目 次 は じ め に 一
無 役 地 事 件 の 経 過 二
史 料 の 再 発 掘 三
裁 判 闘 争 と し て の 無 役 地 事 件 四
無 役 地 事 件 の 評 価 を め ぐ っ て む す び に か え て
は じ
め
に 明治 年間
、愛 媛県 の南 予地 方一 帯を 巻き 込ん だ「 無役 地事 件」 とよ ばれ る訴 訟事 件が あっ た。
「 無 役地 事件
」の 研究 をリ ード して きた のは
、近 代史 文
あ る。 特に
、『 愛 媛近 代史 料 第五 輯― 明治 前期 農民 運動 史 料 無 役地 事
は
、本 事件 に関 する 史料 を網 羅し たも ので
、研 究の 基礎 的条 件を 提供 した
。ま た機 関誌
『愛 媛近 代史 研 究
』や 同文 庫編 著『 愛媛 資本 主義 社会 史』 に、 無役 地事 件に 関す る研 究論 文を 掲載 し、 研究 の水 準を 引き 上げ てき た。 三
( 1
庫)
で
( 2
件)
』 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 二 五
(
) 一
無 役 地 事 件 再 考
矢 野
達
雄
好昌 文「 明 治維 新期 に おけ る階 級闘 争
―土 地所 有を めぐ る 農民 闘
青野 春 水「 無 役地 事 件覚 え書
など が それ であ る。 私 も「 庄屋 抜地 訴訟 と無 役地 事件
―自 由民 権運 動と の係 わり を中 心
と 題す る論 考を
『愛 媛近 代史 研究
』に 掲載 した が、 中 予の 庄屋 抜地 事件 の検 討に 重き を置 いた もの で、 無役 地事 件の 分析 につ いて は、 先学 の成 果を 踏襲 した に過 ぎな い。 しか し当 時か ら、 約三
〇~ 四〇 年が 経過 した
。無 役地 事件 につ いて は、 これ ら貴 重な 研究 成果 から 汲み 取る とと もに
、 新 たな 観点 から その 位置 づけ を考 え直 して みる 必要 があ るの では ない だろ うか
。私 はこ の間
、前 記史 料集 に収 録さ れて い な い判 決等 の発 掘に 努め ると とも に、 これ まで とち がっ た観 点か ら同 事件 をふ りか える 作業 を続 けて きた
。こ れに よっ て、 同 事件 の新 たな 像を 描い てみ るこ とが でき るの では と思 った から であ る。 一
無 役 地 事 件 の 経 過
「 無 役地 事件
」と は、 そも いか なる 事件 であ った だろ うか
。 江戸 時代
、一 村の 庄屋 役を 担当 する 者に 役地
(ま たは 役俸 地) が給 され るの は、 全国 的に 見ら れる 現象 であ った
。伊 予 に おい ては
、 松 山藩
・ 今治 藩に
、「 庄屋 抜地
」 と 呼ば れる 土地 が あっ た。 こ れ に対 して
、 宇和 島 藩・ 吉 田藩 の庄 屋役 地 は
「 無役 地」 と呼 ばれ た。 無役 地と いう 名称 は
、こ の 土地 に つい ては
、本 年貢 を納 める 必 要は あっ たも のの
、そ の他 の諸 役
・ 雑 税を 免除 され
とか ら由 来す ると 言わ れて いる
。弘 化年 間か ら、
「庄 屋家 督」 とも 呼ば れる よう にな った
。 明治 維新 後、 旧庄 屋と 村民 の間 で、 この 土地 の帰 属を めぐ る激 しい 闘い が勃 発し た。 明治 一〇
(一 八七 七) 年く らい か ら もっ とも 遅い もの で明 治三 六( 一九
〇三
)年 頃ま で、 ほぼ 明治 年間 を通 して 闘わ れた
。こ の一 連の 訴訟 事件 が、 無役 地 事 件で ある
。
( 3
争)
」、
( 4
き)
」
( 5
に)
」
( 6
る)
こ
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 二 六
(
) 二
明治 年間 を通 じて 南予 一帯 を揺 るが した 無役 地事 件に つい て、 その 経過 をふ りか える こと から はじ めよ う。
( 1
) 世 直 し 一 揆
― 無 役 地 処 分 段 階
無役 地事 件は、明 治初 年の 世直 し闘 争に おい て無 役地 の廃 止と その 共有 地化 が要 求さ れた こと に端 を発 する
。 明治 三( 一 八七
〇) 年、 宇 和郡 一体 で世 直し 一揆 が勃 発し た。 野村 騒動
・三 間 騒動 など とよ ばれ る一 揆の 中、 農 民た ち の 要求 の中 に庄 屋層 の特 権剥 奪、 なか んず く無 役地 の一 村共 有地 化の 要求 があ った
。宇 和島 藩は
、明 治三 年一 二月
、庄 屋 の 世襲 を廃 止す ると とも に、 庄屋 家督 地の 引揚 を決 めた
。一 揆の 要求 をあ る程 度反 映さ せた 処置 と言 えよ 翌年 にな って
、宇 和 島藩 は三 月に
、「 庄 屋家 督地
」( 庄屋 無役 地の こと
)の 四割 を旧 庄屋 に返 還す るこ とを 指令 した
( 以 下 この 処分 を「 四・ 六分 割」 とよ ぶこ とが ある
)。 一
旧 来村 浦庄 屋共 ノ役 分ニ 属シ 居候 諸役 免除 ノ地
、家 督今 般庄 屋世 襲廃 止候 ニ付 総テ 引揚 可申 所左 候テ ハ難 渋可 立 至 モ難 計ニ 付、 憐憫 ノ筋 ヲ以 テ引 揚高 ノ内 四歩 通従 来ノ 旧庄 屋ヘ 相渡 シ六 分通 差配 共ノ 給ニ 配当 為致
、尤 諸役 ハ 夫 々上 納申 付候
、此 段改 正ニ 及ヒ 候事 明治 四年 四月
宇 和島 藩
旧藩 時代 庄屋 の所 持地 はす べて 無役 地で あっ たの で、 これ をす べて 引き 揚げ られ ると
、旧 庄屋 は自 家の 維持 すら 難渋 と
( 7
う)
。 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 二 七
(
) 三
な る。 これ を慮 った 処置 であ っ 明治 四年 の廃 藩 置県 によ って
、旧 来の 藩体 制は 崩れ
、全 国三
〇二 藩は その まま 三
〇二 県と なっ た。 宇和 島藩 も宇 和島 県 に 替わ った
。初 代宇 和島 県権 令と して 赴任 した のは 名古 屋県 士族 間島 冬道 であ った
。間 島は
、明 治五
(一 八七 二) 年四 月 四 日に 至 り、 藩 に留 保 され てい た 庄屋 家督 地六 分 を旧 庄屋 に返 還 する べき 旨を 達 し
さき に 返還 され た分 を 含め て無 役 地 のす べて が旧 庄屋 に返 還さ れた ので ある
。 一
持分 ノ 田畑 近年 六 分通 旧 県ニ 於テ 取 揚置 候 分吟 味 ノ上 今般 返 シ遣 候 事 但 諸役 掛ノ 物 ハ並 ノ 通相 勤候 事 一
当時 免 役ノ 庄屋 共 家督 前 条同 様ニ 相 心得 可 申且 代 リ相 勤居 候 者ヱ 役 給免 役 ノ庄 屋ヨ リ 追テ 差 図迄 相 渡置 可申 事 一
役宅 自 今廃 シ可 申 取片 付 ノ儀 ハ村 中 申合 次 第可 取 計事 但 時宜 ニ寄 リ 其儘 差 置度 向ハ 其 旨可 申 事 明治 五年 四月 四日
宇 和島 県
明治 六( 一八 七三
)年
、神 山県
(宇 和島 県の 名称 変更
)お よび 石鉄 県( 松山 県の 名称 変更
)の 両県 は合 併し て愛 媛県 が 誕 生し
