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高瀬一男・渡部景隆

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茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)101−112 ユ01

地学教育の目標からみた今後の低学年理科に

         対する一つの提言

       *

高瀬一男・渡部景隆

置 緒

 近年小学校低学年の理科の改廃合科のことが審議され,やがて最終答申が出ることになっていると聞 く。著者の一人高瀬は,国民学校以前における低学年理科設置に対する動きを文献によって概観した。

また渡部は,明治初期の初等教育段階における地学教育史編集の過程で,福澤諭吉著 訓蒙窮理図解 が少年少女期の自然の理解に重要であることを前提にした教材のねらいや手法にすぐれた面を持ちその 教育観に感銘した。これを高瀬と共に検討して両名が共感し,小学校制度成立以前の著述ではあるが本 書の編集の趣旨などが今後の低学年の理科のあり方に示唆を与えるところが大きいと考えるに至った。

著者等は,本稿において地学教育の立場を意識しつつCt訓蒙窮理図解 の教育観を検討し,明治以降の 低学年の理科に関する歴史的推移を概観レた上で,今後の低学年の理科に対する一つの希望的見解を示 すつもりである。

 なお,tt訓蒙窮理図解 (巻の1と2)については高瀬・渡部・下野がその内容を地学教育の観点から 概説したが,本稿では上記論文で扱うことができなかった同書(巻の3)の概要を末尾に付して,全巻 の紹介を企図するものである。

ll  訓蒙窮理図解 が示唆する教育的二つの側面

 地学教育史委員会(代表渡部景隆・1988)Dは,管下諭吉著 訓蒙窮理図解 2み初等教育段階の地学 教育史の上でもすぐれた教育観に基づくものと評価し,高瀬・渡部・下野(1988)3)は,低学年の理科 を意識しつつ地学教育からみた本書巻の1と2の概要について論評している。この章では著者等が考え る理科における地学教育の目標とその視点に立っての 訓蒙窮理図解 の評価,および本書の低学年の 理科に示唆を与えると考える若干例を挙げる。

 璽)理科教育の目標の再検討に対する地学教育の視点

 渡部(1986)4)は,理科教育の目標等について次のように論述している。

 現在は,先進国といわれる地域の工業化社会が急速に進み,人々の生活が著しく向上しつつある時代 であり,日本はその代表例に挙げられている。しかし,生活向上の反面,これらの地域では広域に及ぶ 踵々の自然環境の汚染や破壊の現象が指摘され,このような現象が経読e加速されるのであれば,人類 生存の場としての地球環境の将来に危機感を持たざるを得ないという学説が出るようになった。つまり 先人が予想し得なかった地球環境のひずみが出はじめた時期が現代だといえる。

*筑波大学名誉教授

(2)

 人々の生活向上にあっかる工業化社会の推進力は主に自然科学と科学技術であり;科学と科学技術は 生活の向上の推進とともに自然環境問題を引き起こし人間生活にマイナスになる面にも関与するように なった。ここに理科教育の根源的テーマである人間にとって科学の役割について考える必要性が存する。

すなわち,自然科学の真理は,真偽にかかわるもので,「いつでも」「どこでも」「だれでも」「どんな 目的でも」原理通りであれば同じことが何度でもできるという再現性を持つ。この科学の成果による工 業化社会のひずみとしての地球環境の汚染が進むとすれば,「どんな目的でも」許容されていいのかと いう疑問に答えるための科学に対する人間の側の問題があることになる。そして,その答は,「自然科 学の成果を活用し得るのは人類生存の場としての地球環境がうまく機能し生物が発展していける範囲に 限定される」ということになる。そうでなければ生物としての人類の生存する根底がゆらぐことになっ てしまう。このような傾向は,人間にとって宿命的な性格をもつでき事だともいえる。すなわち,人類 の進化史からみると,ヒトの発展は運勢によって自然を人の生活の場を改変することを伴ないながら経 吊してきたもので,1万年以後の農耕社会による農村的自然から近代工業化社会の発展による急速な都 市的自然へと進行した必然性は否定できないからである。しかし,ここでこのマイナス面が強く出てき た現在,上記の人類の力の大きさを肯定しつつ,人力の及ばない人類を育ててきた宇宙・地球という大 自然に対しては人力の小ささを同時に認識することが,人類発展の根源であるというのが地学教育の立 場であり,理科教育の目標としては特に 自然と人間の共存 を重視すべきだと主張するものである。

 福澤諭吉がt 訓蒙窮理図解 を著したのは,120年も昔,H本の小学校ができる以前であり,小学校 へ理科ができたのは明治19年,地学は昭和22年であって理科教育・地学教育という教科や科目のない時 代のことである。この 訓蒙窮理図解 は出版の数年前に英米で刊行されたScience, Natural hiStory

