労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包 摂」 : 『〈帝国〉』における「規律社会から管理 社会への移行」をめぐって
著者 向井 公敏
雑誌名 同志社商学
巻 60
号 3‑4
ページ 19‑53
発行年 2008‑12‑15
権利 同志社大学商学会
ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007393
労働力の再生産と
「資本のもとへの労働の実質的包摂」
──『〈帝国〉』における「規律社会から管理社会への移行」をめぐって──
向 井 公 敏
蠢 問題の所在
──『経済学批判要綱』vs『〈帝国〉』──
蠡 現行『資本論』体系の理論的「空白」
──レイゾニックの問題提起──
1 家父長制的労働者家族の存続 2 大衆的教育システム
3 資本主義的生産諸関係への労働者階級の政治的統合 蠱 労働力の再生産の資本のもとへの「形式的包摂」
──レイゾニックの「資本主義システム」とフーコーの「規律社会」──
1 労働力の再生産の社会的管理とレイゾニックの「資本主義システム」
2 市場社会のイデオロギーとフーコーの「規律社会」
3 労働力の再生産の間接的統制形態としての「形式的包摂」
蠶 労働力の再生産の資本のもとへの「形式的包摂」から「実質的包摂」へ
──労働力の再生産の間接的統制から直接的統制へ──
1 市民社会の衰退
2 戦後の規律的体制の確立と1960ー70年代の危機 3 「生権力」による労働力の再生産の「実質的包摂」
蠹 結びに代えて
──コミュニズムの可能性?──
Ⅰ 問題の所在
──『経済学批判要綱』vs『〈帝国〉』──
前稿で述べたように,マルクスは『経済学批判要綱』において,とりわけそこでの相 対的剰余価値論において,19世紀のイギリス資本主義における資本・賃労働関係とい うきわめて制約された現実──M・ドゥ・ブルイのいわゆる「部分的賃労働関係」──
から出発しながらも,同時に,卓越した想像力によって,資本主義的生産の発展そのも のがたんに生産圏域のみならず消費圏域の量的・質的拡大を必然的に生み出さざるをえ ないということ,したがってまたそれによって資本主義的生産に先行する労働者の伝統 的な生活水準を一新し,まったく新たな欲求の体系と欲求の主体とを創造する「資本に よる一つの社会段階の生産」が不可避であることを予言的に提示していたといえよ
1
う。
(155)19
前稿との重複を厭わずその要旨を再録すれば,以下の通りである。
第一に,『資本論』での労働力の価値規定を制約し続けてきた,資本主義的生産に先 行し,その前提条件となっていた労働者の伝統的な「必要生活手段の平均範
2
囲」を根本 的に一新する「新たな使用価値の発見と創造」。すなわち,「諸物の新たな使用的属性を 発見するための全自然の探究,あらゆる異郷の風土・地方の生産物の普遍的交換,自然 諸対象に新たな使用価値を付与するような,それらの新たな加工(人工的
3
な)。」 第二に,同様にまた伝統的な「必要欲望の範
4
囲」を越えてたえず拡大していく「新た な欲求」の生産,したがってまたそうした「新たな欲求」の主体としての人間の生産。
すなわち,「社会そのものから生じる新たな欲求の発見・創造・充足。社会的人間のあ らゆる属性の開発と,可能なかぎり豊富な属性・連関をもつがゆえに可能なかぎり豊富 な欲求をもつものとしての,社会的人間の生産,……これも同様に,資本にもとづく生 産の条件なのであ
5
る。」
第三に,まさにその意味で『要綱』におけるマルクスにとって,「資本による一つの 社会段階の生産」とは,たんに資本の生産過程における生産諸力のたえざる発展と革新 にとどまらず,労働者の伝統的な生活様式の根本的な一新──資本の価値増殖の要求に 照応するまったく新たな欲求の体系と欲求の主体との創造──をも意味するものにほか ならなかったといえよう。そしてまたこのような意味での「資本による一つの社会段階 の生産」こそが,マルクスにとって「資本の偉大な文明化作用」というべきものであっ たのである。「資本はこのような自己の傾向に従って,自然の神化を乗り越えて突き進 むのと同様に,もろもろの民族的な制限および偏見を乗り越え,既存の諸欲求の,一定 の限界内に自足的に閉じこめられていた,伝来の充足と,古い生活様式の再生産とを乗 り越えて突き進む。資本は,これらいっさいにたいして破壊的であり,たえず革命をも たらすものであり,生産諸力の発展,諸欲求の拡大,生産の多様性,自然諸力と精神諸 力の開発利用ならびに交換を妨げるような,いっさいの制限を取り払っていくものであ
6
る。」
────────────
1 拙稿「労働力の再生産と失われた〈賃労働〉の部──プラン問題再考──」『同志社商学』第57巻第6 号,2006年3月,203−205ページ参照。
2 Marx, K.,(1962)Das Kapital, Bd. 1,MEW,Bd. 23, Berlin, Diez Verlag, S. 185.〔大内兵衛・細川嘉六監訳
『マルクス=エンゲルス全集』第23巻,大月書店,1965年,224ページ。〕なお同訳書には原書ページ が付されているため,以下では訳書ページは省略する。
3 Marx, K.,(1958)Grundrisse der Kritik der Politischen Okonomie,Berlin, Diez Verlag, S. 312.〔高木幸二郎 監訳『経済学批判要綱』第2分冊,大月書店,1962年,336−337ページ。〕(MEGA 蠡/1.2, Berlin, Diez
Verlag, 1981, S. 321.〔資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』2,大月書店,1993年,16
