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(1)

離島産業の前期性とその資本主義的展開︵2︶

河地貫一

融﹁島 の開発

地域開発 戦後は国家政策による開発に関して二つの時期に分ちうる︒前期は昭和三〇年までの敗戦からの復興の

u7時期であり︑後期は工業中心の産業基盤造成の時期であ軸そして前期の後半−朝鮮戦争以降は前半の大企業の直接

救済政策に代って石炭︑水資源の開発︑主穀の増産などののいわば増産主義︑自給主義による国内の資源開発が主要

課題であり︑従って石炭生産︑ダム建設︑干拓田の造成が開発事業の中心となり︑坑木ブームが離島にまで及んだ時

期である︒つまり地域開発というよりは国土の総合開発の時期といえる︒しかし︑昭和三〇年代に入って経済の高度

成長政策がうち出され︑工業︵重化学工業が特に︶ の開発計画が中心となる︒そしてその前半の時期には太平洋ベル

トの臨海工業地の造成︑既開発地域の再開発が開発事業の中核をなしていた︒従ってなおそこには地域開発という忠

恕は弱く︑強いていえば︑それらの地域のもつ大工業のための立地条件の整備としての産業基盤の造成再開発であり︑

そこにあるものは資本の論理であり︑いわば地域不在の開発であった︒増産主義の時期に発足した離島振興法の目的

もまた離島資源の増産にあったといえる︒壱岐芦辺浦の干拓田の造成はこの時期の産物である︒工業中心の時期に工

業ことに高度成長の中心をなす重化学工業の立地条件︵広大な土地と大量の水とが最も重要な条件といえよう︶に欠

け︑従ってその立地条件の整備という目的をもち得ない離島において離島振興法︵昭和二八年から一〇か年の時限立

(2)

O

法)にもとずく本格的な公共事業は昭和三六年の第四次の法改正以降である(そして次の年この法律は更に一0か年

延長された)︒すなわち昭和三0年代の後半に入って︑太平洋ベルトへの過度の工業集中によっていわゆる地域格差が

いよいよ拡大し︑また公害の発生︑社会資本の貧弱さ等資本の矛盾が強く露呈されてきた︒か︑る矛盾の解決ことに

壱 岐 島 芦 辺 町 の 干 拓 国

増産時代の昭和28年に若工された干拓国。民政の変化した現在

必ずしも初期の目的に利用されていない。水田の造成が目的であ ったために、他への転換利用は認められない(町長談〕という話 を き い た 。 ( 長 崎 県 離 島 振 興 課 提 供 )

地域格差の解消を謡って産業(もちろん工業)の地万

分散計画が政策的に打ち出され︑その受け入れ対策と

して既開発地域をふくめた太平洋ベルト地帯でない地

万における工業立地条件の整備(すなわち産業基盤の

造成)が地域開発の中心課題となった︒そしてその大

義名分は工場誘致による地域格差の解消であるという

点において﹁地域開発﹂論がこ︑に拾頭してくるわけ

である︒しかしか﹀る工業の地万分散政策が経済成長

離島振興事業費(国費) 年 代 │ 総 額 │ 伸 率

28 7.4  100  29  8.4  114  30  8.8  119  31  10.7  144  32  13.9  187  33  19.6  264  34  25.6  345  35  32.6  439  36  41. 556  37  51. 692  38  63.0  849  39  75.8  1021  40  93.9  1265 

(離島協議会:離島) によるー単位億円

(3)

