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日本製鋼所の設立とその特徴

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(1)

奈 倉 文 二

1 はじめに      以上の簡単な経過からも,日本製鋼所設立の意 日本製鋼所は,日英同盟をバックに海軍の支援   図・目的などは,日英の出資者(北炭及び英国兵 のもとに北海道炭磧汽船会社(以下,北炭と略)  器会社2社)やバックアップした日本海軍との間

と英国の総合的大兵器会社(アームストロング社   では相当異なっていたことが容易に推察される。

及びヴィッカーズ社)の共同出資により設立され   そうした相互の思惑の相違は,新設会社の性格を た兵器鉄鋼メーカー(艦艇積載用大砲及び原料鋼  複雑にする大きな要素となったと思われる。

材等製造)である(1907年設立,11年操業開始)。   したがって,以下の考察では,日本製鋼所設立 本稿の目的は,日本製鋼所の設立過程の検討を  の背景を英国側の動向も含めて(つまり日英同盟 通じて,同所の特異な性格を明らかにするととも  下の両国海軍及び兵器産業間の関係として)検討 に,その後の日本製鋼所の発展過程で問題となる  し,それが同所設立経過とどのように関わり合っ 様々な諸点(とりわけ既に筆者が明らかにした日  ていたかを探る手がかりとするとともに,井上北 英株主間で問題となる諸点)ωの起源を示してお  炭専務らの製鉄業進出計画の具体的内容(発端か くことにある。      ら計画変更に至る)と日本政府・海軍(とくに山 日本製鋼所設立経過の概要は,通常,以下のよ   内万寿治中将)の意図との関係,英国側出資者の うに説明される。      意図と関与の内容などに注意を払って検討してい 設立の背景としては,日英同盟(1902年締結,  く。その上で,日本製鋼所の創立契約書類に含ま 05年改訂)と海軍拡張策(とくに日露戦争期以降   れる問題点を指摘して,本稿の課題を果たすこと の「内地建艦政策」)があり,さらに,鉄道国有   としたい。

化(1906年)と鉄道用品国産化政策などもあって,

軍需及び鉄道用品依存の民間製鋼業も勃興し始め    (1)筆者が発表した関連論文は以下の通り(執筆順)。

ていた。日本製鋼所の設立はその代表例でもあっ    ①「両大戦間期における日本製鋼所の経営戦略と た②。       イギリス資本一輪西製鉄所の合併と分離をめ そして,日本製鋼所設立の発端は,井上角五郎    ぐって一」(r茨城大学人文学部紀要(社会科 北炭専務らの経営陣3}が,かねてからの宿願であっ    学)』第25号,1992年3月)。②「『ワシントン軍縮』

た製鉄業進出を鉄道国有化による鉄道売却資金を    下の日本製鋼所とイギリス資本一軍縮補償問 もとに具体化したことにある。しかし,井上が当    題と英国側株主の要求一」(『茨城大学政経学 初構想した北海道地方の砂鉄を原料とする製鉄事    会雑誌』第60号,1992年8月)。③rrワシントン軍 業計画は,山内万寿治海軍中将(呉鎮守府司令長    縮』下の日本製鋼所の経営再建策と役員人事一 官)(4)との会談の結果,大砲(とくに海軍艦艇積    トップ・マネジメントをめぐる三井・海軍省・英 載用)及び原料鋼材の製造を企図する製鋼所建設    国側株主一」(r茨城大学政経学会雑誌』第61 に内容が変更され,さらに,山内の仲介により英    号,1993年3月)。④「日本製鋼所・英国側株式の 国の兵器会社の技術i援助並びに出資を得ることに    売却交渉(1934〜36年)」(『茨城大学人文学部紀 なる(5)。       要(社会科学)』第27号,1994年3月)。⑤「日本

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18      茨城大学政経学会雑誌 第67号

製鋼所・英国側株式の売却問題一推移と帰結     た。

(1920〜41年)一」(『茨城大学政経学会雑誌』第      当初は,炭磧開発・鉄道敷設による北海道開拓 62号,1994年3月)。⑥「戦後における日本製鋼所・    を推進する目的に基づき,北海道官僚が設立の中 英国側株主の在日財産回復問題」(『茨城大学政経     心となり,株主は筆頭の宮内省(株式発行総数の 学会雑誌』第63号,1995年3月)。⑦「創立期日本    約8%)はじめ,華族関係者が大きな比重を占め 製鋼所のトップマネジメントと英国側株主一     ていた。経営の実権は元道庁官僚が握っていたが,

日本製鋼所重役会議事録及び英国側取締役会議事     1891−93年の経営不振の際に株主の移動が生じ,

録の検討を中心に一」(『茨城大学人文学部紀     93年には雨宮敬次郎(いわゆる甲州財閥の統領)

要(社会科学)』第29号,1996年3月)。⑧「日本    が宮内省に次ぐ大株主となって取締役となるとと 製鋼所r山内体制』と英国側株主(1910〜13年)」    もに,盟友の井上角五郎を招いて(同年常議員・

(『茨城大学人文学部紀要(社会科学)』第30号,19    理事),さらに専務取締役に就任させた(99年)。

97年3月)。⑨「第1次大戦期における日本製鋼所    井上は,90年以来衆議院議員(連続当選14回),政 の発展と英国側株主の関与後退」(『茨城大学人文    友会幹部として政治家であるとともに,北炭専務 学部紀要社会科学論集』〈『紀要』名称変更〉,    就任後は同社の実質的な経営代表者としても活躍 第31号,1998年3月刊行予定)。      した(北炭は取締役会長制を採っていたが,1906

以下,本稿でこれらに言及する場合は拙稿①②    年8月高島嘉右衛門取締役会長退任後1910年5月

③一一と略す。      までは会長をおかず)。井上は,鉄道国有化をめ 本稿で[VA−]及び[TWAS−]と略す資料は,元    ぐっては国有論者として論陣を張り,自社鉄道の ヴィッカーズ社所有の Vickers Archives (現    国有移管を実現する。つまり,井上にとっては鉄 在英国ケンブリッジ大学図書館所蔵)及び Tyne    道国有化は単なる与件ではなかったことに注意し and Wear Archives Service (Newcastle−upon一    ておきたい。以上,北海道炭磧汽船株式会社『五 Tyne)所蔵の旧アームストロング社関係資料であ    十年史』同社,1939年,同『七十年史』1958年,

る。      株式会社日本製鋼所『日本製鋼所社史資料(上)』

なお,本稿でも,年号は資料引用を除き西暦を     同社,1968年(以下『社史資料(上)』と略),市 用いる。      原博「第1次大戦に至る北炭経営」 (『一橋論叢』

