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アングロ・アメリカ諸国における 多元主義的な不法行為理論(3・完)

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アングロ・アメリカ諸国における 多元主義的な不法行為理論(3・完)

畑 中 久 彌

はじめに

第1章 Englard の理論

第2章 Schwartz の理論(以上、51巻3・4号)

第3章 Owen の理論(以上、52巻1号)

おわりに

第1節 多元主義的な不法行為理論の展望 1.多元主義的な不法行為理論の問題意識 2.多元主義な不法行為理論の方向性 3.不法行為法の目的・機能論との関係 第2節 個々の法制度・法理との関係

1.各種責任類型の根拠

2.不法行為責任における損害の意義と懲罰的損害賠償 3.帰責根拠の制限(保険の存在)

福岡大学法学部准教授

本稿は、明治大学審査博士(法学)学位論文(20年3月26日授与)「不法行 為基礎理論の研究」の一部を、修正・加筆したものである。

−39−

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おわりに

第1節 多元主義的な不法行為理論の展望

1.多元主義的な不法行為理論の問題意識

多元主義的な不法行為理論の問題意識は、次の三つの視点から整理できる ように思われる。

第一に、問題となる場面毎に適切な正当化の根拠を探求することである。

第二に、個々の場面には限定されない、不法行為法全体を包括する根拠の 探求である。不法行為法の根拠の多元性を認めつつ、その類型化を試みた Englard の理論がその典型である。このような根拠の類型化を伴った多元主 義の立場は、多元主義を明示する論者以外にも、見受けられるところである。

たとえば、T. Honore´は、不法行為責任の基礎である「結果責任」を、さら に社会における人々の協働原則として説明するようであるが、その協働原則 の実態をなすものとして、公正と効率性、正義と功利という対立を指摘して いる(もっとも、協働原則の具体的内容は各社会、各時代によって盛り込ま れるとしている)。J. Stapleton も、経済的効率性、「結果責任」理論、パ ターナリズム等の類型化を行っている。J. L. Coleman による製造物責任

(矯正的正義と経済的効率性)と DES 訴訟(矯正的正義と「過失対応プー ル(at-fault pools))の分析にも、同様の発想がうかがわれる

第三に、社会観等、それぞれの理論の背後にある基本的な発想の提示であ

T

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, M

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1 9,2 9,1 1 2(1 9 8 7) .

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ch.2(1 9 9 4) .

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4 2 8(1 9 9 2) .

Id. at 3 9 8 ‐ 9 9,4 0 4 ‐ 0 6. 「過失対応プール」とは、交通事故の分野でいえば、一定期間 の自動車事故による被害者の損害の総費用を積算し、その費用を、実際に事故を起こし たどうかとは関係なく、過失を伴って自動車を運転した者に配分する、というシステム であるとされる。

−40−

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る。たとえば、Honore´の理論でいうと、人という存在に対する見方(人は 自分が世界に与えた変化を帰属させられる存在であり、行為に対する共同体 の賞賛と非難を常にうけている)である。Coleman の理論では、自由主義 の理念が根底に据えられている。Englard の理論においては、「相補性」

という概念にそのような思想を見て取ることができるだろう。この概念は、

直接には前述の第二の視点として位置付けられている(配分的正義と矯正的 正義の「相補的」関係)。しかし、価値の多元化した社会を前提とする場合、

ここで取り上げた第三の視点としても位置付けることが可能である。「相補 性」は、非常に抽象的ながら、Englard の理論の基礎をなす思想と思われる

2.多元主義的な不法行為理論の方向性

アングロ・アメリカでこれまで主張されてきた不法行為法の哲学的・経済 学的検討は、大きく分けると、経済的効率性にもとづくもの、自由領域の画 定と保護(以下、自由領域の確保とする)にもとづくもの、「結果責任」の 維持にもとづくもの、そして本稿で検討してきた多元主義にもとづくものに 分けることができる。

別稿で検討した通り、これらの発想は、いずれも本質的に異なる内容を 有しており、どれか一つに収斂させることはできないと思われる。むしろ、

これらは相互に正当化し合い、また、制限し合う関係にある。そして、いず れも現代社会で重要な意義を有すると思われるから、最初からどれか特定の 価値のみを妥当とし、残りを排斥するという方法を取るべきではないと思わ

T

ONY

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2 5 ‐ 2 7,2 9(1 9 9 9) .

