翻
訳
北西 ドイツ農村社会の変容 (17〜 19世 紀
)―農民社会 か ら階級社会ヘー
ユルゲ ン0シ ュルムボーム (高木正道訳)
抄録 :北 西 ドイツのベルム (Belm)教区では、1650年と1830年のあいだに人 口は3倍に なったけれども、農民保有地の数 は変わ らないままであった。土地をもたない新 しい階級 が出現 したのである。亜麻織物生産のかたちをとったプロ トエ業化が農業所得を補 った。
この論文は、人 口学的行動 と世帯構造における社会階層間の差異の概要を描 く。考察の対 象 となるのは社会的流動性 と配偶者の選択であり、 さらに、土地保有家族 と土地な し家族 を結びつけていた経済的・ 非経済的な紐帯 も、詳 しく調べ られる。本稿は最後に、土地保 有農民および土地をもたない下層民にとって親族がどれほど重要であったかを問題にし、
一階級内あるいは複数階級 に跨 る親族関係が諸階級の形成において重要な要因であったで あろうことを示唆する。
近世 ヨーロッパにおいて、異なった構造を もった農村地域 は、まった く違 った人口学的・ 社会的 発展を経験 した
1。
ヨーロッパ全体 としては人口が増加 したにもかかわ らず、農民保有地の数が一 定不変 にとどまり、住民数 も停滞 した農村地域があった。ドイッにおいて は、北海沿岸の湿地地帯 にそうした事例が見出されるもそこでは、共有地の分割 もなければ、農業の集約化 もあまり行われ なか った (Norden 1984;cfo Hinrichs,Kramer and R6inders 1988,pp.17‑68)2。 その他の農村 地域 は、急激な人口増加を経験 した。プロ トェ業化
(prOto―
industrializatiOn)の影響を受 けた地 域が特 にそ うであ った (Mendels 1972,Kriedte,Medick,and Schlumbohm 1981,p.74)。 し か しなが ら、同 じく人口が増加 した地域で も、社会の発展 は違 った仕方で進んだ。保有地が細分化 を くり返 し、大抵の家族の所有地はますます小 さくなっていったところがあった。例えば南西 ドイ1参考文献 は最小限にとどめてある。詳細な記述 と史料の引用は、ベルム教区に関する拙者に載るであろう。
それは、1992年または1993年に、ゲチ ンゲ ンの出版社VandenhOeck&Ruprbchtか ら
Verё
ffentlichungen des Max̲Planck̲Instituts ftr Geschichteシ リーズの一冊 として出版されるであろう。2 cf.Fauve―ChattOux 1981,esp.pp.51‑53;Collomp 1988,esp.p.70;南 フラ ンスの事例 につ いて は
Collolnp 1983.
ツのある村では、17世紀半ばか ら18世紀末期にかけて住民数 は3倍になったけれども、財産分布の 不平等の程度 は変化 しなか った (Sabean 1990,pp.40‑41,60‑62,454‑458,256‑257)。 別のところ では、保有地の数 は変わ らず、そのため人口増加にともなって土地をもたない新 しい階級が現われ た。 これ らの場合のそれぞれにおいて、人口学的パ ターンと家族戦略は非常に異なっていたにちが いない。 この論文 は、最後 に挙げたタイプの発展 コースの概要を描 く。
ベルム教区 :一般的特徴
この研究の対象であるベルム教区は9村落か ら成 り、各村 には緩やかなまとまりをもつ農民保有 地の核があり、一つないし複数の農家群や孤立荘宅がそれをとりまいていた。ベルムはオスナブリュッ
ク市の北東 4キ ロメー トルと12キロメー トルのあいだに位置 し、1800年頃まではオスナブ リュック
図1 オスナプリュック候司教領
メ
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ヾ ヽ い じ レ
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︲︲ ヽ
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フラ ンクフル ト
‑40‑
侯 司教 領 (the prince―bishopric of Osnabrick)の一部 を形成 して いたが、 同司教領 は1815年 に ハ ノーフ ァー王国 に併合 された (図 1を参照
)。
ベル ム教 区の人 口は、 17世 紀半 中葉 か ら増加 し続 け、 1830年 頃 まで に3倍にな った (図
2)。
1651年 におよそ1300人 の住民 を数 えたが、 1833年 まで にその数 は約3850人 に増加 した。 しか しその 後、北 アメ リカヘ の大量移住 によ って い くぶん減少 した (cfo Kamploefner 1987)。
図
2
ベルム教区 :住 民数 (1650年頃〜1900年頃)2000
1600
ベルム教区では、人口増加にともなって農民によって私有される土地面積がかなり増加 した (図
3)。
農民保有地の総面積が1667年と1723年のあいだに実際に3倍になったかどうかは、われわれ には分か らない。 というのは、われわれが利用できる1677年の史料 は完全 には信頼できないか らで ある。 とはいえ、農民保有地 はかなり増加 したにちがいない。それで も、1723年に農民 によって私 有 されて いたの はベル ム教区 の全面積 のわずか36%にす ぎなか った。 残余 の一部 は、 騎士領(Rjιιθ
rgじ
ι,manor)や教会(こ
れ らの割合を大 ざっぱに量で示す ことがで きるのは1806年になっ てか らである)のような税を免除された所有者 に属 していた。全面積の半分をかなりこえる部分が 共有地で、その大部分をおおっていたのは、荒野や雑木林、濫伐のためにますます消滅 しつつあっ た森林地帯であった。共有地 は農民の私有地を補完するうえで重要であった。共有地は、放牧場 と して役立 ち、肥料 としての芝土を供給 し、暖房や建築のための木材を生産 した。農民の私有地が増住民数
叶願
