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国 語 学 概 論

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国語学概論

︵昭和55年10月31日受理︶

 熊が濫の中をぐるぐる回るのは︑濫によって行動が制約されているからである︒

 法律ができてから人間は︑その法律に対して︑自分の生きていることを釈明する様に喋ってきた︒だから言葉というのは︑法律の

壁の中を回る熊に似ている︒人は法律がなければ喋ることができないし︑法律に対してだけ言葉というのは向き合っているのである︒

 法律も言葉も共に具体的な︑現実的な生活性である︒生きることの︑生きてきたことの︑即ち歴史というのはそうした表面性なの

である︒  ア・イ・ウといった音や︑単語や句や文章が明確である方がいい︒それは言葉が法律によって構成されているからであろう︒法律

は時により人間的であるから︑同様に言葉も生活の具体性である︒人間は生命を合法化できる奇妙な動物なのである︒生活が道路を

作ったり︑種を播いたり︑家を建てたりするように言葉も︿分節化﹀して不思議ではない︒鍬や鎌だったり︑楯や矛だったりした︒

生活の道具はその場その場で適当に違ってこよう︒いや︿分節化﹀などを気にするのは︑蓮実重彦氏風には︑時には︿絶対性﹀を期

待しているせいなので︑言葉というのは元々︑法律に対して自己弁解する道具なのである︒だからこの絶対性みたいなものも︑法律

が作る人間の影なのである︒その影を法律も被法律も共に信じているわけである︒

 法の成育した季節に真に美しいものとやさしいものが失われた︒残ったものは歴史だけである︒だから歴史には真に美しい言葉も

やさしい言葉も含まれていない︒大分美しい言葉を残したキリストでも真に美しい言葉はその処刑の時に持って行ってしまった︒残っ

       ﹃

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  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       二

たのは法律歴史に似た言葉だけである︒

 昔︑犬の言う所を掘ったら金が出てきたことがあったが︑今は︑役所に勤めると金が出てくる規約になっている︒もう治外圏から

は金も言葉も出てこないのである︒家庭は言葉を法制から守る牙城ではなく︑言葉のゴミ捨場になっている︒言葉が臭気を立てる囲

いである︒家庭という残された唯一の共同体性も言葉の分節化を阻止できない︒生活が法制化を引き受けてしまっている故であろう︒

却って︑法律の記録という永遠性︑生活の保持性という実質の中でこそ︿分節化﹀があるのであろう︒即ち分節化も法律への信仰に

よっている︒

 人は動物圏内から外れることはできるが︑法律の圏内から外れることはできない︒この関係を︿文明﹀という︒だから無化される

ものは確実にあったのであり︑欠落は文字通り存在したのである︒この欠落︑無と不幸の性質︑そこから言葉が︑言葉である法制を

持つ時だけが辛うじて1無の法制化が言葉なのかも知れない︒

 言葉は不幸という︿親﹀から生まれる︒産まれた子は法律と情交する︒親が不幸である限り子は幸福で甘えん坊である︒日本では

未だかって親の言葉は存在しなかった︒ここには甘えん坊で我が儘な言葉があるだけである︒無という欠落を忘却して︑文明という

法律に処するだけの情報が氾濫し︑文化が繁栄しているのは︑動物への甘えである︒

 処刑死というのは全的な被法律であるが︑その無の不幸を予定として喋ることは遺言であり︑だからキリストは言葉を遺言のよう

に置いて行った︒それがバイブルという文化になったのだから彼も驚いているであろう︒これも文化が持つ無︑欠落への甘えである︒

 おそらく言葉に関する学問だけが︑真実に神秘的な能力を必要とするだろう︒﹁われわれは︑精緻さが欠けているから︑科学的にな

るだろう﹂とバルトが言ったと言うが︑多分︑言葉の学問は成立が不可能だろう︒人間における欠落巨動物にとって一番退屈なもの

は︿真理﹀である︒

 言葉というのはいずれにしろ始めるしかないわけで︑始めるというのは脱落のようにしかない︒この︿始められること﹀︑生成︑創

造というのは矛盾の一切の名である︒矛盾の一切の名であることなしに︿生成﹀されるものはない︒

 真理も証明されるようにあるのではなくて︑始められるようにあるのである︒そう始められたら︑その行程のどこを切っても真理

が姿をみせるだろう︒中村雄二郎氏は﹃共通感覚論﹄に於いて戸坂潤氏の﹁丁度真理とは真理を保持し高めるもののことであるよう

に︑常識を保持し高めるもののことだ︒﹂というのを引用し︑﹁そのようなものとしての常識を︑戸坂潤は︑そこまで高めるべき目標

(3)

あるいは水準としての常識だといった︒常識がそのようにみずから高まる力と可能性をもっているのは︑共通感覚がみずからを組み

換える力と可能性をもっているからである︒﹂といっている︒だから真理というのは方向であり︑行程であるといってよさそうである

が︑そう言って︑何とこの気怠るさ︒

 とにかく︿共通感覚﹀が基礎であれば︑﹁みずから高まる力と可能性をもつ﹂わけであろう︒なんのことはなく︑それが知性であ

り︑もっと本質的には常識を喋っているだけなのであろう︒︿真理﹀とはコモンセンスの自同律なのだということなのであろう︒喋っ

ていけば一切が真理であるようなもの︑それだけが懐しい知性というものである︒

 あるいは人は︿真理﹀などというものを目指すことなどありうるわけではなく︑人は︿真理﹀に対してだけは選びとられる以外に

ないのかも知れない︒いわば自同律といってきたことの言い替えである︒ミヒャエル・エンデの﹃モモ﹄という童話?の中で﹁ミチ

ハ ワタシノナカニアリマス﹂というカメがでてくる︒文明人のスピードがカメに追いつくことは決してあるまい︒

 学問の幸福ということはない︒思考である限り不幸にしか行きつかないのである︒不幸を再生産できる場合だけ学問は幸福なので

あろう︒文明の性質に属する言語に充足させられる︿魂﹀というのはおそらく存在しないであろう︒

 この世でもっとも道化た動物は︑学問が面白いという学者ではないか︒教育が楽しいという教育者は日の丸を持った猿に似ている︒

 正しい学問そんなものが何処にある︒人が生きるというのは︑法律から生存を引き抜いた場合だけである︒

 滑稽な人間というのは︑人問のままで法律の部屋に住もうとするからである︒人間が法律の部屋に住むことはできないし︑法律の

部屋に住んでいるのは法律だけである︒

 生活の都合で︵秩序に順って︶する学問などあるわけはない︒︿考える﹀とは生活に似ないせいである︒近代生活は生まれてそのま

ま文明の中に入る︒︿考える﹀という項目はない︒

﹃新約聖書物語﹄の中で︑犬養道子氏は次の様な書き方をされる︒

イエスの言葉を聞いてなおそれを守らぬ者を︑しかしイエスは審かない︒なぜなら彼の使命は︑審くためではなく︑救うための使

命だからであり︑審く者は別に存在する︒別に存在する審くものとは何か︒イエスの語づた言葉そのものがそれである︒それらの

 国語学概論︵渡部︶       三

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  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       −         四