Geographyの書7冊から理をとり7当時の日本人の生活に即した例でわかりやすく解説したとその序と 凡例にある。幕末時代にやがてくる西洋の人々と交際し暑して活動するために自然の理を究める合理的 精神を身につけることの必要性からの著作であったと思われる・その教材は・物理・天文・気象・地理 地質などで動植物と化学に属するものは殆どないが,自然の理を究める自然科学の基本をわきまえ自然 を物に即して理解する態度が小さいときから必要だという福澤諭吉の教育観は本書ににじみ出ている。

そして 訓蒙窮理図解 が身近なことの理を究めることから始って,その理による大自然の理解に及ぶ 考え方は,上記の 自然と人間の共存 という理科教育,特に地学教育の目標に直接的に通じるものが あると評価したい。これが経政家質澤諭吉著の低学年の窮理書であることから,低学年の理科に対する 教育観としては自然科学にたずさわる者の主張とは異なり,無限といえる重みを持つものといいたいの である。

 理科教育の目標に関連して高瀬(1977)5)は,科学哲学の系列に属する生物学者(英)トーマスeハ ックレー(1825 一 1895)の初等理科教育の価値について次のように紹介している。教育の目的を人文 的価値におき, 人文教育Liberal education では「教育とは知性に対して自然の法則を知らしめ,感 情と意志に対してその法則に従って生活しようとする熱烈な意識を持たせることであるjとし,理想的 人間像をあげ,自然および自然現象の基本的真理に関する知識を十分に備えた心の持ち主となることを 期待している。

 tt訓蒙窮理図解 の序を読むと,福澤諭吉の教育観が上記の英国の生物学者で科学教育学者とも評価 されるトーマス・ハックレーの科学教育観に通じるところがあると評価したいのは著者等だけであろう か。なお, 訓蒙窮理図解 が自然の把え方だけでなく地学的内容の多いことなどについては,第1−

6章は高瀬・渡部・下野(1988)3)の諭文を参照されたく,7一ユ0章は本諭文末にある。

(3)

高瀬他:地学教育の目標からみた今後の低学年理科に対する一一つの提言 103

 2)低学年の理科に示唆を与えるもの

訓蒙窮理図解 は慶応4年(明治元年)慶応義塾の幼稚舎の教育に資するためのもので,今でいえ ば理科読本のような性格の著作ではないかと推察される。その教材の内容からみると,今の学校教育の 低学年理科のように少年少女を主対象とした教育的配慮が行きとどいたものとは言いがたい例がいつも 出てくる。例えば,蒸露命(らんぴき)で焼酎を蒸溜する理や焼酎を手足に塗って冷たく覚ゆるわけな ど,わかりやすいためと思われるが,今では扱わない酒関連のことが数回出てくること,「孟秋白露降 り季秋豆飯て降る」という詩は,露霜が空から降るという古人の考えを否定するのに挙げた漢詩で子供 にはむずかしすぎる,などが挙げられよう。それでもなお,著者等がこのtt訓蒙窮理図解 が低学年の 理科に示唆を与えるところが多いというのは,興味を持たせるための教材を入れていること,ねらいと 思考過程がすぐれていること,身近な現象を多くとり上げている着意などであり,この3つの視点に当 たる例を述べると次のようである。

①おやつ!!と思い興味を引く例

 @ 「サルカニ合戦で火鉢からクリが飛び出しサルの顔に飛びかかった」のは,麦藁を火にくべると 茎に節があるため音を出しては.じけるのと同じで,「クリの皮にこもった空気の急な膨張による(図あ

り)」と説く。

 ⑤ 幼児が母親の乳を吸って乳が出るのは,空気の圧力に関する現象で,掌に茶腕の糸底を吸いつか せるとさかさにしても手から離れないこと(図あり)を扱った上で,これと同じ理だとする。

② ねらいと思考過程がすぐれている例

 @ 「水は低い方へ流れ平面を保つ性質があって,やかんの中の水は出口と同じ高さになるというの はあたりまえであまり面白くもない理のようだが,世にはこの理による人が気づかないものが多い」と いって河底を横切る水道管,堀抜井戸の地学的なものに及んでいる。

 ⑤ 風の理の実験として「あたためた部屋のふすまを少し開き,すき間の上と下にローソクをおくと 下のローソクの火は中側へ上のU一ソクの火は外側へなびくことで空気の動きを知り」,「これは唯目 の前に見る証拠までのことだが.風の吹く理そのものであり」,地球上で風の原因になる温気は太陽で あり,実際の風について貿易風をとり上げ,「外国の商人が帆船で千万里の海を渡って交易に行き来し たのはこの風を頼りにしたのだと説く。理科では貿易風は扱わないが,福澤諭吉の教育観からみると当 然であり興味ある見方であると考える。

