• 検索結果がありません。

著者名(日) 小井土 守敏

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "著者名(日) 小井土 守敏"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

古活字版『曾我物語』の本文変化 : 大妻女子大学 蔵十一行古活字本を中心に

著者名(日) 小井土 守敏

雑誌名 大妻国文

巻 43

ページ 81‑101

発行年 2012‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001275/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

大妻国文   第

43 号  二〇一二年三月

八一 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 │ 大妻女子大学蔵十一行古活字本を中心に │

小  井  土   守  敏

はじめに

﹃曾我物語﹄ の 古活字版研究 においては︑ 夙に 川瀬一馬氏がその大概を示され ︑ 近 くは村上学氏により︑ より詳細な検討

が加えられている ︒まずは川瀬氏の整理に従って︑古活字版﹃曾我物語﹄の概略を整理しておきたい︒

︵一   ︶ 十行古活字本⁝毎半葉十行︒ 慶長十年 ︵ 一六〇五 ︶ こ ろ ︑﹃ 曾我物語 ﹄ の 古活字版 としては最も早く登 場したものと

考えられる︒ ﹃古活字版之研究﹄初版では零本のみとされるが︑同書増補版において聖心女子大学所蔵の完本が紹介

されている︒ 他 に 東京大学図書館蔵本 があり︑ この本は 日本古典文学大系 ﹃曾我物語﹄ の 底本となっている︒ そ の底

本を補うものとして参観されているのが聖心女子大学蔵本である︒

︵二   ︶ 十一行古活字本⁝毎半葉十一行︒ 慶長後半 ︵ 一六一〇年代 ︶ の 刊︒ ﹃ 古活字版之研究 ﹄ 初 版 お よ び 増補版 に 安田文庫

蔵本 と 龍門文庫蔵本 が そ れ ぞ れ 紹介 されているが︑ これらはいずれも 完 本 ではない ︒ 同 書 で は 阿波国文庫蔵本 が 完 本

でかつ原 装を保つと紹 介されているが︑ 現在徳島県立図書館 に 移 管 さ れ た 阿波国文庫 で は 所蔵 の 確 認 ができない ︒ そ

(3)

八二

して︑ ﹁高木文庫蔵の一本がある﹂と紹介されるのが︑現在本学所蔵の十一行古活字本に該当する︒

︵三   ︶ 十二行古活字本⁝毎半葉十二行︒ 慶長 ・ 元和年間 ︵ 一五九六 〜 一六二三 ︶ の 刊︒ ﹃ 古活字版之研究 ﹄ に は 零 本 し か 紹

介されていないが︑ ﹁平成二十一年十一月古典籍展観大入札会﹂の目録に完本が見え︑また︑臨川書店﹁日本書古書

目録第九〇号﹂ ︵平成二十三年一月︶等でも完本が存在することが確認できる︒十二行古活字本は︑元和・寛永年間

に異種版が出され︑その中に﹁絵活字﹂という特徴的な挿絵を有するものがある︒このうち︑ ﹃古活字版之研究﹄で

﹁大島雅太郎氏蔵﹂とされるものが︑現在国文学研究資料館の所蔵となっている本である︒

この他︑寛永年間にも古活字本が刷られ十三行本も存在したようであるが︑その一方で︑寛永四年︵一六二七︶には整

版本が現れ︑それが正保四年版︵一六四七︶ ︑寛文三年版︵一六六三︶ ︑同十一年版︵一六七一︶と受け継がれ︑いわゆる

﹁流布本﹂ の類となっていく︒ 以 上︑ あらあらではあるが︑ 本稿の前 提としての古活字版 ﹃曾我物語﹄ の 整理を終え︑ 本 学

蔵十一行古活字本の本文の検討へ入りたい︒

本稿は︑本学蔵十一行古活字版を底本として︑先行する十行古活字版と後出の十二行古活字版を対照し︑底本を中心と

した古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化について述べていくものである︒なお︑底本とする大妻女子大学蔵十一行古活字本

は︑ 平成五年二月二十六日に本学の収蔵 ︵ 請求記号 913.437 So25-5 ︶ となった︒ そ の書誌情報の詳細については︑ 本書が

赤木文庫に所蔵されていた昭和四十六年の時点︵昭和五十五年に再調査︶で村上氏によって調査報告されているのでそち

らを参照されたい ︒古活字本三種に加え︑必要に応じて製版本あるいは近接する写本を取り扱っていくこととするが︑本

稿で扱う諸伝本およびその略号は︑以下の通りである︒

底  本   大妻女子大学蔵十一行古活字本

 

 

 

略号   十一 対校本    東京大学蔵十行古活字本

 

 

 

 

    十古       国文学研究資料館蔵十二行古活字本

   

 

    十二

(4)

八三 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 参照本    万法寺本︵写本・古典文庫所収翻刻による︶

   

    万法

      彰考館蔵本︵写本・伝承文学資料集所収翻刻による︶

      彰考       東京大学南葵文庫蔵 A 〇〇・四六四六本︵写本︶

        南葵         穂久邇文庫蔵本︵写本︶

 

 

 

 

    穂久       東京大学付属図書館蔵 E 二二・二〇三本︵写本︶

        東大         麗澤大学蔵寛文十一年整版本︵整版本・流布本︶

        

寛文

一  古活字本三種の間で

本節では︑十一行古活字本がその前身としての十行古活字本をどのように受け継いだか︑あるいは改訂を行ったか︑そ

してその本文が次の 十二行古活字本 にどのように継 承 されたかを検討する ︒ 川瀬氏の ﹃ 古活字版之研究 ﹄ では︑ ﹁其の本文

に大きな異同はない﹂とされているところであるが︑それは巨視的見解であり︑細部の相違は当然生じているのである︒

①  十古   一もんのくきやうけいしやまうんかくともまてあひしたてまつる    十一   一もんのくきやうけいしやううんかくどもまてあひしたてまつる    十二   一もんのくぎやうけいしやううんかく共・まてあひし奉・・・る  

︵巻一・惟喬惟仁の位争いの事︶

②  十古   としころのらうとうにおう見のきた藤・太やハたのみしをまねきよせて

   十一   年・ころのらうとうにおほみの小×藤・太やはたの三郎をまねきよせて

   十二   としごろのらうどうにおほミのこ×たうたやはたの三郎をまねきよせて

(5)

八四

 

