著者 森本 朝子
雑誌名 金大考古
巻 55
ページ 1‑11
発行年 2006‑12‑28
URL http://hdl.handle.net/2297/3289
金沢大学考古学研究室 2006 年 12 月 28 日
森本 朝子
金 大 考 古
第55号スマトラ西岸バールスのロブテュア遺跡
インド洋に面するスマトラ島のロブテュア (Lobu Tua) 遺跡 発掘成果が刊行された。 9 世紀から 12 世紀にかけての海 上交易を伝える資料が発掘された港町遺跡である。
Claude Guillot監修、Histoire de Barus, Le Site de Lobu
Tua II, Étude archéologique et Documents, Cahier d’
Archipel 30, 2003, Paris.
本書は同年に刊行された第I巻に続いて、 主としてそのカ タログとして出版された。 スマトラ西岸バールスのロブテュ ア遺跡発掘成果である。 ちなみにバールスは古くからカン フォール (龍脳) の積出港として知られた港町である。 以 下各章の内容を簡単に紹介する。
第 1 図 バールス周辺地図
第一章―考古学発掘調査の概要 【13 ページ】
ロブテュア遺跡は現在のバールスの街の北西にあり、 ブ ス (Aek Busuk) とマカ (Aek Maca) の2本の流れにはさま れた幅 2 キロほどの土地にある。 海に面した断崖の上に あり、 堀と土塁に守られた砦 (コタ) を中心に有した。 現 在海から断崖まで 800 mほどあり田んぼになっているが、
往時はこれほど広くなく、 沼地であった。 断崖は高さ 15 mほどで次第に崩落している。 この後退した断崖と、 ここ からから 600 - 200 m内陸を北西に走る舗装道路に囲ま れる地域が遺跡の範囲となっている。 遺跡の中心は堀と 土塁に囲まれたいわゆるコタである。 現在この土塁の内 部は 2.5 haほどあるが、 断崖方向でどれだけ崩落してし まったか不明で 1000 年前の大きさは分からない。 遺物は 砦の内部でも外部でも出土する。 この遺跡は 19 世紀に プランテーションの際に再発見されて以来宝探しと農耕に よってさんざんに撹乱されていた。 包含層は薄く、 地層 別の発掘はほとんどできなかった。 しかし出土遺物には 瞠目すべきものがある。
第二章―歴史的結論 【31 ページ】
この遺跡は 9 世紀中ごろから始まり、 12 世紀に起きた いわゆる 「転換期」 に突然終末を迎えたと思われる。 イ ンド商人やアラブ商人による海外商館の町だった。 この 遺跡からは現地人の生活がうかがえるものは発見されず、
非常に特殊な遺跡である。 これまでスマトラ東岸の遺跡に ついては研究も多かったが、 西岸については知られること が少なく貴重である。 ここではインドやアラビアとの関係、
中国との関係、 そして特産品のカンフォールや金などに ついて考察が行われている。 ことにスマトラの森林高地に 産する 「金」 「カンフォール」 をめぐって 「シュリービジャ
第 2 図 ロブテュア遺跡示意図
■は調査地点を示す
ヤと中国商人」 対 「ジャワとインド ・ アラブ商人」 の関係 についての示唆は興味深い。
第三章―インド系の土器 【69 ページ】 総量 600 kgほど の破片。 チョーラ朝の中心、 セイロン島、 インド北西部の 三地帯からもたらされたと思われる無釉の土器群である。
第 3 図 ロブテュア出土のインド系土器の中で最も 数量の多い種類。セイロン製。
第四章―中国陶磁器 【103 ページ】
マリーフランス ドゥポワザにより研究され、 遺跡全体の調 査に年代的指針を与えた。 およそ 17,000 片がある。 9 世 紀中ごろから 12 世紀前半ごろまでのもの。越州窯系青磁、
広東諸窯 (ことに広州西村窯) の青磁、白磁、鉄絵磁器、
褐釉陶器など。古いところでは長沙窯の玉壁高台の不在、
新しいところでは福建の陶磁の不在が遺跡の存続期間決 定の鍵として特筆されている。
第 4 図 越州窯青磁碗
第五章―近東の陶器 【171 ページ】
別項で訳出を試みた。 本文 7 ページ参照。
第 5 図 広州西村窯白磁皿
第 6 図 広州西村窯鉄絵鉢
第 7 図 佛山奇石窯の褐釉陶器
第六章―精良な土のケンディ 【197 ページ】
