――
子どもの育成に対する期待と稼得労働に対する期待の二重性を中心に
――は じ め に
現代の日本社会において,家族の中で子どもにふたりの親がいる場合,そのバランスは各家族 によって差があるとはいえ,生活を維持するための労働と子育てはふたりの親によって分担され ている.しかしながら子どもにひとりの親しかいない場合,その責任は 2 つともひとりの親に課 せられている.現代日本においてひとり親家庭の課題は未だ残されたままであるが,特に母子家 庭をめぐる問題は戦時期にも見ることができる.
戦時期日本の女性労働者に関する研究の中でも,既婚女性については堀川
(2018a)
が考察を 行っている.戦時期に政府は家計維持の必要性によって稼得労働つまり収入を得るための労働を 行う既婚女性に対しては,特別な配慮をしなくても働くものと認識し,既婚女性の就業継続のた めの労働環境の改善を行うことはなかった.子育てを行いながら稼得労働を行う女性労働者は,労働環境において既婚女性特有の困難を抱えた1).このような状況にあった戦時期,特に盧溝橋事 件と同年の1937年に公布されたのが本稿で着目する母子保護法である.後述するように,母子保
は じ め に
1 母子保護法の制定過程 2 母子保護法の制度内容
3 制度運用に対する政府の方針
―子どもの健全な育成に対する期待と稼得労働 に対する期待
お わ り に
堀 川 祐 里
戦時期における救貧対策としての母子保護法 *
* 査読論文
1 ) 堀川(2018a)128 140頁.なお労働組合運動の行えなかった戦時期,労働科学研究所の研究員の中に
は育児と稼得労働を両立する女性労働者の存在に注意を向けた者もおり,また産業報国会の女性指導者
の中にも,そのような既婚女性労働者の保護を訴えた者もいた.しかし,どちらの主張も政府に相手に
されることはなかった.戦時期の労働科学研究所については堀川(2017)358 362頁を,また産業報国会
の女性指導者については堀川(2018c)44 65頁を参照されたい.
護法は国家の将来を担う「児童の健全なる発育」のため,貧困母子を保護する救貧対策であった.
母子保護法の先行研究は,日本における社会保障や社会福祉の制度についての歴史研究の中で,
戦時期に制定ないし改正された法律のひとつとして概略が説明されることから始まった.その先 駆は小川
(1959)
であり2),その後,重田(1960)
3),池田(1986)
4),土穴(1990)
5),永岡(2003)
6)などがある.しかし,これらの研究では母子保護法は戦時期に制定ないし改正された他の法律と 併せて紹介されるという都合から,あくまで概要が記されたに過ぎなかった.
一方,母子保護法を主たる題材として扱った先行研究は,その制定過程に焦点を当ててきた.
一番ヶ瀬
(1968)
7)をはじめとして,今中(1980)
8),小川(1981)
9),鈴木(1995)
10),山高(2001)
11), 今井(2005)
12)などによって制定過程が考察された.それぞれの研究者によって分析視角や母子保2 ) 小川(1959)77頁.小川は「ファシズム化と社会事業」という節において,母子保護法を救護法の一 部改正や軍事扶助法の制定とともに紹介した.
3 ) 重田(1960)は,1937年から1944年の間に公布された法には大きく「 2 つの流れ」が見られると指摘 した.ひとつは1929年に公布されていた救護法を含めて,母子保護法,医療保護法などであり,それら はその対象者を見る「態度」が「いわゆる社会的弱者に対する社会的同情とも称すべきもの」であった とした.もうひとつは軍事扶助法,国民徴用扶助規則等の戦争犠牲者に対する援護であり,その対象者 に対しては「戦争による犠牲者であるから,国も積極的にこれを援護する責任がある」という見解が
「根底を流れてい」たと指摘した(重田(1960)271頁).
4 ) 池田(1986)577,743 745頁.池田は,母子扶助法制定のための運動は戦間期に児童保護事業の側面 から始まったが,戦争目的のための健民健兵政策の一環として位置づけられることによって立法化を実 現させたと指摘する.
5 ) 土穴(1990)615頁.土穴は,戦後に生活保護法が制定される以前の「公的扶助政策」のひとつとして 母子保護法を挙げている.
6 ) 永岡(2003)132 134頁.「日中戦争・太平洋戦争と戦時厚生事業」という章において永岡は「この法 によって初めて『保護』という概念が用いられたが,実質的には救護法における母子世帯を対象」(132 頁)とし,扶助基準は救護法とあまり変わらなかったと論じた.さらに救護法,母子保護法と比べて軍 事扶助法が優遇されたと指摘している.
7 ) 一番ヶ瀬は昭和戦前期における要保護母子世帯の状態を考察し,その上で母子世帯の状況がいかに社 会問題化し母子保護法の制定に結びついていったのかという視点から,1934年以降の母子保護法の制定 運動を中心に明らかにした.
8 ) 今中は,母子保護法の制定運動を第 1 期(1919年から1929年),第 2 期(1929年から1932年),第 3 期
(1932年から1937年)に時期区分し,そのうち特に第 1 期,第 2 期に着目して制定運動の歴史的意義につ いて述べた.既婚女性の労働問題に着眼しているところに特徴があるといえる.
9 ) 小川(1981)92 98頁.小川は,紙幅は限られているものの母子保護法の制定に至る過程について帝国 議会議事録を主たる資料としてまとめるとともに,母子保護法の条文が内包した問題点を指摘した.
10) 鈴木(1995)70 76頁.鈴木は,資料集成の解説として制定過程をまとめているが,その中で母子保護 法は「戦時体制に向けて国家が図った母性政策の一環」でもあったと指摘している.
11) 山高は母子扶助法制定運動に携わった活動家の一人であり,婦人方面委員任用の運動などとともに当 時の様子について,運動を行った当事者の視点から論じている(山高(2001)48 63頁).
12) 母子保護法の成立過程について,女性運動の側面からの研究を蓄積したのは今井小の実であり,単著
護法制定における強調すべき点については異なるものの,母子保護法を主題とする先行研究は,
その制定過程に関心を向けていたといえる.