  ︵巻一・伊東次郎と祐経が争論の事︶

③  十古   すいはつにてのほりたまハゝもの × ×くきよらてかなふましけれ又・大・事なりこれにてかミをおろして    十一   すいはつにてのほり給・ハゝもの〳〵しくきよらてかなふましそれまた大・事なりこれにてかミをおろして    十二   すいはつにてのほりたまはゞもの〳〵しくきようてかなふまじそれまたたいじなりこれにてかミをおろして

   

︵巻四・箱王曽我へ下りし事︶

④  十古   なかれをたつつるあそひものわれならぬなさけもやと心・・にふ×しかおもハれてしハらくこまをひかへつゝ    十一   なかれをたつ×るあそひものわれならぬなさけもやと心・・にふ×しかおもはれてしハらくこま×ひかへつゝ    十二   ながれをたつ×るあそびものわれならぬなさけもやとこゝろいふかしくをもハれてしばらくこまをひかへつゝ

   

︵巻六・大磯の盃論の事︶

①の例では︑ 十古 は ﹁けいしやううんかく ︵卿相雲客︶ ﹂ を ﹁けいしやうまんかく﹂ と誤る︒ 十古 の ﹁ま﹂ は ﹁万﹂ の草

体の仮名なので﹁う﹂と類似するが︑他所でこの活字が明確に﹁ま﹂として使用されているので︑ 十古 の誤りである︒こ

うした誤植レベルのミスは︑ 十一 では高い割合で修正している︒そしてその修正本文は︑ 十二 に継承される︒

②の例では ︑ 十古 は ﹁ 小 藤太﹂を ﹁ きた藤太﹂とする ︒﹁ きた﹂は仮名に開かれているが ︑これは漢字表記の ﹁ 小﹂を

﹁北﹂ に誤読したものだと推測される︒ こ の ﹁小﹂ と ﹁ 北﹂ との誤りが︑ 十古 の活字を組む際に生じたものなのか︑ それ以

前に生じていたものなのかは不明だが︑この誤謬も 十一 によって修正され︑ 十二 に受け継がれる︒

③︑④でも傍線部に見るように︑ 十古 の誤脱・衍字を︑ 十一 はことごとく修正を加えている︵波線部については後述︶ ︒

⑤  十古   この二十一の×××××××××××××××××××このかゝミをゆつりけるとかや    十一   この二十一のきミをはちゝことにふひんにおもひけれはこのかゝみをゆつりけるとかや    十二   此・二十一のきミをばちゝことにふびんに思・ひければこのかゞミをゆづりけるとかや    

︵巻二・橘の事︶

(6)

八五 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 ⑥  十古   身つからかこゝろもともにいさましくうちしほるゝ×××××××××××××××××××××ものを    十一   みつからか心・・もともにいさましくうちしほるゝを見るときはわらはか心・・もともにしほるゝ物・を    十二   ミづからがこゝろもともにいさましくうちしほるゝをみるときはわらハがこゝろもともにしほるゝものを

   

︵巻三・兄弟を母の制せし橘の事︶

⑦  十古   くらゐのたかゝらぬをは×××××××××××××××なけくへしとハかんしよのことはならすや    十一   くらゐのたかゝらぬをはなけかされちえのひろからぬをはなけくへしとはかんしよのことはならすや    十二   くらゐのたかゝらぬをばなげかざれちゑのひろからぬおバなげくべしとはかんしよのことばならずや

   

︵巻七・斑足王が事︶

右の三例は 十古 に生じた脱文を 十一 が補う例である︒⑤﹁この二十一の君をば﹂の部分で脱文が生じた理由はわかりか

ねるが︑ ⑥は ﹁しほるゝ﹂ の︑ ⑦は ﹁ぬをば﹂ の目 移りによる誤 脱 であることは明らかである︒ こうした部 分 を 十一 は補っ

ていくのである︒

また︑次例のように︑十古で文意の汲みにくい箇所を︑ 十一 において文脈に即した表現に改める例も認められる︒

⑧  十古   はやきり給・へきらんとてすそろきて××こそ立・たりけれ    十一   はやきりたまへきらんとていさみかゝりて××立・たりけり    十二   はやきり給・へきらんとていさみかゝりて××たちたりけり

 

  ︵巻九・祐経討ちし事︶

仇の祐 経を目 前に︑ いよいよ斬りつけようとする場 面 において︑ 十古 で ﹁ 落ち着かない﹂ という意 味 の ﹁すぞろ ︵そぞろ︶

く﹂が用いられた部分を︑ 十一 は﹁勇みかかる﹂と表現を改め︑些少ではあるものの兄弟の人物造型にも影響を与える改

変を行う︒そしてそれも 十二 に受け継がれていく︒

しかし︑もちろん 十一 にも誤謬はある︒

(7)

八六

⑨  十古   いかにもしりよある××人×に候や    十一   いかにもしりよある××人×に候や    十二 いかにもしりよあるべき××に×や

 

  ︵巻一・伊東次郎と祐経が争論の事︶

祐経が祐親殺害を思い立ったことに対して︑語り手が批判を加える文脈において︑⑨の 十古 の本文は適当でない︒ 彰考・

葵・穂 等の写 本を見ると︑ ﹁いかにも思 慮 あるべきにや﹂ とあり︑ 十二 のかたちが 本 来 のもののようである ︒ 仮 名 ﹁へ﹂

と漢字﹁人﹂との類似に起因する異文だと考えられるが︑ 十一 は︑ 十古 の誤謬を受け継いでしまったことになる︒ちなみ

に整版本の 寛文 では︑ ﹁いかにも思慮あるべきものをや﹂と︑最も分かりやすいかたちになっている︒

なお︑前掲④の波線部﹁心にふしが思はれて﹂は︑文意を汲みにくいが︑ 十一十古 の本文を受け継いでいる︒ 十二

至って ﹁心いぶかしく思はれて﹂ と︑ 平易な用 語に改められているが︑ 岩波古典大系の当該箇所の頭 注に指摘するように︑

﹁ふし﹂を﹁不審﹂とすると︑ 十一 は文意が通るので修正しなかったとも考えられる︒

⑩  十古   ひころすけなりにゆきつれてとおりしかん小・路にめくりたけかきをくゝりとらかゐところにこそつきにけれ    十一   ひころすけなりにゆきつれてとおりし××せうしにめくり××××××××とらかゐ所・・にこそつきにけれ    十二 日比・すけなりにゆきつれてとをりし××せうしにめぐり××××××××とらか居所・・にこそつきにけれ  

