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立脇和夫

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(1)

BANKの訳語と国立銀行条例について

立脇和夫

目  次

はじめに

I幕末維新期におけるbankの訳語

Ⅱ「バンク」から「銀行」 へ

Ⅲ「国立銀行条例」の命名

Ⅳ中国における「銀行」の語源

Ⅴ米国のNationalCurrency Act

Ⅵわが国の「国立銀行条例」の典拠 むすび

はじめに

今日,「銀行」は金融機関の代表的なもの であり,英語のbankに相当する日本語であ ることはいうまでもない。しかし,「銀行」

という言葉(漢字)は日本語の中でどうみて も異色の存在である。

「銀行」の語源に関して,戦前に,東京 帝大名誉教授山崎覚次郎博士(1868−1945)

や長崎高商名誉教授武藤長蔵博士(1881

−1942)によって行なわれた垂れた研究が ある。とくに,武藤博士はこの問題に異常な情 熱を注がれ,その研究成果は,「銀行ナル名 辞ノ由来二就テ」(『国民経済雑誌』1918 年1月以降10回,通算129ページ),「再び 銀行ナル名辞ノ由来二就テ」(同誌1919年

5月以降6回,通算57ページ),「『智環啓蒙』

香港第1版長崎にて発見せらる」(『長崎高 商研究館年報』第1冊1922年5月)及び,

「銀行会館なる名辞が約二百年前支那に存せ し事実の発見」(『商業と経済』第3冊1922 年12月及び第4冊1923年7月)として残さ れている。

わが国において,bankの訳語として「銀 行」が初めて使用されたのは慶応2年(1866年)

のことであるが,この訳語が定着したのは明 治5年(1872年)の「国立銀行条例」制定以降 のことである。わが国の「国立銀行条例」は 米国のNationalBankingSystemを導入す ることを目的として制定されたものである。

しかし,その典拠はNationalCurrency Act であって,NationalBank Actではない,と 一橋大学名誉教授高垣寅次郎博士は主張され ている(高垣1970年,46ページ,1972年,

232ページ)。

しかし,これらの主張には必ずしも論拠が 示されておらず,従って十分な説得力のある ものとはいい難い。筆者は,これらの諸点に 留意し,国立公文書館(内閣文庫)をはじめ 各地の図書館の所蔵文献を検索した結果,こ れらの推論(仮説)を立証するに足る多くの 史料を発見した (注)1

本稿は,筆者が新たに発見した史実を交え て,「bank」と「銀行」との歴史的っながりを もう一度整理し,再検討しようとするもので

(2)

ある。 そこでまず, 幕 末 維 新 j切における

bank

の訳語から検討を始め

i

銀行」が明

5

年の「国立銀行条例jの制定を機に訳語とし て社会的に認知され,定着する過程を考察す

o

次いで

i

銀行」の中固における源流に さかのぼって検討し,最後に,わが国の「国 立銀行条例」の典拠とされる米国の

l a n o i t a N C

u r r e n c y

  c t A

との関連性を追求する。

幕末維新期における

bank

の訳語

安政

6

年(西暦

1859

年)の開国とともに,

欧米諸国から新しい思想や文化が急激に日本 ヘ流入してきた。それら西欧の文物に対して 日本語による呼称を与える必要が生じ,原語

〈第1表〉

に近い意味をもっ既存の日本語をあてたり(転 用) ,新しい言葉を創出したり(造語) ,外 国語音をカナ文字で表現したり(外来語)し た。また,漢字にカナをふるケースもしばし ばであった

o

近代的金融組織である

bank

も,開国後に 初めてわが国に導入された西欧的制度であり,

わが国古来の金融業者である「為替渡世,掛 屋,両換屋,札差等

J W (

明治財政史』第

2 1

491

ページ)とはかなり性格の異なるも のであった。開国後,外国の

n k ( b a

本稿で、は 便宜上「外国パンク」と呼ぶ)がわが国開港 場へ進出し,最初に支屈を開設したのは文久

3

(1863

年)のことであるが,その後「

国立銀行条例」が制定されるまでの

0 1

年聞に,

外国パンク数は

8

行にのぼった(第

1

表参照)。

幕 末 維 新 期 の 外 国 バ ン ク 日 本 進 出 状 況

(明治

5

=1872

年迄に支屈を開設したもの)

横 浜 兵 庫 大 阪 支 屈 支 庖 支 庖

C e n t r a l

  Bank    f o n   t e r W e s   a i d n l 1863  C

h a r t e r e d

    e i l t n a c r e M Bank    l f o a i d n

, 

London  a n d     n a C h i 1863  C

o m m e r c i a l

  Bank    f o   a i d n l 1863 

O r i e n t a l

  Bank    n o i t a r o p r o C 1864  1870  1871 

Bank    f o a n   s t d u i n H

a   i n h C &  J a p a n  

  . d t L 1865 

Hongkong  &    i h a n g h a S B a n k i n g   Company

, 

  . d t L 1866  1870  1872  C

o m p t o i r

  :   e t p m o c s E ' d   e d   s i r a P 1867  D

e u t s c h e

  Bank  AG  1872 

(注)名称は日本進出当時のものである

o

(資料)拙稿「旧条約時代の外国銀行横浜進出状況」及び「旧条約時代の外国銀行日本進 出状況

J W (

金融』第

427   4 29

号,第

436

号及び

437

号)に一部加筆

日本へ進出した外国パンクを含めて,

bank 

銀舗,銀行などさまざまであった。いま,幕 に対する呼称は,開国当初は両替屋,為替座, 末 維 新 期 (

7 8 1 ‑ ‑ ‑ 5 0 8 1

1)に用いられた

bank

(3)

の訳語例を類別して示せば次の通りである (主として,斉藤

1977

年による)。

( 1 )

  r

両替」等の言葉をあてたもの

リョウガエ:明治

5

年 (

1872

年)美国平 文 先 生 (

  . J C  Hepburn  ) 

編『和英語休集成』第

2

版 両 替 屋 : 文 久 元 年 (

1861

年)

W

官版

f

タビヤ新聞』

1 1  

1 1  

1 1  

1 1  

両 替

:慶応元年(

1865

年)岡田掻 蔵『航西小記』

:慶応

2

(1866

年)

W

海外

新聞』第

2 0

:慶応、

3

(1867

年)福沢諭

吉『西洋旅案内』

:明治

3

(1870

年)森有礼

『渡米日記』

庖:明治

3

(1870

年)中井弘

蔵『西洋紀行・航海新説』

両 替 座 : 慶 応

2

(1866

年)福沢諭 吉『西洋事情』外編巻之

2

両 替 局 : 慶 応

3

(1867

年)渋沢栄

一『航西日記』

両 替 所 : 慶 応

3

(1867

年)渋沢栄

w

御巡国日録』

( 2 )

  r

為替」等の言葉をあてたもの

カ ワ セ : 明 治

5

(1872

年)美国平 文先生編『和英語休集成』第

2

為 替 座 : 明 治

3

(1870

年) W海外 新聞』第

2

為 替 座 : 明 治

5

(1872

年)爪生三 宙訳『合衆国政治小学』

為 替 組 : 慶 応

2

(1866

年)香港上 海程理銀行洋銀券

為 替 所 : 文 久

3

(1863

年) W幕 末 維新外交史料集成』第

6

:元治元年

(1864

年) ~日本 貿易新聞』第

4 9

為 替 会 所 : 元 治 元 年

(1864

年) W横浜 新聞jJ

1863

9

1

日 為 替 会 社 : 明 治

3

(1870

年)横浜為

替会社洋銀券

ρ 

:明治

4

年 (

1871

年)渋沢栄 一『官版立会喜則』

為 替 問 屋 : 慶 応

3

(1867

年)福沢諭 吉『西洋旅案内』

( 3 )

  r

銀坐

J , r

銀舗」等の言葉をあてたもの カ ネ カ シ : 慶 応

3

(1867

年)美国平

文先生編『和英語林集成』初

銀 坐:慶応、

2

(1866

年)福沢諭 吉『西洋事情』初編巻之 1

:明治

2

(1869

年)福沢諭

ギンザ

カネカシ 吉『英国議事院談』

銀庖・銀舗:嘉永

7

(1854

年)広瀬達

ギ シ ザ

『亜米利加総記~ (通俗海国 図志)

