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戦後沖縄の基地と女性 : 人の移動とライフヒスト リーから

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著者 桐山 節子

雑誌名 社会科学

巻 46

号 1

ページ 169‑196

発行年 2016‑05‑30

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014478

(2)

戦後沖縄の基地と女性

─ 人の移動とライフヒストリーから ─

桐 山 節 子

沖縄県金武町では基地キャンプ・ハンセンが 1961 年に完成し,新開地も区画整理さ れた。基地は地域経済の振興となったが,軍用地料と性暴力にかかわる重層的な緊張 をもたらし,その問題は長らく言葉にしないこととされてきた。

しかし,1990 年代には,金武町内で軍用地料の女性差別解消運動が起こり,金武杣 山訴訟が提訴された。この訴訟の背景要因には,基地と基地経済が人の移動を促し,地 域社会の構成員の出自を多様化したことが挙げられる。1995 年には沖縄米兵少女暴行 事件が発生した。また,新開地の女性従業員は,基地周辺のバー・クラブなどで働き,

兵士が内包する暴力に最もさらされ差別的な様相と言われてきた。

先行研究は,研究者の分野ごとに議論される傾向があり,上記の女性差別は同時代 的な問題でありながらこれまで併せて議論されてこなかった。

これらを踏まえ,本稿の目的は,人の移動を軸にして基地と地域と女性差別の問題 を提示することである。そのため,戦後から 2000 年代中頃までを対象時期に,地域史 やインタビューをもとに検討した。

は じ め に

沖縄県国頭郡金武町(当時金武村)は,第三次土地接収の中で米軍基地キャンプ・ハ ンセンの建設に同意し,基地は 1961 年に完成した(図 1)。その工事は,急激な人口増加 を伴い門前に新開地という商業地域(バー・クラブなど)も区画整理された。基地は,地 域経済の振興となったが,軍用地料と性暴力にかかわる重層的な緊張をもたらし,その 問題は長らく口に出さないこととされてきた。

しかし,冷戦終結後の 1990 年代には金武町内で軍用地料の女性差別解消運動が起こり,

2002 年には金武杣山訴訟が提訴された1)。この訴訟の背景には,基地と基地経済が人の 移動を促し,地域社会の構成員の出自を多様化したことが挙げられる。

1995 年には,沖縄米兵少女暴行事件が発生しその抗議の模様が世界に発信された。こ れは,日米地位協定が未だ不平等条約であることを再確認させた。 つまり,同時代に地

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1 金武町とキャンプハンセン 出典: 国土地理院発行(1:25,000地形図)の金武(2006年) 川(2005年)地図に,金武町の境界線と注を 加筆し作成。

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域が抱える問題が露呈したといえる。

また,この地域には,女性差別に関わり避けて通れない新開地の女性従業員の問題が ある。その女性らは,基地周辺のバー・クラブなどで働き「基地軍人が内包する暴力に 最もさらされる人々」と言われてきた2)。彼女らの受けた暴力は町内の性暴力事件同様語 られてこなかった。上記の女性差別問題は,同時代的な問題でありながらこれまで併せ て議論されてこなかった。

こうした問題を考慮しつつ,本稿では,金武杣山訴訟を軍用地料や司法に関わる女性 差別問題としてだけでなく,移動と様々な労働を経験した原告という視点から捉え直し,

基地の町の地域を考察する。それは,これまで議論されてこなかった新開地の女性をめ ぐる問題も浮き彫りにするだろう。

本稿に関連する先行研究の第 1 は,人の移動に関わる研究である。岡部政夫は,移民 も貧困と人口・食糧問題と述べるが,要因は複雑で呼び寄せが主要な位置を占め,解放 感も含まれると論ずる3)。谷富夫・安藤由美・野入直美は,沖縄の社会構造を論ずる中 で,失業率が他府県より高率にもかかわらず,「1975 年頃からUターンする青年人口が 本土に比べ約倍に転じた」ことから,地縁・血縁関係のあり方やUターン後の再適応を 論じている4)。両者の研究は,本稿の分析対象である原告グループとその配偶者,新開地 の人々が,どのように移動し居住地に適応したかを検討する際,重要と考えられる。

第 2 は,基地とジェンダーに関わる研究である。藤目ゆきは岩国基地の事例から歴史 的な性犯罪を可視化しつつ,軍事基地が周辺の貧困層を巻き込み「複合的な女性差別」を 産み出し,「社会的に弱い立場にある女性たちを利用して軍隊買売春を蔓延させ,差別を 拡大再生産させた」と論ずる 5)。藤目の分析は重要で,金武町でも類似した歴史があった と考えられる。

第 3 は,基地の町に関わる移動と労働の研究である。波平勇夫によると,コザ市は「複 合的な軍事産業を発展させる事なく」基地経済に支えられてきた6)。それは,移動する 人々を必要とする不安定な地域経済であったとされる。しかし,彼は女性労働が地域経 済にどのように組み込まれてきたかを論じていない。小野沢あかねは,復帰以前の基地 依存経済の中に性産業を位置付ける目的で,女性従業者の賃金・労働などを資料分析や ホステス経験者のライフヒストリーから論じている7)。しかし,コザ市地域の女性問題の 視点からは言及されていない。両者は,同一地域でほぼ同時代の出来事を異なる視点か ら論じている。地域問題は,研究分野ごとに区分けできるものでなく複雑に絡み合って いると考えられる。

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本稿では,筆者の金武杣山訴訟の研究を踏まえ,基地をめぐる人の移動により引き起 こされている地域と女性差別の問題を検討する。女性差別の問題は,訴訟に関すること だけでなく新開地の女性労働を加える。そのため,戦後から 2000 年代中頃までを対象に 金武杣山訴訟原告グループのライフヒストリー,新開地でのインタビュー,地域史など をもとに考察する8)。これによって,基地の町の女性問題が軍用地料,地域と密接に関係 していることが明らかになると思われる。

1 基地と雇用

1.1 人口の増加と就業構造

金武町の人口 戦後沖縄は,大規模な基地建設によって「土地を奪われた農民やその 他の過剰労働が現金収入のたやすく得られる基地労働者に転化した」。これは,米国が沖 縄を東アジアの要石と位置付け「急速に基地建設をなしとげるため労働者や土建業者を 動員することが不可欠であった」ためである。これとともに基地経済がつくられていっ た9)

金武町の人口は,1960 年前後の基地キャンプ・ハンセン建設時に約 2000 人も増加した。

工事終了後一時減少するが,1970 年 9953 人,2000 年 1 万 106 人,2010 年 1 万 950 人と 復帰後も徐々に増加してきた(表 1)。これは,人口減少に悩む本土の類似の地方の町と は様相がかなり異なるのではないだろうか。沖縄の基地の町であることと,それに伴う 人の移動が背景にあるのではないかと考えられる。

次に,後述する金武杣山訴訟の背景には,基地と基地経済が人の移動を促し,地域の 構成員の出自を多様化したことが挙げられる。具体的には,地域内の他地域出身者比率 が一つの要因であった10)。最もその影響を受けたのは,金武町金武区で 2000 年頃におけ る金武区の旧区民と他地域出身者比率は約 3.5 対 6.5,隣接する並里区のそれは約 8 対 2 であった。