(2)日本鉄鋼史編纂会編『日本鉄鋼史・明治編』千     第90巻第3号,1983年9月),宮下弘美「創業期の 倉書房,1945年,472−475,557−582頁,拙著『日本     北海道炭磧鉄道株式会社」,同「日露戦後北海道炭 鉄鋼業史の研究』近藤出版社,1984年,284−285,30    磧汽船株式会社の経営危機」(北海道大学『経済学 8−348頁,等。      研究』第39巻第2号,1989年9月,第43巻第4号,

(3)北炭は,北海道炭磧鉄道会社として炭磧及び鉄     1994年3月)など参照。

道の事業経営を目的に発足(1889年,資本金650万    (4)山内万寿治は,海軍随一の製鋼・造兵技術の権 円),その後船舶を購入して海上輸送業も兼ね,    威者で,既に1890年の欧州出張の際にアームスト さらに造林業・コークス製造業の諸事業へと経営     ロング社のアンドル〒・ノーブル(Andrew No一 多角化を進め,事業拡張に伴う必要資金を相次ぐ    ble)と出会って以来,アームストロング社との関 増資により調達し(1906年には払込資本金2025万     係を築き(クルップ砲「崇拝家」からの転換),

円にまで拡大),1905年10月には英貨100万ポンド    1892年にはアームストロング砲の改良である「山 の外国債をも募集した(「担保付社債信託法」に    内式速射砲」を日本海軍の兵器として採用させて 準拠する我国初の担保付社債で民間外資導入の先     おり,「仮設呉兵器製造所」(95年)以来,呉造兵 駆)。そして,06年10月には,鉄道部門の国有移管     廠長・呉海軍工廠長を歴任して,呉工廠の拡充に に伴い,社名を北海道炭磧汽船株式会社と改称し     尽力した(1905年海軍中将,06年呉鎮守府司令長

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官,07年男爵)。以上,山内万寿治『回顧録』1914  ,そして,キングエドワード冊世級の「鹿島」・

年3月,45,70,94,186頁,前掲『社史資料(上)』156  「香取」)。しかも,アームストロング社及びヴィッ 頁,等参照。      カーズ社はそれぞれ「鹿島」・「香取」の受注に

(5)前掲r社史資料(上)』13−15,19−24頁,前掲北炭  際しては(起工は日露戦争開始直後),「三笠」級 r五十年史』63,64頁,同『七十年史』92,93,97,98  と同額の建造費で引受け得た。つまり,日本は相 頁,等。       対的に低コストで最先端の軍艦を入手することが できたのだが,他方,英国にとっては,巨額の開 2 背景一日英同盟下の両国海軍兵器産業一   発費用の負担軽減(政府・海軍)と建造技術向上・

周知のごとく19世紀末から第1次大戦期までは  コストダウン実現(兵器メーカー)を促進する作 世界的な大建艦競争時代であり,英・独・米・仏・  用を果たしたことを意味した。ロシア艦隊の増強 露の欧米諸列強の激しい建艦競争の主導権を握っ   に対処して締結された日英同盟(1902年)が,こ ていたのは英国であり,後進資本主義国(「新興   うした英日海軍及び兵器産業間の緊密な関係を一 国」)日本は,日清戦後には英国から新鋭の軍艦  層強化する役割を果たしたことは言うまでもな を大量に輸入して海軍力を強化し,日露戦争を契   い。②

機に諸列強の建艦競争に追随してゆく(1)。      英国民間兵器産業の発展を中心的に担ったのが すなわち,19世紀末の英国は,工業生産力では  アームストロング社及びヴィッカーズ社であり,

米独などの急迫を受けつつも,一大海軍勢力を維  両社は,ともに19世紀中葉に起源をもつが,既に 持しており,「二国標準主義」 ( Two−Power  19世紀末には総合的大兵器会社としての地位を築 Standard ,英国海軍力が他のいずれの2国の海  いていた(3)。英国の大兵器会社としては,他にシェ 軍力合計をも下回らない政策)のもとに,とくに  フィールドに拠点を置くキャメル・レアド社(

「海軍防衛法」( Naval Defence Act ,1889年)  Cammell Laird&Co., Ltd. ),ジョン・ブラ 後は海軍大拡張を実施に移し,海軍力の質的転換  ウン社( John Brown&Co., Ltd. )などがあ をはかっていた(主力艦は1892年竣工の「ロイヤ  るが,装甲板についてはこれら4社で20世紀初頭 ル・ソヴリン級」から「マジェスティック級」へ,  まで英国内の100%独占的生産体制を築いた。ヴィッ さらには20世紀初頭の「キングエドワード孤世級」  カーズ社は,さらに1901年にはグラスゴーの大造 へ,そして,大砲の重砲化,装甲板や機関の改良  船業者ビアドモア社( William Beardmore&

等)。       Co. )の株式半数を獲得し,両社の補完関係に 英国海軍力の大拡張と質的転換を担ったのは,  より総合的兵器会社としての実力を強化した(02 ポーッマス等の海軍工廠だけでは到底不可能であ  年の資本金520万ポンド)。

り,むしろ民間の軍艦建造業者(民間兵器会社)   ここで重要なことは,英国大兵器会社は,互い の急成長によるところが大であった。民間兵器会   に競争・競合しつつ,各種の協定を結んで「協調」

社の発展にとって主力艦建造への参入は重要な意  体制をも築くとともに,20世紀初頭には海外への 味を持ったが,民間の軍艦建造能力を向上させ維  資本投下による多国籍的展開をはかっていること 持しておくことは,英国海軍にとっても極めて重  である。

要なことであった。しかし,英国政府としては海   例えば,装甲板ではヴィッカーズ,ジョン・ブ 軍費大膨張による財政負担に苦しんでいた。    ラウン,キャメル・レアド,ビアドモアの4社で

丁度その頃に,英国兵器会社に対して日本から  「差別的価格政策」を実施し,これを基礎として,

の新鋭の軍艦発注が相次いでなされた(ロイヤル・  1894年には英・独・仏・米の有力企業により国際 ソヴリン級では「富士」・「八島」,マジェスティッ  カルテル( Harvey syndicate )が成立した ク級では「敷島」・「朝日」・「初瀬」・「三笠」  (英国からは前記4社中の前3社が参加,1901年に

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20       茨城大学政経学会雑誌 第67号

はアームストロング社も加盟)。さらに,アーム   1914年)に及んでいる(8)。

ストロング社とヴィッカーズ社との間には,海外   日本製鋼所に対するアームストロング社及びヴィッ 受注に関する秘密協定が成立していた。すなわち,  カーズ社の共同出資は,こうした海外活動におけ 受注に関する価格協定を行ったり,契約を分かち  る両社の「共同歩調」の一環である。その頃,英 合うだけでなく,受注した一方の会社が他方の会   国兵器会社は,海軍費の膨張が縮小ないし停滞に 社に利益の一定部分(戦艦の場合2−3%,装甲  転じた(1905年)のを契機に,外国軍艦の建造・

