「日満綴方使節」とその作品 : 昭和十四年「東日 小学生新聞」の懸賞「綴方」について
著者名(日) 熊木 哲
雑誌名 大妻国文
巻 34
ページ 143‑159
発行年 2003‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001375/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
﹁日満綴方使節﹂とその作品
||昭和十四年﹁東日小学生新聞﹂
の懸 賞﹁ 綴方 育 ﹂
長 木
寸斤p
はじめに
代表を送る ﹁東日小学生新聞﹂は︑昭和十四年︵一九三九︶六月十七日︵土・第八五二号︶の第一面に︑﹁満洲へ綴方使節
わが社が全国から選抜﹂の三段見出し︵一段十字︑全紙十段構成︶で︑次のような記事を掲げた︵引用に際
私達
の
して
は旧
字体
を新
字体
に改
めた
︒以
下︑
同様
︶︒
皆さんは日満両国が兄弟の国であることを︑よく御存じですね︒新東亜建設の時に当たって︑両国はいよ/\仲よく
手を握らなければなりません︒この度わが社は皆さんに満洲を一層よく知って頂くため︑満鉄鉄道総局と共同主催で︑
文部︑拓務両省︑関東局︑満洲大使館等の後援を得て︑五︑六年生の皆さんから綴方を募集して︑その成績により︑
代表使節を満洲に送って︑各地で見学︑交歓をして頂くことになりました︒規定は次のとほりであります︒
﹁規定﹂のうち︑﹁綴方使節の人数﹂の項には︑﹁綴方当選者男女五名づっ合計十名を満洲見学に派遣﹂とあり︑﹁綴方募
集規定﹂の﹁応募資格﹂は﹁満洲︑支那︑朝鮮を除く全日本の小学五︑六年生の男女﹂とされた︒
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
四
四 四 また︑﹁課題﹂は﹁次のうち適当なる題の一つを選択する﹂とされた︒
ィ︑少年義勇軍を励ます手紙
口︑満洲大陸守備の勇士を慰問する手紙
ハ︑満入学童に送る親善の手紙
ニ︑満洲を思ふ
﹁長さ﹂は﹁四百字詰原稿用紙五枚まで﹂︑締切りが七月五日で︑送り先は﹁東京市丸ノ内
東京
日日
新聞
社事
業部
﹂︒
発 表は﹁七月二十日本紙上﹂とあり︑審査員として︑次のような人物が掲げられた︒
文部省教科書編纂官
石 森
延男氏
満洲
国教
科書
一編
纂官
寺田喜次郎氏
東日大毎小学生新聞顧問
菊 池 寛 氏 久 米
正雄氏
久留
島武
彦氏
安 倍
季雄氏
﹁満洲見学﹂の期間は﹁八月上旬より二十日間﹂︒いわゆる夏休みの期間であり︑﹁団長﹂には﹁相当年齢の婦人教育家で︑
児童引率に適当なる人に依頼す﹂とされ︑東京を出発とする主な見学予定が掲げられた︒
この﹁記事﹂は︑六月二十日︵火・第八五四号︶の第一面では﹁日満綴方使節﹂を見出しとする懸賞募集規定として掲 げられることになるが︑本稿では︑この﹁日満綴方使節﹂とその﹁綴方﹂作品について検討を試みる︒
﹁日満綴方使節﹂派遣の背景
六月
十八
日の
﹁記
事﹂
は︑
二十日には募集要項として︑次のように掲げられた︒
新しい東亜建設の時にあたって︑兄弟国満洲をよく知ることは︑私たちの大切なつとめの一つであります︒この度わ
が杜では︑小学五六年の皆さんからH満洲に関する綴方μを募集して︑その優等者を皆さんの代表使節として満洲へ
送り︑各地を見学して頂くこととなりました︒次の規定によって︑よい綴方をお送り下さい︒
この前文に続いて︑﹁綴方募集規定﹂﹁見学順序﹂が掲載され︑﹁主催﹂として﹁満鉄鉄道総局︑東京日日新聞社︑大阪毎
日新聞社﹂︑﹁後援﹂として﹁文部省・拓務省・関東局・満洲国民政部・同協和会・同大使館﹂が掲げられた︒
この募集規定は︑七月一日︵土・第八六四号︶の第一面に﹁〆切り後四日﹂と再掲され︑その内容は︑
一見
︑﹁
記事
﹂を
﹁募集規定﹂に整理した文面にすぎないともいえようが︑微妙な違いがあるので引用した︒
つま
り︑
﹁記
事﹂
では
︑﹁
皆さ
んに
満洲
を一
層よ
く知
って
頂く
ため
﹂に
代表
使節
を送
ると
いう
もの
であ
った
が︑
﹁募
集要
項﹂
では﹁兄弟国満洲をよく知ることは︑私たちの大切なつとめの一つ﹂とされたことである︒
一節
を取
り上
げる
ので
はな
く︑
全体的に見ればニュアンスの違いに過ぎないと言ってしまえばそれまでであるが︑後者では︑児童にとって﹁兄弟国満洲
