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明治期東奥義塾関連洋書についての考察

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(1)

‑ ジ ョン ・イング寄贈書を中心に

かな子

は じめに一 洋学教育の中心であ った洋書一

津軽地方 において洋書が使 われ るよ うにな ったのは弘前藩時代 に さかのぼるO 蘭学 か ら英学 ‑の移 行期 にあった幕末期 には、藩士が洋書で学 べ るよ う、弘前藩 では種 々の努力 を行 なった。 明治 に入 っ て もそれ は継 続 し、慶鷹年 間か ら明治3年 にかけて 「万国史や 「地理書」、 「ウエ ブス トル 氏 中辞

( 書」 な どさまざまな洋書 を購入 した様子が、坂井達郎によって明 らかに されてい る。

これ に続 いて明治5 (1872) 11月 に津軽地方弘前 に設立 され た東奥義塾 で も、草期 か ら外 国人 教師を招聴 し、洋書 中心の教育 を行 なった。 明治10年 にアメ リカ ・イ ンデ ィアナ州 のイ ンデ ィアナ ・ アズベ リー大学 に留学 した東奥義塾生た ちは、同大学予備課程 とほぼ同水準の洋書 をテキス トとして

II

学 んでお り、入学後 も現地 の学生 になん ら引けを取 るこ とない水準 に達 していた。 さらに洋書 中心の 教 育は明治20年代 になって も続 いた。 この 当時は条約改正 が論議 されている ときであ り、内外雑居 に そなえて英語‑の関心が全 国的に高 まった時期 で もある。 また、特 に20年代初頭 は未 だ に 日本語 のテ キス トがそ ろわない こ とや 、新 しい知識 を輸入 教科書で学 ぼ うとす る動 きが全 国的に強か った時期 で、

東奥義塾 もその中に入 っていた。 ここでは小学校 を終 えたばか りの生徒たちが、様 々な教科 を英語 の .I

原 書で学ぶ こ とにな り、それ は時 にかな り厳 しい経験 となるケース もあった よ うであ る 明治20年代 か ら30年代 にかけては一般 に洋書か ら日本語 の教科書‑の移行期 にあた るが、東 奥義塾 ではその まま 洋書 中心の教育 を行 なった。 明治293月 まで同校 に在籍 した浅 田良逸 は、数学 か ら経済学 まで諸教 科 を原書で学んだため、東京 の学校 に進学 した とき、苦 労 した ことを伝 えているC原 書だ けで学 んだ

4) ため知識 は原語のみであ り、 日本語 で書 けなか ったか らであ る。

こ うした東奥義塾教育の 中核 であった洋書 は、現在 で もきわめて良好な状態で残 されてお り、 これ まですでに数度 にわたって調査 が行 われてい る。 しか し、現存す る洋書の全容が明 らかになって も、

それ らが具体的に どの よ うに東奥義塾教育や津軽地方 にかかわったのかにつ いては、 これ まで ほ とん ど考察 され て こなかった。本稿 では、 これ までの調査結果 をふ まえ、明治期東奥義塾 に関連す る洋 書 の うち、弘前藩時代 の購入本や 、草期東奥義塾 に大 きな影響 を与 えた とされ る、東奥義塾三代 目外

(5)

国人教師 ジ ョン・イ ングの寄贈 書 な ど、 当時 の英学 を知 る うえで重要 と思われ る もの を取上 げ、時代 の状況 も視野 に入れつつ、地方 の近代化 との関連 を考察す る。

1.現存す る東奥義塾関連洋書の全体像

津軽地方 の洋書 について述べ る前 に、い くつかの言葉 を定義 してお きたい 前述 の よ うに弘前藩 時

(2)

代か らすでに洋書は購入 されていた。 この うちの多 くは藩や藩学校 が解体 した後 もそのまま、実質的 に藩学校 を継承 して設立 された東奥義塾に受 け継がれた と見受 け られ る。現在、 これ らの洋書類 は、

現在東奥義塾高等学校 と弘前市立図書館の二 ヶ所 に分かれて保管 され、内部 に東奥義塾 に所蔵 されて いた ことを示すなん らかの蔵書印がお されている。そ こで、 これ らの本全体 を 「東奥義塾関連洋書」、

その内の東奥義塾高等学校所蔵本 を 「東奥義塾本」、弘前市立図書館所蔵本 を 「弘前 図書館 本とす

る。 (6)

東奥義塾関連洋書についての本格的調査 は、1963年の池 田哲郎 によるものが最初 である。池 田は、

全国の洋学校所蔵洋書調査 の一環 として東奥義塾関連洋書の調査 を行 ない、1880年以前発行の洋書約 100冊 を紹介す る とともに、その所蔵状況 について高 く評価 した。 その後 さらに、以前東奥義塾で使 用 され 、個人で所蔵 されていた洋書が東奥義塾に返還 され るな ど、所蔵状況 にい くらかの変化 があっ

I7)

た ことか ら、筆者 は1994年か ら1996年 にかけて、再度東奥義塾本の調査 を行 なった。 さらに、その と き確認 できなか った弘前図書館本 も2004年夏に調査の機会 を得 ることができ、現状 での全体像 をつか む ことが可能 になった。東奥義塾本、弘前図書館本共に、調査結果 をま とめる際に、十進法分類 を念 頭 に置 きつつ実態 に合わせ た18項 目を設定 した。それぞれの項 目と東奥義塾本、弘前図書館本 を合わ

