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産業革命論の新展開

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(1)

産業革命論の新展開

その他のタイトル Recent Trend of Interpretation of the Idea of Industrial Revolution

著者 矢口 孝次郎

雑誌名 關西大學經済論集

14

1

ページ 1‑28

発行年 1964‑04‑08

URL http://hdl.handle.net/10112/15407

(2)

て︑その中特に顕著な時期としてしばしばあげられるものが︑

0年代の後半であり︑またその転回点に位す 若干の時期を画して新しい進展がみられたのであっ 一方︑従来とは著しく異った立場から

産 業 革 命 論

最近十年ほどの間における経済史学は︑

場からとりあげられてきた問題であった︒

産業革命論の新展開︵矢口︶ 同時にそこには︑ それ自身の発展もさることながら︑特に近代史に関しては︑むしろ経済

史学以外の領域の研究のめざましい発展に剌激されて︑新しい展開を示しつつある︒そこでは︑従来経済史学にお

いて長く論議されてきた問題が新しいかたちにおいて再生されるとともに︑

の問題のとりあげ方が提起されつつある︒そしてこのような新しい展開の最も著しい場合が︑産業革命に関する問

題であるということは︑何人も異論なく認めるところであろう︒

ところで周知のように︑産業革命の問題は︑そもそもの発端から論議の対象であり︑長い時期に亘って種々の立

の 新 展 開

(3)

語 ﹂ を離れることはなかった︒ 閥西大學﹃繹清論集﹄第一四巻第一号

( 1 )  

るものがクラッ︒ハムの大著の第一巻であるとされていることも周知のごとくである︒もちろんこの時期に至るまで

の研究は種々の観点から進められてきており︑

るわけではないが︑総じていえば︑

産業革命という用語が﹁不幸にも選ばれた通用 それらは必らずしもクラッ︒ハムの説くような問題だけに帰一してい

それを転期として︱つの傾向に向ってきたということができる︒それは︑

まで支配的であった古典的見解すなわちトインビー・ハモンド的見解に対する批判ということであって︑それらの

ヒストリカル•レビジョン(2)点を含めてのこの時期の研究動向については︑当時ビールズの草した﹁歴史学上の修正﹂中に︑その概要を読みと

( 3 )  

ることができるであろう︒なおビールズはそれとほとんど同時に小著﹃産業革命序説﹄を上梓しているが︑その中

にはこのような新しい研究動向が問題別に組み入れられているのであって︑

まとめられた産業革命史の入門書として好評を維持してきた︒何れにせよこのようにして︑

業革命についての古典的見解はその根底を揺り動かされたわけで︑

性にまで及んで︑時にはそれが学問上の用語として斥けられようとする場合すらあった︒しかし一方︑

して強く打ち出された古典的見解に対する批判も︑

者は︑例えば当面のハモンド夫妻のごとく︑

この小著はその後長い間︑手ぎわよく

この時期に至ると︑産

その結果は産業革命という用語そのものの妥当

このように

それに対する抵抗を完全に排除しえたわけではなく︑若干の学

その批判をある限定の上で認容しつつも︑なおかつ古典的見解の基調

こうして産業革命史をめぐる問題は︑

(4) 

an   un ha pp il y  c ho se n  epithet

と名づけられるなど︑一時は激しい論議の裡におかれていたのである︒この

ような過程を経て︑産業革命史に関する研究はその後更にその幅と深さとを増してきたが︑その後著わされたアシ

( 5 )  

ュトンの﹃文献研究﹄によっても知りうるように︑基調は大体において︑前述の転回によって敷かれた路線の上に

あったということができるであろう︒またそれが概していえば戦前までの状態であったのである︒

(4)