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, supra note1 3 7,at3 5 4,4 3 7,3 6 0,4 3 4,4 3 6 ‐ 3 7.

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ch. 5(1 9 9 3) .Englard と類似の 多元主義の理解をより一般的な形で示すも の と し て、M

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, J

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ch.7,8(1 9 9 8)がある。

拙稿「不法行為基礎理論の研究」明治大学大学院法学研究論集第1 1号(1 9 9 9年)1 4 9 頁以下。

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アングロ・アメリカ諸国における多元主義的な 不法行為理論(3・完) (畑中)

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れる(個別場面で退けられることはあっても)。Englard と Schwartz の「相 補性」という概念は、配分的正義と矯正的正義の関係あるいは経済的効率性 と矯正的正義との関係を示すだけではなく、社会における価値のあり方を表 現したものでもある。「相補性」は、不法行為法の根拠の多元性が、自由領 域の確保および「結果責任」理論の内部において、より具体的な根拠(損害 填補、加害行為の非難、抑止等)が複数相補的に存在することを示すととも に、経済的効率性、自由領域の確保、「結果責任」理論といった基礎的な不 法行為理論自体が相補的に存在することを示すものとも考えることができる。

後者の意味における多元主義のあり方は、さらに次のように説明すること ができる。Calabresi、Owen、Schawartz 等の理論に見られるように、正義

(本稿の整理では具体的には自由領域の確保がこれに該当する)が経済的効 率性に優先するという主張が有力である。たしかに、経済的効率性の観点か らは、損害を惹起した者以外の者にその損害についての責任を負わせる可能 性が出てくる。そのような場合には、行為者の自由を保護すべきであるとし て経済的効率性を退けるのは理解できる。しかし、ある人が損害を惹起した かどうかの判定が微妙な評価にかかる場合には、経済的効率性に従うことも 許されるのではないだろうか(たとえば、代位責任の場合) 。また、逆に、

いくら被害者の自由領域を保護する必要があるといっても、制度の運用費用 を無視するわけにはいかない。たとえば、現実の損害を伴わない権利侵害に 名目的損害賠償を認めることは、権利(を有する者の自由領域)を保護する ことにつながる。しかし、その結果、訴訟が激増するとなれば、そのような 名目的損害賠償を認めることは躊躇される。ここでは、権利の重要性と経済 的効率性を比較し、後者を優先する可能性が生じている。以上のように見て

米村滋人「法的評価としての因果関係と不法行為法の目的(2) −現代型不法行為訴訟 における責任範囲拡大化を契機とする因果関係概念の理論的検討−」法協1 2 2巻5号

(2 0 0 5年)8 9 2 ‐ 8 9 3頁、拙稿「事実的因果関係の認定と不法行為法の哲学的・経済学的 検討」福大法学論叢5 1巻1・2号(2 0 0 6年) 。

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くると、経済的効率性の観点からある者に不法行為責任を負わせようとして も、もしその評価が自由領域の確保や「結果責任」理論による評価に反する のであれば、経済的効率性による評価は採用することができない、といえる。

これに対し、自由領域の確保や「結果責任」理論の観点からは不法行為責任 を積極的に認容することになるが、経済的効率性の観点からは否定すべきで あるという場合には、経済的効率性を尊重することもありうるし、自由領域 の確保や「結果責任」理論による評価を優先することもありうる、といえる。

3.不法行為法の目的・機能論との関係

不法行為法の哲学的・経済学的検討は、10年代以前における不法行為法 の目的・機能論を背景として登場した。それから三十年ないし四十年をか けて形成されてきた現在の不法行為理論は、従来の目的・機能論とどのよう な関係に立つのだろうか。

