明治初中期実学主義消長の史的考察
其の一
内 山 克 巳
増 田 史 郎 亮
明治5年学制を期とし,実学主義が盛に唱道された事は周知の通りであるが,一般教育史に 於けるその取扱いも唱導当初の事に限り,其後の該思想の動向に迄言及していないものが多い
ようである。本稿は斯る意味から此主義思想消長の一班を考察せんとするものである。此稿で は該主義の隆替を便宜上次の五つの時期に分ち,主として初等教育関係の流れに考察の焦点を 絞って考えてみたいと思う。
1.胎 動 期
実学主義が明治教育史上其姿を明瞭に現わすのは周知のように五年学制以降であるが,それ に至る迄かxる主張は種々な形を以て胎動しつxあった。先ず維新勿々5ヶ条の御誓文,岩倉 具視の意見書(6)に窺われるように,教育に多大の関心を払いつxあった中央為政者筋にあっ ては之を如何に見,対処せんとしたか。之を窺うに足る資料としては次の如きものが挙げられ る。「人材御教育尤急務二付……実用之学業野相平明云々」(元年御達),「妄二詞章藻草之末 流ヲ下襲,実用緊要之学二基キ日夜研究勉励可致……」(2)(同年鎮将府ノ達),「純粋之皇国学
ヲ以テ本体ト御立被遊……漢学洋学門外野々ヲ左右二列立シ……」 (同年本居豊頴建議),「漢 土西洋ノ学ハ共二皇道ノ羽翼タル事……虚丈空論ヲ禁シ着実二修行……」(3)(同年漢学所規 則),「皇道を遵奉し孔門及外国之方策にも身力の及ふ限り該博貫通可致事」(2年皇学所規 定),「神典国典ノ要ハ皇道ヲ尊ミ国体ヲ弁スルニアリ……学者ノ先務ト謂フヘシ,漢土ノ孝悌 郵倫ノ教,治国平天下ノ道,西洋ノ格物究理,開化日新ノ学……学校ノ宜シク講究採択スヘキ 所ナリ」(同年学校へ達), 「専ラ書学素読算術ヲ習ハシメ,願書書翰記牒算勘等其用ヲ闘サラ シムヘシ,又時々講談ヲ以国体時世ヲ弁へ,忠孝ノ道ヲ知ルヘキ様教諭シ……」(同年甲府県 政順序),「其理ハ則綱常,其事ハ則政刑,学校ハ斯道ヲ講シ,実用ヲ天下国家二施ス所以ノモ ノナリ,然ハ則孝悌郵倫ノ教,、治国平天下ノ道,格物究理日新ノ学是皆宜シク窮籔スヘキ所…
…」(4)(3年大学規則)。以上は主として維新当初の大学教育の方針を列挙したものである。
当時の教育界に於てそれが指導的地位を占め,為政者達の努力も主に此面にあった事を考える と,上掲の諸丈も彼等の教育一般に対する方針であったと見得るが,以上を一瞥した丈でも当 局が実学を教育の中に組入れんとして努力していたかを読取る事が出来よう。唯然し此際それ が皇学を飽迄中心とし乍ら,其羽翼として漢学と共に,或は皇漢下学と並存の形に於て,之を 取入れんとした点は看過してなるまい。一般に明治維新は思想的系譜を異にする国学派,儒学
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派,洋学派の三つの指導;的思想が反下し,影響し乍らも尊皇を中心に,封建制打破,近代国家 樹立という目標達成に向って大同的に結びついた所から推進されたと言われるが(5),近代国 家建設を目指していたとは言え,未だ墜緒に就いた許り,政治,産業,制度等各方面に亘って 新旧共存の混沌時代の当世下では洋学系の思想界の比重は圧倒的ではなかった。無論後述の如
く幕末以来洋学者の活躍目覚ましく,其影響に無視し得ぬものがあった事は事実であり,維新 運動のスローガンが尊王平野から尊王開国に変った平門に彼等の思想界での比重は約束されて いたとは言え,維新当初に於ては他派を圧倒する迄には至らなかったのである。それは後述の 如く実学主i義の古典とも称すべき「学問のすXめ」が出,仮名垣魯文の「安愚楽鍋」に「方今 の形勢では洋学でなけりや夜は明けねえ」(6)とあるように洋学派の勢が漸次滲透したと考えら れる頃(4年)設立された熊本洋学校が洋学修得を本旨とし乍らも「孝悌忠臣ノ本ヲ忘レ漢籍
目今ク」なる事を恐れて「漢籍ノ教導ヲ置キ」,英学入門に漢学修得を前提としたσ)例からも 考えられるが,尚同年「目今形勢興廃」(流行の部)に行司に横文字,神道,一段に皇国学,西 洋の原書が並び挙げられている(8)事からも察する事が出来よう。ともあれ洋学派が麦配的地 位に就いたのは後述するよう之より少しく遅れ5年以降の事であった。以上の諸事情が洋学的 色彩を持つ実学をして皇学の傍流としてか,叉は皇漢両学と並存せしめた理由であった。