その他,副田
(1983)
は大正・昭和時代の「母親観」や「子ども観」を探る研究13)において,早 川(1991)
は戦時期の母性論に関する研究の中で14),また冨江(2001)
は児童政策をめぐる政治過 程を考察する研究15)において母子保護法を取り上げた16).このように先行研究が蓄積されてきた母子保護法であるが,本法の制定以降,母子保護法が戦 後の生活保護制度に組み込まれるまでの戦時期の状況について論じた研究の蓄積は乏しい.制定 後の母子保護法の内容や関連諸法との関係性,問題点についての考察を行った興味深い研究には 藤崎
(1983)
があるものの,その紙幅は限られている.藤崎(1983)
は『戦前日本の社会事業調 査』を構成するひとつの章であり,同書の目的は社会事業及び社会福祉についての調査を歴史的 に検討することであった.そのため,藤崎(1983)
は戦前の母子保護に関する調査がいかなるもの であったかを分析することを主眼としており,母子保護法の内容を詳らかにすることを目的とし たものではない17).そして藤崎の研究以降,母子保護法の制度内容に関する研究の深化は見られな かった.母子保護法が制定された歴史的事実は注目すべき事柄であり,先行研究が制定過程を多角的に 明らかにしてきたことは評価される.しかしながら,戦時期には労働組合運動は行えず18),また男
の書籍として母子保護法を取り扱ったのは管見の限り今井(2005)のみである.今井(2005)は母子保 護法を大正期に起きた母性保護論争の成果と位置づけ,母性保護論争を「社会事業の成立期,展開期と いう歴史的文脈」(15頁)によって分析し,論争から法の成立までの「継承性」を強調した.
13) 副田(1983)76 85頁.副田は母子福祉,母子保護の歴史において「母子一体」という言葉がいつごろ 登場し,その意味するところがどのように変化してきたかを探る中で,母子保護法について言及した.
副田は大正中期からの政府による児童保護法案作成過程について考察しており,「児童扶助法案(母子扶 助法案)」の考えが「当時非常にラディカルなもの」としてとらえられていたことについて言及している
(67頁).その理由として母子扶助法案が,「貧児」を「家庭で保護する」方法をとろうとしていたこと,
また「労働能力ある母を扶助の対象としてこれを救助することにより貧児の保護をはかる」ということ も「躍進的とうけとられた理由であったと思われる」と指摘している(67 68頁).
14) 早川(1991)246 254頁.早川は戦時期の「母性論」のひとつとして母子保護法について論じ,この中 で母子保護法が「労働能力をもっている母」を扶助する制度であったことに触れている(早川(1991)
249頁).
15) 冨江(2001)258 260頁.冨江は政策理念を具体的な政策へと変換していく過程で,さまざまなアク ターが政策理念を「翻案」する例として,母子保護法の制定を扱った.
16) さらに,戦後の母子福祉に関する先行研究の中でも,窪田(1971)や藤原(2005)では戦後の母子福 祉についての議論の導入として母子保護法についての言及が見られる.しかし,これらは1950年代,
1960年代の分析を趣旨とするものであり,母子保護法については概要紹介にとどめている.
17) 藤崎(1983)215 240頁.
18) 労働組合が解散させられ,産業報国会に統合されていく様子については堀川(2018c)を参照された
い.
女同一労働同一賃金原則の実現の機運はありながらもそれも法的に具体化することはなかった19). そのような状況にあった当時の女性の稼得労働の状況に関心を持つ筆者は,制定された本法の制 度内容と運用に関して政府がいかなる方針を持っていたかを考察したい.
そこで本稿では,1938年に施行された母子保護法の制度内容と制度運用における政府の方針に ついて明らかにする.まず母子保護法の制定過程について概観し,その上で制定後の母子保護法 について論じる.戦時下の救貧対策として成立した母子保護法に内包された,本法の対象となる 母親に対して政府から向けられた子どもの健全な育成に対する期待と,稼得労働に対する期待の 二重性に着目して分析していきたい20).
1 母子保護法の制定過程
本稿では母子保護法制定過程を 3 つの時期に区分したい21).まずは政府からの児童保護に関する 諮問に対して救済事業調査会が答申を行った1919年から,母子保護制度の考えの一部が救護法と して結実する1929年までである.次いで,社会民衆婦人同盟により母子扶助法制定運動が展開さ れる1929年から1932年の時期である.そして「満州事変」以降,社会民衆婦人同盟の運動が後退 し,これに代わって,以下に述べるように最終的に「母性保護連盟」となる組織によって運動が 行われていく1932年から母子保護法が制定された1937年までである.
日本において母子保護制度に関して「公に考究された最初」は,1919年に救済事業調査会22)が政 府からの児童保護に関する諮問に対して「児童保護施設要綱」を答申したことである23).救済事業 調査会の答申を受けて政府は児童保護法案作成に着手し24),また一方で1920年には第 5 回全国社会
19) 戦時期の女性労働者の賃金については堀川(2018b)に詳しい.
20) なお母子保護法は,制定運動の時点では「母子扶助法」と呼ばれていた.そのため,本稿において当 該の法を基本的には「母子保護法」と記すが,制定過程について論じる箇所では資料や先行研究に基づ き,適宜「母子扶助法」と記すこととする.
21) 母子保護法制定過程における画期の設定には諸説ある.例として脚注 8 のように今中(1980)は第 1 期(1919年から1929年),第 2 期(1929年から1932年),第 3 期(1932年から1937年)と区分した.また 藤崎(1983)は具体的に画期を明示してはいないが,制定過程を1919年から第52回帝国議会に「児童扶 助法案」を提出するべく調査等の準備が行われた1926年までと,「母子扶助法制定促進会」の設立を皮切 りに民間レベルでの運動が行われた1926年以降に分けて論じている.
22) 救済事業調査会は内務大臣の監督のもと,「其ノ諮問ニ依リ救済事業ニ関スル事項ヲ調査審議シ意見ヲ 開申ス」る組織であった(『官報』1768号(1918年 6 月25日)599頁).
23) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日) 1 頁.なお『週報』は政府による国策広報を目的とした雑誌であり,
1936年11月に創刊された.時局が悪化する中でより国民の理解を容易にし,国策の広報宣伝効果を高め るために,写真を主体とした『写真週報』の発刊も企画され,1938年 2 月に創刊された(清水(2008)
1 頁).『週報』の内容は「法令,法案の解説」や「各種政策の解説」などであり,内閣の情報委員会に
おいて編集された(『官報』2931号(1936年10月 7 日)「『雑報』から『週報』へ」(「雑報」662, 1 頁)).
事業大会25)が「児童保護法案に関する建議」を可決した26).その後,社会事業調査会27)は内務大臣 の児童扶助制度に関する諮問に対し,児童扶助法案要綱を答申し,この中にも母子保護制度に相 当する内容が盛り込まれていた28).