をよく知ることは︑私たちの大切なつとめの一つ﹂とされ︑
いわ
ば責
務と
され
たと
いえ
よう
︒
﹁綴
方
L
の募
集期
間中
︑﹁
東日
小学
生新
聞﹂
には
︑﹁
満洲
を一
一層
よく
知っ
て頂
くた
め﹂
に︑
いずれも﹁日満綴方使節のため
に﹂とする︑次のようなキャンペーン記事が掲載された︒
﹁満
洲の
大切
な訳
﹂︵
上︑
下︶
︵本
社東
亜課
長田
中香
苗︶
︵六
月二
十三
日・
金・
第八
五七
号︑
二十
四日
・土
・第
八五
八号
︶
﹁満
洲の
都会
と特
色﹂
︵上
︑中
︑下
︶︵
孝学
武彦
︶
︵六
月二
十五
日・
日・
第八
五九
号︑
二十七日・火・第八六O号︑二十八日・水・第八六一号︶
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
一四
五
一四 六
﹁満
洲の
美し
さ﹂
︵一
1六
︶︵
石森
延男
︶
︵六月二十九日・木・第八六二号1
七月
二日
・日
・第
八六
五号
︑
四日
・火
・第
八六
六号
︑
五日
・水
・第
八六
七号
︶ 田中香苗による﹁満洲の大切な訳﹂においては︑﹁満洲国は︑
ロシ
ヤの
アジ
ヤを
赤化
しよ
うと
する
こと
から
︑
アジ
ヤを
︷寸
る城壁のやうなもの﹂であり︑﹁日本のロシヤに対する防波堤をなしてゐる﹂関係から﹁満洲を守るために︑日本も軍隊を 駐屯せしめて︑日満一体となって満洲を安全に守ってゐる外︑満洲を立派にするやうあらゆる方面から︑
日本が援助を与
へて
ゐる
﹂の
だと
いう
︒ また︑満洲では﹁諸人種﹂が﹁五族協和﹂という方針の下に﹁皆平等に﹂暮らしており︑こうしたことは﹁満洲国﹂が 出来るまではなかったことで︑﹁日本人と満洲人とは︑兄弟の親密な聞がら﹂になり︑﹁農作物や鉱物が色々沢山
Lある﹁世 界的富源﹂とされている﹁広大な土地﹂は︑﹁日満両国協力の下に︑もっと/\開発され﹂︑﹁その将来は驚くほどすばらし いもの﹂である︒﹁満洲と日本の関係が深いやうに﹂︑満洲の小学生は﹁日本の皆さんを兄弟のやうに思ひ毎日日本語の勉 強をして﹂いるので︑﹁満洲の小学生と仲よくして︑互いに助け合ひ︑力づけあって行くことは︑将来の満洲を一層輝かし
いも
のと
し︑
日満両国が益々仲よくなり︑益々発展することになるのであります
L
と結
ぶ︒
つま
り︑
﹁満
洲国
﹂は
︑﹁
ロシ
ヤのアジヤを赤化﹂することに対する﹁防波堤﹂であり︑﹁世界的な富源﹂と呼ばれる資源豊かな広大な土地であり︑言︑つ
こと
ろの
︑
日本
の生
命線
とい
うわ
けで
ある
︒
﹁満洲の都会と特色﹂の筆者︑孝学武彦は﹁東日小学生新聞﹂記者︒﹁満洲国が出来上がった尊い意味ゃ︑切離すことの
出来
ない
︑ 日本と満洲との深い/\関係などは︑もう皆さんもよく御存じ﹂のことだから︑﹁今度は満洲都市の特徴︑満洲 にゐる人たちの気風といったものをお話しませう﹂といういわば﹁満洲﹂の風土案内といったところ︒
﹁満洲の美しさ﹂の筆者︑石森延男は︑前述したように︑懸賞﹁綴方﹂の審査員で﹁文部省教科書編纂官﹂︒六回の連載 は︑﹁満洲の人たちは︑自分と言ふものを自然の中において︑それによく調和させることを︑ちゃんと心得てゐた﹂とする
第一回の﹁満洲服の色と自然﹂をはじめ︑第二回の﹁きれいな夜の星と雲﹂︑第三回﹁楊の実・綿の小人﹂︑第四回﹁勇ま
しい夕立﹂︑第五回﹁枯野原に氷の花びら﹂︑第六回﹁興安嶺は気候の境﹂と︑毎回テlマ毎に書き分けられた︒これも風
土案内といったところであるが︑この地に住み︑肌身で感じ︑目で見て体験した﹁満洲﹂の四季折々が綴られ︑﹁内地﹂に
はない﹁満洲の美しさ﹂が伝わってくるのは︑童話作家としての面目躍如といったところか︒
こうした記事に加えて︑六月二十五日︵日・第八五九号︶には︑第四︑五面の見聞き全紙を使って︑﹁我等の代表を待つ
満洲﹂が十一葉の写真とコメント付で特集されたが︑次の一節はその前文︒
私たちの社が︑今度目満親善の大きな使命を担う︑少年少女の綴方使節を︑満洲へ送ることになりました︒その私
達の代表を選ぶ︑綴方の締切も次第に迫りました︒それに先だち︑まづ紙上で満洲を見学いたしませう︒建国早くも
日清
︑
日本と堅く/\結ばれ︑ます/\栄えて行きます︒しかし