所で当時の国内には以上の中央為政者達の動きとは若干様相を異にする動向があった。其第 一は洋学下達の実学思想に関する啓蒙活動であった。実学主義胎動発展の契機を作ったのは四 夷より開国,維新へと転移しつXあった国内情i勢もさる手掌ら,同時にその間に活躍しつXあ った洋学者の啓蒙活動であった事を併せ考えねばなるまい。一面実はそれがあったればこそ後 年実学主義の発麗ま約束されたと言っても過言でないだろう。所で洋学者の啓蒙活動と言えば 後年の実学主義の担い手を作り,其拾頭を促す地ならしをした幕末以来の橋本左内,佐久間象 山,横井小楠等実学派の活躍,吉田松陰,杉田成郷,緒方洪庵等の影響を逸してなるまいが,
殊に福沢諭吉を始めとする洋学者達のより直接的な影響を忘れてならぬであろう。前者の「器 械芸術彼に取り,仁義忠孝我に存す」,「東洋道徳,西洋芸術」(9),「警保舜孔子之道尽西洋器 械之術」(■0)の意味のものが,後者にあっては「東洋の儒教主義と西洋の文明主義とを比較し て……有形において数理学,無形において独立心」(均という意味の実学に質的に転回してい る事を考えると,前者の貢献もさる事乍ら後者のそれが尚更想起せられるのである。所で後者 のそれの実例として2年刊,三叉漁史著「万国新話」の一節,学校は児童に文字,「芸術を教 へ……人たる職分を尽さしむるの根元にして之を小にすれぽ一身の幸不幸,之を大にすれば国 の盛衰……皆関係する程の者」(:L2)の如き,特に後の実学思想の胎動を髪髭たらしむるものと して福沢の「西洋事情」,小幡甚三郎の「西洋学校規範」があり,就中結果としては以上を集 大成するような形になった福沢の「学問のすXめ」があった事は注目に価しよう。福沢は事情 初編(慶応2年)で西洋各国学校の等外で,初等教育では文字を始め歴史・地理・算術・窮理 学・天文・昇等の初歩を学ぶと紹介し(■3),二野(明治2年)では人民の教育には「入の此世 に生れ通常の産を営挿するが為め導く可からざる所の望見知識を導く」常教,即ち「語学書画
数学地理科弾物産学窮理学経済学心学等」 が必要で,「此等は皆是平入の常に心得あるべき学 科にて必ずしも学者先生にして努めて之を知るの教にはあらざるなり」(■4)と述べて後の実学 思想の片鱗をひらめかせている。尚小幡は前掲書(3年)序に於いて「蓋シ言入ノ学問ハ只古 人ノ書ヲ読ムノミニテ……詩賦,古文二従事シ,空言補ナクシテ止ム……生徒多クハ有用ノ心 思ヲ無用ノ八股二埋没シ,空シク少壮ノ時ヲ費セリ。故二随テ国勢振ハズ……然づ則チ洋人ノ 為ス所以如何……人々心ヲ格致ノ学二用ヒ,精益々精ヲ求ム……由テ人工日ニー日ヨリ智ヲ増 シ……国家……強富ナラザルヲ得ズ。……教育ノ方ヲ考へ,東西ノ異ル此ノ如キヲ想ヒ,慨然 二瀬ヘズ。」(■5)と言い,東西両教育の比較的観点に立って実学主義の採用を懲濾している。
「学問のすXめ」は此後に出,既述の如く結果としては此等を集大成するような恰好になったも のだが,之こそは後年実学主義発展の礎石となったと言っても過言でないだろう。周知のよう に福沢は同書初・二王で「我邦の古事記は諸饗すれども今日の米の相場を知らず」「経書史類 の奥義には達したれども商売の法」を知らぬという我国古来の学問観の非日用性を痛烈に否定 して,「学問とは唯むつかしき字を知り解し難き古文を読み和歌を楽しみ詩を作るなど世上に 実のなき文学を言ふにあらず」「今斯る実なき学問は先づ次にし,専ら勤むべきは人間普通日 用に近き実学」であると言い,「一壷一学も実事を押へ……物事の道理を求めて今日の用を達 すべき」であるとした。彼によれぽ実学とは具体的にはイロハ四七丈字・手紙丈・帳合の仕方