  ︵巻六・五郎大磯へ行きし事︶

⑩の波線部の例は︑ 十一 の誤脱である︒ ﹁めぐり﹂ と ﹁くぐり﹂ の目 移りであろうが︑ 文脈に大きな齟齬を来さなかった

ようで︑ 十二 にも整 版 本 にも 十一 の本 文が継 承されている︒ 傍 線 部 ﹁かん小 路 ﹂ は ︑﹁ 間 小 路 ﹂ だ と考えられるが︑ 十一

より平易な表現に改めたと見てよいだろう︒

十一 における 修 正 の 事 例 をいくつ か取り上げ た︒ 十一 が犯し た 誤 謬も確か に認 められるが︑ おおむね 十一十古 の誤 謬 ・

誤脱を修正し︑その 十一 の本文が 十二 へと受け継がれているということは︑認められてよい ︒

(8)

八七 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 二  流布本の祖型としての十一行古活字本

十古 は︑各巻頭に章段名を一括した目録は掲載しているが︑本文中に章段名を設けていない︒したがって︑本文自体も

章段ごとに区分けされることなく︑いわば〝ベタ書き〟で本文が連続していく︒

これに対して 十一 では︑目録を備えるのはもちろん︑本文中に章段名を挿入︑つまり本文を章段ごとに分割して掲載す

る︒そして以降の古活字版︑および製版本においては︑この形式が踏襲されていく︒ 十二 においては章段名に丸印が付さ

れたり︑また製版本においては章段番号が付されたりするなどの改善・改良が見られるが︑ ﹃曾我物語﹄の版本において︑

章段分かち書きの原型をなすのが︑この 十一 なのである︒

章 段 名 についても︑ そのすべてをここに掲 出 することはかなわないが︑ その概 要 は︑ 十古 で立てられた章 段 名に基づき︑

十一 がより細かな章段を設け︑ 十一 で設けられた章段名が︑多少の字句の異なりはあるものの︑ことごとく 十二 そして整

版本に至るまで継承されているということである︒

左の表は︑特に整理・細分化の進んだ巻六の章段名について︑整版本を含めて一覧にしたものである︒

十古 十一 十二 寛文

大磯の盃論の事 十郎大磯へゆきたちぎきの事 十郎大磯へゆきたちぎきの事 十郎大磯へゆきたちぎきの事

和田義盛酒盛の事 和田義盛酒盛の事 和田義盛酒盛の事

ふん女が事 ふん女が事 ふん女が事

弁才天の事 弁才天の事 弁才天の事 弁才天の事

朝比奈虎が局へむかひに行く事 朝比奈虎が局へむかひに行く事 朝 比 奈 虎が局へむか ひにゆきし事

(9)

八八

虎が盃十郎にさしし事 虎が盃十郎にさしし事 虎が盃十郎にさしぬる事

五郎大磯へゆきし事 五郎大磯へゆきし事 五郎大磯へゆきし事

朝比奈と五郎と力くらべの事 朝比奈と五郎と力くらべの事 朝比奈と五郎と力くらべの事

曾我にて虎が名残をしみし事 曾我にて虎が名残をしみし事 曾我にて虎が名残をしみし事 曾我にて虎が名残をしみし事

山彦山にての事 山彦山にての事 山彦山にての事 山彦山にての事

比叡山のはじまりの事 比叡山のはじまりの事 比叡山のはじまりの事 比叡山はじまりの事

仏性国の雨の事 仏性国の雨の事 仏性国の雨の事 仏性国の雨の事

嵯 峨 の 釈 迦 つくりたてまつりし 事 嵯 峨 の 釈 迦 つくりたてまつりし 事 嵯 峨 の 釈 迦 つくりたてまつりし 事 嵯 峨 の 釈 迦 つくりたてまつりし 事

このように︑後の流布本︵整版本︶によって知られるそれぞれの章段名は︑ 十一 において立てられたものであることが理

解 されよう ︒ なお︑ 十一 は︑ 章 段を分か ち書きにすることによって︑ 章段末尾 にあたる部 分 について幾ばくかの改 変を行っ

ている︒それは文末処理のようなものなのであるが︑その詳細は紙幅の都合もあり割愛する︒もちろん︑ 十一 で行われた

章段末の処理が 十二 へと受け継がれていくことは言うまでもない︒

写本との対応を指摘しておくと︑右表の範囲において 十古 は﹁弁才天の事﹂を除くすべてが 南葵 と共通であり︑ 十一

すべての章段名が 穂久・東大 と共通である︒それぞれの本との交流が認められる︒

ここで︑本稿の主旨からは幾分逸れるが︑ 東大 について触れておきたい︒この写本は︑本文や章段分割の様子が 十一

非常に近く︑両本の関係が気になるところである︒未刊国文資料のシリーズでこの本を紹介された鈴木進氏は︑その解説

において︑以下のように述べている ︒

東大本は和漢 ︑仏教などの説話の加除は全く終わり ︑流布本と同一になってをり ︑目録もまた流布本と同一である ︒

しかし章段の首尾には未だ改訂が加へられず︑流布本と相違してをり︑なほ古体を存してゐる︒然して︑本書は︑数

ある 曽 我 物 語 の 伝 本 のうち︑ 大山寺本か ら 流布本に至る系統の伝本 のうち︑ 流 布 本 の 直 前 に 位 置 するものと 考 へられ︑

(10)

八九 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 曽我物語成立の過程を考へる上で︑重要な伝本と考へられる︒ しかし︑村上学氏も指摘されている ように︑各本と対校させていくと︑ 東大十一 の下位に位置することがわかる︒

⑪  南葵   事をたつねんかためにめしつるにそこつのしかいしよ×そんのほか也・そこつとはいかてか承・・・・・候   十古   事をたつねん×ためにめしつるにそこつのしかひ所・×存・のほか也・そこつとはいかてか承・・・・・候   十一   事をたつねん×ためにめしつるにそこつのしかひ所・×存・の外・なりそこつとはいかてか承・・・・り候   東大   事をたつねん×ためにめしつるにそこつのしかひところ存・の外・なりそこつとはいかてか承・・・・り候   十二   事をたづねん×ためにめしつるにそこつのじがい所・×存・のほかなりそこつとハいかでか承・・・・り候    寛文   事をたづねん×ためにめしつるにそこつのじがいしよ×ぞんのほか也・そこつとハいかでかうけたまハり候  