日露︑満洲事変に︑私たちの祖先はその礎となって尊い血を流しました︒今もなほ︑わが移民団や開発隊が︑ 七年︑高梁と大豆の国満洲は︑今や東亜の防共固として︑
伸びゆく満洲国の柱となって活躍してゐます︒
﹁我等の代表を待つ満洲﹂は︑﹁今や東亜の防共国﹂であり︑﹁私たちの祖先﹂が﹁礎となって尊い血を流し﹂た大地であ
る︒その﹁満洲国の柱となって活躍して﹂いるのが﹁わが移民団や開発隊﹂なのだということであろう︒
以上のように︑六月二十三日・第八五七号から七月五日・第八六七号まで︑休刊日を除いて︑十一回連続でキヤンベl
ン記事が掲載され︑その上︑六月二十五日・第八五九号では︑写真による視覚的な感興策が企図されたが︑この﹁我等の
代表
を待
つ満
洲﹂
へ読者を惹起する目論見はどこにあるのであろうか︒ただ単に﹁日満綴方使節﹂への応募を促す環境作
りの手立てであったとは考えられないのであるが︒
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
四 七
四 人
﹁日 満綴 方使 節﹂
の決定
懸賞﹁綴方﹂の締切りは七月五日︑発表は七月二十日の予定であったが︑﹁東日小学生新聞﹂七月十九日︵水・第八七九
号︶には︑﹁日満綴方使節決定の厳重な審査会始る﹂と︑第一次審査の模様が掲載され︑発表が遅れると報じられた︒遅れ
の原因は︑﹁東日管内が九百六篇︑大毎管内が一千四百八十九篇︑合計二千三百九十五篇﹂という応募があり︑第一次審査
として三十六篇を選んだが︑﹁優秀作揃ひで十篇を選ぶことはむづかしく﹂決定までに二︑三日かかるというものであった︒
﹁日満綴方使節選ばれた晴れの十名﹂が発表されたのは︑七月二十三日︵日・第八八三号︶o第二回全紙を使い︑入選十
名の在籍校学年氏名と写真︑使節団長の紹介記事と顔写真︑﹁選者のことば﹂として﹁本社学芸部長久米正雄﹂の選評︑更
に使節の補欠二名の及び佳作十八名の在籍校学年氏名が掲載された︒
審査したのは︑﹁文部図書監修官石森延男︑本紙顧問菊池寛︑同久留島武彦︑同安倍季雄︑本紙学芸部長久米正雄﹂︒﹁綴
方使節﹂を送るとの﹁記事﹂や﹁募集要項﹂に記載されていた審査員のうち﹁満州国教科書編纂官寺田喜次郎﹂の名前
は見えない︒また︑﹁共同主催﹂の﹁満鉄鉄道総局﹂側の審査員も見えない︒﹁満洲国Lは﹁後援﹂であり︑名前を連ねた
にす︑ぎないということであり︑実質は日本の新聞社の﹁主催﹂であったということであろう︒
当選した十名を7日満綴方使節Hの作品﹂の掲載順に挙げてみる︒
﹁満洲を思ふ﹂埼玉県羽生校六年根岸和之助︵七月二十五日・火・第八八四号︶
﹁大陸守備の勇士へ﹂千葉県勝浦校五年狩野重代︵七月二十六日・水・第八八五号︶
﹁満洲を思ふ﹂山梨県高田校六年立川照夫︵七月二十七日・木・第八八六号︶
﹁満洲国のお友達へ﹂東京市柳元校六年小竹八重︵七月二十八日・金・第八八七号︶
﹁満洲の兵隊さんへ﹂宮城県宮校六年丹野富太︵七月二十九日・土・第八八八号︶
﹁少年義勇軍のお兄さまたちへ﹂京都市第二衣笠校五年栗栖静枝︵七月三十日・日・第八八九号︶
﹁少年義勇軍を励ます手紙﹂広島県幸崎校五年阪田光昭︵八月一日・火・第八九O
号 ︶
﹁満入学童に送る親善の手紙﹂門司市丸山松本校五年岡田清子︵八月二日・水・第八九一号︶
﹁満洲を思ふ﹂大阪府箕面校五年栗岡章介︵八月三日・木・第八九三号︶
﹁少年義勇隊を励ます手紙﹂長崎市勝山校六年堤享子︵八月四日・金・第八九三号︶
﹁募集要項﹂に記されていたように︑﹁使節﹂は男女それぞれ五名︑合計十名が選出された︒﹁東日管内﹂﹁大毎管内﹂そ
れぞれ五名ずつであり︑在籍学年も五年と六年とそれぞれ五名ずっ︒五年生が二人の男子と三人の女子︑六年生は三人の
男子と二人の女子︒選考における気配りが推測される人員構成といえようか︒
なお︑引率に当たる団長は﹁わが国における唯一人の女の校長先生︑板橋区志村第一小学校長木内キヤウ先生﹂︒﹁募集
要項﹂には︑﹁相当年齢の婦人教育家で︑児童引率に適当なる人に依頼す﹂とされていた︒発表以前の企画の段階で既に内
定していたかのような印象である︒
以下
︑﹁
H日
満綴
方使
節山
の作
品﹂
を︑
﹁募
集要
項﹂
の課
題順
に検
討す
る︒
﹁ィ
︑少 年義 勇軍 を励 ます 手紙
﹂