ページ。〕)なお両訳書ともそれぞれ原書ページが付されているので,以下では訳書ページは省略する。
また訳文は適宜変更している。
4 Marx, Das Kapital, Bd. 1,MEW, Bd. 23,op. cit.,S. 185.
5 Marx,Grundrisse,op. cit.,S. 312−313.(MEGA蠡/1.2,op. cit.,S. 322.)
6 Ibid.,S. 313.(Ibid.)
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20(156)
だが,ここに見られるような,19世紀中葉にマルクスが『要綱』で予言的に提示し た,労働者の伝統的な生活様式を一新し,資本の価値増殖の要求に照応するまったく新 たな欲求の体系と欲求の主体を創造する「資本による一つの社会段階の生産」こそ,20 世紀後半から今日に至るまでのあいだにわれわれが目の当たりにしてきた資本主義の歴 史的変容そのものではないだろうか。まさにその意味で
A・ネグリならいうであろ
う。「マルクスが未来として眺めたものは,われわれの時代なのであ7
る」,と。
しかしながら,少なくともこれまでのところわが国の伝統的なマルクス経済学は,戦 後の数十年にわたるこうした資本主義の歴史的な変容にたいして全く無力であったとい えよう。理由は明白である。前稿でも見たように,マルクスが「賃労働」についての固 有の考察を欠いたまま『資本論』で
19
世紀イギリス資本主義の「部分的賃労働関係」という現実に即して与えたいわゆる窮乏化法則のドグマに固執しつづけるあまり,『要 綱』でマルクスが予言的に提示していた新たな欲求の体系と欲求の主体の創造という
「資本による一つの社会段階の生産」の解明を不可能にしてきたからである。
これに対して,わが国のマルクス経済学の停滞をよそに,1970年代以降の西側欧米 諸国では,『資本論』における窮乏化法則をはじめとする「部分的賃労働関係」のドグ マにとらわれない,戦後の資本主義社会の変容についての大胆な分析が数多く試みられ てきたといって過言でないであろう。管見のかぎりでいえば,第二次世界大戦後の先進 資本主義諸国に共通して認められる資本主義の歴史的変容を,19世紀の生産の時代に 続く消費の時代の出現として描き出し,しかもそれが,たんに戦後の好況期の一時的な 消費の増大の結果ではなく,20世紀における労働力の再生産の構造的変化の産物とい うべきものであり,まさにその意味でマルクスのいう「資本による一つの社会段階の生 産」の到達点にほかならないことを直感的にであるが最初に指摘したのは,1970年の
『消費社会の神話と構造』における
J・ボードリヤールであろう。
たとえばボードリヤールは現代の消費社会論の古典ともいうべき同書において,消費 が「個人的レベルでの欲求の無秩序や偶然に委ねられている」とする今なお流布されて いる消費についての通説的見解を排し,むしろ「集団統合と社会的管理」の「新しい特 殊な様
8
式」としての消費社会というまったく新たな観点から,20世紀後半の先進資本 主義諸国における消費社会の出現の意味を次のように言い表している。
「現在行われている体系的で組織された消費に対する訓練が,実は
1
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20
世紀における等価物であり────────────
7 Hardt, M., Negri, A.,(2000)Empire, Cambridge, Massachusetts, Harverd University Press, p. 364.〔水島一憲 他訳,A・ネグリ,M・ハート『帝国』以文社,2003年,455ページ。〕
8 Baudrillard, J.,(1970)La societe de consommation, ses mythes, ses structures, Editions Denoel, p. 114.〔今村 仁司・塚原史訳,J・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店,1979年,100−101ペー ジ。〕
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (157)21
延長にほかならないという事実は理解されていない。生産のセクターで
19
世紀に起っ た生産力の合理化という同一の過程が20
世紀に入って消費のセクターで一つの到達点 に達するのである。労働力として大衆を社会化した産業システムはさらに前進して完成 されねばならなかったし,消費力として彼らを社会化(つまりコントロール)しなけれ ばならなかった。消費するしないは自由であった戦前の少額貯蓄者や無統制な消費者 は,このシステム内では御用済みなのである。われわれは新しい時代に入った。決定的な人間的〈革
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命
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〉が苦難に満ちた英雄的生
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産
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を克服して幸福な消
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時
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を産み出し,人間とその欲望の復権がついに可能になっ たのだ──消費のイデオロギーの全体がわれわれにそう思いこませようとしているが,
現実はまったく異なっている。生産と消費は,生
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産
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のことなのであ
9
る。」
ここに見られるようなボードリヤールの直感的洞察は,1976年にレギュラシオン派 の代表的論者である
M・アグリエッタによって,戦後資本主義のもとでの「社会的労
働力の再生産」の歴史的変容として,したがってまた「個人的消費行動でなく,労働者 階級の存在条件の確立と変10
容」──まさにその意味で
19
世紀の「部分的賃労働関係」にたいして
20
世紀における「賃労働関係の完全な実現を表現するような新しい消費様 式の生11
産」──として再定義され,資本主義的諸商品の大量生産=大量消費体制として の内包的蓄積体制,もしくはイタリアのマルクス主義者グラムシに由来するフォーディ ズムという名の下に厳密に定式化されたことは周知の通りであり,今日ではわが国にお いても広く流布され,現代資本主義分析に無視しがたい影響を与えつづけているといっ て過言でないであろう。
とはいえ,本稿は以上見たような彼らの消費社会論や現代資本主義分析に屋上屋を架 すことを目的とするものではない。本稿の目的は,むしろ,ボードリヤールの消費社会 論やレギュラシオン派の賃労働関係論を,戦後資本主義のもとでの労働力の再生産──
先述のネグリにならっていえば主体性の生産──の歴史的変容という観点からとらえ返 すことにあるといってよい。一言でいえば,「プ
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生
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産
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」 として,である。実際,ネグリが
M・ハートとの共著『