の鈍化してきた時期に起ってきたから︑いわゆる新産都市指定に伴う地方の指定誘致運動が展開されたことは周知の

ところである︒こうした地域主義或は地域開発主義の拾頭のもとに離島振興法の本格的な発足と︑それに伴う法改正

があったとみるべきであろう︒

しかし︑地域主義が工業中心主義を否定したものではなく︑むしろいよいよその貫徹を要請したといえる︒例えば

地域格差の是正というも工業誘致によって所得の噌大を意味するものであって決して資本制の農業や商業の誘致では

ない(商業のばあいはむしろ地方の小商業を圧迫するものとして排除されてきている︒特に離島では地域的独占利潤

を得ている商庖の連合によって猛烈な反対運動が所々にみられる)︒結局いうところの地域開発計画とは︑それぞれの

地域における大工業のために工場立地条件を整備する目的の産業基盤の造成計画にほかならない︒従って﹁地域開発

﹂政策とは従来太平洋ベルトや既開発地域に限られていた産業基盤の造成の他地域への分散政策である︒

Cきのもとに工業立地条件をもたない離島の開発とその後進性除去を謡った離島振興法はい

わば便乗法律であるが︑この法律による公共事業は︑その主要内容が産業基盤(道路・港湾・漁港)の造成にある点

において一般の地域開発政策と共通したものであるが︑便乗立法とはいえその謡っている離島の後進性の除去に大き

い役割を・演じていることは否定されない︒例えば漁港の整備︑構築にしても︑そのことによって漁船の動力化が進め

られ︑資本のために市場を拡大したζとは否定し得ないにしても︑同時に離島漁業の生産性を高め︑また長い商人資

本の支配の排除をおし進める役立つ投資であった事実をも見のがすわけには行かないであろう︒道路の造成は商業市

場の前期的な分断を排除し︑また農林業の自給性を喪失せしめる力となりうるであろう︒補助率は少く必ずしも充分

ではないが対馬における林道の開設はその山林開発に不可欠の要件であった︒何れにせよ︑島興時代から約七0

年間

資本の外側にあって長く孤立的状態に止まり︑離島佑現象を強めていた離島における国家資本の投下はその資本主義

/ ¥  

(4)

化に大きい役割を果してきでいる︒

ーJ...

ノ ¥

しかしながら広大な土地︑大量の水資源など特に歪他学工業の立地条件を具えていない離島の開発には︑いわゆる

企業(工業)誘致は考えられない︒とすれば︑第一次製品の高次加工︑その地下資源の製品化のほかはあまり期待さ

れない︒その点甑品里村(上甑島)にみられる大島つむぎの工場誘致方式は極めて興味深く︑まさに明治政府の初期

に行われた殖産興業政策の現代的離島版である︒瀬戸内

では工場制手工業であった木綿織りが大正の不況時で消

滅するが︑なお手工業部門の多く残在する特産品的絹織

業として大島つむぎの工場がその低賃金によって成立し

里付(悶島列島)の大島つむぎ工場

戦後離島における明治の殖産興業版の工場誘致。写真の工場 は以前小学校の校舎で、場所は現在の小学校の校庭の片隅であ

る。近々移転、改築が予定されている(昭和42年撮影)。

離島が一般的に工業の立地条件を具えていないとすれ

ば第二に誘致の対象となっているのが観光レクリェl

ョン産業であるといえる︒当然破壊されていない離島の

自然美や温存されているその古い民俗資料や歴史資源が

限界観光地としての離島に取り上げられてきた︒長崎県

の離島は殆んど県立或は国定︑国立公園に指定されてお

り︑また県下の天然記念物や歴史資源は県社会教育課の

調査によると︑長崎市・島原半島を除くとかなり離島部

に集中しているといってよい︒現在多くの離島で公園指

(5)

長 崎 県 文 化 財 一 覧 表 ( 昭 和38.1)

1 域 │ 国 指 定 県 指 定

1 2 Z E

言論│夏樹史跡

1 叫叫

長 崎 市 3  20  16  9  4  2 

島原半島 3  6  12 

離 島 部 3  10  8  25 

その他1) 17 

3  26  21  18  37  49 

1)  その他のなかに北松の島々がふくまれているが詳細は不明

(長崎県教育委員会調査)。

定運動が行われているのはいわば企業誘致の離島型といえよう︒

人口の都市集中佑と都市生活の劃一佑が進むにつれ︑今後観光産

業の成長は充分に期待されうる︒限界観光地としてd離島の観光産

業は本土より若干の時期的ずれがあるにしてもこのことは否定し得

ないロ平一戸島のようにかなり早くから観光開発が行われている島で

も︑また観光地以前の状態にある壱岐島にしても︑島外観光客から

みると殆んど北九州からの旅客であり︑極めて地方的な市場しかも

っていない︒雲仙では九州以外の旅客が七三%を占めている︒観光

施設利用者から壱岐の例をみると夏期に集中し︑島外客のみでは平

一戸に近い二期(春夏)型になるが︑その総客数は極めて少くかっ夏

秋に多いが︑平一戸では春秋の二期に最も多い︒

壱岐における観光客

交 通 貨 13.2 

宿 泊 賀 14.5  44 

商品購入 3.8  12 

その{也 1.

33.1  100 

の消費対象は交通業者︑

旅館業者に九五

M m

また雲仙でも八四%に及んで他への所得の波及効果は少く︑しかも観光

開発︑観光事業の誘致自体︑工業誘致と同様に多くの問題をはらんでい

﹁天草五橋﹂がそれ自体天草群島の後進性を除去するものではなく︑

る ︒

観光消費額(雲仙)

億円一昭和41

か﹀る交通条件の変革に伴って︑これに適応する天草自身の産業構造の

'

/

雲仙利用状況調査書

(昭和42.5一長崎県)

(6)

