「 住む」の表象 と居住空間について
‑ベ ンヤ ミン、クラカウアーの場合一
園 田尚弘
Di eVbr s t e l l ungde s 〟 wohne ns 〃undde rWohnr aum
Na o hi r oSONODA
Zus a mme nf a s s ung:I nd e rvo r l i e ge nde nAr be i twi r dha u p t s ac hl i c hdi evo r s t e l l u ngde s" Wo hne ns "und de rGe da n ke t i be r Wo h nr a u mebe i Wa l t e rBe n j a mi nbe ha nde l t .
Di ephi l o s o phi s c heUn t e r s uc h ungd e sWo h ne nsf i nde tma n u n t e ra nd e r e m i n de n Sc h r i 氏e nvo n He i de g ge r ,Bol l no w od e rBa c he l a r d.Ft i r s i e i s tda s Wo hne n e i n f u nda me n t a l e sPr o bl e m de r me ns c hl i c he n Exi s t e nz .Da sPr o bl e m de sWo hne nsi s ta uc h f t i rBe n j a mi n wi c h t i g.Ma n f i nde t Er wa l mung e nvo n Wo h ne nu ndWo h nu nge ni ns e i ne nSc h
ri f t e n.Be iBe n j a mi nha ng tdi eVo r s t e l l ung d e sWo hne n mi tde rVo r s t e l l ungde rMa t r i xode rGe ha us ez us a mme n. Di eVo r s t e l l ungde rMa t r i xode r Ge ha us ev e r s pr i c htde nMe ns c he ndi eGe bo r ge nhe i tundSi c he r he i t . I ndi e s e m Si nnebi e t e tdi eWo h nu ng de sBt i r ge r si m 1 9J a h r h u nde r t Ge bo r ge n he i t.Tr o t z de m i s ts i eai rBe n j a mi node rs e i ne nFr e undF.
He s s e lH a bge s c hma c k t M ・ Auc hS ・ Kr a c a ue rf i nde ts i es c ho nH ni c htz e i t ge ma J 3 "・
Si cwu L 3 t e n, da s se sne be nde rGr oL 3 wo hn unga r ms eli geWo hnung e nde rArbei te rgi bt.
キー ワー ド :住居 、室内、集合住宅、安全 、 ドイ ツ、 ワイマール共和国、
Ⅰ 住む とい うことの根源
『パサー ジュ論』の覚書 に住む とい うことを考 え るときの困難 さについて述べた一節 がある。それ は 住 む とい うこ とを考 え る際 にほかの哲 学者 な ど と
も共通す るイ メージで表 されてい る。
「 住む とい うことを考 える際に難 しいのは、そ こで は一方で、蒼古の ものが‑ひ ょっ とした ら永遠 の も のが‑認識 されねばな らない とい うこ と、つ ま り住 む とい うの は人 間が母 体 の うちに と どまってい る 状態 の模 造 で あ る とい うこ とが認 識 されね ばな ら ないのに対 して、他方では こ うした根源史的モチー フにもかかわ らず、その もっ とも先端的な住み方 の うちに、十九世紀 の生活状況が捕 らえ られねばな ら
*長崎大学環境科学部
受領年月 日
2 0 0 7
年4
月1 8
日 受理年月 日2 0 0 7
年5
月8
日ない ところにある。お よそ住む とい うことの根源的 形式 は、家( Ha us ) の中にい る とい うことではな く、
入れ もの ( Ge ha us e 」のなかにあるとい うことである。
容れ物 はそ こに住む ものの刻印 を帯びてい る。住居 はその極 限的な場合 において容れ物 に変 じる。十九 世紀 ほ ど住む こ とに病 的 に こだ わった世紀 はなか った。 この世紀 は住居 を人間を容れ るケース と捉 え、