板の場合トン当たり6−10ポンド,等)を支払う  輸出(その筆頭が対日本)から各国の兵器製造工 というものもあったω。両社は,20世紀初頭には,  場建設・技術援助のための直接資本投資へと海外 英国兵器市場において「複占」( duopoly )と  進出の形態を転換させていく。とりわけ,アーム 言われる程の勢力を誇り,1906−13年には,両社  ストロング社とヴィッカーズ社は,軍艦・大砲等 の問で主要な世界市場における「共同歩調」に関   の輸出を中心に早くから日本海軍との緊密なコネ する様々な協定が締結されだ5}。         クションをつくりあげ,日本の実状に見合った進

海外直接投資については,ヴィッカーズ社は,  出形態を模索する上でも適した地位を築いていた 1900年以前にはスウェーデンとスペインにしか関  (後述のごとく日露戦争を契機とする日本の海軍 わっていなかったが(ともに1897年マキシム・ノ  兵器関連の製造技術の進歩はめざましく,将来の ルデンフェルド社合併により継承),20世紀に入  関税改正をも見越した直接投資による打開が模索 ると米国(1902年),イタリー(1905年及び14年),  された)。つまり,両社の日本への共同投資は,

オーストリア・ハンガリー(1906年),日本(1907  一面では,英国兵器会社が海外進出の形態を転換 年),スペイン(1908年),カナダ(1911年),フ  する先導的役割をも果たすことになることに注意 ランス(1913年),ロシア(1911,12年及び14年),  しておこう(9}。

トルコ(1913年)と相次いで投資し(以上1914年    ところで,日露戦争前の日本海軍艦艇の主力は までのもの),1900年には投資総額が約50万ボン  輸入依存であり(その圧倒的部分が英国製),そ

ドであったものが,380万ポンド(1910年),400  の他艦艇の国内製造及び修理は海軍工廠によるも 万ポンド以上(1913年)となった(6}。       ので(海軍工廠名を正式に使用するのは1903年の

アームストロング社の場合も,イタリー(7》,ス  海軍工廠条例以降のことだが),未だ民間製造は ペイン,トルコ,日本,カナダ,オーストリア・  殆ど皆無であった⑩。日露戦争前後の海軍工廠の ハンガリー,フランスなどに投資しているが,注  拡張過程で,次第に大艦建造を横須賀・呉,中小 目されることは,海外直接投資に関して,ヴィッ  艦建造及び修理を佐世保・舞鶴という分担体制が カーズ社と「共同歩調」をとっている場合が多い  形成されるが,とりわけ注目されるのは,呉工廠 ことである。       が急速に拡充されていることである。造艦・造機 すなわち,アームストロング社とヴィッカーズ  部門のみならず,とくに造兵(砲煩等)部門の躍 社との共同投資は,オーストリア・ハンガリー  進がめざましく(1900〜03年「呉造兵廠拡張費」

( Whitehead Torpedo, Fiume ,1906年),日本  111万円),装甲板・砲身等素材用の製鋼所建設

(日本製鋼所,1907年),スペイン( Sociedad   にも着手し(1903年「造兵部」から「製鋼部」独 Espan61a de la Construccion Naval ,ジョン・  立),さらに,同年度からは「造船廠」の第3船 ブラウン社も参加,1908年),トルコ( Turkian  台(1万トン超主力艦建造用主船台)の建設も開 docks Co. ,1913年),フランス( Soci6t6    始され,日露戦争を契機とする主力艦国産化(装 Frangaise de Torpilles Whitehead ,1913年),  甲板・砲煩及び原料鋼材を含む生産体制)の基礎

ロシア( Russian Whitehead ,1914年),イタ  を築いたαP。

リー( Societa Anonima Italiana Whitehead ,   しかしながら,日露戦争に際しては,日本は最

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新海軍兵器技術を英国に依存するところ極めて大   回「日英軍事協商」が締結された(07年5月)。

きかった。       海軍については,両国の維持すべき海軍力の標準,

すなわち,まず日本海軍の主力艦は全て外国製  戦時の役割分担,艦隊配備上の協力などで密接な であり,その殆どが英国製であり(6隻の戦艦全  連携をとること,そのため両国海軍の演習,造艦 てと8隻の装甲巡洋艦中4隻),前述のごとき建  計画などの情報交換をはかることも規定された。

艦競争のもとで当時の英国の新鋭艦が相次いで投   その直前(同年4月),日本では「帝国国防方針」

入された(英国建造10隻中6隻がアームストロン  が策定されていた。すなわち,陸軍は平時25師団,

グ社製)。日露戦争中に起工された戦艦2隻(「鹿   海軍は戦艦2万トン級8隻及び装甲巡洋艦1万8 島」・「香取」)も,前述のごとく,アームスト  千トン級8隻を建造する大軍拡計画である(海軍 ロング社とヴィッカーズ社に発注されたものであ  の場合,主力艦数で12隻から16隻へ1.3倍,合計 る。      排水量で約2倍への増加を目指すもの)。「日英軍

戦艦・装甲巡洋艦の主砲・副砲も殆ど外国製で  事協商」は,海軍については軍艦の建造・配備な あった。すなわち,12インチ砲(戦艦の主砲)は  どについて「帝国国防方針」の内容を補完するも 全て外国製,8インチ砲(装甲巡洋艦の主砲)は  のであり,英国海軍との関係を一層強固にするこ 国内製造3門に対して海外購入24門,6インチ砲  とになったo°。

(戦艦の副砲)でさえも国内製造20門に対して海    日露戦争を契機として,海軍は主力艦の国産化 外購入24門であった。       (「内地建艦方針」)を推進した。すなわち,横須 さらに,火薬類のうち装薬(発射薬)は日露戦  賀及び呉の海軍工廠で戦艦「薩摩」(1905年)と 争中は全て「紐状火薬」が使用されており,これ  「安芸」(06年)を起工した(しかし英国「ド級」

も殆どアームストロング社に発注されている吻。   戦艦の登場により両艦とも建造中から「旧式艦」

最新の英国海軍技術に依存して戦われた日露戦   となる)。また,05年には装甲巡洋艦3隻を次々 争に対しては,英国は,自国の海軍力も問われる  に起工したが(呉で「筑波」・「生駒」,横須賀 戦争として,その帰趨には注目していた。すなわ  で「鞍馬」),これも英国インヴィンシブル型装甲 ち,英国海軍は,海軍武官が日本艦隊に随行する   巡洋艦起工に伴い(06年),やはり建造中に「旧 などして海戦情報を詳細に収集しており,戦争の  式艦」となる。しかし,日本海軍がともかくも主 動向を見守りながら,英国海軍の組織・軍事力の  力艦クラス5隻をほぼ同時に建造し始めたことは,

根本的再編をもたらす「フィッシャー改革」をス  日本の艦艇建造能力の驚異的進展ぶりを示すもの タートさせた(1904年10月)。とりわけ,日本海  であった。さらに,ドイッはじめ各国が「ド級」