︵巻十・禅師法師が自害の事︶

この例では ﹁ところ存のほか﹂ という異文が見いだせるが︑これはいうまでもなく﹁所存﹂の読み間違いである︒ ﹁所存﹂

を仮名に開くことはあっても︑ ﹁ところ存﹂から﹁所存﹂へ戻すことはほぼ不可能であろう︒また︑次のような例もある︒

⑫  南葵   是・ほとの××太刀をもちて我・君の御まへにてかゝる大いくさしけるふしきさよといひけれは 十古   是・ほとの××たちをもちてわか君の御前・にてかかる大軍・×しけるふしきさよといひけれは 十一   是・ほとの××たちをもちてわか君の御前・にてかゝる大くむ×しけるふしきさよといひけれは 東大   是・ほとの××たちをもちてわか君の御前・にてかゝる大くむ×しけるふしきさよといひけれは 十二   これほどの××たちをもちてわが君の御まへにてかゝる大くん×しけるふしぎさよといひければ 寛文   これほどのゑせだちをもちて××君の御まへにてかゝる大ぐん×しけるふしぎさよといひけれバ  

︵巻十・五郎御前へ召し出だされ聞こし召し問はるゝ事︶

ここでは︑ 十一 で生じた読み誤りを︑ 二・寛 そして 東大 が踏 襲していることが解る︒ ただし︑ 寛文 の ﹁ ゑせだち﹂ ﹁君﹂

(11)

九〇

を採らないことから︑ 東大 は流布本を写したとは言えない︒ ﹁目録もまた流布本と同一﹂であり︑ ﹁流布本の直前に位置す

る﹂ 本 文 であることは間 違 いないが︑ 以 上 のことから︑ 東大十一 以降の古活字版の写しであるとせざるを得ない︒ な お ︑

東大十一 に生じ て い る 落丁部分 を有し て い る の で ︑ 本稿に おける 十一東大 の 依拠本と い う わ け で は あ る ま い ︒

三  古活字版における記事の出入り

§

1 増補記事

これまで検討してきたように︑ 十一十古 の下位にあって︑かつその誤りを修正し︑ 十二 ︑そして整版本のもととなる

という位置にある︒ただし︑特に巻八については︑ 十古十一 との間に記事の出入りが認められる︒以下に引用する本文

のうち︑線で囲んだ部分が 十古 にはなく︑ 十一 で補われた記事である︒なお引用は主として 十一 を用い︑稿者が漢字をあ

てる等の処理をしている︒

A   ︹三嶋にて笠懸射し事︺

⁝皆人︑ 神や仏に参りては︑ あるひは寿命長遠と祈り︑ 諸病悉除とこそ祈るに︑ 此人々の明け暮れは︑ ﹁父のため︑ 命

を召せ﹂とのみ申しけるこそ無斬なる ︒かやうの事共をも ︑最後の文に詳しく書きて ︑富士より曾我へぞ返しける ︒

母見給ひて︑五つや三つより思ひよりけるとも知られける︒

    ︹浮島が原の事︺

  さても御寮は︑浮島が原に御座のよし承り︑曾我兄弟も︑急ぎ追つ付き奉りぬ︒

  浮島が原を通りけるに︑かの原の昔は海にてありけるに︑大国より愛鷹山といふ山︑富士と丈比べせんとて来

(12)

九一 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 たりけるを︑権現︑蹴崩し給ひければ︑その山海に浮きて今の浮島が原になりにけり︒一方は海漫々として雲行 客の跡を埋み︑一方は横折り伏せる小夜の中山より宇津の山へ続き︑東路分けて遥かなり︒ある人︑東国に下り けるが︑この原にて﹁蒼波路遠くして雲千里﹂といふ詩の上の句を作り︑下の句を寄せかねたりける折節︑十六 歳になりける娘を連れたりけるが ︑詩をば作りえずして ︑﹁ 道遠く雲居はるけき山中にまたとも聞かぬ鳥の声か

な﹂ と詠みたりければ︑ 父聞きて︑ 先の下の句を接ぎけり︒ ﹁ 白 霧 山深うして鳥一声﹂ といふ詩も︑ 今 さら思ひ知

られたり︒

  其夜は君浮島が原に御泊まりあり︒此人々も便宜よくばと窺ひけれども︵ 十古 其の夜︑それにて便宜を狙へども︶ ︑

用心 伱 もなかりければ力なし︒その夜もそこにて窺へども︑北条殿の警固にて 伱 もなし︒

   ︹富士野の狩場への事︺

  御寮は︑ 合沢の御所にまし〳〵 ける︒ 梶原源太左衛門を召し て仰せ下されけるは︑ ﹁昨日の狩 場より︑ 富士野は広け

れば︑勢子少なくてはかなふまじ︒そのよしあひ触れよ﹂承りて人々に触れ︑射手を揃へけり︒

A の囲み部分の内容は︑ 頼 朝の一行が浮島が原へ到着したことを受けて︑ 浮島が原の地名由来譚を語り手が語るもので

ある︒ ﹁ 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり伏せる小夜の中山﹂ ︵古今集・巻二十・不知読人︶をふまえてその景

を描写し︑ ﹃ 和漢朗詠集﹄ に見える ﹁ 蒼波路遠雲千里⁝﹂ 詩 ︵行 旅 ・ 橘直幹︶ の 逸話をも盛り込んでいるが︑ この部分を

は備えていない︒なお︑囲み部分に該当する記事を備える写本は︑ 万法・彰考・南葵・穂久 である︒ 南葵・穂久 は︑傍

線部﹁その夜も﹂を﹁つきの日はいこまはやしの御かりなり︒その日﹂とするが︑ 十古 以下の諸本には見られない︒

B   ︹源太と重保が鹿論の事︺

⁝ 扨 こそ両 陣は破れにけり︒ 危ふかりし事なり︒ さればにや︑ 君の御 恵あまねく︑ 御 哀 れみの深くして︑ 事 静 まりぬ︒

(13)