銀 舗:万延元年

(1860

年)福沢諭 吉『増訂華英通信

I J

(原著,

何 紫 庭

1855

年)

銀 舗:文久

3

年 (

1863

年)

W

日本 貿易新聞jJ

1863

9

1

ρ  :明治元年

(1868

年) W官版 明治月刊jJ,W復古記』

見 銀 舗 : 明 治

2

(1869

年)兇銀舗 約定書(造幣局経営に関する 東 洋 銀 行 と 明 治 政 府 と の 約 定)

リヨウガへザ

見 銀 舗 : 明 治

2

(1869

年)村田文 夫『西洋間見録』

金 銀 舗 : 万 延 元 年

(1860

年)玉虫誼

『航米日録』

金銀為替所:慶応元年

(1865

年)W日本 新聞』第

8

( 4 )

  r

銀行」等の言葉をあてたもの

銀 行:慶応

2

(1866

年)オリエ

(4)

ンタJレ・パンク横浜支庖長の勘定 奉行宛書簡(塩田三郎訳)

行:明治

3

(1870

年)欣氏約

定書(造幣寮首長キンドル傭 入条約)<訳文>

:明治

3

(1870

年)渋沢栄

‑['航西日記』

:明治

4

(1871

年)['三井

組パンク

j

, 

r

東京銀行』設立

カ ワ

セ サ 出願書

銀 行:明治

5

(1872

年) ['東京

リヨウカへナカマ

日日新聞J,

r

新聞雑誌』

銀 行 公 司 : 明 治

4

(1871

年)中村正 直訳『自由之理』

( 5

)

その他の言葉をあてたもの

金 館:慶応、

3

(1867

年)神田孝 平訳『経済小学』

金票館(舗):安政

2

(1855

年)‑‑慶応

2

(1866

年)古賀増『度

内 村 吋 日閑言』

見 舗 : 文 久 年 間 (

1861‑‑1863

年)

『官板玉石志休』

金銀ヲ預リ替セヲ取組ム座:文久

2

Zミ

(1862

年)堀達之助等『英

和対訳袖珍辞書』

社:明治

3

(1870

年)福地源

一郎訳『会社弁~ (小引三則)

(

6

)

外来語扱いとしたもの

パ ン ク : 文 久

3

(1863

年) ['日本 貿易新聞』

1 1  

1 1  

1 1  

:元治元年

(1864

年) ['日本 貿易新聞

j

,栗本鋤雲『詫庵十 種』

:明治元年

(1868

年)三又漁 史識語『万国新話~,森有礼 の五代友厚宛書簡

:明治

2

(1869

年)柳河春

三『蚕種説』

パ ン ク : 明 治

4

(1871

年)f三井組 パンク

jJ

東京銀行』設立出願

n r

パンク

J

から「銀行j

わが国において,

a n k b

の訳語として「銀 行」が定着したのは,明治

5

年の「国立銀行 条例」の制定以降のことである

o

明治

4

年以 前における訳語は,上にみたように日本的な もの,中国的なもの,外来語扱いなどさまざ まであるが,そのなかには「銀行」をあてた 例もない訳ではない。

Bank

の訳語として「銀行」を用いた最初 のケースは,慶応

2

8

(1866

9

月) オリエンタル・パンク横浜支店長から勘定奉 行小栗上野介宛の手紙を翻訳した幕府の訳官 塩 田 三 郎 (

184 3 ‑ ‑ 1889

年)である(神長倉

1936

年,

3 2

ページ,尾佐竹,

1926

4 0 4

ページ)。神長倉真民は,塩田三郎が「何処 から乙の成語を発見したか,私は未だその由 来を究めていないが,彼は英語も行ける処か ら,その年上海(香港の誤り=引用者)で出 版された英華字典から,乙の訳語を発見した のではあるまいか

J

(神長倉

1936

5 2

ペー ジ)と推測している。幸いにも,筆者は国立 国会図書館所蔵の『英華字典~

d e i h s c b o ( L

,  W.

,    s h l i n g E and  s e   i n e C h r y n a o t i c D i , Hong‑

k o n g .

  8 6 6 )   1

(整理番号

. 5 9 4 1 ‑L  7 e   7 9 ) 

を検索した結果,その扉に「故塩田三郎寄贈 本」と刻印されているのを発見し,神長倉真 民の推論の正しい乙との裏付けを得たのであ

る(写真1参照)。

明治期に入ると

n k b a

の訳語に「銀行」を あてるケースが多くなる。明治初年,大阪に 建設された造幣寮(明治

5

年造幣局と改称) の運営に当たり,オリエンタル・パンクが英 国人技師キンドル

(Thomas W.  K   r e d n i ) 

(5)

「銀行

J

Kは「カワセサ」のふりがなが付さ れており,当時,まだ「銀行」という訳語が一般 化していなかった乙とを示興している([1新聞 集成明治編年史』第

1

441

ページ)

0 i

国立 銀行条例」が布告される

8

か月前である

o

i

国立銀行条例」の草案を作成した大蔵 省においても,明治

4

年末

i

其省内ニ銀行 条例編纂掛ヲ設ケ,紙幣頭渋沢栄一,同権頭 芳川顕正

0 = 2 1 9 . . . . . . . . 4 1 8 ( 1

引用者)等ヲシ テ専ラ該事務ヲ管掌セシメ・HH

J

. ( 

[1明治財 政史』第

1 3

2 9

ページ)たのである。

専修大学助教授永瀬治郎氏によれば,明治 初期の東京では訳語よりも「パンク」が外来 語として使用されていたが,これは一時的な 現象で

i

銀行」という訳語が定着すると,

「パンク」はあまり使われなくなった。『郵

; ; . 1 ト

典下の

J

英書贈 華ム本 蔵蔵寄 所田郎

館塩三︺書﹁田る図に塩え

立左に印 国上﹁が 会部故み 国(部刻

' .

、 .

