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一八世紀スコットランドゐ歴史家たち(一) 1忘れられた 歴史主義1

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(1)

一問題の設定 − イギリス・イデオロギーの把握  

歴史主義といえば︑ふつう︑劇九世紀イィッを想起し︑それは山七︑八世紀イギリス︑フランスの普遍的︒個人  

主義的日然法に対抗してうまれ︑すぐれて民族的・国儀的・全体的・有機的︒ロマン的・反革命的な性格をになう  

ものとされる︒したがって︑ここから︑当然に︑みちぴきだされるゴロヲヅは歴史主義=保守主義の定式であろ  

う︒かかる定式はそれ自体︑無意味とはいわれえない︒それほ歴史=伝統であるかぎり︑そして︑伝統=既製の秩  

序と解されるかぎりでほ︑あくまで︑ただしいものをふくむと︑いわなければなるまい︒だが︑改めて論ずるま  ヽヽヽ  でもなく︑自然法は両匁の剣であり︑一種のうつわである︒自然の名に 

もできれば︑神の秩序や施対主権を論定することも可能であった︒もんだいなのは容器でほなくして︑′中味であ  

る︒その結果︑わたしたちほ神学的自然法や抽象的自然法︑または経験的自然法などの︑さまぎまの自然法をもら  

うるし︑保守的・弁ご的自然法も︑革命的・批判的自然法も︑同時に︑論定しうるわけである︒山方︑ドイツの歴  

史主義にしても︑それが後進国の歴史意識から出発した民族解放の思想をもつという点では︑これをたんに︑保守  

一般として処理するのはおかしい︒しかも︑歴史主義が歴史的個体や歴史的段階をあげつらうばあい︑そこに自然  

︵五〇三︶ 四三   一八世紀スコットランドの歴史家たち︵一︶   一八世紀スコットランドゐ歴史家たち︵一︶  

1忘れられた 歴史主義1  

山  崎  怜  

(2)

︵五〇四︶ 四四  第三十三幾 筋四号  

法的な︑ないし︑啓蒙的な合理主義の思惟構造がしばしば︑みられることも注意されなくてはならない︒それ故  

に︑わたしたちほ歴史−Ⅰ保守とか︑自然法=進歩の公式を︑いたずらに︑一般的な・絶対的な分析用具として用い  

ることほ警戒すべきである︒   

しかしながら︑自然法の思想家たちが︑自然ということばを駆使したとき︑それは現実から︑かけはなれた︑さ  

らには︑現実に対抗したぎ体や事物の状態を指し︑この︑いわば不自然な現実にたいする超越的立場をあらわしたと  

いう意味で︑これを︑進歩的・批判的立場とよぶのほ︑あやまりではない︒聖トマスの自然法が封建的現実を︑神の摂  

理によって擁どしようとするとき︑それは封建的現実がそのなかに神に反逆した分子を現にうみだした何よりの証  

拠であり︑しかも︑この現実の解体彗現実そのものの論理から救済しえないことは︑実ほトマスの敗北を︑事実  

上︑示している︒トマスの白然法ですら︑うらがえしていえば︑伝統の危機を表明した焦燥の哲学なのである︒保  ヽヽヽ  守の側でさえ︑自然法の武器は自己に向けられたやいばとなる︒伝統の立場が歴史をもたないことは︑それだけ︑  

伝統の弱さをさらけだすことなのだから︑自然=進歩︑歴史=保守の公式ほ徹底的なコロラリとしては妥当なもの  

として承認されるぺきであるだろう︒これを他の面からいえば︑次のようになる︒あたらしい立場が現実からの一  

定の距離をたもたなければ︑その灘判的位置にたちえないというのも︑それだけ︑逸歩の弱さをあらわしているの  

である︒この弱さほ右の伝統の弱さとはちがって︑批判的立場の自己矛盾というよりも︑その現実的論証の欠除で  

ある︒これに気づいた自然法はできるだけ︑自己の体内に︑経験的要素をとりいれようとした︒かくて︑自然法ほ  

経験的自然法となったが︑これを可能にしたのほ︑かつて︑現実ではなかった自然が市民社会とんて現実化したか  

らであって︑自然法そのものが経験的性格をそなえうる本来的性格を有したからでほない︒このために︑自然が現  

実化すれぼするはど︑経験的自然法から︑自然の二字が消えて︑それは経験法となり・︑ついには︑経験法則となっ   

(3)

た︒しかも︑自然法が現実化すればするはど︑当初の批判的性格はとれていった︒つまり︑自然法が実証性を保持  

しようとすれば︑自己崩壊をきたしたのである︒   

そうすると︑わたしが歴史=保守とか︑自然法=進歩の公式を︑山般的な分析用具として使用すべきでないと︑  

はじめに︑のぺたことはあやまりであろうか︒歴史=進歩の立場がもとめられてほいけないか︒歴史と革命ほ結合  

すべき筋合のものではないのか︒結論的にいえは︑︑この立場は歴史が過去が︑もしくほ現実がつねに︑自己を否定  

し︑克服するモメソトをうみだすという論理をディアレクティークに分析し︑論証することができないうちほ成立  

しえない︒批判的立場が歴史の内側から︑・自己を弁明し︑主張するには︑弁証法な必要とする︒そして︑ひとた  

び︑この方法が獲得されれば︑伝統が歴史に固執するときの︑その歴史は実に歴史の面にすぎず︑歴史を固建化  

し︑枯死せしめる非歴史主義におちいることを︑横極的にあきらかにしうるのである︒ここにいたると︑もはや︑  

歴史=保守の定式における歴史ほ虚偽意識の産物であることが明白となり︑歴史=進歩の定式が確定される︒この  

定式は自然法のもつ歴史形成的批判精神を継承しながら︑その弱点を︑かんぜんにのりこえたものであるといえよ  

う︒マルクスは形式的にほ︑矛盾するかにみえる資本主義の客観的・対象的分析と︑これを克服する社会主義思想  

とを︑結合したのだが︑この結合を媒介したのは︑はかならぬ︑弁証法であり︑二﹂の結合によって︑それぞれ︑経  

済学を歴史的に︑社会主義を科学的に︑弁証法を唯物論的に︑鋳なおしたのであった︒この一ばあい︑三者ほそのい  

ずれにおいても︑たがいにい他の二者を前提とする相互媒介的なかんけいにあるとはいえ︑すぐれて媒介的なもの ○  

は︑いまも︑いったように︑弁証法である︒ことばをかえていえほ︑マルクス主義の三つの源泉といわれる﹁ドイ  

︵1︶  

ツの古典哲学︑イギリスの古典経済学︑そして仙般にフランスの革命的諸学説とむすびついたフランス社会主義﹂  

のうち︑前者は後二者の結合の媒体にあったといいうる︒マルクスが折にふれて︑イギリス︑フランスにたいして︑  

︵五〇五︶ 四五   一八世紀スコットランドの歴史家たち︵一︶  

(4)