不法行為法の目的・機能論は、不法行為法に様々な機能が期待され、従来 見られなかった目的・機能が不法行為法に入り込んでくるという当時の社会 状況を背景として、警告、抑止、補償、不法行為法の公法的理解、損失の分 散、費用の内部化といった様々な不法行為法の目的・機能を明らかにした。

当時の議論を見てみると、今日の哲学的・経済学的検討と同様の発想も存在 していたが、前述したような様々な目的・機能とどのような関係に立つの かまでは検討が十分に進んでいなかった。

0年代以降の不法行為理論の成果の一つは、様々な目的・機能を内部に 取り込んでなお不法行為法が独自の法体系として存在しうること、そして、

現代社会において適切に機能しうることを示した点にあるといえる。不法行

小林秀文「アメリカ不法行為法学における新潮流(一) 」志林8 0巻2号(1 9 8 3年)9 ‐ 1 4 頁、拙稿・前掲注(1 4 2)1 3 6 ‐ 1 3 8頁。

E.g. Glanville Williams, The Aims of the Law of Torts , 1 9 5 1C

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L

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P

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.1 3 7.

−43−

アングロ・アメリカ諸国における多元主義的な 不法行為理論(3・完) (畑中)

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為法を廃止し他の法分野を活用すべきとする見解も有力に主張されているが、

不法行為法に現代社会にも妥当する独自の存在意義を認め、同時に、現代社 会で期待される様々な機能を果たさせようとする見解が主流となっている

(むろん、この立場においても、不法行為法の適切な領分は意識的に検討さ れ、どのような問題を他の法制度に委ねるべきか議論されている)

第2節 個々の法制度・法理との関係

不法行為法の哲学的・経済学的検討の営みは、抽象的な水準でいえば、本 稿で検討してきたような多元主義的な立場で発展していくものと考えられる。

それでは、このような多元主義的な不法行為理論は、不法行為法上の個々 の制度や法理にとって、どのような意義を持つだろうか。この点については、

別稿で、不法行為法における損害の意義や因果関係の証明の程度の問題を検 討した。本稿を閉じるにあたり、別稿で触れなかった問題をいくつか取り 上げて、検討を加えることとしたい。

1.各種責任類型の根拠

わが国では、民法および特別法によって、様々な不法行為責任が認められ ている。本来であれば、その全てを取り上げ、三つの不法行為理論(経済的 効率性、自由領域の確保、「結果責任」理論)の観点から評価を加え、各種 の責任類型について、三つの理論の関係がどのように変化するか検討する必 要がある。しかし、以下では、三つの理論の観点から、いくつかの責任類型 の一側面を論ずるにとどめたい。

(1)過失責任の根拠−信頼原則−

現代社会において過失責任の性格は客観化している。前田達明教授は、「信

拙稿・前掲注(1 4 2) 、 (1 4 3) 。

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頼原則」の観点から、そのような客観化の根拠を説明している。すなわち、

「社会生活をする場合に、被害者の側からみれば、加害者となる行為者と接 触する場合、その行為者が、当該状況下においては、通常の平均人と同じ行 為をしてくれるという期待信頼がなければ、生活は成り立たない。現代の高 度な技術社会においては、ますます、そのような信頼の上に、われわれの生 活は成り立つことが多くなっている……。行為義務は、なるほど、多くの場 合、裁判によって設定されることが多いが、実は、社会生活上、あらかじめ、

行為義務がそれぞれの行為者について設定されているのであり……、それは、

社会構成員への行為義務の分配であり、またそれは危険の分配でもある。そ して、各人は、他の社会構成員がその行為義務を守ることへの信頼が裏切ら れたところに『過失ある不法行為』ありとして、損害賠償請求が許される。

したがって、『過失ある不法行為』の帰責根拠は『信頼原則』である」 では、保護すべき信頼の中身は、どのようにして決められるのだろうか。

それは、行為義務の内容をいかに決定するか、という問題として現れる。前 田教授によれば、それは①当該権利侵害発生の危険が誰の行為支配範囲に入 るか、②事故発生の可能性、③被害法益の重大さ、④行為義務設定により制 限される利益、これらの考量によって決定されるが、それぞれに「どれだけ のウェイトをかけるかは、結局、価値判断の問題であり、当該裁判官に人格 化された時代精神によるといわざるをえない」