変革以外にその後進性を除去する途はない︒その条件の伴っていない現在この橋梁群は特定交通業者の単なる観光ド

ル箱路線にすぎない︒しかし︑やがて離島天草を本土の道路の延長として把ぇ︑島外観光資本(交通業者・観光業

者)によってその観光産業を本土型にひき上げることは誤りないであろう︒現在離島における観光関連産業としての

大資本は殆んど交通業に限られ︑波及効果の大きい旅館業は主に地場小資本にまかされているが︑天草にも序々に起

っているように︑やがて島外大資本の流入が起るであろう︒島外からの観光客の消費は完全な流入する所得であるか

ら地域の所得増大という点から考えると無視出来ないが︑観光産業のいわば公害ともいうべき多くの問題をもってい

る︒また観光産業の基盤をなす自然美や歴史的資源の保護・開発と一方いわゆる地域開発に伴うそれら資源の破壊とい

う矛盾に直面する例も多い︒例えば福江(五島列島)市の開発︑発展に伴ってたぐいまれな海域石田城や武家屋敷の

崩壊︑壱岐の農業構造改善事業による古墳の果樹園佑など︑或は平戸島のように観光開発の進む一部地域(旧平一戸落

城下町l乙﹀に歴史的資源が集中している)と向島農漁村部との格差の拡大など多くの問題をはらんでいる︒対馬や

甑島に行われているの分収林︑或は信托林方式によって︑離島の山林にも造林資木が流入している︒これらの方式に

よれば利益配分において山林所有者に危険負担のおそれがあり︑かなり問題をふくんでいるが︑低賃金に依在する一

種の企業誘致とみられよう︒

結局離島の開発はその基幹産業である農漁業の開発(商人資本支配の排除をふくめて)である︒その

ための産業基盤造成の役割を果す離島振興法はかなりの効果をあげているが︑なお︑林道︑農道など離島の基幹産業 離島の開発

である農林業に直接する部門において補助率がひく︑必ずしも充分でない︒またこの法律がわが国の地域開発政策の

一環をになっている点において︑特にいわゆる社会開発的な面の立ちおくれは否定し得ない︒

離島農業の後進性の基底にあるものはその自給性であった︒商品佑の進んだ瀬戸内のみかん島では早くから商人資

(7)

本の排除と協同組織と生産の特佑とによって輸送上の離島条件を克服していたし︑その山島的地形さえも合理的に利

用されている︒かくして離島農業の振興のためには単に篤農家的な一部農家の特産物生産には止まらず︑全島的に特

定商品作物の特佑を進めるべきである︒例えば︑甑島は今日なお麦︑雑穀などの自給庄産物が卓越しているが︑むし

ろ鹿ノ子百合の球根の移輸出地に専門佑すること

が必要であろう︒地域的特佑による大量生産と大

量輸送以外に離島条件を克服する途はない︒もち

対馬内院部落の船たまり場

対馬では最近急速に農民の漁民化が進んでいる。その前期的な 小集落分布のために、海岸集落には漁港設備のない漁船のつなぎ場 程度のものが多い。かかる小集落に漁港の建設が要望されているが それでは投資効果は極めて少い。前期的分布を示す集落の再編成と

基幹的大型漁港の建設こそ必要であろう(昭和40年撮影)。

ろん流通機構の改善が前提である︒そしてそのた

めには何よりもまず︑いわゆる﹁産業基盤﹂の造

成よりも農林道の開発が要請される︒商品農佑す

るためには土地の合理的利用を進める必要があり︑

落政期の如く全島牧場佑する場合も生じるであろ

ぅ︒資本の法則を無視した人口の﹁向島離都﹂で

はなく︑離島人口の適正な配分も大きい国家政策

でなければならない︒それとともにさきの中五島

や対馬でみたような離島における集落の前期的分

布の修正も必要である︒特に漁船の規模が︑多く

漁港に決定される漁業のばあいその必要を思わせ

る︒最近対馬農民の急速な漁民佑が起っており︑

(8)