一般にタイのサッティンプラに近い Pa-O で窯址が見つ かっているといわれているケンディである。 これが大量に出 土している。 しかし窯址の発掘報告書が出版されていない ため、 直ちにここのものと断定はできないとする。
第 9 図 口頸部 第 8 図 体部
第 10 図 注口 第七章―「在地」土器 【209 ページ】
ここでの在地 (local) とはロブテュアもしくはバールスをさ すものではない。 歴史的にこの地域で土器が生産されたこ とはなかったとされているからである。 在地すなわち東南ア ジアを指すようである。
ここで出土の土器の四分の一から三分の一を占めるのはス ポンジのように多孔質で軽く、 黄土色の化粧土をかけた単 純な形の土器である。 マレー半島 クダッのペンカラン ・ ブ ジャンとブルネイのクパンで似たものが出ているらしいとい う。 東南アジアである程度流通していた土器のようである。
第 11 図 形はシンプルで、装飾も少ない。
第八章―ガラス器 【223 ページ】
9,000 片以上が出土した。 製作技法に基づいて無文の 宙吹きガラス、 型吹きガラス、 二色ガラス (貼り付け)、 鋳 造ガラスなどに分類できる。 当時インド以東ではガラス (中 国のバリウムを多く含んだ鉛ガラスを除く。 訳者注) の生 産は知られていなかったから、 必然中近東に生産地が求 められた。 その結果、 ロブテュア出土の近東の陶器同様、
多くがペルシャ湾岸地方からもたらされており、 中でもホ ラーサーン産とされたものが多数ある。 しかし 11 世紀を通 じてガラスを供給していた地中海東部の存在を無視してし まうことは今のところできないという。
現在ではマレー世界の各地で中東ガラスの出土例が増え ており、 大きな港市遺跡ではあらかじめ出土が予想される 遺物として注目、 期待されるようになってきている。 マレー
世界に、 インド人、 中国人のネットワークと並んで西アジアー イスラーム商人のネットワークが見えてきたと考えられている。
バールスの場合ガラス器は周辺の遺跡から出土すること がなく、 ロブテュアの町が周辺とは全く異なった暮らしをす る異国人の海外商館であったという 「第二章 歴史的結論」
を裏付けている。
第 12 図 無着色のガラスの碗
少し乳黄色を帯びる。口径 20cm。
第 14 図 不透明褐色に細い白色ガラス紐をジグザ グに貼り付けた小瓶。口径は 2cm に満たない。
エジプト・シリア製
第 13 図 濃い青の細長いびん。底は平らで無い
器高 ca20cm
第 15 図 コバルトブルーの透明ガラスの水差し
ほかに無着色、ラクダ色、赤褐色の例もある。
推定復元器高 21cm
第九章―ビーズ 【271 ページ】
出土は 1,000 余りである。 ロブテュアのように集住した都 市遺跡にしては多いとはいえない。金:3 個、硬玉:オパール、
玉髄、 水晶、 紅玉髄、 そしてガラスの三つのグループに分 けられる。 単色ガラスのビーズは中国の技法 (en spiraile 螺旋形に作る) ではなく、 インド ・ 太平洋式の引き伸ば しの技法で作られている。 単色ガラスの径 1mm ほどのビー ズが数量的には最も多い。 多色ビーズは縞や網目、 そして
「眼」 がモザイクで入ったものなど 8 個が報告されている。
これらのビーズの中には 10 世紀のマレー半島 タクアパやス ンガイ ・ マスで作られたと考えられるものもある。 また現地 での製造を思わせる一つにくっついたビーズの塊も出土した が、 仕上げ前の粗造りのものは発見されていないという問 題がある。 ともかくもこれらのガラスのビーズはロブテュアに インドと近東の影響が重複してあるということを示している。
ロブテュアの都市としての大きさに比べてのビーズの少なさ は、 あるいは住民の中の女性の少なさを示しているかもし れない。 このタイプの装身具が女性用に限られていたという 証拠は何もないのであるが。
第 16 図 飛びぬけて多いのがこのような 小さなビーズである。
第十章―金属(金を除く)【275 ページ】
この章最大の成果は大量の鉱滓が出土して、 鉄が現地 で生産され加工されていたことが明らかになったことであ る。 鉄は 93kg 出土した。 製品には、 鍛造と鋳造の二技法 が用いられている。 前者によるものは角釘 211 本、 これに は 10cm のものが一定量あり、 もっとも長いものは 20cm も あった。 刃物類、 錐、 灯明皿、 二本歯の櫛なども鍛造で ある。 これらはインド的である。 鋳造のものとしては鍋と見 られる (大きなものでは幅 100cm を超える) 破片が一定 量ある。 インドの影が強く見られる。