〈帝国〉』で繰り返し主張して いるような,今日のグローバリゼーションのもとで,伝統的な労働者家族や国民国家の 衰退の結果として出現しつつある新たな社会的主体としてのマルチチュードこそ,マル────────────
9 Ibid.,p. 115.〔同,102ページ。〕
10 Aglietta, M.,(1997)Regulation et crises du capitalisme, Paris, Editions Odile Jacob(edition originale
1976),p. 177.〔若森章孝・山田鋭夫・大田一廣・海老塚明訳,M・アグリエッタ『資本主義のレギュ
ラシオン理論』大村書店,1989年,171ページ。〕 11 Ibid.,p. 97.〔同,98ページ。〕
12 Hardt, Negri,op. cit.,p. 269.〔ネグリ,ハート,前掲,349ページ。なお傍点部分は原文イタリック。以
下同じ。〕
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22(158)
クスが『要綱』で予言的に提示していた,「資本による一つの社会段階の生産」によっ て産み出される新たな社会的主体を,21世紀の今日において具現するものとはいえな いだろう
13
か。
その意味で本稿は,20世紀後半以降の現代資本主義の歴史的変容のもとでの新たな 社会的主体としてのマルチチュードの出現という,マルクス以後の,否,より正確には
1968
年以後のマルクス主義にとって無視することのできないネグリとハートの諸命題 を手がかりとすることで,『要綱』のマルクスが予言的に提示しながら,現行『資本論』には完全に欠落している労働力の再生産という理論領域を現代的な視点から再構成しよ うとするものである。だが,その際,われわれが着目するのは,ネグリとハートが今日 の労働力の再生産の歴史的変容を,かつて
M・フーコーが示唆し,その後 G・ドゥル
ーズによって明示的な表現を与えられた「規律社会から管理社会への移行」として論じ ているということであり,さらにはまたこの「規律社会から管理社会への移行」を,『資本論』でのマルクスの概念を用いて「資本のもとへの労働の形式的包摂」から「資 本のもとへの労働の実質的包摂」への移行として表現していることであ
14
る。結論からい えば,われわれは前者についてはネグリとハートの主張に共鳴するものであるが,後者 については,強い違和感を抱かざるをえないであろう。なぜなら,少なくとも『資本 論』を見るかぎり,そこでの「資本のもとへの労働の形式的包摂」から「資本のもとへ の労働の実質的包摂」への移行は,直接にはもっぱら工場内における労働過程の統制を めぐって提起されていたからであり,そしてその意味からすれば,彼らが「実質的包摂 のプロセスの関するマルクスの洞察は,(規律社会から管理社会への移行という──引 用者)私たちが必要としている問題解決のための鍵を提供してくれるものでな
15
い」と述
────────────
13 もとよりわれわれは,『〈帝国〉』でのネグリとハートのいわゆるマルチチュードを,本文でも見たよう な『要綱』における新たな社会的主体とただちに同一視しているわけではない。両者の相違はいうまで もないであろう。第一に,後者は19世紀イギリス資本主義という歴史的に限定された現実のもとでマ ルクスが予言的かつ断片的にのみ提示したものであるということによって,また第二に,前者がマルク スの予想を超えた20世紀後半から21世紀に至る先進資本主義諸国における労働力の再生産の歴史的変 容に即して与えられているということによって,である。にもかかわらず,われわれが本稿であえて
『〈帝国〉』と『要綱』との対比に固執するのは,この『〈帝国〉』こそが,かつて『マルクスを超えるマ ルクス』において,現行『資本論』体系における「賃労働」の部の不在とその結果としての賃労働につ いての「『資本論』第一部の客体的叙述」(A・ネグリ『マルクスを超えるマルクス』作品社,清水和己
・小倉利丸他訳,2003年,46ページ)を鋭く告発したネグリが,マルクスの「経済学批判」プランで 予定されていながらついに書かれることのなかった「賃労働」の部を現代世界に即して蘇らせようとす るものであり,まさにその意味で21世紀における「賃労働」の部というべきものにほかならないと思 われたからである。
14 Cf. Hardt, M.,(1998)The Withering of Civil Society, E. Kaufman and K. J. Heller(ed.),Deleuze and Guat- tari : New Mappings in Politics, Philosophy, and Culture, Minneapolis, University of Minnesota Press, p. 33.
〔M・ハート「市民社会の衰退」『批評空間』第蠡期第21号,1999年4月,178ページ参照。〕 15 Hardt, Negri,op. cit., p. 255.〔ネグリ,ハート,前掲,332ページ。〕なお,もっぱら労働過程の統制と
いう観点から提起された,マルクスの「資本のもとへの労働の形式的包摂」および「実質的包摂」の含 意については,拙稿「労働過程の統制と内部労働市場──賃労働関係論の再構築に向けて──」(『同志 社商学』第52巻第4・5・6号,2001年3月)を参照されたい。
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (159)23
べているのも当然といってよいからである。その意味で,われわれはさしあたり,マル クスが直接には労働過程の統制という観点から提示した「資本のもとへの労働の形式的 包摂から実質的包摂へ」というテーゼを,労働力の再生産という理論領域に適用可能な ものとするために,迂遠ながら,労働力の再生産という失われた理論領域をネグリやハ ートに先駆けて指摘し,それによってマルクスの「資本のもとへの労働の実質的包摂」
という概念を現代的に再構成しようと試みた
W・レイゾニックの問題提起を考察する
ことから始めることとしよう。Ⅱ 現行『資本論』体系の理論的「空白」
──レイゾニックの問題提起──
前稿でも述べたことだが,マルクスの最初の「経済学批判」プランには確かに存在し ていた「賃労働」の部がついに書かれないままに終わったことは,彼の「経済学批判」
体系に深刻な理論的「空
16
白」をもたらすこととなった。本稿の課題である労働力の再生 産についていえば,こうした理論的「空白」を如実に示しているのが,『資本論』での 次の一文である。
「労働者階級の不断の維持と再生産も,やはり資本の再生産のための恒常的条件であ る。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能に任せておく ことができ
17
る。」
ここに見られるような「資本の再生産のための恒常的条件」である「労働者階級の維 持と再生産」を「安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能に任せておく」という,現 行『資本論』体系における労働力の再生産についての理論的「空白」は,周知のよう に,1970−80年代の欧米諸国のマルクス主義フェミニストによって,資本制生産のもと での家父長制家族の存続──男女の性別分業の固定化──を隠蔽するものであるとして 呵責ない批判の的となってきたといえよ
18
う。だが,こうしたマルクス主義的フェミニス
────────────
16 Himmelweit, S.,(1991)Reproduction and Materialist Conception of History : A Feminsit Critique,Carver, T
(ed.),The Cambridge Companion to Marx,Cambridge, Cambridge University Press, p. 202.