、そ の参 事に 江木 康直 が就 任し た。 誕生 した ばか りの 愛媛 県も
、こ と無 役地 の処 置に つい ては
、無 役地 の全 面的 庄 屋 所有 を認 めた 宇和 島県 の措 置を 踏襲 した
。
( 8
た)
。
( 9
た)
。
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 二 八
(
) 四
愛 媛県 は、 旧 宇 和島 藩管 下の 組 頭家 督や 横目 給 畑な ど他 の役 地に つ いて は一 村共 有 とす る達 を指 令 し
(明 治七 年五 月 二 七
ま た旧 石鉄 県 下の 庄屋 抜地 に つい ても 村民 共 有を 原則 とし た
( 明治 七年 五 月七 日番 外
ので
、 こ れら と比 較 し て も、 異例 の方 針を 貫い たの であ る。
( 2
) 初 期 行 政 訴 訟 段 階
農民 たち は、 無役 地の 旧庄 屋へ の全 面返 還に 納得 でき なか った。東 宇和 郡東 多田 村・ 西宇 和郡 宮内 村・ 宇和 郡舌 間浦 の 農 民た ちは
、農 民側 を原 告と し愛 媛県 を被 告と して
、上 記決 定に 対す る処 分不 服の 行政 訴訟 を提 起し た。 総代 とし てこ れ ら 一連 の訴 訟を 率い たの は、 市村 敏
よ び二 宮新
両名 であ った
。 まず
、明 治一
〇( 一八 七七
)年 七月 に東 宇和 郡東 多田 村農 民が 市村 敏麿 を総 代と し、 愛媛 県令 岩村 高俊 を被 告と して
、 大 阪上 等裁 判所 に処 分不 服の 訴訟 を提 起し たが
、同 一一 月原 告敗 訴の 判決 があ った
。 同一 一( 一八 七八
)年 三月 には
、舌 間浦 人民 が市 村敏 麿・ 萩森 安治
・岡 軌光 を総 代と して 出訴 し、 また 宮内 村人 民が 市 村 敏麿
・二 宮新 吉を 総代 とし て大 阪上 等裁 判所 に出 訴し た。 宮内 村事 件に つい ては
、明 治一 二( 一八 七九
)年 一月 三一 日 大 阪上 等裁 判所 で判 決が あり
、原 告敗 訴で あっ た。 舌間 浦事 件に つい ては
、判 決月 日は 明ら かで はな いも のの
、や はり 一 二 年中 に原 告敗 訴の 判決 があ った
。 宮内 村事 件に つい ては
、同 一二 年三 月、 市村 敏麿
・二 宮新 吉を 総代 とし て大 審院 に上 告し た。 同年 七月 一二 日、 大審 院 に おい て却 下 の判 決
(担 当― 関 義臣
・ 北畠 治房
・ 伴 正順
) があ っ た。
「 そ の筋 の申 稟を 経 て裁 判を 与え た もの だか ら、 大 審 院に おい て受 理の 限り でな い」 とい うの が理 由で あっ た。
(
)
日10
)、
(
)
達11
)
(
)
麿12
お
(
)
吉13
の 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 二 九
(
) 五
判決 に納 得で きな い農 民側 は、 管轄 行政 庁か ら「 添翰
」が 裁判 所に 提出 され れば
、裁 判が 続行 でき ると の理 解の もと に、 明 治一 三( 一八 八〇
)年 七月
、七 三か 村総 代と して 市村 敏麿 ら一
〇名 を選 出し
、管 轄庁
(大 蔵省
・内 務省
)へ
「添 翰願
」 を 提出 した
。当 時の 内務 大輔 品川 弥二 郎は 農民 たち の働 きか けに 理解 を示 した と伝 えら れる
。 しか し、 品川 弥二 郎が 農商 務省 に転 任と なり
、事 態は 一変 した
。明 治一 四( 一八 八一
)年 四月 六日
、内 務卿 松方 正義 か ら「 嘆 願の 趣聞 届 難」 と 指令 が あっ た。 の みな ら ず、 以 後宇 和 郡農 民に 対す る 弾圧 が相 次 いだ
( 上京 委 員ら 三八 名を 拘 置)
。 事 態を 悲観 した 二宮 新吉 は、 一一 月二 日宮 内村 の自 宅で
、「 銃に 火し 咽喉 を貫 きて
」自 殺し
( 3
) 対 旧 庄 屋 ― 民 事 訴 訟 段 階
一連 の行 政訴 訟が 敗訴 に終 わっ た段 階で、今 度は 旧庄 屋を 被告 に据 え民 事訴 訟を 提起 する こと で運 動関 係者 の意 見は 一 致し てい た
。し かし
、官 憲に 重要 証拠 を押 収さ れた まま であ り、 この ま まで は闘 えな いと する のが 市村 敏 麿ら の意 見で あ っ た
。 だが
、三 村の 農民 たち は、 訴訟 の提 起を 急い だ。 この よう に農 民た ちが 市村 ら主 導者 と一 線を 画し て独 自に 提起 した の が
、こ の時 期の 訴訟 の特 徴で ある
。 明治 一五
(一 八八 二) 年九 月、 東宇 和郡 保田 村・ 東宇 和郡 予子 林村
・北 宇和 郡清 水村 三村 の農 民は それ ぞれ の村 の旧 里 正
=庄 屋た ち、 すな わち 大野 常一 郎( 予子 林村
)・ 玉井 安蔵
(清 水村
)・ 赤 松忠 次郎
(保 田村
)を 相手 どっ て共 有権 回復 訴 訟 を提 起し た。 三村 の訴 訟は
、同 時に 進め られ
、第 一審
、控 訴審
、上 告審 とも 判決 言渡 しは 三村 同時 であ った
。第 一審 は、 同年 一二 月
(
)
た14
。
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 三
〇
(
) 六
二 五日
、 松 山始 審裁 判 所宇 和島 支 庁で 判決 が あっ た。 判決 言渡 し 当日 の模 様 を、
「 役 地事 件一 夜
はつ ぎ のよ うに 伝 え て いる
。 該裁 判言 渡し の当 日は 強風 雨な りし も毫 も厭 ふこ とな く遠 近の 熱心 家無 慮一 千三 百名 傍聴 出頭 し、 審廷 は勿 論門 内 立 錐の 余地 なき に至 る、 最も 四郡 端々 より は二 三日 前出 張し 町宿 につ き、 何と なく 形勢 とう 柿鈎 たり
。…
…然 るに 裁 判 所に は予 め巡 査数 十名 を請 集し 審廷 内外 を警 備し て不 慮の 準備 をな せり
。然 れど も原 告敗 訴の 申渡 を聞 くや 血気 粗 暴 のも のあ りて
、玻 璃窓 を破 砕し
、出 門す るや 否や 慢り に発 声し
、憤 怒の 状を 現出 した りと 云 この よう に傍 聴人 が騒 いだ のは
、事 前に
「裁 判所 長判 事吉 本祐 雄氏 裁判 状草 案を ば郡 長竹 場好 明氏
、牧 野純 蔵氏
、清 家 信 篤氏
、都 築秀 二氏 等へ 示し
、其 字句 の如 きも 望み によ り改 冊訂 正し
、以 て浄 書の 上尚 密か に一 読せ しめ たり との 巷説
」 が 流れ てい たか らで ある とさ れ 控訴 審は
、大 阪控 訴裁 判所 に舞 台を 移し た。 明治 一六
(一 八七 九) 年一 一月 二九 日、 同裁 判所 で言 い渡 され た判 決も
、 原 告の 主張 を排 斥し
、控 訴を 棄却 した
。こ の判 決に つい ても
、「 役地 事件 一夜 説」 はつ ぎの よう に伝 えて いる
。 此判 決た るや 初め 専理 官判 事犬 飼厳 麿氏 は原 告権 利の 案件 なり しも