4 同 町 一 岨 … ・ ・ 岡 山 田 司

間 山 一

I F ;  

便報知新聞』では明治

0 1

年から明治

1 1

年にか けて

i

銀行」が

1 1

回も出現し

i

両替屋」

等は影をひそめてしまう。

i

銀行」という訳 語は明治初期

. . . . . . . . 4 ( 5

年頃)には専門的用語 として使用されていたが,一般に定着したの は,明治

0 1

年 代 に な っ て か ら で あ る 永 瀬

1983

320

ページ)口

永瀬氏の「専門的用語

J

とは「銀行」関係 者間でのみ使用されていた用語と解される。明治 4年末には,前述のように,大蔵省紙幣寮内 に「銀行条例編纂掛」が設置され,翌

5

1 1

月には「国立銀行条例」が公布された

o

これ を受けて,明治

6

6

月には,東京第一国立 銀行が設立された。しかしながら,後続は,

同年中に設立された東京第五国立銀行

9 (

月), 

新潟第四国立銀行

2 0

月)及び翌年設立され た 横 浜 第 二 国 立 銀 行 (7月)の3行にすぎず,

当初はあまり普及しなかった。しかし,明治 9年に「国立銀行条例」が改正され,見換準 備規定の緩和などが行なわれたのを契機に国 立銀行の設立が相次いだ。即ち,明治

9

年に

l

0 1

年に

23

1 1

年に

8 7

2 1

年には

3 8

との聞に締結した雇用契約書(明治32

2

日 =

1870

3

3

日付)の訳文では,

O r i e n t a l

  Bank  a t i o n C o r p o r

が「東洋銀行」

と表現されている

r

造 幣 局 百 年 史

J 4 3

ー ジ ) 。 明 治

3

0 1

紙 幣 頭 渋 沢 栄 一

(1840‑‑1931)

は『航西日記』を著した

が,そのなかで,アムステルダムの印象を「

地勢略本邦の大阪に似たり。商庖銀行なども大 なるありて貿易繁盛なり」と記している(

r

淵先生六十年史

J340

ページ)。もっとも渋沢の 訳語は一貫性を欠き上述の日記中,

Bank    f o

England

を「パンクオフエンゲ、ランド」とカ

ナ文字で表現している(上掲書

377

ページ)。

翌明治

4

7

月に「三井組パンク

J

,同年

2 1

月に「東京銀行」の設立願いが大蔵省へ提出 されたが,乙れらの願書のなかで「銀行」と いう文字がしばしば使用されている([1明治 財政史』第

2 1 7 0 5 . .

. . . . . . 9 9 4

ページ)。

さらに,明治

5

3

月発行の『新聞雑誌』

カワセサ

は,東京大火に際して,

r

横浜東洋銀行ロワセ

ル J < 1   .  e l R u s s

引用者)から

1000

ドルの義 伺金が寄せられた乙とを報じている。ただし,

(6)

行が新設された。この結果,明治1

2

年末の国 立銀行数は合計

5 3 1

行に達したのである。

乙のように,明治

0 1

年代初めに国立銀行が 族生し,その設立地域も北海道を含む全固に 及んだため

r

銀行」はもはや専門語ではな くなったのである

o

このことは,新聞紙上に 表われた「銀行」の頻度からもうかがうこと ができる(第

2

表参照)口

〈第2表〉

『新聞集成明治編年史

H J

乙表われた

「ノてンク

J

及び了銀行」の頻度 パンク 銀 行 明治元年叫月治

5

3 回 3 回

1/ 

6

ρ 1 0

2  1  2 

ρ 1  1年

15

16

ρ 2 0

するのは第

2

(1882

年東京発行)以降で ある。また,美(米)国平文先生編(著)

r

和英語 林集成』では,初版(1866 年横浜出版)及

び第

2

(1872

年横浜出版)に「銀行」

の記載はなく,第

3

(1886

年東京出版) においてようやく「銀行」の訳語が採用され ているありさまである

o

注)

m  r

国立銀行条例jの命名

山崎博士は

r

銀行ナル語ノ一般ニ用ヰラ ルルニ至リシノ¥,明治五年国立銀行条例ノ制 定セラレタルニ基因スルモノトス

J

(山崎

1912

年,

244

ページ)との見解を示してい る

o

乙の条例は米国の法律をモデルとしたも また,

bank

の訳語の辞書類への採用状況 のであり

r

国立銀行」は,いうまでもなく をみると,望月誠纂輯『英和商語集~

(1876  r

ナショナル・パンク

J (na  t   l a n o i bank) 

年)が最も早く,津田仙外訳『英華和訳字典』 の訳語であった([1明治財政史』第

3 1

巻,

  1 3

(1879

年) ,永峰秀樹訓訳『華英字典』 ページ)。これに関して『青淵先生六十年史』

(1881

年)などが乙れに続いている

o

『英和商語集』は全文7

3

ページ、の小冊子(

タテ

14cmx ヨコ 9 c m )

で,辞書とはいい難い

が,

bank

の訳語として「銀行」を収録した わが国最初の出版物として注目される

o F I

英 華和訳字典』は,原典を明示していないが,

内容から判断して,

d i h e c s o b L

編『英華字典』

(1866

年香港発行)を底本としたものとみ

られる

o

また, IF 華英字典~

(1881

年)は

W.  H. 

Medhurst 編『華英字典~

(1879 

年上海出版)を典拠としたものである。

一方,香港や上海で発行された『英華字典』

に依拠しなし、日本独自の英和もしくは和英 辞書における「銀行」の登場はかなり遅い。

例えば,明治期の代表的な英和辞典である柴 田・子安編『付音挿図英和字嚢』をみると,

その初版

(1873

年横浜出版)には

bank

訳語に「銀行」は見当らず

r

銀行」が登場

lとは,

青淵先生ノ名ハ我邦銀行ノ歴史ト離ルベ、カ ラズ先生ハ実ニ我邦商工業改良発達上根源 機関トシテ銀行業ノ成立発達ニ力ヲ尽シタ ノレモノナリ銀行卜云ヘル名称ハ先生ガ初メ テ

Bank

の訳字ニ用ヒタノレモノナリ支那語 ノ何洋行ナト云ヘルヨリ考付タルナリ(

r

淵先生六十年史』第

1

巻,

471

ページ) , 

と記されている。また,当の青淵先生(渋 沢栄一)は明治2

8

年某月某日,日本経済会員 の要請により,わが国銀行創立の事a情につい て,帝国ホテルで演説した際 ~L,次のように 述べている。

亜米利加ノ銀行規則ヲ翻訳シテ之ニ倣フテ 日本ノ銀行条例卜云フモノヲ作ノレ様ニ取調

(7)

ヲスルガ宜シカラウ卜云フ事テ四年ノ十月 頃漸ク論定シテ私モ其時分大蔵大丞を勤メ 居リマシタカラ始終其議論ニ参与シテ終ニ 此条例ヲ組立

j

レニ付テハ私カ其主任ニ成ッ テ調ヘル卜云フコトニナリマシタ夫レカラ 伊藤伯ノ送リ越サレタ原書ノ翻訳文ヲ綿密 ニ吟味シテ一々日本ノ文ニ当テ L条例文ヲ 組立テマシタカ此時ニ起タ説ハ第一亜米利 加ノ原名ノ、余リ長過キJレ「ナショナJレ」ト 云フハ国ト云フコトタ「パンク

J

ト云フノ ハ金ヲ取扱フ場所タソレニハ何トカヨイ名 ハナイカ両替屋モ余リ下品ノ名ナリサテ何卜云 フ名ニシタラヨカラウト大ニ困却シテ彼ノ 学者此ノ先生卜種々相談ノ上行卜云フ字ハ 支那杯テハ洋行卜カ商行トカ云フテ商庖ニ 用フjレ字タ「ナショナル

J

ト云フハ国ト云 フ事ナレトモ国ノー字テハ熟字卜ナラヌカ ラ国立トシヤウ又金行卜云フモ妙テナイカ ラ銀行トシヤウト云フノテ終ニ国立銀行卜 云フ名カ生レテ来タノテアリマス f上掲書