その前期的な集落分布のために︑それぞれの小集落に極小漁港の建設が要求されているが︑極めて経済効果は少ない習

はずである︒生月にみられる二大型漁港(一部︑館両漁港)にある漁民アパートの建設によってその漁港の価値を大

きいものにすると同時になお強く残存する商人資本の排除を進めるにも大きい効果をもってきている︒このことが︑

また極めておくれている離島の社会開発のための投資効果をも大きくすることが出来る︒一方いわゆる﹁産業基盤﹂

に入る漁港建設の補助率が高く︑殆んど漁船のないところにまでその建設が進められ不経済な公共投資が行われてい

る例も多く指摘される︒

都野が指摘しているように離島における工業の欠如によってたしかに島内所得の循環する条件を欠き︑そのことが

離島民の所得をひく﹀しているが︑近代的な主佑学工業の立地条件を一般的にもっていない離島の工業佑は第一次生

産物の高次加工か地下資源の製品佑を除いては特定の条件をもたない限りあり得ない︒ことに後者のばあい生産性の

高いものは独占による生産が︑独占から捨てられた生産性のひくいもの(例えば香焼島の炭鉱は三菱資本によって見

捨てられたもの)は小資本によって経営されているが︑結局独占による原料の低価格の買取り︐或はその系列佑という

形で支配をうける︒とすると甑島で指摘した大島つむぎ生産の例のように︑労働力型のしかも手工業的或はそれに近

いもの以外には離島の工業立地は考えられないのではないだろうか︒

次に︑さきに述べたように現実に地域の開発との矛盾に直面している例の多い観光資源の開発に言及すると︑観先

資源たりうる自然或は歴史的遺跡も社会の近代佑に伴ってそれをはYむ要因となることが多い︒島原市(長崎県)に

みられる武家屋敷の道路遺構が近代的な社会生活を阻害するものとしてその撤去が︑自ら観光立市をうたっている岡

市の重要問題佑した時期があった(結局一部保在に決定した)︒か︑る矛盾は地域の総合的な開発計画の一環として解

決すべきであり︑その点に見事に成功している事例は観光的地域の一部を保存して近代生活と何ら矛盾を生ぜず観光

(9)

地域としても生命を保っている倉敷市(岡山県)であろう︒また観光企業の誘致も単に大企業(例えばホテル業者) の誘致を考えるのではなく︑例えば魚つりの如く第一次産業のリクレェiション佑は今後充分推定される所であり︑

特に離島において成功しうるものと忠われ︑漁船のつり船佑や﹁民宿﹂等の対策が講ぜられるべ︑きであろう︒

離島の資本主義佑に伴って当然崩壊すべきものであるが︑なお前期的な共同体社会が離島に温存されている例が多 い︒か﹀る社会は元来閉鎖的社会であり︑合理的精神よりも旧来の伝統や権威の重視される社会であり︑それ自体が 古い経済体制を温在する力をもってくる︒この打破のためには川崎が指摘したように何よりも社会教育が重要な意味

をもってくるであろう︒

ω吉村正晴υ地域開発論の系譜(下)ム住業労働研究所報第四OH昭和四一年九月に地域における住民一人当り平均所得

の意味するものに論及しているが︑そこで各地域の産業問︑階層問︑階級聞の所得格差の大きいことから︑地域の一人当り

平均所得への均等化は地域の本質を見失うおそれのある乙とを指摘している︒ω秋山博一日離島の経済分析(長崎県経済季報

Z0

・ 己 l一九六五)において︑離島の性格が千差万別であるという見万に立

っとき統一的観点を見失う点を主張して︑﹁農漁民屈の分解を基準にして﹂五分類を行っている︒その資料となったものは

昭和三十七年に各自治体が島唄別の資料の諸統計﹁雌島振興計画作成基礎調査書﹂である︒乙れの数字は必ずしも信頼出来

ないものが多いが︑各島別に出された資料はこれ以外に全くない︒その意味では離島研究に欠くことの出来ない極めて貴重

離島産業の前期性とその資本主義的展開

(10)

ωとの点については茂木六郎υ壱岐島の所得(長崎大学壱岐 調査団日壱岐の経済l昭和三九年)に詳論されている︒

同じく対馬については都野尚典υ対馬島の所得(長崎大学 対馬調査回目対馬の経済と社会l昭和四O年)にくわしい︒

(4) 

乙の頃の結論は両氏の研究によるものである︒

(5) 

OB

Z

mO

BO

EO

m

g?

. mgZ

038m

M

E(

薮内芳彦訳υ一般工業地理学八八頁)

側五島列島奈良尾の中小資本制生産によるあぐり網漁業は本

社を消費地の長崎︑福岡に移す傾向が大きいといわれている︒

五島列島奈良尾町の浜串︑岩瀬浦︑同列島の樺島︑長崎半d

島尖端の樺島の漁業(まき網漁)の隆替はその典型的な例であ

る︒例えば昭和二四(一九四九)年に五島樺島には島外資本

五統(日水︑大洋その他)︑問屋資本四統︑地元資本三統計

一二一統が立地し︑あぐり網の全盛期があった︒しかし︑昭和

ニ七年には島外資本は島を去り︑地元資本も昭和三二年には

倒産している︒奈留島(五島列島)でも昭和二四年の島外小

資本のあぐり網統六統が昭和二七年には一統に減少した︒

奈良尾町(中通島)の浜串︑岩瀬浦はそのあぐり網の壊滅

により︑人口が昭和二五1O年に急激したととはさきに述

(昭和35年)

分 │ 総 数 │ 大 平 洋 │ 日 本 海 │ 瀬 戸 内 │ 九 州 │ 長 崎 │ 鹿 児 島

半農半漁I 54  19  16 

20  11 

民 業 ノ 島 20  10 

漁 業 ノ 島 28 

鉱工業ノ島 13  10 

*、~、t 数 │ ~5_1 り 12J_ ~I

唄 数

(註)半島半漁I=専 業 率 漁 家10%以下、農家20%以下

II I!  I!  I!  10%以上、 I!  20%以上

農業ノ島 I!  I!  I!  10%以下、 I!  20%以上

漁 業 ノ 島 = グ グ '10%以上、 I!  20%以下

(秋山博一:VJffi島の経済分析1965)