え るときはいつで も、不可避的 にその犠牲 とな ったのは共有地であ った。1723年 と19世 紀への転換 期 のあいだ に、農民私有地 の総面積 はおよそ50%増加 したが、 それで も1806年 に共有地 はまだ総面 積 の43%を占めていた。共有地 が ほぼ完全 に分割 しつ くされ たの は、 その後30年 間 にわた る農業改 革 のあいだ においてで あ った。
図
3
ベルム教区 :全面積に占める農民私有地の比率 (1667年、1723年、1806年)1667 1723 1806
一見 したところ、 この経過全体 は比較的滑 らかでバ ランスのとれた発展のように見える。農民の 私有地の拡大 はほぼ人口の増加に見合 っていた。私有地は共有地 より集約的かつ効率的に利用 され るように見えるし、養わねばな らぬ人口数が増えるにつれて農業 は発展 したように思われるであろ う。 しか し実をいえば、 この農村社会の発展は穏やかで も均整のとれたもので もなかった。
16世紀半ばか ら19世紀半ばまでを通 じて、大農民保有地の総数
(そ
れは約100で、 この地域で は《Vollerbe》 および 《Halberbe》 と呼ばれた)は、事実上変わ らなかった (図
4)。
これ らの農民 保有地の数 は、農民私有地の全体的な拡大 によつて増え もしなか った し、細分化によって減 りもしなか った。 さらに驚 くべ きことに、小保有地 (通常 《Erbkёtter》 および 《Markk6tter》 と呼ば れた)の数 もほぼ一定不変で、共有地 の分割が行われた時期に若千の増加が見 られたにす ぎなか っ た
3。
これが意味す るのは、 この数世紀 にわたつて共有地か ら取 られたほとんどすべての土地が既 存の保有地 に付加 されたということである。 したが って、人口増加の過程で新たにつけ加わ った世 帯 は、すべて土地をもたない世帯であった。世帯総数 に占めるこれ らの世帯の割合 は、17世紀半ば3ド ィ ッの他 の地 域 につ いて は
Mayhew,pp.122‑130.‑42‑
図
4
ベルム教区 :世 帯数 と社会的階層分化 (1500年頃〜1860年頃)……
̀V" :ユ
υ年 の3分の 1か ら1812年の69%に上昇 した。
社会的発展が こうしたコースをたどった一つの重要な理由は、農民保有地が分割されずに相続 さ れたということである。 この地域 における単独相続 (impartible inheritance)の 起源を跡づ ける ことはこの研究の範囲外にあるが、領主 (Gr んんごんοrr,manoria1 lords)と領邦君主が ともに単 独相続 に強い関心を抱 いていたことは明白である。かれ らの観点か らすれば、多数の貧 しい農民か らよりも、限 られた数の大保有地か らのほうがt多くの地代 と税を徴収す ることができた。オスナ ブ リュック領邦では、すべての農民がただ1人の領主に従属 している村落は皆無であったが、領主 の地位 はエルベ川以西の ドイッの他の多 くの地域よりも強かった。単独相続の結果 として保有地の 総数 は不変にとどまった。そのうえ好都合なことには、ほとんどすべての個々の農場を数世紀にわ たって跡づけることができる。集計的な レベルでは、1667年か ら1806年にいたるまで、個々の所有 者への農民私有地の相対的分布 にはあまり変化がなか った。1667年にも1806年にも、規模の順に並 べて、下位半数の農場の合計面積が私有地に占める割合はわずか12%にすぎず、上位四半数の農場 の合計面積が全体の50〜60%を構成 していた。各農場の規模 は絶対的に拡大 したけれども、個々の 農現の規模別順位 はほんの少 ししか変化 しなか った。1806年には、大保有地 (《Vollerbe》 および
《Halberbe》 )は99ヘ クタールを最大 として平均27.5ヘクタールであったのにたい し、イヽ保有地の 平均 はわずか3.1ヘクタールにす ぎなか った。
土地を もたない世帯の定住を認めるべ きか否かは、16世紀末か ら17世紀初めと、 もう一度17世紀 半ばの30年戦争終結後の両時期に激 しく争われた問題であった。 この論争は、国家の レベルでは、
世帯数
領邦君主である司教、彼の役人、および身分制議会によって行われた。多分それ以前 にこの問題 は、
地方の レベルにおいて、領主 と農民が集まって森林裁判 (昴Jzgο ricんι, court of the wood")を 開いていたベルム教区の村落で議論 されていた。再三再四、農民 は土地 をもたない世帯 に住居を貸
し与えることを禁 じられた。 この教区のどこかの村で生 まれた土地をもたない人々について しか、
例外 は認め られなか った。領邦君主である司教、身分制議会、および地方の領主 は、あまりにも多 くの貧 しい人々が剰余を減 らしたり、税や地代収入を減少 させたりしないよう気づか った。同様 に 土地保有農民 も、土地をもたない人々の定住によって共有地が限度をこえて酷使 されることをこぞっ て心配 した。土地を もたない者たちが自分たちの鵞鳥や豚を共有地で飼い、そこの薪を盗む ことは 避 けられなか った。 しか しなが ら、法令が何度 もくり返 し出されたにもかかわ らず、個々には、土 地を もたない人々を受 け容れる土地保有農民があとを断たなか った。 この論争 は17世紀末 にす っか り決着 した。土地をもたない住民 と共存す る生 き方 (れοごじs υ
jυ
θんαj)が見出されたのである。か れ らは、村 (local community)か ら追い出されはしなか ったけれども、同時になにが しかのイヽ保 有地 を手 に入れ ることもで きなか った。 そのかわ り、 ホイアー リング制 (∬υθrJjんg system)が 創 設 され た。 そ して それ は、 変 容 しなが らも1950年 代 に いた るまで存 続 した (Wrasmann 1919‑1921;隣 接地域 については Mooser 1984)。 その基本的な特徴 は、土地保有農民がホイアーリング (雇うという意味の 《heuern》 に由来する)に一片の土地 と小屋を賃貸するという点 にあっ た。 これにたい して、ホイアー リングは賃貸料を現金で支払わねばな らず、 ホイアー リングとその 妻 は、要求があればいつで も、彼の地主 (landlord)で ある農民 の農場で「手助 け」