就業構造の変遷 金武町は,基地建設のため 1950 年代後半に総面積の約 6 割が軍用地 として接収された。それは,農業就業者の減少を招いた。その後の町の人口の変動と就 業構造について 3 つの時期に区分して述べよう。

第 1 は,基地建設時で 1960 年前後である。1955 年から 60 年にかけて,男性は 3111 人 から 4462 人,女性は 3774 人から 4384 人に増加した。基地完成後の 1965 年には,男性 が 4235 人に減少する一方で,女性は 4956 人と増加した。これは,1960 年代が「農業を

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中心とする第 1 次産業の自営就業者が,基地需要の恩恵を受けて肥大化する第 3 次産業 の雇用者へと転化していく過程」であった。産業別就業者の推移は,第 1 次産業が 1960 年に 46%,1970 年が 19%,2000 年が 13%と減少する一方,第 2 次産業は 31%,13%,

21%,第 3 次産業は 23%,69%,66%と増加した11)

第 2 は,ベトナム戦争が終わった時期である。1970 年から 80 年にかけての男性は 4454 人から 4585 人に増加した。ところが,それまで増加を続けていた女性は 5499 人から 5160 人に減少した。金武町では,戦争終結後の 1975 年に「若者のUターン現象」があり 102 人の男子青年層の人口増加があった12)。当時行われた基地従業員の大量解雇は,「米国国 際収支の悪化による基地再編統合策の一つであり,安上がりな基地を運営するためのも の」であった。

サービス業のうち卸売・小売業・飲食店の就業者数の推移は,1970 年に男性 397 人,女 性は 887 人で,女性数が男性の 2 倍以上であった。しかし,75 年には男性が 355 人,女 性は 699 人,2000 年にはさらに 240 人,450 人と減少した11)。この業種の就業者は,ベ トナム戦争の時期がピークでそれ以降の 30 年間男女ともに減少した。沖縄県の賃金は,

平均に近いのが「製造業,建設業のグループ」で,「サービス業,卸・小売業は,総平均

出典:「統計きん」金武町総務課資料から作成

注 1)1945 年までの金武町の人口・世帯数は,金武村と宜野座村の合計 表 1 金武町の人口と世帯数 (国勢調査)

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賃金を下回り低賃金グループ」であった。賃金水準の最も低い卸・小売業と最も高い電 機・ガス・水道業の賃金を比較すると,1970 年は「前者を 100 とすると,後者は 181」で ある。これは,新開地の経営は利益率が低いことを示し,人々の移動が頻繁に行われた 要因でもあろう。

けれども,1980 年代後半の金武町社交業組合長は「軍用地料が 18 億円,社交業組合関 係の収入が 30-40 億円。これに対し農畜産物が 14 億円,町の予算が 40-50 億円。社交業 は町の経済,ひいて派遣の経済に貢献している」と述べる13)

第 3 は,2000 年以降で新開地の営業が縮小しつつあった頃である。第 2 で見たように,

新開地におけるサービス業,小売業・飲食店の女性就業者数は減少した。しかし,2000 年から 2005 年にかけて男性人口が 4933 人から 5162 人に,女性は 5173 人から 5457 人と 男女ともに増加傾向である。女性の人口増加は,他業種や学生の増加が考えられ,新開 地サービス業に偏重した就業構造から脱却しつつあることをうかがわせる14)

この期間の 1 世帯当たりの人員は,2.83 から 2.48 となった。これは家族世帯が増加し たのではなく 1 人世帯の増加であろう。

また,軍用地料をめぐる女性たちの運動が行われた 1990 年代を見ると,1996 年におけ る 1 人当たりの町民所得は,金武町が 188 万円,県が約 207 万円,恩納村 248 万円,宜 野座村 204 万円である15)。周知のように沖縄県は当時,全国でも最下位グループにある。

その中で金武町は県平均,金武町周辺地域よりもかなり落ち込んでいたのである。この 傾向はその後も続いていく。

同様に,完全失業率も 1990 年から 2000 年の間に高率となり近隣に比較すると約 2 倍 であった(表 2)。

町の母子世帯率は 3%台を推移し,生活保護率は復帰後から 1989 年までは県平均より 下回っていたが,1995 年以降上回り,2010 年には 28%と高率になった。なお,完全失業 率,生活保護率と高齢化率の関係はさらに詳しい調査が必要であろう。

以上から,金武町は日米の基地政策と財政に影響されてきた。基地は新開地をはじめ とする卸・小売業,サービス業の不安

定雇用を必要とし,地域は一面でそれ への依存を強め,激しく人口が変動し た。それにもかかわらず,前述のよう に 1970 年頃から 2000 年まで人口はむ

しろ増加していた。基地の町へ移動す 出典:沖縄県Webサイト 2015/02/07 単位:千円 http://www.pref.okinawa.jp/toukeika/index.html

表 2 3 町村・完全失業率

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る,あるいはUターンするメリットは,基地周辺整備事業費などによる就労機会が多い ことや軍用地料の配分などが考えられる。加えて,「相互扶助」「家族主義」などが関係 しているのかもしれない16)

1.2 軍用地料と原告グループの雇用17)

軍用地料 地料は 1952 年から支払われ減額されることなく上昇してきた。特に高額に なったのは,土地収用の余りの強引さと賃料の安さに抗議した「島ぐるみ闘争」後の 1959 年,沖縄返還とともに基地の本土並み使用を要求してたたかわれた復帰運動後の 1972 年

(支払いが米国から日本に変わった),1995 年の沖縄米兵少女暴行事件の後である18)(表 3)。

金武町の軍用地料は町役場・区事務所の予算となり,民有地部分は個人と入会団体で 管理されている。それはすでに深く地域経済と社会に組み込まれている。2011 年度の金 武町予算は,約 102 億円で,そのうち 3 割が軍用地料で賄われている。地域に配分され る軍用地料は基地被害抗議運動により値上がりしてきたが,新開地の営業とその運動は 利害が一致しない。

金武区入会団体の軍用地料 表 4 は金武区入会団体の会員 1 世帯あたりの年額軍用地 料の変遷である。地料は 1990 年代以降大幅に引き上げられた。

1990 年代以降は失われた 10 年といわれ,前述のように金武町の町民所得が落ち込んだ。

この値上げはそれを反映していると考えられる。

出典: 施設数・施設面積・年間賃借料は那覇防衛施設局から(2010 年 3 月),金武町従業員 数は『統計きん』(金武町役場,2007 年・2011 年)から作成。

表 3 沖縄県の米軍基地の状況 基地面積等の推移

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2 裁判する女性と移動

2.1 金武杣山訴訟

戦後沖縄の慣習に関わる女性住民運動 それは 1946 年から始まった大宜味村喜如嘉婦 人会の火葬場設置運動が知られている。これは,洗骨廃止運動で慣習の中で女性の役割 として行われてきた洗骨を廃止し,火葬場を作ろうとするもので男性と女性のたたかい となり,区事務所で議決されたのは 1951 年であった19)。後に全島に拡大した。