・算盤・天秤の取扱を初め,「万国の風土道案内」たる地理学,「天地万物の性質」を知る究理 学,「万国古今の有様を詮索する」歴史,一身一家天下の世帯を説いた経済学,修身渡世の道理 を述べた修身学を指すが,之等は貴賎別なく「皆悉くたしなむべき心得」で,之あって始めて 四民各職分を尽し,「銘々の家業を営み身も独立し家も独立し天下国家も独立」しうるとした のであった(■6)。小幡は福沢の高弟であるから先の注目すべき見解も所詮福沢の息のかΣつた ものと見ねばなるまいが,以上の諸書,殊に福沢の該主義上の啓蒙は没す可からざるものがあ った事は何としても疑えぬ所である。「西洋事情は余の著日中」最も広く世に流布し「初編の 如き著者の手より発売したる部数十五部に下らず……偽版を以てすれば二十万乃至二五万部は 間違ひなかるべし」 「学問のすXめは……毎編凡そ二十万とするも十七編合して三四〇万冊は 国中に流布したる筈なり」(■7)という彼の言葉からも十分想見されよう。之が上記為政者達の 教育意見に影響を及ぼした事は否定出来ぬし,且つ国民有識者層にも其影響が及んだのは想像 に難くない。無論上記した「鎮将府の達」を始め,2年「福井藩学校ヘノ達」にF論読書数ノ 業二就キ経世有用之学ヲ修メ……以テ異日大小ノ導出住セシムヘキ様教育致スヘシ」(■8)とあ るように,其背:景に斯る論を受容する下地というか,時勢の推移があった事を見逃す訳には行 かぬが,とも角官学の大学校を初めとして,長崎広運館,洋語学所で実学が採用されたのも,
私学の慶応義塾はもとより攻戦祉・順天求合社・達引堂・共立学舎・同人社・熊本洋学昇等が 実学其者の修得を目的に設立されたのも,以上の啓蒙・気運があったればこその事であった。
斯様に実は国内には先の為政者達の教育的立場に影響を与えつつ,それをしも啓蒙し更に之を 実践に移すといった括目すべき諸種の動きがあったのである。
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それのみでない,政府が2年初等教育の方針を前掲の如く「専ラ書学素読算術ヲ習ハシメ願 書書翰記牒算勘等其用ヲ闘カサラシムヘシ又時々講談ヲ以テ国体時勢ヲ弁へ云々」と示したに
も拘らず,該教育界一般の動きが「山之上の漢学校はホンの一時であった。間もなく小学校な るものが設立された。」(エ9)「明治四・五年頃寺子屋に行き習字を習った。……寺子屋は廃され る事になった。私は名告館に移った。」(20)という殆んど旧習を踏襲する実情にあった時,元 年設立の沼津兵学校附属小学校を始めとして,京都学校(2年設立),名古屋小学校(4年設 立)では実学主i義的教育を実は早くも着々実践していたのであって,かXる貴重な稀少例があ った事も忘れてならないであろう。之等の学校が以上のような情況下にあって如何に新しい行 き方をしたか,又実学主義実践上,如何に先駆的動きを示したかは,「沼津小学校掟書」,「京 都学校の記」(4年福沢諭吉),「義校大意」(4年)のよく示す所である。掟書によれば同学の学 科目には読書・算術・地理・体操・修身等(2エ)の如き近代的教科が盛られ,学校の記によると 同校の習業も「イロハ五十韻より用文章等の手習,九九の数加減乗除・比例等の算術に至り…
…醗訳・地理・窮理学・経済書の初歩等を授け」るという新しい試みをしたものであった。名 古屋学校が近代的な学科課程をとったのは5年以降の事であるが,それが新しい実学を同校に 採用せんとした意図は前記前年の大意に「学者といへば六ヶ敷字を読み理屈をいふものと心得
るが如きは,大なる僻事なり。学者は……時に随て世の中の用を為すこそ,真の学者なれ。…
・・£ハの学問をいたして……いでや実用の学問に志し云々」( 、り)とある所に明らかであった。
沼津小学校が徳川家静岡移住に伴った新知識,学者によって設立されたという事情を考え,京 都学校が福沢と親交のあった愼村府知享の素案になるものであり,義校大意等が福沢の実学思 想と殆んど同一のものであった所を見ると(23),前記洋学者の啓蒙が此辺にも及んでいた事が 想見せられる。
以上が5年に至る迄の実学主義胎動の概要である。斯段々に見て来ると,実学主義は為政者
む リ ロ む り む
の側よりも寧ろ洋学者,民間の側により本格的に採上げられ,もり上げられ実践された観があ り,其見地から該思想発展の種は先ず民間の側に蒔かれたとさえ言い切ってもよさそうであ る。然し此期に於ける実学主義は,先述べたような理由と諸事情によって教育界に根を下しつ xあったとは言え全般を圧するに至らず,其本格的活動は次の時期に侯たねばならなかった。
2.奨 励 期
以上見た如く実学主義は種々の形に於て胎動しつΣあり,殊に福沢の「学問のすXめ」に於て は正に此思想活動の幕が切って落されんとする観をさえ呈していたのであるが,此思想の活動 に活力を与え,叉其存在価値を認めて之を明治教育史に本格的匠刻印したのは上記の如く5年 ?