4 8 1

  ‑ 4 8 2

ページ)。

さらに,

F I

世外候事歴維新財政談』のなか で渋沢栄ーは次のように語っているD

此パンクとし、ふ字は言葉がをかしし、から,

何といふ名にしゃうかと,福地(源一郎=

引用者)や私共が評議して,遂に大蔵省で 銀行といふ名にした。それは即ち井上(馨

=引用者)さんが銀行とし、ふ名で宜しいと,

判断を与えて下すった。あれは大蔵省で付 け た 名 な ん で す (

r

世外候事歴維新財政談』

下巻,

4 2 3

ページ)

もっとも,芳川顕正の談話によれば,

r

ンクを銀行と名付けたのは島五郎という人」

(上掲書

320

ページ)だとされているが,前 後関係が不明瞭で,島五郎という人について

も,明らかでない。一方,山崎博士は,次の ように述べている。

1866

年(慶応

2

年)香港ニ於テ刊行セラ レタル英華字典ハ,

r

パンク」ノ訳語トシ テ「銀行

J

ヲ第一ニ置キ之ニ腫グニ「銀舗

J

「銀号

J

r

銭舗」等ヲ以テス。想フニ,

此辞書ハ忽チ本邦ニ輪入セラレ,而シテ学 界ノ珍重スノレ所トナレルヤ疑ナキヲ以テ,

我国ニ於ケノレ「銀行」ナJレ語ハ,此書ニ淵 源セルモノト推定セザルヲ得ザルナリ

1 1 1 (

1912

245‑246

ページ)。

この点に関して,武藤博士は次のような論 評を加えている

o

明治

3

年福地源一郎氏訳(渋沢栄一序=引 用者)会社弁(明治

4

年辛未九月大蔵省出 版〉小引の一節中「銀行

J

の文字ヲ使用セリ

‑…..渋沢氏ガ此注意スベキ事実ニ就テ何等 云フ処ナキハ如伺。渋沢氏ハ同氏ノ相談セ シ所謂学者先生ハ西暦

1866

年(慶応

2

年) 香港ニテ刊行セラレ我国ニモ輸入使用セラ

レタ

J

レ英華字典ヲ参考スjレ処ナカリシ乎。

英華字典ニハ

Ba

出 ノ 訳 語 ニ 銀 行 銀 舗 ヲ 初 メトシテ銀号銭舗,銭庄銀居等ヲ掲ゲ,又

B a n k

    E f o d a n l g n

ヲ大英国銀行ト訳セシノ ミナラズ,涯理銀行,借銀行,掲銀行等ノ例 ヲモ示セリ,コレ好キ参考ナラズヤ

o

渋沢 氏自身ハ兎モ角福地氏又渋沢氏ノ所謂学者 先生ガコレヲ参考セザリヤ。コレ我国ニ於ケ

Bank

ノ訳語トシテノ銀行ナノレ名辞ノ由 来ヲ究ムノレ上ニ大切ナル問題也(武藤

1918

年第

4 2

5

139‑140

ページ。写真

2

参照)。

1866

年香港で発行された英華字典 (

Eng‑

l i s h

  and  e   e s i n C h D た y r a n o i t ,

by 

The  R e v .  

(8)

L o b s c h e i

d

の英華字典

P.135

CBank

の項に「銀行」がみえる)

W.  L ) h e i d o b s c

は大量にわが国へ輸入され ており,今日でも全国各地の図書館で多数 所蔵されている。筆者の知りえた限りでは 国立公文書館(内閣文庫)の所蔵冊数が最 も多く

1 5

冊にのぼる

o

このうち,

1 1

冊は大蔵 省(うち

2

冊は大蔵,農務両省共用)から引 き継いだものであるが,特筆しなければなら ないのは,このなかに

r

紙幣寮官籍」の印 章(タテ書き)が押捺しであるものが1冊 ( 整理番号蔵

E 7269)

含まれている点である

(写真

3

参照)。乙の事実は,武藤博士の推 測の通り大蔵省紙幣寮において,

  a l n i o t n a

bank

の訳語を決定するに当り,

1866

年香 港発行の英華字典を参照している乙とを裏付 けるものである

o

ちなみに,大蔵省内に紙幣 寮が設けられていたのは明治4年 8月から明 治1

0

1

月までの聞であった。

乙れに関連して,羊子林中国銀行東京事務 所首席代表が次のように述べているのは当を 得たものと考えられる。

つまり

r

銀行」という言葉は,日本で考

え出されたわけではないのである。どうも,

明治の財界の大立者,渋沢栄一氏が名付け 親のように言われているが,彼は「国立銀。

行」という名をつくったのであって,

i

銀 行」という言葉自体は中国製なのだ(羊子

1984

年)

中国における「銀行jの語源

「銀行」は必ずしも新しい言葉ではないが,

今日的意味で使われるようになったのは,近 代に入ってからのようである

o

中国古来の金 融機関(旧式金融機関)は銀号,銭舗,銭庄 などと呼ばれており,銀行は元来銀製品を扱 う商庖に対する呼称であった

o

注)3 

9 1 世

紀中葉に清国の開港場ヘ進出した外国パンク に対して「銀行」の訳語が与えられ,次いで 清国でも銀行と呼ばれる近代的金融機関(新 式金融機関)が設立されるに至った。その第

1

号は,

1896

年(光緒2

2

年)に設立された 中国通商銀行(本底上海,資本金

500

万両) であった(宮下

1941

年,

5

ページ)。

わが国において,慶応

2

年 (

1866

年)に

(9)

「銀行」という訳語をはじめて使用した訳官 塩田三郎が同年に香港で出版された英華字典 を所持しており,また大蔵省紙幣寮でも,明

5

年の「国立銀行条例

J

の草案作成に当って,

同じく

1866

年香港発行の英華字典を参照し ていた乙とは,すでに指摘したとおりである

o

しからば

1866

年以前はどうであったのか。

山崎博士は,紙幣寮で「英華字典」を参照 したものと推定しながらも

r

然レドモ更ニ 一歩ヲ進メテ『英華字典』以前ニ遡ルトキハ 其経路ヲ知ルヲ得ズ」と述懐している(山崎

1912

年,

246

ページ)。 しかし,武藤博士 も指摘されているように(後述),香港では,

1866

年以前にも「銀行

J

bank

の訳語と して使用されていた。例えば,

1865

年に香 港在留英国商人たちによって設立された

Hongkong  and  Shanghai  Banking 

Company

, 

.   L t d (1867

1

月,

Hongkong 

and  S h a n g h a i   Banking  n t i o r a r p o C o

と改称) は設立当初から「香港上海涯理銀行」の漢字 名を併用していた (

The  Chron

e l & 

Di y r o c t e r

, 

1865;    6 6 1 8

。) 同行は横浜 で銀行券を発行しており,

1866

年に発行し た銀行券にも

r

香港上海涯理銀行」 という

漢字名が印刷されている

s i l l o C C

1965

, 

I I I ・

u s t r a t i o n

  ) 9 2 。

また,

1860

年ごろから香港で発行され ていた

The China  Di o t e c r η1861 

年版以 降において,香港の項 ~L ,

Agra  and  U n   d e t i S

e r v i c e

  Bank

をはじめ, 外国パンク

5

行が 掲載されているが,その英文商号に併記され ている漢字名には,第3表に示したように何 れも「銀行

J

の漢字が含まれている。

武藤博士は,

1866

年の「英華字典」以前 について探求した結果,威豊

7

(1856

年)

