ぼ完 成し てい た大 仏の 御頭 供養 が三 月十 四日 に無 事に 行わ れる こと を祈 念し たも ので はな いか

︒一 月二 十一 日に 朝廷 は︑ 東大 寺大 仏の 修理 が終 わっ たの で諸 国へ 通知 し︑

﹁八 幡大 菩薩 が解 脱を 得︑ 諸余 の名 神の 力が 自在 にな るよ う︑ 聖武 天皇

・文 徳天 皇︑ それ 以前 の天 皇の 御霊 のた め︑ また

︑清 和天 皇の 御代 が気 候に 恵ま れ︑ 豊作 にな るよ う︑ 諸国 の国 分寺 で斎 会を 行う

﹂よ うに

︑と の通 達を 出し てい る︒ 聖武 天皇 の時

︑八 幡大 菩薩 が主 とな って

﹁天 下の 名神 及び 万民

行教 と一 切経

七二

(12)

が知 識衆 とな って

﹂大 仏完 成に 至っ たこ とに ちな んで のこ とで

︑行 教が 国毎 の明 神の 祈り のた めに 三十 三人 の得 度者 を望 んだ のも

︑こ のこ とと 関連 しよ う︒ つま り︑ 行教 の本 拠地 はや はり 大安 寺と いう 巨大 寺院 であ り︑

﹁修 多羅 衆﹂ もし くは

﹁大 修多 羅衆

﹂の 末裔 とし て︑ 一切 経に 詳し かっ たか らこ そ︑ 一切 経書 写も 任さ れた と思 われ る︒ 南塔 院や 塔中 院と 行教 が結 びつ いて 語ら れる のは

︑そ こに 由来 する だろ う︒ 行教 の遺 業を 受け 継い だ弟 子安 宗も 伝燈 大法 師位 にな って おり

︑彼 もま た一 切経 書写 を担 当で きる だけ の力 量を 持っ てい た修 多羅 衆の 一員 であ った かも しれ ない

︒安 宗が 私財 を投 じて

︑石 清水 山の 麓に 極楽 寺を 建て たの は︑ 約二 十三 年後 の元 慶七 年︵ 八八 三︶ のこ とで ある

﹃東 大寺 要録

﹄﹁ 供養 章﹂ の﹁ 御頭 供養 日記

﹂で は︑ 開眼 供養 の舞 楽に

﹁喜 春楽

﹂が 二十 人で 舞わ れた こと を記 す︒

﹃教 訓抄

﹄三 では

﹁古 老伝

﹂と して

︑﹁ 喜春 楽﹂ の曲 は大 安寺 住僧 の安 操法 師が 作っ た とい う︒ また

︑﹁ 古記

﹂に は行 教が 八幡 大菩 薩を 石清 水に 遷座 する とき に︑ 夢の 告げ によ り︑ 寿心 楽と いう 曲を 作っ たが

︑こ れが 今の 喜春 楽だ とい う︒ 伝承 その もの は信 用で きな いが

︑﹁ 大安 寺住 僧の 安操 法師

﹂は

︑行 教の 弟子 で石 清水 初代 別当 の﹁ 安宗

﹂を 想起 させ る︒ 僧が

﹁出 家し た神

﹂を 遷座 する のだ から

︑石 清水 山新 宮で

︑神 事と とも に︑ 音楽 を伴 う法 会も 行わ れた 可能 性は 十分 ある

︒南 都の

楽人 に伝 え続 けら れた のは

︑遷 座の 儀式 に南 都楽 人た ちが 召請 され たか らで あろ うし

︑そ の記 憶が この よう な伝 承の 形で 残っ たと すれ ば︑ その 法会 では 大安 寺や 南都 の僧 が協 力し たこ とを 想像 して もよ いの では ない か︒ その 意味 で︑

﹃東 大寺 雑集 録﹄ 巻一 の清 和天 皇の 代に

﹁八 幡大 菩薩

︒大 安寺 並男 山ニ 移リ 給︒ 又二 年十 月八 日ト 云﹂ とあ る記 事は

︑石 清水 宝殿 の遷 座式 が貞 観二 年十 月八 日だ った 可能 性を 示唆 しよ う︒ おそ らく 木工 寮役 人と して 石清 水造 宮の 中心 を担 った と思 われ る木 工大 允和 気朝 臣彝 範は