 ◎ 雨で「ぬれた路が乾き手拭が乾くのはどうしてか。唯これを乾いたというだけでなく,よく心を 留めて乾いた水はどこへ行ったのかと尋ねると皆温気によって蒸発したことがわかるのである。このよ うに昼も夜も絶え間なく蒸発する水気を蒸発気という。これは湯気の理と同じ」といい,7,8月の虫 干につないでいる。

 ◎ 「夏冷水を汲んだやかんの外側に水滴がついて水が漏ったと思うばかりなのは,空中の水蒸気が 冷えてやかんについたもので,暖まれば自然になくなる。蒸露罐(らんぴき)などいくつか説明した後 でこれらは,唯道具仕掛の細かな話だが雨が降るのはこの理であり,空中の水蒸気が雲となって見える のは冬の湯殿の湯気と同じであり,高い山へ登ると寒いので白雲が下から起り,富士山の心意もこの理 で,傘雲は天気予報につかわれると続く。

 ⑥ 「寒い夜の霜よけに畑に火をたいて煙をなびかせるのは,暖かい煙のためではなくて,草木に煙 の衣服を着せてその温気を吐き出さないようにすることで,これは曇った夜には霜がおりないのと同じ 理」という。この煙の衣服でおおうという見方が面白い。

(4)

③ 身近な例

 数えきれないほどあるが,今は使われないものも少なくない。若干の例を挙げる。

 @ レンズで太陽光線を集める。

 ⑤ 手鍋(実際はじゅうのう)の柄を木にするわけ。

 @ 綿入れの着物が暖かいわけ。

 ⑥ 夏麻の着物をきるわけ。

 ⑥ 真昼裸ではかえってあついわけ。

 ① 冷えた鉢にあつい汁を入れると鉢がこわれるわけ。

 ⑧ 暑中白い服を着るわけ。

 ⑮ 鍋の底をピカピカに磨いてはだめ。

 ① 水鉄砲。

 ① 夏の夕方水をまくと涼しいわけ。

 ⑯ 雨や雪の降る前はかえって寒いわけ……など。

皿 制度が確立しなかった時期の低学年の理科

訓蒙窮理図解 は,明治5年からの小学教則では,後の理科に当たるtt窮理学輪講 の中で下等小 学に指示されたといわれる。明治5年から明治13年頃までは文部省刊行の教科書も含めてすべて欧米の 翻訳教科書であったといえる。 訓蒙窮理図解 も見方によっては翻訳ものといえるが,翻訳の臭のな い独自の著作として特筆し得るものと評価したい。これが小学校での窮理書の代表例であったとされて いるが,実際この「t窮理図解 を使った教育の成果がどれだけ挙げられたかはわからない。多分,理科 教育に熱心な教師のいるエリート校などでは,読まれるだけでなく観察も実験もさせ,これら実物教育 が伴った学校の児童には成果があったのではないかと思う。全国的にみると試験的に学習した学校があ ったという程度と推察される。これを低学年の理科としてみると, 窮理学輪講 のわくからみて下等 小学といっても3年後半の半年間となるので,低学年よりは4〜5年ともう少し上級学年の方が教育効 果が期待できることがわかった学校では,教材や教科書の学年指定が未だ明確に示されない時期だけに 低学年の学習はどちらかというと少なくなる傾向にあったのではないかと思う。高瀬(1987)は,明 治IO年代から「問答科」「実物科」などの教科書があったことを紹介している。明治初期の教科書の収 集では国立教育研究所付属教育図書館にまさるところもある東京学芸大学付属図書館目録 には 訓蒙 窮理図解 はあるが「問答科」「実物科」の教科書とみられるものがないので,低学年の理科の教育は

tcP蒙窮理図解 で述べた上記の程度の普及情況であったのではないかと推察される。

 明治13年から以後の制度上低学年の理科に当るものがなくなった時期について要約すると次のようで

ある。

 明治13年(1880)の「改正教育令」でtt窮理学輪講 という理科に当たる教科のまとまりがなくなり 小学中等科(4−6学年)から博物・物理・化学・生理が課され,低学年の理科に当るものがなくなっ た。理科の教科書でみると,この改正のすぐ後の明治14−15年頃から翻訳本から抜け出た自前の小学校 教科書が刊行されだしたといえる。日本地学教育史委員会(1988)Dは,地学関係では明治15年刊の

tt ャ学砿物読本 (山田清風著)を地学教科書の代表例として国定教科書(第1期,明治43年刊)の内

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高瀬他:地学教育の目標からみた今後の低学年理科に対する一つの提言 105