(
help")をしなければならなか った。かれ らの労働 はしば しば支払いを受 けず、かれ らが地主のために働かね ばな らない日数 はそもそもはっきりと規定 されていなかった。他方で、かれ ら自身の経済的資源が あまりにも乏 しい場合には、かれ らは地主のなん らかの援助を当てにす ることができた。例えば、
耕作や役畜 な しではで きないその他の仕事のために、地主の役馬を借 りることができた。そ してホ イアー リングは、共有地には法律上なんの権利 も有 していなか ったけれども、共有地を事実上利用 することができた。ホイアー リングとの契約 は常 に期限が定め られていて、通常 は4年であったが、
更新 されることもあ りえた。大土地保有農民 は、土地な し世帯を一つあるいはい くつか置 くこの シ ステムが有益であることを知 るようになり、国家当局 と領主 は、土地をもたない人々が必ず しも農 民保有地の担税力を減 らす ものではな く、土地を もたない人々にす らある程度 まで税を課す ことが で きる、 ということを理解するようになった。
地方経済が純粋な農業経済の状態を続 けていたとすれば、土地のない家族の総数 は狭い限界内に とどまったであろう。 しか しなが ら、輸出を目当て とした農村の亜麻織物工業の拡大によつて、人 口増加 はこの限界をの りこえることができた。早 くも16世紀末期 と17世紀初めに、 オスナブ リュッ クの農村地方の農民が自分 自身の消費のためだけでな く、販売を も目的 として亜麻織物をつ くって
一‑44‑―
いたことを示す証拠がある。30年戦争が終わると、商業的な亜麻織物生産 はますます重要になった。
地方の家内工業 (cottage industry)は よりいっそう大西洋経済に組み込 まれていった。 この地方 が生産す る日の粗 いタイプの亜麻織物 は両アメ リカ大陸で osnaburg"と してよ く知 られてお り、
しば しば奴隷 に着せ る服 の生地 と して使用 されたので、「 新植民地主義 (new colonialism)」
(Hobsbawm 1954)の台頭 につれて需要が増大 した。他の ヨーロッパの織物生産地域 に比べて、
オスナブ リュックの亜麻織物工業 は、19世紀半ばの数十年に衰退するまで、独特の性格をもち続 け た (SchlumbOhm 1982,1983)。 オスナブリュックでは、・
生産行程を構成する一一 亜麻の栽培か ら 織布 までの 一一 全段階が、通常 は一つの世帯内で遂行 された。 さらに、亜麻織物生産を専業 とする 人々や世帯 は事実上存在せず、亜麻織物工業 は兼業農家世帯 にとってあ くまで副次的な収入源にと どまった。それゆえ、亜麻織物の製造 は農業労働の季節的なサイクルに組み込 まれ、特に紡糸作業 は、全生産行程のなかで最 も多 く時間を要する作業であったので、 〔農閑期である〕冬 に行われた。
他のプロ トエ業地域 とは違 って、オスナブ リュックの農村地方で家内工業に従事 したのは、土地を もたない家族や小土地保有農だけでなか った。 ここでは、農村社会の全階級が亜麻織物家内工業 に 携わったのである。大農場保有世帯 はホイアー リングよりもはるかに大量の亜麻織物を販売 し、小 土地保有農 は中間的な位置を占めた。商人資本 との関係においては、 これ ら農村の生産者すべてが 独立保持 を切望 し、都市 もしくは国家 によって統制 された市場 (Laggの の支持 を得て、買入制 0餞蠣聡
Sι
θa)が維持 された (cf.Kriedte,Medick,and Schlumbohm 1981 pp.98‑101)。家族形成 と出生力における社会階層間の差異
16世紀半ばか ら19世紀初めにいたるまでを通 じてベルム教区が経験 したかなりの人 口増加 は、人 口流入 (immigration)に よるものではなか った。反対 に、1830年代に北 アメ リカヘの大量移住が 始まる以前でさえ、 い くらかの正味の人 口流出 (emigratiOn)があった。
このことは、 この地方の家族がますます多 くの子供を産み、その子供たちが無事に大人になって 結婚 した、 ということを意味する。世代を追 うごとに、家族数 は両親の時代よりも多 くなっていっ た。 さらに人口学上の数字 は、「人口学的温室」(demographic hothouse)を 意味するのではな く、
数世代にわたる着実な人口増加を凝集 している。
ヨーロッパ的な視野でみると、女性の平均初婚年齢 はい くぶん高めであった (cf.Wrigley and Schofield 1983, p. 162; Flinn 1981, pp. 125‑126; Knodel 1988, pp. 122‑123)。 1651lFか ら1860 年 までの2世紀 にわたって、女性 の平均結婚年齢 は26.5歳であった。17世紀末 に28.4歳の ピークに 達 してか ら段階的に下が り、1770年代 には一時的に上昇 したけれども、再び低下 して1820年代 には
25。
3歳という最低値を記録 した (図5)。
。図
5
ベルム教区 :女 性の平均初婚年齢年 齢
年
齢
三
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ヽ
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1●1・80 1 11" 1701・ 10 1721‐30 1741‐ 50 1761・ 70 1701」 ―
" 1801・10 1321・ 30 1841‐ 卸
1691・
00 17oコ
1■140 175160 1771・ 80 1"1・m 1011.m l"140 1051・60― 全員
― 大農層の妻
→← 土地なし層の妻結婚あた り平均出生子数 も、特に多いとい うことはなか った。最初の結婚が無事 に継続・ 完了 し た場合には、全体的に平均
5。
5人の子供が生まれた。 この数字 は、1700年頃の4。