第 17 図 インド製の二本歯の櫛
長さ5cm、幅2cm
青銅や銅の製品もあったが、 ほとんど痕跡が見られただ けで残りが悪かった。
第十一章―銭貨と金 【283 ページ】
小さな金貨が 3 個出ており、 これをめぐってバールスと金 の関係が考察されている。 スマトラは金の産地として古くか ら有名であり、 バールスはその重要な積出港であった。 レ ジャン ・ レボン (Redjang Lebong) の金鉱とジャワ、 バー ルスの関係が推測されている。 金貨はバールスで鋳型 (同 形の球を作る) が出土しており一部はここで熔かされ刻印 を打たれたと考えられる。 文様はジャワの銭貨で見られる 丁子の花である。 (中国系銭貨のように鋳造ではないので 銭貨の文様は刻印する。 なおバールスでは印型は出土し ていない。 金鉱山の開発にインド系の技師が関係している こと、 そしてバールスの金貨の一部は鉱山で製造されたこ とを思わせる資料が第I巻に紹介されているようである。 訳 者注)。 ほかに金の装身具や耳飾り、 腕輪などの石の鋳 型が若干出土している。 貴金属の加工が現地でも行われ たことがわかる。
第 18 図 丁子の花模様の金貨 径 0.7 から 0.9cm
第 19 図 ロブテュア出土の金貨の鋳型
第十二章―石製品 【295 ページ】
加工された石の出土は多くない。 まず遺跡には広く砂利 や小石を敷いている。 近くの川石を用いたものでこの地方 で今も見られる住環境の整備法である。
次にばら色と黒色の混じった花崗岩で彫った彫刻が出土し ているが、 インドのパーラ朝やチョーラ朝の建造物にはこ れと同じ石で彫ったものがたくさんある。 花崗岩を彫ってて いねいに磨いた菩薩の体の一部が出土したが、 これもイン ドからの輸入であろう。 アイホーレ (Ayyavole 9世紀から 14世紀中ごろまで活躍した南インドの商人のギルド。 訳者 注) はロブテュアの銘を残しているが、 このギルドが建立し た 13 世紀のタミール語の碑文がアチェの博物館にあり、 こ の石碑もばら色と黒色の花崗岩であって、 インドからスマト ラへ石製品が運ばれたことを証明するものである。
また石の容器も出土している。 直径 10 cmほどの小さな 円筒形の蓋付き容器で灰色のかなり軟らかい石を使ってい る。 この種の容器はほぼ同時代のペルシャの遺跡、 たとえ ばニーシャープール、グルガーン、トウース、スーサ、スィー ラーフ、 そしてオマーンなどでかなりの数出土している。 ホ ラーサーンのマシュハドでは少し薄色の石で作った同様の 容器が、 今でも土産物として市場で売られている。 このよう に石にもインドと近東の影響が強く表れている。
第十三章―煉瓦 【301 ページ】
総重量で 600kg 出土している。 この分量から煉瓦を使っ た建築物があったとは考えられず、 5m × 5m ほどの祭祀 施設の土台が想像されている。 煉瓦はインド系とのことで ある。
第十四章―バールスの回教碑文資料 【303 ページ】
バールス一帯で発見されたもの。 最古のもので 1340 年 の年紀があり、 いずれもロブテュアより後代の物である。 36 件が紹介されている。 墓碑である。
第5章 近東の陶器 (この章のみ訳出を試みた。)
ロ ブ テ ュ ア Lobu Tua で は お よ そ 1,000 個 の 近 東 Proche-Orient の陶器片が発見された。 それは量的にはイ ンドの土器や 「在地産」 とされる土器とは全く比べ物には ならない。 同様に中国陶磁器の出土量と比べてもずっと少 ない。 この約 1,000 点という数の本当の意味を捉えるため には、 二つの点に注意しなければならない。 つまり近東の 陶器がその成分ゆえに、 またことにその焼成の条件によっ て釉を失ってしまう傾向があり、 多様な出自を持つ資料の 只中で同定が困難となること、 そしてまたバールスのような 赤道の湿潤な環境の中では崩れやすい傾向を示すことで ある。 ここで、 大きな破片が唯一つも出土していないことは 印象的である。
ここでは出土陶片のすべてが大量生産品であり、 「優品」
といえるものは全くない。 ラスター彩はないし、 彫刻を施し たもの、 具象的モチーフや銘文を描いたものもない。 一番 手の込んだもので、 上下二本の細い装飾文帯といくつかの 花形飾りを貼り付けた壷の口部という有様である。 全体とし てこれらの近東陶器は明らかに実用に向けて作られていた。