、所 長児 島惟 謙氏 の異 論に 辟易 し、 一歩 を退 き て 再案 を提 する も尚 亦所 長の 意に 満た ずし て最 後に 立て たる 案件 なり しと 言ふ
。 尤も 其虚 実は 証せ ざれ ども 世に 唱ふ る所 なれ ば蓋 し捉 影捕 風の 浮説 とも 思わ れず
、且 此申 渡し の当 日は 午前 八時 の
(
)
説15
( 」
)
ふ16
。
(
)
る17
。 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 三 一
(
) 七
喚 召に して 午後 一時 三十 分の 言渡 しな りし が是 亦後 の風 説に よれ ば犬 飼氏 の裁 判案 に対 し、 其連 判者 の一 人な る判 事 長 安道 一氏 は原 告の 要求 大に 理あ るべ きこ とを 陳述 して 該敗 訴の 案に 服せ ず、 到底 其の 調印 を拒 みた りし が、 所長 児 島 惟謙 氏は 臨機 同氏 を退 け以 て更 に判 事後 藤広 賢氏 へ調 印致 させ 裁判 申し 渡さ るゝ に及 びて 如斯 紛議 に時 間を 費し た る もの なり し 今日 流に 言う と、 大阪 控訴 裁判 所長
、児 島惟 謙の 裁判 干渉 とい うこ とに なる
。児 島自 身宇 和島 藩出 身で あり
、旧 庄屋 層 に 縁戚 を多 く有 して い
と が、 かか る噂 が流 布し た背 景と して あっ た。 農民 側は
、明 治一 七( 一八 八四
)年 二月 一四 日大 審院 へ上 告し たが
、七 月二 二日
、大 審院 は三 村の 上告 を棄 却し た。
( 4
) 民 事 訴 訟 ・ 行 政 訴 訟 並 行 段 階
明治 一八 年か ら二 五年 まで、北 宇和 郡長 谷村 の農 民た ちの 闘い が続 けら れた
。民 事訴 訟で 敗れ たあ とも 農民 たち はあ く ま で闘 いを 止め ず、 行政 訴訟 を提 起し たこ とが
、本 件の 特徴 であ る。 すな わち
、北 宇和 郡長 谷村 の農 民た ちは 同村 の旧 庄屋 を相 手取 って
、松 山始 審裁 判所 宇和 島支 庁に 出訴 した が、 明治 一 九
(一 八八 六) 年三 月二 二日 原告 敗訴 の判 決が あっ た。 農民 たち は控 訴し たが
、同 年一 二月 一五 日、 大阪 控訴 裁判 所で
、 原 告敗 訴の 判決 があ った
。 農民 たち は、 民事 訴訟 の敗 訴後 も闘 いの 方途 を求 め、 行政 裁判 所に 提訴 した
。当 時の 愛媛 県知 事勝 間田 稔は
、県 の過 去 の 行政 処分 の可 否を 問う 行政 訴訟 の提 起に
、敗 訴の 事態 もあ りう ると
、相 当の 危機 感を 抱い たも のと 思わ れる
。同 県属 近
(
)
由18
( 。
)
た19
こ
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 三 二
(
) 八
藤 善次 をし て周 到な 準備 をさ せて いる こと が、 残さ れた 記録 から 判明 す
し かし
、明 治二 五( 一八 九二
)年 三月 七日
、 行 政裁 判所 判決 でも 原告 たち の要 求は 容れ られ ず、 敗訴 とな った
。 敗訴 につ ぐ敗 訴で
、南 予の 農民 たち も、 さす がに 意気 消沈 した こと であ ろう
。し かし
、明 治二 四( 一八 九一
)年 五月 二 五 日、 大井 憲太
来宇 した
。大 井は
、無 役地 事件 につ いて
、闘 い方 によ って は勝 訴の 可能 性も ある と述 べた ので
、南 予 の 農民 たち も久 しぶ りに 意気 があ がっ た。 東宇 和郡 中川 村大 字清 沢の 農民 たち は、 大井 憲太 郎を 代言 人と して 松山 始審 裁判 所宇 和島 支庁 に訴 えを 提起 した
。第 一 審 で敗 訴し た農 民た ちは さら に控 訴し たが
、明 治二 五( 一八 九二
)年 六月 一四 日大 阪控 訴院 で原 告敗 訴の 判決 があ った
。 結 局、 大井 憲太 郎ら の援 護を もっ てし ても 原告 農民 たち の言 い分 を裁 判所 に認 めさ せる こと はで きな かっ たの であ る。
( 5
) 最 後 の 一 燼
― 岩 木 訴 訟 段 階
明治 二五 年の 行政 訴訟 敗訴 によ って、無 役地 事件 全体 の推 移は もは や決 着が つい たと の感 があ る。 しか し、 実際 には 闘 い はま だま だ継 続し てい たの であ る。 東宇 和郡 笠置 村大 字岩 木に おい て、 明治 三五
(一 九〇 二) 年~ 同三 六( 一九
〇三
)年 頃ま で訴 訟事 件が 継続 して いた こ と が確 認で きる
。本 事件 の控 訴審 も、 やは り原 告側 敗訴 であ った
。こ の事 件は
、大 審院 に上 告さ れ、 最後 は行 政訴 訟ま で 発 展し たの では ない かと 推測 され てい
、そ の点 はい まだ 確認 でき てい ない
。し かし
、現 在判 明し てい るか ぎり では
、 や はり 本事 件も 農民 たち の不 利に 推移 した とい える だろ う。 以上 が、 無役 地事 件の おお ざっ ぱな 経過 であ る。
(
)
る20
。
(
)
郎21
が
(
)
る22
が 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 三 三
(
) 九
二 史 料 の 再 発 掘
( 1
) 近 代 史 文 庫 編 『 愛 媛 近 代 史 料
― 無 役 地 事 件
』 採 録 の 史 料
これ ま で、 無役 地事 件に 関 する 研究 は、近 代 史文 庫『 愛媛 近 代史 料 明治 前期 農 民運 動史 料 第五 輯― 無役 地 事件
』( 以 下
『愛 媛近 代史 料』 とよ ぶ) に収 録さ れた 史料 に依 拠し てき た。 同史 料集 は、 以下 の史 料群 に依 拠し てい る。 第一 は、 愛 媛県 行政 史 料で ある
。具 体的 には
、『 地理 雑書
』、
『庶 務雑 書』
、『 荘屋 無 役地 事件
』、
『諸 御用 留帳
』、
『国 史 稿本
』、
『 県政 事 務引 継書
』、
『 国史 下調 書
』 など の 題目 の冊 子 に所 収さ れ た史 料で あ る。 こ れら は もと も と愛 媛県 庁 に保 存さ れ て い たも ので ある が、 現在 は愛 媛県 立図 書館 に所 蔵さ れて いる
。 第二 は、 徳 田 三十 四
『市 村 敏麿 翁の 面影
』( 黒瀬 川村 教 育委 員会 史蹟 刊 行会
、 一九 五 五年
) であ る。 同書 の記 述 及び
、 同 書に 引用 され た「 東京 自由 新聞
」( 明治 一七 年一 一月 三日
~五 日付
)、
「 役地 事件 一夜 説― 一名 訴訟 失敗 鶏肋 談」
) など は、 新 聞記 事や 当事 者の 記憶 談で ある が、 無役 地事 件の 全貌 を伝 える 貴重 な資 料で ある
。 その 他、 図書 館蔵 史料 や個 人蔵 史
な ども 収録 して いる
。
( 2
) 新 た な 判 決 史 料 の 発 掘
とこ ろで、無 役地 事件 のよ うに 法廷 で争 われ た事 件に つい ては
、判 決文 が最 も基 本的 な史 料と なる こと につ いて は、 異 論 はな いで あ ろう
。 し かし なが ら 訴訟 提起 が あっ たこ と は判 明し て いる にも か かわ らず