アングロ・アメリカにおける不法行為法の哲学的・経済学的検討からする と、Coleman の矯正的正義論と Honore´の「結果責任」理論が、前田教授の 信頼責任論と類似した考え方をしている。Coleman は、各人の社会的協働 に必要な慣習の維持を不法行為責任の根拠としている。Honore´は、共同体 には他者からの評価に基づく「結果責任」が協働原則として存在し、不法行

前田達明『民法Ⅵ2(不法行為法) 』 (青林書院新社、1 9 8 0年)4 5 ‐ 4 6頁。

前田・前掲注(1 4 7)4 0 ‐ 4 1頁。

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アングロ・アメリカ諸国における多元主義的な 不法行為理論(3・完) (畑中)

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為法はそれを法的に維持するものとしている。Coleman も Honore´も、前田 教授と同じように、社会的協働の必要性から不法行為責任を根拠付けている といえる。

このように考えると、保護すべき信頼の内容を具体化する際には、前述の

「当該裁判官に人格化された時代精神」という他に、次の制限が得られそう である。まず、Coleman の立場から信頼責任を捉えるならば、信頼の具体 的内容は(または信頼の基盤となる慣習は)、当事者に局限的なものでなけ ればならない。なぜなら、不法行為法は、二極構造に基づく制度として、当 事者間の正義の実現を目的とするからである。それゆえ、経済的効率性の考 慮は、当事者を超えた社会全体の富を帰責評価に介在させることになるから、

退けられるべきである。

この考え方は、わが国でいうと、潮見佳男教授の過失理論と軌を一にする ように思われる。潮見教授によれば、「過失を帰責根拠とする損害賠償制度 にあっては、個人から個人への財貨移転による利益保持状態の私人間調整が 企図されているのであるから、共同体社会の共通価値の実現という視点から 行為者の決定自由・行動自由に事前的に介入するというのではなくて、個人 対個人のレベルに還元して、侵害が予想される潜在的被害者層の諸利益と当 該具体的行為者の決定自由・行為自由との対照の中で、事前的行為評価を遂 行していくのが適切であるように思われる。行為の有用性とか公共性につい ては、個人の利益に還元することができる限りで事前的行為評価に組み入れ られるにとどまり、損害帰責にあっては独立の斟酌事由たりえないものと考 えたい」。Coleman における当事者間の正義という発想は、個人対個人の レベルに還元するという潮見教授の主張と共通するものといえるだろう。

他方、Honore´の立場から信頼責任を捉えると、異なった理解が得られる。

Honore´の「結果責任」理論は、不法行為法の二極構造を維持しつつ、経済

潮見佳男『民事過失の帰責構造』 (信山社、1 9 9 5年)2 8 7頁。

−46−

(8)

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的効率性を考慮できる枠組みであった。それゆえ、保護すべき信頼の具体的 内容は、因果関係の存在を前提とした上で、経済的効率性の観点から決定さ れてよいことになる。

以上のように、前田教授の信頼責任論は、Coleman 理論、Honore´理論に よって内容を補充することができる。ただし、前田教授が信頼原則を過失責 任の帰責事由とするのに対し、Coleman 理論と Honore´理論は、過失責任の みならず厳格責任をも含むものとなっている。この相違の検討については、

他日を期すこととしたい。

(2)無過失責任の根拠−危険責任−

次に、森島昭夫教授の無過失責任論を見てみよう。森島教授は、無過失責 任について、「危険物の管理者に損失を負担させることが事故抑制や損失分 散に役立ちうるという意味で危険責任説を支持したい」とする。つまり、「危 険な活動を行っている企業は、被害者と比べると、その資力、技術いずれに おいても損害発生を回避するのにより有利な立場にあること、そして、企業 に損失を負担させることは、損失をより少なくするために企業に危険回避の 努力を行わせる経済的誘因(economic incentive)となるであろうこと、ま た企業が損失を負担させられても、それを企業活動のコストの一部として製 品またはサーヴィスの価格に転嫁し、あるいは保険に付するなどの方法で損 失分散(loss spreading)を図りうること、など、危険物の管理者にその危 険から生じた損失を負担させることには、合理的な理由がある」

