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津田事件の文脈   ─内務省検閲と岩波書店─

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(1)

はじめに

本稿では戦前から戦中にかけての津田左右吉と岩波書店ならび

に岩波茂雄との関わり︑また︑内務省検閲や裁判への対応のあり

ようを検討する︒津田の著作のうち︑岩波書店から刊行されたも

のの嚆矢は﹃神代史の研究﹄︵一九二四年︶である︒これ以降︑岩

波書店は津田の著作を積極的に刊行していく︒しかし︑一九四〇

年には﹃神代史の研究﹄を含む岩波書店から刊行された津田の著

作四点が︑内務省から発売頒布禁止処分を受けた︒内務省検閲は

基本的に行政処分に留まる点に特色があるが︑本件は司法処分︑

裁判へと発展した︒本稿では︑起訴までの経緯を︑岩波書店所蔵

の内部資料︑また︑内務省検閲に関わる一次資料の検証を通じて

辿りなおす︒同時代の社会的︑政治的文脈を考える際には︑蓑田

胸喜の活動も参照する︒津田・岩波の起訴に直接作用したわけで はないとはいえ︑蓑田は一九三〇年代に︑津田・岩波それぞれに対し批判を展開していた︒その過程で︑個別になされていた批判が一本に纏められていったのだが︑それは︑津田・岩波が置かれた時代の文脈のアナロジーとして機能する︒総じて︑三〇年代を通じて津田と岩波の言論出版活動が徐々に骨抜きにされていく様相が明らかになる︒また︑本稿では︑津田裁判の速記録に残された津田と岩波茂雄の発言の意図を︑岩波書店所蔵の書簡や速記録への書き込みを元に探ることにする津田と岩波の発言におい

て︑言下に起訴に抵抗する意図が込められているとしても︑両者

は著者と出版者という点で決定的に位相が異なる︒それは両者の

裁判中の振る舞いにも表れていると考えられ︑この点の追究が今

後の課題となるだろう︒

戦前に岩波書店から刊行された︑津田の名前が付された刊行物

は次の一一点である︒ 尾   崎   名

  津  子

︻論 文︼

津田事件の文脈

 

   

内務省検閲と岩波書店

(2)

 ︵一︶﹃神代史の研究﹄︵一九二四年二月初刊は洛陽堂

九一九年︒

︵二︶﹃古事記及日本書紀の研究﹄︵一九二四年九月︶

︵三︶﹃日本上代史研究﹄︵一九三〇年四月︶

︵四︶﹃上代日本の社会及び思想﹄︵一九三三年九月︶

︶﹃東洋思想研究﹄第一︵一九三七年三月︒津田左右吉編輯︒

副題は﹁早稲田大学東洋思想研究室年報一九三七年﹂︒︶

︵六︶﹃蕃山 益軒﹄︵一九三八年三月︒大教育家文庫︒︶

︵七︶﹃儒教の実践道徳﹄︵一九三八年六月︒岩波全書

86︒

︵八︶﹃東洋思想研究﹄第二︵一九三八年一一月︒津田左右吉

編輯題は﹁早稲田大学東洋思想研究室年報一九三

﹂ ︒

︵九︶﹃支那思想と日本﹄︵一九三八年一一月︒岩波新書赤

岩波新書創刊時の一冊︒

︵一〇︶﹃道家の思想と其の展開﹄︵一九三九年一一月︶

︵一一︶﹃東洋思想研究﹄第三︵一九四〇年五月︒津田左右吉

編輯題は﹁早稲田大学東洋思想研究室年報一九三

﹂ ︒

  これらのうち

︵一︶︵四︶が︑刊行からかなりの時間を経た

のちに︑内務省検閲によって発売頒布禁止処分を受け︑また︑司

法の場で裁かれることになった著作である︒

内務省検閲は一八七五年に出版取締が文部省から内務省に移管

されたことを契機に︑制度の確立が進み︑一八九三年には内務省 警保局図書課が請け負うことで体制としては安定したと言える︒出版取締において︑殊に図書の場合︑その準拠法は出版法︵一八九三年四月公布︑一九四九年五月廃止︶だった︒このうち内務省検閲の観点から重要な条文を左に示す︒

第三条 文書図画ヲ出版スルトキハ発行ノ日ヨリ到達スヘキ

日数ヲ除キ三日前ニ製本二部ヲ添へ内務省ニ届出ヘシ

第十九条 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ム

ル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布

ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得

第二十条 外国ニ於テ印刷シタル文書図画ニシテ安寧秩序ヲ

妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムルトキハ内務大臣ハ其

ノ文書図画ノ内国ニ於ケル発売頒布ヲ禁シ其ノ印本ヲ差押フ

ルコトヲ得

第三条は戦前における納本義務の規定を示したものである︒図

書︑雑誌︑新聞はもちろん︑マッチのラベルや温泉宿の手拭に至

るまで︑印刷し︑頒布されるものは全て検閲を受けねばならなかっ

た︒処分は最も重い発売頒布禁止処分から削除処分︑次版改訂処

分など実に多様であるが︑処分の理由は二つしか存在しない︒そ

れは第十九条︑第二十条に見える﹁安寧秩序紊乱﹂﹁風俗壊乱﹂

である︒これ以上の詳細な規定は︑準拠法のレベルでは明確に示

されなかった︒個別のケースに応じた解釈の多様性を担保するた

めである︒また︑両条文の﹁内務大臣ニ於テ﹂︑あるいは﹁内務大

臣ハ﹂という文言が重要である︒これは︑検閲の結果何らかの処

(3)