以降の事であった。当年,仮名垣が「河童相伝・胡瓜遣」の中で「方今西洋習物究理の学文行 はれて経験実学の御代と変り,孔子や釈迦の迂遠き道は廃れ,文明開化日々にすXみ」(24、)と 述べているように,5年以降は世を挙げて実学の時代となったのである。前述の如く実学採用 を決していたものの,其積極性に於て稽々民間側に遜色の観あった当局側に於ても積極的,本 格的に之を採り上げ奨励したのであって,其意味から当年以後実学主義は公認,奨励の新時期
に入り教育の軌道に乗せられたと看利しても差支えないものと思われる。それは立身昌業の教 育目的観,i義務教育制,国民皆学の思想を謳い上げた注目すべき教育宣言・「被仰出書」に「詞 章書論の末に趨り空理虚談の途に陥」つた旧来の虚学を否定して,「日用常行言語書算を初め 士官農工商百工技芸及ひ法律政治天文医療等に至る迄聴入の営むところの事学あらさるはな
し」と実学を提出している所に明らかであり,ラダーシステムの彪大な学校網を張り,近代学 校制度の基礎構築を目指した金字塔,「学制」に初等教育の内容として綴方・習字・単語・会 話・読本・書騰・文法・算術等々が挙げられ(尤も之は翌6年の小学教則でもっと単純化され た),之を始めて公式に説明した西潟訥の「説諭十一則」(7年差第一則に「文字……文章此ニツ
ノ者学バザレバ彼我意ヲ致ス事難ク,……自ラ姓名ヲ記スル聖蹟ザル閉扉ルQ……是習字作文
……
刄m教科アル所以。中略。倫理アリテ,筍モ其道ヲ知ラザレバ或非情馳駅リ義二背クニ至 ル。是修予測ヲ置ク所以……得失利害ヲ窮ル皆算計ニアリ。是数学……ノ教アル以所ナリ。云々」(25)とある所に明白である。之等を一瞥した丈でも当局が如何に実学採用に努力し,其意 味で実学が教育の本道に載せられたかが判ると同時に,当局の実学に対する態度が,皇漢学併 用から実学一本槍へ,天下国家の実用に仕える実学から個人の立身治産の為の実学へ,道・教 を知る一手段としての実学から有用な日常技術を学ぶ為の実学へと急転回している事も判るの である。斯様に実学主義が教育一般の趨勢を麦配するに至り,当局の態度を一変せしめたのは 先ず前記福沢・仮名垣の一文でも暗示され更に当時の「文部省は竹橋にあり,文部卿は三田に あり」(26)という世評にも窺われる如く,洋学者就中福沢の影響があり,叉一般的情勢がそれ を受容するに充分な体制にあったからだと考えられるが,尚附言すれば其事も含み次述べるよ うな社会的諸事情が其背景にあったからだと思われる。周知の如く学制公布の5年前後は廃藩 置県,国立銀行条例,徴兵令,地租改正令等種々の開明策・富国強兵策が矢つぎ早に剥せら れ,先進諸国の制度三物を吸収し乍ら急速に日本近代化への一歩を踏出そうとした時期であ
り,且つは其事によって西洋列強と肩を伍せんと決意した時代であった。5年学制が施行され たのも以上の施策の一環としてゴあった事は言う迄もなく,斯る近代社会を麦え行く分子を創 出せんとするねらいを持つものであった事叉論を倹たない。時代は最早近代化への意識を持ち つ\も新旧混沌の世相を余儀なく展開していた前期とは一線を劃するものがあった。以上の世 相が前記の国・儒学派の一時的後退を余儀なくさせて福沢等の洋学全盛時代を到来せしめた理 由であり,それが延いては上記の如く三田に文部卿ありと言わしめ,当局をして洋学乃至実学 主義を本格的に採用せしめた所以であった。当局の実学に対する態度が豹変したのも同様の意 味に受取っていいだろう。当局のそれが皇漢学併用から実学一辺倒に変ったのは前述の如く皇 漢学派の後退,洋学派の全盛に伴うものであり,日常技術修得の為の実学というのは先進諸国 の丈物移植の風潮と近代社会を:支え行く分子形成の意味に仕えるものであり,個人の立身昌業 の為の実学を強調したのは洋学全盛と政府庇護の下,発展を約束されつΣあった準備期の資本 主義体制,それらに随伴する西洋功利説, 民権思想の流行と照応するものであったと考えられ るからである。尚立身昌業の為の実学が説かれたのは3・4年以降繰返し歌われた 「書生昭々
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と軽蔑するな今の太政官はみな書生」(27)という歌を初めとする一連の書生節,上記西洋事情 と共に明治群書の一に数えられ,「明治の聖書」と迄言われた4住中村正直訳「西国立志編」の 盛行振り等に窺われ,7年「説諭要略」の「……学問ハ新智発覚ノ階梯……去年ノ蒼生ハ,今 年ノ参議」(28)という言葉に知られるように立身出世謳歌の気運が其背後にあったからでもあ
るが,之とても先に記した所と表裏の関係にある事柄であったと考えられる。