るであろうか︒まず︑何人も直ちに気づく点は︑戦前においてもかなり多面的であった産業革命の解釈ないしその

語の用法が︑整理・集約されるどころかますます拡大されて︑むしろ混乱状態におかれているということである︒

このような状態を写したコールマンの次のような言葉は︑

'

t1

年から一六四0年に亘る一世紀︑0

﹁ 陥

一七世紀後期︑更に古典 このような傾向を辿って進んできた産業革命史の研究は︑戦後に至ってどのような展開を示してい

それを端的に指摘したものということができよう︒すな

﹁いまや︑経済史家の著作は革命でいっぱいである︒商業﹃革命﹄や農業﹁革命﹂も一っだけには止まらな

それを別としても︑われわれの問題の研究者は︑次々と列んでいるいくつもの産業革命に直面している︒す

なわち︑青銅時代後期︑

的産業革命を越えて︑

産業革命論の新展開︵矢口︶

一九世紀後年から二0世紀初頭に亘る時期ー│イングランドの経済的発展だけについてみて

も︑これらのすべての時期に産業革命が認められているように考えられる︒ところが︑他の諸国についても︑例え

ば一九世紀後年のドイツや日本に関してみられるように︑産業革命のあったことが主張されている︒更に現在にお

すートマティック•フアクトリーいては••…•『自働操作工場』の実現の可能性に基いて『第二次産業革命」ということが話題となっている。これは

主として︑平素経済史家の労作に詳しく通じていない工学者・数学者その他の人々の著作でいい出されたことであ

る︒しかし︑もしも彼らが経済史家の労作によく通じていたならば︑例えば故シュンペーター教授の労作にみられ

(6 ) 

﹃第二次産業革命﹄という考え方はすでに古くから説かれていたことを知ったであろう﹂と︒何れにせ

よ︑そこには多岐に亘る解釈が氾濫しているわけで︑かつてビールズが﹁歴史学上の修正﹂を草した頃には︑

り易い危険は︑産業革命をただ︱つの独自の現象と考えようとした点や︑それを時間的に無理に限定しようとした

点に存した︒⁝⁝しかし今日においては危険はそれとは異っている︒すなわち︑今日われわれはあまりにも多くの

(5)

 

鵬西大學﹃繹済論集﹄第一四巻第一号

このような新しい研究動向との関連におい

( 7 )  

産業革命を有し︑またそれを認めるについてのあまりにも多くの方法を有している﹂︒こうして︑彼は産業革命と

いう語が︑現在においては﹁あまりにも過重な負担を負わされた語句﹂

ことを指摘しているのであるが︑更にすすんで︑この語を今後とも使用するためには︑それを統一的に整理するた

クライテ9

( 8 )

めの何らかの基準を設ける必要のあることを説いている︒この点については︑後に再び触れたいと思う︒

ところで戦後の産業革命史研究の動向については︑単にゞ以上のようにその概念の多面化を指摘するだけでは不

それにもまして重要な点は︑すでに冒頭で一言したように︑産業革命の解釈が従来とは著しく異っ

た新しい展開を示しているということである︒のみならず︑例えばコール︐マンが上述のようにその概念の混乱を指

これを整理するための基準を求めようとしたのも︑

てであった︒その動向がわれわれの当面の問題である︒

(1)J•

H.  Cl ap ha m,

An  

Ec on om ic   History

  of o  M de rn

  Brita

3 vo l s , V ol .  I ,   Th e  E a rl ; y  R ai lw ay g  A e, 18 20

 50,

1  92 6.   この点は何人も異論なく認めるところであって︑例えばハートウェルは次のようにいっている︒﹁一九二六年に︑クラッ

︒ハムはその大著の第一巻を著わし︑それに序文を附して︑その中で︑歴史における神話を一般的に排撃しているが︑特に

︵産業革命に関してはー筆者︶︑一八

0

0年と一八五0

年との間において平均的生活水準が低下しつつあったという神話

を排撃している﹂︒そしてこのような﹁経済史家に対するクラッ︒ハムの警告は︑彼の学者としての権威と相まって︑近代に

おける産業革命の解釈においてまさに︱つの転回点を画するものであった﹂︒

R . H•

H ar t w el l ,  " I n te r p re t a ti o n s  o f  th e  I nd u s tr i a l  Re vo lu ti on   in   E ng la nd

  : 

Me th od ol og ic al   In qu ir y  f ou r .  o f  E co n.   H i s t . ,   X IX ,  2 ,  

19 59 , 

p . 