分がくだるにしても︑あくまで行政処分を基本としていることを

意味している︒

しかし︑一九三〇年代半ばにこの制度の転機が訪れる︒それは︑

一九三四年五月の出版法の改正である︒次に改正後の条文を引用

し︑加筆された箇所に傍線を付す︒

第十六条 罪犯ヲ煽動シ若ハ曲庇シ又ハ刑事ニ触レタル者若

ハ刑事裁判中ノ者ヲ救護シ賞恤シ又ハ刑事裁判中ノ者ヲ陥害

スルノ文書ヲ出版スルコトヲ得ス

第二十六条 皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ︑政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ

紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者︑発行者︑

印刷者ヲ二月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ二十円以上二百円

以下ノ罰金ヲ附加ス

第二十七条 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スル文書図画

ヲ出版シタルトキハ著作者︑発行者ヲ十一日以上六月以下ノ

軽禁錮又ハ十円以上百円以下ノ罰金ニ処ス

注目すべきは︑これまで掲載禁止事項として明文化されていな

︑﹁皇室ノ尊厳ヲ冒涜シの規定が第二十六条に入

とである︒行政処分を基本とする検閲処分ではあるが︑この条文

には罰則の規定がある︒これまでも︑少数ではあるが司法の場で

裁かれた出版関係者は存在している︒とはいえ︑あくまで内務省

に委ねられたものとして検閲処分があったため︑よほどの理由が

ない限り︑司法処分に至るケースにはならなかった︒しかし︑そ

れがこのタイミングで変わる︒この改正は即ち︑行政処分の対象 に止まていた︑︿皇室の尊厳を冒涜する書図画と寧秩

序を妨害する文書図画が︑刑事処分の対象にもなったということ

を意味しているのである︒

この法改正を受けて︑検閲の実務も変わる︒内務省警保局﹃昭

和九年中に於ける出版警察概観﹄︵一九三五年には︑﹁安寧

風俗に関する出版物検閲基準﹂が掲載されている︒この﹁基準﹂

は他にも時期の異なる複数の内務省の内部資料で確認できる︒形

式はどの時期も変わらず︑まず 安寧紊乱出版物の検閲標準﹂

と﹁ 風俗壊乱出版物の検閲標準﹂に分けられ︑さらにそれぞ

れの中に﹁︵甲︶一般的標準﹂﹁︵乙︶特殊的標準﹂とがある︒一

般的基準とは︑出版物の内容に関わるものである︒一方︑特殊的

基準は︑一般的基準に明確に抵触すると言えないけれども︑何ら

かの処分を下したい出版物に対し︑一般的基準と抱き合わせる形

で使われていたようであるここでは︑﹁ 安寧紊乱出版物の

検閲標準﹂のみ引用する︒

安寧紊乱出版物の検閲標準

︵甲︶一般的標準

  ︵

皇室の尊厳を冒瀆する事項

  ︵

君主制を否認する事項

    共産主義︑無政府主義等の理論及戦略戦術を宣伝し

若は其の運動の実行を煽動し又は此の種の革命団体

支持する事項

      1

引用は

﹃現代史資料

  40

マス

・ メデ

ア統制 1

﹄︵みすず書房

一九七三年一二月︶ による︒

(4)

    法律︑裁判等国家権力作用の階級制を高調し其の他

甚しく之を曲説する事項

    ロ︑直接行動︑大衆暴動を煽動する事項

    殖民地の独立運動を煽動する事項

    合法的に議会制度を否認する事項

    軍存立の基礎を動揺せしむる事項

    国の君主︑大統領又は帝国に派遣せられたる外国

使節の名誉を毀損し之が為国交上重大なる支障を来

す事項

   

10︶

事上外交上重大なる支障を来すべき機密事項

   

11︶

犯罪を煽動若は曲庇し又は犯罪人若は刑事被告人を

賞恤救護する事項

   

12︶

大犯人の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙に

依り社会の不安を惹起するが如き事項

   

13︶

財界を攪乱し其の他著しく社会の不安を惹起するが

如き事項

  ︵

14︶

戦争挑発の虞ある事項

  ︵

15︶

の他著しく治安を妨害する事項

︵乙︶特殊的標準

  ︵

出版物の目的

  ︵

読者の範囲

  ︵

出版物の発行部数及社会的勢力

  ︵

行当時の社会事情

  ︵頒布区域

  ︵

不穏箇所の分量 このうち︑﹁︵︶﹂の﹁皇室の尊厳を冒瀆する事項﹂は︑それ以

前の検閲標準一覧では明記されていなかった︒この時点で初めて

加筆されたものであり︑ここに法改正の直接的な影響を見て取る

ことができる︒

岩波書店と内務省検閲

このように一九三〇年代半ばに内務省検閲の性質が変容した

が︑ここで岩波書店の刊行物に対する検閲処分の事例をいくつか

見てみたい︒

岩波文庫のアルツィバーシェフ︵中村白葉訳︶﹃サーニン﹄

巻・下巻︶は︑一九二九年八月に風俗壊乱を理由として発売頒布

禁止処分を受けた︒これは後の津田裁判でも再び取り上げること

になる︒岩波と内務省検閲という点でよく知られているのは︑日

本資本主義発達史講座︵一九三二年五月︱一九三三年八月︶への

断続的な処分だと思われる︒この叢書だけで一二点の著作が発売

頒布禁止︑あるいは削除処分を受けている︒理由は全て安寧秩序

紊乱である︒以下に︑処分の古い順に一覧に供する︒

羽仁五郎﹁幕末に於ける政治的支配形態﹂︵一九三二年一一

月一四日発行︑同年一一月一六日発売頒布禁止処分︶

羽仁五郎﹁幕末に於ける社会経済状態︑階級関係及び階級闘

争︵後篇︶﹂︵一九三二年一一月一四日発行︑同年一一月一六

日発売頒布禁止処分︶

(5)