この人間 をその一切 の付属物 ともに、住居 にあま り に深 く置 きいれて しまったので、その さまは、製図 用具がそ の取替 え部品 とともに、たいていは紫いろ の ビロー ドで張 られ た深 い窪 み には め こまれ てい る、あの製図用具いれ の内部 を思い起 こさせ る。十 九世紀 が専用 のケー ス を考 え出 さなか った ものが いったい あるだ ろ うか。懐 中時計、上履 き、卵立て、
寒暖計、 トランプ専用 のケース、そ してケースがな
い場合 は、覆 い、長 い械後 、カバー、シー ツが考 え
だ された。二〇世紀 は多孔性 と透 明性 、野外 と外気
を好むた めに、こ うした古い意味での住む とい うこ
とに終止符 を打った。建築家 ソルネ スの住居 にあっ た人形部屋 に対抗 して出て きたのが、 「 人間収容施 設 」 であ る
。ユーゲ ン トシユテ ィール は、容れ物 の あ りかた を根本か ら揺 さぶ った。今 日ではこ うした 入れ物 は死滅 し、済む とい う行為 は衰弱 して しまっ た。生 きてい るものに とってはホテル の部屋 によっ て、死者 に とっては火葬場 によって。 。」
『パサー ジュ論』 (Ⅰ4. 4 ( 注 1)
ベ ンヤ ミンが ここで蒼 古 のかた ち と考 えてい る 母胎 にい る状態 は、人間に とって完全 な庇護 され て い る状態 を さすのであろ う。無論その よ うな状態 が す で に生 まれ た人 間 に とって再び 可能 とい うわ け ではないが、そのイ メー ジはベ ンヤ ミンの住む こ と についての観念 を考 える上で役 に立つ。
何 らかの堅 固な容 れ もののなか にあって庇護 さ れ、安全 であること‑ この庇護 の状態 を住む ことと 結びつ けて考 える教育学者 にオ ッ トー ・ポル ノウが い る。ポル ノウはハイデガーやバ シュラール を引用 しなが ら、住む こ とが人 間存在 の本質 と関わ ると述 べ、住むための家の役割 を、庇護 されてい ることと 密接 に関連づ ける。 「 人 間は 自分 のすべ ての道 がそ こに関連づ け られ、そ こか ら出発 し、そ してそ こ‑
戻 ってい く人 間の確 固 とした基点 を持 たなけれ ば、
自分の よ りどころを失 うであろ う 。 」( 注 2) と述べ、
ポル ノウは、その よ うな中心 として 「 人 間が 自分 の 世界 のなかで住 まい ( wohne n) 」 人 間がわが家 とし て くつ ろぎ、人間が く りかえ しそ こ‑帰郷す るこ と のできる場所 について述べ る。その場所 は具体的 に は家であ る。つま りポル ノウに とって、家は外部世 界での戦 いの緊張か ら退いて、 くつ ろぎ と休息 を と る空間で ある。
家の外部 と内部 の問題 は、ポル ノ ウにあっては人 間の精神 的健康 の レヴェル にまで話 が及 んでい る。
「 人間の内的健康 は、世界 とい う外部空間のなかで の労働 と、家屋 とい う内部空間の安息 とい うこのふ たっの面 のつ りあいに もとづ くので ある。 」 ( 注 3) ベ ンヤ ミンの 「 住む」 とい うイメー ジのなかに潜 む庇護 され てい る とい うイ メー ジ とポル ノ ウの考 え方 が近 い とい うこ とで ポル ノ ウを論 じてい るの ではない。一見似 てい るが、内実が違 ってい る とい うことが強調 したい こ となのだ。ベ ンヤ ミンの住む こ との根源 的イ メー ジー 母胎‑ の対極 にはた とえ ば ドイ ツの地下住居 の寒 々 とした光景がある。
「 野生の人間であれ ば、 洞 穴にい るときに は我が家 の気持 ちで くつ ろげる。 だが、貧民
の地下室 にあ る住居 は、 よそ よそ しい力 を帯びた、
敵対的な住居で ある
。この住居 は、その貧 しい人間 が地 の出 るよ うな汗 を住居 に差 し出す 限 りで しか、
彼 に与 え られ ない。彼 は この住居 を 自分 の故郷一一 つま り、こここそがわがすみか とい えるよ うな場所
‑ とみなす ことはできない。む しろ彼 は、 日々彼 を見張 っていて、家賃 を払 わない ときには、た ち ど ころに追 い出 しにかか る他人 の家 にい るのである
。同様 に彼 は、 自分の この住居 が質か ら言 って も、彼 岸 の、富の天国にある、君主の住む よ うな人間 らし い住居 の反対物 であることを知 ってい る」 。 Ⅰ5a
,4 ( 注 4)
これ はマル クスの文章であるが、ベ ンヤ ミンは こ れ を 「 室 内、痕跡 」のセ クシ ョンにぬきが き として 引用 してい る。 この よ うな認識 を有 してい る思想家 が、 「 一定の場所 でそ こをわが家 と して くつ ろぎ、