E せ た冊数 は以下の よ うになる。

① 百科事典 ・年鑑、32 ②哲学 ・心理学 ・倫理学、8 ③宗教、24 ④歴史 ・伝記、33

⑤地理 ・紀行 、7 ⑥政治 ・法律 ・経済、41 ⑦軍事、1 ⑧数学、26 ⑨理学、23 医学、5 ⑪ 工学、3 ⑫農林業、1 ⑬芸術、1 ⑭辞典、9 ⑮ 文法、4冊 ⑯作文、

(9) 11 ⑰読本、 5冊 ⑬ 文学、33冊 (計267冊)

幕末か ら明治にかけて使用 された原書が、 これ ですべて とはかぎ らないが、現在残 っている本 を見 るかぎ り、政治経済関係 が多い ことが分かる。 また、中には ミッチェルの地理書、バー レーの万国史 な ど、 もともと福沢諭吉がアメ リカで購入 して慶応義塾 で教科書 として使用 した ことか ら全国に広ま った、いわゆる全国流布本 も一通 り入 っている。 さらにこの中には東奥義塾 か ら留学生 を送 りだ した 頃のイ ンデ ィアナ ・アズベ リー大学で教科書 として使用 された もの と同 じ本 も含 まれ ていて、 当時の

Ill)I 東奥義塾の英字が比較的高い水準になっていた ことを示 している。

本の保管状況は、前述 したよ うに全体的 に良好である。ただ し、 旧藩学校時代 に購入 した と思われ る書籍 は、何冊かひ どくいたんでお り、中には一度本 を解体 して再製本 した と思 われ る もの もある。

明治の始めか ら弘前で英学 を学んだ岩川友太郎が、本が不足 してい るためば らば らに して皆で勉強 し (ll)

た ことを伝 えてい るが、そ うした形跡 を残 している もの と思われ る。

2.蔵書印 と寄贈サ イン

これ らの洋書の うち、購入経路が明確 な ものは少 ない。手がか りになるのは蔵 書印 と寄贈サイ ンで

(3)

ある。 寄贈サイ ンの方 は、誰の本であったのかが明確 で ある。東奥義塾 に本 を寄贈 した人の うち、冊 数や影 響力で重要 と思われ るのは明治7年末に着任 したイ ング、明治10年の最初のア メ リカ留学生の 川村敬 三、イ ングの後任 で明治12年着任の外国人教師 カール の3人 である。 この うち、イ ングの寄贈 書 は この地方 の近代化 との関連 において興味深 い もの と思われ るので、後述す る。

東奥義塾本 の蔵 書印は、明 らかに大正期 の再興後の もの と見受 け られ る印 を除 くと、(丑稽古館蔵 、

② 弘前学問所 、③ 弘前藩学校 、④弘前蔵書、⑤青森学校 、⑥青森 県文庫 印、⑦東 奥義塾蔵 書之印、⑧ 三十二年改、⑨東奥義塾蔵 、⑲十二支印、⑪川村敬三寄贈印の11種類 である これ に、弘前図書館本 に見受 け られ る⑫ 市立弘前 中学東奥義塾図書館蔵 、⑬青森県弘前市立弘前図書館 の二つの印が加 わ る。

この うち、⑧ 三十二年改 と⑦東奥義塾蔵書之印は、東奥義塾本 のほぼすべての本 についてい る。 弘前 図書館本 の場合 は、⑧ 三十 二年改 と⑦東奥義塾蔵書之印が付いてい る本 と、一⑲市立弘前 中学東奥義塾 図書館蔵 、⑬青森 県弘前市立弘前図書館 のいずれかがついてい る本 に分 け られ、同 じ本の中に⑧ 三十 二年改及 び⑦ 東奥義塾蔵書之印 と⑫市立弘前 中学東奥義塾図書館蔵 の印が押 され てい るこ とはない。

そのため、⑧ 三十 二年改の印は、明治33年の私立か ら市立‑ の移行期 にあた って所蔵 を確認 した印で はないか と推察 され る。従 って、 この⑧三十二年改印がついてい る ものは、私立時代の蔵 書で あ り、

ついていない ものがその後の購入 であった と考 え られ る。

以上 の蔵書印の うち、本 を活用 した経路 を推 し量 る手がか りにな るのは、(丑稽 古館蔵 、② 弘前学問 所 、③ 弘前藩学校 、④ 弘前蔵書、⑤青森学校 、⑥青森県文庫 印、⑲ 十二支印だが、その うち、①稽 古 館蔵 、② 弘前学問所 の印が押 され てい るのはほ とん ど蘭書である。 こ うした弘前藩 時代か らの印が押 され てい る一つのケー ス として、弘前 図書館本 の中の 「コ‑ネル の地理書」 を例 に とってみ る。 同書 には③ 弘前藩学校 、⑤青森学校 、⑥青森県文庫印、⑦東奥義塾蔵 書之印、⑧三十二年改が押印 され て お り、 この本 のた どったルー トが鮮や かに描 き出 され てい る。す なわち、旧弘前藩学校時代 に購入 さ れ 、おそ らく明治41月の弘前の敬応書院及び青森英学校 開設 時 に青森の英学校 に所有が移 り、更 に県の所有を経 て東奥義塾 に戻 った もの と推察 され るO この本 も前述の全国流布本の一つであ り、弘