9人か ら19世紀初 め の6.0人に上昇 した。 この間のこうした変化が女性の結婚年齢の低下を反映 しているということは、結婚生活において意図的な出生力の制限が行われていないときに予想 されることである。実際に夫 婦 は、.目標 とした数の子供をもったあとで も、子供を生むことを止めなか った。45歳まで生 きた女 性の最終出産年齢 は、平均 して40.9歳であった。興味深いことに、女性の最終出産年齢の平均 は、
1700年頃の40.3歳か ら19世紀半ばの41.4歳に上が り、同時に結婚年齢 も下が ったのである。
女性の初婚年齢がどちらかといえば高めで、結婚あたり出生数 もそれほど多 くなか ったことか ら して、持続的な人口増加は期待 しにくいであろう。 しか し、人口が増え続けた重要な理由が一つあっ た。それは、結婚があまね く行われたということである。単独相続 にもかかわ らず、結婚 は、結婚 または相続によって保有地を獲得できる人々だけに決 して限 られていなか った。 ホイアー リング制 と農村亜麻織物工業の興隆のおかげで、土地所有権を もたない男女 も結婚することができた。1812 年のセ ンサスが示す ところによれば、およそ3000人の総人口の うち、45歳以上で結婚 していなか っ たのは、男10人、女9人 (すなわち、 この年齢集団のすべての男 と女 に占める比率では、それぞれ
‑46‑一
年 齢
32 3︲
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年 齢
図6 ベルム教区:男性 の平均初婚年齢
-- ?'-l--+--+--+-+-F-i-- | . -f --[.-l-{--
8651・
80 101ヨ" 1701・10 1721・ 30 1741・ 50 1761・70 1■1・90 1801・1● lo21・30 1 3・m
101‐
00 17"o" 1■340 1751・
60 o771・ ●●│'1・
00 1011・ コ lo■ 140 1351・ 60― 全員
一 大農層 半 土地な し層
3.5%と3.2%)にす ぎなか った
4。
奉公人 (servant)で あるあいだは独身でなければな らなか った。 しか しベルム教区では、奉公 人の身分 は生涯の一時期にすぎなか った。1812年のセ ンサスが明 らかに しているように、奉公人の 身分 は14歳で 一― 同教区で大多数を占めたルター派に関するかぎり、堅信礼のあとに一一 始まり、
そ して通常の結婚年齢で終わるのが普通であった。1812年には292名の男性奉公人 と312名の女性奉 公人の うち、半分 (男性50%、 女性53%)が20歳以下であった。 これ らのグループを除いて、男性 奉公人の34%と女性奉公人の40%が 〔20歳以上〕30歳以下、 そ して40歳を超えていたのは男女両者 のわずか2%にす ぎなか った
5。
ホイアー リング制 は、一片の小作地、労働者 としての雇用、および住むための小屋を用意 して く れた。亜麻織物生産 は特に農閑期に追加所得を提供 して くれた。その結果、同教区のほとんどすべ ての人が結婚できたのである。 さらに、財産をもたない人たちは概 して土地所有農民よりも若い年
4「ョーロッパ型の結婚パ ターン」の地域 としては、これはきわめて低い上ヒ率である。cfo Schofield 1985;Weir 1984; Henry and Houdaille 1978‑1979, part l, esp. pp. 50‑51, 57‑58; IInhof 1990, pp. 69‑70; Ehmer
1991, p. 239, cf. pp. 123‑127, 310‑319.
51812年 のセ ンサス名簿では、14歳以上 のほとん どすべての未婚者 は、家族復元によってかれ らが世帯主 自身 の息子 と娘であることが証明される場合でさえ、「奉公人」 と呼ばれていた。そのような記載の仕方が行われ
ていない1858年のセ ンサス名簿では、奉公人の年齢分布はあまり分散 していない。
Ψ
齢で結婚 した。男性の初婚年齢の平均 は、土地を もたない下層民27.9歳、小土地保有農28.5歳、大 土地保有農民
29。
1歳であった (図6)。
この原則か ら外れる短い時期が若干あったけれども、それ らを除 けば、 ベルム教区のこうした状況 は、 ジョン・ ノーデル (」Ohn Knodel)が ドイツの別の 村をサ ンプル調査 した結果 と対照的である。彼が研究 した村落の大部分では、労働者は裕福 な村民 よりも遅 く結婚 したのである (Knodel 1988,pp.130‑136;cf.Schlumbohm 1991)。 この対照的 な現象 は、多分ベルムのようなプロ トエ業化 された農村教区 (agrarian̲protoindustrial parish) における家族形成の条件が他の村落のそれ とは違 っていた (社会構造が違 っていたのと同様 に)こ とを示 している。すなわち、ベルムで も、大保有地の相続人は他のところと同様 に農場を単独相続 するまで結婚を延期せねばならなか った。他方、相続や結婚を通 じて農場を受 け継 ぐことを期待できなか った人々にとって、比較的早 い結婚 にたいする障害 はなにもなか った。
夫婦のあいだで意図的な産児制限が行われていなか ったので、夫の結婚年齢 よりも妻のそれが、
生まれて くる子供の数 にはるかに重要な影響を及ぼ した。社会階層 による結婚年齢の相違 は男性 よ りも女性 においてず つと明瞭であるが、女性の階層別結婚年齢の高低関係 は男性の場合 とは逆になっ ていた。 この間変わることな く、土地を もたない男性 は、土地保有農民に比 して、より年配の女性
と結婚 した。土地な し農民の配偶者の平均結婚年齢 は
26。
7歳、小土地保有農の配偶者のそれは25.8 歳、そ して大農場所有者の配偶者のそれは24.4歳であった (図5)。
これは、社会的身分 に応 じて 夫婦の年齢パ ターンに顕著な相違があったことを意味する。 こうした相違 は、それを史料によつて 初めて明 らかにす ることが可能 になる18世紀初 めか ら、研究対象になっている時期の最後 にいたる まで存続 した。夫 と妻の初婚年齢 に関 していえば、大土地保有農民は妻 より普通4.7歳年上であり、小農場所有農 は3.3歳年上、土地な し農民 は1.6歳年上であった。