(注)

4

香港で発行された教科書『智環啓蒙 熟課初歩~ (合

aduated Re n g   a d z : 

Compris 仇

g

A  C c r i

f Know o

dge , 仇

200  Le  s   s o n s

~香港英華書院従英文訳出)の

文中,

t e ‑ n o a n k b

が,

I

銀行銭票」と訳出 されている事実を発見された(武藤

1922

5

月,

300

ページ:

Legge  1  8  56

, 

8 3

ページ 写真

4

参照

0 )

(注)

5

これは,

bank

単独で

これら香港発行の英華

e n h i ‑ C h i s l n g C E

田) 対照文献で,

bank

の訳語として 「銀行」を 使用したものが,当時の日本にどのぐらい入 っていたのか必ずしも明らかでないが,今日 でも各地に保管されている事実からみて,相 当数が輸入されていた乙とは疑う余地がない。

とくに

c h e i d L o b s

の『英華字典』は内閣文 庫に大量に保存されているほか,全国各地の 図書館にも所蔵されている。『智環啓蒙熟課初 歩』及び

The China  Di y o r c t e r

の国内にお ける所蔵部数は少ないが,前者はその初版

(1856

年)が

2 0

冊,

1860

年に長崎の

‑ r V e beck

によって輸入されたとの記録があり,

(Smith  1861

, 

  . P 1 7 3 )

また,同書第

2

( 1864

年刊)は慶応

2

(1866

年)に江

戸開物社から翻刻(リプリント)版まで出版 されている(武藤

1919

年,第

7 2

l

  5 9

(10)

〈第

3

表〉

清 国 所 在 外 国 バ ン ク の 漢 字 表 記

(  1  8  6  0

年末現在)

香 港 上 海

Agra 

n i t e d   U   c e i r v e S Bank 

を艮 行

Chartered  Bank    f o   a i d n l

,  活 を艮

f r  

利 │

A u a i l a r t s

, 

and  China  C

h a r t e r e d

  Mercan    e l i t   f o   a i d n I

,  角 士 頓 新 銀 行 有

London

, 

and  China 

Commercial  Bank    f o   a i d n l

金 罵 索 銀 行 匪

隆!

O r i e n t a l

  Bank  n   t i o o r a o r p C

布 を艮 行

(資料)

The  China  Di o t e c r   γ y ' o f γ1861

, 

Hongkong

, 

186  1 

P.P  .  7 

3 1 

(財団法人東洋文庫所蔵)

ページ)。

結局,香港においては,

1860

年代以前か らbank の訳語として「銀行

J

が使用されて おり,それが『智環啓蒙熟課初歩j]<1

856

年) , 

The  China  Di   r y o t e c r (186  1年版以

降) ,あるいは『英華字典j]

(1866

年)を通 じてわが国ヘ導入され,明治初期の国立銀行 の普及に伴って一般化したものと考えられる

o

なお,清国において開港後,香港と並ぶ国 際貿易港K発展した上海についてみると,

1860

年代には,

bank

の訳語としての「銀 行」の使用は,未だ香港ほど一般化していな

(

し ¥0

ちなみに ,

The  h i n C α y   o r c t r e D i 1 86  1 

年版をみると,香港の項とは異なり,上海の 項

K

掲載された外国パンクの漢字名には「銀 行

J

の文字が含まれていない(第

3

表参照)。

The  Ch 仇 α Di γ y o r t e c 1862

年版及び

1863

年版では,新顔の

a l t r e n C Bank    f o Western  I

n d i

a

の漢字名に「銀行」の文字が含まれてい るだけで,

1864

年版以降も漢字名に「銀河 を含むものは少数のパンクにとどまっている。

上海出版の辞典類における「銀行」の採用も 遅く,

1869

年上海出版の A

Voc α ω   y r a l

o f

  Sh α η ghai  Dia   t c e l (by    . J Edkins)

及び

1879

年同地出版の『英華字典Jl( 

h   i s g l E n and  e   C h i n   e s D i c o i t

η

r y a

, 

by  W.  H.  Med‑

h u r s t

)

においてはじめて「銀行」の採用がみ られる

o

武藤博士は

i

銀行」の語源をさらに探索 した結果

i

銀行会館」という漢字が,南中 国広東の銀行(銀業行)忠信堂奥の釣鐘 ~C,  康照5

3

年(西暦

1714

年) ,即ち,香港の英 華字典より約

150

年前に刻印されており,ま た銀行忠信堂内の香炉にも,道光

7

年(西暦

1827

年)に刻まれた「銀行会館」の文字を 発見された(武藤,

1922

12

月,

3 2

ページ〉。

乙こにみる「銀行会館」は,いずれも『智 環啓蒙熟課初歩』より年代的に古い乙とはい うまでもないが,武藤博士も認めているよう に,西欧の金融機関である

bank

との関連性 はなく,したがって今日の「銀行」とは用法 を異にするものである。即ち,武藤博士も,

広東ニテハ支那固有の

a t i v e N k : B a n

J

銀号ガ加入スル組合即チ

u i l d G

ヲ銀行忠、

信堂卜称ス,即チコ〉ニ「銀行」トハ個々

(11)

Na t   v i   e Ban

k.ノ集レJ

レ d i l u G

ノ意也,個々

ノ Bank

其物ニアラズ(武藤

1918

年,第

5 2

1

号,

120

ページ) , 

と述べている

o

~.... (注)

広東は,

1842

年の南京条約 に基づ いて,清国が開港した

5

港の一つであり,

1853

年には英国系の

l a t n i e r O Bank  o r ‑ C p

o r a t i o

n

が,翌

4 5

年には

Agra &  U n   d e t i S

e r v i c e

  Bank

及び

e d C h a r t e r e   i l n t c a r M e

Bank    f o a i d n l

, 

Lopdon  &  Chha

の 両 行 が 同地に支屈を開設した(石井

1979

年,第

5 4

1

24‑38

ページ)。しかし第

2

次アヘン戦

(1856‑58)

中に何れも閉鎖され,その

1900

年代の初めまでγ外国パンクが同地に 再進出した形跡はない。

このように,外国パンクの広東支庖開設期 間はわずか

2‑3

年であり,

1827

年に刻ま

〈第

4

表〉

れた「銀行会館」との関連性をみいだすこと は困難である

o

したがって,

bank

の訳語と しての「銀行」の発祥地は,おそらく香港で あろうと推測される。

東アジアに進出した西欧のパンクや商社は 現地語の理解が困難なため,清国人を買弁(

Comprador)

として使用するのを通例とした。

買 弁 は 注 )

7

当然の乙とながら,外国語に 通じていたので,彼らの手によって,

bank 

の訳語に「銀行」が使われ出したのかもしれ ない。その場所が,前述のように香港であっ た可能性が高いが,英国に割譲される以前の 香港は,小さな漁港にすぎなかったので,同 地に進出した外国パンクが雇用した買弁に隣 接地広東の出身者が含まれていたことも十分 考えられることである。しかし,これらの推 測を裏付けるに足る史料の検索は今後に残さ れた課題であるD

欧 州 系 パ ン ク の ア ジ ア 進 出 状 況 (1  8  6  0

年迄に支屈を開設したもの)

