ジェインズの同志社講演(一八九三年) : 石井容子
『熊本洋学校教師 Capt. L. L. Janes 研究』をめ ぐって
著者 北垣 宗治
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 61
ページ 43‑66
発行年 2013‑01‑25
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012937
ジェインズの同志社講演(一八九三年)
︱︱石井容子『熊本洋学校教師 Capt. L. L. Janes 研究』をめぐって︱︱
北 垣 宗 治
熊本大学にジェインズを扱った精緻な博士論文が提出され、提出者は二〇一二年三月、見事に博士号を取得した。
すなわち石井容 まさ子 こ「熊本洋学校教師Capt. L. L. Janes 研究︱足跡と功績︱」である。この論文は新たに発掘した資料
を駆使しつつ、独自の研究調査に基いた論考で、この機会にこの論文を批判的に取り上げつつ、ジェインズと同志社
の関係を再考してみたい。『同志社五十年裏面史』はジェインズが初めて京都を訪問したのは一八七六年十二月のこ
とだったとしている (1)。このときジェインズはデイヴィス宅(Jerome Dean Davis. 御苑の中の旧柳原邸に仮住まいし
ていた)で旧熊本洋学校生徒と会ったというのである。その時今出川のキャンパスを訪問したかどうかは分らない。
ジェインズは一八九三(明治二十六)年八月に、小崎弘道の世話によって京都の第三高等中学校(のち第三高等学校、
三高)の専任教師として着任した。この時小崎はすでに渡米していた。当時の同志社の生徒たちにとってジェインズ
はすでに伝説上の人物であった。彼らがジェインズを同志社に招いて講演会を開催したことは自然な成り行きであっ
た。会場の同志社公会堂(同志社チャペル)は満員の盛況だったらしい。
一 ジェインズの同志社講演
一八九三年十月二十一日、十二月二日、十二月九日の三回に亘り、ジェインズ(Leroy Lansing Janes, 1838-1909)
は ”The Greatest Thing in the World”
という演題のもとに、連続講演を行った。本人は四回目の講演をするつもり
だったらしく、四回目の講演原稿も残っているということだが、彼を招いた同志社講義会の委員は三回目の講演が終っ
たあと、三時間討議したのち、これで打ち切ることを決めた。当時発行されていた『同志社文学』によると、最初ジェ
インズは同志社で講演することに乗気でなかったらしい。しかし学生からのたっての要望であったので、引受けるこ
とにした。ただし少なくとも三回の連続講演、という条件を出した。
このジェインズの同志社講演については、『同志社五十年史』と『同志社九十年小史』のどちらも触れていない。
さすがに『同志社百年史』は簡単に触れているが、この「事件」を比較的詳しく取り上げているのは『同志社五十年
裏面史』である。それらはあとで引用するが、ジェインズは講演の冒頭において、先ず学生たちに向かい「マイ・フ
レンズ!」と呼び掛け、次に宣教師たちの方にむかって「アンド・マイ・エネミーズ!」と呼び掛けたという。この
エピソードを私はかつて同志社中学の校長であった加藤延雄氏から直接に聞いた。牧野虎次の『針の穴から』(一九五八
年)もそのことを証言しているが、牧野の記述からすると、そのように呼び掛けたのは第二回目の講演のときのこと
のようである。ジェインズと同志社の関係を考えてみると、いかにもありそうな話である。ジェインズの面目躍如で
あり、たしかにデイヴィスを初めとする同志社の宣教師たちは、当時のジェインズにとって不倶戴天の敵であった。
『同志社百年史』の中で杉井六郎は次のように書いている。
教師生徒有志で結成している同志社講義会がジェーンズに講演を依頼したところ、彼は正統派の神学をはげしく攻
撃した。宣教師はこれを怒り、学校当局にこれを中止させようとしたが、当局(市原盛宏ら)は学校としてはこれ
を中止させるほどのことではないとしたので、両者の関係が面倒になった (2)。
当時小崎弘道社長も浮田和民もイェール大学に留学中で(当時の同志社では「社長」でさえ留学することができた)、
社長不在中の臨時校長を市原盛宏が務めていた。現在ではキリスト教神学における「正統派」対「非正統派」の対立
が同志社の内部で問題視されることは考えられない。しかしジェインズと同志社の問題を考える場合、これは避けて
通ることのできない問題だった。それだけではない。新島没後に起こった同志社とアメリカン・ボードの軋轢も、ま
た浮田和民や安部磯雄のような生え抜きの同志社人が同志社に留まることができず、早稲田へ去っていったことの背
景に、この問題があった。それ故、ジェインズの同志社講演はきわめて象徴的な事件だったのである。
次に『同志社五十年裏面史』に青山霞村が書いたことを点検しておきたい。
エル・エル・ゼーンス氏は熊本組を薫陶した生みの親で、熊本洋学校を解雇された時、デビス博士がこんな人物を
逸してはならぬと、同志社へ招聘するやう熱心に本国へ交渉したが成らず。その内双方に面白くない感情が蜿るや
うになり、且つその信仰が非常に自由説に変ってをった人である。その頃同志社に教師や学生によって作られた同
志社講義会といふものがあって、このゼーンス氏の講演をきくことにした処がその講演で宣教師の奉ずる神学を猛
烈に攻撃したので、宣教師団が承知せず、中にも一人の如きは書面で校長代理の市原盛宏に迫り、その講演をやめ
ねば自ら辞職すると通告した。然るに市原は学校から停止せしめる程のものでないといって、その要求を拒絶した。