九二

   ︹燕の国旱魃の事︺

  大国の燕の国の旱魃する事三か年なり︒しかれば草木悉く枯れ失せ︑人民多く滅びけるうへは︑鳥獣に至るま

で生き残るべしとは見えざりけり ︒国王 ︑大きに嘆き給ひて ︑大法秘法残さず行ひ雨を祈られけれども験なし ︒

大王︑ 思 ひのあまりに諸天に恨み奉りていはく︑ ﹁我︑ 生れてより此かた︑ 禁戒を犯さず︑ 事を妄りに行ふとも思

はず候ふに︑かくのごとく日照りして人の生命少なし︒もし身に誤る所あらば戒め給へかし﹂と嘆き申さるれど

もその験なし︒今は身命を民のために捨てんにはしかじとて︑広き野辺に出でて︑萱多く集めて︑高さ廿丈に積

み上げさす︒ 公卿大臣︑ 奇 異の思ひをなす所に︑ 国王臨幸なりて︑ その萱の上に登り給ひて︑ ﹁火を付けよ﹂ と綸

言なりければ︑ 臣下大きに辞して付くる者なし︒ そ の時︑ 大王の給ふ︒ ﹁もし誤りて︑ まつりごと妄りなる事あら

ば焼けぬべし︒焼くる程の身ならば命生きても益なし︒もし又誤らずば天これを守るべし﹂とて︑大きに逆鱗あ

りければ︑綸言背きがたくして︑四方より火を付けければ︑猛火山のごとくに燃え上がりて︑炎空に満てり︒大

王も煙に咽び︑前後わきまへがたし︒すでに御衣に火の付きければ︑目を塞ぎ掌を合はせて正念に住して﹁火坑

変成池﹂と念じ給ひければ︑天これを憐れみて︑大雨にはかに降り下りて︑山のごとくなりつる猛火を消し︑国

王も助かり給ひ︑人民も命を継ぎ︑五穀成就しけるとなり︒されば﹃論語﹄にいはく﹁過りて改むるに憚る事な

かれ︒過りて改めざるは︑賢かへりて愚なり﹂と見えたり︒この文の名を﹁円珠﹂といへり︒まどかなる珠の盤

を走るとよそへてなり︒君の御言葉の重き一つにて︑多勢の静まりけるにて知られけり

  曾我の人々は ︑あはれ ︑事の出できたれかし ︑方人する風情にて狙ひ寄りて ︑一刀刺さんとて思ひける ︒かくて ︑

日も暮れ方になりしかば︑今日をかぎりと︑かたぶく日影ををしみける︒

この記事は︑前段の梶原景季と畠山重保が︑射止めた鹿を巡って口論となり︑あわや刃傷沙汰となろうとするところを

(14)

九三 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 頼朝の言葉で﹁事静まりぬ﹂という︑主君の言葉の重さに引かれた漢故事引用である︒仮名本﹃曾我物語﹄の性格の一つ として︑ しばしば衒 学 的 であることが指 摘 される が︑ ここでは ﹁燕国旱魃﹂ の 故事ばかりでなく︑ ﹃論語﹄ を引用したうえ

で﹃論語﹄の異称を紹介するなど︑まさに衒学的な姿勢がうかがえる︒そしてこの 十古 が欠く囲み部分を 十一 は補うので

ある︒ちなみにこの記事をほぼ同様のかたちで有する写本は︑ 南葵・穂久 である︒

C   ︹新田が猪にのる事︺

⁝これもしかしながら︑富士の裾野の猪の咎めなりと︑舌をまかぬはなかりけり︒

   ︹舟の始まりの事︺  

  さても御料はいつの暮れより御狩の興に入り︑四方の海山をぞ眺めさせ給ひける折節︑沖つ島の木の間より漕

ぎ浮かべたる海士小舟︑ 同じ風にぞ行き違ふ︒ ﹁げに不思議な る舟の操りかな︒ 誰 人かし初めつらん﹂ と仰せられ

けり︒ 千 葉 介が申しけるは︑ ﹁舟の始めは昔 黄 帝の御 時︑ 蚩 尤 といふ逆 臣 ありて︑ 大 江 という海を隔て攻むべきや

うなかりけり︒ここに貨狄といふ臣下あり︒折節秋の末なるに︑寒き嵐に散る柳の一 葉 の上に乗りつゝ次第々々

にさゝがにの︑いとはかなくも柳の葉の︑汀に寄りし秋霧の︑立ち来る蜘蛛のふるまひ︑げにもと思ひ初めしよ

り︑巧みて舟を作らせ︑大江を易く渡り︑蚩尤を平らげ︑御代を治め給ふ事一万八千歳となり︒しかるに舟のせ

んの字を﹃君にすゝむ﹄と書きたり︒又天子の御舸を龍舸と名付け奉り︑又舟を一葉といふ事もこの時よりぞ始

まりける︒ 又 君の御座船を龍頭鷁首と申すも︑ この御代 よりぞ起こりける﹂ と申しければ︑ ﹁さて極楽の弘誓の舟

はいかにや﹂ ﹁それは菩薩聖衆の御法にて︑凡夫の及ぶところに候はず﹂とぞ申されける︒

  同じく富 士の高 嶺をはる〴 〵 見 あげさせ給ひて︑ 昔 竹 取の翁︑ 鶯の卵 子を養じてかぐや姫となりし行 方 ︑﹁風に

なびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬ我が思ひかな﹂と詠ぜし西行法師が下心まで思し召し出でけり︒

(15)

九四

   ︹祐経を射んとせし事︺

  梶原源太左衛門景季は︑いまだ鹿にあはずして︑落ちくる鹿を待ちかけつゝ︑駆け並べよつぴきて放つ︒されども

上をはるかに射越して通しけり︒景季︑とりあへずかくこそ申しけれ︒

夏草のしげみが下をゆく鹿の袖の横矢は射にくかりける

君聞こし召して︑ 神妙なりとて︑ 是も富 士の裾野百余町をぞ賜はりけり ︒ 人 々︑ これを見聞きて︑ ﹁鹿射外し︑ 歌詠み

てだに恩賞に預かる︒まして︑よくとゞめたらん輩はいかに﹂とぞ申しける︒

C について ︑ 十一 が補った記事は ︑富士の裾野の景観に触発されて引用されたもので ︑漢故事に基づく船の由来 ︑﹃ 海

道記﹄ ﹃ 古今和歌集序聞書三流抄﹄ 等に見られる竹取説話︑ そして西行法師の ﹃ 新古今和歌集﹄ 入集歌の三つの要素からな

る︒これも︑由来譚︑説話︑和歌の知識といった︑この物語に通底する衒学的な志向を見いだせる︒なお︑囲み記事内の

※印の部分に ﹁水に浮かべるに︑ 又蜘蛛といふ虫︑ これも虚 空に落ちけるが︑ この葉﹂ という脱文があると考えられるが︑

それは次項で検討することとする︒

ちなみに︑この記事を有する写本は︑ 万法・彰考・南葵・穂久 であるが︑これらの写本では︑囲み記事の直後に︑さら

に以下の記事が載る︒

  げにや三国無双の名山︑空一方に塞がる雪は雲より上に消え残りて白妙なり︒影は美帆の大海にあまりてはるかに

浮かぶ釣り舟は︑富士の上にや漕ぎつらん︒よそより続く山の峰にも消ゆる富士颪︑夏とはさらに見えわかず︒麓の

松のむら〳 〵に尾 上の雲の立ち続くのは里までも暮 れにけり︒ ﹁まことにおもしろき山の気 色︑ 曇る尾 上に名はなきや

らん﹂と御尋ねありければ ︑信濃国の住人望月小太郎 ︑御前近く候ひしが ︑﹁ 鷹の尾とこそ承りて候へ﹂と申しけれ

ば︑ 折節雉子の一声鳴きたりければ︑ 君聞こし召され︑ とりあへさせ給はず︑ ﹁鷹の尾なれど雉子や鳴くらん﹂ と仰せ

られて︑ ﹁誰か候ふ︑ こ の上の句置き候へ﹂ と て四方をめぐらし給ふところに︑ 望月そらうそぶき︑ かの松原眺むるよ

(16)