次に,復帰後の 1980 年に琉球新報が特集を組み,婦人団体協議会がキャンペーンを張っ た「トートーメは女でも継げる」は,位牌継承と財産権が結びつき女性に財産を相続さ せない慣習に対して「トートーメは女でも継げる」とする運動である20)。これに関わり,

1981 年のトートーメ継承訴訟の判決は「慣習は男女平等を定めた憲法や民法に違反する」

として女性の訴えを認める審判を下した21)。この運動は現在も継続している。原告はそ の後関西へ転居した。

金武町字金武(金武区と並里区)の軍用地料にかかわる女性運動 町内では,1982 年 に制定された「旧慣による金武町公有財産の管理等に関する条例」が町議会で論議され る中で,軍用地料が金武区内の一部の男性に配分されていることを知り始めた。

金武町並里区では,入会団体の会則が婦人会役員経験者を中心に 1991 年と 1999 年の 2

出典:「共有権者会沿革誌」と金武入会権者会の聞き取りから作成(2013 年 8 月から 9 月)。

注 1)1961 年の会員数は 1962 年確認調査後の数。

注 2) 補償金額は会員の額 4)補償金額と会員数は「共有権者会沿革誌」と金武入会権者会か らの聞き取りによる。

表 4 金武区入会団体会員数と軍用地料の推移⿵ൾ㔠㔠 ఍ဨᩘ

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回,署名・請願運動を受け入れ改正された。それにより並里入会団体会則における女性 差別は解消された。その経過を見ると,1991 年に達成されたことは,2002 年金武杣山訴 訟でたたかわれた内容で,1999 年に請願が受け入れられたことは,金武入会団体では 1956 年入会団体設立当時から行われていた条項であった。調査の中で,裁判より前に達成さ れた並里区の女性差別解消と金武区の運動はじつは影響し合い,援助しながら進んでい たことがわかった。

金武杣山訴訟 この訴訟は金武区の一部女性が 2002 年 12 月に金武入会団体を相手 取って,軍用地料の配分における女性差別を告発した裁判である。裁判は,憲法 14 条(法 の下の平等)29 条(財産権),民法 90 条,民法 263 条・294 条と女性差別撤廃条約に関 わるものである。地料受領の権利は男女の別なくあるとする原告と,入会権で扱う財産 権は,慣習として世帯主である男性の子孫に限られるとする被告の争いとなった。彼女 らは,1906 年杣山払い下げ当時の金武部落民で,杣山等の使用収益権(入会権・民法 263 条)を有していた者の女子孫であり,旧金武区民以外の男性と結婚した女性たちであっ た。

この入会団体の正会員は,団体の運営に関わる会員資格と総会議決権を持ち,軍用地 料の配分を受けることが出来る。2003 年 11 月の那覇地裁では原告が勝訴したが,2006 年 3 月の最高裁判決は世帯主要件を合法とし原告は敗訴した。また,裁判は,軍用地料の配 分に家父長制の再編・強化が利用されてきたことを明らかにした。つまり,入会団体は 他地域出身者の男性と婚姻した女子孫を排除し,軍用地料が他地域出身者の男性に渡ら ぬよう会則改正してきた。その際,慣習を再編・強化してきたものと考える22)

ここで,金武区入会団体の 2000 年時会員数から同区の出身地別世帯数を見ると,①旧 金武区民の出自を持つ男性を世帯主とする世帯数は 587 人(33%)で,②旧金武区民出 自の女性の世帯(世帯主が金武区以外の他地域出身者)は約 110 人(6%),これに対し て,③他地域出身者同士の世帯は 1074 人(61%)である。このうち②は原告グループの 母体であった。

なぜ,この時期に裁判となったか 要因として,戦後約 50 年を経て冷戦が終了し米軍 再編が取りざたされる一方で,米国の財政悪化や基地政策の変化,日本の不況・地域経 済の悪化,それに女子孫と配偶者(他地域出身者男性)の差別問題であったろう。原告 グループの 5 割,夫の約 7 割が本業とアルバイトに従事したが,アルバイトも減少する。

運動の中心となった人々は,2000 年頃 50 歳代から 60 歳代後半で,夫は妻より若干年上 であった。原告グループ家族の雇用状況を考えると,彼らは夫婦ともにリタイアーが近

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づき配偶者の死亡もあった。

直接の契機は,2000 年に入って金武区入会団体会則改正が 2 回行われ,地料が増額さ れたことであった。

1 回目は,2000 年に行われた入会団体の合併時である。金武区には 1982 年から 2000 年 11 月まで軍用地料を扱う入会団体は 2 団体あった(金武入会権者会と金武部落民会)。

しかし,両団体は「体質が全く同じ」であるとし,合併し金武部落民会となった23)。 それは,「合併により事務経費の削減が可能になり,一人あたりの軍用地料の増額を見 込めるからだろう」と言われた。

2 回目の会則改正(2002 年)では,父親が地料の配分を受けている 50 才以上の長男で 世帯主である男子孫に軍用地料を配分することを決めた。原告らは,地域経済の落ち込 みの中,入会団体の会則改正を男子孫優位に固執する象徴的な姿勢と判断し裁判を決意 した。

裁判の成果と影響 判決の翌年には金武入会団体会則改正が行われ,会員基準を 1962 年の会員確定時のものに戻し,世帯主であれば,男・女子孫問わず正会員となり軍用地 料の配分を受け取れることになった。それにより,全く地料の配分を受け取れなかった 原告は 26 人中 3 人であった。その改正は,2006 年 5 月までの会員数が 640 人だったのに 対し,2007 年は 899 人,女性会員として 123 人の新規加入をもたらした。

しかし,金武区入会団体では,現在も世帯主でない女子孫の加入を認めず軍用地料の 配分もない。裁判に関連し,ウナイの会会長への直接の相談が 5 件あった。並里区では 配分金等請求訴訟がたたかわれた(2003 年〜 2008 年)。また宜野座村など近隣の入会団 体も会則から男子孫を削除し子孫に改正した。

運動の到達点 字金武の軍用地料問題は,先に述べた戦後の女性運動と同様,戦争・基 地と慣習に関わる特徴を持つ。しかし,その対象者は約 6%で全女性ではなかった。中心 となった女性たちは,すでに高齢となり次の運動はない。裁判は兄弟姉妹など関係者が 同席する場面では話題にしなかったが,金武町の他区や新開地を含む他地域出身者の中 では大変な話題となり,軍用地の経緯,入会団体の会員資格やその根拠をグループで検 証することさえ行われた。つまり,この裁判では,女子孫だけでなく,他地域出身者の 男女が大きな関心を持った。元女性経営者㋜は,1966 年に新開地へ転入し,すでに「50 年もここで生活している。いつになったらこの地域の住民と認められるのだろう」と問 う(2015 年 10 月)。