母子扶助法制定運動のために設けられた活動組織の初めは,1926年 4 月15日に『婦女新聞』社29)
内に設けられた「母子扶助法制定促進会」である30).その発起人である社長の福島四郎は,この運 動が全国的な世論となるよう『婦女新聞』において母子扶助法制定運動の拡大に努めた31).そして 第52回帝国議会に母子扶助法制定の請願を行う運動を開始した.ところが,当時の若槻内閣も社 会事業調査会の意見を考慮し,この第52回帝国議会に「児童扶助法案」を提出する方針であり,
内務省ではすでにその成案もできるまでに至っていた32).内務省が児童扶助法案を議会に提出する 準備にかかったことが報道されると,母子扶助法制定促進会は請願をひかえるようになった33).内 務省の児童扶助法案の内容が,母子扶助法制定促進会の要求する母子扶助法の内容とほぼ同じで あったことから34),発起人の福島は内務省の動向と歩調を合わせたのである35).しかし,内務省社 会局の児童扶助法案は社会局提出の法案が多かったことと予算の捻出の見込みがなかったことな どから提出されなかった.この緊急事態に『婦女新聞』側は慌しく請願運動を開始するが,結局
24) 副田(1983)65頁.大正期における児童保護法案作成過程については副田(1983)63 76頁を参照され たい.
25) 全国における社会事業関係者が一堂に会して意見を交換し「斯業発展の方策を講ずる」集会であるが,
その最初は1903年に内国勧業博覧会の開催を機に大阪市において開かれた「第 1 回全国慈善大会」であ る.その後,「第 2 回全国感化救済事業大会」,「第 3 回全国慈善事業大会」,「第 4 回全国救済事業大会」
を経て,「第 5 回全国社会事業大会」が開かれた.回を重ねるほどに出席者は増え,「協議事項も亦狭義 の救済事業の範囲を脱して,広く社会一般の福利問題を議するやうになつた」(大原社会問題研究所
(1921)166 168頁).なお「第 1 回全国慈善大会」を契機に,現在の全国社会福祉協議会の前身である中 央慈善協会が設立された(社会福祉法人全国社会福祉協議会ホームページ「100年のあゆみ〜明治期
(1868〜1912)」http://www.shakyo.or.jp/tsuite/gaiyo/anniversary/history/meiji.html (2018年 6 月22日 閲覧)).
26) 鈴木(1995)71頁.
27) 社会事業調査会は,「内務大臣ノ監督ニ属シ社会事業ニ関スル事項ニ付関係各大臣ノ諮問ニ応シ調査審 議」するものとして1921年 1 月12日に制定された(『官報』2532号(1921年 1 月13日)185頁).
28) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日) 1 頁.
29) 『婦女新聞』は元教師であった福島四郎によって1900年に創刊された,「わが国女性ジャーナリズムの 草分け的女性新聞」であった(鈴木(1995)71頁).
30) 一番ヶ瀬(1968)36頁.
31) 今中(1980)87頁.
32) 一番ヶ瀬(1968)36頁.
33) 今中(1980)86 87頁.
34) 今井(2005)165頁.
35) 今井(2005)168頁.
のところ請願書の提出は間に合わなかった36).
その後,社会事業調査会は社会事業の体系に関する諮問の審議の中で,一般救護に関する体系 を決議し,政府はこれに基づいて救護法案を立案し,1929年に救護法が公布された37).この救護法 には母子保護に関する条文も含まれていた.ただし,救護法第 1 条において被救護者となる母子は
「十三歳以下ノ幼者」と「妊産婦」とされた38).救護法施行令第 1 条により,妊産婦を保護すべき 期間は分娩前 7 日以内,分娩後21日以内
(分娩が予定日より遅れた際には分娩前の期間をさらに 7 日 間まで延長できる)
とされた.また救護法施行令第22条により幼者が「居宅救護」を受ける場合に はその母も救護されることとなっていたものの,「其ノ子一歳以下ナル場合ニ限ル」と定められた39). 救護法の制定後に母子扶助法制定運動は第 2 の画期を迎える.1929年以降,母子扶助法制定運 動を行った最初の組織は社会民衆婦人同盟であった40).社会民衆婦人同盟は1927年11月社会民衆党 の精神に共鳴する女性たちによって,まず社会婦人同盟という形で創立された.その後1928年 7 月には社会民衆党の積極支持を表明すべく,名称も社会民衆婦人同盟と改めた41).社会民衆婦人同 盟のリーダーは赤松明子42)であり,ともに運動を行ったのは赤松明子の夫である赤松克麿の妹の赤 松常子43)であった.1927年に相次いで創立された「無産婦人団体」は恐慌期に,児童保護,母性保 護,無料産院・無料託児所の制定,設置を要求してきた.その中でも社会民衆婦人同盟は母子扶 助法制定運動に総力を挙げて取り組んだ44).社会民衆婦人同盟の機関誌である『民衆婦人』の「母 子扶助法即時制定要求の全国的運動を起せ」と題した記事では,「失業者の激増により,社会不安 の浪は日に日に高まりつゝあるが,その最も端的な現はれは,東京世田ヶ谷の貰ひ児七人殺し事 件,板橋細民部落の貰ひ児殺し事件,先頃の一家の主婦の夫殺し子殺し,一家心中,母子心中等 である」と親子心中について問題視している45).中央社会事業協会が調べたところによれば,父親36) 今井(2005)170 171頁.
37) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日) 2 頁.なお,救護法の施行状況については寺脇(2002)を参照された い.
38) 『官報』675号(1929年 4 月 2 日)65頁.
39) 『官報』1385号(1931年 8 月11日)285頁.
40) 社会民衆婦人同盟による母子扶助法制定運動については今中(1980)90 97頁に詳しく,今中は他の
「無産婦人運動」との関係にも言及しながら,社会民衆婦人同盟の運動について論じた.
41) 『民衆婦人』No. 1(1928年11月25日) 2 頁.
42) 赤松明子は,「大正デモクラシー」の旗手・吉野作造の娘として1902年に生まれた.東京女子高等師範 学校(現お茶の水女子大学)付属女学校卒業後,新人会の創立メンバーであり総同盟の運動家であった 赤松克麿と結婚し,社会運動の実践に踏み出した(鈴木(1998)「日本女性運動史人名事典」 7 8 頁).
43) 赤松常子は,戦前に総同盟の労働運動家として女性労働者とともに運動を行い,戦後は再度労働運動 家として,また初の女性参議院議員のひとりとして活動した人物である.特に,戦時期に産業報国会指 導者であった時期の考察については堀川(2018c)を参照されたい.