23

4)

しか

し︑ここに注目すべきことは︑クラッ︒ハムをもって等しく転回点と認めるにしても︑クチンスキーの場合は︑その意味の

とりあげ方が全く異って︑彼をもってむしろ新しい神話の創造者とみなしている点である︒すなわち彼は︑クラッパムの

﹁この著書の出現によって︑資本主義の不染懐胎

d ie un be fl ek te  Empfiin

gn is d  es  Kapitalismus

という神話の基礎

an v   o e r b u r d e n d   p h r a s

e

となっている

(6)

が、少くともイギリスにおいては、初めておかれたのである(傍点筆者)」といっている。(J•

Ku

cz

yn

sk

i,

S t   u di e n   zu

r 

G es c h ic h t e 

de

s 

K aP i t al i s mu s

1,  

95 7,  S .  

27)ここに﹁齊(本主義の不染懐胎﹂というのは︸﹂の部分の論旨によつても理

解されるように︑特にイギリスの産業革命が労働者の犠牲なしに達成されたということを指している︒なお二八ページ註 (7 ) (2)H•

L.  B e a le s

,  

H is t o ri c a l 

Re

vi

si

on

  ; T

he   In d u st r i al  

Revolution•(History,

N.  S .   v o l .  

14 ,  19 29 .)

なおその螂H

{ いては拙稿﹁産業革命における連続性の問題﹂︵﹃社会経済史学﹄一八巻五号︶参照︒

(3 )  H.  L .  B ea l e s,   Th e  I n du s t ri a l   R e v ol u t io n

175 ,  0

18 50

.An 

I nt r o du c t or y

 E

ss

ay

. 

19 28 . 

( 4 )

i b  

i d .  

p.  3 

(

Ne w  e d .  

19 58

, p

. 

29) 

(5 ) 

T.

 S .   Asht

on ,  Th e  I n du s t ri a l  R e v ol u t io n

,  

St ud y  i

n   Bibliography•

19 37 . 

前掲拙稿参照︒

(6 )  D .  C .  

Coleman••

I nd u s tr i a l  Gr ow th   an d  I n du s t ri a

l   Revolutions•(Economica,

N.  S .   XXIII•

No

. 

89 ,  19 56 .  p.

1 .  

)

の論文は︑後に

E . M .   C ar us   , W il so n  ( e d ) ,   E ss ay s  i n   E co no mi c  H is t o ry . V o   l . 

m ,  

19 62 . 

~ 収録されている︒なお︑

ここに例示された時代や国々は︑産業革命という用語の多様性を例示するためにあげられているのであって︑それが凡て の用例を尽しているわけでないことはもちるんである︒また︑ここにあげられた用法の中には︑戦前のみならず︑かなり 古くから説かれているものをも含んでいる。G•

N.   Cl a r k,   Th e  I

de

a  o f  t h e   I n du s t ri a l   R e v ol u t io n

1,  

95 3.

 13pp.12 │ 

(7 )  Co le ma n, o c .   l   c i t .  

pp . 

18 │ 

19 . 

(8 )  Co le ma n,   lo c .   c i t .   p . 

3.  

さてここで︑再びビールズのことに触れたいと思う︒彼は前にあげた好著﹃産業革命序説﹄を︑三十年後の今日

新しい要望に応えて再刊に附したのであるが︑

の中で戦後の研究動向を簡潔に指摘して次のように述べている︒

産業革命論の新展開︵矢口︶ その際﹁新刊への序﹂と題する一文を草してその冒頭にかかげ︑そ

(7)

s e l f

' s u s

t a i n

e d  

の時期に至るまで︑ 鵬西大學﹃編済論集﹄第一四巻第一号

"

t a

k e

  ,  o

f f  

i n t o

 

p r

e s

e n

t  

mi

nd

ed

ne

ss

と称しているのであるが︑

﹁現在のわれわれの時代においては︑経済的社会的諸政策や対内対外の諸政策をうち出すについての緊急な必要

によって︑歴史的経験を新しく再吟味することが求められている︒いまや歴史家が︑学問的に白紙の立場で

歴史を書くなどといってみたところで︑むだなことである︒いな︑そのようなことは不可能で

s c i e

n t i f

i c   v

ac

uu

m 

ある︒歴史家の懐く関心そのものが︑⁝⁝彼ら自らの社会的環境から生れ出たものであり︑またあるいは︑彼らが

生存する世界と結びついていることから生れ出たものなのである︒例えば︑彼らの純収入の増減を左右する現代の

物価の動き︑戦争や革命の錯綜した経過︑大量の人口移動や平和な植民︑冷戦や亡びゆく帝国主義に対する後進諸

国民の興隆、中でも、自国並びに他国の社会における生産設備についての止まるところを知らない技術革新ーー—そ

の革新は全世界に亘って新しい生活様式•新しい富•新しい地位と意欲とを生み出しつつあるーー、

は︑その他のことがらと相まって︑近代史を象牙の塔に籠って研究すること

c l o i

s t e r

e d s c

h o l a

r s o h

i p

を不可能な

( 1 )  