17 Marx, Das Kapital, Bd. 1,MEW, Bd. 23,op. cit.,S. 598.
18 たとえば,「資本制発展に関するマルクスの理論は,〈空白の場〉拡大の理論である。……資本はただ,
だれがその場を埋めるのかに関係なく,これらの場をつくり出してきたが,階級,労働予備軍,賃労働 者といったマルクス主義的カテゴリーは,なぜ特定の人々が特定の場を占めるのかを説明していない。
どうして女性が家庭の内外で男性に従属するのか,どうしてその反対でないのかについて,何の手がか りも提供しない。マルクス主義的カテゴリーは,資本制それ自体と同様に,セックス・ブラインドであ る」(Hartmann, H. I.,(1979)The Unhappy Marriage of Marxism and Feminism : Toward a More Progressive Union,Capital and Class,no. 8, p. 7−8.〔H・ハートマン「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」,
L・サージェント編『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』田中かず子訳,勁草書房,1991年,
所収,42ページ〕)と,いうように。もっともその際,今日の家父長制家族の存続が,資本家と男性労 働組合員の共謀によるものとするハートマンらの主張は,われわれにはとうてい受け入れ難いであろ う。なお,こうしたマルクス主義的フェミニストによるマルクス批判については,拙稿「労働力の再生 産と労働者家族の存続」(『同志社商学』第54巻1・2・3号,2002年12月)を参照されたい。
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24(160)
トとは別に,『資本論』における労働力の再生産についての理論的「空白」がマルクス の資本主義的生産様式の理論に深刻な影響を与えていることを明らかにしたのは,W・
レイゾニックである。たとえばレイゾニックは,『資本論』でマルクスが労働過程にお ける資本による労働支配の完成を意味するものとして用いた「資本のもとへの労働の実 質的包摂」という概念に着目しつつ,現行『資本論』における資本主義的生産様式の分 析が,労働力の再生産に不可欠な文化的・政治的諸制度の考察を欠いているためにきわ めて不十分なものに終わっているとして,次のように批判しているのである。
「そこにわれわれは,経済的発展がいかにして労働にたいする資本の支配を生み出し 再生産するかについての意味深い理論を見出す。しかしながらわれわれは,資本のもと への労働の包摂を生み出し,強化し,また/もしくは再生産する際の文化的・政治的発 展の役割についての,い
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19
る。」
ここでレイゾニックのいう資本主義の「文化的・政治的発展」とは,端的に言えば,
資本主義の「経済的発展」の要求に適合的な労働力の再生産を可能にする文化的・政治 的諸制度の発展を指すものにほかならないであろう。まさにその意味で,資本主義的生 産様式がたんに「経済的発展」のみならず,こうした労働力の再生産に不可欠な「文化 的・政治的発展」を含む「資本主義システ
20
ム」として考察されなければならないとする レイゾニックにとって,すでに見たように労働力の再生産の理論的考察を欠落させてい る現行『資本論』における,「資本主義的発展についてのマルクスの強さと限
21
界」は自 ずから明らかであろう。事実レイゾニックは,「労働力と賃金との市場交換を通じて生 じる」「資本のもとへの形式的包
22
摂」に対して,マニュファクチュアに代わる機械制大 工業の発展こそが熟練を解体し,「資本のもとへの労働の実質的包摂」を可能にすると いう,『資本論』第
1
部でのマルクスの労働過程分析を高く評価したうえでなお,次の ように述べているからである。「資本主義的生産様式についてのマルクスの分析の深さは,資本蓄積がますます増大 する資本のもとへの労働の包摂にもとづいているという事実を論証した点に存在してい る。だが,一つの重要な点で,『資本論』におけるマルクスの分析はミスリーディング である。というのも,生産様式の進展を,生産様式がそのなかで発展するより広範な社 会的システムから切り離すことによって,彼は,資本のもとへの労働の包摂を再
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生
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産
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る
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ためには労働過程における剰余価値の領
!
有
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様式だけで充分であるという印象を生み出 しているのであ
23
る。」
────────────
19 Lazonick, W.,(1978)The Subjection of Labour to Capital : The Rise of Capitalist System, The Review of Radical Political Economy,vol. 10, no. 1, Spring, p. 2.(傍点部分は原文イタリック。以下同じ。) 20 Ibid.
21 Ibid.
22 Ibid.,p. 3.
23 Ibid.,p. 4.
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (161)25
だがもしそうだとすれば,レイゾニックのいう「生産様式がそのなかで発展するより 広範な社会的システム」とはいかなるものであろうか。以下ではこの点を,主として本 稿のテーマでもある労働力の再生産に密接に関連する,「文化がそれを通じて発展する 重要な諸制度としての家族や学
24
校」に即して明らかにしてみよう。
1
家父長制的労働者家族の存続第一に,伝統的な家父長制的労働者家族の存続についてである。筆者が以前,前掲拙 稿「労働力の再生産と労働者家族の存続」において明らかにしたように,「すべての人 間を無産賃金労働者にするという資本制の必然により,家父長制は壊滅するという,19 世紀マルクス主義者の予
25
言」にもかかわらず,その後も長期にわたって労働者家族は伝 統的な家父長制家族として存続してきたといえよう。このような資本主義の発展のもと での伝統的労働者家族の存続について,レイゾニックもまた次のように問題を提起して いる。すなわち,独立自営農民や家内制工業の没落によって「生産単位としての家族の 一体性が掘り崩され破壊されつつあった」にもかかわらず,「労働者家族の成員が,現 代の資本主義システムにおいて今なお基本的な制度でありつづけている社会的単位へと 結集することを押し進めたのは何であるのか」,さらにいえば「なぜ労働者家族の社会 的関係が家父長制的なものでありつづけたの
26
か」,と。
結論から言えば,資本主義的生産の経済的要求との関係で決定的な理由とは,伝統的 労働者家族内部の家父長制的ヒエラルキーが当時の紡績工場における労働の監督という 労働過程の統制にとって不可欠な役割を果たしてきたということである。彼はいう。
「私の見解では,家族制生産関係が破壊されつつあった時期に,家父長制,すなわち,
女性や子供への成人男性の支配が存続したことの説明は,それらに取って代わった資本 主義的生産関係の本質の分析から始めなければならない。私の一般的な意見とは,家父 長制的文化は,イギリス綿織物工業の社会的生産諸関係においてきわめて有益な役割を 果たしたということ,すなわち,剰余価値の抽出にとって決定的である労働の監督の手 助けをしたということであ