.I. 前藩学校 時代 にす でに弘前藩で こ うした本 を購入 していた こ とを示す物的証拠 ともな ってい る。 ただ こ うして本のルー トが推測 できるものは少 な く、 旧藩学校時代 の所蔵 を示す蔵書印が あるのは、蘭書

(13) も含 めた全体 でわずか21冊 にす ぎない。

では次 に、 これ らの書籍 の中か ら、 この地方の近代 を考 えるに当た って興味深 い と思われ る書籍 に つ いて考 えてい きたい。

3.旧藩学校時代の購入洋書が伝 える洋学 (1)バー レーの万国史

旧藩学校時代 の蔵書 印を持つ洋書の 中で、明治前期の女子教育 との関連 で興味深 いのが、弘前図書 館 本 の中のバー レーの万国史 (PeterPwley'sUnitJersaLmstoTy,Onthebasisofgeography,New York:

vison,Blakeman,Taylor&C0.,1870)で ある。

(4)

慶応義塾か ら広 がった全 国流布本 の一つであ る このバー レーの万国史は、言 うまで もな く明治期洋 学 の中で、全 国的 に非常 に多 く使用 された ものであ る。英語力を推 し量 る指標 とされ 、三宅雪嶺 、長 谷川如是閑な ど、多 くの知識人たちに も影響 を与 えた。 もともと作者 が よくわか らず 、 タイ トル に付 いてい る ピー ター ・バー レーな る人物 の作 とされ た り、本 を刊行 した グー ドリッチの著作 とされた り す るな どの混乱があったが、昭和に入 ってか ら緋 文字 な どの著作で知 られ る文豪ナサニエル ・ホ‑ ソ ー ン (NathanielHawthome,1804‑1864)の若 き 日の匿名 による著作 であることが知 られ るよ うになっ 114

た。

東 奥義塾 との関連 で見 る と、『東奥義塾再興十 年史』 に掲載 され てい る 「東奥義塾課程」 の下等 中 学科 の部分に 「パ ア レ一万国史」 の名 前が兄いだせ るが、それ以外 は、明治6年 のカ リキュラムの 中 に も 「万国史」 とあるのみで、著者名 が不明であ る。従 って、た とえば 「ス ウイ ン トンの万国史 ど類似 した タイ トル を持つ書籍 がい くつかあ る中で、同書が どの くらい教科書 と して使 われたのかは、

よ くわか らない。

今回、弘前市立図書館 を調査 した際、バー レー の万国史 を兄いだす ことがで きた。 しか し興味深 い のは、 この本 に一つ も東奥義塾 の蔵書印がない こ とである。④弘前蔵書印 と⑩十二支印 (辛未改) が あ るた め、旧弘前藩時代の購入 と推察 され るが、東奥義塾で使 われ なか った可能性 は高 く、東奥義塾 関学後 、同校 とは別の場所 で この書籍 が どの よ うに して今 に伝 え られたのか、不明である。ただ、 こ の本の存在 は、 旧弘前藩校 の体制 をほぼ引 き継 ぐ形 で造 られた東奥義塾 に、全 ての本 が残 ったわけで はな く、東奥義塾以外 の場所 で何 らかの形 で使 われ る とい う、従来考 え られ ていたの とは別 の洋書ル ー トが存在す る可能性 を示 してい るもの と考 え られ る。

さらに、 このバー レーの万国史 に関連 して きわめて興味深 いのは、弘前女学校 開校時 に教師であっ た、成 田 らくの残 した学習 ノー トと内容 が一致す る ことである。次 に、 この ことにつ いて述べ る

(2)F万国史』 と成 田 らくの ノー ト

成 田 らく (1870‑1945)は、 旧弘前藩士成 田茂 の長女 として西津軽郡 山田村 に生 まれ た女性 で あ る。

明治10 (1877)1月か ら159月 まで山田小学校 、明治18 (1885)3月か ら5月 まで青森 県立女 子師範 学校で学んだ。小学校在学 中は きわめて成績優秀 につ き、何度 も表彰 され 、賞与 としての書籍

5)

を得 てい る。 明治20 (1887)9月に、弘前女学校 の前身である弘前遺愛女学校 に就職 、明治22年 の 弘前女学校 開校後 も同校 で教鞭 を取 った。 明治22 (1889)1216日時点の職員表 で校 主長谷川誠 三 、

(1F)

副教頭本多ティの次 に名前 が記載 され てい る。 同校離職 日時は不明だが、駐米大使 と して高名 だ った 珍 田捨 己の弟 、珍 田正雄 と結婚 し、その後 は家庭 で家事 と子育てに専念 した。東奥 日報 で健筆 を振 る

った成 田鉄四郎 は叔父 にあた る。

成 田 らくは、山田小学校在学 中か ら弘前女学校 教師時代 にかけての学習帳 を残 してい る。その内容 は算数 、物理 、英語 、歴史、作文、小学女礼式 、教育指導法 な どで、当時の学習方法 を伝 える史料 と

(17)

な ってい る。 中で も本稿 の内容 との関連 で注 目に値 す るのは、英語 の練習帳であ る

成 田 らくの ノー トの うち、英語 に関連す るのは9冊あ り、内容 はほ とん ど単語帳である 表紙 か ら

(5)