らしめている﹂と︒彼はこのような意識を﹁即現代意識﹂

は過去の産業革命史の研究者︑例えばハモンド夫妻やクラッ︒ハムにも多かれ少なかれ見出されるという︒しかし彼

は︑単にこのような﹁即現代意識﹂が従来の産業革命史家の見解の奥底にあったことを指摘しているのではなく︑

彼の強調するところは︑現段階におけるそれが何であるかということである︒それについて彼は︑戦後産業革命史

に関する論議を再燃せしめた問題の提起者とも考えられるアシュトン︑及びそれに続くロストウに言及して次のよ

﹁初期の工業化の姿についてのアシュトン教授の説明は︑彼が計量的証拠を追求したことに深くうに述べている︒

( 2 )  

根差している︒次いでロストウ教授は︑われわれの問題である﹃自存的成長へのテイク・オフ﹄

gr

ow

th

"

 

それをますます大量に集積しつつある︒ これらの事態

このようにしていまや︑

i n  

(8)

﹃経済成長﹂ということが︑あらゆるところにおいて経済学者の主要関心事となってきた︒またおそらく︑あらゆ

る﹃後進的﹄経済ないし﹃低開発﹄経済を指導するについての種々の教訓が︑

あろう︒実際において︑即現代意識は基準であり⁝⁝おそらく経済史は︑他の何れの歴史部門よりも︑それによっ

( 3 )  

て得るところが多いであろう﹂と︒そしてこのような意味の﹁即現代意識﹂をもつ現代の研究動向をもって︑

ところで彼はそれに続いて︑

が︑その中には︑

それらの学者の研究から得られるで

このような研究史上の現段階を代表する若干の学者の労作をあげているのである

アシュトン及びコートのような経済史家の労作とともに︑ロストウ︑ゲイヤー︑

コーリン・クラーク及びルイスのような何れかといえば経済理論家の歴史的研究ともいうべきものをあ

げている︒それはこの序文の草される直前︑大体において一九五

0年代の半頃までの労作に限られているが︑

かし問題は単にこの系列の研究の量が増してきたという点だけに止まるのではない︒

後︑後者のいわば﹁成長理論経済史﹂ともいうべきー│'系列に属する研究は︑著書としても論文としても︑時

( 4 )  

とともにその数を増し︑経済史特に近代産業史の研究領域においては︑大きな比重を占めるようになってきた︒し もともと経済成長ということを主題とする新しい研究領域の発展については︑前のビールズの言にも認められる

その根底には世界各国の政治・経済・社会上の諸問題や︑後進国開発の問題などに対する強い関心︑すな

わち﹁即現代意識﹂が存在しているのであって︑その限りにおいては著しく実践的・政策的課題として推進されて

それと並んで︑理論そのものの要請によることをも認めているのであって︑

産業革命論の新展開︵矢口︶ 業化に関する歴史研究の現段階﹂となしているのである︒

ダプル•インスピレイシヨン

(9)

鵬西大學﹃鯉清論集﹄第一四巻第一号

( 5 )  

は経済成長理論に至るところの長期的経済発展に関する研究をよび起したものと考えている︒いま後者について更

に一言するならば︑経済的変化に関する理論ないしそれが追求する計量的変化は︑戦前においては景気変動論にみ

フラクチュェーシヨン

年以降に至ると︑それは漸次に0

9カル長期的な趨勢を中心とするものに転じてきた︒別言するならば︑そこで追求される経済的変化の性格が周期的なも

のからキ記記釦がぃし衣叩叫匈〜なもの.へ移り変ってきたわけであるが︑

ば︑それは実に経済史がその対象として従来から追求してきたものにほかならない︒こうして新しい研究傾向は漸

次に経済史に近接してきたのであるが︑近接はそれのみには止まらなかった︒

もともと経済成長論に立脚する経済発展についての研究は︑精細な理論的概念化

t h e o

r e t i

c a l

c o n c

e p t u

a l i s

a t i o

n s  

( 6 )  