容との対応を検討している。明治19年(1886)の小学校令ではじめてtt理科 の科目が設けられ,理科 は5年と6年掛課された。そして明治40年の国定教科書ができるまで(理科の国定教科書は明治43年刊 から)検定教科書時代となり,この検定教科書時代には理科でも多数の教科書が出たので,教科書に対 する関心は以前に比して高まり,その中には消失した低学年の理科に目を向けた学者・教育者もあった にちがいない。H本教科書大係第32巻(1965)8)は,棚橋源太郎e樋口勘次郎合著「小学理科教科書」

を検定教科書時代後期の代表例の1つに挙げ,当時の著名な教育学者と理科教授法の最高権威の協力に よる著作であるとし,その編集方針が「児童を自然に順応させ,社会に適応させるために「自然の生活」

と「人類の開花」を理解させ,これによって強盛な感情を養成することを目的としている』ことを挙げ ている。一方,高瀬(1987)6)は,低学年理科の設置運動について,「明治30年代からは実科(「地理・

歴史・理科を統合して取り扱う教科)を直観科(1・2年),郷土科(3・4年)という名称で棚橋源太 郎らを中心に東京高師付属小学校で実施を重ね,各県師範学校付属小学校や私立校の付属から全国に波 及していった」としている。上記の棚橋らの小学校理科教科書(5・6年用)の編集方針の記述を推察 すると,棚橋らは小学校理科教育全般からみて低学年の理科の必要性を強調したことが了解される。

 大正8年(1919)の改正で理科が4・5・6年に課され,これを契機に低学年(3年以下)の理科の 設置運動が全国的規模で表面化し,同年の第1回教育研究大会で低学年の理科教育(自然科)が建議さ れた。自然科であることから,この時期の低学年の理科は地学教育の目標と符合するものと考えられる が,ここでは「生徒をして注意深き教師の下に思う存分に大自然に接触し大自然より学ばしめ,将来修 むべき諸学科の根源を十分広く且つ確かに養い置くのを以て理想とする」という高瀬(1987)が紹介し た和田八重造(1919)の個人的意見で代表させられよう。これらの設置運動が結実したのが昭和16年国 民学校の低学年の理科tt自然の観察 である。

1V 国民学絞令時代のtt自然の観察 と学校教育法時代のCt低学年の理科

 高瀬(1987)は,低学年理科tt自然の観察 の成立,特に 自然の観察 の意義と設立の理由につ いて詳細に述べている。1−3年のtt自然の観察 は,教科書はなかったが教師用書には指導例まで掲 載されている。地学領域の教科は,1年(30課のうち)雨あがり(12課目,お月さま(12課),冬の天 気(26課),日なたと日かげ(27課),方角(29課),2年(25課目うち)季節だより(1課),露

(10課),寒暖計(22課),3年(16課のうち)石ひろい(10課),寒さと暖かさ(15課),私たちの 研究(自由研究ユ6課)である。tt自然の観察 は季節に対応して教材を配列し・植物教材が過半を占め 動物・地学がこれに次ぎ,物理・化学は少ない。高瀬は上記の論文(1987)で「 自然の観察 は自然

そのものが学習の対象であり,教科書そのものであるという徹底した考えにもとづいたものと考えられ 実質陶治よりも形式陶治を重視したものであって,この構想や内容は,これまで低学年理科設置運動を 進められてきた方々の理科教授の思想と符合している』と評価している。このCt自然の観察 は,昭和 20年の終戦によって実施5年目で形骸化し,新制度の理科へ移行したのである。

 昭和22年新制度の学校教育法による小学校では,低学年から理科が課され現在に至る。この低学年の 理科は数回改正された。その主なものについて地学教育の面から概観すると次のようである。但し,各 時期を示す名称は前述の地学教育史委員会(1987)1)の案による。

 ①生活単元学習期(昭和22−26年)は,終戦直後からの混乱期といえる時期にあたり,米国の教育理

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念による実践的な単元学習を基調とした生活単元学習・問題解決学習などと呼ばれた時期である。1〜