また,裁判の経過は 2006 年まで地元新聞に何度も掲載されたが,軍用地料の女子孫差

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別は研究者などから「女性差別は前からあったのに,なぜ 2002 年に提訴されたのかわか らない」といわれ内容が知られていない(2014 年 7 月)。軍用地料の女子孫差別問題は全 女性,全住民の問題となり得えていない。

これらから,この訴訟は,基地と基地経済によって引き起こされた人の移動と軍用地 料,家父長制に関わる慣習,女性の人権に関わるものと言えよう。加えて,裁判は,1995 年の事件で抗議運動を企画から支えた女性らが参加した訴訟でもあった。

2.2 原告グループの移動と労働

予め述べると,原告グループと夫は復帰運動時期を生き,そのうち 2 割が沖縄の青年 会活動や労働組合の活動経験を持った。

原告グループ 15 人のうち,戦前の移民・出稼ぎからの引揚経験,戦後の県内外への移 動経験を持つものは 7 人であった。杣山の労働を経験あるいは見てきた人は,1930 年代 生まれまでの 9 人であった。彼女らのうち 4 人は母子家庭であった。原告グループの移 動経験は提訴までの経緯や裁判を継続することへどのような影響を持っていたのかをラ イフヒストリーからみよう(表 5)。

移動の契機 彼女らは,全員 1980 年代前半までに町に戻る。移動の契機は,次の 6 点 に整理できる。

第 1 は,戦前の移動である。戦前フィリピンで出生したのは,ⓜ,ⓝである。ⓑは戦 前大阪に出稼ぎに行ったが,敗戦で 18 歳の時沖縄へ送還された。彼女は 5 人兄弟姉妹で,

帰町後見合い結婚し実家を離れ,その後は「農業・農業日雇いや他のアルバイトをして きた。夫はほとんど家にいなくて,戦争未亡人であった姑と 4 人の子どもを育て生計を 立ててきた。働きずめで生活は苦しかった」。夫は行商・アルバイトで早世した。

第 2 は,働く意欲や職業上の昇進である。ⓜは長女で父と兄は戦死。高校入学時や高 卒後の就職では,実母の反対を押し切り自分の意志を貫き事務職として金武町内で就業 し家族を支えてきた。25 歳の時,女性で初めて住宅資金を銀行で借り実家を建築した。結 婚後,子育てを実母に頼み昇進に合わせ宜野湾市・名護市と 3 回転勤した。1980 年代に は金武町内の職場へ転勤した。但し,彼女は現住所を変わったことはなく 1965 年から自 動車通勤をした。彼女はボランティア活動にも参加した人で,裁判のために結成された ウナイの会の会長を務め「女性差別を争う裁判で負けるはずはない」と思って始めた。

トートーメ裁判を意識し「これからもこの地域に住み続けていく,そのためにも地域を よくしたい,女性差別をなくしたい」と陳述した。彼女は,2 審の敗訴後に新聞のインタ

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ビューで実名を公表し,沖縄県内の大学や全国女性史研究の集いin奈良,沖縄県女性総 合センターてぃるるで報告を行った。 担当弁護士は「彼女たちは最初から元気だったが,

裁判が進む中で益々生き生きしてきた」と回想した(2014 年 4 月)。

ⓣは沖縄市で進学し医療系専門職となった。那覇市を経て金武町へ戻り病院に就職し た。

その後,沖縄県における医療・看護体制の中で飽き足らず,復帰後本土へ経験を積み に転出し,県内外の移動を 7 回繰り返し昇進していった。1980 年代には家族とともに金 武町に戻り,55 歳まで勤務した。現在も他の職場で勤務している。夫は宮古出身で定職 に就かなかった。裁判について「職場の親しい人に誘われ会に入った。夫が亡くなり地 料をもらっている。いまも続く女性差別をどうしていくかが課題だ」と述べた。

第 3 は,就労先を町外に求めた 2 人である。ⓢは地元以外の就職先を求め,うるま市 の米軍基地で事務職となった。その後,那覇市で結婚し金武町の基地に再就職した。55 歳で退職後に自営業となった。夫は運輸関係であった。彼女は,婦人会の会長や役員を 歴任し 1990 年代の女性運動の中心にいた人物である。原告になることを誰に相談したの

出典:原告の聞き取りから作成(於:金武町内のレストラン,2013 年 2 月 3 日)。

(於:金武町の各自宅,2013 年 5 月 14 日・5 月 17 日・5 月 18 日,8 月 8 日・8 月 9 日・8 月 10 日・8 月 19 日・8 月 20 日,2015 年 1 月 11 日・1 月 12 日・1 月 13 日・1 月 14 日・1 月 16 日・1 月 17 日・1 月 18 日)。

注:破線は学業・実線は就業・2 点破線は病気療養の移動を示す。

表 5 原告グループの移動経歴(丸文字はイニシャル)

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(14)

だろうか「誰にも相談せず自分で決めた,女性の権利は黙っていては掴めない」とし,ⓜ

とともに裁判に関わる新聞インタビューを実名で受け,女性差別に抗する正当性を主張 した。

ⓖは,那覇市で大卒後教員となり青年会活動の経験を持つ。夫の都合で 1980 年代に金 武町金武区へ戻った。ⓖ,ⓢ,ⓣの 3 人は,復帰運動が激しくなった 1960 年代に那覇市 に在住した。

第 4 は,親に子育ての協力を頼んだことである。それはⓙ,ⓜ,ⓢ,ⓣの 4 人である。

第 5 は,財産相続である。原告グループの中で,財産を相続(主に土地)したのは,ⓗ

ⓜ,ⓝ,ⓞ,ⓣの 5 人である。彼女らは親から財産を相続し,旧金武区内に居住する。

金武町は,町役場を中心に円周上に番地が振られ形成された地域で,旧金武区民の世 帯は役場を中心にした一定の地域に集住してきた。原告グループは,夫が他地域出身者 であるが相続を受けた人は旧金武区民の地域に居住している。彼らは,他地域出身者な どに土地を売ることはほとんどなかったため,他地域出身者世帯はその地域に入ること はなく,復帰後の人口増加に伴い開発されたその周辺地域に集住してきた。これは地域 内の出自別棲み分けとも言えるだろう。

ⓞは,「父は 11 歳の時亡くなった。軍作業でハウスクリーニングに就いた。最初の結 婚は親が決めたが,自分で離婚を決めた。30 歳で再婚し,夫の出身地である奄美で 9 年 間生活した。夫は次男だった。でも,39 歳の時金武町の両親が亡くなった。兄たちは 3 人とも移民して沖縄には親族が誰も居なかったので,相談の結果,沖縄に誰も居ないの も困るからと私が兄の相続分をもらうことになった。それで奄美から戻ってきた。夫は サッシ工で私は農業で農業日雇いもやった」,「位牌は兄がハワイへ持って行ったからこ ちらには何も残っていない,でも,他の人より 10 年遅れたから生活が大変だった」。さ らに「ガマでの空襲体験は忘れられない。小学校卒だが今は新聞を読むことが励みであ り,楽しみ」とし,「会へは呼びかけの配付資料から入会した。私は地料を貰えないが,