を武器とし︑それと必然的に結びつく計量的研究方法に基いて行われているのであって︑このような立場から行わ

れる研究が経済史の領域に近接するにともなって︑伝統的な経済史に対して︑計量的経済史

q u a n

t i t a

t i v e

ec

on

o  , 

mi

c  h

i s t o

r y

などといわれる新しい経済史の領域の形成が問題とされるに至ったのである︒

の分析に当って︑︐あるいはまた経済的発展の要因として︑技術・人ロ・資本蓄積などのほかに︑労働誘因や企業者

行動などの問題がとりあげられてきたのであるが︑

経済的発展の解明にとりあげられているが︑ それらの問題はこれまた従来の経済史研究において主要な対象

であったものである︒それだけには止まらない︒更に別の考え方においては︑

いうまでもなく︑

接してきたのであって︑ある人々はそのあまりにも密接な近接の故に︑

いわゆる非経済的要因が重視されて

これまた従来から経済史が重要な対象として論議し

てきた問題である︒このようにして︑新しく成立しつつある研究領域は種々の面において伝統的経済史の領域へ近

それはむしろであり﹁挑戦﹂ 一方︑その経済的変化 このような性格をもつ経済的変化といえ

(10)

︐ 

ろ つ ︒ るか︑すなわちいかなる点を批判し︑ あるなどと︑比喩的にいっている有様である︒従ってわれわれの側からすれば︑

この新しい動向をいかにうけとめ

いかなる点を受容するかが問題とならざるをえないわけで︑現にそれは欧米

( 7 )  

の経済史学界の︱つの重要な課題となっている︒

しかしここではそのような全面的問題に触れることは別の機会にゆずり︑われわれとしては︑まず当面の問題で

ある産業革命史の問題に関して︑上述のような新しい研究動向がどのような展開を与えているかに着目したいと思

(1 )H .

L .  

Be al es ,  Th e  I nd us tr ia l  R ev   0 l u ti o n

17 50

1

85 0.

  An 

In tr od uc to ry  Essay•

New  e

d .  1 95 8 ,   p . 

1 0 .  

(2 ) アシュトンは一九四

0年代末に周知の二論文を発表しているのであるが︑ハートウェルによれば︑﹁アシュトンのこの一︱

論文の直接の結果として︑それまで何れかといえば静止状態にあった﹃論争﹄︵特に産業革命期の生活水進論争ー筆者︶が 再燃することとなった﹂と︒ちなみにその二論文とは次の二つである︒

T. S .  As ht on , 

"

Th e  S ta nd ar d  o f  L iv in g  o f  th e  Wo rk er s  i n  En gl an d, 7  1 90

1 83 0

" , ( lo u r .  o f  Econ•

H is t .   I X 1 9,  

4 9.  

F .A .  

Ha ye k  ( e d) ,   Ca pi ta li sm n  a d  t h e  H i to r i an s ,  

1954に再録。•

So me   St a t is t i cs   of   th e  I nd us tr ia l  Re vo lu ti on   in   B ri t a in "

,  ( Tr an s.   of a  M nc he st er   St a t is t i ca l   S o s ie t y ,  19 47

8.

)

E.

M .  

Ca ru

s  , W

il so n  ( ed ) ,  E ss ay s  i n  E co no mi c  H is to ry ,  V ol .  m .  

19 62 (3 )  H.

L .     Be al es ,  o p.   c i t .

  p

p.

│  

1 0 .  