幸に委員が自発的に講演を断はったので、兎に角事は治ったが、一時宣教師達は引上げる形勢であった。これは広
く同志社全体の思想の自由に関する内外の衝突であったが、学校内でも新神学で思想信仰が動揺し、そのために内
外人の感情が面白くなかったその時に、宣教師達とも不仲になってをるゼーンス氏に講演させたことは時を択ばな
い嫌ひがあり、外人側の憤激したのも無理とは思はれない。狭く熊本組だけとしてみると、第二の親と貰ひ子との
間に気まづひ思をしてゐる処へ、生みの親がでてきて、散々第二の親の悪口をした。それに小供がまた生みの親の
方[ママ]をもつたといふ形で、こんな事が起つてはその家が丸く治るためしがない (3)。
いかにも青山霞村らしい最後の比喩は説明するまでもあるまいが、「第二の親」はアメリカン・ボードの宣教師、「貰
ひ子」は熊本バンド、「生みの親」はジェインズである。私は青山が状況をいかに的確に把握していたかに感心する。
熊本バンドの一人、宮川経輝は、講演終了後壇上にかけあがり、旧師を非難したということである (4)。『同志社五十年史』
の主要記事を書いた中瀬古六郎は、その歴史記述の中でこのジェインズ講演に触れていないが、彼は同志社チャペル
において二回目と三回目の講演の通訳を務めた(漠然とではあるが、一回目の講演には通訳がつかなかったという印
象を受ける)。中瀬古は(三回目の)講演が終ると泣きながら「その講演の通訳をしたことを公に謝罪し、ジェイン
ズのことを『下劣な野郎』と呼んだ (5)」。
石井論文はジェインズの第一講演、第二講演の原稿を参照した上で執筆している。石井論文によると、ジェインズ
は第一の講演を次のような文言で始めている。
二十年近く前、ここに集まっている君達のように若いある生徒が私の所にやって来て訴えた。「私達は神の光を
考え求めています。私達の幾人かはキリストを愛していると考えています。一方で、基督教には数多くの宗派があ
ることも認識しています。私達は最良の基督教を必要としています。先生、どうか私達にどれが最良の基督教なの
か教えて下さい。」
それから二十年の間、あの若者からこの質問に対する興味が失せたことは一時たりともなかったと思っている。
君達がこのことに興味を示すなら、或る人に意見を求めるとよいだろう。何も遠くに行く必要はない。彼は、上機
嫌で、今君達の目の前に腰掛けておられる。[彼こそ]賀茂川近くにある京都の最も偉大なる大学の尊敬すべき[同
志社]社長なのである (6)。 ジェインズの「クマモト」によれば、「最良の基督教」について質問に来たのは市原盛宏だった。ジェインズは市
原を「社長」としているが、社長は勿論留学中の小崎であった。さて、この第一講演を石井論文は次のように好意的
に評価する。
・・・内容は、神学における相対する二つの領域、即ち、超自然主義信仰と実証科学を説いて、旧体制からの脱却
を訴えたうえで、面前の同志社学生に対して、長く険しい修行を経て、啓発、愛、大義の使徒になってほしいと激
励する講演であった。概して、知的で、極めて真面目で、同志社における講演として的を射た内容である。
ジェインズの宗教論については、神学などの領域で、所定の学問として受容され得るものなのか否か筆者には判
断できない。しかし、ジェインズが道徳律を基盤にして「世界で最も偉大なる人間」の根本原理を説こうとしたこ
と、彼が多数の政治家、哲学者、教育者、科学者、神学者、文学者、思想家などの論考を広く研究したこと、さら
に、同志社での公演[ママ]においても、熊本洋学校の日常と同様、彼が彼なりに纏め上げた思想のエッセンスを 学生達に分かりやすく伝える努力をしていたことは評価に値する (7)。 石井論文は当時のアメリカン・ボード宣教師たちがしきりに気にしていた福音主義の問題意識(いわゆる「正統派」
主義)を度外視して論を進めている。「福音主義」という言葉は誤解を招きやすいので、ここで最小限度の説明を加
えるなら、それはイエスを救い主(キリスト)として受け入れる三位一体主義の立場である。熊本時代のジェインズ
がその福音主義に立っていたことは明らかである。しかし一八九三年のジェインズははっきりとその考え方とは絶縁
していた。
同志社講義会を代表してジェインズの講演を頼みに行ったのは、後年同志社の第十一代総長を務めることになる、
当時二十二歳の牧野虎次だった。牧野は晩年に執筆した回想録『針の穴から』(一九五八年)の中に「キャプテン・
ゼンス」という章を書いて、一八九三年のジェインズ講演を回想している。牧野は学生時代に熊本バンド出身の諸先
生からジェインズのことを十分に聞いていたので、そのジェインズ先生を同志社が採用せず、第三高等中学校に取ら
れてしまったことをくやしがりながら、ジェインズに講演を頼みに行った。しかし牧野はその講演が「支離滅裂で全
然なって居ない」ことに驚いた。牧野の言葉を引用する。
外国宣教師に対する非難と云うよりも、寧ろ基督教々理、就中、霊魂不滅や天啓黙示に対する罵詈讒謗で終始し、
我々は唯だ唖然たるの外はなかった (8)。
ノートヘルファー (F. G. Notehelfer
( 氏っ行に問質にズンイェジをとこたかは講牧野があとで、演なの中でわからっ たとしている (9)が、牧野自身は抗議に行ったとする。
私は講義会の世話役として黙って居る訳には行かず、講演が終るや否や、直ちにゼンス先生について行って続講を
お断りした。その時の大尉の権幕は恐ろしいもので、今にも鉄拳を揮わん計りだった。「誰に唆かされたかデビスか」
との怒号だ。私は「曩にも申した通り我々学生の発起でお願いに参った。今ここでお断りするのは我等であって誰