 言葉こそ︑最後の時に︑おのおのの人を審く︒

と︑そして︑犬養氏はくり返し書かれたあの言葉をまた書きつける︒

 ⁝⁝元始に/御言葉があった/御言葉は神であった/御言葉は天父なる神と向きあっていた/万物は/彼︑御言葉によって創造ら

れた︒  これを役人によって書かれた古事記や万葉集という不幸と較べてみるとよい︒この日本の文化史には言葉によって審かれるものな

どかすかにもありはしない︒審くものは法律という外在のものだけである︒だから犬養氏の発想は殆ど労働の極度の強さによってい

よう︒こうした表現は多分︑一度も日本に出現したことはなかった︒こう置かれてしまうと︑言葉に関する言説の一切は終息してし

まうだろう︒あとは︿始める﹀しかないわけであるが︑言葉は始めるしかないといった︑その︿始める﹀の根底が実は﹁御言葉は天

父なる神と向き合っていた﹂という所にある︑ということになるわけである︒

 この時︑人間は自立する︒いかなる欠落に対してか︑ではなく︑欠落そのものの成育のようにである︒これは人間の自立に似て︑

言葉が自立することであり︑法律も文明も関わりなしに︑それ自らを生きようとする︒

 キリストは万葉集のような浮情詩︑相聞の恋歌は作っていない︒言葉である限り︑古事記や万葉集の︑言葉の不幸を許容できない

故である︒

 精緻な言葉があるとしたら欠落が獲得した言葉︑無が生きる言葉ではなかったか︒そこではキリストが社会を失うように︑言葉は

恋を失う︒なぜならこの︿破片ではありえない﹀言葉は動物と文明との中間のように存在するからである︒言葉でないものと言葉が

あるものとの中間のように︑従ってく斜線Vのようにあるだろうからである︒それは宇宙的存在がそれ自らを示す表現である︒

 それは言葉がありうる︑ある︑あるべきものと一致する︒面白いことは精緻さと宇宙の自己表出が似ていることである︒だから精

緻であるもの・斜線の前途は勿論︿制約﹀としての我々の中にはなく︑深い意味・ある重さとしてあるものでもない︒にもかかわら

ずそれが精緻さであって︑宇宙それ自らの表出でありうるのは︑その︿斜線﹀が言語における究極の在り様を持つためであろう︒

 というより︑斜めに線を置きはじめた時︑一切が究極となったのであろう︒

 この世の知識は空欄を埋めるように作用する︒決して埋まらない空欄のあるところでは︑言葉は知識になることはない︒言葉は無

欄に向き合って︑空欄を生きようとする︒知識にならない言葉を文明は許容しない︒社会をそれを反乱のように仕立てる︒

(5)

 キリストはその生存で父親の欄を空欄にしようとする︒その欄に父を入れるのは社会の秩序である︒﹁人の子となって時と歴史の中

に入り生活し死に打ち克って﹂︵﹃新約聖書物語﹂使徒行伝︶というのは文明に拒否的にだけ存在する︿無﹀が歴史という文明の性質

に生き伸びる時の様相で︑依然として父親の空欄のままである︒それがキリスト的︿言葉﹀なのであり︑なんのことはなく︑言葉と

は無が文明に姿を現わした被虐性である︒

 犬養氏に沿っていうと︑

 天父はあり余るほどに滋る自己の生命のうちに︑自己の﹁言葉﹂  生き︑滋る実在  を生み︑天父と﹁言葉﹂の相互愛及び認

 識が︑みたび︑生き滋る実在となる︒この言わば二者を結ぶきずなを聖霊と呼ぶ︒

という風になる︒私は﹁天父﹂を知らない︒︿無﹀といってきたことも︑文字通りそれはない︒ただ確実にありえたことは貧窮農耕生

産共同体であり︑それが律令的崩壊したことである︒これは文明と歴史との確実な欠落である︒私はそこを︿貧窮農耕生産共同体崩

壊の悲しみのエネルギー﹀と言いつづけてきた︒悲しみのエネルギーを疑うことはできない︒この悲しみのエネルギーは右の﹁天父﹂

に似ている︒

 ︿捨てる﹀1世を捨てて従え︑という言葉の︿捨てる﹀とは持たないことの比喩ではなかったか︒生産共同体における﹁法る実在﹂

は文明と歴史における富の不可能性としてあろう︒共同体は法るほど歴史から欠落する︒

 共同体崩壊の悲しみのエネルギーが﹁言葉を生み﹂︑両者の相互愛及び﹁みたび生き︑法る実在となる﹂︒言葉は天父に向き合って

自立する︒言葉は生産共同体崩壊の悲しみのエネルギーの中に生まれ︑生産共同体崩壊の悲しみのエネルギーを生きる︒

 簡単なことで︑言葉が液る生命で︑生命が言葉のような関係で︑だから言葉を書きつけて行けばいい︒︿罪﹀とはその行為の切断に

関わる一切であるということになる︒ここではもはや﹁審き﹂は知るところではない︒

 ﹁光あれど闇これを悟らざりき﹂では倒立してしまう︒光であるものが闇を忘れたのである︒それ以外の事実がどこにある︒文明で

ある故に生産共同体の悲劇は姿を隠したのである︒

 その闇とはまた︿罪﹀と︿呪い﹀の性質でもある︒﹃詩篇二十二﹄風には虫けらの如く/人とも見えず/人間の屑/人間の恥という

具合であった︒忘れ去られた人間性ではなく︑残った動物性なのである︒罪と呪いの説話にでも相応しい言葉が私にもおぞましくな

いことはない︒もう一回犬養氏を引用しよう︒

 国語学概論︵渡部︶       五

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  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       六