●  

︵五〇六︶ 四六  第三十三巻 欝四号  

ドイツを批判した所以は︑化合物ともいうべきマルクス主義の形成にあって︑ドイツが︑素材ではなくて触媒にす  

ぎなかったからである︒現実の歴史は英︑仏のそれであり︑ドイツほ観念や意識の歴史しか有しなかったからであ  

った︒このことは︑しかし︑イギリスやフランス側からみると︑けっしてドイツの脆弱性でなくして︑むしろ︑逆   

に︑英︑仏の限界を意味した︒.市民社会がなしくずしに自己を貫徹しえた先進イギリスでほ︑それはあまりに∀現  

実のゐ歴史であったがために︑恩患は歴史的ではなくて実証的・経験的=経済学となり︑フランスでは市民社会が  

政治的・魔力的革命なしには成立しえなかったがために︑それほロマン的・急進的・空想的思想=政治学をうみお  

とした︒現実の歴史をもたぬ後進ドイツは︑かえって︑観念の歴史を深化せしめて歴史と民族の意識および矛盾の  

論理=哲学を発展しえたのである︒マルクスがしっようにドイツを否定したのは︑自分の︑あるいは祖国の成長の  

︵2︶ ために︑青年へーダリアーナであったドイツ人マルクスの強烈な自己批判の結果であった︒  

ヽヽヽ   ところで︑このようにみてくると︑三つ源泉の特徴づけ嘔それぞれの国の資本主義発展の特殊性にもとずくこと  

は明瞭であり︑それぞれの思想の本質的性格規定として︑きわめて︑あざやかな結論なのだが︑それであれば同時  

.ヽヽヽヽ  に︑おのおのの資本主義の特殊性に対応しての経済学・政治学・哲学の淡況がとわれてしかるべきであるだろう︒三  

つの源泉はかならずしも︑それぞれの国に固着してあらわれたという風のものではないからである︒たとえば︑政  

治学はすでに︑イギリス革命期に︑ホップズやロ′ツクにおいて確立されたし︑経済学も︑また︑フランスやドイツ  

に生成した︒歴史学はコンドルセやテふルゴーの虚史意識にみられるように︑フランスにおいて 

かも︑これら三国ほあるいは貿易や戦争︑亡命や旅行を通じて︑︑あるいは文献の跳訳・交流によって︑制度的にも︑  

人的にも︑思想的にも︑流動的にかんけいしあったのであった︒したがって︑わたしたちは三国の思想や理論を︑ /近代 ヨーロッパ資本主義の発生・生成にともないながら︑必然的に︑生じたものとする統山的な歴史視点から︑把   

(5)

握しなければな吟ない︒そし七︑むしろ︑それぞれの国の哲学・政治学・経済学の結合における︑または分離に  

おける特殊性が︑このうちの山つのもののみを︑その独自性として︑抽出したのだと︑かんがえるべきでほない  

か︒くりかえしていえば︑ドイツにおける政治学・経済学︑フランスにおける歴史学・経済学︑イギリスの政治  

学・歴史学の存在態様をつぶ省に︑あとづけることによって︑それらがどの程度に自己完了的性格をもち︑いかに  

して︑結局には︑別の学問に席をゆずらざるをえなかったかが︑とわれていいのである︒こうすれほ︑マルクス主  

義にたいする三国の貴献ほ︑けっして︑直線的な劇義性ではきまらず︑ヨーロッパ近代思想史のゆたかな様相がと  

らえられるであろう︒たとえば︑一七世紀イギリスめうんだロックの政治思想がフランスにわたり︑プラ/ンス尊  

命︑および︑そのもとでの︑さまざまのイデオローグたちの手にうけつがれつつ︑終局には︑フランスの空想的社  

会主義の源流となったことや︑フランスに移植され︑フランス化されたロックが︑ふたたび︑イギリスに上陸し  

て︑母国の小市民的急進主義を触発しセ事実︑さらには︑仙九世紀に︑イギリスのリカードク社会主義者に強い啓  

示をあたえたことなどは︑たんに︑イギリスを経済思想でぁりきったのでは︑わけがわからないだろう︒かかる具  

体例は歴史思想︑政治思想をふくめて︑イギリス側からはもちろん︑プラ∴/ス︑ドイツの側からも︑あるいは︑後  

二者相互吼あいだにも︑枚挙のいとまがないはどである︒そして︑それにもかかわらず︑この例でいえば︑わたし  

たちはフランスにわたったロックの経験論が感覚論的な側面において︑純化され︑共同体的要素をつけくわえら  

れ︑急進化されたということ︑他方軋おいて︑母国急進主義への影響ほ依然として︑財産権保ど・個人性∴漸進性  

の面ですすめられている︑つまり︑ロックの伝統は名誉革命をたたえながら︑それを徹底化する方向が︑いいかえ  

れば︑自立化した市民社会を対象とする経験論的経済学をうみおとす線が基本的事情なのだということを︑かえり  

みる必妾がある︒ロックを支持したリカードク社会主義者ホジスキンのほあいでも︑労働収益権が資本紅よる収奪  

︵五〇七︶ 四七   一八世紀スコットランドの歴史家たち︵こ  

(6)

︵五〇八︶ 四八  第三十三巻 欝四骨  

の批判であるよりほ私有財産の神聖視にむけられた微温的な小生産者の立場紅たち︑フラ/ソスに固有であった急進  

的・副揆的・ロマン的社会主義との相違がみうしなわれてほならない︒たとえ︑フランスにおいても︑おなじく︑  

小生産者的性格がみられるとほいえ︑小生産者のイギリス型との区別が重要なのである︒グレイのばあいですら︑  

フランズによって︑きたえなおされねばならなかったといえほ︑いいすぎたろうか︒初期社会主義の国別の類型を  

︵8︶  

さぐることは︑無視されてはならないのである︒   

ここで︑ノゎたしはあるイギリスの歴史主義をとりあつかう︒それは歴史主義であるかぎりでは︑実証的・経験的  

であり︑時間・空間のカテゴリをとりいれていることは︑はぼ︑察しがつくであろう︒﹁だいたい†九世紀以前の  

ヨーロッパにおいては︑戦前の大多数の日本人の考えがそうであったように︑思想というものは︑その思想を産み  

だす人間の現実的な生活のあり方とは仙応無関係に︑それ白身の根拠と論理にしたがって発展するものだと考えら  

¢   れていた︒つまり思想のめざすものは絶対的真理紅はかならないから︑それが誰によって産みだされたにせよ︑そ  うした個人的制約から脱却し︑普遍的・絶対的な性格をもつと考えられたのである︒現実的な社会的存在であか個  

︵4︶  

人が思想を産みだすというよりも︑個人のなかに存する普遍的な心⁚⁝が思想を産みだすとされたのである︒﹂とい  

うのは︑﹁だいたい﹂に︑いえることであることが︑また︑﹁山八世紀的な立場﹂ほ﹁思想家個人の主体の中に︑そし  

てその中にのみ︑思想頬型化の根拠を見いだそうとする﹂とか︑﹁環境それ自体の客観的分析を行なわずに︑問題解  

︵5︶  

決の道を主体の中に摸索するのは︑一八世紀的な抽象性﹂だというのも︑あるかぎられた一般性においての規定で  

あることが︑示されるはずである︒一九世紀は山八世紀を︑機械的に︑あるいは︑全面的に否定することによっ  

て︑自己をうみだしたのでなく︑その成果を吸収しながらの︑それに即応するてとによっての︑あたらしい嬰児   

の出産である︒母体なしのみどりどをかんがえることができないように︑思想もまた︑その原基を過去の世紀に発   

(7)