その場所 に根 を下ろ し、その場所 に適合」 しない も のを不健全 として批判 した りす るだ ろ うか。小市民 的な庇護 された住居 に 「 根 を下 ろす こと」を理想 と す るポル ノクは、小市民的価値観 を問い直 した 「 実 存主義者 」 を攻撃 してい る
。( 注 5) この論調 はベ ンヤ ミンの住 む こ とに関す る思想 とはか な り遠 い 場所 に来てい る といわ ざるを得 ない。
Ⅱ 容器 と しての住宅
パサー ジュ論 の覚書 Ⅰ4 ・4においてベ ンヤ ミン
は十 九世紀 のブル ジョ ワが住居 を人 間 を容 れ るケ
ース と考 えた ことを指摘 してい る。 この覚書 は大体
1930 年頃までに書かれ てい るので、当時のベ ン
ヤ ミンの住宅観 と考 えて よい。この覚 書 で は、十 九
世 紀 の住 む とい うこ との観 念 と二〇世紀 にお ける
住 む とい うこ との観 念 が対 比 され て論 じられ てい
る。ベ ンヤ ミンはこの変化 を 「 住む ことの減少」 と
して考 えてい る、つ ま りベ ンヤ ミンに よれ ば、 「 十
九世紀 ほ ど住む こ とに こだわった世紀 はない。」 し
か し二 〇世紀 は住 む とい うこ とをだ んだん少 な く
してい る と捉 えるのである。二〇世紀 の住む ことの
特徴 とは何 か。 「 多孔製 、透 明性 、野外 と空気 」 を
求 める傾 向が顕著で ある。その ことが古い時代 の住
む ことを縮小 して しま う。ベ ンヤ ミンは この傾 向を
二〇世紀建築家 の仕事の中に捜 し求 める。ガ ラス と
鉄 を多用す る
二〇世紀の建築家たちの作品は、十九
世紀 ブル ジ ョワの住居 の密室性 を追い払 う。ベ ンヤ
ミンは書評 『遊歩者 の回帰」 のなかで、 「 ギ ィ‑デ
イオ ン、メンデル スゾー ン ( メンデル ゾー ンの誤 り)
コル ビジェは人間の滞在す る場所 を、光 と風 の考 え
られ る限 りの力や波 の通過 空間 とす る」 ( 注 6 ) と 書いてい る。 これ らの建築家の名前 に、 ミ‑ス ・フ アン ・デル ・ローエや ブルー ノ ・タ ウ トの名前 を付 け加 えることもできるだろ う。ベ ンヤ ミンは建築だ けでな く、社会生活 のなかで も、た とえば、 ソ連 の 体制の中で、生活が私性 を追っ払い、透 明性 が求 め られ る傾 向にも注 目してい る。 ( 『モ スクワ』や 『シ ュル レア リスム』参照) このよ うな二〇世紀の傾 向 と比較 され る十 九世紀 の住 む こ との特徴 とはな に か。 く り返 しになるが、三〇年 ごろまでのベ ンヤ ミ ンの考 えに したが えば、それ は刻 印 ( Abdr uc k) を 容器 たる住居 に残す こ とである
。しか しそれ がなぜ さま ざまのカバーや ケー ス をつ く りだす こ ととつ ながるのだろ うか。ベ ンヤ ミンは十九世紀のブル ジ ョワが室 内の 日用 品 に もで き る限 りケー スや カバ ー、をつ く りだ した ことを指摘 してい る。それ は住 む こ とが容器 をつ くる こ とに他 な らないか らで あ る。住む こ とに とらわれ ているか らた くさんの容器 を作 らざるをえな くな る。だか ら家 の内部 にも覆 い や カバ ー がで きるだ けた くさんつ く られ るので あ る
。この場合刻 印 ( Abdr uc k) は十九世紀 の住人 に どのよ うな意味合いを持 ってい るのか。ベ ンヤ ミン は この問いに答 えていない。 自明の こ とであったの で、書 く必要がなかったのであろ うか。パサー ジュ 論 の初期 段 階 の覚書 な どで この こ とが十分 に説 明 されてい る とはお もわれ ない。しか した とえば、『今 日のジャコバ ン主義者』での この単語 の用法 を探れ ば、この語 が相 当に深 い意味を帯びてい るよ うにお もわれ る
。ベ ンヤ ミンはこの書評で、貧民が住 んだ ミ‑ツカゼルネ ( 兵舎式賃貸 しアパー ト)の生活 を 全面的に否定す る 『石造 りのベル リン』の筆者‑‑
ゲマ ンに反対 して、 ミ‑ ツカゼルネ に住民は刻印 を 残 したのだ とい う。 この主張は ともか くミ‑ ツカゼ ル ネ に もそれ で も美 が あった とい う主張 と重 な り 合い、歴 史の考察のためにはこ うした側面 を考慮 し な けれ ば な らない とベ ンヤ ミンは こ こで強調 して い る。 そ うす る と刻 印 ( Abdr uc k) は住宅の住 民の 生活全体 とかかわ り、歴史の構成 にも欠かせ ない概 念である 。Abdr uc k は三〇年代半ばか ら Spu rとい う 用語 に代 え られてい るよ うにお もわれ る。そ して こ れ はベ ンヤ ミンの住 む こ との分析 に あた って もっ とも関心 が寄せ られ て い る室 内の問題 とも密接 に 絡んでい る。そ こで次 には室内をベ ンヤ ミンが どの