27
る。」
たとえばレイゾニックは,男性が生理的強さのゆえに相対的に高賃金のミュール紡績 工の職を支配し,女性が低賃金の力織機の織り手であるという
1820
年代に一般的であ った「力の強さと熟練」にもとづく性別分業が,「1830年代に完全に自動化されたミュ ールが導入された後28
も」なぜ存続しえたのかについて,当時の工場内における労働過程
────────────
24 Ibid.,p. 5.
25 Hartmann,op. cit.,p. 17.〔ハートマン,前掲,59ページ。〕 26 Lazonick,op. cit.,p. 7.
27 Ibid.,p. 8.
28 Ibid.
同志社商学 第60巻 第3・4号(2008年12月)
26(162)
の統制という現実に即して次のように述べている。
「1790年代からの(そして実に
20
世紀のイングランドでも)ミュール紡績は,内部 請負制のもとで営まれていた。そこではミュール紡績工は,資本家から出来高賃金を支 払われ,今度はまた継ぎ手や清掃夫として働く……他の労働者──通常は少年少女──を監督していたのである。紡績の生産性は,たんにミュール紡績工による肉体的労働力 の行使だけでなく,継ぎ手や掃除夫に仕事をさせる彼の能力にも依存していたのであ
29
る。」
まさにその意味でレイゾニックによれば,「成人男性がこうした労働の監督を成人女 性より有効的に行うのにふさわしくしているのは,工場に先立つ家庭の家父長制的伝統 と実践」であった。というより,「むしろ資本主義的生産のヒエラルキー関係が,家父 長制的権威を利用することによって,男性に対してミュール紡績という職を保証してい た」というべきであろう。これに対して,「工場における女性は,子供たちと同様監督 される人間であり,監督者ではなかった」のである。こうして,「先資本主義的,先工 場的家族ヒエラルキーに起源をもつ働く女性の従順さや無力さは,いまでは産業資本主 義的企業内部での男性(監督者)への女性の従属によって永続化させられ,それはまた それで,産業資本主義の時代における家族内の従属的地位を強化したのであ
30
る。」
2
大衆的教育システムだが,資本の要求に適合的な労働力の再生産は,先資本主義的文化に起源をもつ伝統 的な労働者家族だけでは十分とはいえなかった。とりわけ工場法による児童労働の制限 によって,国家による大衆的学校教育の普及が急務となったのである。レイゾニックに よれば,「1830年代から国の援助による,そしてついには国営の大衆的学校教育制度が 発展した」が,「その目的は」労働者階級の子供たちに,資本主義的ヒエラルキーにも とづく工場内の規律を受容する「精神的な準備」をさせることにあったといえよう。な ぜなら「資本主義的工場や公的な救貧院と異なって,家族が暮らす家庭は,資本家ない し国家の外部に存在していた」からであり,まさにその意味で,「支配階級は,なによ りも次の世代の労働者が賃労働のために準備を怠らず,施しによって生活しないことを 保証する公的な制度を必要としていたのであ
31
る。」
実際,この問題は,工場法による児童労働の制限に対して
1866
年のマンチェスター 教育協会が表明した次のような疑念のなかに如実に表されているといえよう。「人生の最初の
10
年あるいは12
年において生活や肉体に全く規律が存在しなかった────────────
29 Ibid.,p. 9.
30 Ibid.
31 Ibid.,p. 10.
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (163)27
ときには,子供たちが,鉱山や工場や商店,あるいはその他の仕事でも,秩序だった手 順で素早くそして勤勉に気持ちを落ち着かせ,毎日朝から夕方までを,月曜から土曜ま で持続して働くことが期待されるであろうか?」
これに対してレイゾニックはいう。「大衆的義務教育がその答えだっ
32
た」,と。こうし て,「労働者階級の子供たちは,工場法によって賃労働者から隔離されることによっ て,学校教育システムへと放り込まれたのであ
33
る。」
3
資本主義的生産諸関係への労働者階級の政治的統合最後に,レイゾニックは,チャーチスト運動以来のイングランドの労働組合運動の歴 史を回顧することによって,『資本論』第
1
部第24
章第7
節「資本主義的蓄積の歴史的 傾向」に見られるような,資本による生産手段の独占によって「貧困,抑圧,隷属,堕 落,搾取はますます増大していくが,しかしまた,絶えず膨張しながら資本主義的生産 過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大 してい34
く」というマルクスの周知の命題に対して,次のような異論を対置している。
「歴史が示しているのは,大規模な資本主義的生産の発展とともに,労働者階級が資 本・労働関係に対立して〈訓練され結合され組織される〉という保証はないということ である。どちらといえば,先進資本主義諸国における労働組合も〈労働〉政党も,賃労 働と資本の関係を受容するように労働者を訓練し結合し組織するという機能を果たして きたのである。資本主義的生産諸関係への労働者階級のこうした政治的統合を大いに助 けてきたのは,私的単位となった核家族(two−generations family)や大衆教育システム であった。前者の制度は,労働者相互の社会的責任という領域を可能なかぎり最小の単 位に分断することによって,孤立した家族成員に,外部の世界では資本主義的社会諸関 係に順応する以外の選択をほとんど残さなくしようとするものであり,後者の制度は,
労働者の次世代に資本主義的生産のノルムを教え込み強化しようとするものである。家 族と学校におけるヒエラルキー関係は,将来の労働者を資本主義的生産のヒエラルキー 関係に備えさせるという点で,きわめて重要であ
35
る。」
かくてレイゾニックは,現行『資本論』に特有の労働力の再生産をめぐる「理論的空 白」を,家父長制家族や大衆教育システムといった
19
世紀イングランドにおいて労働 力の再生産を可能にしていた文化的諸制度の考察によって補うことで,いまや次のよう に結論するに至るのである。「資本への労働の包摂は,資本主義的生産にとどまらない。それは資本主義システム