土地な し農民の妻 は土地保有農民の妻 より晩婚であったけれど、彼女たちの出産期間が遅 くまで 伸びることはなか った し、出産間隔が短 くなるという傾向 も見 られなか った。 これは、彼女 たちの 生む子供数が通常、大土地保有農民の妻たちよりも1人少ないことを意味 した。最初の結婚生活が 配偶者 の死 によって途絶え ることな く45歳の誕生 日まで続いた場合、大土地保有農民には6.4人の 子供がいたのにたい し、土地を もたない夫婦には5.4人の子供 しかいなか った。
ベルムにおける乳幼児死亡率 はかな り低か った (cf.Imhof 1990;Knodel 1988,pp.39.46;
Wrigley and Schofield 1983,pp.175‑180;Houdaille 1984;Flinn 1981,pp。
132‑137)。
すなわ ち、1771年と1858年のあいだに、出生後1年以内に死亡 したのは15%で、70%が15歳まで生 きた。階級間の重要な差異 はなか った。
一‑48‑―
家族 と社会階層間の (非)流動性
これ らすべての子供たちはどの社会的地位を手に入れることができたのだろうか。 この農村社会 では領主制 と国家の統制の もとで保有地数が厳格 に一定不変に保たれてきたという事実は、すべて の世代の将来への見通 しにとって極めて重要な意味をもった。事態の成 り行 きを規定 したのは、一 定数 しかない土地保有者の地位 と増加する子供数 とのあいだの不均衡であった。
分割できない大農場を所有する農民夫婦 は、子供 にどのような地位を与えることができたであろ うか。 まず第一に、子供たちの1人だけが農場を相続 した。地方研究の専門家たちが指摘するとこ ろによれば、相続人の特権を与え られるのは長男か末男かという慣習は、村落 ごと、農場 ごとにさ え異なっていた。古 くか らの了解 によれば、男性相続人が生存 しない場合にのみ、両親の保有地を 相続す るチ ャンスが娘 にまわぅてきた。だが個々の家族を研究 してみると、地方で実際に行われて いた相続 は予想以上 に柔軟性に富んでいたことが判 る。息子が生存 していたにもかかわ らず、両親 は娘に農場を譲渡する場合があった。旧体制 (αん
cjο
ん ″」れの に十分に近い時代の学者たちは、「地方 の慣習 ない し慣習法 Cαんを
abrα
cん ο∂οr Gθ″οんんんοjおrθ
cんι,local custOm or common law)と法理論 (juridical theOry)と のあいだには大 きな相違があること」をよ く知 っていた。「前者 は常 に状況 に適応 し、矛盾す るように見える原理の辻棲を合わせようとするのにたい し、後 者は常に一定不変の原理を無条件に実行 しようとするのである」(Stive 1853=1882,vol.2,p.842)。
他のところで もそ うであったように、相続人を選んで財産を譲渡することは、当時実施 されていた 原則か らの演繹ではな く、戦略の結果であった (Bourdieu 1976)。
第二 に、大保有地をもつ両親 は、平均 して1人の子供 は同等の社会的地位の配偶者 と結婚できる だろうと想定できた。息子たちが相続人 として優遇 されたとすれば、それとの対応で娘たちは、同 等の保有地をもつ農民の妻 になったであろう。 この間ほとんど変わることな く、大土地保有農民の 圧倒的多数 はかれ らと同等の社会的地位の娘 と結婚 した。 自分よりも低い身分の家族出身の配偶者 を選んだのは、7人の うち1人にす ぎなか った。 というのは、配偶者の結婚持参金は彼女 (または 彼)の両親の財産 に依存 したか らである。そ して多額の結婚持参金 は、生家を出ていく兄弟姉妹に 農場の相続人が支払わなければな らない補償金の一部を賄 うことができた。
大人の死亡によってつ くりだされた空席 は、大農場をもつ家族出身の2人以上の子供が両親 と同 じ農民 としての地位を保持することを可能にした。死はもちろん個人にとって予測できない事故で あった。 さらにそれは、地方の住民全体にとつて生活 と結婚の構造の一部を成 していた。 こうして ベルムでは、結婚の29%はや もめになった人々の再婚であった。結婚市場における若い男女の見通 しをいっそう拡げたのは、寡婦の83%と鰈夫の87%は、やもめになった人々を配偶者 として選ばず、
初めて結婚する人たちの結婚相手よりもあまり年をとっていない未婚者を選ぶという事実であった。
大農場をもつ寡婦 と結婚する若い男は、 自分の生家の姓を棄て、妻の姓、つまりより正確にいえば、
彼が結婚 して受 け継 ぐ保有地の名前を引 き継いだ。彼の法的地位 は、最初の結婚 による息子がいる か否かにかかっていた。 もしいなければ、彼は保有地を永久的なすべての権利 とともに引き継いだ。
その当然の結果 として、 この農場 におけるそれ以前の世代の血のつなが りは、 このような場合には しば しば途切れた。 しか しなが ら、 もし以前の結婚による子供たちがいる場合 は、新 しい夫 は、未 成年の相続人が成人す るまで、保有地の一時的な管理者 として行動するものと了解 されていた。そ れで もかれは、義理の息子 に家長の地位を譲 るとき、隠居分 (■ιιθれιθjι,retirement portion)を 当てにす ることがで きた。
再婚を希望す る寡婦 と鰈夫 によって結婚の見通 しが拡が ったとはいえ、大農場 を所有する両親 は すべての子供に自分たちと同等の社会的地位を与えてやることはできなか った。 こうして下降移動 (down mObility)を経験 した者 もいた。1771年と1860年のあいだに結婚 した世代についてみると、
結婚する年齢 に達す るまで生 きた大農場出身の子供たちの37%は、相続によって も結婚によって も 両親 と同 じ身分を確保できなか った。結婚 して小農場 を受 け継 ぐことによってなにが しかの土地を 獲得す ることがで きたのはわずか10%にす ぎなか った。27%はかれ らの生涯の残余期間をホイアー リングとして過 ごした。下降移動 は息子たちよりも娘たちに広 く見 られた。結婚する年齢 に達する まで生 きた娘たちの45%が下降の運命を経験 したのにたい し、同 じ運命をたどった息子たちは26%