44) 鈴木(1995)72 73頁.
45) 『民衆婦人』13号(1930年 6 月25日) 1 頁.
も含む親子心中の1927年 7 月から1935年 6 月までの総件数は1735件に及び,「生活困難」を原因と するものが最も多く460件を占めた46).
『民衆婦人』ではさらに「最近朝飯を喰べないで登校する学童,弁当を持たないで登校する学童 が非常に増加」していることにも触れて,これらは「父親或は母親の失業若くは就職日〔原文マ マ〕の激減によるもの」であることは明らかだとした.こうした現状を目の当たりにして「失業 問題を働く人の問題として,対岸の火災視するわけにゆかない」ことから,社会民衆婦人同盟は
「社会的原因によつて失業した家族の生活を最低限度に安定せしむるために,一方失業保険法その 他の失業対策を要求すると共に,他方母子扶助法の即時実施を要求」するようになるのである47). 社会民衆婦人同盟は,1930年 6 月に開かれた第 2 回全国協議会においてもその議事に「母子扶助 法制定要求に関する件」を上程した48).そこでは「児童,母性に関する血なまぐさい事件の殆んど 凡てが社会的原因による失業の深刻化に起因する事を信ずるが故に」,失業保険法その他の失業対 策を要求すると共に「単なる母性,児童の保護といふ観点からばかりでなく,失業対策の一とし て母子扶助法の即時実施を要求する」49)ことを決議している.このように社会民衆婦人同盟の運動 は,「社会的原因」によって生じた失業に対する対策のひとつとして母子扶助法の制定を求めるも のであった.
上記のような社会民衆婦人同盟の運動によって,1931年 3 月の第59回帝国議会衆議院では,社 会民衆党の片山哲によって最初の母子扶助法案が提出された50).今中
(1980)
は,母子保護法の制 定運動が最も高揚したのは社会民衆婦人同盟を中心に展開された時期であると評価している51).し かし社会民衆婦人同盟はその後,1931年の「満州事変」に伴う組織の分裂と再編に伴って社会大 衆婦人同盟となるものの,社会大衆婦人同盟自体の勢力は後退していくこととなった52).その後,母子扶助法制定運動は 3 つ目の画期を迎える.それは,のちに「母性保護連盟」とな る組織による運動が行われていく時期である53).1924年に誕生した婦人参政権獲得期成同盟会は翌 年「婦選獲得同盟」と改称した.1928年に婦選獲得同盟は婦人諸団体との婦選獲得共同委員会の 組織化に成功し,この時期に婦選運動が高揚した.1930年には第 1 回全日本婦選大会を開催して
46) なお,総件数中「母と子」の割合は70%程度,「父と子」の割合は17%程度,「父母と子」の割合は 13%程度と推定されている(中央社会事業協会社会事業研究所(1938)308 309頁).
47) 『民衆婦人』13号(1930年 6 月25日) 1 頁.
48) 『民衆婦人』14号(1930年 7 月25日) 1 4 頁.
49) 『民衆婦人』14号(1930年 7 月25日) 5 頁.
50) 小川(1981)93頁.
51) 今中(1980)91 92頁.
52) 今中(1980)96頁.
53) 母子保護法の制定運動に関する先行研究のなかで, 3 番目の画期以降について焦点を当てたものとし
ては一番ヶ瀬(1968)37 51頁;今井(2005)がある.
いる54).その後,婦選獲得同盟は「婦選以外の運動」も始めていくが,1931年の「満州事変」に よって婦選運動が後退せざるを得なくなったことから,「婦選以外の運動」にシフトしていった55). そして1934年の第 5 回全日本婦選大会において,上述した社会大衆婦人同盟によって母子扶助法 制定要求が提案され,それが満場一致で可決された.その後,婦選団体連合委員会主催による懇 談会が開かれ準備委員会を発足することとなった.1934年 9 月29日,山田わかを委員長とする「母 性保護法制定促進婦人連盟」が結成された56).この「母性保護法制定促進婦人連盟」は母性保護に 関する法律の制定促進を目的とするものであり,母子扶助法はそのうちの 1 つであった.また,
集まったメンバーのイデオロギーや政治的姿勢は必ずしも一致していなかった57).1935年になると 連盟の活動はより活発になり,その名称を「母性保護連盟」と改称した58).副田
(1983)
は母性保 護連盟による運動は,立法化を進める過程において,「第二の国民の健全育成」という国策に沿っ て進められたと指摘する59).同時期,1934年10月に名古屋市にて開催された第 5 回全国方面委員大会では「親子心中防止に 関する件」を採り上げ,「方面委員の総意を以つて立法の急務を決議し,之を政府に陳情」した60). 1934年第66回帝国議会では貴衆両院で「凶作地母子の保護」がそれぞれ採択された61).1935年第 8 回全国社会事業大会に際しても各種の母子扶助関係議案が上程・審議され,特に母子扶助法に関 しては継続委員会が設けられた62).さらに1935年第67帝国議会でも母子扶助法制定に関する建議案 が上程された63).その後,1936年第69帝国議会衆議院では再度,片山哲より母子扶助法案が提出さ
54) 今井(2005)287 288頁.
55) 今井(2005)288 299頁.なお,「婦選以外の運動」については今井(2005)291 299頁を参照されたい.
56) 鈴木(1995)74頁.
57) 一番ヶ瀬(1968)39 40頁.鈴木(1995)は,制定要求の根拠は「国家的母性」の見地からの「母性保 護」の色合いが濃かったと指摘している.これに対して,母性保護法制定促進婦人連盟の書記であった 堺真柄など危惧を抱いた活動家もいたが,堺らの主張は連盟内では傍流であったとされている(鈴木
(1995)75頁).また冨江(2001)は,母子保護法の制定過程について興味深い点は,「制定に関与したそ れぞれのアクターが,それぞれに母子保護法を解釈していた」点であると指摘している(冨江(2001)
259頁).
58) 鈴木(1995)75頁.
59) 副田(1983)79頁.なお,今井(2005)は母子保護法が運動に参加した「女性たちが要求したものと は著しくかけ離れたものとして誕生した」(322頁)ことを指摘し,「戦時遂行目的のために利用されると いう一面があった」(339頁)と述べた.しかしながら母子保護法の評価については,母性保護論争
(1918年−1919年)から法の成立までの「継承性」を強調したものとなっている(今井(2005)346 347 頁).
60) 全日本方面委員連盟(1941)44 45頁.
61) 小川(1981)93頁.
62) 内務大臣官房文書課(1937a)10頁.