 苦のさなかにあっての祈りへの答は︑確実なリアリティである︒おそらく地上での生におけるたったひとつの確実なリアリティで

 ある︒それは体験である︒まがうことなき︑リアルな体験である︒

と︑一体誰がこう悲壮にいうことができたか︒神に向き合っての答︑これは言葉なのであろうが︑その言葉は唯一の生存のリアリティ

なのであるというのである︒

 光源氏とその恋人たちの言葉など︑喪失の共犯にすぎないのであろう︒源氏を審くものがあればそれは社会であり︑源氏ならずと

も人は言葉に審かれることはなかった︒光源氏とは名の通り闇を忘れてあるしかないから︑言葉の拒否としてしか作用しないのであ

る︒源氏物語の︑そして文学の学問というのがまた源氏物語の︑文学の言葉を社会性︑一般性に位置づける︒審くのは社会という秩

序なのである︒こうして学問と研究は文学の言葉を破壊してきた︒

 だけど︑ほかならぬその言葉によって︑人生を失敗したのもキリストであった︒とはいうものの殆ど稀れに文のうまい人がいる︒

言葉のいい人がいる︒それはいなければならないのではないか︒そして文のうまい人と下手な人︑言葉のいい人とよくない人との問

には無限の隔たりがあるように思われる︒

 武満徹氏は文がうまいと思う︒

 ︵私が︶作曲家として音を扱う時︑それは︑ル・クレジオが﹃物質的仇惣﹄の中で︑﹁何ものも︑ぽくにとっては言語以外の何もの

 もない︒それが唯一の問題であり︑あるいはむしろ︑唯一の現実である︒すべてがその中では協和している︒ぽくはぽくの国語の

 中に生き︑その国語こそぼくを構築するものである︒言葉は達成であって︑道具ではない︒﹂

 と記しているところの言葉と同じものなのです︒

という︒ここでは音は言葉に似てい︑とともに︑言葉に音に似ている︒

 ︿その国語こそぽくを構築するものである﹀それにしてもクレジオの言葉はなんとパウロの言葉に似ているではないか︒

 右は﹃音・ことば・人間﹄からであるが︑その六九〜七〇頁に︑

 ︵私は︶昔から樹が好きでした︒それも︑灌木の茂みよりは喬木の林を︑寧ろそれよりは天空へ向かって讐え立つ一本の巨樹に魅せ

(7)

 られます︒そして︑吃立するその姿に︑私は︑宗教的な感情のようなものを抱いていることに気附くのです︒

とあって︑︿宗教的感情が木に似ている﹀ことを言っていて︑

 クレジオがロストから︿死﹀はと訊ねられ︑﹁樹がわれわれに与えるものとは反対﹂のもの

 ︿神﹀については︑

 ﹁途方もない樹︑ものすごく巨大な樹でしょう﹂

といったという所を挙げている︒宗教感情が木に似ていたら︑そう樹は神であった︒死は木の反対であったら生は木に似ている︒

 それはたぶん生物としての人類の記憶というようなことに関わりをもつでしょう︒いずれにせよそうしたものは習慣や好みに支配

 され︑時間によって培われるものであろうと思います︒

と書く︒語るのは人間のいかなる能力によるのか︒そう木は多分︑文明からの失われた記憶なのであろう︒続いて︑

 樹を見るように︑樹に感ずるように︑︵私は︶音とも触れたいと思います︒樹は︑﹁それこそ存在について充分に語るものである﹂

 からです︒音は単に抽象的な物理的波長ではありません︒

と︑まことに言葉は音に似てい︑音は樹に似てい︑樹は神に似ている︒多分︑神は生産共同体崩壊悲しみのエネルギーに似てい︑言

葉は︑  ︿たぶん生物としての人類の記憶に関わるもの﹀

なのであろう︒それは︿忘れられた記憶﹀︿無﹀から出現する︒︿生物としての人類の記憶﹀というのは動物と人間との斜線である︒

そして多分︑この斜線は︑﹁天空へ向かって讐え立つ﹂ように方向なのであり︑高さなのである︒それは︿木﹀なのであるから疑いよ

うがあるまい︒とはいうものの︑また﹃物質的仇惣﹄から︑次の様な引用も可能であろう︒

 この力には方向がない︑⁝⁝白紙の上に粘っこい鉛筆で描いた黒い矢印︑その前進は自己充足していて︑その動機︑その進展︑終

 末を同時に含んでいる︒あらゆる真実と同様︑この真実は言葉に尽しがたい︒

ということも︑動機や進展 や終末や真実といった概念からの被虐でしかないのだろうか︒多分︑もうそうしたことは考えなくてよ

いだろう︒この﹁方向がない﹂﹁黒い矢印﹂が︑動機︑進展︑終末を同時に含んだ︿力﹀であることは︑人間が生命である限り事実と

してありえよう︒即ちそれは無からの方向なのであり︑そのまま力であると考えていいし︑それを共同体崩壊の悲しみのエネルギー

  国語学概論︵渡部︶       七

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  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号      八

と捉えて︑木の生命︑あるいは動物と人間との関係図式としてみることはできる︒

 このことは﹁ぼくは動物たちの眼に耐えられない︒﹂と始まる章に︑クレジオ自身が知らず知らず触れていることである︒

 勿論この﹁動機︑進展︑終末を同時に含んでいる﹂矢印である点はまた︑

 人生の流れ全体を検討する必要なんかない︒総体というものは語りかけない︒問題なのは細部だ︒一人生の一秒︑だがそれは実に

 豊かな過去と未来を孕んだ一秒であって︑存在について充分に多くのことを告げてくれる︒

と説明してくるのもよい︒方向とは始源そのものであった︒線とは点のことであった︒

 そう︑文明であり︑秩序であり︑総体であり︑体系であるものが語りかけてくることはないだろう︒始源が方向であり︑点としか

存在しない線が宇宙の示現なのであろう︒

 動物や植物は自らに注がれる人間の言葉を戯れのように許容している︒だから言葉というのは自然の歌う人間への子守歌なのであ

ろう︒法律は土への我が儘である︒産むというのは罪なのであり︑人は生まれてきた初源に罪を置いた︒これはうまい考えだ︒かく

して文は動物からの罪となる︒そのうち動物は消滅しよう︒人類は文明という意味だから︒言葉は人間の尻尾となって生きのびる︒

文学などはあることとないこととそう違わない言葉なのである︒学問となって実用化︑生活化する古典などは︿文学﹀ではない︒研

究の対象となるようなものがある限り︑人類の歴史には文学などありはしなかったのである︒研究とは支配であるものの策略である︒

学者は支配を分担する︒

   三  人間という意味で︑言葉は宗教と文学に於いて存在する︒ここでも︑︿方向﹀︿高さ﹀︑いわば倫理とは愚かなるものの喩なのだろう

か︒捨てることが持たないことの喩であったように︒キリストは処刑されただけなのに︑その愚かなものが︿倫理﹀であるのは文明

社会の都合によったのだろうか︒キリストが軽蔑を被ったのだから︑少なくとも同量の軽蔑が人々を浸していたのではなかったろう

か︒人々は軽蔑を愛していたのである︒

 さて宗教も思想も文学も︑そして芸術さえ︑人間性であるものは多分言葉なのである︒とすれば新しい宗教も︑古い思想もない︒

言葉︑言葉︑言葉︒言葉がすべてそれらのリアリティである︒

(9)