斯云えばとて無論個人の立身治産の産の為の実学も只単にそれ自体の為の実学という一本気 なものでなく,実は国家富強の為という含みを持つものであったのである.此事は一応此際注 意して置かねぽならぬ事である。というのは以上の事に関連して論者或は潮入の治産昌業の為 の実学と富国強兵策の関係如何を目し,其間の矛盾を指摘するだろうからである。倦富国強兵 策の一環として学制頒布があった事は上述の通りとして,其精神を謳い上げた被曝出書とて其 路線に沿うものであった事又此処に諜々する迄もないだろう。端的に言って,政府が学制を頒 布すると共に被遅出書の中で上記の如く国民開明等を謳い,虚学を斥けて実学を掲げ,更に実 学本位の立場を採って之への態度を転換したのも一に繋って国家富強の実現にあったと考えら れる。此事は学制前後に出された当局筋の諸囲障・学制草案の今文に「国家ノ以テ富強安康ナ ル所以ノモノ一世ノ文明人ノ才芸大二書下スルモノアルニヨラサルハナシ」,地租改正の際の 人民告諭に「人民は政府の保護教育に依って一統好む処の目的を達し,政府は人民の勉励勤倹
に依て……富国強兵,万国の右に出で云々」(29),木戸孝允日記に「我国をして一般の開化を 進め一般の人智を即発し以て国の権力を持し独立不整たらしむには……学校より先なるはな
し」「教育と兵制は容易にデスポチックは被止不申候」(30)とある所で明らかであろう。無論 其事は政府筋丈に限られたのではなく,上述の如く福沢が「学問のすxめ」の中で実学あれば 身も家も「独立し天下国家も独立」し得ると言い,叉上記京都学校設立後ものされた同学の学校 記に「強大之国……林然相客……夫富国之基,在厚民生。強兵之本,在正風俗。正風俗在崇礼 儀。厚民生,在長工芸。長工芸崇礼儀再開智識。……然則……莫急脚立学校」(3エ)と述べてい
る所を見ると,民問の側でも此方針が強く認識されていた事が判り,一般の風潮が察せられる と共に先の政府の意図がより強く印象ずけられるのである。成程被早出書の中には学問・教育
の り り り り り り コ リ り り む コ
は個人の立身治産の為であって,国家の為にするのでないと明白に断言もしている訳で,此点 を考えると此主旨は以上の点と一見矛盾するかの如く感ぜられる.然し当時個人の立身治産の 考え方と国家富強の立場が衝突せず,寧ろ合致するものだと見られていた事,叉は富国強兵と いう大前提の上で,又其限陣内でのみ個人の立身治産が保障されていた事を考えると(32),之 等の点が必ずしも矛盾するものでなかった事が判るのである。此事は前掲福沢の言葉からも知
られるが尚学制頒布後政府の意図を体し代弁しつ\出された各県の告諭・布達の多くが立身治 産に仕える実学の主旨を唱道する労,「世ヲ輔ヶ国ヲ補ヒ天下富強ノ実ヲ開キ」(長崎県就学告 諭)「国の富強を助けて遂に皇威の海外に輝かん時を期するを肝要とす」(山梨県同告諭)等と 説いている所からも逃せられよう(33)。之で以て例の実学が一本調子のものでなく以上の含蓄 を持つものである事が明らかにされ,其意味で前述の天下国家の実用への実学から個人の立身
治産への実学へと転換したと単純に言えぬ面も明らかにされると同時に,政府が実学本位の立 場を掲げて之への態度を急変したのも同様の意味であった事が明示されたと思う。当時の世情 が富国強兵策推進の真只中であり,思想界が福沢一派の実用功利・自由民権思想の圧倒的重み の中で,加藤一派の国家主義の勢力相当なものがあり(5年加藤弘之訳ブルンチユリー「国法 汎論」等に象徴せられる),僅かに儒教・神道が余喘を保っている(3年大教宣下の即下に象 徴せられる)という情況にあり,後年福沢が国権主義的立場に転じた事,又前掲の如く夙に其 萌芽があった事等から考えると以上の事象は又当然であったと考えられる。無論とは言い条筆 者はこれで以て個人立身を体する実学という被仰出書の主意を過少評価するのではなく,飽迄 其意義を正当に認めねばならぬと思うが,にも拘らずそれが以上述べた如き含みを持つもので あった事叉看過さるべきでないと思うのである。
ともあれ,学制以後は上述のように実学現出・奨励の時代であった。此事は「官私の別なく 高等初等の別ちなく」(鋤言える事だが,本稿で主として扱わんとしている初等教育では其教 育の基礎的な性格から以上の事が最も集約的に表現されていると見て差支えあるまい。尤も実 学主義を当局が法文上本格的に打出したとしても其実現には可成の時間を要した事叉言う迄も ない。当局の意図した実学主義を直ちに実現する為には先ず上掲の綴方・習字等の新教科詰り 実学による教育を学級教育三叉は一斉教授という方法(35)で展開する必要があったが,第一そ れには従来のような:読書算の三教科的方式を一釈して以上の近代的教科に切替える事が問題で あり,叉それを教え得る教師を求める事が問題であったからである。