このように、森島教授の危険責任論は、経済的誘因による事故抑制と損失 分散を根拠とするとともに、損害の発生を前提とし、企業側にその損失を負 担させようとするものである。それゆえ、加害者と被害者からなる二極構造 を前提としていると考えられる。しかし、事故抑制にせよ、損失分散にせよ、

経済的効率性のみの観点からすれば、二極構造は偶然の産物に過ぎなくなる。

森島昭夫『不法行為法講義』 (有斐閣、1 9 8 7年)2 6 4 ‐ 2 6 5頁。

−47−

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では、なぜ二極構造が維持されるのだろうか。

森島教授の見解は、現行制度の合理的説明とそれを基礎とした解釈論的提 言としての性格が強いことからすれば、二極構造が議論の前提とされていて 当然といえる。ただ、そのような事情を離れて、アングロ・アメリカの哲学 的・経済学的検討からすれば、経済的誘引や損失分散という根拠は、自由領 域の確保または「結果責任」の制限内で考慮されるとの説明が可能であると 思われる。

(3)中間責任−監督義務者の責任と使用者責任−

ここでは、いわゆる中間責任のうち、監督義務者の責任(民法74条)と 使用者責任(民法75条)を検討したい。これらの責任は、過失の立証責任 を転換し、また、いわゆる間接的過失を要件とする点で(すなわち、監督義 務者と使用者が問われる過失は、権利侵害に直接関わるものではない)、民 法79条に基づく一般の不法行為責任とは異なると指摘される。無過失によ る免責が認められることは少なく、実質上、無過失責任化しているとされる。

では、なぜ監督義務者と使用者は、このような特別の責任を課されるのだ ろうか。本稿で検討した不法行為理論からは、次のように説明することがで きる。

まず、使用者責任についていうと、経済的効率性については、Schwartz の代位責任論が有益である。Schwartz によれば、経済的効率性を実現する ためには、各人がラーニッドハンドの定式に基づく過失責任を負担すればよ いはずであるが、現実には、使用者の注意義務違反を証明することは困難で ある。そこで、厳格責任を採用し、過失の証明がなくても責任を認めること によって、過失の証明に必要な費用を省くというのである。むろん、わが国 の使用者責任は、無過失の証明による免責を認めているから、コモンローの 代位責任(使用者は無過失であっても被用者の不法行為について責任を負 う)とは異なっている。しかし、わが国の使用者責任が無過失責任に近いも

−48−

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のとなっている現状は、Schwartz の経済的効率性の理解から見た場合、積 極的に評価できるものといえるだろう。

自由領域の確保という観点からは、E. Weinrib の代位責任論が注目され る。Weinrib は、被用者と使用者とを包含する法人格を構成し、事業執行中 の被用者の不法行為は、そのような法人格の不法行為であるとする。被用者 と使用者は一体のものと観念されるから、被用者の不法行為が存する以上、

使用者は免責を主張できないわけである。このような Weinrib の理論は、

代位責任の正当化の試みであるが、わが国の議論からすれば、代位責任の正 当化というよりも、むしろ79条にもとづく企業自体の不法行為責任の説明 に相当するものといえよう。

これに対し、企業それ自体の責任ではなく、使用者と被用者を別の法的主 体として捉える場合はどうだろうか。この場合、自由領域の確保と「結果責 任」理論には、因果関係に関する問題が生じうる。つまり、使用者の行為と 損害の発生との因果関係は、被用者の行為の介在によって切断されているの ではないか、という疑問である。自由領域の確保も「結果責任」理論も、不 法行為法の二極構造を前提としているから、使用者の行為と損害との間に因 果関係を認めなければならない。そうしないと、使用者を加害者とは認めら れなくなるから、使用者責任は、加害者以外の者に責任を課すことになり、

二極構造を逸脱することになる。

不法行為法の哲学的・経済学的検討において、この問題を取り上げ、理論 的な解決を与えたのは、「結果責任」理論であった。ここでは、Stapleton の 理論を見ることにしたい。Stapleton によれば、使用者は、少なくとも被 用者が不法行為を行う機会を与えているとされる。このような機会の付与だ けで因果関係を認めることができるかは議論があるが、経済的利得の追求と

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J.