判断 して、世界史関係 の本 に関す る もの と思われ るのが、 3冊残 ってい る. それ ぞれ表紙 に、「丘rst The glossary ofUniversalhistory,Raku Narida」 (最初の万国史の単語帳、 ラク、ナ リタ)、「The glossary ofuniversalhistory,Raku Narita」 (万国史の単語帳、 ラク、ナ リタ)、「The g】ossary of universalhistory,R.Narita」 (万国史の単語帳、R.ナ リタ) とあるo この うち、「The glossary of universalhistory,RakuNarita」 の130と記 されてい る頁 と、バー レーの万国史130頁 を比較 してみ ると、

両者の内容が一致 し、 この UniversalHistory」 関係の ノー トが、バー レーの万国史 を学んだ ときに 作成 された とい うこ とが明 らかになるO らくの ノー トの該 当部分の写実 と、バー レーの万国史130 の該 当部分の抜 き書きを以下に掲 げる。

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8.Themostremarkable垂旦唾 inthehistoryofAsiais,that重 thecountryhasseenmany revolutionsandchanges,theconditionofthepeopleremalnSnearlythesame. InourcountⅣ andin Europe,thereisaconstantlmprOVement・ Everyyear垣 埋呈SOmenewart,invention,orinstitution,for the垣堅塾 of些型呈吐.

9.ButinAs iaitisnotso.Whoeverisking,thepeoplearebutslaves. Educationmakesno pro灯eSS,換地 ISunknown ,truthislittlevalued,virtueisnot由 些卓,andthatthingwhichwecall comfort,andwhichmakesourhomesso垂些 tOuS,isnottobefoundinthis些 country,sofavoredby Providence,andso地 endowedby些担堅.

(6)

上記 の英文中、下線部分が、 らくのノー トに抜 き書 きされている単語 である。 ノー トと照合す る と、

左 か ら右 に英語 を横書 きす る現代 と違 って、単語 を縦 に上か ら下‑、 さらに右 の行か ら左 の行‑ と書 き進んだ ことがわか る。 さらに、本 の内容 との関連 か ら判断 して、3冊 中最後 に作成 された と見 られ Theglossaryofuniversalhistory,R.Naritaの最終頁に、 「明治二十年 寓国史字留 成 田良久 十一月二九 日」 と記載 されてい ることか ら、これ らのノー トが明治20年 の もの と判断で きる。成 田ら

くは、前述の通 り明治20 (1887)年9月に弘前遺愛女学校 に就職 してい ることか ら、同校 の教師時代 に学習 した もの と思われ る。

この弘前遺愛女学校 とは、前年弘前教会内に造 られた来徳女学校 が函館遺愛女学校 の分校 とい う形 を とった ときの学校である。ただ、その後の弘前女学校時代 とはちがい、教育体制 な どの詳細 は不明 である。 当時、実際 に校務運営 に当たった山鹿元次郎の記述 には、明治19年11月頃に、費用の大部分 と学校経営 を主 としてメ ソジス ト派婦人宣教師の監督 を受 けるよ うにな った ことか ら弘前遺愛女学校 と名称 が変わった とことと、それ以前の明治196月開校 の来徳女学校 当時の教育 内容が、裁縫や読

(18)

み書 きを学ぶ くらいだった ことが記 されてい る。 この学校経営の大半 を担 ったメ ソジス ト派女性宣教 師文書に掲載 され てい るヒュ‑エ ツ トの報告書で も、当時の同校 に外国人女性宣教師が常駐 していな

(19)

い ことが記載 され 、 したがって、バー レーの万国史 を原語で学んだ当時の成 田らくが外国人女性宣教 師か ら学んだ とい う可能性 は少ない。おそ らく弘前遺愛女学校の教育 とは別 の枠で学んだ もの と思わ れ る。

どの よ うない き さつで、誰の教 えを受 ける形で成 田らくが この本 を学 んだのか不明だが、少な くと もこのバー レーの万国史 と成 田らくの ノー トは、弘前藩校時代の洋書が、東奥義塾以外で も使 われて お り、 さらに東奥義塾 の男子生徒だけではな く、東奥義塾外で、女性 も洋書で学んでいた事実を今 に 伝 えるものであろ う。

なお、弘前遺愛女学校は明治226月に県内初の本格的女学校 である弘前女学校 と して開校 した。

(20) 同校 では、本科の課程 に英語 を週6時間割 りあて、アメ リカ人女性 宣教師に よる英語教育 を展開 した。

2年次のカ リキュラムには、英語 の時間に 「作文会話」 と並んで 「寓国史之類」 と記 され、 さらに、

3il6

教科用 図書 として、ス ウイ ン トンの寓国史な どがあげ られているO らくの同僚であった海野 ヨネ も英 (:2)

語 によく通 じた女性 だった。成 田らくの 「寓国史」についての学習 も、何 らかの形で生 きた可能性 は 十分にあるだろ う。公立の高等女学校教育体制が整 う前の弘前にお ける、近代化‑向けた一つの側 面 を伝 えるもの と思 われ る。

4.ジ ョン ・イ ングの寄贈書 (1)イングの寄贈書一覧

次に この地方の近代 を考 える うえで重要 と思われ るのは、ジ ョン ・イ ングの寄贈書 である。東奥義 塾本 と弘前図書館本 の調査 の結果、イ ングの寄贈書 と判断できるのは次 にあげる8冊である。

1.Coppee,Henry ElementsofRhetoric;DesignedasaManualofZnstnLCtion,E.H.Butler&Co.