、『 愛媛 近 代史 料』 には 判決 文 が 収 録さ れて いな い無 役地 事件 が存 在す る( この 点に つい ては
、本 論文 末の 判決 リス トを 参照
)。 これ は、
『 愛媛 近代 史料
』
No 17
(
)
料23
、
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 三 四
(
) 一
〇
が 前記 のよ うな 史料 群に 典拠 を求 めて いた ため であ ろう
。 判決 原本 は、 判決 裁判 所に 保管 され ると とも に、 控訴 審お よび 上告 審の 判決 は訴 訟が 終結 した あと その 謄本 が第 一審 裁 判 所に 送ら れ、 同所 に保 存さ れる のが 常態 であ る。 この 点か らす れば
、宇 和島 の裁 判所 にお いて 判決 を捜 索す るの が最 も 早 道で あろ う。 しか しな がら
、松 山地 方裁 判所 宇和 島支 部は 戦災 で全 焼し たた め、 同裁 判所 保管 の戦 前の 裁判 記録 はす べ て 烏有 に帰 した と伝 えら れて いる
。こ れは
、判 決記 録を でき るか ぎり 収集 しよ うと する 立場 から すれ ば、 決定 的な 困難 で あ る。 かよ うな 困難 を克 服し て、 まだ 知ら れて いな い無 役地 事件 判決 を復 元す るこ とは 可能 であ ろう か。 私は これ まで
、以 下の よう な方 法に 依り なが ら、 上記 史料 集に 収録 され てい ない 無役 地事 件判 決の 発掘 に努 めて きた
。 その 一は
、大 審院 判決 の探 索で ある
。無 役地 事件 の大 審院 判決 は『 愛媛 近代 史料
』に 収録 され てい ない もの が多 い。 こ れ に関 して は、
『明 治前 期大 審院 民事 判決 録』
( 覆刻 版・ 三和 書房
、一 巻~ 一三 巻Ⅰ
、一 九五 七年
~一 九七 六年
)な どを 利 用 しな がら いく つか の判 決を 入手 する こと が可 能で ある
。 第二 は、
「民 事判 決 原本 デー タ ベー ス」 の活 用で あ る。 貴 重な 歴 史資 料た る 民事 判決 原 本が 廃 棄の 危機 を 乗り 越え 保 存 の 方途 が講 じら れ、 同デ ータ ベー スが 作成 され るに 至っ た経
つい てこ こで 述べ るこ とは 割愛 する
。現 在同 デー タベ ー ス は、 国際 日本 文化 研究 セン ター から 公開 され てい
これ を利 用す ると
、全 国各 裁判 所に 保管 され てい た明 治二 三年 ま で の判 決原 本で あれ ば、 キー ワー ド入 力に より 検索 でき るこ とに なっ た。 これ によ って 無役 地事 件の 判決 も、 大阪 上等 裁 判 所・ 同控 訴裁 判所 など に上 訴さ れた 事件 につ いて
、判 決を 閲覧 する こと が可 能で ある
。 とこ ろで
、上 記デ ータ ベー スは
、明 治二 四年 以降 につ いて は整 えら れて いな い。 した がっ て同 年以 降の 判決 につ いて は、 別 途方 法を 講じ なけ れば なら ない
。私 は幸 い、 現在 広島 大学 で一 時保 管中 の広 島控 訴院 判決 原本 を閲 覧さ せて いた だく 機
(
)
緯24
に
(
)
る25
。 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 三 五
(
) 一 一
会 を与 えら れた
。こ れに よっ て、 明治 三〇 年の 北宇 和郡 明治 村事 件、 明治 三六 年の 東宇 和郡 笠置 村大 字岩 木事 件の 控訴 審 判
入手 する こと がで きた
。 また
、行 政裁 判に 訴え た事 件に つい ては
、『 行政 裁判 所判 決録
』( 行 政裁 判所 蔵版
、第 一巻
・明 治二 三年
~第 八七 巻・ 昭 和 二二 年、 文生 書院 覆刻
、一 九八 九年
)も 参照 した
。
( 3
) 小 野 武 夫 『 日 本 村 落 史 考
』 引 用 判 決 に つ い て
戦前 の 農政 学者 とし て 著名 な小 野 武夫 は、『日 本 村落 史考
』に 収録 され た「 無役 地事 件の 判 決」 に おい て
、六 つ の事 件
・ 一
〇の 判決 を引 用し てい
しか し、 事件 名・ 当事 者名 など は省 略し てい る。 当事 者名 の確 定は 困難 であ るが
、係 争地 に つ いて は判 決文 中か ら推 定す るこ とが 可能 であ る。 小野
『日 本村 落史 考』 に掲 げら れて いる 無役 地事 件関 連の 判決 は以 下の 通り であ る。 うち ゴチ ック で記 して いる のが
、
『 愛媛 近 代史 料』 に は 登載 され て ない ため
、 こ れま で検 討 され てこ な かっ た事 件ま た は判 決で あ る。 な お、 傍線 を引 い た も のは
、筆 者が 広島 控訴 院判 決原 本に よっ て確 認し 得た もの であ る。
① 第一 事件
〔 宇和 郡宮 内村 事件 と推 定〕 明 治一 二年 一月 大 阪上 等裁 判所 判決
② 第二 事件
〔 北宇 和郡 保田 村事 件と 推定
〕
( イ
) 明 治一 五年 一二 月 宇和 島始 審裁 判所 判決
(
)
決26
を
(
)
る27
。
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 三 六
(
) 一 二
( ロ
) 明 治一 六年 一一 月 大阪 控訴 裁判 所判 決
③ 第三 事件
〔 東宇 和郡 長谷 村事 件と 推定
〕
( イ
) 明 治一 九年 六月 松 山始 審裁 判所 宇和 島支 庁判 決
( ロ
) 明 治一 九年 一二 月 大阪 控訴 院判 決
④ 第 四 事 件
〔 西 宇 和 郡 伊 方 浦 山 田 事 件 〕
明
治 二 四 年 一 二 月 松 山 地 方 裁 判 所 宇 和 島 支 部 判 決
⑤ 第 五 事 件
〔 北 宇 和 郡 明 治 村 事 件 〕
( イ
) 明 治 三
〇 年 三 月 松 山 地 方 裁 判 所 宇 和 島 支 部 判 決
(
ロ
) 明 治 三
〇 年 六 月 広 島 控 訴 院 判 決
⑥ 第六 事件
〔 東宇 和郡 笠置 村大 字岩 木事 件と 推定
〕
(
イ
) 明 治 三 五 年 松 山 地 方 裁 判 所 判 決
(
ロ
) 明 治 三 六 年 四 月 広 島 控 訴 院 判 決
小野 は、 これ らの 判決 文を いか にし て入 手し たの であ ろう か。 小野 はす でに 本書 に先 がけ て、「旧 宇和 島藩 の鬮 持制 度」
( 大正 一 三年 三田
『史 学』 掲 載) を著 して い る。 小 野は 当 事者 から の 聞き 取り およ び 資料 提供 に もと づき こ の論 考を 執 筆 し てい るの であ るが
、聞 き取 り対 象者 は、 原告 側よ りも 被告
(旧 庄屋
)側 に属 して いた 人物 であ るこ とが 推測 でき る。 判 決 文の 引用 が「 判決 理由
」の みの 引用 にと どま り、 当事 者の 住所
・氏 名等 をカ ット して いる のも その あた りの 配慮 から く 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 三 七