田中康夫﹁政党及び憲政史﹂︵一九三二年一一月一四日発行︑

同年一一月一六日発売頒布禁止処分︶

細川嘉六﹁日本社会主義文献解説﹂︵一九三二年一一月一四

日発行︑同年一一月一六日発売頒布禁止処分︶

山下徳治﹁教化史﹂︵一九三二年一一月一四日発行同年一

一月一七日発売頒布禁止処分︶

岡邦雄﹁自然科学史﹂︵一九三二年一一月一四日発行

一一月一七日発売頒布禁止処分︶

秋笹正之輔﹁植民地政策史﹂︵一九三三年二月二〇日発行

同年二月一九日発売頒布禁止処分︶

鈴木小兵衛﹁最近の植民地政策民族運動﹂︵一九三三年二月

二〇日発行︑同年二月一九日発売頒布禁止処分︶

小林良正﹁明治維新に於ける商工業上の諸変革﹂︵一九三三

年六月二四日発行︑同年六月二三日削除処分︶

坂本善三﹁最近に於ける政治情勢史﹂︵一九三三年八月二五

日発行︑同年八月二三日削除処分︶

羽仁五郎﹁幕末に於ける思想的傾向﹂︵一九三三年八月二五

日発行︑同年八月三一日削除処分︶

服部之総﹁明治維新の革命及反革命﹂︵一九三三年二月二〇

日発行︑同年一〇月九日削除処分︶

これらの処分を契機として︑岩波書店の出版物のうち社会科学

に関するものへの締め付けが厳しくなった︒とりわけ︑岩波文庫

のいわゆる白帯物︵社会科学部門︶に対する一斉処分は︑他の出

版社が被ったことのない大規模なものだった︒これは段階的にな された点に特色がある︒まず︑一九三八年に該当図書の増刷見合わせ︑また︑未製本のものの製本を不許可とするという通達があり︑更に︑そこから漏れた二八点が一九四〇年の段階で発売頒布禁止処分︵安寧秩序紊乱による︶となった︒

岩波文庫に収録された文学作品も安寧秩序紊乱により様々な処

分を受けている︒田山花袋﹃蒲団・一兵卒﹄︵一九三〇年初刷︶

一九三八年一一月一六日に次版削除の処分を受け︑武者小路実篤

﹃その妹﹄︵一九二八年初刷︶は一九三九年四月一四日に削除処分

を受けた︒この二作は負傷兵の描写が問題化された︒ここでは田

山花袋﹁一兵卒﹂を紹介する︒

  ﹁一兵卒﹂

︵﹃早稲田文学﹄一九〇八年一月︶は︑﹁蒲団﹂︵一九〇

七年九月︶の発表に続いて花袋の作家としての評価を高めること

に与した短篇である︒日露戦争を舞台としており︑脚気を患った

一兵卒が原隊に復帰しようと病院を抜け出し︑満洲を歩いて回っ

た挙句︑死ぬというストーリーを辿りながら︑一兵卒が見た満洲

の風景が描かれる︒これが﹁蒲団﹂と共に一冊に収められたのが︑

岩波文庫の﹃蒲団・一兵卒﹄である︒この第一〇刷︵一九三七年

一二月一五日︶の八七頁︵︻図参照︶には︑次のような描写が

ある︒

先程の下士が彼処に乗つて居る︒あの一段高い米の叺の積荷

の上に突立つて居るのが彼奴だ︒苦しくつてとても歩けんか

ら︑鞍山站まで乗せて行つて呉れと頼んだ︒すると彼奴め︑

兵を乗せる車ではない︒歩兵が車に乗るといふ法があるかと

呶鳴つた︒病気だ︑御覧の通りの病気で︑脚気をわづらつて

(6)

居る︒鞍山站の先まで行けば隊が居るに相違ない︒武士は相

見互といふことがある︑何うか乗せて呉れッて︑達つて頼ん

でも︑言ふことを聞いて呉れなかつた︒兵︑兵といつて︑筋

が少いと馬鹿にしやがる︒金州でも︑得利寺でも兵のお蔭で

戦争に勝つたのだ︒馬鹿奴︑馬鹿奴!

蟻だ︑蟻だ︑本当に蟻だ︒まだ彼処に居やがる︒

病院から脱走した兵士が列車に乗ることを拒否され︑悪態をつ

く場面である︒これが︑第一三刷︵一九三九年一一月一〇日︶の

九二頁︵︻参照︶では︑次のようになっている︒

先程の下士が彼処に乗つて居る︒あの一段高い米の叺の積

荷の上に突立つて居るのが彼奴だ︒苦しくつてとても歩けん

から︑鞍山站まで乗せて行つて呉れと頼んだ︒すると彼奴め︑

兵を乗せる車ではない︑︵以下百六十八字削除︶

蟻だ︑蟻だ︑本当に蟻だ︒まだ彼処に居やがる︒

この﹁︵以下百六十八字削除︶﹂というのが検閲処分の痕跡であ

ることは明白である︒なお︑内務省からは削除箇所の具体的な指

示はなく︑どこを削除するかは出版側の判断に拠っていた︒管見

の限り︑第一四刷︵一九四〇年一二月一〇日︶もこれと同様であり︑

戦後に発行された第一五刷︵一九五〇年七月一五日︶において︑

削除箇所の復元が行われている︒

以上のように︑日本資本主義発達史講座や岩波文庫の白帯物を

中心として︑岩波文庫から刊行された出版物も決して内務省検閲 ︻図︼田山花袋﹃蒲団・一兵卒﹄第一〇刷

 

︵岩波書店︑一九三七年一二月︶八七頁

︻図︼田山花袋﹃蒲団・一兵卒﹄第一三刷

 