栗柄静枝﹁少年義勇軍のお兄さまたちへ﹂は︑﹁海のむかふの大陸へ︑鍬の戦士として大和桜を咲かせに出発されてから︑
もう一年あまりになりました︒お兄さまたちお達者ですか﹂と始まる︒
﹁少年義勇軍﹂とは︑﹁満蒙開拓青少年義勇軍﹂のことであるが︑拓務省は﹁大陸開拓の戦土・満洲青年移民﹂と題する
方針を内閣情報部編集の﹁週報L第八十一号︵昭和十三年五月四日︶に掲載した︒
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
九四
一 五
O
満蒙開拓の崇高偉大な使命を遂行するため︑純真な︑そして質実剛健な青少年を満洲の現地で養成し︑真に理想的
開拓者としようとの意見はかなり以前から一部有識者の聞に提唱され︑既に一部で実験されて来たが︑愈々政府もそ
の必要を認め︑昭和十三年度から一躍三万人の青少年を大陸に送り出すことに決定した︒
﹁満洲青年移民の趣旨﹂の冒頭部である︒ここにいう﹁一部有識者の聞に提唱され﹂とは︑昭和十二年︵一九三八︶十一
月三日︑加藤完治ら六名が﹁満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書﹂を政府に提出したことを指し︑﹁建白書﹂は︑﹁国
策移民の完成を助け︑あるいは将来の移民地を管理し︑あるいは交通線を確保し︑一朝有事の際においては︑現地後方兵
姑の万全に資する﹂もので︑さらに日本内地の農村問題にある就職年齢に達したものの離農せざるを得ない者の受け皿と
し﹁希望に充ちたる生活の門戸を開﹂くものとした︵﹁国策としての満洲移民﹂講談社﹁昭和二万日の全記録﹂第五巻所
収︑平成元・十二︒
この﹁建白書﹂の同月末には︑閣議決定され︑十二月二十二日︑拓務省は﹁満洲青年移民実施要綱﹂を決め︑﹁満洲青年
移民の趣旨﹂を次のように位置付けた︵﹁週報﹂前出︶0
今や我が大和民族は建国以来の大理想である﹁八紘一宇﹂の皇道を四海に宣布し︑諸民族を徳化︑誘披して正しい
平和を確立せんとする一大発展期に際会して居り︑島国日本は大陸日本に躍進しっ︑ある︒従って我が民族は正に大
挙して大陸進出をなすべき秋である︒
昭和十三年度は﹁一二万人の青年を送り出すこととし︑全国道府県別にこれを按分配当して募集の上︑内地で約二箇月の
訓練を施した後渡満させ︑更に現地の訓練所で約三箇年間農業技術を習得させ﹂︑﹁現地訓練を終了した者は逐次既定計画
の集団移民となし夫々独立させることになってゐる﹂という︒
応募資格は﹁数へ年十六歳︵早生まれの者は十五歳︶から十九歳迄の青少年﹂であり︑﹁身体が強健であることと意思が
強固であることを必要とするが︑学校はどの程度でもかまはぬ﹂とされた︒学業成績は顧慮されず︑専ら身体堅固と意志
強固な青少年が求められたということである︒
十三年一月から募集が始まったが︑﹁政府の予算が確定前なので︑取敢へず満洲移住協会が拓務省に代って二月十五日を 締切りとして先遣隊五千名を募ったところが︑忽ち全国的に非常な反響を呼び起こして︑僅か一箇月余りで約一万人の応
募者が出た︒それで取敢へず七千七百名を先遣隊に詮衡採用した﹂という︒
茨城県の内原訓練所において︑訓練を終えた﹁満蒙開拓青少年義勇軍L第一次五千名の壮行会が開かれたのは︑昭和十 三年四月八日︵﹃昭和﹄第五巻︑前出︶
o十三年度三万人の先遣隊の出発ということであるが︑応募作品では﹁出発されて
から︑もう一年あまりに﹂なったとあり︑﹁綴方﹂の募集期間が六月十六日から七月五日で︑﹁内地﹂での二ヶ月の訓練後 の出発ということから推測すると︑﹁お兄さま﹂の入所は昭和十三年の四月ごろのことであろうか︒
はてしもない大満洲へ︑新しい日本を植ゑっけに行かれたお兄さまたちは︑血を流して支那で戦争をしてゐられる
兵隊のをぢさんたちと︑ちっともちがはぬ︑尊いお国の勇士だと思ひます︒
当選作﹁少年義勇軍のお兄さまたちへ﹂の一節であるが︑﹁青年移民は日本民族の最前衛として︑建国の理想を植え付け て行く大陸開拓の平和の戦士﹂︵﹁大陸開拓の戦死・満洲青年移民し前出︶とする政府見解が踏まえられているといえよう
が︑こうした理解はどのようにして可能となったであろうか︒
﹁お兄さまたちを駅まで見送って﹂︑﹁母校の名よのために
Lと激励した先生が︑今度は﹁女でも皆さんが行くのだね﹂と
いうと︑﹁私たちは女でも︑お国のためならいつでも︑大陸へいきたいと思ひます﹂と︑決意を新たにする︒