これらの陶片の中にははっきりと大きく二つのグループが 見て取れる。 一つはスィーラーフの細石屑を含んだ赤色あ るいは灰色の胎土 (pâte à mailloche) の無釉土器壷であ り、 他は多彩釉でクーフイ文字銘まがいの劃花文を施した 什器である。 それ以外は少数で、 単色釉 (青釉と白釉)
と多彩釉がある。 さらにあまりにも小片であり、 残存状態が 悪くて分類困難なものが少しある。 これらの中には同類の 器物が知られていないことから無釉という現状が元来のもの であるか、 はたまた後の剥落によるものか判定困難なもの がある。
年代的には二つの大きな時期を区別できる。 スィーラー フの壷は 9 世紀中葉から11世紀始め、 大量の多彩釉刻 花文の什器も 11 世紀に対応している。 青釉と白釉は少数 しか出土していないがこの遺跡では最も古く、 9 世紀中葉 から10 世紀にかけてのものである。 以前 「サーサーン朝
―イスラーム」 と呼ばれた青釉陶器についてはすでに多く の論述があるが、 現在では考古学者はより精密な検討の 結果、より遅い時代に位置づけるのが普通である。 ロブテュ ア出土の破片は残念ながらあまりにも小さくて、 他の遺跡 出土の破片と様式的に比較することができない。
これら出土品の生産地と積出港を特定したいところであ る。 一部はスィーラーフに窯址が同定された。 また一部は 単色の青釉のようにメソポタミヤ由来という。 さらに他のもの
はイラン北部のニーシャープールかグルガーン、 もしくは マクラン沿岸の出土品に共通の特徴を示している。 この近 東という比較的限られた範囲では様式も、 手工業者も、 製 品も移動していたことは確かである。 したがって現在のわ れわれの知見でバールスに到達する経路をあまりきっちりと 決定しようとすることは危険であろう。 けれども 1 群の情報 からバールスとの交易については近東の中ではペルシャ湾 が第一の中心であったと考えてよい。
ペルシャ湾とインド亜大陸の交流は常に濃密であった から、 一部の遺物の生産地決定にこの二つの地帯のい ずれかを選択することはしばしば困難である。 タンポー Tampoe 氏によって、 スィーラーフ陶器の一部であると発表 紹介された遺物群は読者には典型的インド土器という印象 を与えている。 このことはバールスの出土遺物についても いえるのであって、 われわれはこの論文で近東のものと分 類された一部の遺物 (たとえば図20.) が、 インド由来の ものでありうること、 同じく 「インド産」 とされているものと形 の上でも、 胎土においても類似性を示していることを十分 に意識している 1。
ここで問題にしている陶器はいうまでもなくバールスと近 東の間に関係があったことを示しており、 そのことはこれま た豊富に出土しているガラス器などによっても確認される。
これらの陶器を輸入した理由は考察に値しよう。 壷がこれ ら二地域間で交換された産品の輸送に用いられただろうこ とは容易に理解されよう。 一方什器の輸入については次の ことが分かっているだけに驚かされる。 それはロブテュアの 住民が、 品質が勝り、 堅牢さにおいても優れた中国陶磁 器 (炻器であり、 釉もずっと硬く耐久性がある) を手に入 れることができただけにやや驚くべきことに思えるのである。
こうした中国陶磁器の存在が近東陶器の輸入を妨げなかっ た理由の第一は、 それがしばしばより魅力的な色彩を持っ ていたためであろう。 北宋期の輸出陶磁器には青色もな かったし、 三彩の鮮やかな色もなかった。 (三彩は唐代で 放棄された。 少量生産が続けられていたとしてもまずは副 葬品としてであった。) 近東陶器輸入についてのもう一つ の説明はそれがどう見ても再輸出用ではなくて、 むしろ都 市住民の内部使用に向けられていたということであろう。 そ れはバールスに住む近東の商人たちにとっては遥かな故 郷を想いださせてくれるものだったのだろう。 それは感傷 的価値によったが、 同じことはインド産土器についても言え
1 M. Tampoe,” Maritime trade between China and the west. An archaeological study of ceramics from Siraf”, Oxford, Bar International Series no. 555.