︵岩波書店︑一九三九年一一月一〇日︶九二頁

(7)

による処分とは無縁ではなかった︒本稿で焦点とする津田左右吉

の著作も︑まずはこの系譜に連ねることができる︒また︑津田左

右吉の著作への内務省検閲による処分と起訴の対象になった著作

は︑岩波書店から刊行された四点︵﹃神代史の研究﹄︑﹃古事記及日

本書紀研究﹄︑﹃本上代史究﹄︑﹃想﹄

に限られる︒すなわち︑津田の著作に対する処分は︑個人として

の津田に対する処分であると同時に︑岩波書店に対する処分の意

味合いも有しているのである︒

いわゆる津田事件に言及した文献においては︑ものによって該

当図書に対する処分内容や日付の記述にばらつきがあるが︑本稿

では事件の一次資料と言える内務省の内部文書﹃出版警察報﹄を

参照したい︒これを見ると︑四点ともすべて一九四〇年二月一〇

日付で発売頒布禁止処分となっている︒二月中の取締内容をまと

めた﹁内地出版物取締状況︵概説︶﹂︵﹃出版警察報﹄第一一六号︑

一九四〇年三月︶には︑次のような記述が確認できる︒

安寧関件の一七件なかには皇室関係のもの八件を包含して居

るが︑これは既刊本である津田左右吉の四著書を含んで居る

ためであつて︑其の他の二件もこれと同種の歴史的記述をな

せるもので︑これ等は主として国体明徴の観点より検閲が強

化されたためのものである︒

  ﹁其の他の二件﹂とは﹃御歴代御陵所在地

全﹄︵理想之友社︑

一九四〇年二月︶と伊東挙位﹃わかりやすく神代を語る﹄︵一樹会︑

一九四〇年二月︶という︑津田以外の人物によって書かれ︑直近 の時期に納本されたものを指している︒津田への処分が刊行時期を遡ってのことである点で︑両者の文脈がやや異なることには留意せねばならない︒そして︑﹃出版警察報﹄の中ではその処分が﹁国

体明徴の観点より検閲が強化されたためのもの﹂と説明されてお

り︑戦時体制を強化する文脈でこれらが対象となったことが示唆

されている︒また︑個別具体的な処分理由について︑例えば﹃古

事記及日本書紀の研究に関しては︑﹁本書ハ記紀ニ於ケル神武

天皇ヨリ仲哀天皇マデノ記載ハ︑スベテ史実ニアラズ官府ニヨツ

テ作為サレタルモノナリト︑記述セルモノナルガ︑カヽル所論ハ︑

記紀ガ皇室ノ御祖先並ニ肇国ノ由来ヲ語ル最古ノ文献ナル点ニ顧

ミ︑之ニ対スル重大ナル疑惑ヲ生ゼシムル虞ガアルニ因リ禁止﹂

と記されている︒

岩波茂雄︑津田左右吉の言論活動に対する蓑田胸喜の反応

津田左右吉の著作が岩波書店から数多く刊行されたのは︑岩波

書店主である岩波茂雄自身が︑津田の思想や学問を評価したこと

に因っている︒岩波茂雄は津田や三木清︑和辻哲郎など︑自らが

惚れ込んだ研究者の活動を助け︑また︑著作の出版を促すことに

熱心であった︒もちろん︑そのことへの評価は様々に分かれると

思われるが︑アカデミズムが国政の介入を受けた事件を前にして︑

岩波と岩波書店がいかに振る舞ったかを見ていくと︑そこにある

傾向が見て取れる︒

例えば︑瀧川事件︵一九三三年︶の際は︑京都帝国大学を辞職

した教員を中心に編んだ論集﹃京大事件﹄︵岩波書店九三三

(8)