にもそそのかされては居ない。我等はクリスチアンだ。第三者の学説は謹聴すべきだが、罵詈讒謗は聴くに堪えぬ」
と抗弁した処、サスガはキャプテン・ゼンス言葉を柔らげて「俺は誤った、感情の迸りだ、許して貰い度い。俺は
同志社学生を他人とは思はない、愛する日本青年の為にモ一度チャンスを与えてほしい、屹度、言葉を慎むから」
との仰せであった。そこで私は念に念を押して第二回の講演を頼むことにした。ダガ夫は全然失敗であった。一旦
演壇に立って満堂の聴衆を眺め渡さるるや否や、殆ど正気を失われた如く・・・その権幕恐ろしく、滔々口を突い
て迸り出ずる言々句々は、殆んど聴くに堪えず。遂に通訳の中瀬古氏は涕ながらに辞退して壇を降りて終った。や
むを得ず講演会は中止となり、私は講師に対しては最早挨拶の仕様もなかった
)(1
(。
牧野の回想は、激怒するジェインズに直面した当事者の感覚をよく伝えるものであるが、客観的な記録によれば、
ジェインズは確かに三回の講演をしている。どうやら牧野は第二回と第三回の講演を合併して記憶していたという感
じがする。牧野はもう一つ間違った情報を伝えている。ジェインズ夫人は熊本で客死した、と述べていることであ
る )((
(。ジェインズ夫人ハリエット (Harriet
( はに離し、こ起を訟訴婚離るす対夫熊後、米帰く、なはでのだん死で本婚
を勝ち取ったのちはシカゴで両親であるスカダー (Henry Martyn Scudder
( 夫妻とともに住んでいた。新島襄は
一八八五年十一月、第二次欧米旅行の時、帰国する前にシカゴに立寄り、スカダー家の客となった。その時、ハリエッ
トに買い物の案内をしてもらったりするが、新島は彼女に同情的であり、彼女の中に殉教者的な高貴さを見出してい
る。新島は一八八五年十一月六日の日記に彼女のことを「良心のため、真理のために苦しんでいる高貴な女性」と記
している
)(1
(。彼女はその年の十二月三十日に突如として死去した
)(1
(。
『イ月二日と九日のジェン十ズ講演に対する失望感二は同八志社文学』第七二号(一九)三年十二月二十日発行を
隠すことなく、多少の憐れみの情をこめて、このような報告記事を書いている。「所論の自家撞着の点少なからざる
が如きハ、軍人なる氏に余り多く責むべきものにあらす。世人須らく書の出づるを待て之を一読せよ。其名の高き同
氏が如何なる品位の人間なりやハ明かに知ることを得ん。唯同志社生徒の冷頭漢ハ冷かに一笑して言ハず。多血漢ハ
涙をくくんで憤然たるものの如し。拍手喝采『ゼンス先生はエライ』と云って感服するもの亦之れ一部の生徒なり。」
『同志社文学』の七〇号(一八九三年十月二十日発行)は第一回講演の直前に発行されたもので、
「何れ仝氏の演説
は次号に記載すべし」と予告しているが、七一号にも七二号にも記載がないところを見ると、『同志社文学』として
はジェインズ講演を記載するに値しないと判断したのであろう。また、講演の原稿は同志社における三回分と不発に
終わった四回目の講演の原稿が残っているということだが、印刷されることはなかった。七二号に「書の出づるを待
て之を一読せよ」とあり、編集者は講演の内容について中立的な態度を取っているが、それが書物として出版される
ことについては何ら疑問を感じていない。
石井論文は同志社から三高に送った二つの案内状を紹介している(石井論文が文部省を初めとする諸官庁や学校の
公式文書を丹念に点検し、確実な証拠を握ることに努めていることは評価に値する)。三高関係の文書「第一六一七
号 廿六年十月二十日」はジェインズの同志社講演の予告であり、「参聴随意之事」とある
)(1
(。この案内状は講演が三
回連続講演であることと、それぞれの演題まで記しているが、第二回、第三回講演の日取は書かれていない。ただ総
合演題が Greatest thing in our world となっており、最初の定冠詞の欠如や、the と our の相違等は、同志社側の責
任なのか、それとも受取った三高側の責任なのか、判断できない。
石井論文は続けて「第一六一八号 廿六年十月廿一日」を紹介している。それは「同志社演説会」が十月二十八日
に、祇園館において行う演説会の案内である。この日は午後一時から篠田昌武、山本徳尚、津下紋太郎、坂田定之助、
宮川経輝、午後六時から林顕太郎、森口喜之輔、小野英次郎、市原盛宏が弁士を務めることになっている。『同志社
文学』の七二号にその演説会の状況が報告されているが、これは新島の生きていた頃から同志社の学生と教員がしば
しば試みて来たキリスト教演説会で、仏教徒がはげしく妨害するのが常であった。満員の祇園館でもさかんに妨害が
行われたことがわかる。ただこれはジェインズ講演とは全く無関係である。石井論文の記述からすると、この「演説
委員会」が「同志社講義会」とあたかも同一のものであるかのような印象を受ける。
二 進化論的内容
第一回講演のテキストがすぐには入手できないので、ノートヘルファー氏が記録しているデイヴィスのまとめを拙
訳によって紹介しておきたい。すでに友情をとっくに失い、ジェインズのあからさまな敵意を意識していたデイヴィ
スであるから、公正なまとめとはいえないかもしれないが、比較的詳細にわたっている点を評価して引用する。
彼は最初の晩の講義で、最も偉大なものに見えるけれど、実はそうでないものを論じた。それは強い肉体ではない。
精神力でもなければ知識でもない。愛でも想像力でもない。その問題を彼は四十五分間論じ、宗教を想像力の産物
であるとした。あらゆる聖典、旧新約聖書はもちろん、ヴェーダもモルモンの書も想像力の産物である。聖書を解