︑十 一月 十六 日に 正六 位上 から 従五 位下 に昇 叙さ れ︑ 同二 十六 日に は︑ 行教 は新 たに 宣旨 を得 て︑ 左大 臣か ら﹁ 僧百 人を 率い て︑ 宇佐 宮で 読経 せよ

﹂と 命じ られ る流 れと

︑時 期が 合う から であ る︒ 聖武 天皇 の時 代の 大仏 開眼 供養 に参 加し た五 寺は 大安 寺・ 薬師 寺・ 元興 寺・ 興福 寺・ 東大 寺だ が︑ 貞観 三年 三月 の開 眼供 養に も︑

﹁諸 大寺 音楽

﹂で この 五大 寺と 法隆 寺と が奉 仕し てい る︒ この 日は

︑ 十五 大寺 でも 盛大 な供 養が 行わ れ︑ 大安 寺の 大仏

︵高 さ九 丈の 大仏 の画 像︶ の前 では

︑諷 誦が 行わ れた

︵﹃ 東大 寺要 録﹄ 供養 章︑ 恵運 僧都 記録 文

︶︒ 東大 寺大 仏の 開眼 供養 の導 師は

︑か の恵 運僧 都で あ り︑ 恵運 自身 が書 いた

﹁記 録文

﹂に よれ ば︑

﹁大 安寺 の僧 綱﹂ だっ たよ うで ある

﹃七 大寺 巡礼 私記

﹄に は︑

﹃年 代記

﹄︵ 未詳

︶と いう 書で は︑ 斉衡 行教 と一 切経

七三

(13)

二年 に行 教が 宇佐 から 八幡 大菩 薩を 奉じ て戻 り︑ 大安 寺八 幡宮 を建 立し たと ある と記 す︒ しか し︑ 石清 水井 系統 の伝 承も

︑﹃ 今昔

﹄も 僧房 に祀 って から 石清 水八 幡宮 を建 立し たと は言 って も︑ 先に 大安 寺に 八幡 宮を 建て たと は言 わな い︒ むし ろ︑ この 斉衡 二年 説は