年一一月︶を刊行し︑鳩山一郎文部大臣や京大執行部を批判する

文章を自ら書き︑﹃東京朝日新聞投稿したただしこの投

稿は不採用となった︵﹁鉄箒欄投稿の下書き﹂として植田康夫︑紅

野謙介︑十重田裕一編﹃岩波茂雄文集﹄︵二〇一七年一月︶

に収録︒︶︒

また︑天皇機関説事件︵一九三五年︶が起きた時は︑﹁危険思想﹂

と題した文章を﹃東京朝日新聞﹄に投稿した︒しかし︑これも不

採用となる︒一方︑問題の当事者である美濃部達吉に激励の手紙

を送ったようである︒それは美濃部が岩波に宛てた書簡から窺え

る︒

御手紙拝見 御厚情深く感謝いたし候 折角御起稿被下候に

掲載せられざるは遺憾に候得共正しき言論に対する暴力の脅

威甚しき今日の世相に於ては誠に不得已次第と存じ候

︵岩波茂雄宛美濃部達吉書簡 一九三五年二月二三日︶

これらの岩波の活動に一貫しているのは︑学問の自立の訴えで

ある︒論集﹃京大事件﹄の出版以外︑岩波茂雄自身のこうした動

きはメディア上に表面化することのない出来事ではあったが︑岩

波書店︑また︑その創業者にして書店主である岩波茂雄の動きに

対し︑明確に対立する言論と行動を展開したのは蓑田胸喜だった

民間の右翼思想家であった蓑田だが︑貴族院議員を中心として支 持者が多く︑これが蓑田の活動を支えていた︒この点については竹内洋が次のように整理している︒

蓑田の背後には議員が控えていた︒三室戸敬光子爵︑維新の

志士の末裔井田磐楠男爵︑軍人あがりの菊池武夫男爵などの

貴族院議員︑衆議院議員の宮沢裕や江藤源九郎などである︒

平沼騏一郎や小川平吉︑荒木貞夫︑永田鉄山︑東条英機など

ともつながっていた︒

ここに挙がっている小川平吉は諏訪出身で岩波と同郷である︒

岩波は小川が所属した立憲政友会の政策にもとより批判的であ

り︑憲政会︵のちに立憲民政党︶支持であることを表明し︑第一

六回衆議院議員総選挙では︑長野や東京のメディアで小川を批判

する発言をしている︒また︑岩波は憲政会を結成した尾崎行雄に

私淑しており︑敗戦直後には交友を深めもした︒ここからも岩波

茂雄の政治的な立場を窺うことができる︒しかし︑その一方で︑

岩波は十代の頃︑国粋主義的教育家の杉浦重剛に教育を乞うたこ

とをきっかけに上京を果たし︑岩波書店主となってからも吉田松

陰の全集を刊行するといった︑ナショナリストとしての面も有し

ていた一見アンビバレントなようでも波の中に一貫性が

ことについては中島岳志が既に論じているが本論にお

いても岩波のこうした個性を追って検討することになるだろう︒

      2 引用は飯田泰三監修︑岩波書店編集部編﹃岩波茂雄への手紙﹄ ︵岩波 書店︑二〇〇三年一一月︶ による︒       3 竹内洋 ﹃大学という病﹄ ︵中央公論新社︑二〇〇一年一〇月︶ 4 中島武志 ﹃岩波茂雄   リベラル・ナショナリストの肖像﹄ ︵岩波書店︑ 二〇一三年九月︶

(9)

さて︑蓑田は原理日本社︵一九二五︱四五年︶を活動の拠点と

した︒機関誌に﹃原理日本﹄があり︑一九三四年に創刊され︑四

四年一月まで刊行された︒原理日本社は︑蓑田が教鞭を執ってい

た慶應義塾大学の精神科学研究会と︑三井甲之が主宰していた人

生と表現社が合同した組織である井は明治天皇御製研究も

行った歌人で︑岩波とは旧制第一高等学校時代の同級生であり︑

面識があった︒

蓑田たちは主に東京帝国大学に在籍する︑マルクス主義学者や

自由主義的な学者を糾弾していた︒先に参照した︑岩波が擁護し

た瀧川や美濃部も激しく糾弾されている︒雑誌﹃原理日本﹄での

津田バッシングが活発化するのは︑一九三九年のことだ︒まず︑

三月号で松田福松が﹁津田左右吉氏の東洋抹殺論批判︵上︶

表し︑四月号ではその後編︑また︑高橋空山﹁津田左右吉氏の非

科学思想﹂が掲載された︒

その後︑一二月になると︑原理日本社の関係者はより直接的で

苛烈な行動を採るようになる︒一二月四日には︑東京帝大法学部

の講座﹁東洋政治思想史﹂の授業中に︑講義をしていた津田が﹁東

大精神科学研究会﹂のメンバーに取り囲まれ︑詰問されるという

出来事が起こった︒一九日になると︑蓑田が帝大粛清期成同盟の

全体会議にて声明書﹁早稲田大学教授・東京帝国大学講師文学博

士津田左右吉氏の神代及上代抹殺論に就て﹂を作成し︑会議では

署名を集め︑当局に働きかけることが決議された︒雑誌﹃原理日

本﹄は二四日付で﹁﹃皇紀二千六百年﹄奉祝直前に学界空前の不祥

事件!﹂と題した増刊号を発行した︒

津田に対するバッシングが一二月に激化した理由は︑この年の 一〇月末から津田が東京帝大法学部に講師として出講したことに因ると考えられる︒同学部を第一の標的としていた蓑田たちからすれば︑元から批判対象であった津田は実にいいタイミングで出講してきたことになる︒ 一方︑蓑田と岩波との接点は︑時期をもう少し遡る︒その嚆矢は﹃原理日本﹄一九三四年一〇月号に︑蓑田が突如﹁岩波茂雄氏の驕慢反逆思想﹂を発表したことにある︒それと同時に︑蓑田は岩波へ書簡を送ったようである︒蓑田は﹃吉田松陰全集﹄の刊行に敬意を表する一方︑松陰と岩波の思想は正反対だと批判を加えた︒むろん︑批判の方が主眼である︒岩波はこれに返信した︵日付未詳︶︒その草稿の控えが岩波書店に所蔵されている︵︻図

参照︶

  ﹁貴下の固守せらる

日本主義より見て小生の出版方針が無方

針の如く断ぜらるはさもあるべしと存じ候へ共出版者として小生

にはこれでも世に阿らず俗に媚びざる操守の態度を堅持して来た

し又将来も其積りに御座候﹂とあり︑岩波は蓑田の見方に理解を

示しつつ︑自らが一貫した信念を持って出版に当たっていること

を主張している︒そして︑国家を思う点で蓑田と自分が等しいは

ずだと書き送ったのである︒また︑同級生の三井を交えての会談

を岩波側から提案した︒これは実現したものの︑不調に終わった︒

一九三九年にも蓑田の岩波批判は展開された︒﹃原理日本

月号で︑蓑田は﹁日本精神と東洋思想︱再び岩波茂雄氏に与ふ﹂

を発表した︒先述の通り︑同じ号には松田福松﹁津田左右吉氏の

東洋抹殺論批判︵下︶と高橋空山﹁津田左右吉氏の非科学思想﹂

が掲載された︒さらに︑同号の﹁編輯消息﹂では蓑田が岩波に﹁反

(10)

省﹂を求めている︒その後︑岩波批判は止むが︑翌年の年頭には

内務省や検事局から︑津田の著作に関する申し入れがなされ︑三

月には起訴となった︒

以上の流れを蓑田の視点から整理すると次のようになる︒三〇年代半ばから継続的に岩波を批判してきた蓑田であったが︑三九年に及んで津田がその射程に入った︒そして︑津田と岩波との接点に目が届くようになる︒その結果︑一二月の時点で初めて両者を結びつけた文章を発表するに至った︒それが﹃原理日本﹄増刊号﹁﹃皇紀二千六百年﹄奉祝直前に学界空前の不祥事件!﹂に発表