よ うにみ な してい るか を、詳 しく見ていきたい。
Ⅲ 室 内
住 むの根源 的イ メー ジは容れ物 にある として も、
時代 と場所 に応 じて、住む とい うことの具体的あ り かたは少 しずつ変化 してい く
。ベ ンヤ ミンが興味 を 寄せ るのは十九世紀である。十九世紀 のブル ジ ョワ の室内は、過去の様式 をもった家具や豪華 なシャン デ リア、鏡 、マ ン トル ピース、署名入 りの絵画でま とめ られ た。東洋 の雰囲気 を漂わせ る械椴 が床 に敷 かれ、壁掛 け、鍛帳風 のカーテ ンも好 まれた。エ ド ガー ・ア ラン ・ポーはその批評文 『家具の哲学』で 理想的な室内 と家具 を開陳 してい るが、これ はベ ン ヤ ミンが問題 にす る時代 の標 準的室 内像 であろ う
。このエ ッセー の なかで ポー は理想 の室 内 を次 の よ うに描写 してい る。
「 部屋 は約 30フ ィー トに約 25フ ィー トの長 方形、家具の配置 に一番好都合 な形である。 ドアは ひ とつ しかな く‑ けっ して幅 の広 い ドアで はない
‑ これは平行 四辺形 の一辺 にある
。窓はふたっ しか な く、ふ たっ とも ドア と反対側 のい っぺん にある
。この窓は大 き く床 まで達 してお り、深 い張 り出 し部 があ り、イ タ リア風 の ヴェランダに続いてい る。窓 のガラスは深 い紅色であ り、紫檀製 の しか も普通 よ りもがっち りとした窓枠 にはめ込んである。張 り出 し部 には窓 の形 に合 わせ た厚 い銀紗 のカーテ ンが つ る して あ り、か さば らず 、ゆった りとたれ てい る。
張 り出 し部 の両側 にはたい‑ ん鮮や か な深 い紅 色 のカーテ ンがあ り、金 の網織 りで減 りとられてい る。
そ して銀紗の裏打 ちが してあって、これ は外側 のブ ライ ン ドと同 じ材質の ものである。 」 ( 注 7)
この よ うに細 か に理想 的イ ンテ リア を記述す る ポー の立場 とベ ンヤ ミンのイ ンテ リア に対す る見 解 はもちろん異なる
。ポー にはアメ リカの成金 のブ ル ジ ョワ社会 の趣 味に対す る強烈な反感 がある。そ の反感 を幾分 か はベ ンヤ ミン も共有 してい たのか も知れ ない、彼 の場合 は、 ヨー ロッパのブル ジ ョワ の室内に対 してではあるが。
室内は、 「 芸術 の避難所 である」 。 ブル ジ ョワの私 人は、蒐集家 として、ものか ら商品の交換価値 を払 拭 し、骨董価値 に変 えるとい う 「 シジフオスの仕事」
に従事す る。過去 と遠 さをい とわず集 め られた蒐集
晶に囲まれた室内は私人 に とっての宇宙である。 こ
こで彼 は遠 さの フ アンタスマ ゴ リー に身 をゆだね
るが、室 内はそれ に とどま らない。室内は私人 の 「 保
護 ケース」で もある。室内の この特徴 をベ ンヤ ミン
は 「 痕跡 」( spur )とい う単語で強調 しよ うとしてい る。各種 のケースや カバーが考案 され、そ こに物 の 痕跡 が残 ると説明 され 、また室内には住人の痕跡 が 残 るとされてい る。 さらに 「 痕跡」は推理小説 と関 連付 け られ、ブル ジ ョワの室内に痕跡 を残す私人 が 犯 人 にな る初期 の推理 小説 が引 き合 い に出 され て い る。以 上 は 19 3 5 年 に執筆 され た 『パ リ十九 世紀の首都』 ドイツ語草稿 に沿って、痕跡 とい う用 語が どの よ うに使 われ てい るかを、見てみたが、ベ ンヤ ミンの説 明は これ で は あま り明瞭 とはい えな い。その点、 1939 年 にま とめ られたフランス語 草稿で見てみ ると、これ らの疑問がある程度解 明 さ れ るよ うな叙述がな されている。
「 ル イ ・フィ リップ あるいは室 内」 の断章 Ⅲで、
ベ ンヤ ミンは室内が、私人 の宇宙で あるだけでな く 私人が身 を入れ る容器 であることを指摘 した後、つ ぎの よ うに痕跡 をめ ぐる叙述 を展 開 してい る。 「 ル イ ・フィ リップ以来ブル ジ ョワのなかには、大都 市 で の私 的 な生活 の形 態 の不在 を取 り戻 したい とい う傾 向がみ られ る。 この種 の埋 め合 わせ を、彼 は 自 分 のアパル トマ ンの壁 のなかに見出そ うとす る。 自 分 が よ く使 ってい る ものや ア クセ サ リー類 の痕跡
( t r a c e ) をな くさない よ うに気 を配 ることが、彼 の 名誉 にかかわ ることで もあるかの よ うに、すべての 自体が進行 して