釈するのに神学者が必要であり、聖書はわれわれに人間の義務が何であるかを教えない。神学者の解釈はみんなま
ちまちである。次に彼は半時間を使い、私がこれまでに聞いた最も毒舌に満ちた言葉でもってあらゆる神学と神学
者、神学教師、聖書、教会、そしてあらゆる聖職者を非難攻撃した。彼は過去と現在に亘り、キリストの教会とそ
の信仰と実践に関して悪しざまに言われてきたことをかき集めて、すべてこれらは科学の敵であり、奴隷制度反対
運動の敵である、とした。また教会が暴飲の友であったこと、キリスト(彼もまた想像力の産物だが)がカナの奇
蹟によって暴飲の基盤・防禦物として祭り上げられてきたことを口を極めてあげつらった。こうして彼は奇蹟や聖
書が真理を表わす可能性を鼻であしらい、キリスト教とその教会は過去においていくらか良いことをしてきたかも
しれないが、その仕事は終わり、過去のものとなりつつあるとし、彼は最後に聴衆に向い、諸君は想像力の中にこ
の世で最高のものが存在すると信じるつもりかどうかを聞いて終った
)(1
(。
日本人教師の一人がジェインズ講演の骨子をまとめて紹介したらしい。ただし罵詈讒謗に相当する部分は省いたよ
うである
)(1
(。これはまさに正統派主義(その中心にある福音主義)の「迷妄」を覚まそうとする戦闘的リベラリストの
発言である。牧野は支離滅裂な罵詈讒謗と受取ったが、デイヴィスの方は牧野よりもむしろ冷静に、ジェインズの論
理を理解しているように思われる。ジェインズにこのような講演をさせたことを非難する手紙を校長代理の市原に
送った宣教師はアルブレヒト(George Albrecht)だった。しかし市原は学生有志の講義会がやっていることで、中
止するほどのことでない、と突っぱねた。宣教師団は集まりを持って対策を講じたが、名案は浮かばなかった。六週 間が経って、ジェインズは第二回目の講演を試みた。(第二講演まで六週間も経ったことは何故であろうか? 何か
の理由があった筈である。)
第二講演は“The Greatest Thing in the World: What it is.” と題するもので、ジェインズの原稿には中瀬古が通訳
したとの走り書きがある
)(1
(。再びノートヘルファーに従って、ジェインズの講演の文言を、とびとびにではあるが、再
現してみよう。
「周知のごとく、われわれがこの世で最良のものを求めるのは、われわれがそれに従い、それに仕え、それから霊感
を受けるためです。古い制度が壊れ、古い信仰と教会とが前例を見ないほどに色褪せてしまったこの過渡期において
は、われわれはすべて待ち焦がれている状況にあります。諸君にしろ私にしろ、今あるところの人工的な義務の制度
よりももっと確実な基盤を欲しています。そのような制度が代表するよりももっと明確で確実な真理を欲しています。
われわれの心の中には人知の範囲内で最良のものを欲する欲求があります。それ以下の何物をもってしても、われわ
れは満足できません。」
「明治時代こそは・・・文明開化の時代でなければならぬということですが、欧米が捨て去った貧弱な迷信的要素に
しがみついている日本は、世界に向って宣言したこと[五カ条の誓文]の内容をいかにして成し遂げるのでしょう
か? 想像力を通して提供されたあらゆる誘惑を諸君が断固捨てない限り、まさにその状況が続くことでしょう。」
「科学探究の競争はまだ始まったばかりですが、すべてを包括する真理は驚くべき仕方で人間の思想に啓示されてい
ます。それはこういうことです。自然界には、われわれの外にも内にも、奇蹟が起こる機会はありえない、というこ
とです。」
「法則は利益をもたらすが、融通のきかないものです。原因と結果の限りない連鎖、遺伝、適応、最終的な知的選択は、
責任を持ってくれる運命といったものは不可能であることをはっきりさせます。」
「すべての科学の大道から接近するならば、[生物が]分化を通して進化するという法則は、必然的に認められます。
原形質細胞から始まった形態、器官、機能は複雑に広がりながら、地上のあらゆる生物の行列を導く有機体へと導い
ていきます。この世における生命の進化は、完全に限定される民族的実体、地球上に活動するすべての自然エネルギー
の代表において頂点に到達したのです。」
「しかしながら、進化の働きは無限に不完全なものです。絶えず完成へと近づきつつも、それは同時に営みであり、
約束であります。達成はさらに活き活きと、そして確実に、理想を指し示します。理想に向けて達成が計られ、理想
実現のためには準備があるのみです。細胞はその理想を器官に持ち、器官はそれを高度の機能に持ち、機能はそれを
より複雑な存在の集合に持ち、存在はそれを社会に持ち、社会生活はそれを知性と愛と義務に持つのであります。」
「そういう訳で、現在の達成が示す理想を理解するならば、人類こそが全世界で最良のものなのであります。」
「キリストの性格、教え、彼の生と死は、神聖で神的なものの最高の観念を私の心に伝えます。それは私に神の理想
の観念を可能ならしめるものです。それはキリストが、さまざまな無限のものに巣食う、先回りして想像された総体
を代表する偶像ないしマネキン人形だからではなく、人類の中の一個人のさまざまな可能性の縮図として神が与えた
ものだからです。われわれは力、知性、愛、憐れみ、共感、神聖、喜び、善、真理、悪、苦難、虚偽、悲しみ、誕生、
死を知っています。しかしわれわれはそれらを力ないし人間の属性として知っているのであって、想像された人物の
機械的な総合として知っているわけではありません。」
「ガリレオの望遠鏡が透明球体すなわちプトレマイオスの循環のもつれを解消したとき、無限は不可解となり、法則
