【翻訳解説】
『 東 ア ジ ア に お け る 三 十 三 年 』 ( 第 一 巻 ) 中 国の 部
園
田 尚 弘
*
日本の幕末期にプロイセンと北ドイツ諸国は東アジアの国々との通商を目
指して使節団を派遣した。その記録や旅行の様子を記した文書はかなりの数
にのぼっている。それらの文書に関する日本語翻訳もかなり古い時期から行
われている。以下にそれらの翻訳を列挙してみる。
オイレンブルク「日本遠征記」雄松堂、一九六九
シュピース「プロシャ日本遠征記」奥川書房、一九三五
マローン「日本と中国」雄松堂、二〇〇二
第一回独逸遣日使節日本滞在記、昭和十五年(一九四〇)日独文化協会発行
私はこれらの翻訳書に何度も目を通して、そのつど得るところがあったが、
どの本を読んでもこのときの使節団の全体について翻訳されていないのが残
念であった。この遠征隊は旅の途中、船団の一隻を台風によって乗組員もろ とも失う、あるいは熱帯の熱病でかなりの数の人員を失うなどの苦難をなめ
た。プロイセンや北ドイツの諸国にとっては大事業であった。中国やタイで
の滞在がどのような経過をたどったかを多くの日本の読者に知らせることが
必要だろうと思われる。中国についての記述はマローンの翻訳書に見られる
が、マローンは中国からは本隊とはしばらく別行動をとっている。そこで中
国、タイについては、オイレンブルクの『プロシアの東アジア遠征記』に就
いて翻訳するのが妥当であろう。
しかしここで遠征隊の中国、タイでの条約締結をめぐる交渉やそれらの土
地での見聞について知るために私が選んでいるのは、マクス・フォン・ブラ
ントの『東アジアにおける三十三年』である。この著書は遠征が終了した直
後に出版されたものではない。一九〇一年に出版されたブラントの回想記で
* 長
崎大学環境科学部受領年月日二〇〇八年十月三十一日受理年月日二〇〇九年二月二十四日 Dreiunddreissig Jahre in Ost-Asien von Max von Brandt.-Kapitel 5, 6 und 7Naohiro S
ONODA
ある。このたび私があえてこの本を選んで翻訳した理由は、この回想記によ
って、遠征隊のほとんどの旅程をたどることができるということのほかにも
う一つ別の理由がある。
ブラントは遠征隊に参加しただけではなく、その後日本と、中国で長い間、
公使として外交問題に携わった。その期間が三十三年というわけである。ブ
ラントの著書は三部に分かれていて、第一巻がプロイセンの東アジア遠征記、
第二巻が日本公使時代、第三巻が中国公使時代に当てられている。第二巻に
ついてはブラントのアメリカ旅行の部分を除いて、日本についての記述は全
部訳されている。その翻訳である新人物往来社の『独逸公使の見た明治維新』
を私はこの翻訳が出版された直後に読んだ。この本の解説者はブラントの回
想記、第三巻つまり中国の部分を併せて読みたいという希望を述べている。
私もまったくおなじことを考えた。解説者は解説の最後で中国の部分の翻訳
もすすんでいるということである、と書いている。私はまもなく第三巻の翻
訳も出版されるものと期待していたが、残念ながら、今に至るまで出版され
ていない。翻訳は誰かが済ましていて、出版の機会がないだけのことかも知
れない。しかしいつまで待っても日本語で回想記の第三巻が読めないのであ
れば、中国やタイの専門家でもないが、私が手がけてみようと考えた。しか
しその前に第一巻の中国、タイの部分も何とか翻訳してみなくてはならない。
もちろん第一巻には遠征の始まりから日本滞在時までの長い記述も含まれて
いる。しかし旅の始まりから日本を後にするまでについては、あえてブラン
トに頼らずとも、上に列挙した翻訳書で扱われている。そこで第一巻第五章
以下を翻訳し、日本を去った後のプロシャの遠征隊の事跡をたどっている。
さらに、長崎市民にとっては第一巻を翻訳する意義は、格別のものがある。
ブラントはプロイセンの東アジア遠征隊に参加しただけではなく、既述した
ように、日本においてドイツ公使を務めている。そのため、彼は一八六二年
に、三回長崎を訪れている。それぞれの滞在について、興味深い記述を残し
ている。とくにこの遠征の事業が終わった後、ブラントは公使としての仕事
の準備を兼ねて、一八六二年には十月から約二ヶ月長崎に滞在している。そ
の間に、たとえば「おくんち」を体験して、その祭りの様子を詳しく観察し ている。
なお翻訳に当たっては、人名やフランス語に関して連清吉氏、李克氏、正
本忍氏、高實康稔氏の助力を仰いだ。記して感謝の意を表します。とくに中
国の地名、人名特定のための、私の度重なる質問に親切に対応していただい
た李氏には特に感謝したい。多くの思い違いや、間違いが含まれていると考
える。それは翻訳者たる私の責任である。読まれた方はどうか間違いを御教
示願いたい。
原書は長崎大学経済学部図書館の武藤文庫所蔵のものを使っている。
(Dreiunddreissig Jahre in Ost=Asien, Leipzig, Verlag von Georg Wigand,
1 9 0 1 )
翻訳
『東アジアにおける三十三年』
一外交官の回想
マクス・フォン・ブラント
第一巻:東アジアへのプロシャ遠征隊
日本、中国、タイ一八六〇―一八六二
再び日本へ一八六二
Ⅴ長崎から天津へ
私の最初の使命