息子が貰えるようになったので良とした」と話す。彼女の語りによると,この地域では 移民が特別でなく普通に行われていることや,家の跡取りがいなくなった中で,女性が 財産を相続することも特別なことではないとわかる。ただし,位牌は沖縄社会の特徴と して男性が相続している。このように女性の相続が行われることを踏まえた上で,なお,

彼女の生活は苦しく,財産相続は生活を好転するものでなかった。しかし,彼女にとっ て財産相続と裁判に参加したことが生活の転機となり自信に繋がったことも読み取れ る。

(15)

第 6 は,病気療養の移動である。父が戦死したⓗは 2 年間軍雇用員の後,宜野湾市へ 行き 1960 年代に戻り,医療機関で 60 歳まで勤務した。夫は自営業。「職場の同僚であっ たⓙと相談し原告となった。月 1 回の会合は全て参加出来なかったが,二審と最高裁へ はみんなで行った」。

以上から,ⓖ,ⓜ,ⓞ,ⓢ,ⓣに共通することは,彼女らの社会性が就学終了頃に自 覚されたこと,その後の就業や転勤などで経済的自立,社会性の成熟,複雑な社会組織 への適応力も成熟し,復帰運動や労働組合,婦人会活動など政治への関心や参加傾向が 読み取れることである。

移動しなかった女性 原告グループのうち移動しなかった女性は,8 人である。なお,

同時に複数の仕事に就いていた人は約 5 割である。町を出なかった理由は雇用があった ためと述べた。

職業は軍雇用員経験者が 4 人である。軍雇用員は学歴・就労経験を問わず就業できた ため,金武町では,1950 年後半から復帰頃まで男女ともに増加した身近な現金収入の雇 用先であった。この職種は,男女の賃金差別はないが低賃金で,暴力事件と隣り合わせ でもあった。ⓒはガソリン給油,ⓗはハウスキーパーやクリーニング,ⓡはウエイトレ ス,などに従事してきた。事務職はⓙ,ⓝの 2 人で地元の公務員となった。この職種は 移動経験者のⓜ,ⓢを合わせると 4 人になる。アルバイト経験者は 3 人で,農家・農業 日雇いは 5 人である。

ⓙは,1998 年の署名運動当時からのメンバーである。裁判に負けたが,軍用地料につ いて「裁判の形であったが,公然と言えなかったこと,女性差別があることを公表でき たのでやって良かった。原告になることは家族に相談したが,目立つことをすると人の 見る目が明らかに変わることが改めてわかった」と述べ,町内に留まった理由は「1 人娘 であったため親が手元に置きたがって,就職先も見つけてきた。でも自身も親の近くで 暮らしたかった」と振り返った。

ⓕは高卒後洋裁の技術を習得した。宮古出身の夫と結婚後,夫と同職種の免許を取得 し,新開地周辺の自営業である。彼女は「裁判までやったのに負けた,子どもがなく地 料は貰えなかった。その後の運動がないことが残念だ」と述べる。ⓝはフィリピンから の引き揚げ経験を持つ,高卒後農協に勤務,結婚して退職したが子育てが一段落した後,

公務員となった。ウナイの会副会長を務めた。

原告グループのうち 12 人は金武町で結婚した。彼女らの夫の勤務先は金武町である。

彼らは結婚によって親元から離れ,同一区内の移動を行い,他地域出身者の夫と別世帯

(16)

を持った24)

原告グループの夫 当時,夫らの職業は,公務員と基地関連業種や自営業で,運輸関 係 2 人,建設関係 1 人,公務員 3 人,卸売業 2 人,自営業 3 人,行商 1 人,アルバイト 1 人,無職 1 人である。原告グループの 5 割,夫の約 7 割が本業とアルバイトに従事した。

原告グループの夫たちと男性協力者は情報収集に協力し,裁判を応援した。夫たちは 15 人のうちすでに 11 人が亡くなり,2 人は病気療養中である。ⓕの夫は免許職種で「自 営業のため表だって裁判の応援はできなかった」。ⓜの夫は,教員で町の公職経験者で あった。彼は,「あの運動そのものが正論だ,いろいろ言われても気にしなかった。嫌が らせや邪魔する人がいた。当事者に対する直接の応援は表に出てこなかったけど,裏で は応援してくれていた。でも,運動は大変だ」と振り返る。彼らの語りは,女性差別が 男性の問題であることも示している。

夫たちのうち,金武町外から転入した他地域出身者は 10 人であった。彼らの移動時期 は 1950 年から 1960 年代である。先述したように,原告グループの 5 割,夫の約 7 割が 本業とアルバイトに従事した。

以上から,彼女らは,戦中・占領期を経験し子どもの頃から杣山の労働を身近に見て,

男性と変わらず働き続けてきた人々であった。原告グループの力は,地域を守ると言う より移動経験や働き続けた経験が深く関わり,それが女性差別を許さないという住民運 動につながったと思われる。夫の語りは,女性問題が男性問題であることも示す。

また,彼女らの多くは,共働きを続けてもなお経済的なゆとりが得られにくかった人々 と言えるだろう。

3 地域と女性差別

3.1 戦前の移動

寄留民 金武区誌によると,19 世紀後半の琉球処分時期(1872-1879 年の期間)には首 里の下級士族(無禄)は職を失った。彼らは,本籍を首里に置き金武町に入植し,「寄留 民」として居住した。当時は,旧慣温存政策期(1872-1908))にあたるが,士族出身の寄 留民は,一定の現金あるいは木炭を支払いことで金武区の入会地使用権を得ている。 つ まり,当時,寄留民への差別意識は強くなかったのである。しかし,後述する㋜のよう に,この言葉は排他性を帯びる場合がある。

海外移民・出稼ぎ 沖縄では,旧慣時期県内で資本蓄積を可能とする政策がとられず,

(17)

20 世紀に入り地租改正終了後,本土の資本主義経済体制へ組み込まれた。それは,暮ら しが改善されるものでなく,地域で生活できる人口が依然限られるもので,人口が増加 すると過剰人口として出稼ぎや移民をせざるを得ない状況であった。

金武町の移民開始時期は 1899 年でハワイへ出発した。その後,移民先はハワイ,南米,

フィリピン・南洋諸島に拡がった。 移住先の職業は,サトウキビ畑,製糖工場の経営者,

そこで働く労働者や道路建設など土木作業に従事するものも含まれた。彼らは,第一次 大戦後の 1920 年前後から関東大震災後の昭和恐慌と呼ばれた慢性的な不景気の時期まで 断続的に増加していく。それは,「ソテツ地獄」といわれた時代で海外移民だけでなく本 土への出稼ぎも増えていった25)。金武区誌によると,1899 年から 1941 年までの移民数 は,金武村全体では 3,289 人で,そのうち金武区は 29.3%,並里区は 43.1%が移民経験を 持っていた26)(1931 年現在)。