3学年の理科は週2時間履修,教科書はなく,教師用指導書だけであった。次の②6分野単元学習期

(昭和27−32年)になって学習指導要領の内容が充実してきた。教科書はこれ以後検定教科書となる。

学習教材の分野は6分野となったが低学年と高学年の分野名が別々に示され,低学年では「空に見える もの」「自然の移り変わり」の2分野が地学領域である(低学年では5分野中2分野,高学年では「自 然の保護と利用」が6分野目)。下って③4領域系統学習期(昭和33〜42年)になって,6領域の学習 の目標や教材の系統が検討された。この時期の改正によって小学校理科の指導方針の基礎が確立したと いえる。これまでの試案ではなく,基準として目標・内容が官報で示されたからである。著者の一人渡 部はこの時期の委員であったが,各領域専門家に児童心理学者や進化論者などが加わり,理科教育の目 標や領域の教材の系統が論議され,低学年の児童の心理的発達段階と自然現象に興味を持つ時期や理解 できる現象の性格などによる教材の学年配当まで多面的な検討がなされたことが思い出される。渡部は 地学領域の地質教材を担当し,石ころ(1年)→雨水の行方(2年)→土の性質・川の様子(3年)の 系統について次のように考えた。すなわち,1年の「石ころ」は,身近にもある何の変哲もない石ころ をいじって,遊びを通して自然物の多様性に気づかせ,2年の「雨水の行方」は,校庭・砂場などで雨 の降り方と水の流れ方・uしみこみ方eかわき方など児童の生活基盤となる地面に水を手掛りとして目を 向けさせる。3年の「土の性質」では,花壇の世話をする過程で土の種類(砂・粘土など)と保水性の 関係に気づき植物が育つ土(自然の1つ)をいじって関心を持たせ,「川の様子」では,川という自然 に目を向け川原の石の大きさ・形・まるさと石を流す水という自然の力との対応を考えることによって 川の力で示される自然力の大きさを感得させることを期待し,これらを教材の基盤となることを念願し て提示したつもりであった。実際の指導要領ではこのような個人的・基本的な考え方を書くことがむず かしい構成になっていたが,小学校の理科教育の中の地学教育が求めるものは,低学年から人間を含む 生物を育ててきた大自然の理が少しでもわかり,人力では及ばない進化の妙や大自然の偉大さを感得す ることであり,これが,やがて 自然と人間の共存 の認識に連なる基礎的体験であると考えたいので ある。次は④3領域探究学習期(その1,昭和43−51年,その2昭和52年以降)となる。この時期の改 正は,米国の科学教育革新運動に影響された理科教育の現代化による創造性の開発をめざしたものとい われる。領域は3つ,A生物とその環境, B物質とエネルギー, C地球と宇宙となり,地学領域はCの

「地球と宇宙」で示された。理科のねらいとして「自然と人間とのかかわり」について認識を深めると している。教材の内容の基本は,③の系統学習期とほぼ等しく,教材の一部は小中一貫の立場から中等 へ移された。こうして現在に至る。この探究学習期の2の改正の昭和52年に低学年の理科の改廃につい ての論議が表面化したようである。

V 地学教育の目標からみた今後の低学年の理科について

 低学年の理科の存続運動については高瀬(1987)が詳しく紹介している。この概要は次の通りである。

低学年理科については,中央教育審議会の教育課程審議会で多年検討され,昭和52年の学習指導要領の 改正時に低学年理科の廃止がうわさされ,低学年の教科指導で合科的・総合的扱いの推進がとり上げら れ,13期中央教育審議会により「低学年の理科と社会科を廃止して,新教科「生活科」の設置の方向が 打ち出され,昭和67年実施」という答申が出され,やがて最終答申が出ると聞く。この「生活科」新設

(7)

高瀬他:地学教育の目標からみた今後の低学年理科に対する一つの提言 ユ07

の答申に対し,昭和60年には,田本理科教育学会と全国小学校理科研究協議会が相次いで要望書を出し 低学年理科の存続の必要性を強調しているとし,半世紀前の低学年理科の設置運動(建議)の骨子と近 年の存続運動(要望)の内容とが全くといってよいほど符合している点を指摘している。なお,その廃 止の根拠は鮮明でないが,現時点においてはほぼ廃止の宣言を受けた段階にある,と認識している。

 上記の事情により数年後には低学年の理科と社会が廃止されて「生活科」の新設が実現するであろう。

この新設の「生活科」は基本理念を決めその観点から理科と社会から適切な教材を選択して構成される べきで,実際そのようになるものと推察されるが,「生活科」新設の理念をどこへ置くかが極めて重要 な視点だといえる。この点では多分,将来を指向した社会科の目標(人間の社会生活における人間同志 の関係に重点をおく視点)や再検討される理科の目標(自然と人間の共存を強く意識する視点)に求め られるであろう。著者等は,将来の人間の社会生活の基本は,tt自然と人間の共存 を強く意識して人 類の進化を培った生物圏,すなわち地球環境の保全につとめ子孫へ受け継ぐことが現代人の使命である