(11)

(稿l未完t

O四号)が︑特に浜串のばあいは男子の減少が顕著であったのは︑岩瀬

浦が主として地元資本が中心であったのに対して︑浜串では昭和二六年島外資本大洋漁業のあぐり網船がニ統(当時の名称

は長崎漁業会社)あり︑それが同二九年には島を去って︑漁業出稼者(主として男子)の引きあげによるものであった︒

野母崎の樺島も昭和二六︑七年頃あぐり網船一七統ありその全盛期を迎えていたが︑今日地元資本が一統あるのみで︑か

000人の労働力を迎えていたといわれているのが︑今日は逆に完全な出稼ぎの島と化している︒

ただその全盛期のあとをイリコ加工業に止めて単に島内漁獲物のみでなく︑島外から買入れ加工を行っている︒

(

稿

島の人口移動(承前)lO

) (8) 

野木稔郎日離島の良業について(京都大学経済学会経済論議第九七巻一号l昭和四一︑一)

(9) 

秋山博一日前掲論文

UO) 

茂木六郎日対馬の交通と商業(長崎大学対馬調査団日対馬の経済と社会)において全島にわたる広い行商の存在を述べて

いる︒また時々おとずれる島原半島のそうめん船もその一種である(市川信愛υ須川そうめん船l)

J 壱岐には朝市が広く残存し︑広範囲にわたって利用されている︒

aEEaa EB離島における頼母子講については︑梅井清二臨島における金融問題(長崎県経済季報

Z0

5i一九六五)に詳細な研究が

ある︒それによると︑﹁預貸率のひくさは離島共通の金融的特徴であるが︑決して離島に資金需要がないわけではなく︑講

のおびただしい存在は何よりも庶民の資金欠乏状態を示すものである﹂としている︒

(1~

茂木六郎日壱岐の商業と交通(長崎大学壱岐調査団日壱岐の経済i

) (l~ U3) 

都野尚典u対馬の所得(長崎大学対馬調査団日対局の経済と社会i

)

有賀喜左エ円︑永島福太郎日対馬封建制度の諸問題(対馬の自然と文化)

O

U5) 

新対馬島誌五四二頁

離島産業の前期性とその資本主義的展開

(12)

(16)  宮本常一日五島列島の産業と社会の歴史的展開(五島列島1九十九島1調 (1

宮本常一日前掲論文(前掲一O

)

側藤原兵ヱ日五島近古年代記(昭和七年)の一一一一一l一三八頁によると︑明治ニ(一八六九)年の各掛に田舎町人として非

常に多い数字があげられている︒福江城下の町人数をあわすと合計三二九七一円に及び︑総戸数一一八八六戸中二八%を占め

五島藩町人数

福 江 城 下 351

283 

山 。 189 

山 。 60 

浜 。 182 

宿 。 272 

三 井 楽 。 140 

玉 ノ 浦 。 120 

Hl 江 ク 117 

賀 。 50

奈 留 島 。 92 

島 。

日 ノ 島 。 86 

松 。

若支松掛二万

~~

Jl 332 

魚 ノ 目

主主 方 。 95 

宇 久 島 。 270 

宇久神ノ浦。 161 

1188 

(明治2年)

(19) 

(五島近古年代記)

菱谷武平日カトリツグ部落の伝統と現状付i特に潜伏︑露見の居付信徒の調査を中心にして(昭和三三年度五島列島総合

学術調査報告書付)において︑藩政未期のカトリッグ信徒の五島への移住を︑絶海の孤島五島が潜伏の好条件を提供したも

のとしているが︑﹁乙れら信徒に対する詮議もさほどきびしくなかった﹂(同論文)点などを考えると︑むしろ五島藩の封

建体制自身の問題として把えるべきものと思われる︒

上甑村郷土史(昭和三五年)一八頁︒しかし︑いわし漁はかなりつ.ついたようで︑寛保二(一七四二)年i1

後約五O年のちlの大阪商人の記録ではここの干鰯の生産が高く評価されている(同書同頁)︒

阻) 平良港の構築とイワシプ1ムといかない関連があるか明かでないが︑三国名勝図絵では寛政一一(一七九九)年着工して三

(13)

年かかって完成している︒との港は﹁大池をもって港を聞かんとし﹂()()

く潟湖を聞いて港を構築したものと思われる︒

( 22) 