︵¢︶  

する︒いわば︑思想紅おけるククラードが考慮されていいのである︒そう1して︑それがククラードであるかぎりで  

は︑成長したあたらしい形成体との︑ひとつの基本的ちがいを有することも︑顧みられなければならない︒ここ払い  

うイギリスの︑こまかくほスコットランドの歴史主義を︑わたしが自然法的歴史主義︑歴史的自然法︑またほ︑社  

会的自然法となづけるのも︑かかる二面的性格を︑端的にあらわしたいからである︒歴史と自然との結合を︑本来  

ヽヽヽヽ  的には︑あいいれない性質の︑牽強附会ものだとして︑わらう人にほ︑およそ︑歴史的もんだいすら︑あなえられ  

ないであろう︒従来︑ス︑\\スの自然法を経験的自然法とよぶことは学界の共有財産となっているが\ それを歴史的  

自然法とよぶときに︑さらに︑歴史と論理のもんだいが︑強烈なかたちで︑わたしたちに迫るのではないだろう  

か︒  

この歴史主義の存在はマルクス主義へのイギリスの貢献が古典経済学︑初期社会主義とならんで︑歴史哲学の分  

野でも︑小さくはなかったことを︑まざまざと︑示すであろう︒   

このようにして︑スコットランド歴史学派の位置を確定することは︑H自然法と歴史認識のかんれん1その極  

限における ー︑目歴史主義と革命の統副︑臼歴史意識と経済学の結合︑㈲マルクス主義の源泉としての∀イギリ  

︑    ス・イデオロギ一風の意味に︑あらたな光をなげかけるであろうととは︑たしかであるとおもわれる︒  

スコッートランド歴史学派についてほ︑.かつてヾ いくたりかの社会学者によって︑事実上︑とりあげられた︒コム  

ト主義者のイングラム︑マルクス社会学者クノク︑さらに︑マルクス批判家ゾムバルト︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄  

のさいしょの編者ジャザノフらがそれであるが︑かれらはいずれも︑あまりに個別的に言及するか︑もしくは︑自  

己の尤大な体系の片隅に︑実用主義的立場から︑一て一一石歴史家のことほを︑引用し︑既製の完備した体系からの︑  

︵7︶   ︵8︶  

コメントをつけるにとどまった︒これにたいし︑バー︑︑\ンガムの占イ・パスカルやソテキューズのクィリアム・C・   

一八世紀スコッ上フンドの歴史家たち︵一︶︑  ︵五〇九︶ 四九   

(8)

体として︑内在的にとりだしっつ︑一入世紀から一九世紀への︑忘れられた環としてのスコ.ットランドの歴史思想  を︑すぐれた筆致でえがきだしている︒わ空はこれらの人々の研究を紹介しっつ︑この学派の意味を摸索した  

︒   ︵1︶レ1;﹁カール上々ルクス﹂︵ぞフナト百科辞典﹄︶︑完一四・年︑大塚弘訳︑岩波文膵︑一八ぺー汐︑または︑同冒  

ルクス=エンゲルス=マルクス主義﹄第一冊︑国民文庫︑妄ぺー汐︒かれは完三年三月︑﹁マルクス主義の三っの源  

泉と三つの構成部分﹂︵雑誌﹃プロスヴ工夢エ⁝し竺号︶で︑これ是式化したといわれる︒しかし︑かれのほあ  い︑論文の性質上︑叙述は図式的・論理的で︑かつ︑マルクス以前とマルクスとの断絶を強調しているので︑三つの源泉  のそれぞれが︑いか忙して︑また︑なぜに︑一面的たらざるをえなかったのかの︑分析ほなく︑わたしたちは歴史的二思  

想史的に継承=断絶の両側面を同時に︑退蔵しなければならないだろう︒継承の側面を歴史的に追跡するにほ︑とりわ  け︑⁝ゲルスの初期の論文が重要である︒わたしの以下の叙述は初期エンゲルスに教えられた部分がおおい︒   

・小文脱稿ご忙みたカクッキーの小冊子買−ル・マルクスの歴史的貢献二完〇八年︶ほイギ=ノズの経済忠恕︑フラン  スの政治思想︑およぴ︑ドイツの哲学軋つき︑歴史的覧の一面性を分析しっっ︑マルクス主義誉れら主つの統㌻綜  

合で驚ことを指摘するが︑わたしのいいあてようとしているところを︑明快に説明していて︑雪賢た︵櫛田民蔵・  

大内兵衛訳冒ルクス=エソゲルス評伝⁚九二六年︑三〇ページ以→︶◇ただし︑当然ながら︑カクッキーのばあいで  も︑三つの源泉を国別にのみ︑把握しょぅとしていることにかわりはない︒レーニンは﹁カール・マルクス﹂で︑カクッ  キーの事物を﹁マルクスの活動を概観したものとして﹂あげているが︑それ以上にほ︑何ものぺていない︒参照︑上掲︑  

国民文膵︑六六ぺージ︒   

︵2︶国別による三つの源泉賢いては︑わたしは初期のマルクス=エンゲルスの著作によって全面的にあとずけるつもりであ    第三十三巻 欝四号  

へ9︶      ︵10︶ レーマン︑グラースゴクのロンルド・1・ミーク︑それに︑ダンカソ・フォ   ︵五一〇︶ 五〇  

V利己  −ブズらは︑この歴史主義をそれ白  

(9)

る︒さしあたりは︑﹁イギリスの状態﹂︵︻フォルヴュルツ﹄罪七〇︑七三︑七五官︑山八四四年︶が重要である︒  

︵3︶国別の社会主義のタイプについては︑エンゲルス﹁大陸における社会改革の前進﹂一八四三年︑同﹁大陸における社会主  

義と共産主義﹂ 劇八四四年︑〟八四五年︑同﹃イギリスにおける労働者階級あ状態﹄ 仙八四五年などをみよ︒  

︵4︶ 城塚登﹃近代社会恩琴芝二九六〇年︑二ページ︒  

︵5︶出口勇威﹁社会思想史上のジョソ・スチュアート・ミル﹂︵掘経夫編で︑︑ル研究﹂山九六〇年︑一二二ぺ一望  

︵6︶ このとき︑嬰児自身が母体との断絶を主張し︑むしろ︑それに対抗的な反逆児に生長することさえ︑しばしば︑ありうる  

としても︑客観的な連続かんけいが︑これによって消失するわけでほない︒反逆ほかえって︑ますます︑かれが両親の子  

であることを示すことがおおい︒さらに︑嬰児が母体との継承かんけいに無自覚なほあいも︑両者のあいだに︑つながり  

をみいだすことは︑歴史家の主要な仕事である︒  

︵7︶ かんたんには︑わたしの小文﹁ジョン・ミラー﹂︵﹃香川大学経済論叢﹄算三三巻第山号︶をみよ︒くわしくは別に論究す  

る予定であるが︑かれらのうち︑クノウの巣緻紅は評価すべきものがある︒  

︵8︶.ハー︑\\ンガム大学のドイツ文学﹂語︶︑ドイツ思想史の教授で︑著沓にRつy Pasca−⁝↓訂C勺︑責§慧§S§札b⊇董・︐  

Manc訂ster□.P.︑−誤−● があり︑論文に︑こ守Operty aロd SOCiety・Tbe ScOttisF HistOric巴Scど○−Of t訂Ei嘗teentF  

Century㌧ごn∵コ訂旨ぎ旨≦の冨§すせ﹀ ≦−.Hけ NO.N.︑−800.︶pp●−笥−−遥㌔占erder and t訂ScOttish HistOrica−  

ScF00−︐︒in⁚ヨ苧ぎ賽ざ昏湧♪ご家出厨諒料9監禁ざ泳ぎゥew Seriesu く○−.舛iく●−¢︺p﹀pp● N∽−・缶.があり︑小  

文でほあと二つの論文を素材とする︒このうち︑後者は山九三八年月二四日︑ロンドンのキングス・カレジでのイギ  

リス・ゲーテ協会の会合での講演である︒  

︵9︶ 宅m・C● LeFmanヨはニューヨーク州シラキューズ大学の社会学名誉教痩で著聾はスコットランド歴史学派の巨人の仙人  

アダム・ファーガスソにかんするもゐ∴碧訂義和す蜃萱§b旨∵罫㌣君恩ミ昏軍:ち旨ぎ計⊇hぎ溶き5−豊〇.と︑これも︑こ   

︵五一一︶ 五一   一八世紀スコットランドの歴史家たち︵こ  

(10)