と認め,そのためには,社会生活の基礎になる自然に関心をもち,低学年から発達段階に応じて自然を 理解することが従来より一層必要になってくると主張したいのである。これまで述べてきたことでわか るように,地学領域の中の地質教材の扱いでは,野外に出て大自然にふれ,自然物をいじって興味・関 心を持たせ,自然のふしぎさ(進化の妙)や偉大さ(人力を越えた大きな力)を感得させることが,児 童の自然認識の基礎的重要性を持つと考える。これには従来でも現実的困難があって十分実施しがたい 面もあったと指摘されている。「生活科」の内容について不明のため従来の地学領域がどれだけ入るか もわからないが,人間生活と自然とのかかわりが一層重視される時点での合科新設の「生活科」である ことから,地学的教材については同様の期待を持ち,上記のような自然に接する教育が後退しないこと を切望するものである。この期待には,「生活科」の社会生活と対人関係に比重をおいて自然から学び とる教材が少なくならないこと,及び野外に出ないなど自然から離れた指導という安易な教育にならな いように望むものである。前者は学習指導要領作成にかかることであり,後者はそれに担当教員など現 場の指導上のことが加わることである。ここでもう一つ強調したいことは,「生活科」を推進する方々 に,駅訓蒙窮理図解 から汲みとれる福澤諭吉の教育観をここで読みかえてほしいことである。特に社 会科の方々におすすめしたい。理科に属する著者等からみれば社会科に属する郵政家といえる福澤諭吉 が,今とは社会環境が著しく異なる120年前のことながら,大自然の理を窮めることが人格形成の基本 の1つであり児女子の教育のためにtt訓蒙窮理図解 を著したことに感動し,これが最初の低学年理科 に当たる教育に資したことの意義を評価するのは著者等だけであろうか。著者等は,この書には今後理 科と社会科等を含めた「生活科」ができたとしてその目標や指導法に示唆を与えるものがきっとあるに ちがいないと考え,それがこの小論を書く契機となったという次第である。

VI付.福耳諭吉 tt訓蒙窮理図解 巻の3(第7〜10章)概要

  第7章引力の事 (原文ユ6ページ)

    引力の感ずる所業細なり又至大なり

    近くは地上に行(おこな)われ遠くは星辰に及ぶ

〔引力の強弱〕

物には他の物と互に引き近づこうとする力がある。これを引力という。世界中の万物は大小にかかわ

(8)

らずこの引力を見えているが,地球が格別大きいので,地球の表面にある物と物とが互に引く力がある といっても地球の引力にはかなわなくて地球の方へ引きつけられ,その物に具わった少しばかりの力を 自由にあらわすことができないのである。

 引力の強弱は物の遠近大小によってちがう。物が重い軽いというのもその土地に引かれる強さに由っ ておこることであり,土地から遠く離れるにつれて地球の引力がしだいに減じて物の目方も軽くなって いく。地面で測った目方1,000斤(600 kS)の鉄の玉を高さ59町余(約6,450 m,富士山の1.7倍)の 山の上に引き上げたら目方が2斤(1.2 kS)減って998斤(598.8 kg)となった。これは地球の引力に 感ずる程度が減少した証拠である。この割合でもっと高く登り9万8千里余(38万5千㎞余,384,400

㎞理科年表による)の月の世界にいけば,この1,000斤の玉は僅か50匁(1889)ばかりになるという。

ただし,目方は「スプリングバランス」(バネ秤)というゼンマイ仕掛の秤で測らないと,分銅の秤で は分鋼も一緒に軽くなるので目方の減り方がわかりにくい。

〔地球が太陽のまわりをまわるわけ〕

 引力で物が引き合っているのは地球だけでなく日月星辰もみな引き合っている。月は地球に引かれ地 球は太陽が引かれている。この理によれば地球は太陽に引かれて太陽に突当って燃え立つことになるが そうならないのはここにもう一つの理があってその心配は無用である。その理由は次のようである。す なわち,太陽の引力による求心力と地球が太陽を廻る間に絶えず太陽から飛離れて去ろうとする遠心力 があって,この2様の力が互につり合っているのである。

〔空の星〕

 天の広い空間に数限りない星が連って幽幽以来今日まで,その行列が乱れることがないのはみな引力 のためである。星にも種類があって遠いものを恒星といい,近いものを遊星という。恒星は幾億万里も 遠くにあって,銀河は多くの星が重なったもので,望遠鏡で見れば1個ずつの星がわかる。昔の人は日 輪を太陽,星を小遣といって星は小さいもののように書いてあるが,実は恒星も1個ずつのH輪であっ て付属する遊星があることもわが太陽と同じである。唯格別遠いため地球にとどく光が少なく温気は届 かないのである。

 遊星は太陽に付属したもので昔は5星といい,木骨土金水の名で呼ばれた。遊星は光を出さず,太陽 の光を受けて輝くだけである。地球も1個の遊星であり,他の遊星からわが地球を望み見ればやはり遊 星のように見えるだろう。