九五 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 し見えけり︒ 君ご覧じられて︑ ﹁小 太 郎 ︑ 浮 かびておほゆる︒ は や〳 〵﹂ と仰せられければ︑ 辞 退 申 しけれども重ねて

の仰せなれば︑ 慎んで馬たてなをし︑ ﹁越 後なる鵜 川に鮎の住むなれば﹂ と申し上げたりけり︒ 御 前 近 く控へたりし川

越そのほかの人々︑ ﹁申したり﹂と感じければ︑やがて君うけとらせ給ひて︑

    越後なる鵜川に鮎の住むなれば鷹の尾なれど雉子や鳴くらん

と御詠吟わたらせ給ひて ︑いつよりも御興に入りて見えさせ給ひける ︒和田 ・畠山 ・小山 ・宇都宮をはじめとして ︑

君の御 眦をうけて︑ 殊 勝 なりと感じあへり︒ いつの暮 れよりももの 数 多 くて人々もおもしろう思はれたる折 節 なれば︑

君も御感わたらせ給ひて︑望月神妙に申したり︒やがて其の鵜川の荘八百余町を子々孫々まで給ひにけり︒今に知行

相違なしとぞ申し伝へたる︒

信濃国住人望月小太郎なる人物の和歌褒賞譚である ︒つまり︑ 十一 は︑富士にまつわる三つの説話を補ったが︑この褒

賞譚は採録しなかったということである︒なお︑富士にまつわる三説話を有し︑この和歌褒賞譚を載せない写本は管見の

限り見いだせない︒ 十一 による記事の取捨ということになろう︒その理由については後に検討することとして︑次項では

十一 はいかなる本文によってこれらの記事を補ったのか︑ということを検証しておきたい︒

§

2 十一行古活字本の依拠本文

十一 はいかなる本文によってこれらの記事を補ったのか︒このことについてはすでに村上氏が﹁十一行本が増補に使用

した本文は穂久邇文庫本 ・ 竜門本に近い本文﹂ と指摘される

ところではあるが︑ 巻八の増補記事部分 ︵前掲 C ︶ について

10

あらためて確認してみたい︒以下︑ 十古 は当該記事を持たないので対校から省き ︑十二・寛文 については 十一 と同文であ

るのでこれを略してある︒

a  万法   ふねのはしめはむかしくわうていの×ときし・うといふけきらんありて大・かうといふうみをへたてゝせむへ

彰考   船・のはしめはむかし黄・・帝・の×時・しゆふといふけきしんありて大・かうといふ海・をへたて×せむへ

(17)

九六

南葵   ふねのはしめはむかしくはうていの御時・しゆふといふけきしんありて大・かふといふうみをへたて×せむへ 穂久   ふねのはしめハむかしくわうてい×御ときしゆふといふけきしんありて大・かうといふうミをへたて×せむへ 十一   舟・のはしめはむかしくわうていの御ときし・うといふけきしん有・ておほかうといふ海・をへたて×せむへ b  万法   きやうもなかりけりこゝにくはてきとて×しんかありていけのみきはにたゝすみみつのうへを見るに××××

彰考   きやう×なかりけり爰・にくわてきといふもの×あり×いけのみきわにたゝすみ水・のうへ×なかむれはおり 南葵   きやう×なかりけりこゝにくわてきといふしんかあり×××××××××××××××××××××××おり 穂久   きやう×なかりけりこゝにくわてきといふしんかあり×××××××××××××××××××××××おり 十一   きやう×なかりけりこゝにくわてきといふしんかあり×××××××××××××××××××××××おり c  万法   ××××××××××××××××××××やなき×一はなみにちりうく又くもといへるむし×××××××

彰考   ふし秋・のすゑなる×にさむき嵐・・にちる柳・・の一は水に浮・・は×又くもといへる虫・あり是・もこく 南葵   ふし秋・のすゑなりしにさむきあらしにちるやなきの一は水にうかへるに又くもといふ×むし××これもこく 穂久   ふし秋・のすへなりしにさむきあらしにちる柳・・の一は×××××××××××××××××××××××

十一   ふし秋・のすゑなる×にさむきあらしにちる柳・・の一は×××××××××××××××××××××××

d  万法   ×××××××その一は×××にのり××××× × ××××××××××××××××××××××××

彰考   うにおちけるか此・一はの上・にのりつゝ次第・〳〵にさゝかにのいとはかなくも柳・・の葉の××××××

南葵   うにおちけるか此・×はのうへにのりつゝしたひ〳〵にさゝかに×いとはかなくもやなきのはのふきくる風に

(18)

九七 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 穂久   ×××××××××××のうへにのりつゝしたひ〳〵にさゝかにのいとはかなくもやなきのはの××××××

十一   ×××××××××××の上・にのりつゝしたい〳〵にさゝかにのいとはかなくもやなきのはの××××××

e  万法   ××××むかいにあかりけるを見て××××××××××××××××××××××××たくみてふねをつく 彰考   ××××みきわによりし秋・きりの立・よるくものふるまひをけにもと思・ひ×××よりたくみて舟・を作・

南葵   さそはれみきはによりし秋・きりのたちくるくものふるまい×けにもとおもひそめしよりたくみてふねをつく 穂久   ××××ミきハによりしあききりのたちくる雲・のふるまひ×けにもと思・ひそめしよりたくミてふねをつく 十一   ××××みきはによりし秋・きりの立・くる雲・のふるまひ×けにもと思・ひそめしよりたくみてふねをつく f  万法   りけり大・かいをやすくわたりて×××××××××御よをおさめ給・ふこと一まん八せんさい×なり