(
) 一 三
る ので あろ う。 いず れに して も
、 第四 事件
・ 第 五事 件は
、『 愛媛 近代 史 料』 に はま った く 反映 され てい な い判 決で
、 貴 重で ある
。 無 役 地 事件 がか なり の規 模と 広が りを もっ た事 件で あっ たこ とに
、改 めて 思い を致 さざ るを えな い。 以上 のよ うに
、史 料集 に収 録し てい ない 無役 地事 件関 係判 決を かな り入 手す るこ とが でき た。 この 判決 全文 の紹 介は 別 の 機会 に委 ね、 同事 件の 位置 づけ につ いて
、章 を改 めて 考察 して みよ う。 三
裁 判 闘 争 と し て の 無 役 地 事 件 無役 地事 件は
、こ れま で階 級闘 争・ 人民 闘争 の観 点で とら えら れて きた よう に思 う。 すな わち
、原 告農 民層 とそ れに 対 峙 した 被告 旧庄 屋層 およ び旧 庄屋 層を 援護 した 地方 行政 体( 県) との 闘い とい う構 図で ある
。そ して この 観点 から
、無 役 地 事件 闘争 と自 由民 権運 動の 関係 など が問 題と され てき た。 これ はも ちろ ん重 要な 論点 であ り、 あと で取 り上 げた い。 私 は、 こ れを
「 訴 訟事 件・ 裁 判闘 争と して の無 役地 事件
」 と いう 観点 から 捉え 直し た いと 考え る。 す なわ ち裁 判 の勝 敗 に 着目 する だ けで なく
、 判 決の 論理 過 程
〔原 被告 や 判決 がい か なる 主張 を 展開 した か〕
、 ま た 論証 過程
〔そ れが どの よ う な 証拠 に支 えら れて いた か〕 にも 注目 した い。 その ほ か 訴訟 主 体 の人 的 側 面、 す な わち 両 当 事者
、 裁 判 官、 代 言 人
・弁 護 士 など の 出 自や 経 歴 等を は じ め、 政 党
・ 政 派
・派 閥な ど政 治的 側面
、諸 々の 人的 交流
、教 育や 学識
・思 想な どに も留 意し なけ れば なら ない
。明 治期 の裁 判に おい て は
、こ れら の要 素が 勝敗 を分 けた ので はと 推測 され る場 合が 少な くな いか らで ある
。但 し今 回は
、人 的側 面の 検討 は割 愛 し
、次 の機 会に 委ね たい
。
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 三 八
(
) 一 四
( 1
) 裁 判 に お け る 論 点
(
i
) 訴 訟 の 構 造 お よ び 焦 点
訴 訟事 件と して の 無役 地事 件は、 初 期の 裁判 は、 村 民 が県 を相 手取 った 行政 訴 訟と して 闘わ れ、 つい で村 民が 庄屋 を 被 告 にし た民 事訴 訟と して 闘わ れた
。 すな わち 訴訟 の構 造と して は、 行政 訴訟 は、 農民 が原 告と なっ て、 県側 すな わち 県令 もし くは 知事 を被 告と して 明治 初 年 にお ける 無役 地の 行政 処分 の不 当性 を追 求し たも ので ある
。こ れに 対し
、民 事訴 訟は
、同 じく 原告 たる 農民 が旧 庄屋 を 相 手ど って
、無 役地 を旧 庄屋 が独 占的 に所 有し てい るの を不 当と し、 その 村民 共有 地と して の回 復を 求め たも ので ある
。 この よう に行 政訴 訟と 民事 訴訟 では
、相 手側 が異 なり
、請 求内 容も 異な って いる が、 内容 的に は共 通性 を有 して いる
。 す なわ ち、 民事 訴訟 は、 原告 村民 側と 被告 旧庄 屋の 争い であ り、 一方 行政 訴訟 は、 村民 側が 県側 を被 告と した もの であ る が
、無 役地 を庄 屋へ 全面 返還 した 行政 処分 の適 法性 が争 われ てい る訳 であ るか ら、 県側 と庄 屋側 とは
、農 民の 訴訟 提起 に 対 する 応訴 とい う立 場で 共通 項を 有し
、あ たか も共 闘す るか の如 き観 を呈 した
。 いず れに せ よ訴 訟 事件 とし て の無 役地 事 件の 焦 点は
、〔 庄屋 無役 地 は庄 屋の 私 有で あ るの か、 そ れ とも 一 村共 有地 と す る のが 適当 な 土地 で ある のか
〕、 この 一 点に 絞ら れ ると いっ て 過言 でな い。 では
、 こ の最 大争 点 につ いて 対 峙し た村 民 側 そ して 旧庄 屋お よび 県側 は、 どの よう な論 点を 呈示 し、 各論 点に 対し どの よう な主 張を 展開 した であ ろう か。 順次 みて い く こと にし よう
。
(
ⅱ
) 無 役 地 の 濫 觴
まず、無 役地 の起 源― 無役 地は いつ どの よう にし て誕 生し たか
―の うち にそ の所 有主 体を 解き 明か すカ ギが ある ので は 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 三 九
(
) 一 五
な いか
、こ のよ うな 観点 から 無役 地の 起源
・濫 觴が 問題 とさ れた
。
〔 原 告 村 民 側
〕
原 告農 民側 の主 張 は、 無 役地 の 発生 は 鬮持 制度 の 発生 と軌 を 一に し これ と密 接 な関 係が あ ると する も のだ っ た。農 民側 の主 張を 要約 する と、 次の よう にな る。 寛文 六( 一六 六六
)年 宇和 島藩 一帯 を襲 った 大洪 水な どを きっ かけ に、 寛文 一〇 年か ら一 二年 にか けて 宇和 島藩 にお い て 検地 が実 施さ れた
。こ の時
、従 来の 高持 制度 から 鬮持 制度 に改 めた
。す なわ ち、 各村 の耕 地は すべ て一 村の 住民 の耕 地 と され
、田 畑の 肥瘠 に応 じて 不公 平の ない よう 組み 合わ され
、各 村民 は自 分の 持鬮 数に 応じ て鬮 地を 抽籤 した
。本 百姓 一 人 前は 一鬮 分、 二人 前は 二鬮 分、 その 他二 人合 わせ て一 鬮分 を折 半す る者 は半 百姓
、四 人で 一鬮 分を 分け 合う 者は 四半 百 姓 とよ ばれ た。 この 時、 各村 は村 高の 規模 に応 じて 一〇 ラン クに 分け られ
、庄 屋に は三 鬮( 京枡 高二 九〇 石以 下) から 最高 一二 鬮( 京 枡 高二 千石 以上
)ま での 土地 が付 与さ れ
こ の庄 屋に 付与 され た土 地は
、「 公私 の諸 役を 一切 賦課 され なか った
」の で、
「 無役 地」 と唱 えら れる よう にな った
。以 上は
、「 不 鳴条
」や
「弌 野截
」と 題す る旧 藩記
よっ てあ きら かで ある
。 この よう な鬮 持制 の実 施に 鑑み
、「 其鬮 持タ ルヤ 耕地 ハ都 テ一 村浦 住民 ノ有 トシ
」( 宇 和郡 舌間 浦事 件 大阪 上等 裁判 所 判 決) と主 張す るな ど、 無役 地を 含め 村内 すべ ての 耕地 は村 民の 共有 地で ある との 確信 は農 民た ちの 間で いよ いよ 強固 な も のと なっ た。
〔 被 告 旧 庄 屋 側 〕