金武区移住者のうち女性の比率は 29.9%であるため,男性が単身でいわゆる出稼ぎが 多かったのではないかと考えられる。原告グループや新開地インタビューの中でもフィ リピンでの暮らしが話題となった。

3.2 基地の町と新開地

1950 年頃の新開地周辺は,谷間で松並木の美景がありハブの多いところであった。基 地建設が決まり,新開地周辺は徐々に新興住宅街となり,1980 年代には町営住宅も建設 された。新開地は住宅街の一角にあるとも言える。

既述したように,基地建設は,金武町金武区に急激な人口増加をもたらした。新開地 地区のリーダーは,町役場とともに基地関係者と積極的に関係を作り地域経済を振興し てきた。しかし,新開地で営業する旧金武区民は常に 1 割にも満たず,現在は皆無で借 家権を持つのみである。

地区の形成 はじめに地区形成の経緯を振り返る。1950 年沖縄民政府は「米兵に提供 する特殊慰安施設」の設置を米軍政府に要請した。当時は「同性の中にも両家の子女を 守る防波堤論で賛成の声,女性の人権を守るために反対する声など両論が興り,それに 沖縄経済を復興させるドル獲得論まで絡んで世論がわいた」27)。沖縄婦人連合会の反対活 動は強弱があり,結局売春防止法の施行は 1972 年 5 月であった。1969 年の売春実態調査 によると,金武町一帯における売春婦と思われる者の数は 699 人である。コザ・センター 胡屋が 931 人,辺野古一帯が 130 人となっており,金武町一帯の人数が県下でも上位に 位置していることがわかる28)

(18)

㋐(1936 年生)は旧金武区民で引き揚げを経験し,沖縄県中南部を 7 回移動し,昨今 の政治情勢から戦争への懸念を訴える人である。妻とともに 1980 年頃から 90 年代にか けて新開地で営業した。「新開地は,米兵のもつ暴力性を吸収・緩和する憩いの場を提供 するために,琉球政府と村・地主のみなさんの協議で決まった。暴力が町内に広がらな いようにする役割を課せられた地区として作られた。当初,ここは宮古島・八重山・奄 美出身者ばかりで軍人の暴力・暴行事件は聞くに聞けないことが多かった。戦後,この 町内ではその種の事件が 1000 件を超えているのではないだろうか。公表されているのは 氷山の一角で,当事者や地域の人々は隠し通すことに懸命だった」(2015 年 1 月)。彼の 語りは,この地域のはじまりとともに,基地被害の深刻さを訴えるものであった。

営業と人の移動 次に,戦後米軍政の投下した軍事予算の増減が新開地と人の移動に 与えた影響を振り返る。金武町でその影響を最も受けたのは新開地を含む金武区である。

表 6 は金武小学校保護者の出身地調査である。 基地完成後の 1964 年には,大島・宮古 群出身者が多いことや基地の町特有の軍作業員やサービス業が一定数存したことがわか る。 表 7 は 1980 年当時の金武町社交業組合員の出自別一覧である。1964 年時の社交業 組合員登録は,大島郡 4 世帯,17 人,宮古郡は 1 世帯,5 人で組合はまだ小規模であっ た29)。その後Aサインの取得などで組合のメリットが明らかになり組合員数が増加した。

彼らの出自は,徐々に多様になっていった。

次に,新開地の変遷と特徴を 3 点から見てみよう。

第 1 に,基地建設以後,新開地とその周辺は,地域経済の中心地としてドルの稼ぎ手 とされた30)。ベトナム戦争当時のキャンプ・ハンセン駐留軍人数は約 8000 人,これに対 し 1970 年の町の人口は 9953 人である31)。駐留軍人数はほぼ町の就業人口に匹敵した。

当時は新開地とその周辺地域が最も利益を上げた時期であった。㋜はフィリピンから 引き揚げ後,糸満市で高校を卒業し那覇市で働き出した。友人から “ 金武はたくさん仕事 があるよ ” と誘われ,1966 年に金武町のレストランで働き始め後に飲食店経営を行った

(2015 年 10 月)。このような商業活動を支える一貫として,金武町と金武町社交業組合は,

新開地形成時からオフリミッツ対策やAサイン取得に奔走した32)。1965 年には,キャン プ・ハンセン周辺の村と市が「キャンプ・ハンセンへ庭園の贈り物」を行った33)

金武町社交業組合は,1968 年に「基地撤去反対推進委員」を選出し,大量解雇反対と 反戦復帰運動を行う全軍労対策に「生活を守る会」を結成した34)。1980 年以来「基地司 令官の交代式に出席したり,全組合で歓迎会を開いたり,部隊に招待を受けるなど,親 善行事」も行っている34)。これらからも反基地運動と新開地の営業は利害が一致しない

(19)

ことがわかる。

ベトナム戦後の基地労働者は,米国経済の悪化とベトナム戦争の終結で,大量解雇に 見舞われた。彼らは「事実上 1300 人以上」とされていたが復帰直後には 353 人に減少し た35)。海洋博後には「人口が減少した年齢層は,女子 15 歳〜 34 歳までの 309 人が最も 多い。これは基地経済依存度の高い地域にありがちなサービス業の景気の動向によるも の」と報じられた36)。ここからは,新開地を中心とする飲食店の廃業,サービス業経営 者・従事者の転出が読みとれる。彼女らの転出後,1980 年代にその労働を埋めたのは外 国籍女性であった37)。基地地域のサービス労働が沖縄県人から外国籍女性らに代わった のは,低額な賃金という経済的背景であった。しかし,彼女らの多くは,観光ビザで入 国するため人口変動としては現われない。

当時の経営者㋖は,1980 年代に「フィリピン人のエンターテイメントを雇用した。そ の頃は午後 3 時位から軍人が町にあふれ出し,夜中に軍人が基地へ戻っていくまで商売 をした。法の適用が厳しくなり,採算が合わなくて 2002 年に廃業した。当時,この地区

出典: 「金武町社交業組合創立 20 周年記念誌」金武町社交

業組合,1981 年,53-63 頁より作成。単位:実数。

表 7 金武町社交業組合員数

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出典: 広報金武縮刷版 1 号〜 100 号「金武村広報」金武 町,1964 年 11 月 1 日,8 頁。

表 6 生徒数及び出身地調(金武小学)

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は宮古島出身者が 6 割,奄美が 2 割位だったと思う。ここは米軍人相手でフィリピン女 性は英語が話せ経営が成り立ったが,日本人の場合,接客を言葉から教えなくてはなら ず営業にならなかった」と振り返った(2015 年 1 月)。

2000 年前後は新開地の人々が移動と定住に分かれた時期である。町の地域経済と新開 地の営業は,米国のさらなる財政悪化と日本の不景気により「平日の客足はほとんどな い状況」で,「米軍の給料日であっても客足は少ない」38)。加えて,観光客はアメリカ同 時多発テロ事件などによって減少した。