宮本常一口前掲論文一O一頁によれば五島藩では﹁藩は百姓を地方︑浜方︑竃万の三つに分けた︒地方は農業を主とする

ものであり︑浜万は漁業を主とする︒屯百姓は塩をやき薪を取るのを主業とした﹂︒例えば奈留島はほぼ地万百姓︑樺島は

市方百姓の島である︒浅野によれば﹁電万百姓は五島独特の制度であった﹂(浅野芳正一五島の人文地理l五島列島l

1平戸島学術調査書l一四一頁)︒そして乙れら藩政期の構造がかなり現在でも影響をもち﹁福江島の南に赤島︑黄島︑

印刷島の三つの閲析白状火山島が鼎立しているが︑前二者が漁業島︑後者は殆んど漁業に無関係の農業島である﹂(同書一四

二頁)︒これは前者は漁業移民の浜方百姓の島であり︑後者は古くからの地方百姓の島であった︒

なお五島には在郷武士の知行の一部分としての網代が加徳として与えられていた︒例えば有川︑魚ノ自には各々一五の加

﹁浜百姓はその網子として従事することになっていた﹂(同論文二ニ頁)︒

ω 

新対馬島誌五四二頁(一九六四年)︒

秋山博一日明治漁業法の制定過程(漁業経済研究八巻三号)においては明治維新後の諸改革によって小漁業経営が発展し

従って専業漁民の形成をもたらしたことを述べているが︑志村は大漁業経営(網主船一元経営)が依然として漁業総庄産に支

配的地位を占めていた乙とも事実である(志村賢男υ漁業の発展構造l漁業経済論i附和三九年l

l

)

とし︑更に﹁われわれは明治前期の漁業について︑主として半農半漁的段階に止まり︑農民兼営として大漁業がなされてい

たとされる旧藩時代の漁業となにほどの違いを見出しうるであろうか﹂(同書一三頁)と述べている︒

e2&i 

昭和四二年八月か旬︑呑焼町研究グループ(主班筆者)をつくり︑現在研究中で︑乙の点についてなお正確な資料的なう

らづけは不充分であるが︑明治六(一八七三)年の鉱業法の改正で石炭採掘権は対岸深堀村の人峯氏にうつるが(香焼町史

移上木発表)狸掘りの時期はなおつづき︑明治一六(一八八三)年には東京資本によって動力設備︑洋式汽缶等の新しい設

離島産業の前期性とその資本主義的展開

(14)

備による生産が始められる︒元禄一三(一七

OO

)

年には島民の勝手堀りが始められ︑明治に入っても殿様掘りにつづいて

峯氏のほかに地主(鍋島藩旧士族)の石炭採掘が行われていた(香焼町史稿)︒

Nμこれらの石炭は主に長崎の入港船︑瀬戸内の塩浜に送られていた(県庶務課史誌係事務簿)が︑聴取りによると長崎商人

なお地元或は深堀商人の支配については必ずしも明確でないが︑充分に推定される︒

)

乙の記述は﹁対馬島誌﹂コ二1

間)

新対馬島誌五七九頁年表︒

高島炭鉱の開発ほまず鍋島藩の手で行われる︒鍋島津領には産炭地が多く︑島拠地域の石炭生産は早い︒香焼村誌(大正

七年)によると鍋島藩であったこの島は既に農民の勝手堀りが認められたのは元禄年間(一六九0年代)にあるとされ︑

﹁一般に海岸地域や島興部に早くから聞かれたようである﹂(佐賀大学川崎氏の談)︒高島は文化末(一八一七)年に鍋島

藩の所領となり︑明治元年(一八六八年)に鍋島藩主とEB

明治八(一八七五)年後藤象二郎の手にあった同鉱山が同一四(一八一八)年に三菱に買収された︒高島の南側にある岩礁

端島(軍艦島とよばれるもの)の三菱買収は明治二三(一八九

O)

年である︒これら両島の本格的開発はとの年以降である

(三菱鉱業株式会社二両島鉱業所概況案内)︒

( 3

三菱資本の横島への投下は明治二七(一八九四)年の鉱区譲受け(三菱社誌第四二巻一九頁)に始まり︑同年直ちに詰堀

を始めている(同書三六頁)︒同三

O (一八九七)年には岩礁にすぎない横島に二八四六坪の海面埋立が行われ(同社誌第

四三巻一五三頁)︑同三二(一八九九)年の登記によると埋立実測面積五反五敏一九歩および七反四歩の所有権が明記され

ている(同社誌第四四巻三五七頁)︒

しかし明治三五(一九O

)

コ両島炭坑横島坑採炭収支償ハザルヲ以テ廃坑トス﹂(同社誌第四五巻五五三頁)

(15)