にすぎなか った。下降移動 は18世紀末期か ら19世紀初めを通 じて増加 し、1830年以後に少 しもち直 した。 この時期、相続人か ら外 された子供たちのなかには、故郷でホイアー リングになるよりもア メ リカに移住するのを選ぶ者がいたようである。
同様 に小保有地を もつ夫婦の子供たちも、結婚や相続を通 じて自分の地位を維持 しようとしたよ うに思われる。 けれども、驚 くには当た らないことであるが、成功す る者 はますます少な くなって いった。10人の うち4人以上、つまり息子のほぼ3分の1と娘の半分以上が、 ホイアー リングとし て生涯を終えた。他方、小土地保有農の娘たちには、大農場の相続人 と結婚できるチャンスが16分 の 1の 比率で存在 した。彼女たちの兄弟にはほとんどなきに等 しい可能性であった。
土地保有農民の子供たちのなかにも下降移動を経験 した者がいたとはいえ、 ホイアー リングの大 多数 は、すでに18世紀の最後の3分の1期までに土地 な し家族の出身者によって占め られていた。
このことは、8人の男性の うちほぼ7人に妥当 した。そ して土地をもたない男性の5分の4が同 じ 身分出身の娘 と結婚 した。男女 とも、 自分 と同様 に土地を もたない階級か ら配偶者を リクルー トす
る傾向が引き続 き強まっていった。18世紀末期 に結婚 した世代の男性のうち、81%がそのような結 婚を した。 この比率 は19世紀半ばには90%に上昇 した。また女性の場合は、74%から88%に上が っ た。
‑50‑―
土地をもてる者 ともたざる者 との結びつき :農 民保有地の構造
大保有地 において、農場所有者 (peasant Owner)は 母屋 (main house)に家族や奉公人 と住 んだ。農場 には1軒以上の小屋を建てるのに十分なスペースがあった。 というのは、農場主の家屋 は密集 して建 っているのではな く、村 として緩やかにまとまっているか、 もしくは互いに離れて建 っ ていたか らである。土地を もたない家族 は、農場内のこれ らの小屋に住んだ。1772年のセ ンサスが 示す ところによれば、大保有地 に住む土地な し世帯の平均人数 は2人であ2た。 それは1858年には 2.8人に達 し、最大値 は9人であ った。人 口が増加するにつれて、農場所有者 は、 自分の保有地に 新たな借家人 として受 け容れた世帯のために小屋を新設することができな くなった。1772年には、
土地な し世帯の75%が家や暖炉を共用 していた。 したが って大保有地 とは、実際には特定の農場に 結びついた家屋の集合 にほかな らず、そこには相当数の人々が収容 されていた。1772年には平均住 民数 は16人であったが、1858年までにそれは23人に増えていた。最大値は56人だ った。
大農場を所有す る農民世帯 とホイアー リングの世帯 は、規模 と構成においてまった く異なってい た。1772年に大土地保有農民の平均世帯規模 は土地 な し家族の2倍以上であ った
(そ
れぞれ8.4人 と4.0人)。
1858年までに土地な し世帯 は5。
1人に増えていたのにたい し、大農場所有者の世帯規模 は変わ らなか った (8.5人)。
この世帯規模の相違の主要な原因は奉公人の存在であったことが、1772年のセ ンサスか ら明 らかになる。大土地保有農民は平均2.5人 (男女比 は半々)の奉公人を もっ ていた。 これにたいしてホイアー リングは、稀な例外は別として、まったく奉公人をもっていなかっ た。大農場では、農場所有者 とその家族は通常すべての仕事をかれ らだけで行 っているのではなかっ た。年間を通 じて二定量の追加的労働が必要であった。そのような労働は、農場所有者の世帯に住 込みの奉公人を雇 うことによって調達 された。 しか しなが ら、季節的に必要 となる労働の ピークは、
保有地に住むホイアー リングとその妻に頼 ることによって、 もっと経費を節約する仕方で賄われた。
土地な し世帯の規模が小 さい第2の理由は、同居 している息子や娘の数が少なか ったことにあった。
1772年には (1858年ではない
)、
親族の同居 は稀であった。土地を もたない家族 にあっては、概 し て夫婦2人が働いて食べていくのが精一杯であった。かれ らの事実上すべての息子 と娘の大多数が、14歳になると土地保有世帯の奉公人になるために家を出て しまっていた。 しか しなが ら、大保有地 を もつ平均的な農民家族においては、14歳以上の息子か娘の1人が 〔予定相続人 として〕住み続 け た。そのうえ、大保有地を もつ農民世帯の平均規模は、世帯主またはその妻の父母やその他の親戚 の同居 によってほぼ1人分 (1772年には0.7人)だけ大 きくなった。1772年には、土地な し世帯 に おけるそのような拡大 された関係の存在は稀であった (世帯 あたり0.2人
)。
小土地保有農の平均世帯規模 は、土地な し世帯のそれと大農場保有者のそれとのあいだにあり、
後者 よ りも前者 に近か った (1772年には世帯 あた り5.0人、1858年には5.9人
)。
自分 の農場 に土地な し世帯を住 まわせている小土地保有農 はごく少数で、 これ らの土地な し世帯 はふつ う大家族では なか った。だか ら、小農場 に住む人々の平均数 は1772年には6.4人、1858年には7.9人であった。
特定の保有地 における土地保有農民 と土地な し世帯 は、 もちろん経済的な絆で結 びつけられてい た。ホイアー リングは、住むための小屋、一片の小作地、および定期的に役馬の使用を必要 とした。
農民のほうは、小作料 と、仕事の ピーク期 にホイアー リングとその妻の労働を必要 とした。 しか し なが ら、経済的な関係のほかにも、 ホイアー リングと特定の農民地主 (peasant landlord)を 結 びつける紐帯が存在 したであろうか。地元で行われている説明のなかで相 も変わ らず強調 されてい るのは、土地をもたない人々は基本的に土地保有農民家族の子孫だったということである。 しか し なが ら、土地をもたない家族のあいだでの階層内結婚 (self―recruitment)の増加 は、 この種の親 族関係がますます遠 いもの となっていったにちがいないことを意味 している。1858年のセ ンサスの データを家族復元 (family reconstitution)と 結 びつ けることによ つて、本稿が対象 としている 時期の末期 に関 して、 このタイプの問題をかな り正確に分析す ることがで きる。われわれは、世帯 主 とその妻の半分以上について、かれ らの父が土地を もっていなか ったか、大農場保有者であった か、あるいはまた小農場保有者であったかを確かめることができるのである。