のヴェールの彼方に去りました。」
「その瞬間に倫理学の全領域が開化と理性に関わることになりました。義務と道徳関係に関する限り、全能者の意志
の唯一の啓示は、人間に知られている創造目的の最高の具体化である人類そのものの中に見出されるのであります。」
「進化の法則は永続的に作用するのですが、あの理想は常に近似値にすぎません。道徳関係は絶えず複雑化していき、
更に多様化し、洗練されたものとなり、それ故更に平和的で完全なものになります。道徳法則の相対性は、増加して
いく有益な果実によってその真実性が立証され、それの威厳は純粋に人間的な認可によって確立されます。」「[宣教師たちは]諸君に『不信仰は罪である』と言うでしょう。私はこう断言します。疑い、疑問、不信こそは知的
進歩の魂である、と。人類こそはあらゆる努力と義務の当然の目的であり、道徳的確実性の第一の条件なのです。人
生の規則は宇宙の規則と同様、われわれがそれを知る限り、それが働く姿を見る限りにおいて、止むことのない、調
和的な運動です。それは終ることのない、威厳に満ちた、崇高ないとなみです。『信仰』を盲目的に崇拝することは
怠惰のわざです。彼らがずるい誘惑の犠牲者たちにむかって、『行為は死に終る』と説くとき、まさに彼らは不潔な
欲望の徒であるのです。」
「不可知的な無限者に対する人類の関係について言うならば、進化論と創造の方法は、すでに述べてきたように、明
確で積極的なものです。人類は無限の過程の終局であり、更なる進化的理想と目的達成のための手段となることがで
きるだけです。不可知的創造的無限者に対するわれわれの義務はそのような理想達成について学ぶことであり、それ
を容易ならしめることです。いかなる瞬間においても理想的な人類は、この世で最高、最大、最良のことを実際に達
成してきたのです。われわれが創造的な力と目的に名誉をもたらすとすれば、それはあらゆる手段をまじめに用い、
あらゆる能力を英雄的に使い、ますます高度の応用に資するために絶えず知性を磨くことを通してであります。」
「人類は結束します。人類とは、絶えず完成をめざす理想に向けて、自己を開発するという使命を帯びて、或る不可
知の全能者から派遣された使者なのであります。超自然主義者はキリストの譬え話の目的を混同しています。超自然
主義者は人類を堕落した放蕩息子と見做すように仕向け、創造のもみ殻を食べ、娼婦や豚と共に寝る者だとします。・・・
私は今諸君の前にイエス・キリストと人類からの使者として立っています。キリストは人類のために犠牲になりまし
た。私の告げるメッセージは、人類はパリサイ人に嘲られるような堕落した被造物ではない、ということです。私が
ここに立っているのは、人類の敵の一人ひとりに、まるで豚が良質の穀物を台無しにする如く、彼らがいかに人類進
歩の手段を踏みにじって泥まみれにしたか、思い知れ、と命じるためです。」
「いったい誰が、人類の最もへりくだった人としてのキリストの名を騙ってキリストを矮小化し、いつわり、無視し、
侮辱したのでしょうか? いかにして彼らはレンガやモルタルや材木やガラスを安っぽく色付けたりした建物を建
て、それを『奉献』し、そして貧困と不正義と防止可能な病気のためにハエのように死んでいく無信仰の貧民を、パ
リサイ人的な軽蔑の目で見下すのでしょうか。彼らは諸君のレビ人的、祭司的『信仰者』に従う者たちというより、
キリストの兄弟たちではありませんか。」
「人々は暗黒、無知、病気、疫病、飢餓、その他数々の悪の真っただ中にありながらも、天国と新しいエルサレムを
夢みることに満足してのほほんと過してきました。こうした悪のすべては少し努力するだけでとっくに克服でき、な
くなっていた筈のものでした。酔うことと滋養を取ることとは別物です。宗教に酔うことは、アルコールの杯と同様、
情緒、意志、精神に悪い効果を与えます。それはアルカリ性の薬が有機体の能力や繊維に悪影響を与えるのと同じこ
とです。それ故、生命に対する健康な欲求は夢想によって養われたり、援けられたりするものではありません。」
「この世で最も良い、最も神聖で、最も偉大なものは、感知できる現実なのであって、感知できない非現実ではあり
ません。新しい秩序は人間、人類に現実を要求します。それは考え得る限り最高の現実です。超自然主義という古い
体系は、仮定というか、気まぐれの上に築かれてきました。それに一切のエネルギーを注ぎ込んできたのです。」「『魂の不滅性』というのは、人類にとって、効率最低で、極めて自己中心的で、最も汚い利己主義的な集団が抱いた、
極め付きの気まぐれでした。彼らはこの地球上で、われわれの自然生活の条件を発展させ完全ならしめるのに、ちっ
とも勇敢でありませんでした。彼らは『人間らしさ』の感覚を心の底から軽蔑しました。彼らは現実の創造の不十分
さにため息をつき、ひどく鼻を鳴らしました。彼らは全能者に永遠の生命と、空想的喜びの天を要求しています。」
「現代のキリスト教は利己主義的欲望の宗教であり、『魂の救い』と天に憧れる宗教であります。」
「私の考えるキリストの宗教はこれの丁度逆でした。キリストに近付けば近付くほど利己主義は薄れ、共感、兄弟愛、
人間性、愛そのものの雰囲気が増し加わるのです。それはブッダであるゴータマの性格を独特のものたらしめる無限
の憐れみの雰囲気であると感じます。」
「究極的な運命は究極的な創造の起源と同様、地上では人類の進化において頂点に到達します。それは必然的に人間
の知性からは隠されています。ただ人類の運命への接近の方法と性格だけが、現在のところわれわれの理解の範囲内
にあるのです。人類の発展の方法と性格はわれわれの生命の始まりが示すように、ごくごく低次のレベルから発して