 人が農耕生産共同体の崩壊を経て︑法律と科学という文明の中で生活し︑法律の中で生まれる世代が出てくると︑その言葉は法的

性質に依存し︑法的世界の内部ではいかなる言語表現も可能になる︒ここでは言葉は倫理ではなく︑合法性なのである︒言語は外在

となり︑人は言語の不可能の世界に踏み入る︒

 例えば文は主語と述語とよりなる︑という外在化︑文法下ではいかようの文も可能であり︑平等である︒それは︿個性﹀への軽蔑

の如く成立する︒人が︑あることの理解・説明・証明ができるかのように思うのは法律という秩序の性質があるせいである︒法律なし

に文明人の説明できるものは何もない︒

 底の/黒い穴に/何を入れたのか/それを︿私﹀は知らない/蓋を閉ざしてしまった/それが/永遠に︿私﹀から失われる/あり

ながらく無いVもの/全部思い出せるのは/猫くらいのものか︒

 思い出せない言葉は法律に抑圧されているせいである︒その時︑世界は法性を帯びる︒失われた言葉は︿無い﹀︒猫はそこから話し

出す︒無意識から出てくる言葉が法律に似ないのはそのせいである︒

 言葉が外在化した時︑それに伴って自らも外在化し︑︿精神は身体に変化﹀しよう︒犯罪者とアリバイに深い関係があるのは︑アリ

バイが社会性を保証する故である︒社会性を保証されてだけ人間の精神は安定する︒アウグスチヌス風に︿精神は身体に変化させら

れない﹀とすれば︑いつでも精神は外在からの︿被虐﹀としてあるだろう︒即ち心は形に似ている︒それだってアウグスチヌスのよう

に︿精神全体は身体の各部分に同時に存在する﹀と言ってかまわないのではないか︒

 外在から被虐へという衝激は︑心がアリバイを求めて外在に安住する時間も要求するから︑その時間内が意識であり︑その意識目

心が出口を探そうとしているうごめきの描写が文学というものなのであろう︒宗教も思想も芸術も︒だから文学とは被虐の様相であ

る︒文学にはアリバイがない︒

 この被虐というのは人間の歴史に於いてどんな構図なのであろうか︒この構図は論理と情念の重なったものでなければなるまい︒

 この構図は生産共同体と法治性の言語関係である︒生産共同体では言葉の全体と生活の全体が似ていた︒生活性言語によって︿無

い﹀ものにされたのはこの共同性言語である︒その生活性言語が法治性言語に対する時の関係にキリストは︿悪魔﹀をみた︒即ちく悪

魔Vは法治性文明に含まれている未開からの反逆︑怒りのように存在させられる︒鬼婆はなにより文明的性質への焦慮のように存在

する︒   国語学概論︵渡部︶       九

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  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号      一〇

 中上健次氏の﹃紀州︵伊勢︶﹄の中に︑

 言葉を統治するのは﹁天皇﹂という︑神人の働きであるなら︑草を草と名づけるまま呼び書き記すことは︑﹁天皇﹂による統括︑統

 治の下にある事でもある︒⁝⁝もし︑私が﹁天皇﹂の言葉による統治を拒むなら︑この書き記された彪大なコトノハの国の言葉で

 はなく︑別の言葉を持ってこなければならない︒あるいは書くこと︑書かれる事を拒む語りの言葉か︒

とある︒︿天皇の統治﹀の対極というのは︑農耕生産共同体である︒それが歴史の律令国家というものの事実である︒律令国家による

生産共同体崩壊の悲しみのエネルギーが愛と呼ばれているものであって︑その愛の表出が唯一︑言葉というものなのである︒﹁語りの

言葉﹂というのは︿説話﹀であろう︒説話は法律と動植物的存在の衝突から出てくる︒鬼婆が出てくるのもこの語りの言葉に於いて

である︒  ところで︑中上氏がそう書くのは︑

 不可視の虐殺︑不可視の戦争と言ったが︑私がありありと視るのはこの不可視の虐殺︑戦争である︒ありありと視る不可視のもの︑

 とはツジツマが合わないようであるが︑そのあたりに普段あるものを差別︑被差別の回路にかけるとは︑このことである︒

という﹁不可視の戦争﹂という日常の構造をみる視点によっていよう︒なんのことはなく︑被差別の水準によっているわけであるが︑

この水準はまた差別と被差別の関係なのである︒先に無いもの/全部思い出せるのは/猫だけだ︑と言ってきた猫の視点である︒こ

の︿関係﹀ということの構図はどんなものだろうか︒両者を統治するのは天皇という神人であるというよりは︑ふとすればそれは︿悪

魔﹀をつまんで上下に拡げてみた形かも知れない︒︿悪魔﹀の出る線を真中にして︑支配性と被支配性のそれぞれのピラミッド型を作っ

てみる︒  悪魔線で折ると︿狐つき﹀と︿天皇つき﹀は案外似てくる︒人間である限り︑可視・不可視線の上下の何処かにいるしかないが︑

可視によって不可視を支配しようとするのを︑︿悪魔﹀といい︑不可視によって可視を支配しようとするのを︿善意﹀というのであろ

う︒生存を合法化できるものなどありはしないからである︒

 可視・不可視分界線などは一つの矛盾であり︑その矛盾線などを図示してみることもまた人間の悪意である︒馬などは黙っている︒

不可視・タブーをそれ自体のように生きているからである︒タブーを完全に生きられるのは動物しかない︒そして︑動物のいなくな

る日︑人間にもタブーはなくなるだろう︒

(11)