こ れ に対 し、 旧庄 屋側 代言 人 は、 庄 屋 無役 地は 往古 か ら庄 屋の 私 有地 であ っ たと 主張 し た。 寛 文年 間 に 検 地が 行わ れた こと は認 めた が、 鬮持 制が 導入 され たこ と、 庄屋 の田 地に ラン クが 付与 され たこ とな どに は口 をつ ぐん で 触 れて いな い。 ただ、寛 文年 度の 検地 帳お よび 鬮取 帳に おい て反 別畝 数の 下に 記名 捺印 し〔 北宇 和郡 保田 村等 三村 事件 に
(
)
た28
。
(
)
録29
に
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 四
〇
(
) 一 六
お ける 被上 告人 の主 張〕
、他 の一 般耕 地の 書式 と区 別が ない こと
〔東 宇和 郡長 谷村 事件 にお ける 被告 代言 人の 主張
〕か ら、 当 時か ら無 役地 が庄 屋私 有地 であ った こと は明 らか であ ると 主張 した
。
〔 被 告 県 側
〕
ま た、 行政 裁判 にお ける 県側 の主 張は、こ れと は微 妙に スタ ンス を異 にし てい る。 すな わち 寛文 年度 の検 地お よび 均田 制実 施は 認め なが ら、 新た に付 与さ れた 無役 地は
、旧 来庄 屋の 所有 して いた 地所 と 増 減が なく
、「 耕 地を 村民 よ り庄 屋に 給 地と して 備 えた るこ と はな い」 と 主 張す るも の
〔 東宇 和 郡東 多田 村 事件 にお け る 被 告の 主 張〕
、 当 時は 民有 地 の制 度は な かっ た から 人民 共 有物 とい う こと はあ り えな い とす るも の
〔 東宇 和郡 長 谷村 事 件 に おけ る被 告の 主張
〕な ど、 主張 を異 にし た。 以上
、無 役地 の起 源に 関す る原 被告 の主 張を 簡単 に整 理し た。 原告 農民 側が 該地 の起 原に 遡り
、そ もそ も論 から その 性 質 を明 らか にし よう とし てい るの に対 し、 被告 旧庄 屋お よび 県側 は無 役地 の起 源・ 性質 を正 面か ら論 議す るの を避 けて い る よう に見 える
。
( ⅲ
) 藩 制 下 の 所 有 構 造
次に、無 役地 の所 有主 体を 問う 前提 とし て、 藩制 下の 所有 構造 が問 題と され た。
〔 原 告 村 民 側 〕
この 点に つき 原告 農民 側の 基本 的立 場は、「 農 民的 所有 権論
」に 基盤 を置 いて いた と指 摘で きよ う。 すな わ ち
、〔 藩 制 下に おけ る 田畑 の所 有者 を 求め ると す れば
、 それ は、 田畑 の所 持 者― 耕作 者で あ る〕 と する も ので あっ た。 さ き に濫 觴 のと ころ で 見た よう に
、 鬮割 制 度と いう 経 験を 経由 す るこ とに よ って
、「 一村 ノ 耕地 ハ一 村 人民 共同 主 持ス ル ノ 精 神」
〔北 宇和 郡 保田 村事 件 大 阪控 訴裁 判 所判 決 原告 控訴 ノ 要領 お よび 同事 件 大審 院判 決 にお け る上 告趣 旨
〕 とい う 確 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 四 一
(
) 一 七
信 を抱 くに 至 った
。 東宇 和 郡中 川村 大 字清 沢事 件 控訴 人主 張 は、
「 村 民共 同主 持」 の根 拠と し て、 寛 文六 年 の大 洪水 後 の 村 民一 同協 力に よる 開墾 を挙 げる
。 事実 とし て寛 文六 年洪 水あ りて 旧宇 和島 領内 一般 が荒 撫地 に属 した るを
、村 民一 同協 力以 て開 墾し たり しを
、一 時 村 民の 共有 地に 帰し たる も、 永く 一村 の共 有に 放任 し置 かば
、将 来紛 議の 種な るを 慮り
、藩 は寛 文十 年よ り同 十二 年 間 に於 て内 さを 検地 をな し、 土地 の良 否を 組合 せ、 鬮取 法を 以て 村民 に分 割せ しめ たり
、而 して 村吏 の給 料は 該共 有 地 中よ り、 本百 姓幾 鬮分 を取 除き
、之 を村 民の 私有 とな さず して
、共 有の 儘に 存し
、只 其用 益権 のみ を村 吏に 付与 し 置 きた るも の〔 東宇 和郡 中川 村大 字清 沢事 件 大阪 控訴 院判 決 控訴 人主 張〕 なお ここ では
、村 吏の 給与
=庄 屋無 役地 こそ
、共 有地 上に 設け られ た用 益権 に過 ぎな いと 述べ
、彼 我の 立場 を逆 転さ せ て いる
。
〔 被 告 県 側
〕
こ のよ うな 原告 側の 一村 耕地=共 同所 有論 に対 し、 行政 訴訟 にお ける 被告 県側 は、
「 領主 的所 有権 論」 で対 抗 し た。 原来 藩制 中ハ 人民 於テ 地所 々有 ノ権 ヲ有 セス
。其 地主 タル モノ ハ他 ナシ
、旧 領主 ニア ルノ ミ。 必竟 百姓 ハ永 代小 作 人 ノ景 況ナ ルカ 故ニ 領主 ハ管 内人 民ヲ シテ 適宜 ニ其 耕地 ヲ主 管セ シメ 或ハ 各村 人戸 ノ多 寡ニ 随ヒ 抜百 姓又 ハ入 百姓 ト 唱 ヘ移 住セ シメ
、或 ハ非 常凶 嘆ノ 時ニ 際シ テハ 其地 租ヲ 徴セ サル ノミ ナラ ス夫 食米 等ヲ 恵与 シ、 其他 地主 ノ為 ス可 キ
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 四 二
(
) 一 八
保 護ノ 常務 ヲ為 シ来 レリ
。故 ニ其 地所 進退 与奪 ノ全 権ハ 自カ ラ旧 領主 ニ属 セシ 所以 ナリ
〔西 宇和 郡宮 内村 事件 控訴 審 に おけ る被 告の 答弁
〕 所謂 藩制 中ニ 在テ
、人 民得 テ土 地所 有ノ 権利 ヲ有 セサ ル時 ニシ テ、 土地 ノ全 権ハ 全ク 領主 ニ存 セシ モノ ト云 ハサ ル ヲ 得ス
。就 中寛 文年 度均 田ノ 当時 ニ遡 テ之 ヲ論 スレ ハ、 民有 地タ ルノ 制度 未タ アラ サリ シ時 ナル カ故 ニ、 該地 ハ寧 ロ 官 ニ属 スル モ其 性質 共有 物ニ アラ サル ヤ明 ナリ
〔東 宇和 郡長 谷村 事件 行政 裁判 にお ける 被告 の答 弁〕 すな わち
〔旧 藩制 中は
、人 民に は土 地の 所有 権は なく
、藩 制下 にお いて 田畑 の所 有者 は領 主た だひ とり であ る〕 との 見 解 であ った
。こ の立 場か らす ると
、〔 百姓 は、 いわ ば永 小作 人の よう な存 在で ある
〕、 と いう こと にな る。 そし て、 地所 の 進 退与 奪の 権も また 領主 にの み存 する こと にな る。 この よう な領 地に 対す る領 主の 専制 的権 限を 認め る見 解は
、維 新後 の 行 政の 処分 権限 論に 容易 に転 化す るこ とに なる
。
〔 被 告 旧 庄 屋 側 〕
民事 訴訟 で 被告 側に 列 する 旧庄 屋 側の 主張 は、 明快 とは 言 い難 い。 すな わち 庄 屋と いえ ど も身 分は 農 民 で ある から、「 農民 的所 有権 論」 をと るべ きと 思わ れる が、 必ず しも その よう な立 場を 明確 に述 べた 主張 はな い。 むし ろ、