設 立 特 許 香 港 広 東 上 海

ポ ン ー ン / 刀

O

r i e n t a l

  Bank    o n t i r a p o o r C 1842  1851  1845  1853  1847 

Agra  &  U n   d e t i   e c i r v e S Bank  1833  1856  1854  1858  C

h a r t e r e d

  e   l t i n c a r M e Bank    f o   a i d n I ,  1853  1857  1857  1854  1854  1855  London  and  China 

C h a r t e r e d

  Bank    f o   a i d n l ,  a   l i r a s t A u 1858  1853  1859  一 1858  1859  and  China 

Commercial  Bank    f o   a i d n l 1845  1864  1860  1860 

(注)銀行名は

1860

年当時のもの

(資料)石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編

J W (

経済学論集』第

4 5

巻第

1

号・第

3

号) から作成。

V 米国の N ational  Currency  Act 

「銀行」という訳語を定着させる契機とな った明治

5

年の「国立銀行条例」は,米国の

N a t i o n a l

  Banking  System 

(国法銀行制度)

をわが国に導入することを目的として制定さ れたものであるが,高垣博士の指摘している ように,その典拠については,不正確な記述 が少なくないので,明確にする必要がある。

(12)

高垣博士は次のように指摘している。

日本で,国立銀行の乙とを規定する母胎と なったアメリカの法律は,

I

全国通貨法

J An  Act  o   t e   i d v r o p N  a t   l a n o i r e n c y C u r

と いうのであって,全国的に共通する確実な 通貨を供給する乙とを目的としたものであ る。決して,

N  a t   l a n o i Bank  Act

もしくは

Banking  Act

と称するものが制定されてい

たのではない。一般にはこの名称の法律があ り,それが日本に移入されて国立銀行条例と なったように考えられているが,決してそう ではなし吋高垣

1972

年,

232

ページ)0 

米国の国法銀行制度は,

1863

2

5 2

日 に制定された法律(その正式名称は,

An Act  t

o

  e   i d v r o p a n   l a n o i t a Currency.  d   c u r e s e by  a P   g e e d l   f o d   n i t e U   s e a t t S .   c k s t o S and  t

o

    e i d o v p r   r o f e   h t   n o t i a l u c r i C and  e ‑ R demptio

n. 

e r e o f   t h

)によって創設された

. 8 . U (

C o n g r e s s .

  1 86  3 )

。 同法は全文

6 5

か条から

成っており,一般に

l n a o i t a N Currency  Act  o

f

  1  8  6  3 (  i  1  8  6  3

年全国通貨法

J

)または

Currency  Act    f o 1 8 6 3   (  i  1 8 6 3

年通貨法J

)

と呼ばれていた。

この法律によれば,国法銀行は最低

5

万ド ルの資本金を保有し,その

3

分の

l

以上を合 (注)

衆 国 国 債 (

U n i t e d     s e t a t S t o c k s )   S

に投下し,その国債を

r l e r o l m p t C o   f o   h e t

Currency 

(通貨監督官=

i1863

年全国通

貨法

J

~[基づいて創設)に預託する o 通貨監 督官は国法銀行の預託した国債の時価の9割 (但し,額面金額の9割以下)に相当する銀 行券を国法銀行に交付する。全国で発行され る銀行券の総額は3億ドルとし,その半額は 人口に応じて,残りの半額は既存銀行の資本 金及び資産の高に応じて諸州民分配されるも のとし, 1銀行の最高発行額はその払込資本

金額以内とされた。発券銀行は請求に応じて 合法貨幣にて銀行券を兇換する責を負い,も し,その兇換を怠るときは政府は発行銀行の 為に保管する国債を没収し,自ら免換に当た る

o

以上のように,国法銀行は銀行券の発行 が認められるほか,一定の制限の下~[,通常 の商業銀行業務も認められた(奥田

1926

年)。

乙うして国法銀行制度はスタートしたが,

i1863

年全国通貨法」 にはいくつかの不備

な点が明らかになったうえ,州法銀行から国 法銀行への転換を促すほどの利点は備えてい なかった。このため,国法銀行の設立は当初 の

9

か月間で

1 3 4

行,

6 1

か月間で

450

行記満 たない有様であった。乙うした事態に対処す

るため,

i1863

年全国通貨法」は制定後わ

ずか1年余で全面改正されるに至った。

改正法は

1864

6

3

日比成立した

o

An  Act    o t e   i d o v p r a N   l n a o i t a Currency 

, 

s

e c u r e d

  by  a P e   g e d l   U f o d   n i t e   s e t a t S Bonds

' 

and    o t   d e v i r o p   r o f   n o i t a l u c r i C and  Redemp‑

t i o n

    f o e e r h t

(当時の通称は,

  l n a o i a t N Currency  Act    f o 1 864

あるいは

Currency Act    f o 1864)

がそれである

s s g r e C o n . S . C U

1866  : R n   r t s o o b e 1968  PP  . 58‑60) 。 N

a t i o n a l

  r e n c y   C u r Act    f o 186    ( 4 i 1864

全国通貨法

J

)は全文

4 6

か条から成るもので,

形式的には

i1863

年全国通貨法

J

~L.対する 改正法ではなく,それに代位するものであっ た点K注意しなければならない。すなわち「

1864

年全国通貨法」の制定と同時に

i1863

年全国通貨法」は失効したのである

(1864

年全国通貨法第

2 6

条)。 この点が,その後

における

i1864

年全国通貨法」の名称変更

と関連して,重要な意味をもってくる

o

1863

年及び

1864

年の全国通貨法に基づ いて設立された銀行は,法文上はu

‑ i c o s s a a

t i o n

    r o f   n g y i r r c a on  t e   h   s e s i n u s b   banking"  f o

と記述されているが,一般に吠

l a n o i t a n bank" 

(13)

と呼ばれていた。そこで

r1864

年全国通貨 法」は,

1874

6 月 2 0

日に成立した法律,

即ち

An a   t c   g n i x i f   e h t amount    f o d   U n i t e S

t a t e s

  s   e t n o •   g i n d v i r o p   r o f   n o i a r t u b i r t s i d e o

f

  t h e   ‑ l a n o i t a n bank    c u r r e n c y . and    r o f o

t h e r

  e s   u r p o s p

によって名称がU

‑ l a n i o t a N Bank  Act"

と改められた。

(U .   . 8 s   C o n g r e s

1875)

。かくて,

r186  4

年全国通貨法

J

は,

1874

6

0 2

日以降

r

国法銀行法」と呼 ばれることとなったのである。乙のことは,

r1863

年全国通貨法」はもとより,

r1864 

年全国通貨法」も,

1874

6

9 1

日以前に は

r

国法銀行法」でなかった乙とを裏付け るものである。確かに,米固における文献に おいてさえ,

  l a n o i t a N BankinεAct

とか

o ‑ a t i N n

a l

  Bank  Act    f o 1864

といった用語も見受

けられるが,いう迄もなく正しい用法ではな

し 、 。

なお,

  l a n o i t a N Currency  Act    f o 1  8  6  4  (1874

年に

l a n o i t a N Bank  Act

と改称)に 基づいて設立された銀行(国法銀行)以外の 金融機関が,その商号中に

l a n o i t a n

の言葉を 用いる乙とは,

1873

3

3

日の法律

( Chap.  CCLXIX  ) 