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, T

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L

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1 8 5 ‐ 8 7(1 9 9 5) .

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, supra note1 3 6,at1 7 0.

−49−

アングロ・アメリカ諸国における多元主義的な 不法行為理論(3・完) (畑中)

(11)

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いう使用者の動機を根拠にして、因果関係を肯定することができるという。

このように考えるならば、使用者を加害者と認めることができるので、使用 者責任は二極構造の枠内で正当化されることになる。Staleton のこのような 考え方は、因果関係の肯定にとどまらず、使用者の厳格責任を正当化するも のであるから、使用者に無過失の免責を認めるわが国の使用者責任とは異 なった制度を前提としている。しかし、わが国の使用者責任が無過失責任化 している現状は、Staleton 理論に沿うものと評価することができるだろう。

あるいは逆に、Staleton が責任の根拠とする「経済的利得の追求」という事 情は、日本においては、使用者の「結果責任」を厳格責任に高めるまでの力 は持たず、せいぜい間接的過失に基づく責任とするに過ぎないと理解するこ とも可能である。

以上の使用者責任に対して、監督義務者の責任は事情が異なる。ここでは、

自由領域の確保と「結果責任」理論について見ておきたい。Weinrib の代位 責任論からすれば、監督義務者が親の場合、親と子を包含する法人格が観念 され、子の行為は親の行為と一体のものと観念されることになるだろう。親 子関係でそのような法人格を観念する場合には、親と子の(日常的な意味で の)人格の独立をどう評価するかが問題となる。早期の独立を望ましいとす るのであれば、親は子の不法行為についてなるべく責任を負うべきでないか ら、親子を一体とした法人格は、期間の点(すなわち、子が何歳になるまで 責任を負うか)においても責任の範囲の点(親は子のどの行為に責任を負う か)においても、狭く観念されるべきことになる。逆に親子の共同性を重視 するのであれば、そのような法人格を広く観念する方向に結び付く可能性が 高い。「結果責任」理論においては、子の行為の介在を前提とした上で、親 の行為と損害の発生との間に因果関係を認める必要がある。使用者と被用者 の関係とは異なり、親は経済的利得を追求するために親子関係を持つわけで はない。それゆえ、子が惹起した損害に対する親の「結果責任」を認め、こ

−50−

(12)

(13)

れを法的責任に高めるための「特別の要素」を新たに見出す必要がある。こ こにおいても、親子の共同性に関する検討が必要となろう

2.不法行為責任における損害の意義と懲罰的損害賠償

別稿では、多元主義的な不法行為理論によれば、不法行為責任は現実の損 害を不可欠の要件としなくなると指摘した。以下では、その理由をさらに付 け加えるとともに、その際に若干論じた、懲罰的損害賠償の理解の仕方につ いて、さらに検討することにしたい。

前述した各々の不法行為理論は、不法行為責任が成立するかどうか、いか なる賠償方法が適切かを判断する際に、制度の運用費用の低減や行為自由に 対する過度の抑制の回避、社会的非難の程度等の事情を考慮する。その上で、

各々の理論が目的とする基本的な価値の実現に必要と考えるならば、現実の 損害が生じなくても不法行為責任を認めることができるし、賠償額について も各々の不法行為理論の目的に適うよう設定することができる

これに対して、S. Perry は、利益侵害が生じない場合の適切な救済手段は 刑罰による制裁であるとしている。そうだとすると、現実の損害が生じな い場合に不法行為責任を認めることは、刑事上の正義と民事上のそれとを混

T

ONY

H

ONOR´E

, A

BOUT

L

AW

7 0 ‐ 7 1(1 9 9 4) .