(7)

USA,1860,384p.

2.Cushing,LutherS. RulesofProceeding and Debatein DeliberativeAssemblies,Taggard&

Thompson USA,1867,189p.

3.Dana,JamesDwight.AidedbyGeorgeJarvisBrush DescriptiveMineralogy,ComprisingtheMost RecentDiscoveries,JohnWiley&Son USA,1875,827+64p.

4.Hiatt,J.M. ThePoliticalManMl,ComprisingNumerousImportantDocumentsConnectedwiththe PoliticalHisto7yOfAmerica,Asher&AdamsUSA,1864,306p.

5.Liddell,HenryG. mstoryofRome,from theEarliestTimestotheEstablishmentoftheEmpire, Harper&Brothers,1865,768p.

6.Schwegler,Albert.,trams.JuliusH.SeelyeA Histo

7

yOfPhilosophyinEPitome,D.Appletonand Company,1866,365p.

7.Scott,ColonelH.L.MilitaryDictionary:ComprisingTechnicalDePnitions;,Trubner&C0.,1862, 674p.

8.Sheppard,Furman TheCbnstitutionalTextBook:A PracticalandFamiliarExposition ofthe ConstitutionoftheUnitedStates,GeorgeW.Childs,1865,324p.

以上 の うち、1の修辞学 の本 と6の哲学 の本 は、それ ぞれ1864年 と1867年 のイ ンデ ィアナ ・アズベ r:3

リー大学 での教科書であ り、イ ング 自身が学 んだ もの と思われ る。 また、3の地質学 の本 は発行年 が 1875年 であき らかにイ ングが弘前滞在 中に取寄せ た もの と判 断で き、東奥義塾関連洋書 の中では重要

(:4)

な もので あるが、 当時 の地質学 をめ ぐる状況 と関連 して、す でに拙著 の中で言及 したので ここでは省 略す るC ただ、後述 の内容 との関連 で、イ ング夫妻 が明治9617日に、後 に明治14年 か ら15年 に か けてお きた弘前事件 で東奥義塾関係 者 と対立す ることにな る大道 寺繁禎等 と共 に地質調査 に向か う

(5,1

な ど、単 な る東奥義塾教師 とい う枠 を越 えて、地域 の人 々 と協力 した活動 を行 なって いた ことを指摘 す るに とどめる。

イ ング寄贈書で、 これ まで若干で も言及 され てきた以上の3冊 を除 く残 りの5冊 中、5の ローマ史、

7の軍事 関係 事典 を除 く3冊は、議事 関係 の書籍 である。 ここで、イ ングが残 した議 事 関係 の本 の う ち、 2の クシング、 8のシェパー ドの本 について、以 下 に取上 げる。

(2)「クシング氏議事 定則」 と 「シ ッパ ァ ド ・米国政署」

東奥義塾 に 「クシング氏議事定則 」 として残 され ていた この本の、 目次 内容は以下の よ うな もので あ る。

は じめに

第一章 予備 的内容 について (定足数 、議会 の規則 、期 間、議事決定原理) 第二章 役割分担 (議長、書記)

第三章 メンバーの権利 と義務

第 四章 運営 についてのイ ン トロダクシ ョン

(8)

第五章 一般動議

第六章 否決 (先決 問題、延期) 第七章 延長の動議

第八章 動議 の付託 第九章 修正動議

第十章 議題 の一連の順序 (優先審議 事項、付随審議事項 、補足審議事項) 第十一章 議 事の秩序

第十二幸 討論 の秩序 第十三章 質 問について 第十 四章 再審について 第十五章 委員会 について おわ りに

どの よ うな集団であれ、審議す る とは、適切 な方法 を用いてお こなわれ るべ きであ り、その結果 は その集 団の総意 を示す ものであ るとい う内容 か ら始 まるこの本は、上記 の 目次か らも分か る通 り、議 事運営の方法 を詳 しく書いた もので あ る。 十九世紀後半のアメ リカで、広 く用 い られ た本 であった。

著者 の クシング (1803‑1856)は、ハーバー ド大学 の ロース クール 出身 で、ボス トンで法律関係 の雑 誌 の編集や下院の職員 を務 めた後、1844年 に州議会 の議 員 とな り、 またボス トンで民事訴訟 に携 わっ た りした。 1848年 か ら亡 くな るまではハーバー ドの ロー スクール で ローマ法 も教 え、1850年か らは、

最 高裁 での裁判記録 を取 りま とめる仕事 もお こなった。 上記 の本 は、 クシングの代表作 で、 これ に よ (2F5J

って彼 はたちまち議事運営方法 の権威 と見 な され るよ うになってい る0

また、 「シ ッパ ァ ド米 国政客」 と して東奥義塾 に保 管 され ていた シェパー ドの本 の 目次 内容 は以下 の通 りである。

第一華 北アメ リカの植 民地 にお けるセ ツル メン トの発 見 第二章 連合」 について

第三章 憲法 の適用

第四章 序文一 法権力 の分割一 下院 第五章 上院

第六章 上院 と下院の適切 な分割 第七章 立法

第八章 議会 の権 限 第九章 議会 の権 限の制約 第十章 上院の権 限の製薬 第十一章 行政の権 限

(9)