3

条によって禁

止された

o

しかし,

  l a n o i t a n bank

がその商 号中~c:.

l a n o i t a n

の言葉を入れることが義務付 けられたのは,

1959

9

8

日の法律

(p  L 86‑230 

)が成立して以降の乙とであ

. . 8 U (   n g r e s s C o 1873.  1959) 。

M

わが国の「国立銀行条例jの典拠

明治維新後,新政府は欧米諸国の近代的諸 制度の導入を急いだ。金融制度に関しては,

r~ 各国』パンクノ法ニ徴ヒテ金銀融通自在ナ ラシムルタメ

J

(~明治財政史』第 12港,

497

ページ)明治

2

年に設立された為替会

社が僅か数年で失敗した後をうけて,明治

5

年に制定されたのが「国立銀行条例」であっ た。

幕末維新期の不安定な政治経済状勢の下に あって日本の幣制は混乱し,物価は不安定で あり,国民生活にも外国貿易にも著しい障害 となっていた

c

こうした諸問題に対処するに は貨幣の製造,紙幣及び公債の発行計画,金 融機関の設立などに万全を期さなくてはなら ない。それにはまず,新興国家で財政,貨幣 制度の進歩した米国へ行って,その実状を視 察研究する乙とが緊要であった。乙の点に着 目した大蔵少輔伊藤博文(

184  1‑1909)

は 明治

3

0 1

2 8

日,政府にその旨の建白書を 提出した。

建白書はただちに政府に受け入れられ,伊 藤博文は福地源一郎,芳川顕正,吉田二郎等 の随員数名のほか,為替会社の社員等を伴っ て,同年1

1

2

日横浜を出帆し,サンフラン シスコ,ニューヨークを経て,

2 1

0 1

日ワシ ントンに到着した<l

r

伊藤博文伝』上巻,

51

..

520

ページ)。 随員の一人芳川顕正は 当時の模様を次のように語っている。

亜米利加に行った所の目的たるや,亜米利 加のグリーン・パックの制度。紙幣条例を 発行して,国立銀行を立て〉紙幣の始末を した ーそれは伊藤が渡海前に当って,

福地がナショナル・ゐレンシー・アクトと いう者を翻訳した,それによって井上さん 始め略ぼ銀行の事が分って,何さま是は実 地l乙就て研究しなければならぬという訳。

所がまづ国立銀行を立てるの順序,並

ζ l

公 債を発行するには如何にして発行するか,

如何なる形にして,如何に利益を高くする か,そんな事もよく分らぬ,故にそれを研 究する為に,伊藤は派出された。(中略〉そ れで伊藤が毎日吾々 3人を連れて大蔵省に

(14)

行って研究した。福地は銀行をやる,吉田 はスペーシー・パンクをやる。吾輩が公債 を発行する制度を調べて来る。それで大蔵 省に毎日出て行って,いろいろ書物を首っ て,皆翻訳して,一方に於てはナショナル

・カレンシー・アクトを見て,翻訳と原書 を対照して質問をし,書物を段 々稽古した。

其時分i乙当って,丁度亜米利加の論を聞い て始めて伊藤が感服して,金本位の論を研 究した。是は沢山あって,吾々も筆を執り,

福地が筆を執りして,始めて講釈を聞いて,

どうしても金貨本位にしなければならぬと 云ふ事を,伊藤が建議をした(

r

世外候事

歴維新財政談』中巻

197‑198

ページ)。

乙のような調査研究民基づいて,伊藤博文 は明治

3

年1

2

月29 日付で政府に建議書を提出 した。ワシントンに到着してからわずが

9 1

日 後であった

o

乙の建議の内容は,それまで日 本で考えられていた方針とは異なり,①貨幣 制度は金貨本位制を採用する乙と,②金札引 換公債証書を発行する乙と,③紙幣発行会社 を設立すること,を勧告するものであった。

とくに

i

彼国『ナショナル・パンク』ノ制 度ニ倣ヒテ紙幣発行ノ特権ヲ有スル銀行ヲ本 邦ニ設立シテ政府紙幣ヲ鎖却スルト同時ニ金 融ヲ疎通スルノ機関タラシメ一挙両得ノ策ニ 出テントスルノ議ニ外ナラス伊藤少輔ハ右意 見書ト共ニ米国紙幣条例

(1864

年官版)ナ ルー書ヲ参考トシテ送達

J

(r明治財政史』第

3 1

8 1

ページ )してきた。しかも,建議書は

「米国に於て取建候ナシオナルパンク(紙幣 条例に遵て取建たる会社なり)に至りては実 に万国無比の良法

ζ l

て,実地施行の際其弊害 を予防し,之を我邦に採用仕候はぐ,将来富 国の基本とも成相可申候」と強い調子で進言 している

W (

伊藤博文伝』上巻,

525

ページ)。

と乙ろで,伊藤博文が渡米したのは明治

3

年即ち西暦

1870

年の乙とで,米国の

i1864

年全国通貨法

l a o n t i a ( N J Currency  Act    f o

1864)

施行後であるが,未だ「団法銀行法

J

(N  a   l a n o i t Bank  Act 

)と改称(

1874

年) されていない。しかしながら,

ti o l   n a

Currency  Act    f o 1 863

はすでに失効してい

o

したがって,伊藤博文が,明治

3

年1

2

2

9

日に送った建議書に添付されていた「米国 紙幣条例

J (1  b64

年官版)の原典が,

‑ o i t a N n

a l

  Currency  Act    f o 1864

であったことは

多 言 を 要 し な い で あ ろ う 注)9

一方,わが国の「国立銀行条例」及び「国 立銀行成規」の草案とみられる「紙幣条例」

及び「紙幣会社成規」が,東京大学名誉教授 土屋喬雄博士によって銭幣館主田中啓文氏所 蔵資料のなかから発見され,後年同一内容の 史料が早稲田大学図書館にも所蔵されている 乙とが,高垣博士によって紹介された(土屋

1941

年:高垣

1955

年)0 

i

紙幣条例

J

及び

「紙幣会社成規」は,美濃紙判木版刷り,表

0 1

0 2

字詰め,

7 4

枚綴りの和本小冊子で,日 付も奥付もなく,何人の訳編になるものかも 不明の由である。

筆者は,東京大学法学部付属外国法文献セ ンターで,

1860

年代の米国連邦法規集

( The    s t e t u a S t   t a Large  f   t o   e h U n i t e d   S

t a t e

    ) 5 <U .   . S s   C o n g r e s 1 86  3   ; 1 866  >か

1863

年版及び

1864

年版の

a l n o i t N a

Currency  Act

を複写し,上記「紙幣条例」

との比較検討を行なった。その結果

i

紙幣 条例

J

(全文

6 2

か条)は

a l n o i a t N Currency 

Act    f o 1864 

(全文

4 6

か条)の翻訳(但し,

一部抄訳)に若干の字句修正(例えば,米国 の地名に代えて,日本の地名を入れるなど) を行なったものであることが判明した。いま 両者の対応関係を示すと次の通りである。

(15)

N a t i o n a l

  Currency  Act    f o 1864 

「紙幣条例」

S e c .

  . . 1

HHH・‑…...・H・‑第

1

S e c .

  5 5

HH・‑…HH・..…第

5 5

S

e c .

    6 5 . 

•••• •••••••• ••••• ...第 6 5

S

e c .

    7 5 .  S

e c .

  8 5

HH・..…HH・‑…第

7 5

S e c .