海戦(05年5月)の結果(日本艦隊の砲撃による  戦艦を建造する「大艦巨砲主義」の建艦競争時代 ロシア新型戦艦の撃沈)は,艦艇の大型化・重武  に突入する中で,日本も1909年に「ド級」戦艦2 装化・巨砲搭載が海戦勝利の決め手であるとの教  隻を起工する(呉で「摂津」,横須賀で「河内」

訓をもたらし,同年10月には早くも「ドレッドノー  を)。ところが,同年には,英国はライオン型巡 ト」号(副砲を廃止し,12インチ砲10門搭載)を  洋戦艦とオライオン型戦艦を起工する(13.5イン 起工した(06年12月完成)。いわゆる「ド級」  チ以上の主砲をもつ「超ド級」戦艦の登場)q%

(「弩級」)戦艦( Dreadnought class battleship )   海軍にとって,日露戦後の主力艦国内建造を進 の登場であり,日露戦争の結果は「大艦巨砲主剥   める上で日英同盟の存在は決定的に重要であった。

時代の幕開けとなった㈲。      海軍工廠(呉・横須賀・佐世保・舞鶴の4大工廠 日露講和とともに日英同盟は改訂され(05年8  中とくに前2者)及び民間大造船所(とくに三菱・

月),多様な機能を有するものとして編成替えさ  川崎)による主力艦建造体制の構築の上で,日英 れ,改訂日英同盟に基づき,両国陸海軍間で第2  海軍間の密接な協力関係が必要であった(とくに

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22      茨城大学政経学会雑誌 第67号.

海軍及び民間造船所技術員の英国への派遣など)。  社)代表の会談の結果,日本海軍への製品供給を 日露戦後には,主力艦建造の国産化とともに,  目的とする「日本爆発物製造会社」( Japan Ex一 関連兵器重工業が育成され,外国(とくに英国)  plosives Company )を設立する契約が締結さ からの製品・技術・資本の輸入ないし導入がはか  れ,神奈川県平塚に爆発物製造所が起工された

られた。      (1905年12月,会社はロンドンに設立,支社を平 すなわち,主機関のレシプロからタービンへの  塚に置く)ω。なお,同社には,2万ポンドをアー 移行に際しては,海軍は呉工廠で建造中の「伊吹」  ムストロング社が出資し,残り8万ポンドをヴィッ 及び「安芸」両艦の主機関を急遽カーチス・ター  カーズ・ノーベル・チルワース連合( Vickers一

ビンに変更することを決め(1905年),さらに,  Nobe1−Chilworth connection )が出資してお パーソンス社(英国)からパーソンス・タービン  り 9,これも日英同盟下の英日海軍及び兵器会社 の製作権を購入した(11年)。三菱造船所は既に1  間の緊密な協力関係の賜であった点で日本製鋼所 904年にパーソンス・タービンの一手製造権・販  設立と共通していたことに注意しておきたい。

売権を取得しており,これに対抗して川崎造船所

もカーチス・タービンの導入をはかった(07年)⑯。   (1)本節の場合は,主として既存研究を利用して筆 砲煩についても,前述のごとく日露戦時までは    者の観点から整理・叙述することを予めお断りし 輸入砲が多く,とくに戦艦の主砲など大型兵器ほ    ておく。

ど英国からの輸入に依存する割合が大きかった。   (2)室山義正r近代日本の軍事と財政』東京大学出 既に1890年代中頃に世界の戦艦の主流砲煩となっ    版会,1984年,315−334頁,小林啓治「日英関係 ていた12インチ砲については,日露戦時には国産    における日露戦争の軍事史的位置」(『日本史研究』

の見通しが立ちつつも製造には至らず,国産初の    第305号,1988年1月),同「日英同盟論」 [井口 1万トンクラス装甲巡洋艦「筑波」 (1905年1月    和起編r日清・日露戦争』(r近代日本の軌跡3』)

起工,07年1月竣工)において初めて呉工廠製の    吉川弘文館,1994年],山田朗r軍備拡張の近代史』

ものが搭載された(12インチ砲4門,船体・機関    吉川弘文館,1997年,56−57頁,等参照。

も呉工廠製造)。      (3)1897年以降,アームストロング社及びヴィッカー しかし,「ド級」戦艦に対応する巨砲の開発・    ズ社の名称は,それぞれ Sir W.G.Armstrong 製造は各国で進展しつつあり,海軍工廠の拡張に    Whitworth&Co. Ltd. , Vickers, Sons&

よっても克服できない砲煩生産の遅れは主力艦国    Maxim Co., Limited ,である。

産化のための隆路となっていた。八幡製厚板,呉     両社の歴史については,下記文献を参照。

工廠製の装甲板・艦載兵器等を使用した「安芸」    J.D.Scott,γ cんθr8 孟H説ory, London:

(1906年呉にて起工,11年竣工)でさえも未だ中    George Weiden and Nicolson Ltd.,1962.

口径砲を残す「前ド級」ないし「準ド級」戦艦で    R.J.Irving, New Industries for Old?Some あった。日本海軍にとっては,こうした隙路を打    Investment Decisions of Sir W.G.Armstrong,

開するものとして期待された方策こそ,英国大兵    Whitworth&Co.Ltd.,1900−1914 ,in Bμs6ηθ88 器会社(アームストロング社とヴィッカーズ社)    H説orγ, Vol,17, No.1, July 1975. C.Trebil一 の資本的技術的協力を得て設立される日本製鋼所    cock,7んθレ c勉r8 Bro伽rs .4r瓶α肌誠s なのであった⑳。       侃dEπ孟θη)r sθ1854−1914, London:Europa

砲用発射薬についても,日露戦争中は全面的に    Publications Ltd.,1977. R.P.T.Davenport一 英国からの輸入に依存したが,戦争末期に日本政    Hines, Vickers as a multinational before 府代表(斎藤実)と英国3兵器会社(アームスト    1945 ,in G.Jones(ed.), Br読sんMμ」拓

ロング社・ノーベル爆薬会社・チルワース火薬会    π醐oπαZ8 Orごg πθ8, M侃αgθ肌θ麗侃4 Pθr一

(7)

メormαπce, Cambridge:Cambridge Univer一    英軍事協商を中心として一」(『日本史研究』第 sity Press,1986, KWarren,.Ar侃8ヶoπgs oゾ    293号,1987年1月),29頁。前掲『社史資料(上)』

捌sωごc翫 Groω疏 鵬Eπgθ几θθr加g απ4     23頁,等。

.4r瓶α配θ鷹8如ぬθMθrgθrωご孟ん 巧cんθrs,   (10)佐藤昌一郎「国家資本」(大石嘉一郎編『日本 London:Macmillan,1989. M.J.Bastable,    産業革命の研究(上)』東京大学出版会,1975年)。