支配性 天皇っき

天皇制的律令制

被支配性

悪魔線=

可視・不可視分界線

狐つき

 もはや蚤にとって法治社会は擬似空間である︒擬似空間で喋るというこ

とが人問と動物の関係で︑言葉があったということである︒だから人間が

喋っていることには二様ある︒一つは擬似空間に仕立て上げられた文明そ

のものが自立的に喋るということ︑一つはその擬似空間との関係で喋ると

いうことである︒

 例えばア・イの音声・語句︑あるいは句形・歌形︑五句︑三十一音など︑

この法的リズムは人間の擬似感情四遊戯を成立させる︒万葉和歌は律令官

人の遊戯であった︒

 支配や階級などと思われているのは︑生産共同体から生まれた赤ん坊み

たいなものではないか︒法律は土から生まれた赤ん坊みたいにむずかる︒

この子は当然︑正義の様に自分を主張し︑そう行動するので親の方は時折︑

当惑する︒親は生まれてしまったこの子をおそるおそる待遇する︒生まれ

てしまったものを育てる以外に仕方がないのが親だから︑この子は精一杯

に我が儘なのである︒

 人間は動物から出︑動物の赤ん坊であり︑赤ん坊が成長するにつれて身を滅して行く︒言葉は唖から生まれ︑だから勝手に唖を軽

蔑する︒こうして法律は土への我が儘なのである︒産むというのは罪なのであり︑人は生まれてきた初源に罪を置いた︒なんとうま

い考えであったことか︒文明とは動物からの罪である︒そのうち動物は消滅しよう︑人間を育ててしまったから︒ここでは︑法律と

階級と文明の三位一体を基礎にして︑︿知識﹀はただ差別のためにだけ存在する︒馬鹿に残されるのは︿狂気﹀だけであろう︒狂気を

避けようとすれば︿ずるさ﹀を使用することである︒

 共同体性に対しての法治水準言語︵政治︑命令︑行動の言語︶は面白い︒たとえ役人が昼寝しながら喋っても︑それが言葉︵語法・

文法︶である限り︑生産共同体破壊の物質の様に受けとり︑その言葉の実現が計られる︒ここでは自らを破壊しながら言葉を完成す

るのである︒何故なら共同体は言葉に表徴され︑言葉と共同体は同一水準にあったから︑擬似空間の言語がここでは生存の真実に

  国語学概論︵渡部︶       一一

(12)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       一二

なるのである︒この狡智の関係を利用するのが︿ずるさ﹀である︒

 ずるさに於いては︿言葉﹀が成立してきて︿意識﹀が消滅する︒記憶を失うことが可能なのであろう︒その代りに法律を信ずる︑

生存の合法というとてつもない人間性が生まれた︒

 言葉が尻尾を失って自立的に歩き始め︑それを身内のように保証してくれるものがあれば︿懐しいものの記憶﹀はなくてよい︒む

しろ不都合な記憶は忘れた方がよく︑︿ずるさ﹀には言葉と記憶の裏切り関係がある︒故にこの言葉はまた文学や思想や宗教への裏切

りとしてある︒ずるさは共同体と文明の関係にあって悪意が善意を侵略することを無視できる狡智である︒

 さて︿言葉は動物と人間との関係である﹀といってきてみて︑

 知識や情報や秩序や学問やのつまっている抽き出しが周囲にめぐっていて︑そうしたものにどうしても慣れないで︑仕方なしにそ

れらの隅っこに潜んでいるもの︑そんなものを︿心﹀といってみて︑だからそれは馬鹿じみた透明度みたいなものであるが︵その透

明というのは動物性であろうが︶1そうした知識には決してなれない︑馬鹿じみた透明な部分が︑本当はあの︿共通感覚﹀といわれ

るものの基盤なのであろうけれど︑それが文明的諸性質に染まる時の︿人間における矛盾﹀が︿ズルサ﹀なのであろう︒人はそれを

ごまかそうとする︵なにしろ矛盾なのだから︶からつい外在の言葉を仕立ててそれに依頼する︒教育では言葉の外化が計られる︒だ

から教育は差恥を忘れるずるさである︒教育の努力というのはだから言語の不可能性への努力である︒︿人間に於いては﹀正しい言葉

使いで知るものは何もない︒

 物が写るのは鏡といわなくても透明な部分に於いてである︒このことは︑言いかえれば︑共通感覚に統合される存在のあり様とい

うことである︒

 ずるさに︑即ち文明の鏡に写るのは文明の秩序だけである︒文明が説明するのは︑外在化した言葉が証明するのは文明︵法律と秩

序︶だけである︒学校の教室で教師と生徒の間に説明が開演されるのはズルサの二乗︑平面化である︒教室が四角な平面であるのは

その形態化である︒ここでは空間さえも合法化されている︒

 言葉が動物と人問との関係である︑といったようなことは︑吉本隆明氏風には︑

 ≧黛プ\マ︵弼餅魯鼎享︶ー≧黛τマ︵欝毒鼎享︶H圏薬酬難

という言い方にも似ていよう︒そうすると言葉は︑その水準に於いては関係意識なのである︒

(13)

 だから︿心的現象﹀のなかにフロイトがいうような神経症とか精神病といったことが起こっているとすれば︑それはいずれにせよ︑

 大なり小なり︑︿原生的疎外V領域と︿純粋疎外﹀領域の差異に異変があるということなのだ︒︵表現概念としての︿疎外﹀︶

とはいうものの︑︿狂気﹀を説明することは狂気への悪意でしかあるまい︒素直な狂気とは恢復しない狂気なのか︒

 飛行機が厚い雲の海を通り抜けて︑その上の青空へ出るたとえを言ったでしょ︒たとえばあんなふうな宇宙が私のなかにある︒あ

 なたのなかにもある︒私のなかとあなたのなかはつながってる︒共通になったところは無限に広いところで︑その果ての果てに神

 がある︒

というのは高橋たか子氏の﹃荒野﹄の一節であるが︑そこは中村雄二郎氏の︿共通感覚論﹀の中味とそう違ったところではない︒﹁共

通になったところは無限に広いところで﹂︑文明によって分節化されない︑忘れ去られた生産共同体性の記憶なのであろう︒そこのガ

ラクタが﹁神﹂なのであるとすれば︑ヨハネ風には言葉が出てくる場所なのである︒

 そして︑右の言葉は作中の主人公の言葉というよりは︑人生に於いては︑高橋たか子氏の言葉であり︑言葉は誰にでもこう仕上っ

てくるだけなのであって︑作品論︑作家論などとは全く関係がない︒この会話は精神病院の中で行われているのであるが︑素直な狂

気というのは文明社会の中では精神病院の中にあるのである︒狂気と言葉との関係は︑動物と人間との関係が斜線としての言葉をと

るように︑やはり斜めに立ちのぼることになろう︒そして︿言葉﹀こそ︑外ならぬこの斜線なのである︒高橋氏風には﹁病気などは

仮の姿なのである︒﹂

 ﹃ユキの日記﹄︵病める少女の20年︶という本があって︑﹁心よ なんじ/私よりかくれて/何をか願う/理性のゆるさない/どんな

ことを︵私に︶/期待するのか/ひそかな望 もつを/私は見るのだ/なんじのそぶりに︒﹂などと書かれた十五歳の時の詩もある︒

そんな︿心﹀の延長線上に﹃荒野﹄もあるだろう︒高橋氏とて他人ではない︒ただし︑ホテルとレストランで出来上がっている舞

台に狂人などがでてくるのは文化人の錯覚である︒

 それはそれとして︑さて︿その果てに神がある﹀︒神に到る言葉が︿言葉﹀なのであって︑この世ではそれを文学というのであ

る︒だからこの言葉は﹁理性のゆるさない﹂もの︑学問にならないものに属する︒

 そして︑理性や知識がそのく心Vを侵すことをズルサという︒︿原生的疎外﹀︑それは心的世界と身体のズレとしての︿心的領域﹀

なのであると考えれば︑あとは考えということの不可能があるだけなのに︑なおその上に物を言うのをズルサというわけである︒そ

  国語学概論︵渡部︶      ︑       二二

(14)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号      一四

の時︑心的領域は法律と一致している︒

 ズルサがある種の矛盾であるのは︑それが共通感覚の否定性としてあるからである︒だからズルサの普遍化は動物からの断片化な

のであろう︒教育はそれ自らの中に分節化機能を持つ︒

 簡明なことであるがキリストは失敗の人生を生きた︒そしてそれは余程の失敗であった︒彼を死まで運んだのは悪意と︑それから

の恐怖であったろう︒だから彼は向う側に︿神﹀とよぶ幻影をみた︒あらゆる人生の失敗の帰結が死であることはキリストでも例外

ではない︒そしてその失敗・死を構成する意識達を彼は︿悪魔﹀とよんだのであろう︒

 この境地は多分︑生産共同体が崩壊しつつ︑そのガラクタどもは拒否されても構わないという文明の本質性を含むものであったろ

う︒キリストにとって悪魔は生存におけるリアリティであった︒悪魔の話す言葉はなんと︿律法﹀に似ている︒ここで明確であると

は法律の性質である︒動物には多分︑明確になってよいものなど何一つなかった︒

 明確な性質が法律の性質であるとすれば︑明確な言葉はそれ自体被法律を生み出さなければならないし︑未開性を設定しなければ

ならない︒教育の対象は必ず︿幼稚性﹀を持っている︒明確な言葉は反明確であるものを差別し︑排出しながら生存する︒

 だから言葉と法律は人間に外在する兄弟である︒彼らは人間を外化しつづける︒

 悪魔の言葉が︑だからく明確Vというものだとしたら︑とりも直さず︑悪魔の言葉は学問や論理の言葉に似ていよう︒︿文学の論﹀

とは悪魔の発明した言葉なのかも知れない︒

 悪魔はア・イ・ウなどの音があると思っている︒

 悪魔はー・2・3などの数字があると思っている︒

 悪魔は忙しいなどという形容詞があると思っている︒

 悪魔は自分がア・イ・ウなどを喋っていると思っている︒

 悪魔は耳が悪いのだろうか︒

 悪魔は動物からの破片なのだろうか︒

 悪魔は悪魔を生む︒

 悪魔は悪魔以外のものを生まない︒

(15)