(4 ) 特に産業革命期の問題に重点をおいた最近の注目すぺき労作としてあぐべきものに

Ph yl li sD ea ne

 

M .   A .   C o l e,   Br it is h  Ec on om ic  G ro wt h,  1 68 8 │  19 59 .  19 62 がある︒この労作は後に述ぺるような成長理論経済史の伝統的経済史への近接 の最も典型的な一例であるといえよう︒二七頁註

(4 )

(5) 

M .   M .   P

os ta n,

" 

Ec on om ic   Gr ow th

"

,  (Econ•

H is t .  R e

2n dS e r .  VI ,  1 .   1 95 3 ,   p .  78 ) ポスタンのいう二重の刺戟とは

こうである︒まず第一は︑戦後の経済学者は少くとも二つの・相互に結びついた問題︑すなわち﹁︱つは西欧の産業化され

た諸国の経済の﹃衰退﹄という問題︑他はアフリカ及び東アジアの後進国経済の﹃建設﹄という問題﹂に対して︑何らか の発言を求められたということである︒そして﹁この二つの問題は何れも長期に亘る連続的発展の中における成長や衰退

産業革命論の新展開︵矢口︶

(11)

開西大學﹃網済論集﹄第一四巻第一号 に関連しているのであって︑その限りにおいて﹃歴史的﹄の問題である﹂と︒このような要請と並んで第二の・理論その ものの展開における要請というのは︑短期理論から長期理論への前進︑すなわち︑個別的均衡から一般的均衡へ︑静態的 モデルの追求から動態的モデルの追求へという︑理論上の必然の展開を意味している︒なおこの点に関しては他にやや異 なる説明を見出すこともできる︒例えばプルトンもそれに言及しているが︑彼の場合は︑その要因をもっぱら﹁一九二

0

年以降の世界経済を特質づけてきた三つの主要な事件﹂に求めている︒その第一は西欧及びアメリカの経済の成熟と衰退 という問題であり︑第二は後進国の経済開発という問題である︒その限りでは︑ポスタンの説くところと異なるところは ない︒しかし彼は更に第三の問題をつけ加えて︑﹁世界的国家としてのソ連の典隆と︑ソ連と西欧諸国との間の抗争﹂と いう事実をあげている︒そして︑﹁その結果として︑政治的立場からいえば︑過去の若千期間に亘る全体としての経済成 長率や︑またその特定部門の成長率が問題とならざるを得ず︑更に将来の成長の予測が問題とならざるを得なかった﹂と いっている︒これが彼のあげる要因である︒

H.

J. 

Br ut on , 

"

Co nt em po ra ry   Th eo ri zi ng f     o Ec on om ic   Growt h"

,  ( B .  F .   H os e l it z  a nd   Ot he rs

̀  

T he o r ie s   o

f  E co no mi c  Growth, 

1960 ̀ 

p ,  

240) 

(6 )

aについては︑

B .E .   Supple, 

"

Ec on om ic  History 

an d  E co no mi c  Grow th

"

,  ( f ou r .  o f  Econ•

H is t .  X X.  

4. 

19 60 , 

p p.   54950)~£

(7)

この点に関して特に強い関心を有するのが︑この領域の研究の旺んなアメリカの学界であることは当然であろう︒従って それに関する論説は種々のかたちで公表されているが︑アメリカ経済史学会もしばしばこれを年次大会の共通論題として とり上げている︒その中︑例えば一九五七年度の論題は占

Th e

In

te

gr

at

io

n  o f  E co no mi c  T he or y  a nd   Ec on om ic   Hi s t or y

"  

であって︑四つの報告が行われているが︑その中注目すべきものとしては︑

W . W .   R os to w,

" I   n te r r el a t io n  o f   T he or y  an d  E co no mi c  History"

  ; 

J. 

R .  Me ye r  a nd

 A•

H.   Co nr ad , 

"

Ec on om ic   Theory,

S t   a t i s t i c a l   I n f er e n ce , a  nd   Ec on om ic   History"の二つがあげられる。(何れもjour.ofE8n•

H is t .   X V I I,  

4. 1957

に収録︶︒次に一九六

0年度の論題は

T

em po ra l As pe ct s  o f   E co no mi c  C ha ng e 

`であって︑

Ca

rt

er

Go

od

ri

ch

, 

"

Ec on om ic   Hi

st

or

y 

On e  F i el d   o r Two?