63) 「第67回帝国議会衆議院 建議委員第二分科会議録(速記)第 4 回」(1935年 3 月 7 日)6 7 頁.なお,
「本日ノ会議ニ上リタル建議案」を確認すると,母子扶助法制定に関する建議案のほか,「母子ホームニ
れた64).1936年12月22日に「郵便貯金の利子引下げに伴ひ漸く財源を得るに至つた」ため,社会事 業調査会に対し内務大臣から母子保護法の制定を図るために意見を諮問し,即日要綱が可決され た65).その後,衆議院や貴族院では審議がなされ66),母子保護法は,1937年 3 月31日法律第19号を 以って公布され,1938年 1 月 1 日より施行されることとなった67).
このような過程を経て母子保護法は制定されたが,その制度内容はいかなる特徴を持ったので あろうか.第 2 節において考察しよう.
2 母子保護法の制度内容
母子保護法は救護法に対する特別法である68).救護法を拡大するのではなく,母子保護法が制定 された理由は,救護法が労働能力を喪失した者を扶助の対象としていたのに対し,母子保護法で は母親の労働能力の有無を問わないこととするためであった.さらに,母子保護の重要性を「高 揚」させ,また単に生活の扶助をするにとどまらず「子女ノ養育ニ重キヲ置ク」ようにするため であると説明された69).母子保護法が重要視したことが「子女ノ養育ニ重キヲ置ク」という点で あったことは,その事務を厚生省社会局のどの課が担当するかにも影響したと考えられる.
1938年の『厚生行政要覧』によれば,「母子保護法の施行に関する事項」は厚生省社会局の主管 事務となっている.社会局は,救護事業,社会福利事業,母子及児童保護事業,融和事業等に関 する社会行政ならびに社会事業資金融通に関する事務を管掌しており,それらを保護課,福利課,
児童課の 3 課において分担していた70).この中で,「母子保護法の施行に関する事項」は児童課の 担当するところとなっている.児童課は,「母子保護法の施行に関する事項」のほか,「少年救護
関スル建議案」も上程されている( 1 頁).
64) 『官報』号外「第69回帝国議会衆議院議事速記録」14号(1936年 5 月23日)389 391頁.
65) 内務大臣官房文書課(1937a)10 11頁.
66) 重田(1960)275 276頁.例として,1937年 3 月 2 日(「第70回帝国議会衆議院議事速記録第15号」『官 報』号外[1937年 3 月 3 日]340 348頁),1937年 3 月 6 日(「第70回帝国議会衆議院軍事救護法中改正法 律案外一件委員会議録(速記)第 5 回」 1 17頁),1937年 3 月15日(「第70回帝国議会貴族院議事速記録 第16号」『官報』号外[1937年 3 月16日]211 214頁)に母子保護法について審議がなされた様子を確認 できる.
67) 厚生省(1938)201頁.
68) 厚生省社会局編(1939)113頁.救護法及び本法のどちらにも該当する者の扶助については本法が優先 された.同一世帯で救護法,母子保護法の該当者がともに在る場合,たとえば救護法による扶助を先に 開始しているときは,母子保護法の扶助額決定に当たり救護費をその世帯における収入と認めて扶助額 を定め,逆の場合も同様に行われた.ただし同時に開始したときには各按分して決定した(厚生省社会 局編(1939)108頁).
69) 厚生省社会局編(1939)113 114頁.
70) 厚生省(1938)143頁.
法の施行に関する事項」,「児童虐待防止法の施行に関する事項」,「其の他母性及児童保護に関す る事項」を主管していた71).ちなみに「救護法の施行其の他賑恤救済に関する事項」は保護課の主 管事務であって,救護法と母子保護法は異なる課が主管していた72).1940年の『厚生行政要覧』に よれば社会局の主管事務はその後,保護課,児童課,生活課,住宅課となるが,「母子保護法の施 行に関する事項」は変わらず児童課の主管事務であり,児童課の主管事務には上記 3 つのほかに
「保育隣保の施設に関する事項」が加わっている73).なお,『日本社会事業年鑑』でも母子保護法は
「救護事業」ではなく,「児童保護事業」のひとつとして扱われている74).
母子保護法の第 1 条には「十三歳以下ノ子ヲ擁スル母貧困ノ為生活スルコト能ハズ又ハ其ノ子 ヲ養育スルコト能ハザルトキハ本法ニ依リ之ヲ扶助ス」と記され,さらに「配偶者アル場合」も
「精神又ハ身体ノ障碍ニ因リ労務ヲ行フコト能ハザルトキ」,「行方不明ナルトキ」,「法令二因リ拘 禁セラレタルトキ」,「母子ヲ遺棄シタルトキ」には「配偶者ナキモノト看做ス」とされた75).つま り母子保護法による扶助を受ける者の資格要件としては,①「13歳以下の子を擁する母なるこ と」,②「貧困の為生活すること能はず又其の子を養育するを能はざること」,③「母の配偶者な きか,又は配偶者あるも無きに準ずべき状態にあること」の 3 事項を具備することが必要であっ た.①については,「我国の家庭生活の実際上,祖母が母に代りて孫を養育する場合が多い」こと に鑑みて,「孫ヲ擁スル祖母」が加えられた.子の年齢が13歳以下と定められたのは,救護法との 均衡を考慮したものであり,「児童の身心の発育上から見ても」扶助の必要が認められたためで あった.「子ヲ擁スル」というのは「母が子と同一の家庭に於て,其の膝下で子を養育する場合」
を指しており,「里子に出してゐる」というような,母が子と起居を共にしていない場合は含まれ なかった76).なお,「次代の国民の健全な成育を期する国家としては私生子であると否とに不拘一 律にこれを保護すべきであり単に私生子なるが故に罪なき者を差別して之を除外することは適当 にあらざる」とされ,私生児の母も除外されることはなかった77).また,子が「入籍シ居ラザル場
71) 厚生省(1938)201頁.
72) 厚生省(1938)143頁.
73) 厚生省厚生大臣官房文書課(1940)161,184 186頁.なお,母子に関するその他の事務について,
1938年に「妊産婦,乳幼児及児童の衛生に関する事項」は「体力局」に,1940年に「妊産婦,乳幼児及 児童の体力向上に関する事項」は「体力局」に位置づけられている(厚生省(1938)26 27頁;厚生省厚 生大臣官房文書課(1940)40 44頁).
74) 中央社会事業協会社会事業研究所(1938);中央社会事業協会(1940);同(1941).なお,同書で「救 護法による救護」は「救護事業」の「一般救護事業」に分類されている.