Arms and the State:AHistory of Sir Wil−   (11)前掲佐藤「国家資本」,前掲室山『近代日本の liam G.Armstrong and Company,18541914 ,    軍事と財政』337−346頁,池田憲隆「日露戦争後

(Ph.D. Thesis, University of Toront),1990.    における海軍兵器生産の構造」(『社会経済史学』

高橋哲雄「ヴィッカーズ・コンツェルンの史的分    第50巻第2号,1984年7月)。

析」(『甲南経済学論集』第5巻第1号,1964年4月)。   (12)前掲小林「日英同盟論」,同「日英関係におけ 徳江和雄「第1次大戦前のイギリス軍需産業におけ     る日露戦争の軍事史的位置」。なお,これら海外購 る独占資本4社の行動」(『茨城大学人文学部紀要     入品は,英国以外のも含めて,海軍艦政本部→在

(社会科学)』第7号,1974年2月)。荒井政治     英造兵監督官→高田商会(ロンドン支店)のルー

「イギリスにおける兵器産業の発展一第1次大     トで調達されたという。

戦前のヴィッカース社を中心に一」(関西大学    (13)前掲横井『大英帝国の「死の商人」』148−151

『経済論集』第31巻第4号,1981年12月)。安部悦     頁,前掲小林「日英関係における日露戦争の軍事 生「イギリスにおける持株会社と管理一20世     史的位置」,前掲山田『軍備拡張の近代史』27−28,

紀初頭から第2次大戦まで一」(明治大学経営     59頁,等参照。

学部『経営論集』第37巻第2号,1990年3月)。横    (14)前掲小林「日英同盟論」,同「日露戦後の日英 井勝彦『大英帝国の「死の商人」』講談社,1997    同盟の軍事的位置」,前掲山田『軍備拡張の近代史』

年。       41・42頁。

(4)Scott, op.c肱, pp,86−88,      (15)池田清『日本の海軍(下)』至誠堂,19印年,8一

(5)詳しくは,Trebilcock, op.碗., pp.93−96,122−    18頁,寺谷武明「日本海軍の戦略思想」(土屋守章・

125.       森川英正編『企業者活動の史的研究』日本経済新

(6)Scott, op.c訪., pp.83名6, Trebilcock, op,c オ.,    聞社,1981年),前掲山田『軍備拡張の近代史』61一 pp.133−134, Davenport−Hines, op。c 孟., pp.46−    68頁,等。

48,荒井前掲「イギリスにおける兵器産業の発展」,   (16)前掲小林「日露戦後の日英同盟の軍事的位置」,

安部前掲「イギリスにおける持株会社と管理」,等     前掲池田「日露戦争後における海軍兵器生産の構 参照。各社への投資年次は文献により多少異なる。    造」。なお,舶用タービンの日本への「技術移転」

(7) Pozzuoli works をはじめとするイタリーで    については,松本三和夫『船の科学技術革命と産 のアームストロング社の事業については,Warren,    業社会一イギリスと日本の比較社会学一』

op.c ., pp.69−85,122−127,に詳しい。         同文舘,1995年,第6章に詳しい。

(8)Davenport−Hines, op.cあ., pp.46−47.      (17)前掲小林「日英同盟論」,同「日露戦後の日英

(9)C.Trevilcock, British Multinationals in     同盟の軍事的位置」,前掲池田「日露戦争後におけ Japan,1900−41:Vickers, Armstrong, Novel,    る海軍兵器生産の構造」,長谷部宏一「明治期陸海 and the Defence Sector , in T。Yuzawa and    軍工廠における特殊鋼生産体制の確立」 (北海道

M.Udagawa (eds.), For2 gηBμs 麗s8加     大学『経済学研究』第33巻第3号,1983年12月),

JFαpαπうげorθWorZd Wαr皿,Tokyo:Tokyo     呉市史編纂室編『呉市史・第3巻』呉市役所,1964 University Press,1990, pp.87−91,小林啓治    年,第4章,等参照。

「日露戦後の日英同盟の軍事的位置一第2回日    (18)前掲小林「日露戦後の日英同盟の軍事的位置」。

(8)

24       茨城大学政経学会雑誌 第67号

日本爆発物製造会社は,1908年には製造を開始し  いことを表明した。しかし,井上は,数日後の第 たが(MKI紐状火薬及びMD管状火薬),後に   2回目の会合で,今度は呉工廠同様の製鋼事業を

(1919年),日本海軍が契約に基づき買収し,海軍  起こしたいので山内の尽力方並びに専門技術者の 火薬廠となる。       呉工廠からの貸与を要望したが,今回も山内は謝

(19)Trevilcock, op.碗.,p,106.8ZR侃G渦m4一  絶した(呉の技術者を割愛して援助する程の余裕 S7RONG WHITWOE7H&σo., LIM17ED,  は無いことを理由に)。井上は大変失望した様子 MI2>ひ7Eβ001(No.2[TWAS−130/1267],  だったため,山内は「外人を入れて其知識を利用 19th July,1905.       するの策を告げ」た。そして,第3回目の会合で,

井上は,上記の策(外国技術・資本の導入)を受 3 設立構想と設立経過      け入れるので適当な人物の紹介を山内に要請した。

本節では,日本製鋼所設立の発端となった井上  そこで,山内は,後日,人を介して製鋼所設立計 角五郎北炭専務らの製鉄業進出計画とその後の日  画を英国側(アームストロング社)に通知した。

本製鋼所設立経過における内容変化を,前述のこ   山内は,その際,日英同盟の趣旨に基づき英日国 とき時代背景を考慮しつつ,検討していくことと  家間の結合を「輩固」にするためにも,なるべく する。       多数の同業者が加わることを切望したという(3)。

かねてより製鉄業に積極的関心を抱いていた井   1906年7月(おそらく上記井上・山内の再三の 上は(1),1909年6月頃から鉄道国有化(同年3月鉄   会談の間と推察される),山内は「官命を帯びて」

道国有法成立)に伴う鉄道売却資金をもとに北海   噴火湾一帯の井上個人名義所有の砂鉄鉱区及び北 道噴火湾一帯の砂鉄を主原料に製鉄業に進出する  炭によりその頃新規買収された虻田・倶知安両鉄 計画を具体化し始めた。当時海軍当局も軍備拡充  鉱区を視察している。井上側の記述によれば,そ の必要性から「製鉄工業」には多大な関心を有し  の際に,山内の方から兵器製造用の製鋼事業の創 ていたことを知った井上ら北炭首脳は,伊藤博文・  設とアームストロング社東京駐在員の紹介を勧め 松方正義らの元勲に働きかけ,海軍長老の山本権  られたというω。いずれにせよ,山内が,一般の 兵衛大将,海軍大臣斎藤実中将らに助力を懇請し,  製鉄業ではなく兵器用製鋼事業を勧誘したのは,