︵五一二︶ 要一  野二±ニ巻 第四号  

の学派の重要な論客ジョン・ミラーにかんする未刊の盲道義冨1鼠Q訂童き−C・已・㌘−害・の二冊である︒後者  

は予告ぬよると︑R・M・マッキーグァの序文をもち︑鱒一部伝記的研究︑第二部︑︑︑ラー思想の分析︑第三部は﹃階級起  

源論﹄のかんぜんなテキストの復刻︑第四部にミラーの他の著作︑こと軋﹃歴史的考察﹄からの抜琴︑附録ほミラーの手  

紙︑匿名文︑および︑かれの講義の学生ノートを収め︑また︑︑︑︑ラーの家族のかんたんな記鐘をふくむらしいのだが︑わ  

たしの手許にはまだ届いていない︒小文でほ︑レーマンの論文へ曽どMiロaruHist︒rica−SOCiO富ist・SOmeRem胃kab−e  

AnticipatiOnSOfMOdernSOCiO−Ogy.ごnぺまこ¥註&こgヨ革ご旦h宮野ざ篭√くー・声NO・−﹀MarcF−訝N・﹀pp・∽01  

会.をとりあつかうが︑紙幅のかんけいで分我するため︑その間に新著が到着すれほ︑利用するつもりである︒レーマン  

は近々に︑来日するときいている︒   

︵10︶︑\︑−クについては︑いまさら︑かくまでもないであろう︒ここで言及する論文ほドナ・トアの七〇才誕生記念論文集﹃民  

主主義と労働運動一山九五四年に掲載されたjheScOttisFCOntrib象OntOMa−詠tSOC邑Ogy・︒であるが︑これについ  

ては︑とくに︑︑︑ラーにかんする︑︑︑−クの指摘について︑前掲の小文でふれたことがある︒   

︵11︶ Duncan句Orbe00 は Tbe Libe邑Ang−ican Hdea Of HistOry・︸C・U・P・﹀−誤N・の著者である︒ここでほ︑かれの  

⁝Scientific﹀WE喝gi¢m⁝AdamSmitb andlOざnMinar・︑ごn⁚↓訂C§普鼓慧﹂旨喜♀∴苫L≦・N〇・−−>A烏uSt  

−滑車pp.澄㌣よ衰r 紅ふれる︒この論文中に注記しているへ曽m2S Mi−−andIndia・︒in⁚↓訂 C蔓誉鼓態︑訂室さ  

OctOber−訝−.も︑かれの論文であろう︒  

ニ スコット去ノンド歴史学派−所有形式と社会形態の因果認識  

︵1︶  

一六︑七世紀のヨーロッパにおけるプルジュワジーの勃興ほ︑\ハースカルによれば︑人間諸かんけいについての体  

系的な思想=政治科学をうみだした︒人々は自己の政治的主張を︑政府の発生のまえに︑人間の∀自然権風︑∀自   

(11)

然状儲A︑V社会契約Aを想定することにより︑正当化しようとした︒ホップズのような絶対主権を擁ごしようと  

するものも︑ロックのごとき人民主権をまもろうとするものも︑ひとしく︑抽象的・思弁的・合理主義的概念を利  

用したのであった︒抽象的・思弁的というのほ︑社会以前における∀自然状態菰の人間想定において︑合理主義的  

とは︑社会の成立を︑人間の自発的行為にもとずくとすることに︑よる︒エドマンド・バークはかかる政治理論と  

反対に︑歴史を︑ゆるやかで有機的なものとみなし︑気がつかないうちに生長するものとしたのであって︑かれは  

合理主義的歴史思想を︑無責任な革命論とよび︑リアルな歴史解釈をひっさげて︑啓蒙的な保守主義を︑あたえた  

のであるのだが︑このバークの主張が緊迫したフランス革命下にあってのイギリスで︑かれを反革命の陣営におく  

るとともに︑ドイツの反革命や︑アダム・︑︑\ヱフー︑サダイエー︑あるいぼ歴史学派を鼓舞したのは︑よく︑知ら  

れている︒一九世紀のおおくの歴史家はバークの命題をうけいれて︑抽象的︒合理的歴史理論︵=虚偽︶←民主軍命  

︵=慈︶︑伝統的・有機的歴史理論︵=畠実︶←漸進的進化︵=善︶とした︒レズリ・ステイーヴンの﹃山八世紀におけ  

るイギリス思想﹄も︑例外でほなかった︒   

だが﹁かかる流れと︑まったく異質の︑そして歴史家たちから︑正当な評価をうけなかった一つの歴史思想の学  

派が仙八世紀の中頃に発生した︒この学派ほ現実的であるとともに進歩的﹂であり︑.中心人物アダム・ス︑︑︑スはも  

とより︑その代表者はスコットランドの大学教授︑エディンバラ=アダム・ファーガスン︑グラースゴク=ジョン・  

︑︑︑ラー︑エディンバラ=ウィリアム・ロバートスンといった顔ぶれにくわえて︑ケイムズ卿︑ジェイムズ・ダンパ  

ー︑ヒュー・ブレアがか・れらとともにあった︒歴史へのアプローチがあまりに似たところから︑お互の優越︑剰窃  

について︑当時から論争ものだったが︑これらの論者らは講演家であり︑クラブマンであったかんけい上︑つねに︑  

意識的・無意識的に︑その思想が同質化するのが当然であり︑むしろ﹁重要なのほ人が一学派とよびうるはどの顕  

︵五一三︶ 五三   一八世紀スコッ上フンドの歴史家たち︵こ  

(12)

著な血致のあることだ﹂ とパスカルはいう︒   

スコットランドで︑なぜに︑かかる統仙ある思想が形成しえたか︒パスカルは二つの要因を指摘する︒   

∵はスコッ上フンドの大学・教育の状態︑二は山般的な社会環境なのだが︑大学教授が︑その学園生活の枯死し  

たイングラン下から切断されて︑独自の生活圏を形成し︑フランスと知的・人的に交流した︵たとえば︑ヒューム  

とス︑\\ス︶こと︑この長老派の国でほ︑大学のポストが教会のそれよりも好まれて︑優秀な学生がわれさきに︑大  

学のポストをえようとしたこと︵Smi軍司⁝Qヽ字﹀Cannan2d・J戸諾雪初等教育がィングラドを凌駕し︑人民  

仙般の知的水準がたかいこと︵︑\\ラーはイングランドの分業の発展が人民を白痴化したという︒誤答ヽ訂乳ヨ寒・−  

−∞○㌣ぎ︼.肖忘¢1誤︶︑なかんずく︑大学数育禦がィングランドに比して︑おそろしく︑安いため︑極貧層をの  

ぞけほ︑息子を大学におくることが可能であること︑他方︑教授連は基本給料が少なく︑あとはその講義に依存し  

たこと︑さいごに︑スコットランドの大学はオクスフォードやケムプリッ汐とことなり︑商業中心の大都市に位置  

したことであり︑社会環境では︑ス︑\\スがその歴史論と経済学をあみだしたグラースゴクが︑北アメリカとの貿易︑  

とくにタバコ貿易により︑五〇年代︑六〇年代でほ︑いまなお︑大都市でなかったのが︑﹁急速に﹂発展しほじ  

め︑そのため︑地方産菜は巨大な進展ぶりをみせ︑スミスと︑︑︑ラーは商業の︑この急速な働きの諸結果を眼前正し  

た︒このことは北アメリカのインディアンに興味をおぼえて︑原始と文明の比較による思惟の基礎をあたえた︒商  

業の世界と大学の接触ほ商人と教授らの混合クラブをつくらせ︑産業精神は大学にみなぎり︑ス︑\︑スがあの有名な  

講義を実施しっつあったとき︑汐ヨク汐ブ・ブラックは潜熱を発見し︑ジェイムズ.・ウォットほ大学の保ごのもと  

で︑蒸気エンジンを完成する研究に余念がなかった︒さらに︑重要なのほスコットランド中産階級の特殊な地位  

で︑政府の所在地からの相対的な孤立は︑中産階級と政府の敵対かんけいを尖鋭化した︒ファーガスンや\\\ラーほ︑    第三千三巻欝四号  ︵五側四︶五四  

(13)