勿論当局も至尊に関して 野手傍観していたのでなく,上記の如く教科の単純化を図るとか教員の養成(36)に努めるとか と種々工作する所があった。然しそういう劃策にも拘らず,上記のような当局の意図は即刻に は実現されなかった。上述の案が軌道に乗出すようになったのは学制後数年を経た/0年頃から であったと思われる。それは「堺利彦伝」37), 「横浜新誌」(38)等にも暗示されるが,平海後 干平氏の指摘される如く,全国を通じ「従来の読書算の三教科式教則を破って近代的学科を採 用し,寺子屋式個別教育法を改めて学級一斉教授方法が行はれるに至ったのは明治十年後であ る」(39)と考えられるからである。それ迄の小学校教育の一般的情況はどうであったかと言う に,時期,場所により一概に論ぜられないにせよ,前時代の寺子屋的教育と西洋直訳の欧化的 乃至実学的教育の混在があると同時に前者が後者の出現によって漸次後退消失し,前者の残臭 の中に後者の新しい息吹きが勃々と見られたというのが其景況の大体ではなかったかと推察さ れる。斯様に実学主義の本格的実施迄多くの曲折があった事は「寺子屋のお師匠さんが銘々弟 子を連れて……連歌所……へ集って」小学校を作り「教へるのは元の寺子屋のお師匠さん,…
・而も教わる事は読み・書き算盤だけだから,実際に於ては寺子屋と殆んど変りはなかった」
(40)という正木直彦の回顧記,「六年に……武居という教師」が来たが,「教授する事は矢張り 寺子屋教育と変り」なく,「七年夏頃に……塩原と申す誹導が赴任して……学級を定め,授業 生を雇うて新教則に断て教へて」(4■)呉れたという伊藤源蔵の追想を始め,野尻篤太郎の回顧 謳「学制の布かれてより満二年になるも……父兄一向教育の頭脳なく……旧庄屋の家を借りて
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学校に充て」「元より器械器具の設けなく……確:たる級則を設けず,宛然維新以前の寺子屋教 授に異な:らず。」「教科目は十数科目ある中に読書算の三科にして主に習字を用い,読方は…
…実語教・商売往来・庭訓往来・小学読本巻の一云々」(42), 内田魯庵の回想文「入学したの はタシカ明治七年であったが……其頃の小学教科書は大抵西洋の教科書の翻訳だった。……其 の翻訳読本を課せられた私達は早くからモセスやアブラハム……の名や伝説を吹込まれた。…
…一ヤ弱らせられた科目は簿記と経済学で……アダム・スミスの針讐尊墨など教へられて得意
になっていた云々」(43)等に偲ばれる。
それでは以上のような意図と内容と含みを持つ実学主i義教育は国民各層の眼に如何に映じ,
如何なる反響を呼起したであろうか。彼等の受取り方には種々なるものがあって一律には言え ぬが,端的に言ってそれは各層を通じ一以下に不入気であったと見ても間違あるまい。上記実 学主i義教育が曲折を余儀なくされたという実例が何よりも先ず暗示して呉れる所だが,其事は 又町田則:文が「明治国民教育史」の一・節で「新学制の教育方針,其の目的及び方法は全然古来 の習慣と異った新しきものにで・・…当時の世人は有識者階級(士族)と無識者階級(農工商及 び婦女子)とを問わず実に奇異の感に打たれたのであった」(44)と言い,江木千之の一文で
「学制は劃一に過ぎて漁師の子弟や山奥の樵夫の児女迄初めから万国史を教へたり或は丁抹の 都は何と言うかという様な事を教ふるので役に立たぬ事を教ふるものだという悪い感じを与へ た」(45)と述べている事に若干暗示されていよう。有識者層士族が新学制に反回した事は上記 町田の一文はもとより,熊本・長崎等地方教育史(46)のよく示す通りで,それ等によれば彼等 が新学制を嫌ったのは,従来儒教的教養を至上のものと見て来た彼等にとって儒教主i義を否定
した上で例の実利・実学主義的精神叉は内容を盛った新学制は儒教的精神,教養を欠いた「飯 無しの本膳」(47)と見えたからであり,叉漢籍等相当高いレベルの教養の体得を当然の事とし て来た彼等から見ればイロハ・桃・栗・柿から始められる新学制は馬鹿らしいものに思われ,
「桃・栗・柿等の営利教育」(48)だとしか見えなかったからだと思われる。それのみでない,彼 等が母体となって生み出した指導層の中にも彼等同様反対の者があった訳で,此事は此際記憶 に止めて置かねばならぬ事であろう。青木周蔵宛木戸孝允の書翰(5年)に「至今日候而は開 化歩々と各舟弁を以互に僥倖而巳を相窺人々自ら軽燥浮薄に相移り忠義仁礼之断割地候勢……
苦慮町彫寄事に御座候」(49).とあり・6年「近年以来民ノ智識日二開ケ工芸技術大ニ……進ム ト難ドモ,旧来固有セシ強剛質直ノ気ハ漸々二衰滅シ……畏ルベキノ甚シキニ非ズや云々」(58)