阪田光昭﹁少年義勇軍を励ます手紙﹂の冒頭には︑﹁僕等の先祖の血が︑にじみ込んでゐる満洲の士を︑開拓して下さる お兄さん﹂との一節がある︒日露戦争に軍医として従軍した祖父がするその時の話を聞いて︑﹁満洲をそまつに考へては︑
戦死された英霊にすまない︑僕等は生命をなげ出して︑満洲をまもらねばならない︑と腹の底で誓ひました﹂という︒
﹁満洲﹂で﹁日清︑日露︑満洲事変に︑私たちの祖先はその礎となって尊い血を流しました﹂と記したのは︑﹁我等の代
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
五
五
表を
待つ
満洲
﹂︵
前出
︶
であった︒祖父の回顧談と共通する﹁満洲﹂観︑というより︑こうした観点が一般的な認識であっ
たというべきなのであろうか︒
阪田作品に次の一節がある︒
この四月十七日︑僕等の学校を卒業した野竹君と中川君の二人がお兄さん達の仲間入りをして︑内原の日輪兵舎へ
出発すると言ふので︑僕等は出征兵を送る時と同じゃうに︑手に手に日章旗を持って校庭に整列しました︒
﹁少年義勇軍﹂は︑栗栖作品の一節﹁支那で戦争をしてゐられる兵隊のをぢさんたちと︑ちっともちがはぬ︑尊いお国の
勇士﹂であり︑その内実は︑ここにあるように﹁出征兵﹂であったということである︒
﹁大陸開拓の戦士・満洲青年移民﹂︵前出︶には︑青少年が大陸に渡った結果︑﹁治安の確保や︑鉄道の警備にも役立ち︑
兵姑線を拡大することにもなるが︑これ等は青年移民に付臨して粛される効果であって︑青年移民本来の目的ではない﹂
とされたが︑﹁募集にあたって︑治安・防衛の目的は︑明示されなかった﹂︵﹃昭和﹄第五巻︑前出︶という︒加藤完治らの
﹁建白書﹂には盛り込まれた﹁現地後方兵結﹂︵前出︶という位置付けは隠蔽されたということであろう︒
堤享子﹁少年義勇隊を励ます手紙﹂の冒頭に︑﹁私のをぢさんは︑満洲国北安省伊控恰訓練所の教学教土をしていらっし
ゃいます﹂の一節がある︒﹁伊投恰訓練所﹂は︑﹁大陸開拓の戦士・満洲青年移民﹂︵前出︶によれば︑龍江省椴江伊投恰の
﹁敏
江訓
練所
﹂の
こと
︒
作品は︑その﹁をぢさん﹂から送られてきた﹁少年義勇隊﹂の絵葉書についての感想から始まる︒﹁現地入り﹂の絵葉書
からは﹁修学旅行の時のような︑にぎやかな喜びが︑皆さんの顔にいっぱいみなぎってゐる﹂様子に微笑み︑﹁日章旗と五
色の満洲国旗を先頭に︑勇ましく行進して﹂いる絵葉書からは少年たちの﹁大きな使命と希望に︑血潮がをどって﹂いる
様子に共感し﹁胸がたぎってくる﹂と記した︒﹁少年義勇隊﹂は﹁大陸の土の戦士﹂であり︑﹁満洲と支那と仲よく手をつ
ないで行く︑東洋平和の礎は︑皆あなた方の努力の汗と︑兵隊さんの尊い勲の塊です﹂という︒
﹁少年義勇隊﹂の使命は︑﹁八紘を宇となし︑四海の人を導きて︑正しき平和︑っち建てん﹂とする﹁愛国行進曲﹂の第二
節に
ある
とす
るの
が﹁
大陸
開拓
の戦
士・
満洲
青年
移民
﹂︵
﹁週
報﹂
前出
︶
0この作品の作者が﹁週報﹂の読者であったとは考
えにくいが︑作品内容がこの認識に近いことはいうまでもなかろう︒なお︑﹁義勇軍﹂は﹁満洲に入ると義勇隊とよばれた﹂
﹃昭
和﹄
第五
巻︑
前出
︶と
いう
︒ 四
﹁口
︑満 洲大 陸守 備の 勇士 を慰 問す る手 紙﹂
狩野重代﹁大陸守備の勇士へ﹂に︑次の一節がある︒
この聞は外蒙古に近い方で︑戦争だといふので私は心配してゐました︒校長先生が集合でお話して下さいましたが︑
敵の飛行機をみんなで二百八十だい位落して︑味方でかへらないものは︑たった九だいださうですね︒東部隊長が御
国のために︑りっぱな戦死をなさったさうですが︑ほんとにをしいことだと思ひます︒
﹁外蒙古に近い方で︑戦争﹂とは︑昭和十四年五月十一日に始まった︑日満軍とソ連・モンゴル軍との大規模な国境紛争
である﹁ノモンハン事件﹂︒﹁敵の飛行機をみんなで一一百八十だい位落して︑味方でかへらないものは︑たった九だい﹂と
いう校長先生の話は︑﹁週報﹂第一四二号︵昭和十四年七月五日︶に掲載された陸軍情報部﹁外蒙ソ連機の撃墜﹂に附載さ
れた
N﹁ノモンハン﹂附近国境事件飛行隊戦果一覧表によるものであろうか︒この﹁戦果一覧表﹂では︑五月二十日から