として︑ここに香焼島における財閥資本の時代は終る乙とになる︒八(註)この資料を定大な三菱社誌全巻から発掘して筆 者に御教示下さったのは長大有田講師である︒V

つまり︑横島︑香焼島炭鉱は財閥資本に見はなされた限界炭坑であった︒

︑ . ︐ ︐

4J

' 'e E

山下幸三(壬甲一戸籍によれば士族)なる地場の地主であり網主であった人によって明治二六(一八九三)年にコ1

庄が行われている(大正七年寄焼村郷土誌)︒当時漁業が不振で網主である同氏は鉱業に資本の移動を行った(古老聞き取

り)といわれている︒同氏が地主であったことは同町役場所有の名寄帳から判明する(樋口寅一郎氏の調査による)︒明治

O

(一八八七)年の記録では山林一七町九反︑耕地一一町歩︑宅地八反︑網干場三・ニ反を所有している︒明治末年の記

録に出る同家の山林所有二二町歩がピ1

(一八九八)年の深堀村から同島が分村する時の初代村長である︒

山下氏のコークス生産のほかにさきの島外資本からうけついピ香焼炭鉱会社のコ1グス生産の兼営があり(香焼町史稿)︑

外に明治三

O (一八九七)年頃には小資本による石炭採掘楽(川田社)があった(香焼村郷土誌)︒明治三一(一八九八)

年の数字では香焼炭鉱会社のみにて坑内夫二八五人︑坑外夫一一O人をかぞえ出炭丞は一日二五万斥であった(香焼町史

C3?)  稿

)

合宿とは化学の意味で︑大阪舎密会社はかなりの大資本であり︑香焼炭鉱会社を買収して(香焼町史移)本格的な近代的

炭鉱経常とコ1グス坐産が始まる︒明治三ニ(一八九九)年である︒同社は同二九年に設立されたもので︑わが国最初の副 産物回収式コークス炉を完成した(大阪ガス五十年史lOH三八頁)︒原料炭入手のために香焼島炭鉱を経営して 輸入品にまさる良質の鋳物用コ1グスを住産したが︑わが国工業の未発達で当初不振を極めた事業も日露戦争の好況で大き

い発民をとげている(同書同頁および二五三頁)︒しかし大正の不況後大阪ガスに合併され閉山された(同書二五四頁)︒

( O年五月の分村建議誌によると﹁本村大字呑焼ハ原よ杏焼村ト称シ一孤独立ノ村邑ナリ(中略)︒就中時運ノ進歩

離品産業の前期性とその資本主義的展開

(16)

ト共一一石炭坑其他顕著ノ事業等頻々激興シ諸般ノ施政膨脹ヲ来シタルニ(以下略)﹂とある︒そして次の同=二年には分離

して一個の村として認められている︒つまり産業資本の確立期としてこの分村を位置づけうるものと考える︒

(34) 

五島藩には岐宿村楠原牧ほか八つの牧地があり九明治四(一八七一)年の馬の頭数は九二一頭︑牧馬の総面積は東西凡五

里三九丁︑南北九里二四町である︒牧場は福江島に最も多かった︒冬中でも舎飼はなかった(五島近古年代記一四三t

)

対馬では文明年同(一四六九1)000頭︑牧場は四ケ所(佐護︑廻︑横浦︑国府)にあり︑特に

横浦のそれは横浦から賀谷︑濃部︑芦が浦︑鴨居瀬︑犬山にまたがる東西八キロ︑南北一0キロに及ぷ広大なものであった

(

O

)

(36) 

鹿児島県二階島振興一0か年の歩み

元禄ごニ(一七

OO

)

年のしらべで︑香焼島安保その他ニか所で﹁農民の勝手掘り﹂が始まっている(香焼村郷土誌)︒

約二世紀つづいた乙とになる︒

(38) 

同社は長崎市の三菱造船の近くに機関工場として明治二ハ(一A八三)年に発足した会社で︑明治二五(一八九二)年か

ら造船を行っている︒同三七︿一九O四)年に香焼島に約八︑000坪の地を拓いて造船工場と乾式ドッグ設備の工場を完

成した︒日露︑第一次大戦に際会して発展し(長崎市史中巻l昭和三四年l九五頁)︑大正七(一九一八)年最盛期を迎え︑

長崎工場とあわせて工員一一︑五

O 人を擁していた(香焼町史稿﹀︒﹁戦乱後工業界の不景気は同工場も影響す芯処となりO

(

l日華大鑑i大正一二年)とあるが︑大正一四(一九二五)年消極のやむなきに至りしも尚長崎造船界の勇者﹂

C3!l) 

農業についてはなお資料が不充分であるが︑同町役場所有の名寄帳による土地所有の変遷からある程度判明するものと思

われる︒しかし日露戦争後の不況打開のために桑苗一一︑000(

Ol明治四一年)本︑三年後には更に五

O

O本が無

(17)