と言い,5年当初の事を後年「明治五年太政官よりの学制頒布あり。其序交……を熟読するに 学問は身を立つるの財本……専ら生を治め産を興す事のみを説き,一も仁義忠孝を教ふるの語 なし。余当時民間にありて是を読み心大いに是を疑ふ」(5t)と述懐した西村茂樹の一文の如き 其例である。此処を見ると前記士族層同様の理由で以て実学主義に反対した指導者もあった事 が知られるが,とも角之等の反撲は儒学未だ其余喘配力を残存していたとは言え,「四書……
五経……たとひ勉励してよく之を翼翼すとも,其今日に用ある何に有や」(52)と当局自らが言 い,後年流行の「ねへ尽し」に「ふさいでいるねへ漢学先生」(53)と迄皮肉られる,所謂「実
学の御代と変り,孔子釈迦の迂遠き道」廃れた時世であってみれば,其意見も単なる一部の意 見として終り大勢を圧する迄には至らなかったのである。無論之で彼等の見解が全く消滅し尽 したのでなく,声なき声,底流として暫く潜在し後年漢学復興期に際会して再び其頭角を顕わ す事は後述の通りである。
所で反対の意味では農工商平民とても例外ではなかった。尤も彼等がそれに反写し,拒否し た理由は上記士族の場合とは多少異る所にあった。彼等が反対したのは第一一に彼等の旧来の因 襲・惰性からであった。 「文部省年報」・「横浜新誌」・「秋田県史」に夫々「明治五・六年ノ頃 刻入筆未ダ駄文ノ実際二益アルヲ注視セザルニヨリ農商ニハ無用ノモノトスル者多ク」(54),
「学問は何等の用を為す者ぞ……今年六十未だ学問の有用なる事を知らず」(55),「当時県民ノ 向学心猶薄弱ニシテ,一般農工商ノ如キハ,学校教育ヲ以テ無用ノ消閑具トナシ,寧ロ従前ノ 寺子屋式,教育ヲ喜ブが如キ状ナリシ」(56)とある如く平民層の寺子屋へ郷愁を感じ教育を無 用視する従来の軍場が新学制への拒絶・否定となって現われたと見られる。旧来の随習と言え ば上記士族の反対理由も従来の儒学中心の教育への郷愁と云う意味で同断に考えられるとも言 えようが,それはそれとして彼等が反撃したのは次の諸理由にもよったのである。彼等が新学 制を嫌ったのは民費負担を本体とした高い教育費,更に之に関連して彼等の生活苦の問題が其 間に介在したからでもあるが(57),又実学主義新教育の内容が彼等の生活から遊離していたと いう事実にも基いていた。実学自体に対する反対から云えば教育費・生活難といった問題も関 係ない事ではなかったが,殊に生活遊離の問題は其主たる理由であったと言うべきだろう。此 点上記江木の一丈を初め諸書の屡々指摘する所である故詳述を避けたいが,上記の如く民衆が 寺子図式教育に郷愁を感じた風潮自体の中にそれが示されて居り,尚要目項の一つに学校に於 ける「二丈廃止」を掲げた6年敦賀県下,「小学校御廃止,私塾再興」を掲げた同年鳥取県下の 学校破壊暴動(58)等の例,更にll年前後山口・島根・愛媛・宮城・福島・岩手・兵庫・千葉
・熊本諸県に於ける教則改正への動向(59)にはより端的にそれが現われていよう。無論当局と ても早耳無策無関心ではなかった。6年上述の如く教科の単純化を図ると共に達で「従来之算 術ヲモ兼学為致候」,前記説諭十一則第六則で「小学ノ科目……之ヲ洋学ト誤認セルモノァリ,
其義甚アタラズ」等と言い,10年4月文部大書記官西村茂樹・九鬼隆一の報告記に「方今普通 教育ノ病ト称スベキ者……教則中迂遠ニシテ実用二切ナラザル者アリ……小学ハ……日用ノ慶 利ハ却テ寺子屋二及バザル事アリ」「今ノ普通教育ハ全国人民ノ現状……程度二適シタルヵ…
・・博タ際上二於テ……利益ヲ与ヘタルや否や……殆ンド明言スルコト能ハザルノ感ヲ生セリ…
…其大略ヲ言下ン……歴史学ハ……至要タリト雌山間僻隊ノ貧民ニハ其事実遠隔ナル者ト言ハ ザルヲ得ズ云々」(6のと切言している所を見ると,当局も亦学科の日常生活接近を配慮し問題
としていた事が判るのである・前述のように学制当初政府が呼号したのが「日用に近き実学」
であった事を想起すれば,其路線に連る教育内容が生活より遊離する等という事は土台あり得 ぬ筈であるが,政府が富国強兵,吾国の近代化を急ぐ余りにそれを実質的に実現し得ずして,
翻訳・模倣一辺倒の教育内容を其内容に充てた所に斯る矛盾が招来された原因があったと言え
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よう。ともあれ斯る生活に迂遠,実用に切ならざる教育内容は「中等以上ノ人民子弟二施スベ クシテ……下等ノ人民子弟二元ムベカラザルコト明力」(6エ)であって,教育的意欲に燃え,又 読本等を「決してむつかしいとは思わなかった」(62)士族子弟ならまだしも,そうでない平民 層子弟には「実二難儀至極ナ」「最益ナキノミニアラズ……最損アル」(63)有難迷惑なもので あった。以上の諸事情にも拘らず,中央・地方の当局が屡々「教育の緊急なるを説諭し」(64),