このサ ンプルでは、土地をもたない男性世帯主の うち、91%は父親 も土地をもっていなか った。
小土地保有農の息子 と大農場保有者の息子 は、それぞれわずか6%と 3%にす ぎなか った。土地を もたない男性 と結婚 した女性の圧倒的多数 (83%)は同様 に土地 な し家族の出であったが、父親が 大土地保有農民や小土地保有農であった者 もいた
(そ
れぞれ10%と 7%)。 こうして1858年までに、社会的下降移動 (downward social mobility)は、土地保有家族出身の息子や娘 の一部 に影響 を 与えていた。大土地保有家族出身の世帯主 とその妻の うち、男性の81%は1858年に大農場を保有 し ていたけれども、女性 は58%にす ぎなか った。男性の7%と女性の30%は土地を もたず、男女 とも 12%が小土地保有農であった。小土地保有農の出身者のうち、男性の28%と女性の45%は土地をまっ た くもっていなか った。
相続人か ら外 されたこれ らの土地保有農民の息子や娘は、 ホイアー リングとして生家の農場 にと どまったのであろうか。 この場合かれ らは、土地をもたない世帯全体のなかでまった くの少数派だっ た。 しか しそうだとしても、かれらはもしか したら土地保有者と土地なし層との全体的関係におけ る安定化要素であったかもしれない。 というのは、特定の農場のホイアーリングの 1人 が地主の兄 弟または義理の兄弟であったとすれば、 こうした「親族関係」
(
kin relationship̀")は 、土地保 有家族 と土地なし家族 との「結びつきを別の色で染めあげ」(
color other ties")、 こうして両当 事者が「階級意識」(
consciousness of class membership")に 目覚めるのを阻止するのに役立 ちえたか らである (Mintz 1973/1974b,pp.305,319;cfo Mintz 1973/1974a,esp.p.101)。 し かしながら、われわれの研究が明 らかにするところでは、19世紀半ばのベルムではそのようなこと‑52‑
はほとん どありえなか った。土地保有農民の息子 と娘 は土地を もたない住民全体のなかではごく少 数 にす ぎなか った。そ して、かれ らの うち小土地保有農の息子や娘 は、事実上すべて自分が生 まれ た農場を去 らざるをえない運命にあうた。その農場 はしば しば1家族以上が住める大 きさではなかっ たか らである。 さらに、大土地保有農民の息子や娘の うちで相続人か ら外 された者の半分は、両親 の農場を去 ってベルム教区のどこかでホイアー リングになった。土地保有家族の相続人か ら外され た子女が、幸運な兄弟姉妹の1人が結婚で獲得 した保有地でホイアー リングとして暮 らす という事 例 は、一つ として見出されなか った。農場所有者の子女が世帯主 またはその妻であるような土地な し世帯を含んだ大保有地は、10件に1例しかなか った。 このように、農場所有者 とその保有地にい るホイアー リングとのあいだでは、緊密な血縁の紐帯は稀な例外であった。
他方、土地を もたない階級の一員 として生 まれた人々のあいだでは、親族の絆 は重要だったよう に思われる。かれ らは助け合 ってホイアー リングの勤め口を見つけ、兄弟姉妹の1人が 自分のいる 農場 にもう1人を呼び寄せた。1858年に土地な し世帯の戸主 またはその妻であった人々の兄弟姉妹 関係を確かめてみると、同 じ農場 にホイアー リング (cO現しじθ
rι jん
gθ οれ ιんο sαれθんοιαjん
g)と し て雇われている兄弟姉妹がほぼ4件に1例の割合で見出される。親族ネッ トヮークは、世代間で も 同様に重要であった。年老いた人々や若い夫婦 は、 しば しば親族関係を通 じて住むべき場所を見出 した。特 に経済的に困難な時期にはそうであった。1772年に見 られた状況 とは反対 に、1858年には、土地な し世帯 にはや もめゃ既婚者がかなりの程度同居 していた。家族復元か らは、センサスの リス トその ものが しば しば隠 していることが明 らかになる。稀な例外は別 として、 これ らのや もめゃ既 婚者 は世帯主やその妻の近い親戚で、通常 は両親や息子/娘であった。その うえ、 もっと詳 しく分 析 してみると、かれ らは血のつなが った両親や子供でな く、継親や継子、あるいは死亡 した前夫や 前妻の両親 (かれ らは再婚 した義理の息子や娘 と同居 し続けていた)であ ったことが判 る。住居 は 狭 く経済的手段 もきわめて乏 しか ったにもかかわ らず、 このような1人あるいは複数の親戚を住 ま わせていた土地な し世帯の比率 は19%であった。 これは、大農場保有世帯 に劣 らない値である。 こ の農村 社会 で は、 貧 しい人 々 は「 親戚 につ いて貧 しく」
(
poor in relative")は なか った (Bourdieu 1976,p.121)。 む しろ貧 しい土地な し階級 における世代間の関係 は、譲渡すべ き土地 財産を もった家族に劣 らず強か ったように思われる。土地をもたないということは親族をもたないということを意味 しなか った
6。
6こ の発見は、「財産がない場合には拡大 された親族の紐帯を発展させる傾向がほとんどない」(Sabean 1976,
p.98)とい う見方 と合致 しない。南西 ドイッの農村については、cf.Sabean 1990,p.35:「両親が尊敬 さ れたのは財産の源泉だ ったか らであり、少な くとも表 された価値か らみて、費やされるべき 〔……〕努力量 は、譲渡 される財産額にまさに比例 していた。」