アルコナ号は座礁する―イギリス人とフランス人の救助―呉淞―雉狩―ヴィルヘル
ム四世の死とヴィルヘルム一世の王位就任―アルコナ号の損害―小さな原因が大き
な作用を及ぼす―上海―豪勢な供応―十二本の赤ぶどう酒―下着と帽子についての
エピソード―ドゥ・モントーバン将軍―サイード・オスマン―天津へ―海軍兵曹長ポ
ルジュ―芝罘―大沽―テレーズ号―デヴァランヌ中尉―中国式馬車で―冒険―フラ
ンス大使館で―トゥレーヴ中尉―フレデリク・ブルース氏―ドゥ・ブルブロン氏―崇
厚―手紙を手放せない―適当でなかった訪問―勝利―宿泊係りとして―心配と最後
の成功―イギリスの使節の食事―困難な清算―大沽で―円明園―円明園の占領、略奪、
破壊―宝物―上司の到着―天津への引越し―消えた壜の栓
長崎から揚子江の河口への航海は、とても速やかに進んだというわけには
いかなかったが、比較的にうまくいった。私たちはすでに二月二十八日に堂々
とした河に着いた。その河の汚れた黄色の波は、あまり気持ちの良い印象を
私たちに与えなかった。水先案内人はいわゆる北浅瀬にわたしたちの船を乗
り上げさせた。船を引き上げる試みが無駄だとわかり、水位が落ちはじめ、
そのうえ、英国人の水先案内人によれば、私たちが船を着けた場所は、波が
低い時は九尋の深さしかないということだったので、状況はますます不愉快
であった。このことは船が片側に傾き、完全にひっくり返ることがある可能
性を示していた。さらに私たちが大潮、つまりとりわけ高い流れに乗ってい
たという事実から、離礁できる時間はあと二十四時間しか残されていないこ
とがわかった。そうでなければ私たちは次の大潮を待たなければならない、
つまり二週間待たなければならない。そしてこの二週間のあいだに硬い土地
の上で、岸の風と天候が、私たちの美しい船をどのようにするか誰にも分か
らないのだ。それゆえ私たちに残されている時間をできる限り利用して、船
をできるだけ軽くする、つまり艤装の上部を下ろし、船が横倒しになる危険
を少なくすることが重要だった。揚子江の支流である
黄浦
江(その川沿いに
上海も位置している)に錨を下ろしている何艘かの戦艦に助けを求めるため
に、一艘のボートが呉淞江に送られた。その間に持ち去ることが出来るすべ
てのものは下ろされて、フランスの砲艦「香港」と、通りかかっていた英国
の「九十五番」の船上に運び込まれた。同時に鉄の容器から水が外にくみ出
され、明るい輝きとなって河の汚い水の中に流れ落ちた。この河はいつも、
たとえばエルベ川がドレスデンのあたりで激しい雨にあった後の色のように
濁った色をしていた。同時に船を支えるために垂木も置かれた。幸いなこと
に、これは余計なことだと分かった。というのも、浅瀬では、引き潮のとき
も、水先案内人が述べていたよりは高い水位があったからだ。朝の三時に船
を引き上げるむなしい試みがなされた。十時間絶えず働いていた私たちの船
員は船を軽くすることを続けねばならなかった。午後三時にフランスの砲艦
が私たちの船の右側に、イギリス船が左側にくっつけられた。さらに私たち を助けるためにやってきて、名人芸のように浅瀬の端で錨を下ろしたイギリ
スのフレガット船「シェザピーク」が、強力な補助船を送ってくれた。これ
は二艘の船の錨まきあげ機に固定された。満潮とともに船の機械は全力で動
き始めた。一方アルコーナ号のチームと「シャザピーク」のチームも彼らの
船の巻き上げ機に要員を配置し巻き上げ機を動かした。しかし全ての努力が
むだに思われた。まず最初に砲艦の機械が壊れた、それから補助船の一つが
ダメになった。アルコーナ号は一インチすらも動かなかった。すでに潮が引
き始め、私たちの希望もむなしくなった。その時船が突然軽く傾いた。そし
て浅瀬から滑り降りた。成功だ。わたしたちの一団はどよめく声で万歳を叫
んだ。英国人もフランス人も元気よくそれに声を合わせた。私たちのために
なされた助力に対して、船の司令官のウィリス船長にお礼を述べるために、
私は、上司(注、上司とはオイレンブルク伯爵を指している)によってイギ
リスのフレガットの船上に送られた。この出会いは、私たちが約二十年後に
なって、彼は東アジア地域駐在の副提督で司令官として、私はドイツ帝国の
公使として北京で再会したとき、私たちがとても満足な気持ちで思い返した
出会いであった。
三月二日にやっと私たちは黄浦江に入った。そして二、三隻のイギリスと
フランスの戦艦の近くに錨を下ろした。それらの船は上海と同じくそこでも
太平天国軍に対する備えのために停泊していた。太平天国軍は蘇州と杭州を
すでに征服し、破壊していた、そして上海を脅かしていた。私は後でそれを
眺める機会があったが、緑の野に飾られ花盛りの果樹に飾られてとても美し
い豊かな印象を与えることもできるその地域は、今は荒涼としていた。全て
は全くの灰色であった。陸地に散歩に行くと、足に一面に粘土をくっつけて
きた。散歩の際に、私は二,三の田鴫を撃ったことがあった。私がすでに暗
闇のなかで帰途についたとき、荒野に大きな鳥たちが歩き回っているのを見
た。私は飛び立つ時にそのうちの一羽を撃った。私は雌の雉を殺したことが
わかった。野鳥が、特に雉が太平天国軍によってもたらされた荒廃のせいで
破壊された村や、使われていない田畑の中にたくさん増えたので、数年後に
は二、三人の猟師が三、四日の遠足で五百から六百の、それ以上の雉を家に