いく
。彼 は、飽 きることな く、た く さんの物 のかた ど りをつづ ける
。ス リッパや 時計 、 スプー ン とナイ フ とフォー ク、雨傘 のために、彼 は カバーや ケースを考案す る、あ らゆる接触の跡 を残 す ビロー ドや フラシ天 の布 を、彼 は とくに好む。第 二帝政様式 において、アパル トマ ンは一種 のキャ ビ
ンとな り、その居住者 の跡 ( v e s t i g e s ) が室内に型 とし て残 る 。」 ( 岩波現代文庫版 、パサー ジュ論 1 ,4 8 ペー ジ) ( 注 8)
ベ ンヤ ミンはブル ジ ョワが痕跡 を残 そ うとす る 動機 を、大都市 にお ける住 民の存在感 の希薄 とい う
ことに求 めてい る。またケースやカバー を作 るのは、
ものの痕跡 を保存す るた め と明確 に説 明 を してい る
。1 938 年 に執筆 された 『ボー ドレール にお ける 第二帝政 のパ リ』で も、ほ とん ど同 じよ うな文章で、
大都 市 にお け る私 的生活 の存在 の不在 ‑ の不満 が 痕跡 を残 す努 力 と結 び つ いてい るこ とを指摘 して い る。 しか もこの著作 においては、パ リ十九世紀で は簡 単 に触 れ られ てい るだ けで あった痕跡 と推 理 小説 とのつ なが りが、 「 痕跡 の理論 」 に支 え られ る かたちで展 開 されてい る
。(ここか らは、痕跡 を残
す だ けでな く、 「 痕跡 を消せ
」とい うブ レヒ トの政 治 的標 語 ま で視 野 は広 げ られ て い る よ うに見 え る。)Abd r uc k とい う単語 も物 の刻 印 と して使 用 さ れ るが、住人 については痕跡 spu rが当て られてい る
。ベ ンヤ ミンは痕跡 が大事 に され る こ とには二重 の 側 面が ある とい
う 。( 第二帝政 のパ リ、遊歩者 83 ペー ジ)つま り痕跡 の保存 によって 「 保存 され るも のの現実的価値 が強調 され る」 とい うことがひ とつ の側面 とすれ ば、 ものを所有 しない ものの 目か らそ れ らの ものの輪郭 が消 され て しま う ( v e r wi s c h t ) と い う側 面がある。ブル ジ ョワは非社会的存在 と同 じ よ うに、当局 の管理 を逃れ よ うとす る。 当局の管理 が強ま り、痕跡 を捉 えよ うとす る政策、方策が歴史 的に例示 され る。ナポ レオ ン帝政の時代家屋番号制 度が導入 され る。住民の これ に対す る抵抗 も功 を奏 す るこ とはなかった。痕跡 を保存 しよ うとす る行政 当局の政策が次々 と実行 され る。 さらに技術 的発 明 が政策 を補完す る。写真 の発 明は人 間の痕跡 を残す こ とに決定的 に役 立 った。 どんなに遠 くにいて も、
追跡 が可能 とな る。探偵小説 の始 ま り。ベ ンヤ ミン の説 明では、十九世紀 の室内はブル ジ ョワ私人の犯 罪 の場所 にもた とえ られ る。私人は犯罪者 となって 群集 の中に身 を隠す。痕跡 がつ け られた室内が後 に 残 され る
。探偵 で あ る遊歩者 が犯人 を追
いか ける
。室 内は遊歩者 の姿 に こ うして結び付 け られ てい る
。痕跡 の理論 的解 明 も遊歩者 の存在 を解 明す るこ と な しには十分明 らかにな らない よ うである。十九世 紀 の室内は痕跡 ともに空になってい る。
Ⅳ 室内に対す るベ ンヤ ミンの立場
ここまでベ ンヤ ミンの住 む とい うこ とに関す る 見解 について即物的に記述 してきたが、ベ ンヤ ミン の興味 と関心の中心である十九世紀 の住居、 ことに 室内について どの よ うな立場 を とってい るか、 どの
よ うな評価 を していたかを検討 してみ る。
す で に一方通行 路 に十 九世紀 の室 内 を描 写 した 断章がある。そ こでブル ジ ョワの室内は死 を呼び込 む空間 としてえがかれ てい る。 あるいはパサー ジュ 論 には、‑ ツセル の文章の引用がある。室内の夢想 的構 えに対 し、た とえば‑ ツセル は違和感 を隠 さな い、ベ ンヤ ミンが引用 してい る‑ ツセル の一文、「 ‑ ッセル は 『夢見心地 な悪趣 味な時代』 と
いう言い方 を してい る」 l
l,6にみ られ る時代 とは、幻想空 間 としての室内をこ しらえたブル ジ ョワの世紀、十 九世紀 にはかな らない。
それ では、ベ ンヤ ミンが ここで引用 してい る ‑ ツ
セルは どのよ うな住み方 をよしとしているか、それ について検討 してみ ることにす る