地方の土地所有農民 と土地をもたない下層民が、かれ らの保有地、世帯、家族を組織 した仕方は、
外生的な経済的・ 社会的変化 にたいす る対応 としてだけでな く、人 口学的0社会的発展を形成す る 積極的な貢献 とでして も観察 されるべ きである。過去の人々によって階級が知覚 され、演 じられ、隠 される仕方 は、保有地や世帯や家族 といった ミクロ構造によって影響を受 けたと思われる。 ここで のわれわれの事例を、疎遠 に見えるか もしれない類例 と比較 してみるのは、問題の要点を明 らかに す るの に役立 つか も しれ ない。 フ ラ ンスの文化人類学者 ベルナール・ ヴェルニエ (Bernard Vernier,)に よって分析 された (1984年)ギリシアのカルパ トス島では、19世紀 と20世紀初めに同
じように単独相続が行われていた。 しか しなが ら、経済的・ 生態的条件があまりにも貧弱であった ため、相続人か ら外 された子供たちは、結婚 して世帯を形成する手段をもたないのが普通であった。
そのかわ りかれ らは、 自分たちより幸運な兄弟姉妹の家族内に独身の労働者 として とどまった。 こ の飼い殺 しにされる人々 (exploited group)は こうして自分を生物学的に再生産するチ ャンスを 奪われたのであるが、財産を有す る家族の一員だ という自覚を もち続 けた。近世北西 ドイツか らの われわれの事例では、農業制度 と亜麻織物家内工業 との同時的な発展によって、財産をもたない人々 も結婚 して家族をもつ ことが可能になった。その結果 として、農村プロレタリアー ト階級が出現 し、
19世紀初めには全世帯の3分の2以上を構成す るまでになった。 しか しこれ らのプロレタリアー ト は解放 されず、土地保有農民 と完全 に対立 していた (cfo Mooser 1984,pp.255‑266,350‑355)。
この地域の特殊な農業社会制度 は、領主 と身分制議会 と国家のかなり厳格な統制のもとで、プロ ト エ業化によって解体 されたのではな く、編成 しなおされた。亜麻織物工業の季節的な性格 は、社会 的分業の欠如 と相侯 って、農業制度 に緊密 に組み込まれたので、土地保有農民 は脅かされることな く支配を続 けた。のみな らず、かれ らは農村工業の領域 にまでに進出 した。 このように、他の多 く のプロ トエ業地域 とは違 って (Kriedte,Medick,and Schlumbohm 1981,pp.64‑73;Braun 19
90)、 土地をもたない階級は土地保有農民のヘゲモニーか ら多少 とも解放 されるようにはな らなか っ た。そのかわ り、かれ らは小 さな集団に分 けられて、個々の大農場 に雇われた。確かにかれ らは自 分 自身の世帯 と経済を もった。 しか しかれ らの経済 は、農場所有者のそれときわめて緊密に結合 さ れていたので、半分 しか独立 していなか った。 ホイアー リングは、農場保有者か ら仕事を命ぜ られ る度 ごとに、 自分の小作地での仕事をあとまわ しにせざるをえなか った。そ して畑仕事のなかのい くつかは、地主の役畜を借 りずに行 うことがで きなか った。
19世紀半ばの数十年間までにプロ トエ業の条件 は悪化 し、共有地の分割 はホイアー リングか ら農 業的経済資源の重要な部分を奪い取 って しまった。 この時期 までに、土地をもたない家族 と土地保 有家族のあいだの親族関係 は希有の例外 になっていた。他方で、土地を もたない家族のあいだでの
結
―‑54‑―
親族 関係 は強 め られたよ うに思 われ る。 それ に、 ホイアー リングが 自分 たちを土地保有農民 とは異 な った階級、土地保有農民 に搾取 され る階級 と して 自覚 しは じめた ことを示す徴候 もい くつか見 ら れ る。 1833年 にベルムか らアメ リカに移住 したあ るホイアー リングの別れの手紙が残 ってお り、 そ のなかで彼 は地方 の国家役人 に自分 の境遇を説明 しよ うとした。
「 どのよ うに土地保有農民が ホイアー リングを扱 うか とい う事態の本質全体 を説明 しま しょ う。第1にホイアー リングは、 貧弱 な小作地 の対価 と して土地保有農民 に重 い貨幣小作料 を支払 わねばな りません。第2にホイアー リングは、土地保有農民 を助 けて耐え きれない ほど多 くの仕事 を しな ければな らないので、 自分 自身の仕事 は夜 にせぎるをえません……
貧 しい ホイアー リングが1日分 の賃金 を稼 ごうとすれば、『 駄 目だ。 お前 は私 の仕事 を手 伝 わ な くてなな らない。 さもな くば、今す ぐ私 の小屋か ら出て いけ』 と言 われ ます。 この よ うに、全体的な状況 をいえば、 ほとん どすべてのホイアー リングは貧 しく、 ドイツを去 っ て他 の国へ移住す ることを余儀 な くされています。 もし貴方様が これを変え ることがで き なければ、事態 は悪化 す るばか りで しょう……土地保有農民 はホイアー リングを食 い もの に しています……」
1848年 には、現状 に甘ん じるか、 それ ともアメ リカに移住す るか とい う選択 のほかに、第3の選 択肢が現 われ るよ うに思 われた。 オスナ ブ リュ ック地域 のい くつかの教区で、 ホイアー リングは結 社 をつ くった り、力ず くで土地保有農民 と政府 にかれ らの境遇 を改善 させ るために暴動 を起 こした
り したので あ る。
参考文献
Bourdieu, Pierre。
1976。
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jtt
αんごSοcjο
り,edited by Robert Forster and Or6st Ranum.BaltimOre:John HOpkins University Press.
Braum, Rudolf。 1990.」碗α
sι
rJαJjsαιjο
れ αんα Eυθ′ッJ¢ッ L権。 cambridge:Canlbridge University Press.Collomp, Alain. 1983. Lα れα