ス︑︑\スと同じく︑国家干渉に反対し︑独立精神をたたえる包2rg宏On−語旨ミQヽC註叫哲へ叫母・ぎded・︸  

−諾¢﹀彗蔓とくに︑ファーガスソは精力的に︑スコットラ/ソド民兵制の樹立に参加︑ポーカー・クラブ一会員の  

条件が民兵制設立への熱心さにあった−の共同発起人だった︒主フーは急進主義者として名をなし︑王権伸長に  

反対し︑議会改革︵ただし︑普通選挙は腐敗をよぶとして︑不賛成だっ空を擁ごし︑フランスにたいする反革命干  

渉戦争紅抗争した︒かれは﹃人民の友の会﹄の一員であり︑そのラディカルな教義ほ警戒きれた︒以上の状況がか  

れらの歴史理論を﹁現実的︑かつ︑進歩的﹂たらしめたのである︒・かれらはヒュームにしたがい︑社会契約を拒否し  

︵2︶ て︑社会の自然法則を︑メカニカルな科学を︑たてるべく︑競いあった︒人間は社会の集団のなかにあっての人間  

なのだった︒ファーガスンのいうように︑人間ほ他人との交わりにおいて生活する働きのなかでのみ︑検証されう  

るのである︒ここに﹁われわれは社会科学の根底をみいだす﹂とパスカルはのべ︑以下︑スミス︑ファーガスン︑ミ  

ラー︑ロバートスンの順に考察する︒   

アダム・スミス ス︑\\ス社会観のアウトラインはかれがグラースゴクの教授だった︑五〇年代のおわりから︑六〇  

年代のほじめにかけてウくられた︵﹃草稿﹄︑﹃講義・﹄︶のである︒かれによれほ︑社会ほその生産様式の相違によっ  

て︑四つの社会形態を−狩猟︑牧畜︑農業︑南米卜靂経たのだが︑政府の機能を私有財産の保ど︑富者の保全に  

帰したように︑﹁社会形態は︑ただ︑その財産所有の性質にむすびつけてのみ︑理解されうるのであり︑ス︑︑長の方  

法は社会のそれぞれの局面をとり傷っかうにあたって︑その歴史的発展を︑所有形態︑所有かんけいのちがいに︑  

もとめ﹂たことにある︒﹁社会的発展の過程は超自然的︵宗教的︶な︑道徳的な原理︑さらには︑人間の予測や理性  

にうどかされるのでほなく﹂︑自利によるのであって︑かくで︑ス︑\︑スは﹁社会の発展を︑まったく︑世俗的・物質的  プロセスとみなした◇﹂かれが分業を論じたときほ︑たんに︑技術的分業を意味したのではかくて︑﹁社会階級め分  

︵五劇五︶ 五五   山八世紀スコットランドの歴史家たち︵一︶  

(14)

︵五山六︶ 五六  第三十三巻 第四号  

菜﹂︵=分裂︶をも︑つまり︑生産するものと︑うけとるものの分業をも︑指示したのであり︑機械は天才の発明で  

ほなく︑この分実の結果であり︑しかも︑分業が人民を愚民化するにもかかわらず︑進歩の必然的条件だと︑強調  

する︒同時に︑哲学者と街頭の荷運人の差異は習慣・教育陀由来するにすぎない︑とした︒かれはあらゆる変化を  プロパティ  ﹁財産所有の性質ないし分配﹂の変化にもとずくとするテーゼを固執した訂である︒   

封建制の没落は商工棄の進展と都市の独立にあった︒V奴隷制Aの廃止は宗教的運動でほなく︑利己心から起っ  

た︒封建貴族問の闘争にあって国王服部市と同盟し︑都市に自由をあたえるととも︑畏族は権力獲得の手段にすぎ  ヽヽ  ︑なかった財産︑農奴を︑もの=富の生産にむけ︑借地権を設定し︑農奴を自由にしたため︑自ら︑その権力を失なっ  

て規則的な政府の確立をうみだして行く︒山方︑人民の側も︑自らの実際的利益の追求が︑予期しない︑あたらしい  

政治やあたらしい道徳をうむのであった︒商業は正直︑自由︑法のまえの平等︑すなわち︑民主主義の本質を要求す  

る︒近代文明ほ∨外国貿易とマニュファクチュアのみえざる働き∧︵薫ミり舞LJ∽∞の︶紅負う︑とスミスはいった︒   

かくのどときス︑︑\スの社会ないし社会変革にかんする解釈は︑かれがかならずしも︑首尾二貫せず︑抽象的で︑  

偏狭なかんがえを表明したとほいえ︑﹁うたがいもなく︑唯物論的な︑そしてスコッ上フンドのかれの同時代人や弟  

子たちがつくりだしたあたらしい社会観の基礎をきずいたのである︒﹂そして︑同時代人や弟子たちの思想の概観  

ほかれらがス︑︑\スのどこに不満足であったかを︑示すだろう︒   

アダム・ファーガスン ファーガスンのさまざまの著作のうち︑﹃市民社会史﹄が当面のもんだいにかんしてほ︑  

もっとも重要で︑後年の理論的番物︵首課蔓ざQヽ篭蔓已℃霞訂尽ぎーヨ㌣ 等軋莞首〜認Qヽ竃卑乳§札  

旬Q︑認許気功c訂莞恥﹀−遥P︶ はまわりくどく︑元気がない︒   

かれはス︑\\スのカテゴリをうけいれ︑心理的・利己的︵自己保存的︶かんけいを基盤とする社会・集団のなかで︑人   

(15)

間を研究する︒スミスと同じく︑社会を四形態蔽わかち︑﹁集団の形式ほ生産棟式によってきまる﹂とした︒しか  

し︑ス︑︑\スをはるかにこえて︑豊富な資料を駆使しながら︑社会形態を分析した︒かれの卓説の中心論点は私有尉  

プロパティ 産の存在が政治的発展の原理をあたえる ー〃財産ほ進歩の実質である∧︵C首史∴紆重訂肯√−父︶︑すなわち︑所  

有こそは∨市民的敵対主義∧を︑社会階級を︑諸階級の闘争を生ぜしめ︑﹁社会発展の主要動機なのだ﹂という︒フ  

ァーガスンによれは政府は階級間のかんけいによってきまる︑∨政府の形式は︑主として︑二田家の成員が本源的  

に︑階級わけされる仕方に起因する∧︵ヽ訂チ望の︶ のだった︒これによっても︑わかるように︑かれは社会発展  

の基礎について︑スミスにまさる︑明確で二賞した認識をもつ︒人間は∨盲目∧であり\社会の形態は必然的な財  

産かんけいから︑人間の手におえないかたちで︑発展する︵ヽ訂㌣−00の︶︒ス︑︑\スほ分業を交換の相互的利益から︑  

ひきだしたが︑かれは私的所有の存在から︑生起することを︑たんなる技術ほ重大な社会的発展をもたらす紅は不  

十分なことを︑強調する︒   

分業の有害な諸結果にたいする批判も︑ス︑︑\スよりするどく︑肉体労働者が粗野となる山方︑思考自体が職業化  

したことを批判する︒かれによれば︑人はたんに︑分類し︑記憶し︑理解するために勉強するのではなく︑∨権力∧  

を獲得し︑∨勝負にかつ∧︵や温風貰デー∴営︶ために︑そうするのだという事実を︑くりかえし︑拇摘する︒だ  

が︑ファーガスンは︑初期の著作では︑社会の解体を利己心に帰したのが︑のち紅は︑マンドゥヴィルとスミスの︑  ジョプ  個人と社会の全面的一致をおしすすめて︑人ほそれぞれ︑各人に適した仕事をえて︑安んじて︑それを遂行するこ  