「 昔時 旧 藩ノ 制 度ハ 一般 人 民ニ 於 テ完 全タ ル 地所 所有 ノ 権ナ ク 其進 退与 奪 ハ一 ニ 旧領 主ノ 権 内ニ ア リト 雖モ
、 往 古ヨ リ 被 告 カ絶 ヘス 所 有シ 来レ ル 徴証 ハ…
…」
〔北 宇 和郡 保田 村 事件 大 審院 判 決に おけ る 被上 告人 主 張〕 と
、 県側 の
「 領主 的 所 有 権論
」に 同調 する よう な主 張が 多く 聞か れた
。 無
役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 四 三
(
) 一 九
( ⅳ
) 役 俸 地 と し て の 無 役 地
〔 原 告 村 民 側
〕
原告 村 民側 が、 無 役 地= 一村 共 有を 主張 す る論 拠の 一 つは、 それ が 庄屋 の純 然 たる 私有 地 では なく
、 役 俸 地 と見 て いた こと に 由来 する
。「 夫レ 斯 ノ如 ク論 地 タル 一 村ノ 共有 ヨ リ成 立シ
、 役 俸地 ナ ルコ ト明 晰 疑ヲ 容レ サ ルモ ノ ナ リ
」〔 北 宇 和郡 保田 村 事件 大 阪 控訴 裁判 所 判決 にお け る原 告控 訴 の要 領〕 とい う主 張 がそ の典 型 であ る。 また 同事 件 の 上 告要 領 によ れば
、「 庄屋 カ 転任 スル モ 其役 俸地 ハ 新任 庄 屋カ 之レ ヲ 領シ 転任 庄 屋ハ 旧 任地 ノ役 俸 地ヲ 領セ サ ルナ リ」 と いう 事情
、同 じく
「村 吏 ノ転 勤ス ルカ 若ク ハ 失職 ニ依 リ役 儀ヲ 免黜 セシ 時ハ 該地 ハ 後役 ヘ付 与ス ル
」〔 宇和 郡舌 間浦 事 件 大 阪 上等 裁判 所判 決に おけ る原 告訴 訟大 要〕 とい う点
、す なわ ち庄 屋が 他家 の者 に替 わっ た場 合新 任の 庄屋 に付 け譲 られ て い る点
、を 付け 加え てい る。 東宇 和郡 長谷 村事 件で は、 農民 側は 実例 を挙 げて この 点を 論証 しよ うと して い さら に無 役地 は一 般に 売買 が禁 止さ れた が、 それ とい うの も、 庄屋 とい う役 目遂 行に 付与 され た役 俸地 だっ たか らだ と 主 張し た。 また この 点に 関 連し て看 過出 来 ない のは
、「 石戻 り」 およ び
「 過石
」 の場 合 の取 り扱 いで あ る。 鬮 取り か ら定 免制 に 移 行 した 際、 庄屋 無役 地と なす べき 田地 に不 足を 生じ た場 合が
「石 戻り
」で
、過 ぎた 場合 が「 過石
」で ある
。こ の場 合、 村 民 側の 主張 によ れば
、不 足の 場合 は村 民よ りこ れを 補い
、過 ぎた 場合 は庄 屋か ら村 民に 返還 した 実例 があ ると いう
。 弘化 年度 ニ至 リ定 免ヲ 改正 アル ニ方 リ、 該給 地ノ 名義 ヲ庄 屋家 督ト 改メ 石定 メト ナシ
、其 庄屋 ノ支 配セ ル村 高ト 庄 屋 家督 ノ石 高ト 若シ 相当 セス シテ 闕タ ルア レハ
、之 ヲ石 戻リ ト号 シ村 民ヨ リ其 闕ヲ 補ヒ 以テ 全数 ニ盈 タシ メ、 其相 当 石ニ 過タ ルハ 諸 掛リ 物 等百 姓ト 同 ク之 ヲ 庄屋 へ 課セ ラレ タ リ〔 東多 田村 事件 大坂 上等 裁 判所 判 決原 告訴 の 要領 よ り〕
(
)
る30
。
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 四 四
(
) 二
〇
弘化 度無 役地 の割 を石 高に 改め たる より
、く じ取 の田 畑に 過不 足を 生じ
、其 過分 は之 を村 民に 返与 し、 不足 分は 石 戻 りと 称し 村民 より 之を 補ひ
、其 収益 を全 ふせ しめ たり
〔東 宇和 郡中 川村 大字 清沢 事件 大 阪控 訴院 判決 控訴 人主 張 よ り〕 もし
、「 石戻 り」 お よ び
「過 石」 の場 合の 取り 扱 いが 村民 側の 主 張す るよ う であ るこ とが 実 証さ れれ ば、 それ は共 有 地 で あっ たこ との 有力 な証 拠と なり うる であ ろう
。
〔 被 告 旧 庄 屋 側
〕
これ に対 し、 被告 旧庄 屋側 は、 無役 地は 元来 私有 地で あっ た、 該地 の売 買が 禁止 され たと 言う が、 弘化 年度 以降 は高 持 ち 制と なり、売 買も 許さ れた と反 論し てい る。 論点 は必 ずし もか み合 って いる よう に思 えな い。 ま た、
「 石戻 り」 およ び「 過石
」の 場合 の取 り扱 いに つい ては
、と くに 触れ てい ない
。
( ⅴ
) 維 新 期 の 土 地 処 分 の 性 格
つぎ に、 明治 維新 期に おけ る土 地処 分の 性格 とそ の妥 当性 が問 題と なる。こ れに は二 つの 側面 が問 題に なろ う。 一は
、 地 租改 正と いう 明治 政府 全体 の土 地政 策の 問題 であ り、 もう 一つ は宇 和島 藩・ 県の 処分 とい う個 別的 地域 的問 題で ある
。 まず 地租 改正 にお ける 私的 所有 権の 認定 につ いて は、 封建 領主 の所 有は 否定 され
、村 々の 耕地 につ いて は農 民に 地券 が 付 与さ れた
。し かし なが ら、 農民 身分 間で も多 様な 関与 者が 存在 し、 いず れを 所有 権者 と認 定す るか につ いて さま ざま な 問 題を 生じ
、後 年多 くの 訴訟 が提 起さ れた こと は、 周知 の事 実で ある
。 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 四 五
(
) 二 一
この 点に 関し
、当 該 土地 の貢 租 負担 者を 所有 権者 とし て認 定す ると い うの が判 決の 大勢 であ っ たよ う に思 える
。し たが っ て 本訴 訟に あっ ても
、原 被告 双方 は旧 藩政 下に あっ て無 役地 の負 担を 担っ てき たこ とを 論証 しよ うと 努め てい る。
〔 原 告 村 民 側
〕
村民 側 は、 庄 屋 無役 地の 貢 租は 村民 が 共同 で負 担 して いた と 主張 し、 従 っ て無 役 地が 村民 共 有地 であ る こ と は明 らか であ ると 主張 して いた。 勿論 該地 ノ主 要ナ ル義 務ハ 悉皆 一村 人民 共同 ニ之 ヲ尽 了シ 来レ リ〔 宮内 村事 件大 坂上 等裁 判所 判決
〕 元来 耕地 ニ無 主ノ 地無 之、 論地 カ庄 屋ノ 私有 ニア ラス 又官 有ニ モア ラス シテ
、甲 第二 号証 ノ如 ク、 其雑 税ヲ 村民 カ 負 担シ タル 証ア リ。 而シ テ他 ニ所 有者 ナキ ヲ以 テ見 レハ
、別 ニ的 証ヲ 挙ケ スト モ一 村ノ 共有 地タ ル事 疑ナ シ〔 東宇 和 郡 長谷 村事 件 松山 始審 裁判 所宇 和島 支庁 判決 原 告代 人陳 述ノ 趣旨
〕
〔 被 告 旧 庄 屋 側
〕
被 告旧 庄屋 側 は、 庄 屋 無役 地の 貢 租は 庄屋 が 負担 して い たと 主張 し、 農民 側の 主 張に 反 駁す ると 思 い きや
、あ まり この 点に 触れ た論 証を 展開 して いな い。 この 点と も関 連す るが
、東 宇和 郡長 谷村 事件 で被 告代 言人 は、 つ ぎの よう に述 べた