賛意を取り付けた②。      前述のごとく,呉海軍工廠における造兵及び製鋼 とくに,井上は山本大将・斎藤中将を経て,呉  事業の経験と砲煩及び同素材の不足を痛感してい 鎮守府司令長官の山内万寿治中将を紹介され,山  たことによることは明らかであろう。

内との再三の会合の中から製鉄業進出計画が現実    井上は,山内の北海道視察直後に,砂鉄鉱区の 的なものとして具体化するのだが,その過程で井  広大さや品質の良好さ,室蘭の好位置(水利,地 上の当初構想とは内容的に異なる製鋼所(とくに  盤,石炭所有の有利さ等)などの理由から製鉄事 兵器用製鋼所)設立計画に変化するのである。   業の有望さが認められたとしで5},早くも同年8 すなわち,山内の後の「回顧」によれば,1906  月4日の北炭臨時株主総会において製鉄業進出構 年初夏の初会合で,井上は,鉄道国有化により  想を披露している(自社夕張炭のコークス原料と

「三千万円の閑財」を得たので,国家的事業とし  しての有望さと砂鉄鉱区の広大さ・良質さを根拠 て製鉄業に投資したい旨の希望を申し出るととも  に)⑥。しかしながら,その構想内容を見る限り,

に,技術援助を懇願した。しかし,山内は,①自  後の日本製鋼所設立に直結する製鋼事業計画では 分は製鉄の知識は有しないこと(呉工廠では鉄を  なく,むしろ,砂鉄を原料とする製鉄事業構想で 用いて造兵用の鋼を製造),②砂鉄については従  ある。つまり,1906年8月時点では,北炭の製鉄 来から「雲伯地方」などで調査しているが大々的  鋼業進出計画は,明らかに従来からの製鉄事業構 事業には適さないこと,の2点を理由に関与し難i  想であった。

(9)

しかしながら,井上北炭専務の製鉄鋼業進出計   うな事情で日本製鋼所設立計画に関与することに 画は,一方では,山内の意見を入れ,英国兵器会   なったかは,残念ながら資料的には特定できな 社と合弁で製鋼工場(兵器等海軍用)を建設する  い㈱。しかし,英国研究者がしばしば指摘するよ 方向で具体化する。他方で,井上は,従来の製鉄  うな,アームストロング社及びヴィッカーズ社の 事業計画も放棄したわけではないことに注意して   日本製鋼所への参加(投資)は日本海軍の側から おく必要がある。つまり,井上の計画は,途中ま  海軍兵器工場設立のために欧米の複数企業に要請 では渾然一体となった製鉄鋼業進出計画として進  されたものを両社が受身的に引き受けたものとの められ,後述のごとく,1907年初頭に英国兵器会  叙述はやや一面的である㈹。欧米の複数企業に同 社の製鋼所設立計画参加が明白になる頃に,井上   時に日本から海軍兵器用の製鋼所設立への参加要 は,それとは別個に北炭内部に製鉄所建設を独自  請が行われたとは考えられ難く,前述したごとく,

に推進することとなる。(とくに注9参照)。    山内海軍中将からアームストロング社東京駐在員 さて,1906年9月,井上は,山内の紹介により  を通じて英国兵器会社の複数参加が要請され,丁 アームストロング社東京駐在員エドワード・ボイ  度日本への進出形態の転換を模索していた英国兵 ル(Edward LD.Boyle)と会合した。「二三度  器会社の動向に合致して,様々な面で「共同歩調」

会合の末,終に合同して事業を起こすの相談を為  を採っていたアームストロング社とヴィッカーズ し」,井上は交渉経過を内閣総理大臣西園寺公   社がその要請に積極的に応えて「共同出資」に踏 望・元老伊藤博文らに報告了解を求め,他方,ボ   み切ったと考えるべきであろう(前節参照)。た イルはその結果を英本国に申し送った(7)。      だし,英国兵器会社両社にとっては,日本製鋼所

アームストロング社ではこれを受けて,同年11  への参加(出資)要請がなされたのが,日本側出 月30日の取締役会で日本における鉄鋼兵器工場建  資者の北炭からではなく,日本海軍からであった 設に関する報告書が検討され,その概要が承認さ  ことは,後々にも大きな影響を持つことになるこ れるとともに,詳細を詰めることをボイルに電報   とに予め注意しておく必要があろう。

で要請することが決められた(8)。      さて,1907年2月20日頃α゜,アームストロング その頃,北炭は臨時株主総会を開催し(12月2  社及びヴィッカーズ社の両社を代表して,アーム 日),定款を改正して営業目的に鉄鋼製造販売事  ストロング社取締役ジョン・ノーブル(J.H. B.

業を営むことを追加した。しかし,この臨時株主  Noble)が来日して東京のホテルで井上・ノーブ 総会は,鉄鋼製造兼営に関する株主の「総括的承   ル間の予備会談が行われ,引続き山本権兵衛海軍 認」を求めたものであっで必ずしも日本製鋼所   大将,斎藤実海軍大臣及び山内万寿治呉鎮守府司 設立に直結する鋼鉄(並びに兵器〉製造事業計画   令長官の列席を得て折衝がなされ,さらに,2月 に限定して承認を求めたものではない(9}。      27日には,海軍大臣官邸にて「政府高官,要路の 1907年初頭,英国側がアームストロング社の他  顕職,列席のもとに」公式会議が開催されq⇒,日 にヴィッカーズ社が製鋼所設立計画に参画するこ  英3社共同事業遂行に関する「基本的成案」を見 ととなったことをふまえて⑬,北炭は,同年2月  た。つまり,日英の民間会社の出資による一民間 3日,臨時株主総会を開催して製鋼事業に関する   会社の設立のための正式会合が海軍大臣官邸で政 実行計画と同事業のための500万円の経費支出を  府・海軍の支援のもとに行われたのであり,日本 承認し,他会社と協同して事業を経営する一切の  製鋼所の設立がいかに一大国家的事業として注視 交渉を重役会議に一任したω。つまり,この時点   されていたかが象徴的に示されている⑬。英国側 で北炭は製鋼所設立計画を正式に決定したものと  両社が後々まで日本製鋼所は日本海軍の要請によ 言える。      り「海軍兵器工場」として設立されたものと認識

なお,ヴィッカーズ社が正確にいつからどのよ  し続けるのは,こうした経過にも起因している%

(10)

26      茨城大学政経学会雑誌 第67号

なお,上記「基本的成案」の要点は以下の通  ③自社の石炭積出し施設はじめ各種関連事業施設 りである。       が集中していたこと。

①この製鋼事業は室蘭に置く。         ④優秀な港湾を控えていたこと(将来造船業にも

②資本金は1千万円とし,日英両国折半出資とす   進出可能押。

る。       ②に関連して補足すると,海軍は早くから室蘭

③事業目的は海軍用品,すなわち艦船・武器・銃  近辺に広大な海軍用地を確保しており,室蘭港を 砲・機械・弾薬を主とする。         「第5海軍区鎮守府」の位置と定めていた(1890