るだろう。 インドからは黒く化粧した極めて粗末な皿類が中 国産の美しく実用的な陶磁器を請来できたバールスに輸 入されていたのだ。 中国陶磁器が高すぎると想定した場合 でも (バールスからこれが豊富に出土するという事実によっ て、 部分的に否定されてしまうが) ともかく我々は近東とイ ンドから輸入された什器類が、 バールスにこれら二つの地 域出身者からなる二つの共同体があったということを証言し ていると考えている。
その出土状態からして、 壷の数を算定することは残念な がらできない。 ただ口の部分の破片に基づいて「多数」あっ たということを断言できる。 これらの壷は多孔性であり、 し たがって東南アジアでよく見られるように水を家の近くに貯 めておくために使うことはできない。 だからそれらはことに 交易において他の財貨の容器として役立ったに違いない。
大量にある近東とインドの壷はバールス商人たちの需要を 満たすのに十分であったろうし、 またバールスで中国の壷 が比較的少ないことを説明するのである。 こうしたことはロ ブテュアの交易の二大軸がインドと近東であったのに対し て、 中国との関係は間接的だったことを示している。 一部 の壷が家庭内で使われたことを認めたとしても、 それらが 極めて多数あることが、 各地域産の輸出品の容器として用 いられたことを確実に示しているのである。 言い換えるなら ば、 これらの壷はロブテュアの遺跡が港としても商人居留 地としても同時に機能していたことを示している。
最後に、 無視できない数量が発見された導管について 一言しておかなければならない。 こうした導管がマレー世 界の都市遺跡から出土した例を、 我々はこれまで知らない のである。 しかし原位置で発見されたものが一つもないだ けにいまのところ全く謎に包まれている。
以下引き続いて無釉陶器、 そして異なる種類の施釉陶器 について述べる。
( 以下は概要を訳す )。
無釉陶器
細石屑を含む赤色陶器 Poterie rouge à mailloche.
小さな黒色の砕石や土器片を含む赤い土で作られてい る。 寸法は口部で径 15 から 26cm、 厚み 1.5 から 3cm とさ まざまである。 たくさんあるが復元できるものはない。 肩は 丸く首の付け根から肩にかけて縦耳がある。 底部は平らで 径 11 から 22cm である。 口部に水平に数本平行線が深く 刻まれている。 鋸歯文もある。 スィーラーフで窯址がみつ かっている。 したがって 10 世紀末よりも古いことになる。 こ
の種の土器はソハールでアッバス朝期の層からスグラフィ アットと一緒に出土した。 セイロンのマンタイにもあり、 ジャ カルタの国立博物館にはパレンバン出土の大きな破片が 展示されている。
同様の土でいくらか硬く焼かれ、 内部に轆轤目のある破 片がある。 これもスィーラーフに見られ、 径 25cm ほどのほ ぼ円筒形で厚みは 2.5cm 前後。 導管 (配管の樋のような もの) と考えられている。
細石屑を含む灰色土器 Poterie grisâtre à mailloche 上と同じく特徴的な細かい黒い砕石が混じっており、 何 本かの太い沈線を水平にめぐらした直口の壷である。 装飾 もほぼ変わらずこれもスィーラーフで作られたという。 「もろ い」 ことが特徴の土器である。 容量は小さくない。
精良なばら色の胎土の土器
細い首で口が大きく開く壷が多い。 ばら色の土に化粧土は 黄緑である。 上述の物より装飾的といえる。
第 20 図 胎土はスィーラーフのものに似るが口の 作りはインドの土器を思わせる。
その他の無釉陶器
施釉陶器 A. 単色釉陶器 白釉陶器
錫を含む白色釉の陶器の破片がある。胎土は白みがかっ ているかあるいは薄く黄色を帯びている。 湿り気に弱く、
出土した陶片の大部分はとても小片になっている。 釉には 氷裂がはいっているものが多く、 剥落しやすい。 碗や皿な ど 20 片ほどある。 底には高台が付いている。 考古学者が 中国の影響があるというタイプである。 スーサやスィーラー フでも出土しており、 年代は 9 世紀とされている。