。なるほ ど‑ ツセルの住むのイメー ジにも、ポル ノ ウと同 じく庇護 され た状態が キー ワー ドとしてで て くるが、これは しか し‑ ツセルの場合 は遊歩者 の 生活感覚 と結びついている。
‑ ツセル はパ リのホテル生活 を庇護 され てい ると感 じる。そ して ここでパ リのホテルで人は 「 住 む」ことができるとい う
。ポル ノウな どは とても納 得 しないだろ う
。こ うした事情 を‑ ツセル はある中 篇小説 で書いてい る。 ( 注 9) この小説 は第一次大 戦後、戦前長 くパ リに暮 らした経験 を持つ ドイツ人 の男が第一次世界戦争後パ リを再訪 し、遊歩者 とし てパ リを さまよ う話である。
このなかで住む こ とに関 して も‑ ツセル とお ぼ しき主人公は ドイツの場合 とパ リとを比較す る。主 人公はパ リではホテル に 「 住む ことができる」 と書 く
。なぜ だろ う。つま り ドイツではホテルは例外的 なあ り方 であ り、例外的滞在であるが、パ リには 日 常生活の よ うに暮 らせ るホテルがある
。‑ ツセルは それ を経験 と観察か ら知 ってい る
。「 人 はこ うした ホテル で不審 に思 われ る こともな く死 ぬ こ ともで きるのである 」 「この よ うな部屋 で何度 か眠 り、め ざめる と、ひ とはある通 りと区域 の住民になる。」
小説 の主人公 はパ リのホテル につ いて この よ うな 考 えを述べ るが、これ はほとん ど‑ ツセルその人の 意見 と受 け取うて よい。パ リでは人 は世界 に面 しな が らその よ うなホテル にい ると、このパ リとい う大 洋 の な か で小 船 にい る よ うで 、庇 護 され て い る (ge bo r ge n) と も 述 べ る
。g e bo r ge n あ る い は Ge bo r g e 血e i tは‑ ツセル の 「 住む」のイ メー ジのキ ー ワー ドである。 これ は豪華な室内に暮 らす ことで もな く、周囲か ら隔絶 して暮 らす ことで もない。親 しみの持 て る通 りや 区域 に短期 間眠 りめ ざめ る こ とでもかなえられ る行為である。 フラヌールであっ た‑ ツセル に とって、パ リのホテル は手短 に 「 住む」
ことを実感す ることができる空間であった。 これは ベ ンヤ ミンについて も妥当す る感覚 であろ う。
この住むの感覚は遊歩者 のものだ ろ う。 もともと 物理的外界 としての都 市は、遊歩者 に とって必ず し も屋外 とは限 らない。 とい うのも街路が遊歩者 に と っては住居であるか らだ。
ベ ンヤ ミンは この よ うな街 路 と住居 の複合 的 あ りよ うについて書評 「 遊歩者の回帰」のなかで次の よ うに述べてい る
。「 なぜ な ら街路は永遠 に不安定 で永遠 に動いてい る人 間の住居 であ るか らである
。彼 は家の外壁 と外壁 の狭間で、個人が四つの壁で守 られ た我 が家 です るの と同 じだ けの体験 と経験 と 認識 と思索を してい るのである 。」 大衆 に とっては
‑ かれ らとともに暮 らす のが遊歩者 で ある‑ まぶ しい よ うな故郷製 の商店 の看板 はブル ジ ョワのサ ロンにか けられた油絵 と同 じくらいに、いやそれ以 上に壁 の装飾 なのであ り、防火壁 はかれ らの書物机 であ り、新聞売店 は彼 らの図書室、郵便 ポス トは彼 らのブ ロンズ像、ベ ンチは彼 らの私室、そ してコー ヒー店のテラスは、かれ らが、 自分の家全体を見下 ろす張 り出 し窓である。道路工夫たちが格子の柵 に 上着 を引っ掛 けてお くところ、そ こが、彼 らの玄関 であ り、家々の裏庭 の並び を抜 けて外‑で る通用 口 は、都会 とい う数 々の部屋‑入 ってい く入 り口なの である 。 」 ( 注 10)
街 路 が室 内 と して現れ る‑ ツセルやベ ンヤ ミン のよ うな遊歩者 に とって、十九世紀の室内は感覚的 に受 け入れ られない空間であったよ うだ。
Ⅴ クラカウア‑の場合
本稿 は主 としてベ ンヤ ミンの 「 住む」 とい うこと とのかかわ りを考 えてみ るこ とを 目的 と してい る が、新 聞社 に入 る前 に、建築家だったジー クフ リー ト・クラカ ウア‑の住む とい うこととのかかわ りや 住空間に対す る考 え方 を調べ ることを、次の 目的 と して含 んでい る
。そ こで これまでの調査 をもとにこ の課題 に迫ってみ る。
1921 年 にフランクフル ト新 聞 に入社 以来書 かれ て い る新 聞記 事 は 、Tho ma s YLe vi n ( Si e g丘・ i e d Kr a c a ue r . Ei ne Bi bl i og r a phi e s e i ne r Sc h
ri 氏e n.