  1 6

・...・H・‑…HH・ 第

0 6

S

e c .   6 2  

S e c .

  . . 3 6

H・...・H・....・H・‑第

1 6

S

e c .

  . . . 4 6

HHH・...・H・..第

2 6

N a t i o n a l

  Currency  Act    f o 1864 の c . S e 5

6

7 5

は訴訟手続を規定したもので,これが

「紙幣条例」では第

6 5

1

か条に統合されて いる

o

また,前者の

. c S e 2 6

は,

  a l n o t i a N

Currency  Act    f o 1 863

の失効を規定したも のである

o

その他の点では,条項数,順序,

内容とも両者は対応している

o

一方,

  l n a o i t N a Currency  Act    f o 1863 

(全文

5 6

か条)は,

  i o n a l N a t Currency  Act  o

f

  1864 

~L 比較して,条項数が 1 か条多い

うえ,内容的にも条項の配列もかなり異なっ ている。従って,

l   t i o n a N a   C u r r e n c y Act  o

f

  1863

と「紙幣条例」との関連性はきわめ て薄弱である。

む す び

Bank

の訳語として今日わが国で使用され ている「銀行」は,結局,日本で創出された ものではなく,香港から入って来たものであ る乙とが,史実によって立証された。とくに

1866

年香港発行の「英華字典」は発行直後 日本に輸入され,乙れに着目した幕府の訳官

塩田三郎がいち早く利用した乙とが「故塩田 三郎寄贈本

J

(国会図書館蔵)によって確認さ れ,また,大蔵省においても,明治

5

年の

「国立銀行条例

J

の命名に当ってこれを参照 していた乙とが「紙幣寮官籍」本(内閣文庫 蔵)によって立証されたのである

o

こうして

「銀行」の渡来したルート(

t e ) r o u

が香港 である乙とは解明された。しかし,そのルー ツ (

s ) t o r o

は香港と推測されるが,乙れを 裏付けるに足る史実は未確認である

o

Bank

の訳語として

r

銀行

J

が定着する

契機となったのは「国立銀行条例」であるが 同条例の典拠となった米国の法律の当時にお ける名称が,

l   a n o i a t N Bank  Act

でなく,

N a t i o n a l

  Currency  Act    f o 1 864

であった

ことも,制定当時及びその後の関連法を追跡 する乙とによって明らかになった。乙の点は 国民性の違いもあり,米国人学者の研究論文 においてさえ,しばしば不正確な記述が見受 けられるが,歴史的事実に対しては,研究者 として正しい認識と記述が重要な乙とはいう 迄もない。

なお,明治

5

年の「国立銀行条例」は「銀 行」という言葉が日本語として定着する契機 となったが,乙れに類似した現象が昭和54年 5月に誕生した「譲渡性預金

J

(日本版CD)  において観察される。もともと,

C D 

( N e g o t i a b l e

    s e t a c i f i t r e C   f o s i t D e p o

の略) は

1961

2

月,米国の

t s r i F   l a n i o t a N C i .   y t Bank    New  f o York 

(現在の

k n a i b t i C , N .   ) . A

が開発したもので,長い間日本では「譲渡可 能定期預金証書

J

などと訳されていた。と乙 ろが,乙の種預金を日本へ導入するに当り,

監督官庁である大蔵省で「譲渡性預金

J

と命 名して以来,乙の呼称が一般化したのである。

(

)10

新しい言葉が社会的に認知される 過程を示すものとして興味深い。

(16)

(注)

1 .  

国立公文書館(内閣文庫)のほか,国立 国会図書館,財団法人東洋文庫,東京大学 法学部付属外国法文献センター,長崎大学 付属図書館経済学部分館,長崎県立長崎図 書館などを利用した。

2 .

 

美国平文先生編訳 『和英語林集成』

の初版

(1867

年)及び第

2

(1872

年)

は何れも上海で印刷されたものである。

3 .

 

羊子林中国銀行東京事務所首席代表によ れば,中国で最初に「銀行」という言葉が 現われるのは北宋時代の

1057

年(嘉祐

3

年)のことで, w 景定建康史~(江蘇嘉慶

6

年〉にその記述がみられるという

W (

本経済新聞~

1984

8

月2

1

日)。

4

.

 

年表によれば,戚豊

7

年は西暦

1857

年 であり,西暦

1856

年は戚豊

6

年であるが 乙乙では『智環啓蒙熟課初歩』の扉の記載 に従った。なお,同書序文(英文)の末尾

には,

t s 1 December  1856

と記されてい

る。

5,  Bank‑note 

~C 対応する日本語(訳語)

は,当初「パンクノーテ

J W (

中外新聞』

明治

2

5

月2

0

日など)が多いが「国立銀 行条例

J

(明治

5

年1

1

月制定)では「銀行紙 幣

J

となり

r

日本銀行条例

J

(明治1

5

6

月制定)では兇換「銀行券

J

と変わり,

今日に至っている。

6 .

 

南京条約はアヘン戦争(

1832

年.‑1842 年)終了後,

1842

8

2 9

日,南京で英 国と清国の聞に締結された条約。香港の割 譲,広東,慶門,福州,寧波,上海の開港,

賠償金の支払いなどを約した。なお,香港 は,

1841

年 l月2

0

日に締結した川鼻条約 lとより事実上英国に割譲されたが,清国政 府は乙れを承認していなかった。

7 .

 

買弁の原語はスペイン語の

Compradore

に由来する。もともとスペイン商人が清国 との通商を行なうために清国人を雇入れた のに始まり,その後欧米商人の多くがこれ にならったもの。買弁は一種の使用人であ るが,自己の名儀を以って会社のために売 買し,一定の手数料を受取る

o

しかも,取 引の対象は現地人に限定されていた(根岸

倍「支那ニ於ケル外国銀行ト其改良

J(

2)

『国民経済雑誌』第

5

6

号,

1908

年,

1

2

ページ)。

8 .

 

南北戦争頃まで,あるいはそれより若干 後年まで,政府債券は一般に

t t k   o c t s

" と 呼ばれていた

(Robertson 1 968

, 

  3 . P 6

, 

n

o t e

  4) 。

9 .

 

伊藤博文が,渡米前に福地源一郎に翻訳 させた「ナショナル・カレンシー・アクト」

(

W

世外候事歴維新財政談』中巻

197

ページ) が,

l   a o n i a t N Currency  Act の 1863

年版 であったか,

1864

年版であったかは明ら かでないが,渡米後,

1864

年版の翻訳を 送付している乙とから判断すると,渡米前 のものは

1863

年版であった可能性が大きい。

1 0

.

これに先だち,大蔵省は,昭和5

4

3

3

0

日,銀行局長通達「譲渡性預金の取扱い について

J

(蔵銀第

650

号)を発表した。

〔参考文献〕

石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編一一

1870

80

年代の日本,中国を中心;乙

J ) 1 (

(

2 )

 

(東京大学経済学会『経済学論集』第

4

5

1

号・

2

号,

1979

4

月・

0 1

月) 英国墨黒士先生著・永峰秀樹訓訳『華英字典』

( E h i s n g l α ηd C   n e s e h i D た n o i t αr ) y

東京

明治1

4

(1881

年)く国立国会図書館蔵>

奥田勲『米国銀行制度発達史』内外出版大

正 5 1

(1926

年)

大蔵省造幣局『造幣局百年史~ ,昭和5

1

参照

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