P. Birks は、契約、不法行為(民事不法) 、不当利得、その他という債務の四類型の 関係を検討し、不法行為法は損害を不可欠の要件とせず、また、不法行為法における政 策と価値は多元的である(経済的効率性、自由主義的な自治、道徳的パターナリズム)

との結論を導いている。本稿で見てきたような不法行為法の哲学的・経済学的検討にお いても、これと同様の結論が得られている。経済学的、哲学的検討と Birks のような法 律学の伝統的手法とが類似の結論に達するわけであり、興味深いことといえる。ただし、

Birks の見解に関しては、損害要件を維持しつつ、現実の損害でなくともよいと主張し ているのか、損害要件自体を不要としているのかについては、さらに検討が必要である。

Peter Birks, The Conception of a Civil Wrong, in T

HE

P

HILOSOPHICAL

F

OUNDATIONS OF

T

ORT

L

AW

3 5 ‐ 3 6,5 1(D

AVID

G. O

WEN

ed.,1 9 9 5) .

Stephen R. Perry, The Moral Foundations of Tort Law,7 7 I

OWA

L. R

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. 4 4 9,4 8 0 ‐ 8 4,

4 8 8(1 9 9 2) .

−51−

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(13)

(14)

同し、妥当でないことになりそうである。しかし、民事と刑事の不法には次 のような違いがある。民事不法は市民が自ら訴えを提起できる不法である。

換言すれば、社会がその代表者を通じて裁判所へのイニシアチブをとるので はなく、不法の被害者が不法の被害者としてイニシアチブをとるのである では、被害者の提訴による犯罪の私人訴追(private prosecution)はどうな るのか。そこでは、被害者が自ら訴えつつも、問題となる不法は刑事上の ものである。それゆえ、自ら訴訟を提起することは、刑事不法に対する民事 不法の独自性とはいえないのではないか。この疑問に対しては、私人訴追と 比べても、民事不法は独自の意義を持つと答えることができる。なぜなら、

前者において「被害者は、社会全体の代表者として、イニシアチブをとるか らである」。このように、被害者が自分の被害を理由として自ら訴えを提 起すること自体に、民事不法の意義を認めることができる。現実の損害が ないからといって、このような民事不法の意義が否定されるわけではない。

それゆえ、現実の損害が生じない場合に責任を認めることは、民事不法の枠 内で−すなわち刑事不法をこっそり持ち込むことなく−可能というべきであ る。

ただ、被害者に生じた損害を填補するという発想を、ここでも維持するか どうかは明らかではない。本稿で検討してきた哲学的・経済学的検討は、民 法79条等に規定される損害の意義について確定的な解釈を示せるような、

具体的な議論とはなっていない。したがって、懲罰的損害賠償についても、

不法行為責任となりうることまでは正当化できても、それを現行制度の解釈 によって実現できるかどうかについてまでは、明確な結論を得ることはでき ない。

Birks, supra note1 5 4,at3 9 ‐ 4 0.

私人訴追とは、犯罪者と確信する者を政府の公務員以外の者が告訴することをいう。

Birks, supra note1 5 4,at4 0.

−52−

(14)

(15)

とはいえ、懲罰的損害賠償においても、損害の填補という発想を維持する 議論がないわけではない。すなわち、被害者の自由が故意に侵害された場合、

賠償の対象となる損害は自由それ自体を根拠にして観念されるとの考え方で ある(Owen の懲罰的損害賠償の議論を参照)

3.帰責根拠の制限(保険の存在)

近時、責任保険との関係から不法行為責任の性質を再考しようとする見解 が唱えられている。すなわち、「加害者・被害者という閉じた世界での損失 分散を考慮しているのみでは今日の不法行為法は必ずしも妥当しない領域が かなり存在」し、その検討は「旧来より存在する個人責任を共同体責任と置 き換える議論と、責任保険の普及によって共同体責任にならざるをえない新 たな現代的問題とを比較・検討のうえ、基本的には類似の構造を持つことを 認識しつつ、それに相応しい責任法理を検討する必要がある」