────────────
32 Ibid.,p. 14.
33 Ibid.p. 10.
34 Marx, Das Kapital, Bd. 1,MEW, Bd. 23,op. cit.,S. 790−791.
35 Lazonick,op. cit.,p. 26.
同志社商学 第60巻 第3・4号(2008年12月)
28(164)
を必要としている。労働過程レベルでの資本による労働の領有の成功は,たんに労働過 程においてだけでなく,資本の直接の統制のもとにはないさまざまな諸制度による労働 の適切な再生産を必要としている。それ自体としては理論的にすぎない資本のもとへの 賃労働の形式的包摂が,実際に実質化されたものになることができるのは,このような 労働の再生産によってのみであ
36
る。」
Ⅲ 労働力の再生産の資本のもとへの「形式的包摂」
──レイゾニックの「資本主義システム」とフーコーの「規律社会」──
1
労働力の再生産の社会的管理とレイゾニックの「資本主義システム」以上見たように,レイゾニックは,資本主義的生産の発展を,たんに労働過程におけ る剰余価値の領有といった経済的過程としてでなく,資本主義的生産に適合的な労働力 の再生産を可能にする文化的諸制度をも含んだ「資本主義システム」の発展としてとら えなければならないことを繰り返し強調しているといえよう。だが,もとよりマルクス がこのことに気づいていなかったわけではない。逆である。周知のように,『資本論』
第
1
部第24
章「本源的蓄積」で,マルクスはこのような資本主義的生産に適合的な労 働力の再生産の必要性について次のように明言しているからである。「一方の極に労働条件が資本として現われ,他方の極に自分の労働力のほかには売る ものがないという人間が現われることだけでは,まだ十分ではない。このような人間が 自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも,まだ十分でない。資本主義 的生産が進むにつれて,教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然 法則として認める労働者階級が発展してく
37
る。」
だが繰り返しいうように,「賃労働」についての固有の部を欠いた現行『資本論』体 系は,こうした労働者階級の発展を可能にさせる文化的諸制度についての考察を欠落さ せたままに終わっているといえよう。まさにその意味で,レイゾニックの「資本のもと への労働の実質的包摂」論の最大の功績は,労働力の再生産を資本主義的生産の分析の 外部に放置した現行『資本論』体系の──さらにいえばそれを絶対的なものと見なし続 けたマルクス以後のマルクス経済学の──理論的限界を克服し,それを「資本主義的シ ステム」としての資本主義的生産様式の発展と不可分のものとしてとらえ返した点にあ るといって過言でない。われわれの理解によれば,その意義は以下の三点に要約される であろう。
第一に,われわれが前稿において『資本論』における「資本のもとへの労働の実質的
────────────
36 Ibid.
37 Marx, Das Kapital, Bd. 1,MEW, Bd. 23,op. cit.,S. 765.
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (165)29
包摂」について論じた際に明らかにしたよう
38
に,レイゾニックのいう「労働過程レベル での資本による労働の領有の成功」は,労働と所有の分離によって「一方の極に労働条 件が資本として現れ,他方の極に自分の労働力のほかに売るものがないという人間が現 われる」ということ,さらにいえば「このような人間が」生存のための経済的強制によ って労働市場に登場し,「自発的に自分を売らざるをえない」ということ──要するに 市場を通じての労働支配としての「資本のもとへの労働の形式的包摂」──だけではな お不十分であったといえよう。というのも,前稿でも述べたように,市場における資本 と労働力の交換としての雇用契約に続く労働過程における剰余労働の領有をより確実に し,「資本のもとへの労働の実質的包摂」を真に可能にするためには,労働過程におけ る労働者の労働を統制する労務管理機構の体制を不可欠としていたからである。そし て,その意味からすれば,『資本論』労働過程論の根本的欠陥とは,マルクスがこうし た労働過程の統制という問題を自覚していながら,結局のところ機械制大工業の導入が 熟練労働者の抵抗を打ち砕くことでそれが可能となるとして,考察を打ち切った点にあ るといって過言でないのである。
だが,もしそうだとすれば,われれわれにとってレイゾニックの主張の斬新さとは,
前稿におけるわれわれの主張よりもさらに一歩進んで,マルクスのいう「資本のもとへ の労働の実質的包摂」が,たんに工場内部の労働過程の統制という狭義の経済的問題だ けではなく,それが工場の外部においてもそれを可能にさせる文化的諸制度なしには不 可能であるということを明らかにした点に存在するといえよう。実際,レイゾニック は,「文化という語で,私は人間の諸関係の主体的性格を指している」というが,ここ でいう「人間の諸関係の主体的性格」とは,たとえば,「人々がお互いに対してどうい う態度を取っているか,人々がどのようにしてお互いに考えを伝え合っているか,人々 があれこれの事柄に対してどういう態度を取っている
39
か」を意味するものにほかならな いのである。だがもしそうだとすれば,このことが意味するのは,労働者が「資本主義 的ヒエラルキー関係」を,あたかも「自明な自然法則」のごとく受容するためには,た だたんに工場の内部の規律だけでなく,工場の外部においてもそれを内面化した「社会 的態度,すなわち社会意識の状態が決定的に重要であり」,そしてそれらは「経済の構 造と機能」にとって「付随的ないし偶然的なものではな
40
い」ということであり,さらに いえばそのためには家族や学校といった,「労働者階級の精
!
神
!
的
!
な
!
振る舞い(moral
be- havio
41
ur)
」に規律を与える文化的諸制度──いうなれば工場内の労働統制に関わる労務 管理機構とならぶ,市場の外部に存在する労働力の社会的再生産管理機構とでも呼ぶべ────────────