75) 『官報』3071号(1937年 3 月31日)1001頁.
76) 内務省社会局社会部編(1937) 2 3 頁.なお,当時において祖母のほかに姉や伯母(叔母)もその対 象として考えられるのではないかという議論もあったが,それらは扶助を受ける者として認められてい なかった(内田(1939)84頁).
77) 中央社会事業協会社会事業研究所(1938)308頁.なお,「私生子」についての議論については今井
合」も「医師又ハ産婆等ニヨル実親子関係ノ挙証アル場合」は扶助しても差し支えないとされ た78).
②に関して,本法は「救護法同様所謂救貧法制の系統に属する」とされ,「貧困ノ為」をその
「重大要件」とした.ここで「貧困」とは「社会通念上必要と認めらるゝ生活資料の不足してゐる 状態」を指し,「其の為母が最小限度と認むべき生活を維持することが出来ず,又は子の生活及教 育に必要な扶養を為すことが出来ない場合」が要件となっていた.「貧困なりや否や」の認定は
「現代の社会に於ては,消費経済が多く個人を単位とせず家族又は世帯を単位として行はれてゐる から,通常家族又は世帯に於ける経済状態を以て考察すべき」だとされた79).
さらに③に関して,本法の制定理由は子を擁する母が「家計維持者」である夫を失った場合に,
「母の本来の任務であり天職とも謂ふべき子女教養の責務を全うせしめん」とするものであるか ら,労働能力のある夫
(内縁関係も含む)
がいる場合は適用しないとした.つまり失業しているよ うな場合は扶助されないこととなっていた80).小川(1981)
も指摘するように,1931年に社会民衆 婦人同盟の運動を受けて片山哲が提出した母子扶助法案の注目すべき点は,失業問題に言及して いた点であった81).しかし,夫がいる場合には,たとえ失業,無収入の場合でも夫に労働能力があ る限り,母子保護法の適用はなされなかったのである82).小川は,「失業,半失業の状況にある低 賃金労働者や零細自営業者層まで対象になり要保護者がふえ,保護費が増加することが『即チ濫 救』であるという当局者の本音」があったと指摘した83).母子保護法は「家計を維持し妻子扶養の地位に在る夫」が欠けた場合,ないしその夫の労働能 力が失われた際に,「国家の将来を担う」者である「児童の健全なる発育」のため,「貧困母子を 一体として」保護するものであった84).この母子保護法は,救護法とはその運用方法にいくつかの 違いがあった.まず救護法では救護機関として「被救護者ノ居住地ノ市町村長,其ノ居住地ナキ トキ又ハ居住地分明ナラザルトキハ現在地ノ市町村長」と定められていたが,母子保護法では
「現在地ノ市町村長」を認めなかった.それは「母親をして其の子を自己の膝下で養育さす趣旨な
(2005)221,241 243,315頁を参照されたい.
78) 厚生省社会局編(1939)103 104頁.
79) 内務省社会局社会部編(1937) 3 頁.
80) 内務省社会局社会部編(1937) 4 頁.なお,「自ラ夫ヲ嫌ツテ家出シタル母」は「夫ノ遺棄トハ認メラ レザルヲ以テ扶助スルコトヲ得ズ」とされている(厚生省社会局編(1939)103頁).
81) 小川(1981)94頁.第59回帝国議会衆議院で片山は,夫の状態が「失業者」また「半失業状態ニ在ル 者」も含めて法案を提出している(『官報』号外「第59回帝国議会衆議院議事速記録」32号(1931年 3 月 24日)892頁).
82) 小川(1981)94 95頁.
83) 小川(1981)97頁.
84) 内務省社会局社会部編(1937) 1 2 頁.
るに鑑み,一定の居住を有しない母には本法の期待する子女の養育は望み得ないので,居住地あ る母のみを扶助する」ということであった85).
さらに母子保護法の扶助の方法は,原則として母の居宅において行うこととなっていた.扶助 の方法は救護法に準じれば収容と居宅の 2 方法があるが,母子保護法では原則として母の居宅に おいて行うこととされた.それは「本法の目的たる子女の完全な養育は,居宅に非ざれば達し難 し」と考えられたためであった.しかし,「入院等の如く必要ある場合に限り,例外的に『居宅以 外ノ場所』に於ける扶助をも認めた」86).なお,母子保護法でも保護施設があるが,母子保護施設 は「救護法の如く収容救護を受ける」場所ではなく,「其の者の居宅」とみなされた.そのような 観点から,救護施設の場合は市町村長の意思によって収容救護を為すが,母子保護施設の場合に は「母の意志」によって移り住むものとされた.また救護施設の場合,扶助費は施設に給与され たが,母子保護施設の場合は被扶助者に給与され,室料や家賃は扶助者より施設に支払う形式が とられた.さらに,救護施設の場合には被救護者が施設に居住する期間は収容の際の居住地の居 住期間として計算されたが,母子保護施設の場合にはこのような特例は設けられていない.よっ て,母子は施設居住の日から施設所在地の居住のものとなり,このことにより扶助費の負担区分 が救護法の場合と相違した87).
ちなみに母子保護法の経費は道府県,市町村の負担によるものとなっており,国庫はこれらの 費用に対して,道府県及び市に対してはその 2 分の 1 ,町村に対してはその12分の 7 の補助をす ることとなっていた.また道府県は,市町村に対してその 4 分の 1 を補助することになってい た88).今井
(2005)
はその費用を全額国庫負担としなかったことは,母子保護法が,制定運動を 行ってきた母性保護連盟が求めてきた「権利としての法律」としてではなく,救貧法制のひとつ85) 内務省社会局社会部編(1937) 7 頁.当時の戸籍制度は「家」単位で作成されており,国家の基礎単 位は「家」であった.そのため,戸籍上は直系や傍系を含む拡大家族として「家」が構成されていた.
しかしながら,居住移転や職業選択の自由から人々の移動は活発になり,戸籍上の「家」と生活共同体 としての家族は別になっていく.そこで本籍地から離れる人々が増加する事態に寄留法が整備されるこ ととなる.この寄留法により,本籍外に90日以上住所・居所をもつ者が寄留者と定義された(小山
(1999) 8 11頁).母子保護法における,居住地の問題はおそらくこの戸籍上の居所が関連していたと考 えられる.