引綱1画家につくすことになるとか︑道徳的勧告をあたえる︑あぞふやさを露呈する︒かれは個人的野望や憎恕が  

発展を促進するために︑それらを拳だといい︑内気︑有閑な娯楽︑謙遜などを︑非難する︒くわえて︑かれのすぐ  

れた分業論は帝劇に︑スミスのどとき︑その前提となる蓄積論を有せず︑第二に︑分業の崎形化をつくあまり︑初  

︵五山七︶ 五七   一入世紀スコけトランドの歴史家たち︵こ  

(16)

期社会を理想化するかたむきがみられることも︑注意を要する︒   

ジョン●ミラー ス︑\長の弟子︑︑︑ラーはその主著︑ことに﹃階級起源論﹄一七七一年において︑先師にしたがい  

つつ︑歴史的発展にかんするこの種の方法を︑明確なかたちで規定する︒かれはかくー∨政治形態のもっともす  

ぐれたものは何かを︑知るには︑われわれは過去を研究しなければならない︒だが︑真紅過去を理解するためには︑  

特定の社会形態をうむ環境を知ることが肝要だ︒かかる環境とは︑土地の肥沃であるか不毛であるか︑諸生産物の  

性質︑必要な労働の性質︑人口数︑技術の熟練度︑相互取引から生ずる諸利益である∧と︒かかる純粋に経済的な  

ファクターを列挙して︑︑︑︑ラーほこれらのものほ∨それに照応した習慣・気質おはび思考方法∧をうみだすとい  

プロパティ い︑すこし︑さきでは∨財産の発展につれて︑諸個人間の並はずれた差別︑後雑な法と統治︑趣味ないし感情の変  

︵$︶ 化があらわれるだろう∧とのべる︒パスカルによれば∵﹂の序文は﹁いくらか機械的であるとしても︑史的唯物論  ヽヽヽヽ  の簡潔な叙述である︒﹂これに比して︑ス︑\︑スの道徳と社会のかんけいにかんする解釈は意識的に︑観念的なとこ  

︵4︶  

ろがあるが︑それでも︑しばしば︑唯物論的暗示を洩っ規定がみられる︒   

さらに︑︑︑︑ラーがこの歴史学派に︑いくつかの独白な貢献をなしたとして︑パス.カルは二︑三の実例をあげてい  

︵〜︶ るが︑それについては︑別のところでかいたので︑ここではふれない︒   

ウイリアム・ロバートスンエディンバラ大学総長だったかれは︑ファーガスンと知己であり︑かれ自身︑ファ  

ーガスン紅負うことを︑みとめた︒ロバートスンの歴史叙述ほとくべつに︑漸新な見地をあらわしたわけでほない  

が︑そのアメリカ︑チャールズ五世︑および︑︑スコッ上フンド史にかんする渚著作の序文ほ注目すべきものをふく  

スピ‖ソツ:ト  む︒﹃アメリカ史﹄の第一巻で︑かれはス︑︑︑ス︑ないし︑ファーガスン的方法でアメリカの部族を展望する1  

V社会的に結合している人間め機能を研究するとき︑注視すべき第一の対象ほかれらの生活方法であるべきだ∧    第三十三巻 第四骨  ︵五一八︶ 五八  

(17)

︵ぎded−こヨ∞﹀Ⅰ﹀︸00芝︶︒さらに︑社会のそれぞれの形態ほそれ鱒特有の道徳・感情・幸福をつくりだす事実を  

強調する︒﹃チャールズ五世の時代﹄一七六九年の常山巻でほ︑ス︑︑\スおよび︑\\ラーと類似しー疋方法で封建制度を  

描写するが︑つねに生産様式と財産所有の分配から︑分析をはじめる︒かれほある二郎を∨野蛮時代からの︑財産  

の性質における変化∧と題し︑そのなかで︑封建的所有の性質とその徐々の変革を検討し︑∨ある特定の時代匿お  

ける財産の状態のいかなるものかを︑みいだせぼ︑われわれは当時の国王︑またほ貴族の所有した権力の度合の︑  

どの程度かを︑正確に決定しうるであろう∧︵く01● :○︸琵N︶ と結論するのである︒   

このように︑パスカルによれば︑スコットランド歴史学派ほ財産の形式と政治=社会形式の因果かんけいを︑え  

ぐりだしたにもかかわらず︑山九世紀紅おいて︑かれらがはとんど︑みうしなわれたことは︑きわめて特徴的でか  

った︒サン・シモンとマルクスが︑ファーガスンを︑また︑l・S・ミルが自分をヒューム︑スミス︑ファーガス  

︵6︶  ソの︑一八世紀でもっともすすんだ︑この哲学派にぞくするとのべながら︑とくにファーガスンを︑父子ミルがミ  

︵7︶  

ラーをたたえたのほ事実だが︑しかし︑たとえば︑ファーガスンの伝記的毅述がかれの思想よりも︑そのパーソナ  

リティに重点をおいたり︑マッ占ッレユ︵McCOS慧二妄こぎ詰をござ詳愛息きー00謡︶が︑ファーガスンと︑︑こフー  

の︑エディン.ハラにおける∨社会研究風潮への火つけ役∧的立場をみとめながら︑なおかつ︑﹃市民社会史﹄を∨  

陳腐な恩恵と考究でみちたもの∧ときめつけ︑ローリ︵嵩∵トauries哲亀〜冴料hま︑Q篭b和さ芯ON︶ほファーガス  

ンの歴史理論を︑かるく︑みすごして︑かれを道徳哲学者としてではなく︑道徳的教師としての方が︑重要だ︑など  

と︑かんがえた︒︑︑\ラーははとんど︑無視され︑ス︑︑\スも︑その歴史観が考慮されることは︑なかった︒   

ようやく︑二〇世紀にいたって︑マルクス主義に影響をうけた社会学者がファーガスンを再発見したのだが︑そ  

︵9︶   ︵8︶  

れでも︑なお︑フートやレーマンのせうな人々ほ︑かれの社会理論の︑遮要だが︑副次的な側面に踊踏し︑第一次  

一八世紀スコットランドの歴史家たち︵一︶  ︵五一九︶ 五九   

(18)

第三十三巻 第四号  ︵五二〇︶ 六〇  

的テーマ︑すなわち︑∨市民社会∧はその形態と発展とを︑私有財産の構造と進展に負うこと︑この社会発展の様  

式は内的諸矛盾を通じての︑また︑財産にかんして敵対的かんけい軋ある諸階級間の闘争によ▼つての︑進歩の山つ  

であることに︑おもいいたらなかった︒マイネケ︵穿婆き叢告:㌢ぎ許莞−冨︶はファーガスンが︑国  

家にたいする精神的態度における人民の向上と腐敗の決定因をみていると︑のぺて︑その思想を歪曲する︵∨国家主  

︵ユ0︶  

義∧︶1現在のドイツに有利な一結論箋︒ミラーはいまなお︑無視されているが︑ただ︑ゾムバルトのみが︑か  

︵11︶ れの思想をたたえた︒   

パスカルの︑この先駆的論文はヾこのように︑スコットランド歴史主義を永い忘却から︑ほ一りだし︑次のように︑そ  プロパティ  の意義を要約する1︺忘却された理由=﹁社会の土台としての財産かんけいの強調ほ﹂プロレタリアートの増大  