 そもそも天空のつくりの大きいことは人力では測りがたく,恒星の中で最も近いものの距離は7,850 億里(30,870億㎞)で,ソロバンの桁で1の桁から15桁上の数に当る。銀河までの距離では億兆の数で はとても測れず,洪大無辺というべきだろう。気の遠くなるような話である。

〔顕微鏡による極微の世界〕

 細かい仕事でも人を驚かすことがある。西洋人が発明した顕微鏡でみると,ノミの足の毛,カの脚の 節,水の中の虫,酢の中の虫,1本の絹糸が100條もの細線(いと)の集りであること,池の水一滴の 中に千百の虫がいて小さくとも口や臓器があることなど,思いがけないことが多いのである。これは天 文のことではないが進化の洪大霊妙な証拠として挙げたものである。

〔追記〕

 以上は天文の大略を記し,以下四時昼夜半の理を説いてこの書の結末とする。ただし,この篇に天地

()内の数字等は著者らの換算または理科年表から得た数値である。収取以下についても同様である。

(9)

高瀬他:地学教育の目標からみた今後の低学年理科に対する一つの提言 109

窮理の大概を記したのに地震・雷・虹・慧星等がないのは,我社中小幡氏が著述「天変地異」という書 に委しいので,ここでは省略したとしている。

   第8章 昼夜の事  (原文 9ページ)

     日輪常に静かにして光明の変なし      世界自ら転びて昼夜の分あり

〔地動説〕

 昔から日本や支那では,天は円くて動き地は四角で静かであるという説があった。西洋にも同じ説が あったが,1606興すなわち慶応11年にイタリヤの大学者ガリレオという人が地動の説を唱え,地球が 太陽のまわりを動き廻っていることを発見し,千古の疑いが始めて解け,世の小説に惑わされることが なくなった。地球はマリや榿のように円く,学者は日輪のことを地球という。.地球のまわりはおよそ

10,230里(39,897㎞)で南と北を軸にして西から東へ24時間でひと廻りする間に日輪へ向く方が昼で その裏の半面が夜である。たとえば榿実(ダイダイの実)に串をさして軸とし榿火の前でこれを廻すと 半面が光をうけて明くなるが陰の半面は暗くなるようなものである。

〔時刻のおくれ〕

 人は朝太陽が東から出て暮に西に没すると言うが,

実は地球が廻って東の方へ下るので日が昇るように貝 えるのである。そのため,地球を西の方へ行けば行く ほど日が暮れるのがおくれる。例えば,東北の青森に 比べて西の長崎は1時間近くも日暮れがおそい。

〔地球はまるい〕

 地球がまるいとすれば,1ケ所では上下と思う だけで,地球には上も下もないのであって,大空 の遠方から見たとすれば図のように,上下横斜な ど,マリのまわりにアリが取りついたのにたとえ ることができよう。この図を見て考えれば,倒に 立っている人は空中に落ちるはずだと思うが,人 だけでなく,世界中の舟車家山林河海などみな地 球の引力に引きつけられて安定しているのである。

世界にこの引力がないとすればどうして生物が生 育し人間が安穏を保つことができようや。天理の 恩恵をおろそかにしてはならない。

 地球がまるいことを疑うのは,見るところが狭 く考えが浅いため,このような疑惑が起るのであ る。手近の証拠をあげると,船に乗って西へ指し て行くと東の方から日本へ帰り着くのはこれであ る。また,海岸で海を眺め遠方から来る船を見る と,はじめマストが見え,しだいに近寄るにつれ

××××一

月竃層・、、

  ら覆

轍蒙

燃門別鐸

  \

て舟の下の方も見えてくるのは海面がまるく勾配のあるしるしであって,地球がまるい証拠である。

(10)

   第9章四季の事 (原文 5ページ)

     日輪一廻に止って温気の本体となり      世界これを廻りて四時の変化を起こす

〔地球の私転と公転〕

 太陽は円いマリのようであるが,品柄は分りにくく唯際限なく大きい火の玉と思えばよい。地球は24 時間で太陽を一廻りして昼夜の別ができるといったが,これは地球の私転(自転)しているからである。

地球は私饗しながら太陽を中心にして365日と5時間余で一廻りしてもとのところへ帰る。これが1年 である。これは絵図でわかるだろう。

〔春夏秋冬ができるわけ〕       痢弗        Svl

       轟 の廻る道筋はいびつであって,太陽がその真中にある

のでもないため,太陽の光を地球の表面が真直に受け るのと斜に受けるのとのちがいで春夏秋冬四季の変化 が起こるのである。たとえば,地球が⑭の字のところ に来れば太陽の光が地球の北の方へ斜に達し南へに真

ト∀ノ聴R 

直に当るので北の方は冬,南の方は夏である。日本・支那・天笠(インド),ヨーロッパ,北アメリカな どは地球の北の方(北半球)にある。この絵図に春夏秋冬と記したのは北の方の四季であって,南の方 はその反対なのである。