 吉本隆明氏は﹃世界認識の方法﹄の中で︑﹁つまり人間が身体という有機的自然を介して外界の無機的自然に働きかけると︑外界は

 そのまま人間を受けいれるのではなく︑いわば人間化されて人間の︿非有機的身体﹀になってしまう︒そして人間の身体も自然化

 されて︿自己疎外﹀態となる︒そういう相互に規定しあう︿交換﹀がどうしても生じてきます︒人間は本来自分以外のものになる

 ことによってしか外界ー自然に働きかけることはできず︑自然ももとあった自然以外のものにならずには人間と接触できないとい

 うことですね︒これが初期マルクスの︿自己疎外﹀概念の基底にあるものだとおもいます︒﹂︵表現概念としての︿疎外﹀︶

という自己疎外の経済社会構成の表象として資本家︑それに対してのプロレタリアートがあるわけであるが︑ここは人間に構築され

たく法律Vが問題なのではないか︒いわば言語の合法性が︑人間と外界の間に文明として設定された︒

 法律が人間であることの基本態になったのではないか︒言葉こそが人間の基本態にみえようが︑言葉は法律なしには自己疎外の︿表

現﹀とはならないのではないか︒

 人間に︑自然としての人間に︿苦しい﹀ことは労働ではなく︑労働を支配する法律なのではないか︒

 人生には合法化されるものなどなにもない︒生涯暇なのである︒その退屈を消費するために法性人・文明人は言葉を喋るのである︒

 その頃︑人々の目の及ぶ限り︑耳の及ぶ限り地上は生殖の場であった︒あらゆる動植物がムスビ︑ムスバレ︑ムレていた︒いわば

宇宙は生殖の実現であった︒

 そこでは言葉は性の喜びであり︑言葉は性への奉仕であった︒言葉は性の可能性を開くものであって︑その故に言葉は宇宙的本質

の顕現であるという性質を今でも持つのである︒偉大な言葉たちは宇宙を開く鍵であり︑真実エロチックである︒バイブル︵キリス

ト︶︑ソクラテス︑プラトン︑いやいやアウグスチヌス︑トマス・アクィナス︑いやいや宮沢賢治︑吉本隆明︑中村雄二郎︑いやいや

釈迦︑マホメットすべてエロチックである︒すべて彼らの言葉は生殖︑性の可能性としての言葉なのである︒なにしろ宇宙が生殖の

実現の場所であれば︵それ以外の在り様があるか︶︑言葉がその宇宙の神秘を開く鍵以外のどんな役割を持つというのか︒

 このカニはエロなカニ/横になって何処に行く/生殖に行く︑と昔の人は歌っていた︒

 源氏物語で浮舟がその性に蓋をしてしまって薫を拒むみたいと人は読んでいるが︑経典という性の書に分け入って︑性を開きつづ

  国語学概論︵渡部︶      一五

(16)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       一六

けているのは浮舟の方なのである︒生殖への言葉を失ったのは︿役人﹀である薫の方である︒法律家である薫は宇宙が生殖の実現の

場である事実を見失っていた︒浮舟がつかんだ優しく懐しい性の言葉と︑役人薫の粗雑な性の言葉は二人を並べて共寝をさせること

はなかった︒

 西行が言葉を仕上げれば仕上げるほど︑即ち言葉が生殖に向ってエロ化すればするほど彼は山中で独り寝をすることになった︒多

分女の人が法律的結婚の水準を好んだせいであろう︒

 人類の仕上げた︿優れた言葉﹀というのはすべてエロチックの度合である︒それが見えるのは生の鮮度においてである︒

 人類における優れた言葉たち︑この寝易い言葉に︑人はなんと言いながら添寝をすればいいのか︒なんと言ったらエロ化できるの

か︒  一番寝易い?そうこの言葉たちは法律に似てないから︒

 性が言語化したのは︑性が意識となった故であろう︒この時が︑人間と言語の一番相応しい間柄なのであろう︒

 言葉が性を含んでいるというよりは︑言葉が真実︑性そのものでありうる︒それに対して︑

 人が生きるところのもの︑書くところのもの︑それは母親に逆ってのことである︒

とル・クレジオは言うのであるが︑万葉集などの浮情は︑その母親︑国家的規模の母系制感覚に似ていよう︒なかでも人麿の歌など

はそれこそ母系制社会の余興である︒

 歌を作ることに慣れてくると擬共同体的修辞が可能になる︒即ち序詞が共同体の性質から出てくるのではなくて︑作歌上の技法とし

て余興のように作られ︑享受されるという一般的感性が生まれる︒万葉集二二〇一︑

 妹がりと馬に鞍おきて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ

では一︑二句は四句への連用修飾にも︑また三句への序のようにも理解される︒その様な風に作ってあるのである︒

 共同体の性質陥序︑浮情部分目本意の形にとってみれば︑その序を本意への修飾のように操作できるのは個の浮情による擬似共同

体の設定による︒これがいわば風雅や余裕の性質であって︑勿論︿歌﹀そのものが律令官人の余興であることを示していよう︒とい

うことはここではまだ言葉︵文学・思想・宗教に関わる︶の問題は成立してこないのである︒酒宴の余興を言語学の問題にはできな

い︒

(17)