います。人知の範囲を広げる手段を理解し達成するために、人類は人知の限界を押したり引いたりします。これは理
性と反省を所有する存在としては避け難いことです。そして天才が出て人類全体を有限な能力の埒外まで導くさいに、
驚くべきことを達成するでありましょう。」
「物を考える男女の大多数がこれまでにしてきたように、これら欲望の偶像の奴隷状態を打破する以外に、人類の指
導者たちをして、贖われた本性の熱心を、創造の進化的調和に調子を合わせるようにさせましょう。そうすれば彼ら
は人類全体をより高度の発展のレベルへと急ぎ導くことになるでしょう。」
「そういう訳で、これが義務、正義、愛の新しい秩序が、個人の憧れと恐れに対して引き続き作りだす答なのです。
諸君は包括的な全体に所属しています。その運命から利己主義的に離れようとすることは反逆です。諸君が保証され
ている永遠の生命は進化の階梯ごとに予言されてきました。その進化は人類を現段階にとどめておくものではありま
せん。人類のより高度の運命は、諸君自身の継続する存在の一部分であり、実現であり、成就なのです。諸君はその
運命を自分自身の運命を改変するように、作りかえることができます。もし諸君がキリストの救いにあずかりたいと
望むならば、キリストと共に愛と義務の徳目を始めることです。キリストが愛し、行動したように、諸君もまた愛し、
行動することです。そうすれば利己主義的な欲望は死に、恐れは愛に飲みつくされます。この過ぎ行く世代の私たち
にとって、特別な命令があります。『パリサイ主義のパンだねに注意せよ』というものです。それはまがいものの不
滅性でもって欲望と恐怖を買収するので、注意が必要なのです。」
「神学者の理論は過ぎ去っていきます。ここ一、二世紀の間に、科学は、キリスト教が十五世紀間かかってなしとげて
きたよりも多くのことを、人類の幸福と向上のためになしとげてきたのであります
)(1
(。」
石井論文によると、第三回講演の原稿はみつからないらしい。上記の「第二回」が異常に長いことからすると、第
三回は上に記録したものの後半がそれであったのかもしれない。ボラーは「第三回講演」をこのように要約する。「ジェ
インズの第三講演は、デイヴィスの意見では最悪だった。彼は教会と超自然的なキリスト教を公然と笑いものにし、
神と魂と来世の存在を否定し、宣教師たちを公然と非難した
)(1
(」。
さて私はジェインズの第二講演から長々と引用したが、その意図は五つある。第一に、私はジェインズがロマンチ
シストであり、詩的な精神の持主だということを示したかったからである。この情熱的な講演を、あらかじめテキス
トを見せられることなく、果して中瀬古は正確に通訳することができたであろうか? 第二に、私はジェインズがい
かに進化論の信奉者であるかを示したかった。彼の論理は、ラフカディオ・ハーンの所説を想起させる。つまり、詩
的感受性の持主が進化論から強く影響を受けたケースである。第三に、ジェインズは科学の決定的な重要性を強調す
るけれども、イエスを否定していない、ということである。彼はむしろイエスを、進化論的世界像の極致としての新
しい存在と見做している。但しキリスト(救い主、メシア)はデイヴィスの要約にあるように、想像力の産物という
ことらしい。ジェインズは無神論者ではなかった。第四に、ジェインズは「福音主義的な」イエス観を、想像力の産
物として厳しく批判している。彼の敵対者であるアメリカン・ボードの宣教師たちはすべて、「福音主義的な」イエス、
つまり十字架上の死を通して、人類の罪を贖った神の独り子イエスという、「幻想」を信じている、度し難いやから
なのである。第五に、私はジェインズの同志社講演をN・G・クラーク (N. G. Clark
( に報告する宣教師文書を読んで、
あの時のジェインズの頭は正常でなかったのかもしれない、と考えた。しかし、上記の講演を読むと、ジェインズの
頭が完全に正常だったことを理解できる。むしろ、ジェインズは、この講演をすることによって、同志社のキリスト
教(宣教師が伝えた正統主義のキリスト教、というべきかもしれない)の特質に強烈な光をあてたことになる。青山
霞村はジェインズの考え方が「自由説に変ってをった」と述べたが、神学上の「自由説」(リベラリズム)が同志社
神学の主流となって、第二次大戦後まで続くのである。海老名・植村論争もこの文脈から理解することができる。
宮川経輝がジェインズをその場で非難したことも、通訳の中瀬古が泣き出したことも、牧野がその講演を「支離滅
裂」と呼んだことも、デイヴィスやアルブレヒトがあのように反発したことも、すべて一八九三年当時の同志社神学
が、まだ健全な福音主義に立っていたことを示している。同志社のキリスト教がその後リベラルな神学に向うのはど
のような契機に基くのか、極めて興味深い問題であるが、本稿の範囲を逸脱する問題であるので、ここでは論じない。
三 石井論文の特色
石井論文の第一のメリットは、外務省や諸官庁、大学等でジェインズに関わる公文書を広範囲に渡って掘り起こし、
それを手堅く活用して事実を確定していることである。これは博士論文として当然のことであろう。本論文は
一八七一年夏にジェインズが、初めて来日した時には、「熊本兵学校」(これは実現しなかったが、実現したモデルに、
沼津兵学校がある)の教官になる可能性があったことを示唆する。大坂英語学校における英語教師としてのジェイン
ズの担当科目、担当時間、給与の額等がこの研究により明確になった。またジェインズと第三高等学校の折田彦市校
長との関係が、従来考えられていた以上に密接なものであったことを明らかにした。ジェインズが一時鹿児島の造士