六月二十七日までの期間︑﹁敵﹂の損害は﹁迫撃﹂﹁爆破﹂などで﹁二八四﹂機︑﹁我L方は﹁九﹂機とされている︒
﹁東日小学生新聞﹂には︑六月二十九日︵木・第八六二号︶に﹁合計二百七十五機撃墜外蒙空軍は全滅﹂という記事が掲
載された︒﹁またも外蒙ソ連機百五十機が越境十八機で迎へ四十九を撃墜不時着の勇士徒歩で帰還﹂︵六月二十五日
日・
第八
五九
号︶
ゃ﹁ソ蒙機九十八を撃墜﹂︵六月二十九日︶などの戦果を合計した数が﹁二百八十だい位﹂となったので
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
五
一五 四
あろうが︑﹁我﹂方の損害についての記載は見えない︒
校長先生が﹁りっぱな戦死﹂と児童に訓話した﹁東部隊長﹂とは﹁捜索第二三連隊長東八百蔵中佐﹂︒﹁東日小学生新聞﹂
には︑六月四日︵日・第八四一号︶に﹁ノモンハン事件に束中佐名誉の戦死﹂の見出しで掲載されていた︒応募者もこの
記事を読み︑又︑校長先生からの訓話でも︑強く印象付けられたということなのであろう︒
作者の二人の兄は出征中︒二番目の兄は﹁済南の特務機関﹂︑三番目の兄は﹁鞍山で憲兵伍長﹂︒戦死の話は他人事では
なかったであろうが︑﹁私は︵永から兵隊さんが出てゐるので︑兵隊さんのことを聞くのが大すきです︒兵隊さんが出る時に
は︑いつも停車場まで送って行って︑元気で軍歌を歌ひ︑
日の
丸の
旗を
しっ
かり
ふり
ます
﹂︒
﹁私
は兵
隊さ
んを
見る
と︑
し、
つも兄さんを思ひ出します﹂という筆者ゆえに︑﹁支那と戦ってから三年になりますが︑私達は事変前と同じゃうに学校に
通ひ︑同じものがたべられるのも︑みんな兵隊さんのおかげです﹂との表現には︑通り一遍ではない真情が込められてい
るよ
︑つ
だ︒
丹野富太﹁満洲の兵隊さんへ﹂では︑兄弟が﹁中支﹂と﹁満洲の独立守備隊﹂に入営した農家への援農体験が綴られ︑
﹁銃
後は
本気
です
﹂と
︑﹁
銃後
の護
り﹂
が堅
いこ
とを
記し
た︒
﹁私の兄さんも今年の三月満洲の独立守備隊に入営﹂したというが︑狩野作品のような﹁ノモンハン事件Lを推測させる
記述は見られない︒﹁この間の御手紙には︑今口は大変暑く︑内地の夏の様だと書いてありましたが︑どんなに兵隊さん方
は御難儀なさって居られることでせう﹂と︑﹁兵隊さん﹂の﹁御難儀﹂を偲ぴ︑﹁満洲で大陸守備の任に当って居られる兵
隊さん︑銃後のことは御心配なく︑御身体を大事に︑一日も早く東洋永遠の平和を確立して下さい﹂と結ぶ︒﹁日本軍は強
くて
優し
い東
洋平
和の
ため
に僕
等も
お役
に立
ちた
い﹂
とは
︑﹁
東日
小学
生新
聞﹂
昭和
十四
年一
月六
日︵
金・
第七
一一
一一
号︶
第
二面に掲載された記事の見出し︒﹁日本軍﹂が﹁東洋平和のために﹂奮闘しているというものであり︑﹁満洲の兵隊さん﹂
が﹁東洋永遠の平和を確立﹂するために出征しているとする丹野作品の背景が︑こうした記事に代表される共通した認識
であったということである︒なお︑記事における﹁僕等﹂とは︑﹁狛犬﹂であり︑﹁狛犬﹂と軍馬との仮想対談が内容︒
五
﹁ハ
︑満 人学 童に 送る 親善 の手 紙﹂
小竹八重﹁満洲国のお友達へ﹂には︑次のような冒頭部がある︒
なつかしい満洲国のみな様︒
私は東京市本所区柳元小学校の六年生です︒まだ満洲へ行ったことは一度もありませんが︑ちゃんとお国の事は知
ってゐてよ︒だって︑五年生の時読方で﹁あじあに乗りて﹂といふ題で︑お国の事をお習ひしたんですもの︒
一度も﹁満洲国﹂にいったことはないが︑﹁なつかしい﹂のは︑教科書﹁小学国語読本﹂﹁巻十﹂の﹁第二十六﹃あじあ﹄
に乗りて﹂を習ったからだ︒﹁大連からハルピンまでの汽車の中から見た景色がまるで廻り灯ろうの絵の様に美しく書いて
あるので︑とても行きたくなりました﹂とするように︑春休みに満鉄の特急﹁あじあ﹂号で大連からハルピンまでの一人
旅の様子が描かれている︒授業で詳しく聞いた結果︑﹁今まで遠い遠いお国と思ってゐた満洲固が︑すぐお隣のお家みたい
に思はれてきました﹂︒教育効果の事例報告とでもいえようか︒
作品には︑﹁私達の毎日の様子﹂が︑次のように描かれている︒
毎朝起きると︑身を清めて︑天皇陛下のおいでになる宮城を拝みます︒それから出征していらっしゃる兵隊さん達