された︑蓑田胸喜﹁津田左右吉氏の大逆思想︱神代史上代史抹殺

論の学術的批判﹂である︒この中で︑津田の著書を継続的に発行

してきた岩波個人の責任が厳しく問われるべきだと主張したので

ある︒

多様な統制のありようと津田・岩波の一貫性

はじめに述べたように︑蓑田の活動は津田・岩波の起訴に関わ

る実効力を有しているわけではないものの︑蓑田とその周辺の動

向を通して︑三〇年代後半における津田と岩波それぞれの位相が

一枚になっていく道筋は辿れるように思う︒蓑田のバッシングが

二人に対して同時になされた一ヶ月後には︑津田と岩波を起訴す

る動きが明確化している︒その時期から最終的に免訴となるまで

の流れを整理すると︑次のようになる︒

一九四〇年

一月一三日 内務省から岩波書店に対し︑津田の著作に関

して印刷・製本状況の報告が命じられる︒

二月三日 検事局からの命令で︑津田の著書出版について ︻図︼蓑田胸喜宛岩波茂雄書簡︵草稿控・部分︶

 

一九三四年一〇月︵日付未詳︶

(11)

﹁始末書﹂を提出する︒

二月一〇日

  ﹃古事記及日本書紀の研究

など津田の四著

作︑発売頒布禁止処分︒

二月一四日 紙型も押さえられる︒

三月八日 津田左右吉および岩波茂雄︑出版法第二十六条

違反で起訴される︒

六月二七日 予審開始︒

一〇月三〇日 第一回公判︒

一九四一年

一二月二三日 第二〇回公判︒津田に対し禁固八ヶ月︑罰

金四〇〇円︑岩波に対し禁固四ヶ月︑罰金四〇〇円の求刑が

なされる︒

一九四二年

一月一五日 最終陳述︒

五月二一日 第一審判決︒津田に禁錮三ヶ月︑岩波に禁錮

二ヶ月︑いずれも執行猶予二年︒

五月二三日 検事側控訴︑被告側もただちに控訴︒↓以後

公判は開かれず︒

一九四四年

一一月四日 津田左右吉の著書に関する出版法違反事件公

判︑時効によって免訴︒

これが単なる検閲処分でないことは明確である︒そもそも︑過

去に刊行されたものについて時間を遡て処分するということ

は︑内務省側にとっては過去の検閲のいい加減さを暴露するよう なものであり︑避けるべき事態であったと考えられる︒しかし︑ここでは刊行から一六年経った書籍が︑まずは発売頒布処分を受けた︒その上で起訴され︑二人は有罪となった︒ 津田と岩波は東京控訴院に控訴し︑有馬忠三郎と海野普吉に弁護を依頼している︒その後︑藤井五一郎判事を裁判長として裁判が行われたが︑公判が一年以上に亘って行われなかったという理で時効を迎えているとして九四四年一一月四日に免訴と

なった︒控訴以後の停滞を鑑みると︑起訴までの手続きの徹底ぶ

りが際立つ︒それに加えて︑津田の著作についてもその全てでは

なく岩波書店の出版物に限られることも併せると︑これが津田個

人の言論活動のいっさいに蓋をするというよりは︑どちらかとい

うと岩波書店への制裁であったようにも見える︒

裁判の予審開始直後に︑津田が岩波茂雄に送った書簡が残って

いる︵︻参照︶︒﹁公判では学問と学問の研究法とを判事にわ

からせるやうにすることに主力を置きたいと思ひ︑その意味でで

きるだけの努力をするつもりで居ります﹂と述べており︑法廷で

自説の弁解をするのではなく︑学問の存立そのものを問う気構え

を感じさせる︒広くアカデミズムの自立を訴えるその視座は︑岩

波自身が瀧川や美濃部を擁護した理由と通底していることがわか

る︒

      5 安倍能成 ﹃岩波茂雄伝   新装版 ﹄︵岩波書店 ︑ 二〇一二年一二月 ︶ 二〇〇頁参照︒

(12)

一方で︑岩波はいかに公判に臨んだか︒裁判の場での証言を見

てみたい︒第一九回公判︵一九四一年一二月二〇日︶では︑刊行

前の検閲対策について裁判長に﹁イツ頃カラサウ云フ調査ヲシテ

居リマスカ︑出版法ニ触レルカドウカヲ︹刊行前に︱尾崎注︺注

意スルコトニナツタノハ⁝⁝﹂と問われている︒そこで岩波が例

に挙げたのは﹃サーニン﹄だった︒

ソレハ﹁サーニン﹂ト云フ世界的ノ名著ヲ出シタ︑其ノ時ハ

岩波文庫デ東西ノ古典ヲ出スト云フト云フコトヲ建前ニシテ

居リマシタノデ︑ソレヲ入レタ所ガ︑風俗上カライカヌト云

フノデ︑発売禁止ニナルカラト云フノデ︑意外ニ思ヒマシテ︑

世界的ナ古典デアツテ︑世界的ニ認メラレテ居ツテモ︑日本

ノ国情トシテ出シテナラヌモノガアルト云フコトヲ初メテ知

リマシタ

家デ出シタモノデ発売禁止ト云フコトハ思ヒモツカナイコ

トデシタケレドモ︑サウ云フ本ハ考ヘナクテハイケナイゾト

云フコトヲ店ノ者ニモヨク云ヒ渡シテアリマス

岩波はその処分が意想外であたことと︑﹁世界的ニ認メラレ

テ居﹂ても日本国内でそうした基準が認められないという事実を

学習したことを述べている︒それが風俗壊乱に当たったという事

実を明言しながら︑﹁サウ云フ本ハ考ヘナクテハイケナイゾ

言う限り︑検閲対策は専ら風俗壊乱の危険がある図書に限定され

る︒いつ頃から出版法に抵触しないよう配慮するようになったか

という問いに対する応答としては問題ないが︑これまで見てきた ︻図︼岩波茂雄宛津田左右吉書簡︵部分︶︵一九四一年七月一六日︶

(13)