㋙は,金武町在住者で義務教育終了後に新開地の従業員として働いた経験を持つ 60 歳 代前半の女性である。金武町から転出した経験はない。「初めは,兄の経営する店で働き 始め,結局子どもを 4 人連れて離婚したので昼と夜の掛け持ちで働いた。今は一人暮ら しで生活保護を受けている」(2015 年 1 月)。彼女の語りは,義務教育終了後に特に職業 訓練を受けず財産もなく母子家庭となり生計を担う立場となった女性の生活状況を現し ている。

ここで,㋓を紹介する。㋓の「父と母は,本部町出身で 1950 年代に那覇を経てコザ市 へ移動し,1959 年頃から金武町で営業を始めた」。ベトナム戦争で好景気だった頃,「私 は宜野湾市の大学に進学し台北へ留学した。当地で結婚後,さらにミュンヘンに留学し,

1983 年に日本に戻り,サラリーマンを 1 年経験した。しかし,父の跡を継ぐため 1984 年 に金武町へ戻った」(2015 年 1 月)。当時は外国籍女性が急激に多くなった時期であった。

彼は,1990 年代の不景気に入りつつある頃「妻とともに営業する傍ら,野菜のハウス栽 培を行い」多角経営を始めた。さらに,2000 年代初め,外国籍女性が皆無になった頃に は息子が 3 代目を継ぎ,「妻は大学に入学し 54 才でアモイ大学博士号を取得した。彼女 は頑張りました」。彼は各地を移動し,外との交流の中で経営の多角化を目指してきた。

彼の息子はバー・スナック経営だけでなく,父同様,ビルメンテナンスなど多角経営を 行っている。彼らは地域の景気が悪くなってもこの地区から移動せず,多角経営を行い 定住する人々である。表 8 から,多くの人が 1960 年代,70 年代に一旦那覇市や沖縄市

(コザ)で働き,その後金武町へやってきた傾向が覗われる。

第 2 に,ここは暴力事件などの絶えない地区であった。しかも,女性に関わる暴力・暴 行事件の多くが隠されてきた。例えば,1960 年代後半に報道された金武村内のホステス の殺害・暴行事件は,1965 年 1 件,1967 年は 2 件であった39)。これは後述する㋐の述べ た氷山の一角であろう。加えて,「この年(1967 年)は,ベトナム戦争からの帰還兵によ る強盗,ホステス殺しが続発」し,「米兵相手のバーでは,女性が 1 人でトイレに行くの

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は自殺行為だ」といわれた39)。ベトナム戦後の 1975 年頃,「金武はカフェー・キャバレー,

料亭などの総数は 155 軒で,深夜飲食店 21 軒。また,石川地区刑法班認知件数の中で傷 害事件は石川・恩納・宜野座がゼロであるのに対し,金武は 189 件,窃盗なども他の 3 地 区に比べ多い」40)。ここは,ネオン街であるが周辺市町村に比べ物騒な夜の町であった。

シスター宮城は,「金武町のクラブマネジャーが「フィリピンの女性がいるから,町民 が枕を高くし,安心して寝られるんだ・・・。それに貧しい国の女性が,ここで働くこ とは,彼女らの家族を助けているんだ」と豪語した」と記す41)。加えて,1983 年には新 開地女性従業者の人権を踏みにじる事件が発生した。彼女らの宿舎が火事になったが,屋 外から施錠されていたため逃げられずフィリピン女性 2 名が焼死した42)。この事件は彼 女らの就業状況の側面を露わにした。

先述した 1980 年代後半の金武町社交業組合長は,米兵らと接触の多い組合と米軍との

出典: 於:金武町社交業組合事務所と周辺広場での聞き取りから作成。2015 年 1 月 11 日・1 月 12 日・1 月 14 日・1 月 15 日・1 月 16 日・1 月 18 日・10 月 13 日。注:破線は学業・実線は就業 のための移動を示す。

表 8 金武町社交業組合事務所周辺の人々・移動表

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懇談会で「表沙汰にはならないが,地域住民がいかに日常生活で被害を受けているか,米 兵らによる窃盗事件や無銭飲食はきりがなく,わいせつ行為も多い。(中略)「小さな問 題から大きな問題に発展する」」と訴えた43)。組合長は,新開地の営業は,地域経済の主 要部分を占めるが,隠されている暴力・暴行事件などの多さを述べている。新開地で暴 力にあってきたのは主に他地域出身者や外国籍の女性従業者であった。

3.3 原告グループと新開地の女性たち

次に,新開地女性と原告グループは,軍用地料と労働に関わり地域の中でどのような 関係であったかをみてみよう。現在インタビューできる人は,自営業を営む人,2000 年 代始めに廃業し定住した人である。

軍用地料との関係 金武杣山訴訟がはじまり,マスコミ報道によって金武町金武区で は,軍用地料の配分に女性差別の在ることが知れ渡った。裁判は,古くから同一地域に 住む男性・女性の問題であるため,原告と旧金武区民が同席する場所では避けられてい た。しかし,図表 3 の③に該当する他地域出身者の住む新開地では,様々な場面で話題 となり「金武区に住む自分たちにも権利があるのではないかと考える人々の空気が生ま れ」,その資格と権利について改めて調べることが行われた(2015 年 10 月)。その中で,

入会権,金武町財政の 3 割は軍用地料が占め,金武区事務所予算の約 6 割が,金武入会 団体の軍用地料から補助金となっていることが話し合われた。他地域出身者には個人配 分がないが,行政における軍用地料の恩恵を受けていること,軍用地料が生活補償・見 舞金などを含む,地料の金額決定は市場要因ではなく政治的要因を含むといわれること を改めて確認された。当時の経営者㋖は「金武杣山訴訟は長い裁判で成り行きを注視し ていた」。先述した元経営者㋜も同様であった。

地区と原告グループ 既述したように,彼らの居住地区は混ざり合うことなく世帯主 の出自別棲み分けが見られる。新開地は 1990 年代初めまで米軍人専用の遊興地区であっ た。

復帰前まで旧金武区民には男性世帯主を構成員とする部落会があった。復帰後は部落 会が解散し,金武入会団体がその流れを受け継いできた1)。現在,区事務所における旧金 武区民居住地域と新開地を含む新興住宅街は区事務所における班分けが異なる。

原告グループは日常的な買い物を金武区内の商店街や町外で行い,新開地では買い物 をしなかったと述べる。金武区内には 1990 年代 2 カ所の商店街と一般食料品などを扱う 商店があった(ただし商店街は現存しない)。1994 年「買物動向」調査はそれを裏付けて

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いる44)。例えば,一般食料品の購買先は,地元が 76.1%で,そのうち区内の主な店舗が 63.0%,金武町内商店街での購入は 4.6%,新開地は 5.3%である。外食をする場所は,地 元が 20%で,そのうち,金武大通り商店街が 6.4%,新開地が 5.0%,その他が 8.6%であ る。地元以外が 80%を占める。両者の数字は新開地地区の購買者は一定数あるが,それ は金武区民というより新開地内とその周辺の住民を推測させる。