東南アジアではタイのコー ・ コー カオ (9 世紀) や、 ス ンガイ ・ マスで青緑釉の陶器と一緒に出土している。 メソポ タミアーイランの 9 紀中頃から 10 世紀初めの陶器である。
第 21 図 白釉陶器、全釉である。高台径 3.9cm。
第 22 図 青緑釉陶器、貼り付け文の小片。
青緑釉陶器
青、 あるいはトルコブルーの容器は 30 片ほどある。 胎土 は白あるいは薄く黄味がかる。 釉は白釉陶器の場合と同じ ように湿り気に弱く剥落している。 破片は最大でも幅 10cm もないので、 どんな形の容器だったか知ることは不可能で ある。
以前、 サーサーン朝―イスラームあるいはサーサーン朝 と言われたメソポタミヤ産のこの陶器には最初たいそう早い 年代が与えられたので、 このようなイスラーム以前をしめ
す呼び名がつけられたわけである。 しかしホワイトハウスは スィーラーフの発掘によって、 それが 825 年以前には出現 しないことを示した 2。 そしてザリン Zarins は生産年代として 800-950 年を提案している 3。
この種の陶片は東南アジアではコー ・ コー カオで、 9 世 紀初めの玉璧高台の長沙窯陶器と共伴して出土している。
ロブテュアでは長沙窯陶器は出土しておらず、 このことか らロブテュアの青緑釉陶器の年代は 9 世紀後半あるいは 10 世紀初めと考えられるのである。青緑釉陶器はスンガイ・
マスやパレンバンでも出土しているという。
2 David Whitehouse,”Islamic GlazedPottery in Iraq and the Persian Gulf”, Annalli dell’Istituto Orientale di Napoli, vol.29, 1979,pp.45-61
Juris Zarins,”Arab Southern Red Sea Ports and the Early Chinese Porcelain Trade as Reflected principally from Aththar, Saudi-Arabia”, Annali dell’
Istituto Orientale di Napoli, vol.49, 1989, p. 250
第 23 図 青緑釉陶器、貼り付け文の小片。
褐斑のある陶器
明るいばら色の土、 黄橙色の地に鉄の褐斑がある破片 4 個以上がある。
第 24 図 内面は褐彩、外面は緑彩である。
菫色釉の陶器
緑っぽい黄色の土にマンガンの酸化物が呈色剤と思わ れるすみれ色の釉がかかる。 ほとんど黒く発色したものもあ る。 小片 7 個が出土。 うち 1 個は内外両面に釉が掛かり、
袋物だったと思われる。
B.多彩釉陶器 彩画陶器
青、 紫、 茶で異なる筆遣いで文様を描いた鉢もしくは皿 の破片が。 1片のみ出土した。 考古学の文献には類例が ないが、 グルガーンの発掘では珍しくなかったと聞く。 また クリーム色の化粧土の上に黒の文様を描いたもの、 同じく 灰色がかったクリーム色の化粧土に彫り文をしてさらに緑色 の線を引いた破片、 さらに灰味の化粧をした鉢で外面には 明るい緑で縦線文を、 内面には茶色で短い線を積み重ね たものなどがある。
白と青の散らし掛け(jaspé)の陶器 11 片が出土した。 鉢や皿がある。
散らし掛け三彩陶器
ロブテュア出土に三グループがある。 バールスでは非常 に少ないが、 刻文がないもの ; これも少ないがいくつかの モチーフがさっと手早く彫られていて釉を上から下に散ら し掛けにしてあるもの ; そして具象文に斜線で影をつけて 彫り、 その上に三彩釉を散らし掛けにするものの三つであ る。 この第三のグループには八弁花と口縁の内側に回した 紛いのアラビア文字銘という二種類のモチーフが見られる。
この二つは異なる窯で作られたものと思われる。 ロブテュア で最も多いのは最後の紛いのアラビア文字銘がある種類で ある。 それはこの遺跡で出土した近東陶器の半分以上を 占めている。 この種類についてはすでに第I巻で考察した ので参照されたい。