通り︑岩波書店は安寧秩序紊乱の廉で処分を受けることが圧倒的

に多かったにも拘わらず︑その点に一切言及していない︒岩波書

店として初の発売頒布禁止処分を受けたのが﹃サーニン﹄だった

ことを渡りに舟と言うべきか︑安寧秩序紊乱に対する意識が正面

から問われることを迂回する戦略のようにも見える︒一方で裁判

長もその方面からの追及を行わず︑結果的に岩波茂雄個人が安寧

秩序紊乱について発言させられることはなかった︒

また︑﹁是レ迄皇室ニ関スル事項ノ出版ヲシタコトガアリマス

カ﹂と問われると︑岩波は大正期の事例を挙げつつ︑その刊行に

いかに尽力したかを強調する︒

皇室ニ関スルト私ノ記憶スルノハ︑穂積陳重先生ガ﹁御進講

録﹂ヲ出シタイト云フ御話ヲ先生カラ受ケテ︑震災後デシタ

ガ︑何処デモ引受ケヌカラ︑君ノ方デヤツテクレナイカト云

フコトデ︹中略︺一生懸命デ気ヲ付ケテヤツタコトハ記憶シ

テ居リマス

公判の進行の点から見ると︑この問いと応答は津田の著作を刊

行した意図に係るものであるの後︑﹁此ノ四種ノ書物ハ

容ガ皇室ニ関スル問題ダト云フコトハ分ツテ居リマスネ﹂と岩波

茂雄個人の認識に話が及ぶと︑次のように発言した︒

歴史ト云フコトハ分リマシタケレドモ︑皇室ニ関係アルト云

フコトハ

グツト前ノコトデスカラ⁝⁝︹中略︺唯津田先

生ガ立派ナ学者デアルシ︑研究ガ非常ニ立派ナ価値ガアルト 云フ訳デ︑喜ンデ出シテ︑又世間デ歓迎サレタ⁝⁝

時間の経過を強調しつつ︑津田の著作が﹁世間デ歓迎サレタ﹂

ことをさりげなく挟み込んでいる︒この意図を正確に読み込むこ

とはできないが︑岩波なりの不平の表現であると見ることもでき

るだろう︒事実︑岩波は大いに不満を抱えていた︒岩波書店には︑

関係者が裁判の速記録を手書きで複写したものが所蔵されている︵︻︶︒の中には時期は不明ではあるが岩波による

書き込みも数か所確認できる︒そのうち︑検事論告本文における

検事の﹁犯罪成否ノ判断ハ︑健全ナル常識ニ照シテナサルヘキテ

アルト云フコトデアリマス﹂という発言のうち﹁健全ナル常識﹂

に傍線を付し︵︻図矢印にて示した︶︑﹁何ニカ健全ナル常識ト

イフ﹂︑﹁二千六百年ハ常識カ/二千六百年否定カ常識カ﹂と書き

込んでいる︒

一方︑津田は︑先に見た書簡で述べた通り︑徹底して学問の問

題として法廷に立った︒二一回あった公判のうち一五回以上が︑

津田の学問をめぐる審議で占められている︒しかし︑最後の公判

にあたる第二一回公判︵一九四二年一月一五日︶の被告挨拶の際︑

津田は些か不可解なことを述べている︒﹁午前ノ弁護人ノ御話ノ

中ニハ少シク私ノ考ヘト違ツタコトガアリマス︒︹中略相当重

要ノ点ニ付キマシテ可ナリ大キナ喰違ヒガアリマシタガ︑是レハ

学問ノ性質トシテ已ムヲ得ナイト思ヒマス﹂というものだが︑こ

れは何を指しているのだろうか︒

(14)