38 拙稿「労働過程の統制と内部労働市場──賃労働関係論の再構築に向けて──」,前掲,参照。
39 Lazonick,op. cit.,p. 2.
40 Ibid.,p. 5.
41 Ibid.
同志社商学 第60巻 第3・4号(2008年12月)
30(166)
きもの──の存在が不可欠であるということである。
2
市場社会のイデオロギーとフーコーの「規律社会」第二に,このようにレイゾニックの「資本主義システム」の意味するところを,現行
『資本論』体系に欠落した市場の外部における労働力の再生産の社会的管理──いうな れば主体の社会的生産過程──という新たな理論領域の開拓ととらえ返すことによっ て,われわれはそこに,はじめにも見たような『帝国』においてネグリとハートが援用
している
M・フーコーの「規律社会」ときわめて類似した内容を見出すことができる
のである。実際,ネグリの指摘を俟つまでもなく,社会を構成する主体についてのフー コーの諸定義の特徴とは,なによりも,「自己の自律性を精神の形而上学に基づいて根 拠づける絶対的自由を備えた自己構成的な主体への批判から出
42
発」し,「あらゆる主体 は,主観化(主体化)のプロセスの結果であ
43
る」として,「歴史のプロットの中での主 体の構成を釈明できる分析を展開しようとする」点にあるといえるが,まさにこのよう な意味でのフーコーの「主体の形而上学の批
44
判」こそ,すでに見たようなレイゾニック の,市場の外部における労働力の社会的再生産管理機構の考察を欠いたマルクスの「実 質的包摂」論批判と,多くの点でその含意を共有するものと思われるからである。
たとえばフーコーは,1975年の『監獄の誕生』において,「18世紀の哲学者や法学 者」によって,「自然状態」や「基本的人権」や「契約」や「一般意志」といった言説 とともに語り出されてきた「近代ヒューマニズムにおける人
45
間」という概念──われわ れの問題意識に即していえば,アダム・スミス以来の経済学が想定してきた,自由な諸 個人によって構成される市場社会というイデオロギー──に対して,その虚構性を次の ように暴露しているといえよう。
「よくいわれるように,諸個人が構成要素であるとされる社会のモデルは,契約や交 換という抽象的な法律上の形式から借用されている。多分そうであろう。事実
17
世紀 と18
世紀の政治理論は,しばしばこの図式に従っているように思われる。しかしなが ら忘れてはならないのは,同じ時代には,ある権力およびある知の相関的構成要素とし て実際に諸個人を組み立てるための,ある技術が存在したという点である。個人という ものが社会についての《イデオロギー的な》表象の虚構的な原子であることは疑問の余 地がない。だが,それは《規律》と呼ばれる権力のこうした独自な技術学によってつく りだされる一つの現実でもあるのであ46
る。」
────────────
42 A・ネグリ『〈帝国〉をめぐる五つの講義』青土社,小原耕一・吉澤明訳,2004年,185ページ。
43 同,186ページ。
44 同,185ページ。
45 Foucault, M.,(1975)Surveiller et Punir,Paris, Editions Gallimard, p. 166.〔M・フーコー『監獄の誕生−監 視と処罰−』田村俶訳,新潮社,1977年,147ページ。なお訳文は適宜変更している。〕
46 Ibid.,p. 227.〔同,196ページ。〕
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (167)31
ここでフーコーがいう「規律」とは,「服従させられ訓練される身体,《従順な》身体 をつくりだす」ことによって,「一面では,その力を《素質》,《能力》に化して,それ らを増大しようと努めるが,他方では《体力》ならびにそれから結果しうる《強さ》を 反転させて,それらを厳しい服従関係に化
47
す」ものにほかならないであろう。「こうし た服従強制の技術をとおして,新しい客体が組み立てられようとしているのである。
……その新しい客体とは,力を保持し持続の座である自然な身体であり,自ら秩序・時 間・構成要素をそなえる種別化された作業をいとなみうる身体であ
48
る。」そしてそのか ぎりで以下に見るように,フーコーのいう「規律社会」なるものも,レイゾニックのい う,たんに市場を通じての労働支配や工場内における労働過程の統制といった経済的側 面にとどまらず,資本主義的生産のヒエラルキーをいうなれば内面化した労働主体の再 生産を可能にする文化的諸制度をも不可欠とする「資本主義的システム」という概念 と,問題構制を共有するものといってよいであろう。
「西洋の経済的な離陸が,資本の蓄積を可能にした諸方式とともに始まったとすれ ば,伝統的で,儀礼的で,費用がかかり,暴力的な権力諸形態にたいして政治的な離陸 を可能にしたのが,人間たちの蓄積を管理する諸方法であると,多分言うことができる であろう。……実際,人間たちの蓄積と資本の蓄積というこの二つの蓄積は,分離しえ ないのである。すなわち,人間たちを維持すると同時に彼らを有用化することのできる 生産装置の増加なしには,人間たちの蓄積の問題を解決することは可能でなかったであ ろう。逆に,人間たちの累積的な多様性を有用なものにする諸技術は,資本の蓄積の運 動を加速させるのである。……二つの蓄積のそれぞれが他方を可能にし,また必要とし たのであり,一方が他方にとってのモデルとして役だったのであ
49
る。」
だが,それにもましてわれわれにとって注目すべきは,それが,前近代社会における 暴力的な権力諸形態の残滓でも,また伝統的マルクス主義のいう暴力装置としての国家 権力による専制的な強制物でもなく,むしろそれは,たとえば「学校や兵営や施療院や 工場」における「諸規則・諸規程の精密さ,査察の細心の注意をはらった視線,生活お よび身体のごく些細な断片に対する取り締ま
50
り」といったように,近代社会の隅々にま で及んでいる規律の拡大と多様化の所産にほかならないとされているということであ る。だとすれば,フーコーがこの「規律社会」を,監獄における「監視と処罰」をモデ ルとして分析しているとしても,なんら不思議ではないであろう。なぜなら,彼によれ ば,「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい,こうしたすべてが監獄に似かよって
────────────
47 Ibid.,p. 162.〔同,143−144ページ。〕 48 Ibid.,p. 181−182.〔同,158ー159ページ。〕 49 Ibid.,p. 257.〔同,221ページ。〕
50 Ibid.,p. 165.〔同,146ページ。〕
同志社商学 第60巻 第3・4号(2008年12月)
32(168)
もなんら不思議でな
51
い」からである。