第十 二章 行政 の各部局 第十三章 司法 の権 限 第十 四章 さま ざまな規定

第十五章 憲法改正一 将来的 な、 さま ざまな規定

第十 六章 憲法 とその改正 についての追加事項 、権利 の主張、独立宣言 、連合 についての記 事 、 ワシン トンの演説 、試験のための質 問事項、イ ンデ ックス

シェパー ドの本 は、歴史 をふ まえなが ら、ア メ リカでの法体制 と立法 ・司法 ・行政 の三権 の あ り方 について書かれた ものであ る。主に学校 で使 われ る ことを念頭 に執筆 され 、分 か り易い記述 であ る と 共 に、巻末 に試験用 の問題集 も付 いていて、独学 も可能 な本 となって い る。 著者 シェパー ド(1823

‑ ?) は、プ リンス トン大学で法律 を学んだ人物 で、1848年 にフィラデル フィアで弁護 士 とな った。

1868‑71、1874‑77の間は検察官 も努 めたが、その間、刑事事件 の迅速 な解決 に取 り組 んだ こ とで知 (27)

られ る。上記 の本 は、 シェパー ドの代表作 となってい る。

以上の本の 目次内容 が示す通 り、イ ングが東奥義塾 に残 した本 は、議会や議事進行方法 、法律 に関 す るものである。現在 わか っている範 囲では、全国の明治初期洋学校 関係 の洋書 に これ らの本 の類書 はきわめて少 な く、少 な くとも池 田哲郎が全国の洋書 を調査 した ときの記録 には、同名 の書籍 は見当

(28) (29)

た らない。 ただ、興味深 いのは札幌農学校 の農学校 文庫 の 中に、 シェパー ドの本 が一冊、 クシングの 本 が二冊 、残 され てい るこ とである。 この場合 、シェパー ドの本 は、 タイ トル は同名 だが1855年版 で、

出版社 は別 であるO クシングの本 もタイ トル は同名 で も、一つは1860年版 、 も う一冊は1869年版 で、

1869年版 の方 は出版社 も別 となってい る。 両冊 とも広 く用い られ 、数度 にわたって版 を重ねてい るこ とも一 因 と思われ る。

この よ うに草創期東 奥義塾の学生た ちに多大な影響 を与 えた とされ るジ ョン ・イ ングが残 した 中に は、議会や議 事運営の方法 について具体的 に詳述 した ものが含 まれ ていた。 イ ングの場合 、購 入 した と思 われ る 日付 を本 に記 入す るこ とが多 く、 シェパー ドの本 は18683月23日、 クシングの本 は、

18683月26日となってい る。 イ ングが中国や 日本 に宣教 に赴 く前 に購入 した ことは確 実である。 イ ングは1870年 に夫人 とともに宣教のため中国に渡 り、1874年 に 日本 に来 てい るが、その間母 国には帰 っていない。 これ らの書籍 をその間持 ち歩 いた ものなのか、東奥義塾 に来てか ら、何 らかの理 由で母 国か ら送 らせ た ものなのか、その辺 の経緯 は不明だが、前掲 のイ ング寄贈書の中の3.にあげた地学 の本 の よ うに、 これ らの議事法 の本 もイ ングが弘前滞在 中、わ ざわ ざ寄せ た可能性 は否定 で きない。

いずれ に して も、寄贈 していった とい うことは、それ な りに何 らかの必要性 があった もの と考 え られ る。 なぜ これ らの本 が必要 とされ たのか、次 に、当時の弘前 を取 り巻 く背景について言及す る。

(3) 当時の東奥義塾 を巡 る時代背景

周知 の通 り明治初年 は、 日本 の政治体制 が激変 した時期 である。 特に、明治11年の三新法発布 に よ り、各府県、町村 で も選挙や議会が行 われ るよ うになった。青森県で も、18793月 に初 の県会 が開

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催 され 、また町村会規則 が定 め られた。 しか し、現実 には県会 レベル であって も、 「議場二在テ審議 (31)

討論 スル ノ際絶テー異論‑動議モ発 スルナ ク、黙然」 としているよ うな状況であった。町会 レベル と もなる と、 「[町村会規則の]総則選挙議則等 ノ趣 旨ヲ了認 シテ之 ヲ履行 スル ヲ得ルモ ノ幾人ナルヤ、

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ソノ趣 旨ヲ了認 スルヤ了認セサル‑姑 ラク後ニシテ之 ヲ読 ミ得ルモ幾人ナルヤ」 とい う状態 であ り、

県会 な り町会 な りの趣 旨を理解 した うえでの活発 な議論 が行 われ るにはほ ど遠 かった。 この状況につ いて、疑念 を表明す る議論 も噴出 した。特 に東奥義塾か ら刊行 され ていた 『開文雑誌』 5号 には、参 政の権利行使が東洋諸国で初の快挙であるにもかかわ らず、議論が低調 なままでは、国会 も危ぶまれ

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るとの危機感 が表明 されている。す なわち、維新前 まで とは全 く異なった参政のあ り方が求 め られ る よ うになった時代 で もあった。 また国会開設 に関す る運動 も活発化 した。

こ うした時代背景の中で、東奥義塾は、津軽地方のみな らず青森県内の 自由民権運動 をは じめ とし た政治思想活動の拠点 となった ことは、 この地方の近代史ではよく知 られている。 ただ、具体的活動 の様子や雰囲気 を伝 える資料はそれ ほ ど多 くない。 その中にあって現在デポ‑大学 に残 ってい る笹森 卯一郎 の文章は生の雰囲気 を伝 えるもの として興味深い。彼 は、留学 中に学校の機 関誌 に書いた 日本 の議会制度 に関す る文章の中で、次の よ うに語 っている。