館(第七高等学校の前身)に赴任したことも、折田との関係を抜きにして考えることはできない。
第二のメリットとして私が挙げたいのは、一八七一年八月、熊本赴任にあたりジェインズ夫妻が、長崎から海路、
熊本の外港である百貫港で上陸したのち、十五キロ離れた熊本に入るのに、可能な複数のルートのうちのどの道を取っ
たかの問題で、従来の通説の間違いを指摘し、新たにそのルートを特定したことである。そのために著者は熊本を流
れる三つの川、白川、坪井川、井芹川のルートを明治初期に遡って調査し、ハリエット夫人の手紙を参照し、更には
翌一八七二年の明治天皇の熊本行幸のとき天皇が辿ったルートをも参照して、白川沿いの道という従来の通説は間違
いであり、坪井川・井芹川沿いの道を取ったとするのが正しいことを証明した。
第三のメリットとして、現在熊本県立大学図書館が所蔵する六十五冊の洋書を一冊ごとに点検し、扉等に押されて
いる朱印を調査することによって、熊本洋学校との関連においてそれぞれの本の来歴を調査したことである。熊本洋
学校というアイディアの提案者である横井大平が、オランダ改革派ミッションのニューヨーク本部の主事であった
フェリス(J. M. Ferris
長崎で横井大平を教えた宣教師フルベッキ
Guido H. F. Verbeckを派遣した本部の主事であ
る)に注文した本、ジェインズ自身がフェリスに注文した本、熊本洋学校で教科書として使われた本、図書館に備え
られた参考図書、ジェインズの寄贈図書、勝海舟が寄贈したと考えられる図書等、さまざまのものの寄せ集めである
ことがわかる。当時の朱印がそれらを特定するのに極めて有用であることを本論文は実証する。こうした蔵書の研究
は、熊本洋学校の教育内容に光を当てるものとして意義深い。
第四に私は本論文がジェインズ夫人の実家であるスカダー家の内幕をなまなましい形で示していることに忘れ難い
感銘を受ける。スカダー家といえば、アメリカン・ボードのインド伝道では「名門」と言われた家柄である。スカダー
家は短期間ながら新潟(北日本ミッション)での宣教にも役割を果たした。石井論文の教えるところでは、「名門」
の内部はとうてい模範的なクリスチャン家庭とは考えられないということである。附録として巻末に置かれた十の文
書のうち、その三は「ロイス Loisの供述書」である。ロイスはジェインズ夫妻の次女で、離婚に際し母方に引き取
られた。離婚した母ハリエットはシカゴの両親、スカダー牧師夫妻のところに三人の子を連れて身を寄せていた。ス
カダー家にはハリエットの弟のハリー (Harry≪Henry
(Bessie( と妻ベッシ︱
( がいた。ハリーはベッシーの母、ダ
ントン夫人(Mrs. Dunton)を殺したという容疑で投獄される。ハリーの裁判に際し、姪のロイスが裁判所に提出し
たのが、この供述書である。
それによると、叔父のハリーとベッシ︱夫妻はことごとに出戻りの姉と子供たちをひどく扱った。ロイスの祖父母
に当るスカダー夫妻は、そのいじめを見て見ぬふりをし、少しもハリエットと三人の孫たちを保護しようとしなかっ
たという。おまけにハリエットには「子宮脱」という気の毒な持病があり、妊娠中は安定するが、妊娠していない時
にはしばしばこれに悩まされたようである。ハリーは医師だったから、一八八五年の暮にハリエットの健康が急変し
たときには、彼が家の中で応急の措置を取ったが、ハリエットの悲鳴は家中に響いたという。ロイスはハリエットの
死は叔父のせいだ、と信じていたようである。獄中にあったハリーは、モルヒネを多量に飲み、自殺を思わせる死に
方をする。
ジェインズ夫妻が離婚することになった原因は、ハリエットが夫の熊本時代の不倫が原因で梅毒にかかっていたと
主張し、それを父のスカダー博士が信じてしまい、スカダーが離婚訴訟に持ち込んだのであった。ジェインズは医師
の診断を受け、梅毒でないという証明を得ている。しかしスカダー博士の言う事をデイヴィスもアメリカン・ボード
も信じた。(新島も信じたといわざるをえないであろう。)明治初期の熊本のような土地で、外国人が女性問題を起せ
ば、たちまち知れ渡るに相違ない。このことをジェインズから打明けられていた浮田和民は、スカダー博士やハリエッ
トの言い分を信じることができず、ジェインズを不倫の夫と見做したアメリカン・ボードを許すことができなかった。
浮田はアメリカン・ボード宣教師たちにとって、最も警戒すべき、手ごわい相手であった。
この状況を背景においてみると、デイヴィスが『新島襄の生涯』の中で、一八七六年一月に熊本洋学校生徒の間で
起こったリバイバルの隠れた原因がジェインズ夫人であったとするデイヴィス自身に、微妙な影がさすのである。デ
イヴィスは書いている。「今や私は密室でひそかに祈っていた人のことについて語らなくてはならない。この人は天
の父から誰の目にも明らかなむくいをさずかった。それはジェインズ夫人である。彼女は生徒らと知り合いではなかっ
た。しかし何か月にもわたって彼女の心は生徒らが救われるようにとの熱烈な願いに満たされていた。彼女は昼とな
く夜となく聖霊が彼らに臨むようにと祈っていた。これがあのリバイバルの隠れた原因だったのである
)11
(。」ジェイン
ズ夫人に関するこの情報をデイヴィスは誰から入手したのだろうか。スカダー博士か、その子息のドリーマス
(Doremus
( からであろうか。新島が彼女を「高貴な女性」と考えたように、デイヴィスもまた彼女を聖女と見做すこ
とに傾斜していたのではなかろうか。さらに言えば、デイヴィスとしては、熊本バンドの生徒たちの回心を、自分を