。 本来 無役 地ハ 官ヨ リ雑 税ヲ 蠲除 シタ ル一 種特 別ノ 地所 ニシ テ、 凡ソ 庄屋 役ヲ 勤ム ル者 ハ其 村高 ノ割 合ニ 応シ
、所 有 地 ニ係 ル雑 税ノ 幾分 ヲ免 除シ 庄屋 ノ給 料ニ 充ツ
〔東 宇和 郡長 谷村 事件 松山 始審 裁判 所宇 和島 支庁 判決 被 告代 言人 答 弁 ノ旨 趣〕
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 四 六
(
) 二 二
この 趣旨 を敷 衍し て、 旧庄 屋側 は、 無役 地に つい て雑 税は 免除 され たが 本途 物成 は納 入し てい たと 主張 して いた と主 張 し ても よさ そう であ る。 しか しそ うな ると 雑税 分は 村民 の負 担で ある こと を認 める こと にな り、 また 本途 物成 分に 充て た 無役 地か らの 収穫 も村 民の 夫役 から 支え られ てい たこ とな どを 追求 され る可 能性 もあ りそ うで ある
。こ の よう なこ とを 慮 っ て
、旧 庄屋 側は
、年 貢負 担の 点に つい ては 消極 的態 度に 終始 した ので あろ うか
。
〔
被 告 県 側 〕
これ に対 し、 行政 訴訟 の被 告と なっ た県 は、「 是レ 所謂 無役 地ニ シテ 諸役 諸掛 リ物 ナキ ノ謂 ナリ 固ヨ リ該 地 貢 米ノ 如 キハ 庄屋 ヨ リ之 ヲ 官納 セリ
」〔 東 多田 村事 件 大 阪上 等 裁判 所判 決 被 告答 フ ル要 領〕
、「 該 無役 地ノ 作 益ハ 悉 皆 世襲 者タ ル庄 屋ノ 所得 トシ
、其 地主 ノ尽 スヘ キ一 大義 務タ ル貢 租 ハ、 連綿 トシ テ 上納 シ来 リタ ル
」〔 東宇 和郡 長谷 村事 件 行 政 裁判 所判 決 被告 答弁 ノ要 旨〕 と、 庄屋 が貢 租を 負担 し、 上納 して きた こと を主 張し てい る。 しか しか かる 主張 の根 拠 に つい ては
、積 極的 に述 べて いな い。
( ⅵ
) 宇 和 島 藩 ・ 県 の 無 役 地 処 分 に つ い て
つい で宇 和島 藩・ 県に おけ る一 連の 無役 地処 分、 すな わち〔無 役地 引揚 げ→ いわ ゆる
「四
・六 分割
」→ 庄屋 の全 面私 有 の 承認
〕の 妥当 性が 問わ れた
。こ の点 につ いて も、 原被 告の 態度 は大 きく 分か れた
。
〔
原 告 村 民 側 〕
旧 宇和 島 藩の 無役 地処 分 のう ち、 と く に「四
・ 六分 割」 につ いて
、 農 民た ちは 必ず し もこ れを 否定 し て い ない
。 たと えば
、 東宇 和郡 長谷 村事 件の 原 告側 農民 は、
「 本村 旧庄 屋タ ル被 控訴 人カ 所有 スル 庄屋 家督 地ノ 内其 四 分方 ヲ除 キ 残 反別 壱町 壱反 弐畝 拾四 歩四 厘ノ 地所 ハ控 訴村 ノ共 有地 タル ヘキ トノ 判決 ヲ受 ケ
と
、無 役地 の全 体で はな く、 いわ ゆ
(
)
度31
」 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
)
五 四 七
(
) 二 三
る 六分 のみ の共 有地 認定 を求 めて いる
。 そ の要 因の 一と して
、六 分無 役地 は、 すで に庄 屋後 任の 差配 役の 給料 に充 てら れた とい う事 情が 介在 して いた こと が指 摘 で きる
。 旧
藩於 テ該 地ヲ 四六 ニ分 配シ 其六 ヲ以 テ差 配役 ノ給 料ノ 為ニ 据置 キ、 其四 ヲ以 テ旧 荘屋 タリ 者ニ 付与 セラ レ旧 組頭 タ リ シ者 ヘハ 該地 ハ跡 役へ 譲渡 スヘ キ旨 ヲ布 令セ ラレ タリ
。而 後明 治五 年廃 藩置 県ノ 際ニ 至リ 前陳 セシ 差配 役ノ 給料 ニ 据 置タ ル地 所ヲ 独リ 県庁 ノ臆 度ヲ 以テ 悉皆 旧荘 屋タ リシ 者ノ 役料 ニ供 シタ ルモ ノナ レハ 決シ テ荘 屋一 己ノ 私産 ト為 ス 可 キモ ノニ 非ス
〔西 宇和 郡宮 内村 事件 大 阪上 等裁 判所 判決 にお ける 原告 本訴 の主 要よ り〕
〔 被 告 旧 庄 屋 側
〕
こ れに 対し て、 被告 旧庄 屋側 は、「 四・ 六分 割」 を全 く評 価し てい ない
。そ れも その はず
、そ もそ もい わ ゆ る無 役地 事件 は、 矢野 安芸 三郎 らに よる 六分 無役 地の 旧庄 屋へ の奪 還工 作が 功を 納め たこ とに 端を 発し てい るか らで あ る
。 むし ろ旧 庄屋 側は
、村 民た ちが
「四
・六 分割
」に 異議 を唱 えな かっ たこ とを もっ て、 村民 が共 有地 でな いこ とを 認識 し て いた から であ ると
、自 分た ちの 主張 の補 強材 料と して 利用 した
。 且ツ 明治 四年 旧宇 和島 藩ニ 於テ 該無 役地 ヲ引 揚ケ 其十 分ノ 四ヲ 荘屋 ノ私 産ト セシ 時ニ 方リ 旧荘 屋等 ヨリ ハ紛 議ヲ 生 シ
、其 残リ 六分 ヲ付 与ア リ度 旨ヲ 屡〃 出願 スル モ村 民共 ヨリ ハ恬 トシ テ何 等ノ 申立 モ為 サヽ リシ 果シ テ原 告申 立ノ 如
<
論 説
>
修 道 法 学 三 一 巻 二 号
五 四 八
(
) 二 四
ク 村民 ノ共 有地 タラ ハ決 シテ 之ヲ 黙過 シテ ス可 キノ 理之 レア ル可 ラサ ルナ リ〔 西宇 和郡 宮内 村事 件 大阪 上等 裁判 所 判 決に おけ る被 告答 弁の 大要 より
〕 村民 共ヨ リハ 恬ト シテ 何等 ノ申 立モ 為サ ヽリ シ果 シテ 原告 申立 ノ如 ク村 民共 有物 タラ ハ、 決シ テ之 ヲ黙 止ス 可キ ノ 謂 レア ル可 ラス
〔宇 和郡 舌間 浦事 件 大阪 上等 裁判 所判 決に おけ る被 告答 弁の 趣旨 より
〕 結局
、 旧庄 屋 側の 最後 の 拠り 所は
、「 曩ニ 行 政ノ 処分 ニ 依リ
、 被告 ノ 所有 ニ確 定 シタ ル地 処 ナレ ハ、 原 告 等カ 恢復 ヲ 求 ム ルノ 権 利ナ キヲ 以 テ、 其 要 求ニ 応ス ル 能ハ ス」
〔東 宇 和郡 長 谷村 事件 松 山 始審 裁判 所 宇和 島 支庁 判決 被 告 代言 人 答 弁 ノ旨 趣〕
、 と の主 張で あ った
。 つま り 旧庄 屋側 は、 藩制 下の 所有 構造 に おい ては
「 領 主的 所有 論」 に妥 協し つつ
、 維 新 後 の所 有権 の所 在に つい ては
、「 行政 の処 分権 限論
」に 期待 した ので ある
。
( 2
) 判 決 の 態 度
では、前 記の よう な諸 争点 に関 し、 判決 はど のよ うな 見解 をと った であ ろう か。
( ⅰ
) 無 役 地 の 濫 觴
判決 の中 で、 無役 地の 起源 から 解明 しよ うと した もの は少 ない。そ の中 でも
、東 宇和 郡中 川村 大字 清沢 事件 大阪 控訴 院 判 決は
、「 控に 大洪 水 あり たり との 事実 を証 する 甲第 一号 証不 鳴条 は、 乙 第二 十二 号証 に拠 れば
、 記 者自 ら其 事実 の信 憑 し 難き 事を 陳述 し、 決し て其 事実 を証 する に足 らず
」と
、寛 文六 年の 大洪 水の 事実 につ いて 懐疑 的で ある
。 無 役 地 事 件 再 考
( 矢 野
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