彰考   りつる大・かうをやすく渡・り×けきしんをたいらけ御代をおさめ給・ふ事・一万・八千・歳・×也・

南葵   らせ×大・かうをやすくわたり×しゆう×をたいらけ御代をおさめ給・ふ事・一万・八千・さい×なり 穂久   らせ×おほかうをやすくわたり×しゆふ×をたいらけ御代をおさめたまふこと一まん八千・さい×なり 十一   らせ×おほかうをやすく渡・り×し・う×をたいらけ御代をおさめ給・ふ事・一万・八千・さいとなり  

︵巻八・舟の始まりの事︶

諸本を対校してみると︑ b のブロックのあたりから︑ 法・彰 の本文と 十一 の本文とは離れること︑ そして︑ 南葵

穂久 のうち︑ c 〜 d のブロックにかけて 穂久 で生じている脱 文 を︑ 十一 が継 承していることが解る︒ また︑ d ブロックの

南葵 に見える独 自 異 文は他に受け継 がれていない︒ やはり 十一穂久 系 の 本 文 に 基 づいて 増 補 を 行 ったことが 確 認 できる ︒

なお︑ 穂久 で生じた脱 文というのは︑ 前 節に指 摘した︑ ﹁柳の一 葉 水に浮かべるに︑ 又 蜘 蛛 といふ虫︑ これも虚 空に落ち

(19)

九八

けるが︑ この葉の上に乗りつゝ﹂ という部分 ︵傍線部︶ で ︑﹁葉﹂ 字による目移りであろうが︑ ここは文脈を追う上で重要

な字句であり︑この部分を欠くことによって︑文意不通とまではいかなくとも︑説明不足になる感は否めない︒しかしこ

の部 分について︑ 十二 をはじめ製版本では︑ さらなる補訂を行っていない︒ つまりこのことは︑ ﹃曾我物語﹄ において︑ 他

本を参照の上で記事の増補・修訂が行われたのは︑ 十一 までであったということも示しているのである︒

§

3 十一行古活字本の記事取捨

先述のように︑ 十一 は︑ 穂久 系の本文を参照しながら﹁舟の始まりのこと﹂を増補し︑竹取説話および西行和歌までを

取り込んだ ︒しかし ︑望月小太郎の和歌褒賞譚は採ることをしなかった ︒ここであらためてその採録場面 ︵ 三

§

1 ・引

用 C ︶を見てみると ︑この記事の後に ︑﹁ 祐経を射んとせし事﹂が続いていき ︑その冒頭には梶原景季の和歌褒賞譚が載

る︒ 引 用 C の終盤︑ 二重傍線部 ﹁是も ﹂ と あ る の は ︑ 望月小太 郎が和歌に よ っ て褒賞を得た話に引き続い て ︑ 梶原景季も ︑

という文脈が存在したことの痕跡である︒それでは︑なぜ 十一 は望月小太郎の和歌褒賞譚を採らなかったのだろうか︒

十一 ︵及び 十古 ︶には︑和歌褒賞譚が他に三つ見られる︒

ア     大将殿 ︑景季を召して ︑﹁ 昨日 ︑浅間野の雨はさておきぬ ︒又三原野の雨こそ無念なれ ︒歌一首﹂と仰せ下されけれ

ば︑源太承りて︑とりあへず︑

   昨日こそあさまはふらめ今日はたゞみはらなきたまへ夕立の神

と申しければ︑鎌倉殿︑御感のあまりに碓氷の麓五百余町の所をぞ賜りける︒鳴る神もこの歌にやめでたりけん︑すな

はち雨はれ風やみければ︑いよ〳〵源太が面目︑これにはしかじとぞ人々申し合はれけり︒君も︑まことに御こゝろよ

げにわたらせ給ひければ︑御前祗候の侍ども︑御眦にかゝらんと思はぬ者はなかりけり︒

  ︵巻五・三原野の御狩の事︶  

イ     さても御狩の人々は︑日の暮るゝをも時の移るをも知らずして狩りけるに︑午の刻ばかりに︑狐鳴きて北をさして飛

び去りけり︒ 人 々これを留めむとて︑ 矢 筈 をとりて追つかけたり︒ 君 御 覧 ぜられ︑ 彼らを召し返し︑ ﹁ 秋 野の狐とこそい

(20)

九九 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化 へ ︑夏の野に狐なく事 ︑不思議なり ︒誰か候 ︑歌よみ候へ﹂と仰せ下されければ ︑祐経承りて ︑﹁ まことに源太が歌に

は︑なる神めでて雨はれ候ぬ︒これにも歌あらば苦しかるまじ︒誰々も﹂と申されければ︑大名・小名︑我も〳〵と案

じ︑詠じけれども︑よむ人なかりけり︒こゝに︑武蔵国の住人愛甲三郎︑いだけだかになり浮かべる色見えければ︑源

太左衞門︑ ﹁いかさま︑愛甲がつかまつりぬと見えて候︒はや〳〵﹂と申ければ︑やがて︑

   夜るならばこう〳〵とこそなくべきにあさまにはしる昼狐かな

と申したりければ︑ 君聞こし召して︑ ﹁神妙に申た り︒ まことに狐に仰せて︑ 吉凶あるべからず﹂ とて︑ 上野国松井田三

百余町をぞ給ける︒

 

  ︵巻五・三原野の御狩の事︶

ウ  ︵前掲・景季︶   夏草のしげみが下をゆく鹿の袖の横矢は射にくかりける

 

  ︵巻八・祐経を射んとせし事︶

ア・イは︑三原野の狩り場において︑頼朝に求められて御家人たちが詠進する話である︒詠み手のひとりは梶原源太景

季︑もうひとりは愛甲三郎季隆である︒そしてウは先述の通り富士野の狩り場における話で︑詠み手は梶原景季である︒

梶原平三景時 の 嫡男景季 についてはここで 説 明 するまでもないだろう ︒ 愛甲三郎季隆 について少し解 説を加えておくと︑

この人物は︑ ﹃吾妻鏡﹄ によれ ば弓の名手として知 られ︑ 畠山重忠をその反乱時に射落 としたとされる人物である︒ 近 世の

﹃英雄百人一首﹄ ︵天保一五年︵一八四四︶刊︶にも採り上げられており︑後代にも一定の知名度を保ったと思われる︒

一方︑望月小太郎なる人物は伝未詳である︒信濃国の御家人として望月氏は確認でき︑仮名本﹃曾我物語﹄の他の場面

にも登場する︒ しかし︑ 望月氏を含む一族である滋野氏系図等

において ﹁小 太 郎 ﹂ は見いだせない︒ 同 系 図 によれば︑ ﹁小

11

太郎﹂は︑同族の海野氏に用いられる号であり︑望月氏は﹁三郎﹂と号することが多いようである︒そうした混同によっ

て人物が曖昧になってしまったことや︑後代における知名度が︑この話の取捨の要因として挙げられよう︒

また︑望月小太郎の和歌褒賞譚の内容からも︑採られなかった理由が考えられる︒この歌は︑頼朝が詠みかけた下の句

に︑ 誰か上の句をつけられないか︑ というところから始まっている︒ ﹁鷹の尾という地なのに雉 子が鳴いたぞ﹂ という頼 朝

(21)