Ma r ba c h. 1 98 9 ) に詳 しく記載 されているが、そのジャ ンルは広範囲にわたってい る。それ らのなかには以 外 にた くさんの建築関係 の記事が含 まれている。公 共建築物 に関す る報告の記事が多いが、そのなかに は住居 に関す る報告 も含まれている。 クラカ ウア‑
の 自伝的小説 「 ギンスター」か ら見て取れ るよ うに、
クラカ ウア‑は新聞に入 る前に、いやいや なが らの 建築家であったが、それ に して も、相 当の量の建築 関係 の新 聞記事 を読む と、専門家な らではの観察が 披i 歴されている。実際、クラカ ウア‑の社会批判的 エ ッセイの全体 を通 じて、 「 建築的比愉」 を見 ると い う見解 も提 出 されている。
しか しこれ まで筆者 が 目に した クラカ ウア‑ の
文章のなかで、住む とい うことを直接問題 に して論
じた文章はな さそ うなので、ここでは私邸や集合住
宅、あるいは都市計画 を論 じた文章か ら、彼 が二
〇世紀 の居住 空 間や伝 統 的住 空間 を どの よ うに考 え たかについて論 じてみ ることにす る
。しか しその課 題 に入 る前に、美術工芸 について論 じた新聞記事 を 通 して、クラカ ウア‑が時代精神 と家具や家庭用品 な ど工芸 品 との関わ り合 い を どの よ うに見ていた のかを検討 しておきたい。 1924 年 のフランクフ ル ト新 聞 にクラカ ウア‑ はシュ トウツ トガル トの 芸術の夏」 と題 した記事 を寄せてい る。 これは工芸 連盟による 「 形式」 とい う展覧会の評である。 この なかで クラカ ウア‑ は最近十年 間の工芸 の現状 を ロマ ンチ ックなものを求め、現実か ら逃避す る傾 向 と評 し、工芸連盟による 「 形式」展 をそ うした傾 向 と対照的試み として紹介す る。 クラカ ウア一 によれ ば、シュ トクツ トガル トの 「 形式 」 展の意向は、 ヴ イー ンで叫ばれた 「 装飾か らの決別」 と外面的には 一致 してい る
。『形式』展 の冷静 なモ ッ トー も、 自 発 的 自己制 限 と要求 され た ものに対 しての即物 的 考慮 とい うことである
。クラカ ウア一に とって、現 在品位 をもってた どれ る唯一の道が、 どこに到達す るかは未知数であるとはい え、禁欲的考 え方で物 を つ くるとい うことであるよ うに見える。装飾 の拒否 は当時の新 しい建築家、工芸作家の合言葉ではあっ たが、クラカ ウア‑ もこの傾 向を是認す る。それは 現実に ヴェール をかぶせ ないためである。展覧会 に 出品 されてい る個々の品物 を紹介 しつつ、クラカ ウ ア‑は、それ らの出品物 に共通す る要素 として、客 観的基準が
いきわたってい る点を指摘す る。 しか し
たんに装飾 を追い払い、即物的であるだけで十分で あろ うか とい う疑問を呈 している。 こ うした陸路に ある現代 の最近の工芸のなかで、解決策 を見つ けた のは、オース トリア とヴィ‑ンの工芸連盟であった。
クラカ ウア‑ はそ こで造 られ た優美 でバ ランスの とれた形式 を高 く評価す る。 しか しこれは遅咲きの 美 しさ、後が続かない花の開花である
。クラカ ウア
‑はオース トリアの例 と比較 して、 ドイツの場合 は 不完全で、その試みが急進的であることを特徴 とす ると考 えてい る。その例 をグロピウスな どのバ ウハ ウスの試 み に見 るので ある
。「 恐れ を知 らぬニ ヒ リ ズムは真実を 目指 している」 とグロピウスな どの試 みを形容す る。一九世紀 の装飾主義 を脱 した工芸が いまだそ の方 向を模 索 してい るこ とを展覧会 の感 想 として報告 してい るが、その認識 は工芸の世界 に ついて言 われ るだけでな く、建築の領域でもクラカ
ウア‑が指摘す るところである。
1926 年 にクラカ ウア‑は 「 ある建築家の家 」 と題 した新聞記事を発表 している。 これ は 1925
年 にフ ランクフル ト市の建築監督 の職 についた都 市計画家、建築家エル ンス ト・マイ (1886‑ 1
970) が建てた私邸 について報告 した記事である。
マイ は フランクフル トのギ ンハイ ムに 「 新即物 主 義」 と呼ばれ る様式で住宅 を作った。伝統的な住宅 にみ られた装飾 をできる限 り排 した、即物的であろ うとす る傾 向である。現代 の生活 をあ りのままに う けいれ よ うとして生まれた この傾 向に対 して、クラ カ ウア‑ は時代 に沿 った もの として肯定的 に受 け 入れ る。 しか し他方で過渡的様式であるとい う見解 をも付 け加 えている。 クラカ ウア‑ も過去の住居 の
「 見せかけ
」をベ ンヤ ミンと同 じく、厳 しく批判す る。風景 にマ ッチ し、ガラスを取 り入れた家は光 と 空気 を十分に取 り込む
。基調が 白、赤 と青で彩色 さ れた家はクラカ ウア一 にとって、ま さに現代 とい う 時代 に意識的に関与 してい ると見える。だか らこの 家は、部分的に時代 にそ ぐわない ところがあるにも 関わ らず 、 「 暗闇を嫌 い、運動 を愛 し、意識的 に時 代 に関与 してい るひ とのための家である」 。 この報 告で紹介 されたマイは、ベ ンヤ ミンが指摘 した二
〇世紀の建築家の志向 とも一致 してい る。