学制の実現を「万難を排して努力実行した」(65)所に新学制に対する平民層の反感を惹起した 所以がある。以上のように此期は実学主義教育が種々の問題をはらみ乍らも公認昂揚された時
期であった。 未完
(本論文は民主教育協会の援助による研究課題の一部をなすものである)
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意見書の一部,学制取調民事
渡辺幾治郎「教育勅語の本義と延発の由来」昭和14年43〜4頁
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「現代文学全集」1 昭和6年 30:頁
「熊本県教育史」上巻 昭和6年 530頁〜3頁 石井研堂「明治事物起源」上巻 昭和19年118頁 丸山真男外「日本のナショナリズム」昭和28年12頁 木下順二「風浪」角川文庫 6頁
「福富自伝」岩波文庫 198頁
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「沢全集」 第1巻大正14年 319〜20頁
「福沢全集」 第1巻 上掲書 575頁
「明治文化全集」第10巻 上掲書 39頁
「福沢撰集」 岩波文庫 72〜3頁 78頁
「福沢撰集」上掲書 28頁 39頁
「日本教育史資料書」巻4 昭和12年
「片山潜自伝」 昭和24年 53頁
「牧野富太郎自叙伝」 昭和31年 ll〜2頁
「日本教育面資料」1 明治23年忌203頁 海後宗臣「日本近代学校史」 昭和11年忌45〜55頁
(20)前掲書 同上頁
「明治文化全集」20巻 374頁
「明治文化全集」 18巻 421頁
石河幹明「福沢諭吉伝」第2巻昭和7年180頁 藤沢衛彦「流行歌百年史」昭和26年 184頁
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唐沢富太郎「学生の歴史」 昭和30年 28〜3Q頁 遠山茂樹「明治維新」 昭和26年 308頁
「木戸孝允日記」第二昭和8年126頁 「松菊木戸公伝」 下巻1506頁 海後宗臣「日本近代学校史」上掲書 49〜50頁
海後勝雄,広岡亮蔵「近代教育史」H 昭和29年 289〜90頁 長崎史学 第2号 昭和34年 18〜9頁
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山路愛山「大講演集」 「明治以降教育制度発達史」 第1巻 460〜1頁 昭和14年
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「現代文学全集」 第39篇 昭和5年 266頁
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海後宗臣「日本近代学校史」 89頁 正木 直「回顧70年」
藤原喜代蔵「明治大正昭和教育思想学説人物史」昭和17年 第1巻 133〜5頁 藤原喜代蔵(41)同上書 135〜7頁
太 陽 昭和2年 明治大正の文化 416頁 町田則文「明治国民教育史」 昭和3年41頁
「教育五十画面」大正11年 146頁
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海後勝雄,広岡亮蔵「近代教育史」 第2巻 290頁
町田則文「明治国民教育史」上掲書 43頁
「木戸孝允文書」第四昭和8年318頁
「明治文化全集」 第18巻 上掲書 62頁
西村茂樹「往事録」 明治38年 169頁 「日本弘道会創立記事」 明治31年1頁 5年正院宛 小学教師導場設立建議の一節
石井研堂「明治事物起原」上 上掲書 124頁
「文部省第二年報」172頁
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土屋喬雄,小野静雄「明治初年農民騒擾録」 昭和6年 243〜6頁 463〜5頁
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(60) 同上書 475頁
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(60) 同上書 464頁 474頁
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海後宗臣
(65)町田則文「明治国民教育史」44頁 上掲書 (昭34,11.3受付)