われわれにとっていまや,フーコーのいう「規律社会」なるものの意味するところは 完全に明らかとなっているといえよう。実際,すでに見たようにレイゾニックは,市場 における自由な交換を通じての労働支配を意味する「資本のもとへの労働の形式的包 摂」にたいして,「資本のもとへの労働の実質的包摂」を可能にするには,ただたんに 機械制大工業の導入による労働過程における統制だけでなく,資本主義的生産のヒエラ ルキーに適合的な「社会的態度」や「社会的意識」をもった労働者階級を生み出す文化 的諸制度──われわれの言葉でいえば労働力の社会的再生産管理機構──が不可欠であ ると主張していたが,それとまったく同じ含意で,フーコーは近代社会に固有の主体の 社会的生産機構について次のように述べているからである。すなわち,「自由を発見し た《啓蒙時代》」は──したがってまた自由な諸個人という「虚構的原子」によって構 成される市場社会は──同時にまた,工場や家族や学校といった市場の外部における
「きわめて多様な装置や制度」のもとでの「規律をも考案し
52
た」のであり,しかもその 際,こうした「規律」の「基本的な準拠枠(reference)とは,自然状態にではなく一つ の機構の入念に配置された歯車に,原始的な契約にではなく果てしない強制権に,基本 的人権にではなく無限に発展する訓練に,一般意志にではなく自動的な従順さに存在し ていたのであ
53
る」,と。
3
労働力の再生産の間接的統制形態としての「形式的包摂」そればかりでない。われわれは,以上見たようなレイゾニックのいう「資本主義シス テム」やフーコーの「規律社会」を,今日に至るまでの資本主義生産の歴史的変容のな かに位置づけることによって,彼らの主張の現代的意義を再確認することができるであ
────────────
51 Ibid.,p. 264.〔同,227ページ。〕 52 Ibid.,p. 258.〔同,222ページ。〕
53 Ibid.,p. 198.〔同,171ページ。〕まさにその意味でフーコーはいう。「原理上は平等主義的な権利の体系
を保証してきた一般的な法律形態はその基礎では,規律が組み立てる,本質的には不平等主義的で不均 斉な,微視的権力の例の体系によって,細々とした日常的で物理的な例の機構によって支えられてき た」(Ibid., p. 258.〔同,221ページ〕),と。そしてそのかぎりで,すでに見たような労働力の再生産と いう固有の理論領域を欠落させた『資本論』体系の理論的「空白」に対して,近年,マルクスとの関連 でフーコーの『監獄の誕生』を評したS・ルグランが次のように述べているのは,われわれには正鵠を 射たもののように思われる。「すべては,この生産様式が存立しうるのはただ事実上矛盾する二つの傾 向に同時に身を委ねることによってのみであるというように進行するであろう。すなわち,その一つ は,先資本主義的な社会関係と権威の解体に伴う労働の傾向的な解放および増大するプロレタリア化で ある。いまひとつはそれとは反対の傾向,すなわちこの解放・プロレタリア化を……永遠に抑制するこ とを余儀なくさせる傾向である。──なぜならこの反対の傾向は,それなしではプロレタリア化や搾取 ももはや意味を持たない労働力それ自体(主体的な態度,決まった習慣の総体としての)を生産するた めに働いているからである。」これに対して,「彼(マルクス──引用者)が考察していないのは,資本 主義の発展によって生み出された競争の発展とそれゆえまた労働市場の自由化が,それはそれで今度は 資本主義の経済的要請と敵対することがありうるということ,そしてこの自由化の強い抑制が,消滅す る傾向にある旧来の社会形態の残滓ではなく,資本主義的生産様式に内生的な拘束でありうるというこ とである。」(Legrand, S.,(2004)Le marxisme oublié de Foucault,Actuel Marx, no. 36, p. 42.)
労働力の再生産と「資本のもとへの労働の実質的包摂」(向井) (169)33
ろう。というのも,レイゾニックのいう「資本主義システム」は,彼自身認めているよ うに,「19世紀イングランドにおける家族,大衆教育,そして労働運動の歴史的発
54
展」
に即して与えられたものであり,またフーコーの「規律社会」も,ネグリとハートによ って,歴史的には「資本主義的蓄積の第一段
55
階」として位置づけられているからであ る。
この点を明らかにするうえで,われわれにとって注目すべきは,たとえばレイゾニッ クの「資本主義システム」に見られるように,資本は工場内の資本主義的ヒエラルキー を維持するために,それ自体としては先資本主義的社会関係に起源をもつ家父長制的ヒ エラルキーを利用し,また次世代の労働者に資本主義的なヒエラルキーに適合的な社会 意識や生活態度を準備させる大衆教育においても,それを国家の手による大衆教育シス テムに委ねていたという指摘であろう。前稿でも見たように,内部労働市場の成立に先 立つ
19
世紀のイギリスやアメリカ,また日本においても,工場制度の発達以後も工場 内の統制を熟練労働者や請負人に委ねるという内部請負制に代表されるような労働過程 の間接的統制形態が広範に存続してい56
たといえるが,まさにそれと同じ含意で,われわ れはここに見られるような労働力の再生産の社会的システムは,資本主義的生産にとっ て不可欠な労働力の再生産を,家族や学校といった「資本の直接の統制のもとにはない さまざまな諸制度」に委ねていたという意味で,いうなれば労働力の再生産の間接的統 制形態といえないだろうか。さらにいえば,われわれは,労働力の再生産システムを含 めた「資本主義システム」によってはじめて「資本のもとへの労働の実質的包摂」が可 能になるというレイゾニックの主張にもかかわらず,少なくとも労働力の再生産にかん するかぎり,それがいまだ資本の直接的統制によってではなく,家父長制家族や大衆教 育システムによる間接的統制に委ねていたという意味で,レイゾニックのいう「資本主 義システム」──したがってまたフーコーのいう「規律社会」──における労働力の再 生産は,なお「資本のもとへの形式的包摂」にとどまっていたということができないだ ろうか。
もとよりわれわれは,一見些細に思われるこうした表現上の問題に拘泥することで,
レイゾニックの「資本主義システム」論そのものを否定することを意図しているのでは ない。逆である。むしろわれわれの真意は,彼のいう「資本主義システム」における労 働力の再生産を,「資本のもとへの形式的包摂」ととらえ返すことによって,かえって
「資本主義蓄積の第一段階」としての
19
世紀イングランドの「資本主義システム」に固 有の特徴をより明確にすることができると思われるからである。この点で注目すべき────────────
54 Lazonick,op. cit.,p. 1.
55 Hardt, Negri,op. cit.,p. 23.〔ネグリ,ハート,前掲,40ページ。〕
56 拙稿「労働過程の統制と内部労働市場──賃労働関係論の再構築に向けて──」,前掲,304ページ以 下参照。
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