同じ日の午前島田弁護人が次のように発言していた︒﹁歴史

ハ決シテ具象ノ羅列ニ終ルベキモノデハナクシテ︑ソレ等ヲ概念

ニ形成スルトコロニ歴史ノ生命ガアルト私ハ考ヘマス﹂︒あくま

で島田個人の発言であることが強調されているが︑ここにテクス

トの取り扱いに関する津田と弁護人との大きな差異が立ち現れる︒

そもそも津田は第三回公判︵一九四一年一一月六日︶で︑次の ように述べていた︒

一口ニ申シマスト︑神代史ハ説話デアリマス︒説話ト云フ言

葉ノ私ノ使ヒ方ハ︑是レハ実際アツタ事柄デハナイ︑話トシ

テ形作ラレタモノデアル︒サウ云フ意味ニ於テ説話ト云フ言

葉ヲ使ツテ居リマス︒デスカラ説話ト私ガ申シマスルノハ︑

歴史的事件ノ記録ト云フ言葉ノ反対ノ概念デアリマス︒

ソレハ併シ大体ノコトデアリマシテ︑神代史ノ中ニ歴史的事

件モ含マレテハ居リマス︒

ソノ歴史的事件ト云フコトハ何デアルカト申シマスト︑出雲

ニ一ツノ政治的勢力ガアリマシテ︑其ノ出雲ノ政治的勢力ガ

曾テ朝廷ニ服従シテ居ナカツタ時代ガアリマシタ︒ソレガ或

ル時期ニ朝廷ニ服従シテ︑天皇ヲ戴ク我ガ国家ノ組織ノ中ニ

入ツタノデアリマス︒其ノコトハ歴史的事件デアリマス︒

併シ其ノ歴史的事件ガ歴史的事件ノ儘ニ神代史ニハ現ハレテ

居リマセヌ︒

神代史ノ説話ノ中ニ其ノ歴史的事件ガ含マレテ居ルト云フコ

トデアリマス︒︹中略︺

何等カノ思想ヲ表現セラレテ居ル所ニ説話ノ意味ガアルノデ

アリマス︒此ノ思想ガ実ニ歴史的事実ナノデアリマス︒昔ノ

人ガ斯ウ云フ思想ヲ持ツテ居タト云フコト︑其ノ思想ガ一ツ

ノ事実デアリマス︒

まず︑﹁神代史ハ説話﹂であり︑﹁話トシテ形作ラレタモノデアル﹂

と断言している︒それは﹁歴史的事件ノ記録﹂とは全く異質だが︑ ︻図5︼岩波書店蔵津田裁判速記録︵写し・部分︶矢印は筆者による︒

(15)

神代史に﹁歴史的事件﹂も含まれていると言う︒しかし︑神代史

では︑その﹁事件﹂﹁事件﹂のままに書かれるわけではない︒で

は︑﹁説話﹂である﹁神代史﹂には何が書かれているのか︒それは﹁歴

史的事実であると津田は述べる︒﹁昔ノ人ガ斯ウ云フ思想ヲ持

ツテ居タト云フコト︑其ノ思想ガ一ツノ事実デアリマス﹂とある

通り︑﹁事実﹂とは﹁昔ノ人﹂が持っていた﹁思想﹂の在りようだ

ということである︒島田弁護人が述べたように︑過去を事後的に

概念化するのではなく︑過去に存在した概念を掬い取ること︑そ

れが津田にとっての史学であり︑テクストを﹁読む﹂ことだった

ようである︒

津田事件とは︑時代の趨勢が招いた出来事ではあったが︑それ

はごく短時間に起きたことではなく︑長い時間をかけて︑様々な

文脈が絡み合いながら成立したものだった︒その上で︑津田と岩

波のそれぞれが︑法廷での弁論を繰り広げたのである︒

岩波書店には︑戦後津田が安倍能成に送った書簡が保存されて

いる︵︻参照︶︒安倍は﹃岩波茂雄伝﹄の執筆に際して︑書店

員や出版物の著者等多数の関係者から証言を収集していた︒この

手紙も時期から判断してその際のものだと推定される︒津田は岩

波茂雄個人との交際について︑三点に整理して纏めている︒一点

目は﹃神代史の研究﹄の出版の経緯である︒印刷済みの本が関東

大震災によりすべて焼失し︑津田の手元に残っていた校正用のゲ

ラをもとに再度印刷したことが述べられ︑続けて﹁そのころ岩波

君は自転車で飛びまはつて災後の処理に奮闘してゐたやうであつ

て︑さういふいでたちで屡々来訪せられた︒岩波書店の規模がま

だ小さかつたころなので︑岩波君は自分で何でもしてゐたかと思 往時の書店主の姿を活写している︑﹁その後の著

書の出版はすべて岩波書店に託することになつたが︑これも岩波

君からの話によつたことである﹂とあり︑本論﹁三﹂の冒頭で述

べた︑岩波茂雄の仕事の特質を具体的に伝える資料となっている︒

本論では︻図︼として津田事件に関する言及が認められる部

分を示した︒鍵括弧で示した範囲には︑次のように書かれている︒

二︑出版のことに関して岩波君に非常な迷惑をかけたのは︑

出版法違反事件である︒さういふ事件として司法部のまだ公

式に取上げない前から︑岩波君は僕のために心配し︑健康や

その他のことについて懇切に気をつけてくれられたが︑いよ

〳〵裁判所の手にかゝるやうになつてからは︑弁護士のこと

をはじめとして︑一々は忘れたがその他の一切のことを引う

けて処理し︑少からざるその費用をも全部負担してくれら

た︒事件はもと〳〵僕から起つたことであり︑岩波君を連坐

させたのも帰するところは僕の責任であるにかゝはらず︑か

ういふ計らひをしてくれられたのである︒

  ﹁さういふ事件として司法部のまだ公式に取上げない前から

岩波君は僕のために心配し︑健康やその他のことについて懇切に

気をつけてくれた﹂とあり︑起訴前から岩波ならびに津田がある

程度事態を予測していたことが窺える︒岩波は敗戦直後の一九四

六年に没したが︑出版者としての著者への厚情は︑晩年の津田に

強く記憶されていたと言える︒裁判の場では両者とも自らの役割

に徹し︑交渉を表に見せはしなかったが︑実際にはこうした結び

(16)

つきがあったことが︑この書簡からも垣間見える︒

︹付記︺本研究は JSPS 科研費 JP16K13196 の助成を受けたものである

執筆にあたり ︑岩波書店 ︑ならびに𠮷田裕氏のご協力を得た ︒ この場を

借りてお礼申し上げたい︒

  また ︑ 本 稿の書誌に係る事項において ︑ 今 日の意識に照らして不適切 な表現があるが︑資料の歴史性を考慮してそのままとした︒

︻図︼安倍能成宛津田左右吉書簡︵一九五六年九月一六日︶︵部分︶

 

鍵括弧は筆者による︒

参照

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すえのつゆむすぶなつくさ京絵入新聞では︑同じ明治十二年に﹁末露結商茅﹂︵横浜鱸孝報︑七月二十四日2二十六日︑三回︶︑﹁岩ねのきく﹂

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