の武運長久をお祈りします︒兵隊さん達は天皇陛下の御ために︑勇ましく︑働いていらっしゃいますが︑私も兵隊さ
んに負けない様に︑忠義をつくさうと決心して︑勉強にとりか︑ります︒だから授業中汗が流れても︑ちっとも暑い
と思ひません︒今までは︑よそ見をしたりお友達とお話した事もありますが︑この頃は︑兵隊さんに悪い様な気がし
て︑そんな事は一ぺんもありません︒
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
一五
五
一五 六
﹁内地﹂において﹁銃後﹂を護る小学生の典型といったところか︒一日の始まりが宮城遥拝︑出征兵士の武運長久の祈り
であり︑何事も﹁兵隊さんに悪い﹂かどうかを指針とする生活態度を迫られていたといえよう︒
岡田清子﹁満入学童に送る親善の手紙﹂には︑筆者の父は満洲国の役人との仕事上の付き合いがあり︑東京在住の時に
は︑自宅にも﹁お国のお役人である李先生﹂がやって来たという︒こうした事もあってのことか︑﹁日本と満洲の様な真の
兄弟国は︑外にはありません︒私共小学生はお互いに体を益々健全にし︑智徳を磨き︑いついつまでも子をとり合って︑
東洋平和の為に尽きうではありませんか﹂と呼びかける︒
また
︑﹁
此の
間ノ
モン
ハン
附近
へ︑
ソビエト・外蒙古の百五十機の戦闘機が越境してきた時も︑日満両軍は僅かに十八機
で立向かって約五十機を撃墜し︑すばらしい武勲を立てたさうで大変愉快でした﹄と記すが︑これは前述したように﹁東
日小学生新聞﹂の六月二十五日の記事によるもの︒﹁東日小学生新聞﹂では︑﹁外蒙軍度々の不法に関東軍の膚懲の剣敵陣
を猛爆し忽ち撃滅﹂︵七月五日・水・第八六七号︶や﹁満蒙国境陸鷲奮ふ敵五十機を撃墜続く不法に防備は堅し﹂などと︑
﹁ノモンハン事件﹂での大敗は伏せられ︑戦果が誇示されていた︒
−−'−−・
ノ、
﹁ニ
︑満 洲を 思ふ
﹂
根岸和之助﹁満洲を思ふ﹂は︑次のように始まる︒
昨日登校してみると︑大勢の友達が告知板の前に集まって︑﹁いいなあ︒﹂﹁いきたいなあ︒﹂などと︑がや/\話し
合っ
てゐ
た︒
﹁大勢の友達﹂が﹁興亜青年勤労報国隊﹂のポスターを見て騒いでいたのであるが︑﹁僕は先月この羽生野町から︑歓呼
の声で送られた勤労報国隊の一人︑谷旭さんの︑あのうれしさうな︑男らしい姿﹂を思い出していた︒
今回文部省に於いては企画院︑対満事務局︑興亜院︑陸軍省︑農林省︑拓務省等と連絡し︑満洲国政府︑北支派遣
軍の協力を得て学生青年一万人を満蒙北支に派遣し︑興亜建設に参画させることになった︒名付けて興亜青年勤労報
国隊
とい
ふ︒
﹁週報﹂第一四二号︵昭和十四年七月五日︶に掲載された文部省﹁興亜青年勤労報国隊に就いて﹂の冒頭部である︒
本計画は従来行われたやうな単なる修学旅行でもなく︑亦単なる見学視察でもない︒実に八紘二子の民族理想の自
覚に立って︑新東亜建設の一角に身をもって参加し︑実践し︑勤労し︑奉公する集団勤行教育の海外的進展である︒
派遣は︑﹁満洲方面と北支︑蒙彊方面﹂であり︑﹁北支方面は主として官公私立大学の学生を充て︑満洲方面は其の他の
学生生徒並びに一般青年を充て﹂︑青年隊は﹁六月下旬ヨリ九月中旬マデ二ヶ月半﹂︑学生隊は﹁七月中旬ヨリ八月中旬マ
デ一ヶ月﹂とされ︑指導者を含めて総計﹁八︑二三三﹂人の構成とされた︒
次の一節は︑﹁満蒙を開く少年義勇軍﹂︵八月二十日・日・第九O七号︶と題され︑少年たちが鍬を振るっている写真に
付けられたコメントの前半部である︒
広漠とした未聞の満洲の大平原に︑新しい鍬の目をいれ︑やがて青々とした農産物の収穫を得て︑東洋の大宝庫を
建設しようとする大使命を担った土の開拓士は︑満蒙開拓少年義勇軍のお兄さん方です︒
﹁谷さんのやうに︑これからは我々青少年が︑満蒙の青少年と︑手と手を握り合って︑資源を開発して行くことが大切な
のだ﹂とは︑根岸作品の一節であるが︑ここに示された認識は﹁土の開拓士﹂﹁満蒙開拓少年義勇軍﹂の﹁大使命﹂に通じ
るものであることは言うまでもなかろう︒
立川照夫﹁満洲を思ふ﹂には︑受け持ちの先生の友人が﹁ハルピンの国民学校﹂で先生をしていることから︑﹁満洲の友
達に親善の成績品﹂を送ったところ︑﹁漢字ばかりで書いであって少しも読めない﹂葉書が届いた︒先日の﹁成績品の御礼﹂
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