 勿論万葉関係の学会も多くあって︑そこで古代の言葉を問題にはするが︑そこに生産共同体性はないので︑言語の消耗性だけが活

躍する︒だからこれらは商業組合の会合とそう変わりはしないのである︒給料に関わる︒

 動物の感覚と法治文明は九十度角で対応している二線のようなものである︒この関係は︑法治文明は動物の感覚に染まったり︑動

物の感覚は法治文明化したりという重なりの領域を時々現わしながら︑その形は崩されることはない︒決して九十度角は狭まらない︒

というより先に行けば行くほど広がりつづけ︑永遠の相の下に絶対他者となりつづけよう︒これが宇宙と人問に行われる唯一のドラ

マである︒

 たとえば︿愛﹀というのは生産共同体様式の中に育って︑その崩壊の悲しみのエネルギーとして発現されるが︑それはいわば法治

文明化される場所であって︑愛というのは︑それが存在すれば︿愛化﹀される以外にない宿命を持っている︒悪魔が悪魔しか生まな

いように愛は愛しか生まない︒いわば愛というのは無限に現前する以外にない所に存在するのである︒

 その︿愛化﹀される所というのは︑だから九十度を二分する四十五度線に沿うものなのである︒具体的には動物的感覚の生産共同

体が︿法治文明化﹀され︑法治文明が︿生産共同体化﹀されるあたりの線をさしている︒ここをのぼる言葉がひたすら人間の言葉で

あるとすれば︑言葉とは愛としての言語以外に在り様がないのである︒

 キリストの言葉を︑西洋の文明がそういったように︑とにかく愛みたいなものとして持ってきてみると︑たとえば田川建三氏が︿分

水嶺﹀といって︑その此方側と向う側に聖書の言葉を分けてみたりする︵﹃イエスという男﹄︶のは右様な四十五度線に愛と言葉が沿っ

ているせいである︒そしてこの四十五度線に愛と言葉が沿う限り︑初めと現在と終わりは同時なのである︒言葉と愛は何かの証明の

ためにあるのではなく︑既に︿証明﹀だったのである︒

 それにしてもキリストほどその愛と言葉の不可能性を知った者も多くはあるまい︒愛は無限の愛化にとどまるから︑即ち文明は平

気で生産共同体を自らにくり入れてしまうから︑文明が生産共同体の崩壊の悲しみに気づくことはない︒生産共同体が死ぬまでその

生産を喰らいつづける︒キリストが死ぬまで文明は彼を喰らいつづけよう︒そうであるしかないから︿愛﹀なのであり︑宙吊りになっ

たまま合法化しない現実である︒

 図表とは便利なもので︑動物感覚と法治文明線は永遠の隔絶であり︑四十五度線も永遠に許容されることはない︒愛とはその点で

動物への裏切りであって人間への裏切りである︒だから愛はドラマの様に存在するが︑その舞台は宇宙なのであり︑却って宇宙に関

  国語学概論︵渡部︶      一七

(18)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       一八

わる時︑人に於いてはすべてがドラマなのであろう︒

 愛は愛でないことができないから︑動物の目にも︑人間の目にも写らないだろう︒生活するものが︑手段や分節化を自己のものと

しない生き様は不可能だからである︒愛が隠れるから分節化した生き方が安定する︒

       擬共同体︵文明集団︶からの言葉はまた個人の分節化に作用する︒横線が斜

      線を対象化しようとする︒この理不尽が勝利志向の言葉であり︑その論理・出

      版物は言語というよりは言語であるものからの欠落である︒ここではどんな人

      道主義ですら破片でしかない︒余興で始まった言語はどこを切っても余興であ

      る︒蓮実重彦氏が︿装置﹀といわれるのは文明化・法化・伝統化した心情のこ

      とであろう︒それは心的物質のわけで︑︿制度﹀ともいう︒斜線の左側である︒

       斜線︵言語線︶は﹁詩﹂であったり︑﹁説話﹂であったりする︒それは未開と

      動物性の中に︑深々と尻尾をひたしている︒そっちに行ったって宇宙の中味で

      ある︒どっちに行ったってこの宙吊りは宇宙のするドラマなのであろう︒その

      ドラマの名を愛という︒

       愛は愛するしかない︑言葉は言葉であるしかない宿命を持つものである︒そ

      れを破壊しつづけたのが外在としての法・文明と言語学であった︒法と言語学

      がある限り︑︿愛と知と言葉﹀の三位一体は破壊され︑ズルサによって侵略され

      る以外にない︒

       ズルサというのはほとんど文明の嗜好であるらしい︒それは存在への嘘のよ

うに存在する︒嘘を嗜好品にしているのが文明人である︒即ち文明人というのは何より法規が好きである︒法規のない所では言葉が

不可能である︒

 民主主義と平等と会議は似ているのであるが︑ここで出会うのも階級と秩序だけである︒約束した時間に︑出会うのは時計と時計

だけである︒人間から独立した時間に︑人は人に会うことはない︒︵退屈な会議はある︶

\¥

動農

耕音生

・産

動共

物同

璽・.   \   \

的体

倣感

法律・文明・歴史

(19)

ある形を作ってみる︒

  自己存在への嘘

     ↓       >>﹀        さ性性   国国回圖        確在則

  