ここで私は、 自分の少年時代の思い出を、感傷 とともに語 らず にはい られ ませ んD私たちの地 方の指導的立場 に在 る人たちが集 って遊説 について話 しあ うとい う会議 があ りま したC私の父は 議長 で本多氏が副議長 です。 ある 日の夕方、私の父は私 を会議 に連れ ていって くれ ま した。私は、

私 たちの国で よくや ることですが、片手に提灯 を持 ち、 も う一方の手で父の手 を握 っていま した。

私 はその時13才で した。いったい どんな風 に議事が進 め られ るのか、その時の私はまった く分か ってお りませんで した。

で も、私がその会議 の話 し合 いの 目的であった、すぼ らしい名前 を耳に した とき‑ それ は有史 以来何万人 もの人 々がそのために傷つ き命 さえ捧 げた気高い ものであ り、アメ リカ独 立の父達が 彼 らの尊い血 を流 し、そ して偉大なるアメ リカがその上に寄 って立っ とい う、いわゆる立憲の 自 由の ことだったのです が、私の胸 は喜び と誇 らしさと希望で高 ま り、あっまった人た ちの燃 え上 が るよ うな興奮の渦につつ まれ ま した。 これ こそが、その会議 において、私が先に述べた よ うな

(34) 請願 をす ることを決定 した夜だったのです。

tF青森県総覧』の中に、国会開設運動の一環 として18801月に 「各有志会合 を弘前に催 し、県下 (35)

の遊説 を可決 した」とあ り、おそ らくその時の ことと思 われ る。卯一郎 の父笹森要蔵 が議長 で本多庸 一が副議長 を務 めた とい う事実や、会合での高揚 した様子な どを具体的伝 えるもの として この記述は 興味深 い ものである。や は り 『青森県総覧』 に よる と、 「先づ散文 を飛 ば して其の運動の主 旨を説明

(3FJ;

し、委員 を派出 して賛成 を募 らしめた」が、その散文は、同年2月に出 された。 当時の東奥義塾の様 子 は、明治126月か ら一年間在職 していたアメ リカ人教師のカール に よって も伝 え られてい る。カ

(11)

‑ルは、明治132月 には、教師た ちが政治集会 を開いてい るこ とや 、時 にはまるで革命 で も起 きる かの よ うに激論 が戦 わ され てい ると驚 き、翌月 には、 日本人 は興奮 しやす く、 トラブルが起 きるので

(37) はないか と、 さらに続 く激論 の行方 を心配 した。

こ うして、文字通 り東奥義塾 の関係者 が中心 となっての国会 開設 ‑の動 きは、おのず と国会 の具体 的 なあ り方 と しての議事運営方法‑の関心‑ とつ なが った もの と思 われ る。『東奥義塾再興十年 史』

には次 の よ うに書 かれ てい る。

此時義塾の教師畢生 は軍 に園舎開設 の事 計 りでな く地方町村 自治体の設 立改 良に も意 を注 ぎ議 事法等 を も互 いに研究 し暁通 して居 った為 に後解合 町村含 等 閑か るるに至 り、未 だ譲合の何物 た るか をす ら解せ ざる者 のみ多か った時代 とて義塾関係者 は概 ね解合 町村 骨の議長又は議員 に挙 げ

1t<1 られ先覚者 と して大いに 自治の為 に貢献す る所 があったのであ る。

また、明治13年 当時東 奥義塾 の教師であった外崎覚の言葉 を借 りる と、 「町村制 が発布 され た ころ で、多数決 とい‑ ばなんの こ とか、過 半数 とい‑ ばなんの こ とか、投票 は ど うしてす るものか、てん

(39)

でわか らない連 中が多い、それ が皆塾‑講習 を受 けに来た」 とい う状態 で もあった。前述 した通 り、

東奥義塾 が国会 開設運動 の拠点であった ことは よ く語 られ るこ とだが、単 に活動 の中心 とい うだけで はな く、いわ ゆる議会 とい うもの‑の対応 が求 め られ る時代 においての、概念や関連知識 を学ぶ 「 の拠点」 であった ことは、当時の津軽地方の状 況 を鑑みた ときに重要であろ う。 ではその知識 とは ど こか ら来 たか、東奥義塾関係者 は何 をもって議事法 を研 究 したのか と問 うとき、本稿 で紹介 したイ ン グの寄贈書 とい うのは、大 きな意味 を持 って くる と思われ る。 イ ングが、議事の運営方法 (バ リア メ

111J)

ンタ リー ・ロオ) を東奥義塾で教 えていた こ とは、 山鹿旗 之進 が書 き残 してい るが、 クシング、シェ パー ドの本 は、それ を裏付 ける とともに、国会 開設運動 な どの政治運動 が活発化 した背景 の一つ にあ る、西欧型知識導入者 としてのイ ングの存在 を浮 かび上が らせ る もの と考 え られ る。

さらに、 こ うしたイ ングの教 え とい うのは、東奥義塾 の枠 を越 えた影 響力 を持 った ことも見逃せ な い。 明治132月6日付の 『青森新 聞』 では、 旧斗南藩士で あった小川 渉が政治や選挙方法、それ に 対す る心構 えをイ ングを通 して教わ った と して、米国の青年 た ちの あ り方 を見習 って 、 もっ と学 ばな