敵視するジェインズのせいとする以上に、ジェインズ夫人のせいとしたい気持が働いたといえるかもしれない。
石井論文を読んで、熊本洋学校のことを知れば知るほど、同志社において熊本洋学校は正しく理解してこなかった
という気がしてくる。確かにこの学校から、ジェインズの紹介により、同志社に約三十人の生徒がやってきた、とい
われてきた
)1(
(。同志社では何となく、洋学校の生徒の大多数が同志社に来たのだという印象を受けるが、事実はそうで
なかったことがわかる。初期の同志社英学校においても同じことであるが、当時の生徒数を正確に把握することは至
難の業である。おまけにジェインズはできない生徒を平気で退校させたということである。石井論文でも二通りの数
え方をしている。一つは『白川新聞』の記述に基くもので、一期生(明治四年入学)は四五人、二期生(明治五年入
学)は六三人、三期生(明治六年入学)は三六人、別の資料により、四期生(明治七年入学)は三〇〜四〇人として
いる
)11
(。もう一つは石井氏が「熊本洋学校生徒の進路」という章
)11
(の中でおこなった綿密な調査に基くリストである。そ
れによると、一期生は中退生を含めて約三十二人いたが、そのうち同志社にきたのは六人(伊勢、浮田、小崎、森田、
山崎、吉田)である。二期生は中退生を含めて約七十二人いたが、同志社に来たのは十一人(赤嶺、市原、海老名、
加藤、金森、下村、徳富猪、林、不破、宮川、和田)、三期生は約二十二人、同志社に来たのは一人(岡田)、四期生
は約二十四人、同志社に来たのは二人(家永、井出)、五期生は約八人、同志社に来たのは四人(亀山、蔵原、原田、
松尾)である。これは石井論文に記録されている名前を拾ってみただけだが、五学年合わせると、一五八人の洋学校
生徒に対し、同志社に来た人は二四人となる。同志社では常に、熊本洋学校から約三十人きた、といわれてきた。だ
から、同志社に来ても、定着しなかった人がかなり存在することになる。なお、熊本洋学校で学び、奉教趣意書にサ
インしている上原方立の名前が石井論文には見当たらない。
この論文の弱みは、三高や造士館での、教師としてのジェインズが十分に描かれていないことであろう。三高の場
合、教え子の反応は注に出てくるが、あれは当然本文の中に入れるべきである。造士館の学生の反応については、何
も書かれていない。
この論文に関する最大の弱みは、熊本洋学校であれほど莫大なインパクトを生徒に与えたジェインズが、なぜ大阪、
京都、鹿児島ではそれに匹敵する仕事が出来なかったのか、という問題を等閑に付していることである。札幌に来た
クラーク(William Smith Clark )がよいヒントになるが、あのクラークも札幌農学校の学生に莫大な影響を与えた
のに、マサチューセッツ農科大学長としては生彩を欠いていた。この問題に納得のいく回答が出るまで、ジェインズ
研究に終止符を打つわけにはいかないであろう。
注
(1)
青山霞村『同志社五十年裏面史』
(からすき社、一九三一年)、五九頁。(2)
『同志社百年史』
(同志社、一九七九年)、通史編一、四三四頁。(3)
『同志社五十年裏面史』
、一五七〜五八頁。(4)
ポール・F・ボラー(北垣宗治訳)
『アメリカン・ボードと同志社』(新教出版社、二〇〇七年)、一二八頁。(5)
ボラー、同頁。
(6)
石井容子『熊本洋学校教師
Capt. L. L. Janes 研究:足跡と功績』(熊本大学博士論文、二〇一二年)、一四九〜五〇頁。(7)
石井、一五〇頁。
(8)
牧野虎次『針の穴から』
(牧野虎次先生米寿記念会、一九五八年)、五五頁。(9) F. G. Notehelfer, American Samurai: Captain L. L. Janes and Japan (Princeton University Press, 1985(, p. 349, Note 15.(
10) 牧野、五五
〜五六頁。(
11) 牧野、五三頁。
(
12) 『新島襄全集』七巻(同朋舎出版、一九九六年)
、二七一頁。(
( 13) Notehelfer, p. 228.
14) 石井、一四八頁。
(
( 15)Notehelfer, pp. 239-40.
( 16) Notehelfer, p. 240.
17) 石井、一五〇頁。
(
( 18) Notehelfer, pp. 243-48.
19) ボラー、一二八頁。
(
20) J・D・
デイヴィス(北垣宗治訳)
『新島襄の生涯』(同志社大学出版部、一九九二年)、八五頁。(
21) 『同志社九十年小史』
(同志社、一九六五年)、一七四頁。(
22) 石井、六四頁。
(
23) 石井、一七七
〜八二頁。
参考文献ポール・F・
ボラー(北垣宗治訳)
『アメリカン・ボードと同志社』(新教出版社、二〇〇七年)J・D・デイヴィス(北垣宗治訳)『新島襄の生涯』(同志社大学出版部、一九九二年)『同志社文学』七〇号(一八九三年十月二十日)、七二号(一八九三年十二月二十日)『同志社五十年史』(同志社校友会、一九三〇年)青山霞村『同志社五十年裏面史』(からすき社、一九三一年)『同志社九十年小史』(同志社、一九六五年)『同志社百年史』(同志社、一九七九年)、通史編石井容子『熊本洋学校教師 Capt. L. L. Janes 研究:足跡と功績』(熊本大学博士論文、二〇一二年)『新島襄全集』七巻(同朋舎出版、一九九六年)
F. G. Notehelfer, American Samurai: Captain L. L. Janes and Japan (Princeton University Press, 1985(