地域活動はどうであろうか。新開地の女性の多くは,午後から夜中までを就業時間と している。宮古島から那覇市を経て金武町へ来た元女性経営者㋖は「社交業組合だけで なく婦人会や自治会へ入会し役員を受けた」と述べる。しかし,長年,経営者である世 帯主は 5 年で 2 割が転出する傾向をもち,女性従業者は米軍占領期,復帰後も定住者が 少なく地域活動の力になりにくい。1981 年の社交業組合加入の世帯主は,女性/男性が 107/39 人で,世帯人員は平均 4 人である。世帯人員の続柄は不明である。

商業地域には「通り会」という自営業者の団体がある45)。原告グループのⓕは新開地 周辺の自営業者で「通り会は楽しみで今も参加している」と述べる。新開地の商店街は この会に属する人々が多い。

一方で,先述した㋜は,「生活や商売で困ったときには,模合を起こし商売仲間と助け 合ってきた。地元民との付き合いはない。当時,通り会の参加もしなかった。婦人会や 老人会,公民館祭りも行ったことがない。何度か “ 寄留民のくせに ” といわれたが,税金 を払っているのに文句言われる筋合いはないと言い換えした」と回想した。

ⓙは,職場が新開地に近いことから「給料をもらうと,職場の人たちと新開地のレス トランへ行った」。だが,日常的な利用はなかった。原告グループの夫らは,夜の飲食に は新開地を利用せずうしなー街や石川市などへ行くとした。この地区は,米軍人の憩い の場として形成されたことが改めてわかる。これらから,原告グループと新開地地区の 人々との日常的な付き合いは見えてこない。

3.4 語られない女性たちの関係

家父長制と女性差別 先述した㋐のインタビューから,この地区の女性従業者は,貧 困層に属する本島地元民と離島出身者,後に外国籍女性(主に観光ビザで入国する女性)

が多数を占め,階層に分け差別的な対応がされてきたと考えられる。

Miesは「東南アジアの女性が大々的な規模で最初に売春婦にされたのは,ベトナム戦 争と太平洋地域にアメリカの空海軍基地が設置された状況においてであった」と述べ る46)

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秋林は,「軍隊に性暴力はつきものだという考えから地域社会が対策として基地周辺に 性産業を設置してきた」ことや,性産業の設置は「性暴力を受ける女性たちと性暴力か らは守られるべき女性たち」という女性間の分断を容認すること」,そして「暴力の犠牲 となる女性たちを作り出すという家父長制そのものである」と分析する47)。つまり,家 父長制における女性間の差別と言えるだろう。

女性従業者らは,基地経済を支える底辺労働者といえる人々であり,景気の動向で移 動を繰り返す傾向がある。それは,金武区民全体との交流の少なさや労働条件の改善に 関わる発言権の乏しさなどから移動するともいえるし,それ故に地域内の重層的な女性 差別を隠すことができたと考えられる。

那覇やコザで長年ケースワーカーをしてきた㋟は,戦後長い間「義務教育後に職業訓 練を受けていない女性は軍作業員かホステスしか現金収入の道はなかった。(中略)ホス テスを選ぶ人は母子家庭が多くて,本当に気の毒だった。しかし,何もかも足りない状 況の中で自活していくための相談や援助を増やしつつ地域の中で見守ってきた」と回想 した(2015 年 5 月)。それは,金武町でも類似した状況と推測される。㋙は「子供もいる が,地域の人は何も聞かないし,何も言わない」といいます。㋐も同様に「地域で黙っ てやってきた,(中略)そうやってきたんだ」と述べた。

一方で,石川は,「観光ビザなどで入ってきて,ヤクザたちにくいものにされる女性と

(中略)労働ビザをもらってやってきた女性を一緒くたに考えるのは危険だ」と述べる48)。 なぜならそれは,「クラブの経営者だけでなく,レストランや洋服屋などその他大勢の人 が寄り集まり,支え合って生きている金武の町すべての人を批判していることに繋がる」

からだと問いかける。この発言は,女性従業者を労働者とし,その視点から彼女らの職 業の選択や労働環境,人権問題を考えようとするものであろう。言い換えると,むしろ この職種を選ばざるを得なかった社会構造こそ問われるべきだろう。

㋐は,なぜこの時期に新開地の暴力について語ることになったのであろうか。「私は,

敗戦直後の引き揚げ・送還を経験した。その後,基地の町で生活し口に出せないような 暴力事件が相次いだことを知っている。最近のニュースを見るとまた戦争へ進みそうで とても心配だ。いま,体験したことを話さなくてはと思っている」からだ。

繰り返すが,新開地は,基地建設と同時期に米軍人用として形成された。町役場と新 開地は,基地関係者と積極的に関係を作り地域経済を振興してきた。1983 年の火災事件 から,新開地で就労する女性従業者の中には,地区をはじめとする金武町内を自由に行 き来することが出来なかった人々がいたことがわかる。

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このことは,女性間に出自や職種などによる分断と差別があったことを物語る。女性 従業者が景気の動向などから頻繁に移動する背景から,人の移動を促す基地経済は,一 面女性差別や人権侵害を覆い隠す作用を含んでいるのではないかと考えられる。

加えて,原告グループは新開地女性について口ごもり,その関係は聞き取りや日常的 なつきあいからは見えてこない。語らない彼女らは女性間の差別構造を容認してきたか に見える。

けれども,そこには更なる問題が浮かび上がる。既述したように,原告グループは他 地域出身者の夫とともに旧金武区民から差別を受けてきた。それにも関わらず,彼女ら の中にも新開地地区への差別意識があり,新開地地区の状況を見ないようにしてきたと も思えることだ。

しかし,性暴力事件から見ると,㋐が言及する新開地地区の役割は予想より機能しな かったのだろう。つまり,地域では,性暴力被害はより多く新開地の女性従業者が受け てきたが,町の全女性がその可能性を持つ立場であり被害も受けてきたとし,町中が全 てを隠し通してきたという。現在も事件は減っていない。

既述したように,軍用地料の女性差別に抗する運動で中心となった人々は,性暴力事 件に抗議する 1995 年の県民集会でマスコミ対策を初めとして企画段階から活動した。

㋕は県民集会について「戦後 50 年経って,沖縄の女性・ 少女はまだ性暴力に我慢しな ければならないのかが強くあった」と述べる(2015 年 5 月)。長年の怒りと屈辱は,日米 地位協定の見直しや基地と性産業の関係を問い,冷戦終了後にやっと行動にできたのだ ろう。

こうしたことから見えてくるのは,原告グループは新開地地区への差別意識を持ちな がら,自らの経験を含め町内全ての性暴力事件を押し隠してきたことである。それ故,原 告グループは女性従業者だけでなく新開地地区についても語らないのではないかと思わ れる。つまり,この地域の女性間の関係は重層的な差別構造と言い表せず,逆に語らな いことが複雑な女性間の繋がりを現しているのかもしれない。

お わ り に

金武町の人の移動を見ると,戦争や紛争が莫大な資本の動きを伴うこと,町が基地経 済に大きく依存しつつ,日米経済や安保政策に影響されてきたことがわかる。 また,基 地の町においても女性の権利獲得がいかに困難かがわかる。

参照

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