筆者後記
筆者が関心を持つ中国陶磁が出土しているというのでた またま手にした報告書であったが、 近東陶器が大量に出 土していることに気づき驚いたのが始まりである。 佐々木先 生に訳出を勧められ、 語学的にも、 専門上からもその任 にないことは承知のうえで、 お引き受けした。 はじめは近 東陶器の章のみというつもりだったが、 読んでいるうちに面 白くなってとうとう全般にわたり紹介することになった。 なん といっても遺物の面白さ、 そして遺跡の占める地理的歴史 的位置が興味深い。 インド海域とシナ海域の接点、シュリー ビジャヤの支配するマラッカ海峡を避けて、 インドとジャワ
第 25 図 8弁花文。釉は剥落している。
第 25 図 クーフィ文字まがいの文様の皿。
を結ぶ線がこの遺跡を介して推測されるようである。
最後に一読者としての思いつきを提出させていただきた い。 ロブテュアから大量に出土して周辺地域との生活の違 いを際立たせたガラスについてである。 出土した碗や水 注などのテーブルウエアは別として、 多数の小瓶はこれも 商人たちの日用品ではなく、 重要な輸出用のカンフォー ルなどを詰めたものではないかと想像する。 カンフォール は希少なものであり、 揮発性であるから、 たとえば多孔質 の近東陶器壷に詰めるのは相応しくないだろう。 また在留 の商館員たちの日常生活にも不必要に多いように思われ るのである。 カンフォールについても第I巻で考察があり、
638年にアラブの軍隊がチグリス川岸マダンのホスローI世
(Chosroês I、 この王の生存年代は531-579年でこれより 早い。 この宮殿の建造者という意味か?訳者注) の宮殿 を攻めたとき、 カンフォールがいっぱい詰められた壷がいく つかあり、 最初は塩壷かと思ったという話が紹介されている という。 これはサーサーン朝の王者の超越的な富を象徴す る話として伝えられているものであろう。 おそらくロブテュア の時代にはカンフォールももう少し一般化して小瓶に分け て商品化することが行われたのではないかと想像する。 も ちろん une hypothèse très bonne marchée ではある。
ついでながら筆者は中部ベトナム、 ホイアン近傍のチュ オンフォンで遺物の表面採集をした際、 軽くスポンジのよう な土器の碗を採集したことがある。 第 7 章、 「在地」 土器 を読んだとき、 すぐにこの土器を思い出した。 関わりの有 無は不明だがここに書き留めておく。
最後にこの作業を勧めてくださった佐々木先生に謝意を表 したい。 このお勧めが無ければ怠惰な筆者はこの報告書 を通読することもなく、 こんなに面白い内容を知ることも無 かったであろう。
フランス語の固有名詞を仮名表記するにあたってはわが 国の一般慣行に従った。 しかし特にマレー語については 坂井隆氏のご教示を受けたことを記し感謝を表す。
小松 隆史 (井戸尻考古館)
縄文土器の 「い ・ ろ ・ は」
-井戸尻考古館の普及活動から-
「い ・ ろ ・ は」 といっても、 縄文土器の概説や編年、 研 究法や研究史をお話ししようというのではありません。 縄文 土器づくりにまつわる思いやエピソードの中から、 土器を 通じて縄文人に近づくことを感じていただければと思うので す。 それは科学的ではないけれど、 非常に重要なことを 私たちに教えてくれるということ。 そしてそれは、 けして縄 文土器に限ったことではないことも。
1 ことのはじまり
平成18年7月。 富士見町内の小学校の6学年担任教諭 が来館されました。 お話の内容は 「学校の総合的な学習 の時間のなかで、 ぜひ縄文土器を作って、 最終的には調 理をするところまでやってみたい。」 というものでした。 おり しも小学校6年の社会科の教科書から 「縄文時代」 が消 えた (!) というショッキングな出来事について頭にきてお りましたし、 先生の熱意も感じられましたので 「それではや りましょう!」 ということになったのです。
神像筒形土器(藤内遺跡) 国重要文化財