④日本政府は,新たに兵器製造をこの製鋼事業に  年2月勅令第7号)。しかし,その後(大湊要港 だけ許可する。       部の拡充に伴い)室蘭は海軍鎮守府予定地から外

⑤海軍用品は,この製鋼事業の目的中にあるもの  されたため海軍用地が未使用のまま残されていた。

は優先発注する。      したがって,海軍用地をはじめとする国有地の払

⑥日本側は,室蘭における用地その他の準備をな  下げまたは貸下げは,北炭にとっては言うまでも し,英国側は,一切の技術を提供し,また所要  なく,海軍にとっても好都合であった。つまり,

の技師を派遣する。       海軍にとっては,「第5海軍区鎮守府」予定地で

②に関しては,当初英国側は資本金の3社均等  あった室蘭に建設される海軍兵器用製鋼工場は,

出資を要求したが,日本側が不同意を唱え(伊藤   呉工廠の造兵・製鋼部門を補充する関係にある言 博文も反対),結局日英折半出資(英国各社4分   わば「第5海軍工廠」としての性格を帯びること の1出資)と決定された。英国側が3社均等出資   を意味したと言える。

を強力に主張したかどうかは,対応する英国側資    この間,電報で日本における鉄鋼兵器製造事業 料が見あたらないので定かではないが,折衝過程  に関する報告を受けたヴィッカーズ社取締役会は,

が長引いた形跡もないところから,英国側が新設  同年2月28日,同事業にアームストロング社と同 会社の経営権取得に固執したとは考え難い。③の  等の出資で参加することを基本的に承認した⑳6 内に当初は艦船は含まれていなかったが,これを  アームストロング社の場合は,ジョン・ノーブル 加えた(この点次節参照)。⑤に関連して,中村  が日本に派遣されて交渉を一任されていたものの,

製鉄所長官から八幡製鉄所との競争にならないよ  同社重役会には,頻繁にノーブルからの電報及び うに特に希望表明がなされた。      書状が報告され,最終的には5月2日の「経営委 この基本的成案をもとにさらに具体的条項がつ  員会」( Managing Committee )で「仮契約 められ,3月7日には井上・ノーブル両者により  書」 ( adraft Agreement )の骨子が承認さ 仮契約書が作成・調印された(署名証人,日本側   れた⑳。

近藤輔宗,英国側E.L.DBoyle)㈱。         ところで,北炭は,製鋼事業計画当初より多大 なお,工場敷地については,井上ら北炭首脳部   な援助を得てきた山内に対して,海軍大臣を経由 が当初から室蘭に選定していたようだが,その理   して日本製鋼所創立顧問就任の要請を行い,4月 由として,前述の北炭独自の製鉄事業とも関連し  11日付で海軍中将現役のまま日本製鋼所顧問就任 て,以下のように整理され得る。        の勅許を得た。こうして,山内は「事業創始の計

①付近に豊富な自社鉱区・石炭鉱山等を所有し,  画,建設および技術指導並びに監督」を委ねられ 道外からも鉱石その他資材の移入にも便利な地  た(創立後も引続き顧問に就任)。さらに,北炭 理的条件であり,製鉄事業兼営のため既にある  は,海軍大臣の許可を得て,山内顧問の推薦によ 程度の準備が進められていたこと。       り海軍技師及び技手11名をいずれも「在官のまま」

②海軍用地はじめ国有地が多く,払下げまたは貸  嘱託に任命し,「海軍造兵の優秀な技術者」を確 下げの便宜が得られること。         保することができた㈱。

(11)

そして,上記のごとく,日英共同事業に関する  計画(日本製鋼所設立に帰結する兵器用鋼鉄製造

「仮契約書」が締結されたため,北炭は臨時株主  計画を含む)について当初から賛意を表していた 総会を開催し(4月14日),井上専務から日本製  (あるいは積極的であった)との叙述がなされる 鋼所創立準備の経過報告を詳しく聴くとともに(23),  場合があるからである囲。

下記事項を決議した團。      しかしながら,日本製鋼所設立当時は,未だ三

①定款第1条の末に1項を加え,本会社(北炭)は,  井が北炭に対する経営権を行使し得る状況にはな 必要な場合「他ト共同シテ之ヲ営ミ又ハ他会社   かった。すなわち,三井財閥は,1897年頃から,

ノ株式ヲ所有スルコトヲ得ルモノトス」。    いわゆる「中上川の工業化路線」のもとで,北炭

②井上専務が取り結んだ「仮契約書」を是認し,  の株式をも所有して関係を築き,1900年には三井 本契約の締結等,日本製鋼所設立に必要な諸手  鉱山の団琢磨を北炭取締役として派遣していたも 続きを重役会議に一任する。      のの,「井上のワンマン経営」に三井としては手 以上の諸準備を終えて,井上北炭専務は渡英し  をこまねいている状態であり(日本製鋼所設立当

(7月7日出発),別命を帯びて渡英していた山内  時の三井による北炭の株式所有比率は18.5%),

万寿治(%)とも打合せの上,7月30日,ロンドンに  三井が実際に北炭経営に影響力を行使し始めるの てアームストロング社代表(会長)アンドルー・  は,1910年の北炭「経営危機」に際して三井銀行 ノーブル(Andrew Noble)及びヴィッカーズ社  等が融資を一時拒否して井上を「追放」する頃か 代表(取締役)アルバート・ヴィッカーズ(AL  らのことである(以後北炭再建過程で影響力を強 bert Vickers)と正式契約書及び付属文書の調印  化するも北炭が完全に三井傘下に入るのは1913年

を行った囲。その内容については次節でやや立ち  1月のこと)㈹。

入って述べることにする。      こうした事情もあってか,日本製鋼所設立当時 上記正式契約書の調印を経て,日本製鋼所の創   に三井がどのような態度を採っていたのかを資料 立は具体的な手続きに入った。すなわち,創立委   的には確認し難いが,少なくとも後の三井関係者 員井上角五郎及びアンドルー・ノーブルの両名の  の「回顧談」関係文書を見ると,北炭による日本 もとに11名の創立発起人が指名され,1907年11月  製鋼所設立にはむしろ消極性(気乗り薄)ないし

1日,東京にて日本製鋼所創立総会が開催され,  冷淡さがうかがえる。

定款その他が議定されるとともに,井上を取締役   例えば,北炭取締役に派遣されていた団琢磨は,

会長に選任した。資本金1千万円(北炭500万円,  井上北炭専務による日本製鋼所設立に対して,後 アームストロング社・ヴィッカーズ社各250万円   日(三井合名理事長当時),以下のように批判的 出資)は,同年10月15日に第1回払込みが行われ,  談話を残している。

