中国社会変動における村落と家族 : 研究経過報告
著者 涌井 秀行
雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =
Annual report of the Institute for International Studies
号 9
ページ 59‑63
発行年 2006‑12
URL http://hdl.handle.net/10723/492
中国社会変動における村落と家族 研究経過報告
涌 井 秀 行
(1) 「中国社会変動における村落と家族――大躍進から文革期の人口激動」
兼2005年度 国際学部付属研究所第1回フォーラム(2005年6月1日・8号館2階会議室)報告内容 は『付属研究所報第9号』(本号)に掲載
第1報告:竹内啓「統計的アプローチによる中国近・現代史研究」
第2報告:涌井秀行「中国社会変動における村落と家族――大躍進から文革期の人口激動」
(2) 「中国社会変動における村落と家族」中国出張報告 10月29日(土)
東京・成田空港~北京空港~新鄭空港――鄭州市(以下地名・人名は中国簡体字を日本語表記、該 当する日本語表記がない場合は簡体字をそのまま表記)
10月30日(日)
鄭州駅~信陽~光山県城関鎮 光山県寨河鎮張囲孜村 鄭福眞宅 鄭福眞 鄭福禄 冯秀英ら村人の聞取り
聞き取りの詳細は、後掲<参考資料>
孫振海さんの友人の紹介であったが、地縁・血縁があっても聞き取りは非常に難しい。実際翌日
(10月31日)の聞取りは「村内」で葬式があるので村の中を歩かないことを条件に、屋内での聞 取りに限定を求められる。被聞取り者が質問内容を十分理解できない場合がある。若い人が、質問 の意味を説明する場面にしばしば出くわす。
10月31日(月) 午前中 2時間ほどの聞取り。ここでの聞き取りをあきらめて、午後鄭州市に移 動。
11月01日(火) 回郭鎮(孫の故郷)で孫の父に村の中を案内してもらい、1960 年当時の村の様
ここでの聞き取りは、孫が回郭鎮(第 8生産小隊 40世帯・178 人)の「餓死時代」の父の聞取 りに基づき、村の歴史として06年3月の研究会で報告予定(孫父に来日を依頼するか否か後日決 定――孫は今年から来年にかけての冬休み期間に本格的な聞取り調査を予定――)
11月02日(水) 鄭州~北京移動
11月03日(木) 徐進さん(中国社会科学院・人口・労働経済研究所)との打合せ
(イ)シンポジュームについて
日時場所 3月13日(月)午前9:30~午後5:00 白金校舎 20~30人規模
(ロ)委託聞取り・アンケート調査の打ち合わせ
(3) 「中国社会変動における村落と家族」国際シンポジューム a 日時場所 3月13日(月)午前9:30~午後6:00
明治学院大学白金校舎 本館91会議室 b 中国側御挨拶 日本側御挨拶(09:30~09:45)
c 報告1:王 躍生(wang yue sheng)中国社会科学院人口与労働経済研究所研究員(09:45~10:45) 河北農民家庭人口の生存条件分析-1930−90年代河北南部磁県を事例に
報告2:張 翼(zhang yi)中国社会科学院人口与労働経済研究所研究員 (10:50~11:45) 中国村落社会の人口変遷と養老問題
報告1と2に関する討論 (11:45~12:15)
---昼食・休憩--- (12:15~13:15) 報告3:孫 占坤 明治学院大学 (13:15~14:15)
民衆から見る「飢餓」のケース・スタディー――河南省のある村落の事例
報告4:平山 恵 明治学院大学 (14:15~15:15) 社会調査方法論「episode taking」について――中国農民の声を聞くとは
報告3と4に関する討論 (15:15~15:45) ---お茶・休憩--- (15:45~16:00)
総括討論 (16:00~17:45) d 閉会の挨拶 (17:45~18:00)
〈参考資料〉
2005年10月30・31日付属研究所プロジェクト「中国社会変動における家族と村落」
農村調査インタビュー記録
村 名:河南省光山県寨河鎮張囲孜村鄭福眞宅 訪問日時:2005年10月30、31日
訪 問 者:涌井、孫占坤、孫振海、平山 質問場所:同村 鄭福眞宅
1. 鄭福眞
4人の子供(41、40、37、34歳)
1940年生、満65歳、1959年(18歳)人民解放軍入隊、1962年結婚(同年除隊?)、 飢餓期に村に居ない。
2. 冯秀英
77歳女性紹介者および紹介者との関係:
このinformantは0.5km先の村から7歳ぐらいの時に童養媳(トンヤンシ:口減らしのような
奉公。そのままその家の嫁になることも多い。)として夫の父母に買(貰)われた。
10人の子供を生んだが、3人目の男の子を1歳ちょっとで亡くした。
子供は①郑传英 58F、②郑传龙 54M、③(死亡)④郑传虎 50M、⑤郑传华 48M、⑥郑传兵 43M、⑦郑传和42M、⑧郑传连40F、⑨郑传玲38F、⑩郑传荣36F
(注:数字は十二支の聞き取りから導出した2005年の満年齢 Fは女性、Mは男性-以下同じ)
<1959年当時3歳だった第5子とまた生まれていなかった第6子に5年の間隔があることに
1959年当時、7人家族つまり、本人と夫、夫の末弟(夫は7人兄弟でその2番目)と4人の子 供である。
父 母
鄭福眞 鄭福眞の弟 夫(鄭福眞の兄) 冯秀英(本人)
(5番目) (7番目) (2番目)
①郑传英 ②郑传龙 ③死亡 ④郑传虎 ⑤郑传华 ⑥郑传兵 ⑦郑传和 ⑧郑传连 ⑨郑传玲 ⑩郑传荣
57F 54M 50M 48M 42M 41M 40F 38F 36F
1948年 1951年 1955年 1957年 1963年 1964年
3. 鄭福禄
村で死亡した6人(下記参照)の中の郑绪宽の 1 人息子
父 母
(60年1月死亡)
姉(鄭福英) 本人 弟
姉は4k先の嫁ぎ先の村(呉寨)で家族3人(夫、子供3歳位、本人)で1960年頃生活。
本人は1958年人民解放軍に入隊、62年帰省村に居ない。電報で父(郑绪宽)の死亡を知る。当 時同居の弟(現在56歳、当時13歳)は現在信陽市近郊の化学工場に勤務。
2. グループインタビュー
この村では 1959 年が飢えのピークだったのか。61 年は本当に飢えてなかったのか。あるいは 59 年が飢餓のピークとすると58年の作柄も問題となる。
1959年1960年1961年共に平年作60、61年は前年より良。1958年から鍋などの回収があり、各家庭 に調理器具がなく、人民公社の食堂(台所?)で生産小隊ごとに食事を作るようになった。共産党幹
部は、「打倒白旗挿紅旗」といって、食料を規定どおり納めない家の前に白旗を立て、暴力的に食糧 を徴発した。共産党書記(王永章・当時47歳)と共産党青年(同盟)書記(張継軍・当時37歳)が 先頭にたって暴力的な収奪をおこなった。
食事の配給量は、属性による点数方式が取られた。男10点、未婚の女8点、既婚の女6点、高校 生6点?、中学生4点、小学生1、2点を満点とする労働生産性で決められた。<誰が判定したのか、
判定詐欺はあったか、などは不明。>
1959 年当時、人民公社からの給食(米と野草を混ぜおかゆのようなもの)槐樹(エンジュ)の花、
樹皮を粉にして野草と混ぜ(おかゆのようにして?)食べた。糠があればいいほうであった。畑から 収穫前の作物を「盗み」その場で食べた。盗んだものが共産党幹部に見つかった場合は、暴力を振る われるので、その場で食べた、残ったものは地中に埋めるなどして隠した。人民公社の倉庫から食糧 を盗むこともあった。その事例は少なかったようである。
この生産小隊の人口は約 70 人で、その内 6 名が餓死した。生産大隊幹部で餓死した人はいない。
(幹部の名前:共産党書記 王永章40歳代、共青団書記 張循軍?30歳代)
死亡した人は6名(马天成、马天芝、马天胜、郑绪明、郑绪照、郑绪宽)
informantの家から 1km先に住んでいた马天成、马天芝、马天胜の马三兄弟は20代で、それぞれ10
数日間隔で死亡した。2 人の嫁は死亡直前に村を出た。残りの嫁も死亡後村を出た。马兄弟の父親は 竹編みで現金収入があり、食堂の知人から食べ物を得ていた。<子供をほっとく親はいないので、马 兄弟を亡くしてから竹編みで生計を立てたということではないか。>このとき三兄弟の母はすでに死 亡していた。
〔なぜ马兄弟は死亡したかという質問に対して〕
「老実」(おとなし過ぎるという意)であった。つまり盗めばよかった。また「 」(“どじ” “あほ”
“要領が悪い”)であった。したたかさがなかったということ。
(注:えんじゅ【槐】エンジユ マメ科の落葉高木。中国原産。幹の高さ約 10~15 メートル。樹皮 は淡黒褐色で割れ目がある。夏に黄白色の蝶形花をつけ、のち連珠状の莢(さや)を生ずる。材は建 築・器具用。花の黄色色素はルチンで高血圧の薬。また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。黄藤。槐 樹。)
※本報告書は国際学部付属研究所共同研究「中国社会変動における村落と家族」の中間報告書である。