道義的非難性に基づくとされる過失責任主義にしても、注意義務の内容が、

①結果発生の蓋然性、②被侵害利益の重大さ、③注意義務を課すことで犠牲 にされる利益によって決定されるとすると、③を低く評価する形で責任保険 が関わってきたり、②を低く評価する形で損害保険が関ってきたりする可能 性もないとはいえない。

(1)経済的効率性による評価

経済的効率性を実現するためのインセンティブを不法行為法によって与え ようとする場合、各人が損害賠償の負担や損害を賠償してもらえない負担に どれだけ耐えられるかを考慮する必要がある。しかし、各人の富の状態を調 査するのは容易でなく、制度の運用に費用がかかることになる。逆に、富の

手島豊「損害賠償と責任保険、保障制度の理論と現実」NBL5 0 2号(1 9 9 2年)6 0頁。

同「四、損害賠償責任と責任保険」1 9 9 3年度私法学会シンポジウム「損害賠償責任の理 論と現実」私法5 5号3 2 ‐ 3 3頁、8 3 ‐ 8 7頁。

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アングロ・アメリカ諸国における多元主義的な 不法行為理論(3・完) (畑中)

(15)

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規模や保険の存在が社会的に明確に類型化されていれば、これらの事情を考 慮してもかまわないことになる(例えば、自動車事故の保険や火災保険の浸 透など)

(2)事故に関係する事情のみを考慮すべきとする立場

これに対して、別稿で取り上げた G. P. Fletcher の矯正的正義論は、反対 の立場を取ることになる。事故の当事者の合理的交渉を想定すれば、当事 者は、裁判官に対して、当該事故に関連する事情のみを考慮して、不法行為 責任の成否と責任の内容を判断するよう求めるであろう。それゆえ、付保し ないことが事故の原因になっていないのであれば、保険を考慮すべきではな い。もっとも、保険をかけなかったために損害が拡大したと評価される場合 には、損害に関わった事情として考慮される可能性がある。

Fletcher の主張は、事故または損害と因果関係のある事情だけを考慮 すべきだというように言い換えることができる。これに対して、H. L. A.

Hart と Honore´は、(Fletcher の主張を直接検討しているわけではないが)

次のように述べている。すなわち、予見可能であった損害を著しく凌駕す る損害についてまで責任を負わせるのは、不公平と感じられるかもしれない が、過失ある行為をしても刑罰も受けず賠償もしないことがしばしばあるこ とを考慮に入れれば、そのような不公平さはある程度解消される。たとえば、

スピードの出し過ぎで甚大な被害を引き起こした場合の責任の正当性は、た またま責任を負わずに済んでいた他のスピード違反の運転−それらの運転で は、責任を負わずに済んだという、本来受けるいわれのない幸運を受けてい たことになる−も考慮して判断されるべきである。Perry によれば、この見 解は、「被害者が……訴えている損害と全く因果関係のない行為の道徳的価 値を考慮する」ことを示唆している。この示唆が正しいものであるとする

拙稿・前掲注(1 4 2)2 0 ‐ 2 1頁注(1 8) 。

H. L. A. H

ART

& T

ONY

H

ONOR´E

, C

AUSATION IN

T

HE

L

AW

2 6 8(2d ed.,1 9 8 5) .

−54−

(16)

(17)

ならば、たとえ保険が損害の発生または拡大に関わっていなくても、責任の 根拠として考慮される余地が出てきそうである

Perry, supra note1 5 5,at4 7 2.

以上のような原理上の議論とは別に、保険を考慮することそれ自体の政策的当否の問 題点も指摘されている。Staleton による、いわゆる「保険としての不法行為(tort-as- insurance) 」論(保険を購入している者または購入しうる者に損失を配分するという考 え方)の検討として、S

TAPLETON

, supra note1 3 6,at2 0 5 ‐ 0 7;Stapleton, Tort , Insurance and Ideology,5 8M

OD

. L. R

EV

.8 2 0(1 9 9 5)がある。

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参照

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