償で交付され︑また梨︑ピヮ︑ミカン︑キンカンその他果樹苗︑大根︑白菜等の種苗が配布されて農業の振興がはかられて

いる︒更に第一次大戦突入時の大正四(一九一五)年にも同様の振興策が取られていた(香焼町史稿)︒不況打開策の基本

的手段は主として謎蚕業にあったと思われる︒漁業に関する記録はない︒にど︑水面埋立の記録が頻々として町史稿にあら

村移住続出す﹂(香焼村郷土誌)とあるから︑ヵッリッグ部落の人達の農業に依存出来なかった事情がよく推定される︒ われているから︑なお地先漁業段階にあった同島の漁業の衰退は推定出来る︒また大正初年﹁蔭ノ尾郷民漁業不振のため他

以前三菱資本の放棄した横島炭鉱が再び明治三九(一九O六)年大阪舎密によって試錐され(三菱社誌第四六巻八六五頁

)︑大正七(一九一八)年には堀進を進めている︒大体香焼島採炭業は明治四O年から海底に進んで行く年で︑第一次大戦

中にその全盛期を迎える︒しかし︑大正一四︑五年の不況時に休止され(香焼町史稿)︑大阪舎密は大阪ガスに合併される9

(

)

大正恐慌時における本島の不況は極めて深刻であった︒失業者があふれ日露戦後とよく似ている︒農業部門では養蚕組合

の設立ついでこ・六万本の桑樹の陥入計回があり︑各部落に農事改良実行組合が設立されている︒また漁業をみると︑﹁海

岸磯洗い﹂を行い海謀増殖法の指導諮習会が関かれ︑地先程をめぐる紛争が起り︑海面埋立ては間四()

0)

﹁不況のため不許可﹂となっている︒大正一五(一九二六﹀年の資料では定置網五ケ所︑いわし刺網ニO統︑いわし建切一︑

カナ網七統︑雑魚一本釣二二人とある(以上︑香焼町史稿の必要個所から引用)︒

また放民土木事菜︑時局匡救事業として村道の改修が昭和七(一八三二)年から始まり︑補助金八︑七

O

O

O円で村道九六0.(稿)

近世︑亜鉛鉱はカラスといって全然無用祝され︑単に万鉛鉱にふくまれていた鉛と銀を床吹きによって分離採取したので︑

床谷附近は無数に製鋭鈎のあとが散在している︒明治に入っても各鉱区が多数の権利者に分散所有されていた(東邦亜鉛株

式会社対州鉱業所一対州鉱業所概要i昭和三八年二一貝)とあるからなお狸掘り時代であったと思われる︒

離島産業の前期性とその資本主義的展開

(18)

(4~

大正の初め︑スイス人が西海岸に比重選鉱場を建設し︑亜鉛精鉱をベルギーに送っていた(右書同頁)のが第一次大戦中

(

l一九一七年)にわが国の資本にうつり資本制生産に入るが︑大正八(一九一九)年には例産し閉山されている︒

戦時体制に入った昭和一四(一九三九)年に東邦亜の前身日本亜鉛

K.

K.

によって諸鉱区を合併︑月産五︑000

()

瀬戸内の石炭輸送と内海的な海洋条件から早くからこの海域に木造機帆船の造船業が栄えていたが︑現在では鉄船造船が

要求され︑群小の造船業の整理は急速に進み︑また因ノ島では目立造船の下請化が行われている︒

﹁(前略)いうなれば東邦亜鉛株式会社の国内原鉱は現在まで対州鉱業所ピけに依存していた:::日本の数少い非鉄金属

鉱山であるばかりでなく︑その品位は鉛八.二%亜鉛一

0. 七%︑銀G/t一一三と極めて高く︑諸外国鉱山とも充分競争出

(45)  来る内容をもっている(前川忠良日対馬における鉱工業l)

(46) 

対馬の白土鉱︑長石鉱採堀業はそのよき例である(あとでふれる)︒すなわち支配者の製造或は販売能力がそのまま対馬

の白土︑長石の生産を決定している(前川忠良日同石)︒

軍権力を背景として川南工業の土地買収がつづき︑また殆んど無補償で海岸埋立が行われる︒数字的にはなお明かにして

いないが香焼町の土地台帳には川南の買収︑埋立がしきりにあらわれ︑戦後の農地解放に際しでも川南からの農林省買上げ

がしばしばあらわれてくる︒政府の向島に対する解放割当面積八町歩に対して︑現実に解放された面積は一ニ二町歩であった

(

)

(48) 

一八世紀の初頭に高島に始めて炭層が発見され︑採堀が製塩のために行われた(三菱鉱業株式会社円高島砿業所概況案内﹀

とあるが︑狸掘り時代が約二ハO年位つづいたと思われる︒鍋島藩の手にうつったのは文佑末(一八一七)年であり︑E‑

B・グラパーとの共同経営から後藤家二郎の手を経て三菱が買収したのは明治一四(一八八一)年である(同書)︒

川崎茂υ離島の鉱業空間'(下関商経論集第九巻第二号l)

参照

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