86) 内務省社会局社会部編(1937) 9 頁.入院による保護を行っていた施設の例として,東京市養育院が ある.東京市養育院では1938年 6 月 6 日に東京市社会局の依頼に応じ, 6 月18日付院長決済により,東 京市各区長より申込みのあった場合に,母子保護法該当者の入院に応じた.母子保護法該当者中病気の 母及び子の療養を行ったが,「別居久しきに亘る場合は救護法に組替へらるる」ため,収容人員は多くは なかった(東京市養育院編(1943)44頁).
87) 内務大臣官房文書課(1937b)12頁.なお,母子保護法の費用負担関係は,救護法に準じて母の居住期 間 1 カ年以上の時には市町村が負担することになっており,母の居住期間が 1 カ年に満たないときには 道府県が負担することになっていた(京都市社会課(1938) 9 10頁).
88) 内務省社会局社会部編(1937)11 12頁.
として成立したことを意味したと指摘する89).『週報』によれば全額国庫負担にしなかった理由は,
「扶助救済の如きは隣保相扶の情誼を中心とすべきものであり,且又濫救を防止すると云ふ建前か らも,本法に於て実際上の扶助機関を市町村長にすると共に其の費用の一部負担を地方団体に課 した」というものであった90).なお,関連法との関係について触れれば藤崎
(1983)
は,軍事扶助 法の資格要件や適用範囲が母子保護法と比べて緩やかであり,限度額も高額であったことを指摘 している91).扶助の機関は救護法同様,「市町村長をして扶助を行はしめ方面委員を其の補助機関」としてい た92).方面委員制度は,1917年に岡山県にて創設された済世顧問をその嚆矢として,1928年末には 全国にわたって本制度が設置された.1931年の救護法実施に伴い,同法の補助機関である救護委 員に方面委員を委嘱する方針がとられ,1936年には方面委員令が制定公布され,1937年に施行さ れることとなった.これにより,元来地方の任意的制度として発達してきた方面委員制度が法制 化され,国家的な指導方針が定められた.方面委員の職務は,社会調査,保護救済等,多岐にわ たっていた93).
扶助の内容は,生活扶助,養育扶助,医療費,生業扶助,埋葬費,委員費,施設費となってお り,「本法試行に要する経費」94)は 1 カ年につき473万4634円95),そのうち国庫補助額が259万円余と 見込まれていた.1938年 1 月 1 日施行予定であることから,1937年予算においては259万円のうち 3 カ月分の国庫補助予算額64万円余を計上していた96).473万4634円の内訳は表 1 のようになって いる.
生活扶助は本法が適用される母ないし祖母の生活費として支給されるものであり,養育扶助は 子ないし孫を養育するために支給されるもので97),その限度額は両者とも 1 日25銭以内, 1 世帯に つき 1 日 1 円を超えないこととされていた98).生活扶助と養育扶助は,金銭または物品の給与によ
89) 今井(2005)339頁.
90) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日)12頁.
91) 藤崎(1983)228 230頁.
92) 厚生省(1938)202頁.
93) なお,社会調査は委員が家庭訪問をして近隣の社会状態,細民の生活状態,貧困の原因,其の他の事 項について調査を行うものである.その際には,「各地共一定様式の方面世帯票(調査カード)」が使用 された.この方面世帯票は生活程度によって 2 種類に分けられて登録され,「第 1 種」は「疾病其の他の 事由に依り現に自活困難なるもの」であり,「第 2 種」は「辛うじて生活し得るも一朝事故に遭遇する時 は忽ち自活困難に陥る虞あるもの」とされた(厚生省(1938)147 148頁).なお,方面委員制度につい ては菅沼(2005),(2010)を参照されたい.
94) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日)12頁.
95) 東京市社会局(1937)86 88頁.
96) 『週報』25号(1937年 4 月 7 日)12頁.
97) 内務省社会局社会部編(1937) 8 9 頁.
98) 厚生省社会局編(1939)71頁.
るものであった99).なお,救護法では扶助はその対象に対しての「個別的扶助」であったが,母子 保護法の場合は,すべて母に対して行われた.つまり,子に対する養育扶助も,医療も,扶助を 受ける者はすべて母である点も,救護法とは異なる点といえよう100).医療は原則として母の居宅 にて行われることとなっており,必要があれば入院も許すものとされていた101).その限度額は救 護法同様,予め地方長官と各機関との間に協定を為したる上で,内務大臣の認可を受けて定めら れた102).なお,生活扶助は必要ではないものの,貧困のために医療を受けられない場合,医療扶 助を単独に行うことも認められていた103).生業扶助は,「家計を助くる生業を得しめる為に行ふ扶 助」であり,生業に必要な器具,資料または資金の貸与または給与がなされるものであった104). その限度額は, 1 人につき30円以内であった105).埋葬については,扶助を受けている母または子 が死亡した場合,扶助を行っていた市町村長が扶助の延長として自ら埋葬するか,または埋葬を 為した者に対して埋葬費が支給された106).その限度額は10円以内であった107).
表 1
母子保護法の施行に要する費用の内訳( 1 カ年分)
扶助の内容 試算内容 総額(円)
生活扶助 1 人 1 日18銭の支給 2,091,954 養育扶助 1 人 1 日10銭の支給 2,324,393
医 療 1 人当たり年額21円28銭 158,004
生業扶助 1 人平均 9 円98銭 3,173
埋葬費 1 件につき 6 円 1 銭 4,411
委員費 1 人につき 1 年に 2 円とし,17058人の方面委員を計上 34,116 施設費 1 カ所建設費総額7600円とし,28カ所を計上 118,583
合計 4,734,634
出所) 東京市社会局(1937)『東京市社会局時報』昭和12年 1 ・ 2 ・ 3 月号,86−88頁より筆者 作成.
99) 内務省社会局社会部編(1937) 8 9 頁.なお,京都市社会課による「手続の概略」によれば,生活扶 助,養育扶助による給与金品は市社会課から方面事務所,担当方面委員を通じて毎月末にその月分を給 与することになっていた(京都市社会課(1938)12頁).
100) 内務大臣官房文書課(1937b)10頁.
101) 内務省社会局社会部編(1937) 9 頁.京都市社会課による「手続の概略」によれば,居宅で医療を受 ける者については方面事務所,方面委員を通じ医療券を交付され,市内の各医師(市医師会員)によっ て診療を受けることができ,診療費は市医師会を通じて医師に支払われた(京都市社会課(1938)12頁).
102) 内務大臣官房文書課(1937b)11頁.
103) 厚生省社会局編(1939)109頁.
104) 内務省社会局社会部編(1937) 9 頁.
105) 厚生省社会局編(1939)72頁.