ところで、マイはフランクフル トの集合住宅、ジ ー ドル ングの建設 を進 めた建築家 として知 られ て いる。ケネス ・フランプ トンの 『現代建築史』によ れば、マイは 1 万 5 千戸の集合住宅 を作 っているが、
これ は 1925‑ 30 年 までの期 間の フランクフ ル トで建 て られ た集 合住 宅 の 90 パーセ ン ト以上 に当たる とい う。 これ ほ どの戸数の住宅 を作 りにあ たっては、生活最小限原則 にのっ とってお り、特 に フランクフル ト式台所 を取 り入れ た極度 に切 り詰 めた空間 をもった住居 を建設 した。
ワイマ ール 共和 国時代 に進 め られ た この よ うな ジー ドル ング、集合住宅に関 してクラカ ウア‑は ど のよ うに見ていたのだ ろ うか。 この問題 を考 えるに 適 当な記事がある。今 日で もシュツ ッ トガル トの ヴ アイセ ンホ‑ フには二〇世紀 の著名 な建築家 に よ る住宅の試みが見 られ るが、これは 1 927 年 シュ ツッツガル ト建築組合 の 『 住居』展の際に建設 され た ものである
。クラカ ウア‑はこの展覧会 について 報告記事 を書いてい る。『新 しい建築』 と題 され た この文章で、特 に今 日の住居が発展 した技術 を取 り 入れてい ることを強調 している。 しか しこの時点で
は、 ヴァイセ ンホ‑ フ ・ジー ドル ングは住居内部 は
完成 していなかったので、クラカ ウア‑は最終的判
断は差 し控 えている。それ に して もこの時代の居住
環境 は技術 の進展 に よって過去 とは随分異 なって
い る。 クラカ ウア‑ は ミ‑ス ・フアン ・デア ・ロー エ、あるいはル ・コル ビジェの名 を挙 げなが ら、家 ( Ha us )の把握 の仕方が変化 してい ることを指摘す る。それ に よって 「 女性や男性 が、工場や事務所 か ら帰宅 した場合 、もはや彼 らは前の世紀 に戻 され る とい うこ とはないだ ろ う」 と述べ て、十九世紀 と、
これ らの 二 〇世紀 の代表 的建築家 た ちの考 える居 住空間の違 いを指摘 してい る。クラカ ウア一 に とっ て これ らの建築家た ちの提供 してい る居住空間は、
当代の経済 に見合 った合理化、類型化 に とどま らず 、
「 新 しい ライ フスタイル」の表示である
。実際は こ れ らの建築 家 が企 て てい るのは クラカ ウア一 に よ れば、時代 に合 わないままに残 ってい る空間携帯 に 対す る 「 革命」なので ある
。それが しか し現状 に適 合 しよ うとす る限 りでは 「 新 しいライ フスタイル を 提示 してい る」、 と解釈す る。
1931 年 に書かれた 『社会主義的都市』でクラ カ ウア‑は、再度エル ンス ト・マイ について言及 し てい る。 これ はマイの 『ソ連 における新 しい都市の 建設』 とい う講演 についての新聞記事である。エル ンス ト・マイ は当時、 ソ連 で都市計画 に携わってい た。他 の建築家 とともに、マイは 1930 年 は じめ に 「ウラル の山中マ グニ トゴルスクに鉄銅精錬 工場 な らび に都 市 のマ ス ター プ ラン計画 に参加 す るた め ソヴイエ トに出発 した」 S24 7 ,そ こで この講 演 はマイ が休 暇 で ドイ ツ に帰 った ときに企 画 され た ものであった。 この講演 のなかでマイは ソ連で計 画 されていた都 市の形 と、住居 のタイプを紹介 して い る。住居 の形で言 えば、個人向け住宅、集 団向け 住宅、それ にコン ミュー ン住宅である。 ソ連 の政策 では最後 のタイプの住宅建設が求 め られたが、この 要請 に対 してマイ は類 型 化 と標 準化 で対応 しよ う としていた。マイ 自身 は ソ連での都 市計画、住宅政 策 が条件 が異 なってい る西欧 に応 用 で き る とは必 ず しも考 えてはいなかった よ うに見 える
。クラカ ウ ア‑ の報 告 はマイ の講 演 を読者 に伝 え る とい う姿 勢で書かれ てい るよ うであるが、個人的印象 も付 け 加 え られている
。クラカ ウア一には、マイの都 市計 画 は ソ連 の政策 の原則 に沿 って大胆 に押 しすす め られてい るよ うに見 えた。 さらにマイの実践か ら得 られ た経験 は後 で は ドイ ツで も役 に立っ だ ろ うと 言 う印象 を持 ったよ うである。
フラ ンクフル ト新 聞 に書 かれ た これ らの記事 を み ると、クラカ ウア‑は装飾 を廃 し、即物的に時代 精神 に対応 しよ うとす る 20 世紀 の建 築家 た ちの 意 向に添 った考 え方 を してい る。その意味ではベ ン
ヤ ミン と建築 に関す る考 え方 は余 り変 わ らない と いえよ う。 しか し詳細 な裏付 け、広範 な比較 は これ か らの課題である。
注
注 1 、 Be 亘i a mi n, W :Da s
Pas
sag e n ‑ W e r k, Bd. Ⅴ ・1、
Fr a
nkfur ta . M. 1 98 2. S
.29 l f .
注 2 、 ポル ノ ク、オ ッ トー :人 間 と空 間、せ りか 書房。 119 ペー ジ
注 3 、 同書 131 ペー ジ
注 4 、 Be 亘i a mi n, W.Da sPa s s a ge n‑ W e r k, Bd . Ⅴ ・1、
Fr a
nkf u r ta . M. 1 98 2. S. 295
注 5 、 ポル ノウ、オ ッ トー :人間 と空間、 121
ヽ、ヽベ ー ン/