とともに︑まったく︑ことなった意義をもちほじめた︒あたらしい階級ほスミス︑ファーガスン︑ミラーなどの理  

論に依拠しながら︑資本と労働の闘争が社会発展の主要なバネであり︑﹁社会組織のあたらしい形式はこのあたら  

しい階級に対応して︑もくろまれなけれぼならない﹂と主張するであろう︒したがって︑﹁かかる全面的な唯物論  

的︑かつ︑科学的アブローチが産業資本主義の時代にプルジュワ著作家により︑ニグレクトされた﹂のは︑当然で  

あり︑マルクスによって︑かれらの継承がなされたというのも︑理解しやすいだろう︒︹こ︺.弱点=この学派のも  ヽヽヽ  っとも決定的な弱点は﹁社会進歩の弁証法を無視した﹂ことだ︒﹁かれらはつね軋財産の発展が闘争の政治的形式を  

うむことを︑低く評価するか︑しぼしぼ︑無視した︒かれらほくりかえして︑財産の変化の不可避性︑盲目性を強  

調し︑政治的変化や政府の交替は財産変化の自動的結果として︑いや応なしに︑∨気がつかないうちに∧おきると  した︒たとえば︑アダム・ス︑︑︑スは封建制から近代社会がうまれる︑あらましをのべるさい︑そのさいしょの段階  

では︑王と都市とが政治的同盟をむすんだと主張しながら︑この主題はきえて︑主として︑寅族権力ほその権力の   

(19)

かわりに︑富をもとめた結果︑徐々に解体したと主張する︒かくて︑ス︑\ニスは階級闘争がとった政治的形態を︑意識  

的に回避して︑そのあらましでさえ︑血七世紀イギリス革命に言及しない二卜采活き声−畠ff・−司.・ミご声∵r∽監  

ff.︶︒・同様に︑イデオロギーを︑機械的にみる︑つまり︑それを︑社会的諸かんけいの産物としてみるが︑社会  

的結合をつよめたり︑ゆるめるものとしての︑プロパガンダとしての︑積極的役割として︑つかまなかった︒﹂この  

根本的弱点は一八世紀末の中産階級の地位からひきだされたものである︒すでに︑かれらの革命は勝利をかちとっ  

ているので︑貴族を攻撃するといっでも︑敵対階級とんてでほなく︑商業や産業の独占にたいしてと同じく︑土地  

独占にたいしてである︒かれら︵とくにス︑︑︑ス︶が要求するのは一階級の他の階級にたいする勝利でほなく︑資本  

主義の発展にとっての︑より少ない干渉である︒かれらの理解する政治とはこの種の干渉なのだが︑﹁これはまた︑  

かれらの強みであった︒﹂それは︑かれらのもとめた歴史論が︑﹁政府ほあたえられた時代の財産の形式と状髄活二  

致すべきであり︑また︑するにちがいないということにあったからである︒﹂財産の形式︑政府︑法︑宗教︑イデオ  

ロギー仙般の弁証法的かんけいによる把握は︑マルクスに︑またなければならなかった︒このときパスカルにとっ  

ては︑この学派が当時の特殊な時代により︑不かんぜんな知識や楽観主義におちいり︑あるいは︑資本と労働のか  

んけいを︑みうしなったのだから︑パスカルの合意ほ右の弱点を批判することにあるよりも︵と同時に︶︑歴史的継  

承がもんだいなのだと︑おもわれる︒  

︵1︶ 以下はR・Pascarへ嶋rOpertyandSOCiety・︒小ぎ・Cぎpp忘↓−−声   

︵2︶ パスカルにょれば︑うフーがモンテスキューを︑市民社会にかんするあたらしい科学のベイコンとよび︑スミスをニュー  

トンとよんだものが︑これである︒   

︵3︶ との序文はr階級起源諭﹄第三版七七九年版︶と記され︑わたしのもつ第三版︵一七八ヤ年版︶とほ︑表現上︑いくら  

︵五二一︶ 六山   山八世紀ヌコッ上アンドの歴史家たち︵一︶  

(20)

かちがっているのだが︑いま︑比較考究する余裕がない︒  

︵4︶ スミスは倫理の背ごに階級利害を規定する−〜﹁階級の区分t訂distincti︒n︒fraヨ打ひがかんぜんに︑確立されている︑  

いっさいの文明社会では︑同時に普及している二つのことなった遺徳体系︑または︑主義がつねに存在した︒一つは厳格  

主義︑あるいは︑耐乏主義︑二つは自由主義︑あるいは︑のぞむなら︑放任主義とよほれる︒前者は山般に庶民 ︵t訂  

cOmm昌.pe旦e︶により︑称讃・尊敬され︑後者ほ︑ふつう︑上流社会の人々によ︵/て︑より︑尊重きれ︑うけいれられ  

る︒﹂︵葛㍉ Q﹁>√=甲−N遥・︶  

︵5︶∴前掲︑小文﹁ジョン・︑︑︑ラー﹂をみよ︒ただ︑そこで具体的にふれえなかった︑初期社会にかんする︑︑︑ラーの叙述とは︑  デリカシイ  たとえば︑ス︑︑︑スは初期種族のエロティックな感情の欠除を︑∨洗練さ∧の欠除に帰すし︑ヘンり⁚ホー︵ケイムズム  

卿︶は一夫一妻制や貞節を︑男女数の同Tさのため︑人間にとり︑∨自然∧であるし︑また︑ブリトソ人の婦人共有にか  

・八り   んするレーザの証言を拒否したが︑ミラーはおおくの混乱にもかかわらず︑かかる制度の意味を︑群婚︑母系相続︑婚姻  

前の乱婚︑結婚後の不貞︵b叫数量訂適凰知§ぎc訂pteニ・︶として記述したことである︒この点で﹁主フーはバイブル   第三十三巻 第四骨  

を一ケの歴史的資料として平気で利用したさぃしょの人間なのであった︒﹂  

J.S.M≡﹀00Letter tO A.COmte.N↓句ebこー00缶●  

A.Bain⁚︑白鳶的§︑㍗忘∞N.︑pp・∽の一声︑1.S・Mi−1﹀s訂ttertOA・COmte﹀U︑Octニー∞怠・  

H.Hutb⁚哲軋已亀§軋温已鼠札g︑叫註驚訂ゝさり禁句§鴨賢−欝S盲ぎ訂邑§・苫⊇屯ぎ註c泳ぎゝ計S功S町叫和§札bqQS  

句亀ヽg琵Q声LeipNig.︼害↓.  