︑お ぼろ げな がら も︑ 東大 寺大 仏修 復の 始ま りと とも に︑ 行教 の動 向も 記憶 され てい たこ とに よる では ない だろ うか

︒ おわ りに 本稿 は一 切経 と行 教の 関係 を追 う形 で︑ 行教 が石 清水 八幡 宮を 建 立す るに 至る 歴史 的背 景を 考察 して きた

︒藤 原氏 が権 力を 握っ てゆ く過 程の 中で 捉え るだ けで なく

︑東 大寺 大仏 と災 疫を 視野 に入 れれ ば︑ 一切 経書 写は 嵯峨 院・ 淳和 天皇 体制 の時 代か ら︑ 聖武 天皇 の代 に学 びな がら

︑和 気氏 の介 在に よっ て八 幡神 に結 びつ いた こと がわ かる

︒行 教は 一切 経書 写を 完遂 でき ず︑ その ため 研究 者の 関心 を呼 ばな かっ たが

︑南 都で 活動 して きた 行教 をよ く知 るの は︑ やは り南 都で ある

︒一 度廃 絶し てし まっ た大 安寺 には 史料 が残 って いな いた め︑ 詳し いこ とは 不明 なが ら︑

﹁行 教の いる 所に 八幡 大菩 薩は おわ す﹂ と考 える なら

︑約 一年 ばか り︑ 行教 とと もに 八幡 大菩 薩は 大安 寺を 本拠 とし てい たわ けで ある

︒実 際に どう して いた のか はわ から ない が︑ 僧房 で八 幡大 菩薩 のた めに 行教 が読 経す れば

︑神 への 奉仕

が読 経で ある 僧侶 たち にと って

︑そ れは 八幡 大菩 薩を 祀る こと と同 義で あろ う︒

﹁石 清水 井﹂ や﹃ 今昔

﹄・

﹃塔 中院 縁起

﹄な どが 語る も のは

︑﹁ 大安 寺や 南都 の僧 たち から 見た

﹂石 清水 八幡 宮創 建の 経緯 が土 壌と なっ て育 まれ てき た伝 承で あり

︑ま た︑ その 後の 石清 水八 幡宮 との 関係 にお いて

︑﹃ 今昔

﹄も

﹃塔 中院 縁起

﹄も 読み 解か れる 必要 があ るだ ろう

︒ 注

① 平野 博之 氏﹁ 東大 寺要 録所 収弘 仁十 二年 官符 につ いて

︵下

︶﹂

︑﹃ 九州 史学

﹄第 二四 号︑ 一九 六三 年︑ 九州 史学 研究 会︒

② 佐伯 有清 氏著

﹃高 丘親 王入 唐記 廃

太子 と虎 害伝 説の 真相

︑ 吉川 弘文 館︑ 二〇

〇二 年発 行︒ なお

︑牧 伸行 氏は

︑承 和元 年︵ 八三 四︶ 五月 十五 日を 最初 とし て︑ 承和 二年

・承 和六 年・ 仁寿 三年 と︑ 東国 諸国 に対 する 書写 と貢 納の 命令 が五 度出 され

︑そ の計 三部 の一 切経 の供 養と 見る

︵﹁ 古代 東国 の仏 教と 一切 経﹂

︑﹃ 一切 経の 歴史 的研 究﹄ 所収

︑佛 教 大学 総合 研究 所︑ 二〇

〇四 年︶

︒た だし

︑そ の原 本と なっ た緑 野寺 の一 切経 は︑ 堀池 春峰 氏の 説く よう に恵 運の 関与 があ ると 考え た方 が良 いよ うに 思う

︵﹁ 平安 時代 の一 切経 書写 と法 隆寺 一切 経﹂

︑﹃ 南都 仏教 史の 研 究下

・諸 寺篇

﹄所 収︑ 法蔵 館︑ 一九 八二 年︶

③ 保立 道久 氏著

﹃歴 史の なか の大 地動 乱﹄ 七八 頁︑ 岩波 新書

︑二

〇一 二 年年 八月

④ 続群 書類 従巻 百六 十九

﹃紀 氏系 図﹄

︑第 七輯

︑一 八五 頁︒

⑤ 堀裕 氏﹁ 常修 多羅 衆成 立を めぐ る基 礎的 考察 大

寺を 支え る僧 侶組 織

﹂︑ 菱田 哲郎

・吉 川真 司編

﹃古 代寺 院史 の研 究﹄ 所収

︑思 文閣 出

行教 と一 切経

七四

(14)

版︑ 二一

〇九 年︒

﹃法 隆寺 東院 縁起

﹄は 問題 も多 いが

︑太 政官 符の 記事 に関 して は︑ 林 幹弥 氏の 見解

︵﹁ 法華 修多 羅に つい て﹂

︑﹃ 日本 歴史

﹄一 九七 五年 七月 号 所収

︶に 従う

﹃伝 教大 師伝

﹄﹃ 比叡 山延 暦寺 元初 祖師 行状 記﹄

﹃拾 遺往 生伝

﹄等 に記 載︒

⑧ 佐伯 有清 著﹃ 伝教 大師 伝の 研究

﹄二 四二

・四 三〇 頁︑ 吉川 弘文 館︑ 一 九九 二年 発行

⑨ 石清 水山 寺に つい ては

︑上 原真 人氏 の﹁ 国境

︵く にざ かい

︶の 山寺 石

清水 八幡 宮前 身寺 院に 関す る憶 測

﹂︵

﹃京 都府 埋蔵 文化 財論 集 第ઉ 集﹄ 二一

〇六 年刊 行︶ 参照

⑩ 大仏 御頭 供養 につ いて は︑ 渡辺 晃宏 氏﹃ 平城 京と 木簡 の世 紀﹄

︵﹃ 日本 の歴 史04

﹄︑ 講談 社学 術文 庫︑ 二〇

〇九 年︶

︑佐 伯有 清氏

﹃高 岳親 王入 唐 記﹄

︵吉 川弘 文館

︑二

〇〇 二年

︶参 照︒ 行教

と一 切経

七五

参照

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︵人 事︶ ﹁第二十一巻 第十號  三四九 第百二十九號 一九.. ︵會 皆︶ ︵震 告︶

︵原著及實鹸︶ 第ご 十巻   第⊥T一號   ご一山ハ一ご 第百十入號 一七.. ︵原著及三三︶

ところが,ろう教育の大きな目標は,聴覚口話

第一章 ブッダの涅槃と葬儀 第二章 舎利八分伝説の検証 第三章 仏塔の原語 第四章 仏塔の起源 第五章 仏塔の構造と供養法 第六章 仏舎利塔以前の仏塔 第二部

︵漫 録㌧ 第十λ⁝櫓  麓伊九⁝號   二山ハご一

例えば「今昔物語集』本朝部・巻二十四は、各種技術讃を扱う中に、〈文学説話〉を収めている。1段~笏段は各種技術説

   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

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