106) 内務省社会局社会部編(1937)10頁.なお,本法により扶助されている母が死亡した際には,子は救 護法によって救護された(厚生省社会局編(1939)104頁).
107) 厚生省社会局編(1939)72頁.
さらに,救護法における救護施設が「相当効果を挙げてゐる」とされたことから,母子保護法 においても母子を保護するために適当な施設の必要性が認められた108).道府県市町村その他の私 人が施設を設置することができるとされ,この母子保護施設の費用に対しても国庫は一定の補助 を為すこととなっていた109).母子保護施設は「母子ホーム」と称され,母子を居住させた上で保 護することを目的とした施設であった.この施設に「附帯して授産,託児等の施設を為すことが 適切」とされた110).社会局調査によれば1936年11月末時点で,全国での総数は43施設となってい た.経営主体別に見れば,市営のものが 3 ,法人組織のものが18,会員組織のものが12,個人経 営のものが10となっており,これらの施設に母子併せて1498人が保護されていた111).なお,その 施設を有料,無料の別に分けると,有料のものが15,無料のものが22,有料無料併用のものが 6 施設となっていた112).これらの施設のうち,「市町村ノ設置シタル保護施設ノ費用」及び「私人ノ 設置シタル保護施設ノ設備ニ要スル費用」に対して,国庫は 2 分の 1 ,道府県は 4 分の 1 を補助 した.また,「主トシテ保護施設ノ用ニ供スル建物」及び「其ノ建物ノ敷地其ノ他主トシテ保護施 設ノ用ニ供スル土地」に対して「公共団体は『租税其ノ他ノ公課』を課し得ない」ことになって いた113).母子保護法による認可を受けた母子保護施設は1940年12月に21,収容世帯数338,1941年 12月に施設数29,収容世帯数473,1942年12月に施設数31,収容世帯数494であり,そのうち道府 県立 1 ,市立11,町立 1 ,私法人立10,団体立 8 となった114).金子
(1940)
によれば,母子保護 施設は一時建設計画が激増したが,「ちやうど支那事変が起つてきましたので,今では遺族や家族 の母子を収容する施設の方が時の潮にのつて計画されてゐる」ということであった115).母子保護法の扶助費用はその後,「経済状態の変化に伴ひ従来実施して来た給与額の限度にては 保護の徹底を期し難い」ため,1939年10月より,生活扶助,養育扶助,生業扶助及び埋葬費の限 度がそれぞれ引き上げられた116).大阪市社会部保護課勤務の善座
(1941)
によれば,救護法なら びに母子保護法の居宅扶助の限度は救護法の開始された1932年時点のままであり,「物価の昂騰著 しく,生計費の膨張が生活の窮迫化を深刻ならしめる」にいたっては,「最低の生活を保障するこ とすら困難」となっていた117).さらに,太平洋戦争勃発後「経済情勢の急激なる変遷に伴ひ」108) 内務省社会局社会部編(1937)10頁.
109) 厚生省(1938)202頁.
110) 内務省社会局社会部編(1937)10頁.
111) 中央社会事業協会社会事業研究所(1938)309 310頁.
112) 中央社会事業協会(1940)360頁.
113) 内務省社会局社会部編(1937)11頁.
114) 中央社会事業協会社会事業研究所(1945)158頁.
115) 金子(1940)14頁.
116) 厚生省厚生大臣官房文書課(1940)185頁.
117) 善座(1941)131頁.なお,執筆者の肩書きは掲載紙171頁の「執筆者紹介」欄によるものである.
1942年 3 月から限度額は表 2 及び表 3 のように引き上げられた.また,1941年 3 月 6 日には「医 療保護法」が法律第36号をもって公布,10月 1 日にこれが施行された.それにより母子保護法に よる医療に関しては廃止され,以後は医療保護法によって医療を受けることとなった118).なお,
母子保護法では「助産」については扶助を認めておらず,これについては「其の必要も少く,若
118) 岡村(1941)序,94頁;中央社会事業協会社会事業研究所(1945)156 158頁.なお,厚生事務官で あった岡村周美によれば,医療保護法の要保護者は,救護法や母子保護法とは異なり「単に生活不能者 のみならず生活困難者をも包含」するものであった.よって,救護法や母子保護法によって救護または 扶助を受ける者と「然らざる者」との 2 種類となった.「然らざる者」は,「生活不能者であるが所定の 欠格自由に該当する為,救護法又は母子保護法に依り医療又は助産を受くることを得ざる者」を指した
(岡村(1941)26頁).
表 2
1942年における限度額の引上げ基準
( 1 )生活扶助並養育扶助 甲 居宅の場合
(イ) 六大都市及之と事情を同じくする近接市町村 現行限度 1 人 1 日40銭の地域 ⇒ 1 人 1 日50銭
(ロ) 六大都市と事情を殆ど同じくする市町村
現行限度 1 人 1 日35銭の地域 ⇒ 1 人 1 日40銭
(ハ) 前記(イ)及(ロ)以外の市にして後記(ニ)に依るを得ざる市及之と事情を同じくする 町村
現行限度 1 人 1 日30銭の地域 ⇒ 1 人 1 日35銭
(ニ) 其の他の市及之と事情を同じくする町村
現行限度 1 人 1 日25銭の地域 ⇒ 1 人 1 日30銭
(ホ) 其の他の町村
現行限度 1 人 1 日20銭の地域 ⇒ 1 人 1 日25銭
(ヘ) 現行限度 1 人 1 日23銭,22銭又は18銭の町村は可成前記(ホ)に依ること
(ト) 一世帯当の給与限度額は当該世帯の構成人員に応じ一人当の給与額を逓減することとし別 表の如く其の給与額の限度を定むること
乙 入院の場合
(イ) 六大都市所在の府県 1 人 1 日60銭
(ロ) 其の他の道及県 1 人 1 日50銭
(ハ) 千葉,和歌山,静岡,岡山,広島,山口及福岡の各県に在りては 1 人 1 日50銭以上60銭以 下に於て之が限度を定むることを得ること
( 2 )生業扶助
(イ) 前項居住宅扶助の場合に於ける(イ)及(ロ)の市町村 1 人60円
(ロ) 前項居住宅扶助の場合に於ける(ハ)及(ニ)の市町村 1 人50円
(ハ) 其の他の町村は原則として従前通とし特に必要ある向に限り 1 人50円迄引上ぐることを得 ること
注)資料に現行限度の記載がない場合には,引き上げ後の金額のみ記載した.
出所)中央社会事業協会社会事業研究所(1945)『日本社会事業年鑑(昭和18年度)』157−158頁より筆者作成.