   第10章 日蝕月蝕の事  (原文 9ページ)

     月は世界を廻ってみちかけの変を生じ      三体上下に重りて日月の蝕を成す

〔月のみちかけ〕

 月は地球の付き物で地球のまわりと一と月に一廻りしてもとのところに帰る。月には光明がなく月が 明るく見えるのは太陽の光を受けてこれを地球に写すからである。例えば,一と間でローソクの光を鏡 に受け,これを次の間に写すようなもので,次の間ではローソクの光を直接見ない鏡の光だけが明るく 見える。この理で太陽の光を月に受け地球を照らすときは月夜という。また,月の軌道に従って日輪の 光を受けてもこれを地球に写さないときが暗夜である。

絵図はこれを示す。

 月の軌道は地球を中心にして左廻りに廻り,まず◎の 字の所に来るときが朔日(ついたち)で,月の裏を見る ので光がなく暗夜(やみよ)である。次第に進んで少し 光が見えてくれば三日月(みかづき)という。もっと進 んで㊥の字の所に来れば半月となり,⑧の字の所では太 陽に向って月の明るいところと地球とが相対するので満 月である。これより後は㊦㊨㊨と進むにつれて月の光は だんだん細くなり,遂にもとの暗夜◎に帰る。

(11)

高瀬他:地学教育の目標からみた今後の低学年理科に対する一つの提言 lll

〔日蝕・月蝕〕

 このように,晦日(みそか)と朔H(ついたち)には月の軌道が 必ず太陽と地球との間に来ることになるので,ときには月の陰にな って太陽の光が妨げられ白昼に太陽が隠れて暗くなることがある。

これを日蝕という。また,15・16日ごろには月と太陽の間に地球が   1燭/

挾まれることになるので,太陽が地球の陰になって太陽の光が妨げ られ満月を覆って月が暗くなることがある。これを月蝕という。淋時1萱》

 この理から考えれば,毎月日蝕と月蝕があることになりそうだが 決してそうはならないのは,月の軌道と地球の軌道がちがうからで  £ 平面の絵図では重なるように見えるが,太陽と月と地球が団子(だ 承 んご)を串に差したように上下3段に三体が重なり合うことがあっ て,その時だけEII蝕月蝕があらわれるのである。

〔月と太陽の見かけの大きさ〕

 この地球から眺めると,月と太陽の大きさはあまりちがわない。

それで日月剛体,太陽・大陰などと,Hと月が同格のようにいわれてきたが,実際は莫大なちがいがあ って,太陽の方がたとえようのないほど大きいのである。太陽の径は26万里余(101万ltm余)で,月の 数百倍ものちがいがあるのに

同格に見えるのは遠近によ 飼・の蝕1写

る見かけの大きさに過ぎない。

月は,9万8,m里余(38万 2,633伽余)離れている。西洋 の学者が太陽の遠さを測るの に,世の中の速いものの鉄砲 玉を地球から放てば21年かか って太陽にとどき,蒸気車の 道があると仮定してこれに乗 れば500年かかってやっと太

.界紮

圖イの 蝕1月9

撫義

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尋 璽群

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陽に届くという。実に話を聞いても信じがたい程,太陽は遠いのである。

     (巻の3 おわり)

(12)

引 用 文 献

1)地学教育史委員会(代表渡部景隆):明治初期(理科以前)の小学校地学教育一地学教育史委員会報告Na 2一,

 地学教育,41巻,1号,pp.13〜24(1988)

2)福澤諭吉:訓蒙窮理図解,明治元年(慶応4年)刊,慶応義塾,奥付なし,但し本論引用本は明治4年再刻本  で巻の1,巻の2,巻の3.,初刻本は上,中,下。(1867)

3)高瀬一男・渡部景隆・下野 洋:地学教育からみた福澤諭吉tt訓蒙窮理図解 ,茨城大学教育学部教育研究所  紀要,20号,pp.91〜102(1988)

4)渡部景隆:自然と人間の共存,プロシーディングス,学校教育研究所年報,30号,pp.90〜100(1986)

5)高瀬一男:理科教育の理念と科学的精神,総合科学研究会編:自然と人間p.97,有文出版(1977)

6)高瀬一男:小学校低学年理科の変遷,茨城大学教育学部教育研究所紀要,19号,pp.205〜215(1987)

7)東京学芸大学付属図書館:昭和61年度図書館等所蔵資料展示会目録(理科教科書の変遷),pp.1〜22(1986)

8)海後宗臣・仲新編:日本教科書大系s第32巻,講談社(1965)

9)小幡篤次郎:天変地異(1867)

参照

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