五 七
一五 八
だった︒それから﹁日満親善一徳一心﹂﹁五族協和皇帝陛下室内歳﹂と書いた﹁書方﹂や﹁図画﹂が届き︑その後﹁遠い満洲
の小学生と私達は︑学級宛てに︑又は個人同志で︑手紙の交換﹂が続けられ︑今では︑将来﹁満洲へ行ったら︑ハルピン のこれ等の懐かしい友達をたづね︑共に手を取って満洲で働いて︑明るい平和な東亜を築き上げる仕事に︑自分の一生を
捧げ
るの
だ﹂
と決
意し
てい
る︒
栗岡章介﹁満洲を思ふ﹂は︑教室に掛けてある地図﹁日満新図﹂を見ながら︑﹁大すきな叔父さんが二人も﹂行っている 満洲に思いを馳せるもの︒﹁僕は地図を見るたびに︑満洲国をなつかしく思ふと同時に︑日本にとって本当によい弟が出来
たと
︑ つくハ\思ふ﹂︒そして﹁広い土地と色々の天産物とを豊富に持ってゐる満洲国は︑日本に導かれて︑今に強い国に なるであろう﹂と︑将来に期待する︒﹁広大な土地から農産物や鉱物が色々沢山あり﹂﹁日満両国協力の下にもっと/\開
発される﹂﹁満洲﹂の﹁将来は驚くほどすばらしい﹂としたのは︑田中香苗﹁満洲の大切な訳﹂︵前出︶︒両者の近似性はい
うま
でも
なか
ろう
︒
七
むす ぴ
以上
︑
7日満綴方使節H
の作
品﹂
を検
討し
てき
た︒
この度の綴方を見て︑内地の皆さんが︑こんなにまでよく満洲を知ってゐたのかと︑驚きました︒だからどれもよ く出来てゐて︑多くの中から十篇を選ぶには大変困難でした︒
﹁本
社学
芸部
長久
米正
雄﹂
によ
る﹁
選者
のこ
とば
﹂︵
七月
二十
三日
︑前
︶出
の一
節︒
確か
に︑
﹁よ
く満
洲を
知っ
てゐ
た﹂
と
驚かされるが︑知識としては︑作品にもあったように︑﹁小学国語読本﹂での﹁大連だより﹂︵巻八︶や﹁﹃あじあ﹄に乗っ
て﹂
︵巻
十︶
など
での
学習
や先
生か
らの
教示
をは
じめ
︑﹁
東日
小学
生新
聞﹂
での
戦果
報道
や連
載記
事な
もど
参考
にさ
れた
か︒
それにしても︑驚くのは期待されている内容が表現されていることである︒﹁明るい平和な東亜﹂の建設︑﹁満蒙の青少
年﹂
と共
労し
ての
資源
開発
︑﹁
五族
協和
﹂﹁
日本
民族
の鉄
壁を
も貫
く熱
と力
で援
助﹂
︑﹁
東洋
平和
のた
めに
尽さ
う﹂
﹁兵
隊さ
ん
のおかげ﹂﹁日本人のからだは御国のもの﹂﹁大満洲へ新しい日本を植ゑっけに﹂﹁御国のためならいつでも﹂﹁満洲国を盛
んに
する
ため
に︑
日本の生命線を強くするために﹂﹁お天子様の御ためなら﹂など︑将に枚挙に暇がない︒
﹁国民精神総動員新展開の基本方針﹂が閣議決定されたのは︑昭和十四年四月十一日であり︑﹁新展開﹂とは︑それまで
の﹁挙国一致﹂﹁尽忠報国﹂﹁堅忍持久﹂といったスローガンはあったものの﹁綱領﹂がなかった国民精神総動員運動に︑
次の
﹁綱
領が
与へ
られ
た﹂
こと
であ
った
︵﹁
週報
﹂第
一一
一一
一号
・四
月十
九日
︶
0
肇国の大理想を顕揚し東亜新秩序の建設を期す
大いに国民精神を昂揚し国家総力の充実発揮を期す
一億一心各々その業務に精励し奉公の誠を殺さむことを期す
この﹁綱領﹂によって︑﹁国民精神総動員運動﹂は﹁東亜新秩序建設といふ大目標に向かっての強力日本建設運動であり︑
このための国民奉公の実践運動であることが明白にされた﹂︵﹁週報﹂第一四二号・七月五日︶
ので
ある
とい
う︒
すなわち︑﹁兄弟国満洲をよく知ることは︑私たちの大切なつとめ﹂とされた﹁日満綴方使節﹂は︑﹁新東亜建設の担当
者たるべき横溢せる精神力と卓絶せる国民道徳との振起酒養﹂︵﹁国民精神総動員運動新展開の基本方針﹂前出︶と軌を一
にするものであり︑その実践対象として児童が想定された企画であったといえようか︒﹁新東亜建設の担当者﹂は︑満洲に
展開する軍隊や移民団に﹁満蒙開拓青少年義勇軍﹂を加え︑若いというよりも幼いというべきであろう﹁数え十六︵早生
まれは十五こから﹁新東亜建設﹂に狩り出した︒掲載された当選作品は︑児童が﹁新東亜建設の担当者しとして予定され
ていることを確認させるものであり︑﹁日満綴方使節﹂は︑﹁国民精神総動員新展開﹂の児童向けキャンペーンであったと
いう
こと
であ
ろう
︒
︵二
OO
三 ・
七
﹁日
満綴
方使
節﹂
とそ
の作
品
五 九