WりC.Lehmann⁚ゝ丸亀S句雫gミQ適§札語句短童計数おg句もヽ旨百計⊇哲c旨︑Q鴨ヽ.New YOr好﹀−諾〇・  

W.SOmb賀t㌔A已箸ge der SONiO−Ogie﹀∴n⁝昏温室責嘆首蚤三や旨宗−苫訂ヽ−禁じ:わが国では︑リヤザノブ偏﹃ド  

イツ・イデオロギーしが早くから︑邦訳にうつされたためか︑たとえば︑すでに早瀬利雄﹃現代社会学批判﹄一九三四年    ︵五二二︶ 六二  

(21)

が︑このゾムバルト論文にふれ︑クノウや仇ヤザノフらとともに︑︑\︑ラーを低く評価している︵同︑四四ぺ一之︒   

︵11︶ パスカルがここで︑ハイン‖ノッヒ・クノウの大著に︑二言も︑ふれていないのは不思議である︒クノウはイギリス︑フラ  

ンスの社会学説のみならず︑次にのぺるイゼーリソやシュレーツテル︑ヘルダーにも︑筆をすすめているのであり︑しか  

も︑この大著はゾムパルーの論文よ町も︑数年︑はやく︑発表された︒  

三 ヘルダーとスコットランド歴史学派   

ドイツ思想を専攻するパスカルほスコットランド歴史主義と︑同時代のドイツ︑の歴史家畠ハン︒ゴットフリー  

ト●フォン・ヘルダー︵JOFannGOttfried召nHer計r∵岩監⊥00毒との比較検討において︑さらに︑もんだ  

い ン︵デヤールズ五世の時代﹄一七六九年︶︑︑︑\ラー︵﹃階級起璧刑﹄山七土工年︑ドイツ訳一七七二年︶に関心を  

︵1︶ もち︑とくに︑ドイツ訳をもったミラーの書物の書評を︑一七七二年︑仙七九七年の二回にわたっておこない︑ま  

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︵2︶  

−ヨこで︑ロバートスンへの︑四グのくわしい論及︑︑\\ラーにたいするながい附注をつけているくらいだから︑両  

︵小J−  

者の歴史主義の同異をとうことは無駄ではないだろう︒   

パスカルによると︑﹃歴史哲学﹄ほ論争的で︑しぼしば︑歴史の啓蒙的みかたに対抗する︑おそるぺき論作であ  

る︒啓毅主義者ほ現代文明を︑その合理主義と技術的成果の点で︑美化し︑過去を︑理性の拡大としてしか︑みず︑  

諸国民をかれらが到達した文明の度合によってのみ︑評価しょうとするのだが︑ヒューム︑グヵルテール︑ウィリ  

アム●ロバートスン︑イゼーり/ソ︑シュレーツェルなどのかかる思想にたいして︑ヘルダーは人類発展史の解釈に  

柔軟性をあたえる自2の史観を対比させる︒そして︑かれは相互に︑密接に結合している二つの主要原理を樹立す  

︵五二三︶ 六三   山八世紀スコットランドの歴史家たち︵一︶  

(22)

︵五二四︶ 六四  滞三十三巻 第四号  

リーズ.ツ  る︒一つは諸文明はそれぞれ︑その生活方法︑その伝統にしたがって︑個性的価値︑固有の∨道理∧を有するため  

に︑その∨進化∧によってのみほ︑比較されえないし︑判断されえないこと︑二つほ社会発展を︑複雑な変化とし  

て︑知的であるとともに︑物質的︒感情的な社会の諸局面をともなうものとして︑確定する︒かれは啓蒙的な安易  

な楽観主義も︑自己の時代にたいするぺY︑\ズムも︑ともに論駁し︑歴史的変化はかならずしも︑事物のかんぜん  

状態への進行でほないという事実を強調した︒かれにとって︑変化とは︑どんなほあいでも︑つねに利得ととも  

に︑損失をふくむものであり︑家父長的ヘブライ人の社会︑エジプトの専制主義にかんする︑かれの詩的な再構成  

において︑ヘルダーほそれに次いだフェニキア︑およびギリシャ文明では︑どんな側面がはろぴたかを︑指摘する︒  

同様に︑かれはその有名な中世弁ごにあたって︑この雄々しい時代以来︑どんなに︑おおくの人間的かんけいや情  

緒が弱められ︑消滅したかを︑力説する︒  

︵5︶    ︵4︶   

ヘルダーの現代の歴史思想への挑戦は︑かれが一人で目力で実行したわけではなく︑ルソー︑ポースクエ︑ゴー  

︵バ︶  

︵9︶  

︵8︶   ︵7︶  

︵6︶  グミ グォルテール︑レェレーツェル︑および︑エソサイクロぺディストたちに負うし︑中世擁ごも︑ハード︑ロ  

︵11︶  

バートスン︑\\\ラー︑メーザーにみられるものであり︑その︑支配者の歴史︵戦争と外交︶ のかぁりに人民の歴史  

︵12︶  

をみる歴史観も︑ゲィコ︑モンデスキュー︑ヴォルテール︑ヒューム︑ファーガスンなど︑ドイツでは︑ガッテレ  

︵13︶  

−ラー︑シュレ﹂ッェル︑メーザーの著作にみるように︑ヘルダーの時代に︑共通したものだった︒   

ヘルダーの︑スコッートランド歴史学派とのかんけいは︑かれのそれぞれの文朋の特質︵こEigenwertJにかんする  

解釈に︑また︑かれの発展の概念北光をなげるために︑ことに重要であるとパスカルほいう︒つまり︑マイネケに  

︵14︶  

とって︑∨固有の価値∧︵占i讐nWert︒︶と∨発展∧︵占ntwick−ungJ 

けられたその歴史思想の核心であり︑ヘルダーほその重要な先駆者の山人であるとして︑パスカルほその考察を︑   

(23)

この二点にしぼるのである︒  

さて︑一方︑パスカルによれば︑﹁スコットランドの著作者の目的ほ社会の運動法別の発見にある︒かれらは人間  

の歴史を純粋に︑世俗的なプロセスとみなし︑神はかれらにとって︑本質的に進歩の法則の保証人である︒かれら  

ほ孤立状態の︑∨自然状態∧の人間についての思惟を拒否し︑人ほ社会︑集団のなかでのみ︑研究されうると主張  

する︒かれらはモンテスキューへの恩義を自認しながら︑かれがあまり気候という外的要因に重点をおきすぎたと  

いい︑自分たちほ社会の生成・没落の諸原因を︑その当該社会組織のなかでさがしもとめる︒かれらの研究は比較論  

的方法におおくのものを負い ー ファーガスンほ比較社会学の創始者とよほれた蓼︑ひろく︑さまさまの場所と席  

代に存在すゐ社会の︑類似の制度や特色をみいだす︒かぺて︑初期のギリシャやローマや中世のあいだに︑北アメ  

リカ・インデーアンや他の原始社会︑および︑民族移動のゲルマン民族のあいだに︑おおく切相似のあることをひ  

きだし︑ついに︑次のような結論にたっする︒社会の形式と︑その発展はその生活様式に︑密接にむすぴつく︒も  

し︑ある種族が狩猟によって生きるなら︑その社会観織は︑つねに︑ある∵足の固定した形式にひとしいであろ  

パターン う︒もしエ米と商巣がある国民の支配的経済活動であるなら︑その組織︑道徳︑芸彿ほある∵足の固定した型に  

したがうだろう︒このことから︑それぞれの塾の社会の価値観ほ﹂ それぞれの組織の形式に︑つよく︑結合してい  

て︑他の型に移詳しうるものでもなく︑ある社会は他の社会の基華によって評価されえないことが︑あかるだろう︒  

社会の価値観︵道徳︑芸術︑情緒︑法律︶とその生活様式とは有機的なかんけいをもっ︒かれらほたんに︑分類する  

ことに︑満足せず︑なぜに︑社会ほ発展し︑その経済活動の形式がかわれば︑全社会組織がかわるかを発見しよう  

とする︒かれらは原始的な狩猟民族から牧畜︑農業社会への変革を︑風土の変化や人口の増大などに帰したとほい  

え︑ひとたび︑家畜や土地の私的所有が確立すれば︑それ以どの発展は所有階敏と無所有のそれとの敵対かんけいか  

一入世紀スコットランドの歴史家たち︵こ  ︵五二五︶ 六五   

参照

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