1年後の08年10月15日の第4回払込みまで4回に    「鉄道買上ノ金ハ株主二分ケテシマッタ其処へ無理 分けて予定通り払い込まれた。なお,工場敷地は  力起ッテ居ル上二更二製鋼所ノ問題力起ッテ来タ。ア 室蘭母恋の陸海軍省貸下げ用地ほか計46万3千坪   ノ製鋼所ノ問題力起ッテカラ,マルデ炭磧ノ人ハ炭山 で,1907年7月に仮事務所を設置して海岸埋め立  ヲ顧ミル者ハアリマセヌ皆製鋼所ノ方へ行ッテシマッ て及び海底凌深工事を行い,翌08年初めより工場   タ,海軍側ノ調二依ッテ,製鋼所力非常二儲カルト云 建設に着手した⑳。       フ予算力出来テ居ルカラ,井上先生鉄山ノ方力面白ク 本節の最後に,日本製鋼所の日本側出資者北炭   ナッテ尚ホ炭磧ノ方ヲ打棄ッテシマッタ。(中略,引用 と密接な関係にあったと言われる三井財閥が日本  者)製鋼所ノ方デ面白イト思ッタヤッカ,ナカナカサ 製鋼所設立に関してどのように関与していたかに  ウ行カヌノミナラズ,七百五十万円ノ予算ヲ立ッタヤ ついて一言しておく必要があろう。というのは,  ツカ,立ロニ千五百万円ニナッテシマッタ,大騒動ガ 三井財閥(関係者)が北炭首脳部の製鉄鋼業進出   始マッテ,吾々ハ始終攻撃ノ方二廻ッテ居ッタ訳ナン

(12)

28      茨城大学政経学会雑誌 第67号

ダ。所ガ元来出来タノガ大変政治的二出来タ,外国ノ     験的に建設する計画をたてる(当時北炭は政府よ

「ヴィッカース」,「アームストロング」力組ンデヤル,    り補給利子を給付されていて他事業兼営は許され 誠二結構ナ事ダト云フヤウナ訳デ,伊藤公マデ取込ン    なかったため計画断念)。その後も井上は,他日を デ,政府力何処マデモ保護シテヤルンダト云フヤウナ    期して東北・北海道各地の鉄鉱及び噴火湾一帯の 顔付ヲシテ,海軍ハ海軍中将ヲ現職ノ儘出ス,山之内     砂鉄鉱区に関する鉱区権を井上個人名義で取得し,

中将現職ノ儘デヤル,(中略,引用者)井上ガ自分デヤ     さらに八幡製鉄所技師江藤捨三を北炭に招致して ル積リダケレドモ,何シロ今度ハ海軍ノ現職ノ先生力     調査研究を進めさせていた(前掲『社史資料(上)』

来テ居ル,是カナカナカ動カヌト云フ訳デ,非常ナム     13・14頁,富士製鉄株式会社室蘭製鉄所編『室蘭製 ヅカシイ羽目ニナッタ。」(3°)      鉄所五十年史』同社,1958年,37−39頁,等参照)。

また,団の前の三井合名理事長であった益田孝   (2)前掲r社史資料(上)』19頁。

も,三井は北炭の株式を中上川時代に購…入しつつ    (3)前掲山内『回顧録』191〜194頁。

も,日本製鋼所設立当時は「井上角五郎氏ガ業務    (4)井上真六『北海道炭磧汽船株式会社の十七年間』

ヲ担当シタ」時期であったこと,益田は,たまた    1933年10月井上角五郎手記,同氏没後の1940年刊 ま井上が日本製鋼所創立の正式契約のためにロン    行(以下r北炭の十七年間』と略)27頁。なお,

ドンに向かう同じ列車(シベリア鉄道)に乗り合    本資料の記述内容は,「井上角五郎氏談話」1933年 わせて日本製鋼所設立の「委細」を聴いたが,    9月9日(三井文庫所蔵r三井鉱山五十年史稿』

「私共ハ全体何故二防禦ノサシテ無イ室蘭二其工    資料)と内容的には同一部分が多い。後者は,団 場ヲ持ッテ行クノカ山内中将ノ意力解シ得ナカッ    琢磨伝記編纂過程での井上からのヒアリング記録 タ」が,当時の山内の権威(呉工廠の管理者,大    であるので当然ながら表現は異なるが,井上は前 砲製造の専門家で海軍中将現役のまま「陛下」の    者の原型を持参してそのヒアリングに臨んでいた 特別の認可により「民業タル」日本製鋼所顧問に    ものと推察される。

就任)を信頼していた旨の談話を残している(31)。   (5)前掲r社史資料(上)』19・20頁。しかし,その原 以上のごとく,三井財閥は,井上北炭専務の製    資料と思われる1906年8月3日付「専務取締役井 鉄鋼業進出計画には直接的には関与し得る立場に    上角五郎」より「井上専務取締役」宛(北炭本社 はなく,日本製鋼所設立に当初から積極的であっ    宛を意味する)書状(北炭r親展書類,重役付,

たとは評価するのは難しい。むしろ井上の製鉄鋼    明治39年自6月至9月』北海道開拓記念館所蔵)

業進出計画には消極的ないし冷淡であっても「黙    では,山内が上記鉱区視察を終えた直後の8月2 認」しようがなかったものと言えよう。このよう    日に井上が山内を海軍省へ訪問して得た山内の談 に把握してこそ,1910年から13年に至る三井によ    話として次のように伝えている。「砂鉄ノ区域ハ思 る北炭再建過程と再建後の北炭を通じた日本製鋼    ヒノ外二広大ナリ採掘モ運搬モ骨ハ折レス殆ント 所に対する関与のあり方も理解し得よう。       純鉄ト云フヘキ原料ナリ室蘭ハ好地位…」。 このこ

とをもって前掲『社史資料(上)』20頁では, 「大

(1)井上は従来から製鉄業進出には熱心で,雨宮敬     いにその有望を説いて,起業断行を勧められた」

次郎・田中平八(田申銀行頭取,北炭取締役)ら     と記しているが,原資料では,その直後に「砂鉄 と共に早くから(官営八幡製鉄所設立前から)製     ヲ利用スルコトハ十分二研究セラレス元来英米各 鉄業民営論を説いていた(1893年設置の臨時製鉄     国ニハ鉄鉱十分ニシテ砂鉄ハ未タ夫レ程ノ必要ヲ 事業調査委員会の一員として主張)。当時井上の主     見ス…」と記されており,山内が砂鉄を利用した 張は受け入れられなかったが,井上は自ら製鉄業    起業を勧めているわけではない。むしろ,井上が に着手すべく,北海道産沼鉄鉱及び砂鉄を原料と    会社技師の米倉・江藤の両人の意見を聞いて江藤 し,自社産石炭を使用して5トン吹き小型炉を試     の砂鉄を原料とする製鋼計画を採用しようとの考

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