 ﹁国国回圃回    征桝樋

         ﹁国国回図︵顕.︶

      ↑

       存在への嘘

 すべて︿正しい﹀とは法的外在性であって︑存在への嘘である︒

 人間は自分の顔を疑うことはできないから︑これはもっとも︿正しい﹀ものであり︑そしてこの法的外在性は自己存在への嘘とし

てある︒正しさが嘘であるところに言語の不可能がある︒文明人の顔が喋ることはない︒

 ほんとは︑この世で宙吊りになっているのは︿正しさ﹀そのものである︒正しさなど勝手にしろ︒

 人間と︑ある決まった音とその音の連結である語句・言葉を合致させると︑その人間の世界ができる︒だからそこは異類との遮断

をなす言葉壷みたいで︑︿物﹀に似ている︒ここで言葉はく自分の︑自立を囲む建物Vとなる︒

 そうした建物に入るには︑入口や部屋に似合った入り方しかなく︑それに合わぬもの︑︿異質﹀は入りようがない︒言葉は当人と異

類を区別する︒その建物が不完全︑曖昧なものであると︑他人の建物がどんどん建ってしまう︒言葉は人間の自己自立の道具だからである︒

 ︿正しいもの﹀に侵略される方は自己以前︑言葉以前なのであり︑いわば動物性なのである︒この動物性に似ている︑正しいもの

からの侵略性を持つ言葉は宗教と文学の中にある︒とはいうものの︑︿宗教Vと︿文学﹀の中に言葉があるわけではなく︑動物に似て

いる四十五度内言葉があるだけで︑それは宗教でなくとも︑文学でなくともよい︒そうしたものの原点の言葉である︒

 ただ﹁宗教は可能な限り倫理的かつ理想的であるが︑政治的社会的生活は可能な限り野蛮で異教的となった﹂とクラウスナー風に

言えば︑ここでは宗教と言葉は似ていよう︒

 動物は決して︿自己﹀になれないものであるが︑人間の自立が合法性という嘘に依存している故に︑そこから自分を引き剥がして

  国語学概論︵渡部︶      一九

(20)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号       二〇

動物性に近づく︿自己﹀が姿を現わす︒四十五度線は本質であって別に︿自己﹀であるわけではないが︑文明という嘘からは︑相対的

にそれが鮮やかに︿自己自身﹀にみえるのである︒キリストなどがそう見えるのは右様なわけである︒この引き剥がされ方はどんな

方法でもよいが︑それらは運命・必然のように行われるだろう︒それが四十五度斜線の意味だから︒

 人間が︿自己﹀であるような世界では︑それは動物からの共同体のような具合である︒即ち決して到りつかない︿自己﹀なのであ

る︒自己という建物は立たない︒建物と建物で出来ている社会的関係とはならないものである︒関係になれないもの︑客観的設定の

できないもの︑それを人は︿心﹀といってきた︒キリスト教では父と子に精霊といってきたその精霊の部分である︒︿心﹀というのは

学問になれない隅っこで︑あるいは知識からの被虐である︒

 もしあの外在としての言語を成立させてこなかったら︑︿心﹀は存在するすべてに融合するだろう︒戦燥すべき恐怖が心を物のよう

に冷たくするだろう︒ここでは心は被虐とはならず自然の上に行き渡るだろう︒

 言葉があの生産共同体のガラクタから生い立ってきたら︑ヨハネ伝のように︿言葉が神であった﹀ら︑人は性によらず共同体を形

成できるだろう︒その時︑人は言葉である性質をみつけるだろう︒言葉が人間にだけ存在した意味を見つけるだろう︒

 ライオンは戦いに︿違和﹀を感ずるだろうか︒動物は非道に︿違和﹀を感じたりはしない︒

 子供が︑というより動物的幼児性が最初に持つく違和Vというのは︑教師に対してあったのではないか︒その違和はそのまま教育

であることによって社会性となるので︑生きている限り人は︑教師が︑最初のそして生涯の︑︿違和﹀であることに気づかない︒

 違和は動物と教師の中間にあるが︑動物はそれを指摘しない︒動物性を引きずっている文学だけが違和を浮かび上がらせる︒

 文学もまた教師への︿違和﹀としてあろう︒教師は文学を前にして︑その文学性の中止を注射する︒そこでは正義と平等という慣

習・教師の徳で文学をひっかき廻し︑その味を死にいたらしめる︒当然︑宗教に対しても︑思想に対しても同様である︒ということ

は教育は言語の不可能性を志向する故であろう︒

 律法学者どもは︑重い荷物をいろいろたばね︑他人の肩にのせて背負わせるが︑自分では指一本動かしてそれにふれることもせぬ︒

とマタイもルカも言っているが︑学者や教師は︿指一本動かしてそれにふれ﹀ようともしない︒言語が外在性として成立した文明で

(21)

は︑行動もそれに伴うしかない︒ここでは正義も悲しみも外在としてあり︑人はそれに指一本触れようとしない︒︿表現﹀がそうなる

よヶにはできていないからである︒文明ではいつも悲劇は外にあるもので︑それに向かうように正義が作られている︒言語というも

のがそうしてあった故であり︑ここでは信じられる自分というのはどこにもない︒日本人は有史以来何を信じたこともない︒ここで

は人間が破片であった︒

 文明社会に於いて︿言語﹀が通ずることはない︒通ずるのは法的度合だけである︒言葉は︑図のように文明社会のヘリを通って行

くだけである︒キリストはこの矛盾を︿悪魔﹀という名詞でよんだのである︒そしてその悪魔は人の好みであった︒文明に於いては

人の好みが悪魔ともなるのである︒両者が重なるのは共に︿破片﹀の性質としてである︒

 人間が不幸を計画したり︑不幸に居たりする好みも︑多分︿神﹀みたいなものがある故であろう︒悪魔でありうるのは基礎として

の︿善意﹀によるわけである︒勿論︑日本のような国では︿法律﹀に依ってもよい︒大君は神にしませば天皇制的律令国家である故

に︒  それでは︿神﹀という名の︿善意﹀の基礎なしに︑︿不幸﹀という名の︿悪魔﹀はどう生きるのか︒生きるためには自分が善意に生

まれるしかない︒思ってもみよ︑人は法律のない所でだけ︿善意﹀に出会う︒

 ︿悪魔﹀というのは破片的性質である︒いわばそれはく綜合の欠除性Vなのであるが︑その欠除性が必ず綜合性を侵略する︒綜合

の欠除である論理や正義を権力という︒

 権力とその秩序の中では言語表現は不可能性としてしか存在しない︒秩序における言語は必ず︿外在性﹀としてある︒

 例えば後鳥羽院口伝にみえる︑

 ﹁不可説言語の上手なり﹂

という言語表現を人は一体理解できるのだろうか︒ここには︑そう言った人と西行との︿関係﹀がある︒即ち西行の極度な純粋とそ

れを栄光とした社会︵後鳥羽院︶の関係である︒西行には殆ど想像を絶する純粋さがあった︒歌というより歌を創り上げたものであ

る︒それを取り上げることができたのが右の言葉である︒だからこの言葉と西行は一致していた︒西行は不可説言語の上手なる生存

を一秒のズレも曖昧もなく生きていたのである︒そのすべてが不可説言語の上手なのであった︒

 ここでいわば西行は出来上がったのであるが︑同時に後鳥羽院も出来上がったのである︒この関係が右にいった︿言語表現﹀なの

  国語学概論︵渡部︶      ニコ

(22)

  長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第四号

であるが︑人はそれを受けとることは多分できない︒

ろう︒あるいはそれを信じえた時だけであろう︒ それが出来るのは社会から不可説言語の上手なり︑

と い わ れ る そ の 時 だ け 二

で  二 あ

!¥一』

 不思議なことにこの世には︑喋っていけばそのままく言葉Vになり︑そのまま︿文学﹀にもなり︑そのまま︿学問﹀にもなる︑そ

んな言葉というものがある︒

 勉強?そんなもの︑言葉とは関係ない︒言語についての学問︿言語学﹀とは呪われた︑したがって悪魔好みの学問である︒この学

問は権力と秩序の下で価値を持ち︑文学性の破壊として作用する︒

 この︿言葉﹀はすべての知識というものをすり抜け︑置き去りにして自動する︒知識は秩序を前提として自己の範囲を守る手段で

ある︒だから知識は自己の範囲に収敷し︑文学と言葉の破壊の様に作用する︒︿言葉﹀というのはそれ自体が知識であり︑証明である

ように自動する︒

 文というのは︑それがそうであるように︑それ自らの生物であって︑他を全く含もうとしないものである︒⁝⁝論などという文は

ありようがない︒文を信用するというのは︑それが疑いようなく出来ているせいである︒

 人は自分の都合で行動しなかったことの度合であるように︑文もまた同じことの度合である︒

 さすがの聖アウグスティヌスも困ったことがある︒リケンティウスが︑

 悪が始まった時点で秩序も始まったのであると︑わたしははっきり言いました︒

という︒その時である︒

 悪は神の秩序によって生まれたと考え始めることになり︑神を悪の造り主と認めることになる︒

からである︒彼が︿神は悪をつくりたまわない﹀と頑強に考えるのはもっともで︑神はもともと悪の性質だったのだから︑そこには

悪はありえないのである︒だからそれに対して人間は原罪を背負っているしかない︒文明からの被虐としての神が純粋悪なら︑人間

は︿悪﹀であることはできないからである︒

 ﹁しかるに︑この学問は神の法自体なのである﹂と続けるアウグスティヌスはさすがであるが︑私にしても︑私の学問は︿純粋悪﹀

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