"

;  L•E•

D av i s ,  R.T•

Hu gh es   an d  S .   R e i te r ,   "Aspects

f     oQuantitative 

Re se ar ch   in   Ec on om ic   Hi s t or y

" ;   B.   E .  S up p l e,  

E

co no mi c Hi st or y  an d  Ec on om ic   Gr ow th

"

.  という三つの報告が行われているが(何れもjour.ofECon•

H is t .   X X,  4

, 

1960. 

に収録︶︒これらの報告は本稿の執筆に当って大いに参考となった︒なお︑一九六

0

年の第一回国際経済史学会にお

10  

(12)

それとの関連において行われたのであった︒しかるにその後︑一方では産業革命における技術的革新の側面だけが ところで問題を産業革命史にしぽるにしても︑成長理論経済史という新しい研究動向によって生み出された新展

開を︱つの眺望のもとにまとめるということは︑必らずしも容易ではない︒というのは︑産業革命史の問題そのも

のがすでに長い研究史の過程において︑多面に亘る問題をかかえており︑また一方︑成長理論経済史ーーとしてこ

こに一括して考えている研究領域ーー'も︑実はその理論構成や方法論の異なるに応じて︑必らずしも等しい次元の

問題を提起しているとはいえないからである︒従って問題の進展に関しても︑例えば産業革命期の生活水準論争に

みられるように︑新しい研究方法特に計量的方法に基づく主張が従来の論議の上に積み重ねられているような場合

もあれば︑また︑従来の研究史ではあまり触れられず︑むしろ新しく問題が提起されているような場合︑例えばこ

の時期の資本蓄積ないし産業投資等に関する問題︑

ばらくそのような個々の問題の新展開をはなれて︑まず︑全体としての産業革命そのもの︑すなわちその概念の解

釈に関して︑新しい展開がどのようなかたちで行われているかを考えてみたい︒

いうまでもなく︑産業革命という概念及びそれをめぐる諸問題は︑

とりあげられて︑ その他これに類する問題があるのである︒しかしここでは︑し

いわゆる一八世紀におけるイギリス産

業革命に関するものとして生誕したのであって︑周知の﹁革命性﹂に関する論議も﹁生活水準﹂をめぐる論争も︑

その点から︑前にあげたような他の多くの時期の産業革命が主張され︑他方では比較経済史的問

産業革命論の新展開︵矢口︶ ける若千の報告もこの問題に触れている︒

(13)

術的設備と資本蓄積とにおける優越性が指摘されている︒

例えばフランスの場合の工業化 そしてそれらの諸点との関連において︑第二のグルー

団主として国家等の計

次のように述べている︒

西

題意識のたかまるに応じて︑他の資本主義国についても産業革命の存在が説かれるようになってきた︒その中当面

問題となるのは後者の傾向であって︑

圧迫• それに従って産業革命という概念は︑諸国の経済的発展の上における︱つの

画期ないし段階を示す一般的概念に転化してきたのである︒しかるに︑

によって促された新しい研究動向のすすむにつれて更に前進し︑

わち︑集中的な工業化の行われる時期の長短︑ この傾向は︑前に述べたような現代的課題

その結果として︑諸国の産業革命の間に類型を求

それを整序し比較しようとする試みがみられるに至った︒その一例として︑例えばポラードの説くところを

みるに︑彼は産業革命期の資本蓄積や産業投資の問題を論述するに際して︑

﹁個々の国における産業革命の現実の過程は︑国によって異なるところの特殊の影響の下に行われるのである︒すな

いわゆる﹃障壁﹄を突破するについての難易︑生み出される社会的

これらのことは何れも︑主としてその国の法律体制︑社会構造︑自然資源︑外国貿易の型︑及びそれまでに

蓄積された貯蓄の程度︑などの要因によって決定されるといえよう︒しかしながら︑

間に三つの主要な経済の類型を考えることができる︒すなわち︑国先駆国

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E主として私

的企業によって発展した一九世紀の模倣国

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画的方策によって工業化の過程が開始されあるいは進行しつつある現代の模倣国

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( 1 )  

れである﹂と︒先駆国とはいうまでもなくイギリスであるが︑そのイギリスについては︑工業化の先駆国として避

けることのできなかった犠牲

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が認められるとともに︑第二のグループに対する優越性︑特に技

プ︑すなわち一九世紀後期ないし二0世紀初期において工業化の行われた国々︑

それらの点に関連して︑

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