(ll) けれ ばな らない と訴 えた こ とが報 じられてい る。

小川渉 とジ ョン ・イ ングが具体的 に どの よ うな接触が あったかは不明で あ るに して も、イ ングの言 葉 を伝 える とい う形 で、青森県 民の政治意識 の覚醒 を訴 える記事 が掲載 され る とい うこ と自体 が重要 で あろ う。 この地方でのイ ングの存在感 を暗示す る も う一つ の例 と して、笹森儀助 の存在 もあげ られ る。 明治9年 当時、現在 の下北地方 である六大 区の 区長 だ った笹森儀助 は 「重複選挙法」 を実施 した

(42)

が、その考 え方や知識 を彼 は 「洋学者 」か ら聞いた としてい る。 この 「重複 選挙 法」 とは、選挙 を経 て選 出 され た議員 の互選 で さらに議長 を選ぶ とい うことであ り、現在 でい う所 の議事運営法に近い。

その内容 を誰 か ら学んだのか も興味深 い問題 で あるO幕末か らこの時期 に至 るまで、国内遊学 した人

(12)

(13)

物 の中に政治経済 を学 んだ者 は見当た らず 、笹森儀助 自身 が遊学 していない状況 を鑑み る と、 ここで

洋学者 」 となる人物 は限 られ て くると思 われ る。

笹森儀助 が盟友であった大道 寺繁禎 と共 に、明治14年 か ら15年 にかけて起 きた弘前事件 で東奥義塾 関係者 と厳 しい対立関係 にあった ことは、 この地方の近代史 の中ではよ く知 られてい ることで ある。

しか し、儀助 と 「洋学者」 とのつなが りを問 うとき、た とえば同 じイ ング寄贈である地学 の本 に関連 して も、前述 した よ うな、明治9年 に大道寺繁禎 がイ ング夫妻 と共 に地質調査 に赴 いた とい う事実 も 思 い起 こされ る。仮 に弘前事件 では対立す る側 にあった として も、明治10年以前 とい う状況 を考 える と、選挙 の具体的 な方法 を明確 に語 る 「洋学者 」 と して、イ ングの存在 が浮 かび上が る可能性 も、 ま った く否定す ることはで きない と思 われ る。 いずれ に して も、イ ングの寄贈 した クシ ング とシェパー ドの本 は、イ ングが この地方 の政治思想風土形成 に も影響力 を持 っていた ことを、今 に伝 える一つの 証拠ではないか と考 えられ よ う。

おわ りに‑ 洋書が物語 る地方の近代

これ まで述べて きた よ うに、明治期東奥義塾 関連洋書 は、 さま ざまな ことを伝 えてい る と思 われ る。

特 に蔵書印や寄贈 サイ ンな どは、 この地方 が どの よ うな本 を必要 と し、学 んで きたかを示す手 がか り である。 弘前藩学校時代 に蘭学 か ら始 まった津軽の洋学 は、 さま ざまな洋書 を使 うことで展 開 した。

明治以降 の洋学導入 の中心 となったのは東奥義塾だが、本稿 で述べた よ うなバー レー の万国史の存在 と成 田 らくの ノー トは、東奥義塾以外 に も洋学 を学ぶルー トが津軽地方 に存在 した ことを示 してい る。

それ は、 この地方の文明開化や洋学 の広が りだ けではな く、女子教育の水準 を も教 えて くれ る もので もある。

東奥義塾関連洋書の中で も、イ ングの寄贈書は近代化への要求 と相 まって興味深い もので ある。 以 前 、イ ングが この地方 に伝 えた 「文学社会」 とい う弁論 を鍛 える形態が東奥義塾 を中心 と して展開 し

1E+E(

た 自由民権運動 に影響 を与 えた のではないか と指摘 したが、本稿 で取上 げた書籍類 もそ うした視点 を 裏付 けてい る と思われ る。 さらに こ うした洋書類 を伝 えたイ ングは、おぼ ろげなが らも浮 かび上が る その活動範 囲を見 ると、た んな る東奥義塾 とい う学校の教師や宣教師 とい うよ りは、彼 自身 が身 に付 けて きた西洋型知識や文化 の導入者 として位置 づ けるべ き人間であ り、仮 に これ まで表 に出て こなか ったに して も、 この地方の近代化の根本的 な部分でそれ な りの影響力 を もっていた と考 え られ る。 そ うい う点 か ら見 ると、彼 が残 した地学 と政治 の本 は、あるいは近代費明期 にあった この地方 の、洋学 への要求 を象徴 してい るものか も しれ ない。

よく知 られてい るよ うに、津軽地方近代化の過程 において、 自由民権運動や地域開発 に向 けた取 り 組み な どさま ざまな動 きが起 こった。 ともす る とこの地方 だけの狭 い枠 の中で考 え られ が ちであった

これ らの事柄 の中で、 自由民権運動や 弘前事件 は政府 の意 向 もか らんだ全 国的視野でみ るべ き現象 で (15)

あった ことが、河西英通氏 に よって指摘 され ている。 これ に くわ えて、表 に明確 には出て こないに し て も、 こ うした諸活動 の必要 な知識 の源泉 の一つ と して陰に陽にイ ング もかかわ った とな ると、津軽

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