一〇 〇

の句に︑望月が﹁越後の鵜川に鮎が住むという例もありますから﹂と付ける︑地名に掛けた戯れ歌という着想が︑愛甲三

郎のものと酷似していたことも挙げられよう︒なお︑頼朝が詠みかけた句を継ぐという構造を持つ和歌褒賞譚は︑真名本

には存在した︒しかし︑ 十古 以降の諸本ではそうした類は見られなくなる︒そこに︑頼朝を如何に描くかという問題も見

出せようが︑そのことについては稿をあらためたい︒

ともあれ︑こうしたことから︑ 十一 は望月小太郎の和歌褒賞譚を採らなかった︒船の由来については補った︒そしてそ

の取捨は︑ 後 の 十二 ︑ そして流布本へと継承さ れ た︒ ﹃曾我物語﹄ は 数多くの故事や由来譚を含むが︑ 十一 の増補は︑ そ う

した傾向の延長線上にあり︑同時にそうした傾向を補強したとも言えるのである︒

おわりに

以上︑煩雑な考察を重ねてきたが︑ 十一 の伝本としての意義についてまとめておきたい︒

﹃曾我物語﹄ と い う 作品を古活字版とい う新しい形態で版行し たとい う点において ︑ 十古 の意 義は言うまでもないが︑

は︑先行する 十古 における誤謬の訂正を図り︑記事の出入りをほぼ完了させ︑目録︑章段名等の形式・体裁を整えた伝

本であることが確認できた︒ 十古 の単なる改版ではなく︑他の伝本を参観しつつ記事を取捨することによって︑意図的な

本文の改変を行った伝本であった︒このことはすなわち︑仮名本﹃曾我物語﹄の本文流伝において︑最終的な改作が行わ

れた伝本であるとも言える︒そしてその形が︑後の流布本の祖型となった︑つまり︑後代に最も流布した﹃曾我物語﹄の

形状の起点となった重要な伝本と言えるのである︒

(22)

一〇 一 古活字版﹃曾我物語﹄の本文変化

  1 ︶  ﹃古活字版之研究﹄ ︵安田文庫︑昭和十二年︶及び﹃古活字版之研究 増補版﹄ ︵日本古書籍商協会︑昭和四十二年︶ ︒

2 ︶  ﹃曽我物語の基礎的研究﹄ ︵風間書房︑昭和五十九年︶ ︒

3 ︶  前 掲 書︵注

2 ︶︑一九九ページ ﹁ 十一行古活字版 ︵ ロ本︶ ︵ 赤木文庫蔵本︶ ﹂に該当する ︒大きさ ︑丁数等 ︑修正すべき点は特に ないが︑ 現状との相違点を記すならば︑ ﹁その他﹂ 項に ﹁帙入り︒ 題箋⁝﹂ とあるが︑ 現状では題箋はなく︑ ﹁曾我物語   慶長中刊

古活字版十一行十二冊﹂と箱に直書きされている︒また︑本文には巻一を中心に︑墨による濁点および読点が認められる︒

4 ︶  以下はあくまでも数値による処理であるが ︑ 十古 を底本とした日本古典文学大系 ﹃ 曾 我物語﹄では ︑頭注で ﹁ 諸 本により改め

る﹂もしくは﹁諸本により補う﹂として底本を改めた箇所が

275 か所ある︒そのうち︑ 十一 で修正できる箇所は

214 か所︵

78 %︶ ︑

において修正できる箇所が

229 か所︵

83 % ︶にのぼる︒ 十一十二 との差分

15 か所はつまり︑ 十古 の誤謬を 十一 までは受け継ぎ︑

十二 において修 正 された 箇 所 ということであり︑ 十古十二 との差 分

46 か所は︑ 古 活 字 本 三 種 において異 同 はなく︑ 製 版 本に至っ

て修正された箇所ということになる︒

5 ︶  ﹃曽我物語︵東大本︶と研究﹄ ︵未刊国文資料刊行会︑昭和三十九・四十一年︶解説︒

6 ︶  前掲書︵注

2 ︶︑ 一六四ページ︒

7 ︶  本稿における底本は︑巻一に一丁分の本文脱がある︒

8 ︶  ﹃日本古典文学大辞典﹄ ︵岩波書店︑昭和五十八年︶ ﹁曽我物語﹂項など︒

9 ︶  この部分においては︑ 望月氏による鵜川荘支配に ﹁今に知行相違なし﹂ という記述と重ねて︑ この説話の成立時期について言及

することもであるが ︑それは今後の課題としたい ︒なお ︑頼朝と望月の詠んだ歌と類似する歌が ﹃ 東講商人鑑﹄ ﹃ 白河風土記﹄に

見える︒

10 ︶  前掲書︵注

2 ︶︑第二編・第八章所収﹁巻八の版本の本文│特に十一行古活字本 について│﹂ ︒

11 ︶  ﹃続群書類従﹄七上所収﹁滋野氏系図﹂及び﹁信州滋野氏三家系図﹂ ︒

参照

関連したドキュメント

上記の2つの例から言えることは、「資料や文章の中から自分が必要とする事柄をきちんと読み取 る。

 さて、本書は 4 部構成となっている。第一部において םחנ

である︒宿泊者の食事のみであれば十分であるが︑昼に通行者に握

課題の材料を手渡すとき、少しタイミングがず..

(全国社会福祉協議会( 2008 )「社会福祉施設の 人材確保・育成に関する調査 報告書」 p.17 /以 下「全社協調査」( 2008 )とする

策移民の完成を助け︑あるいは将来の移民地を管理し︑あるいは交通線を確保し︑

で、はじまっているために混乱が生じるという 1 したがってこの名称変

エネルギーの利用は、 それを使用する施設や設備、 システム、 プロセス、 要員を離れて存在..