テニスンとスウィンバーン ―アーサー王物語をめ ぐって―
著者 上村 盛人
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 28
号 1
ページ 35‑53
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル Tennyson's Idylls of the King and Swinburne
URL http://hdl.handle.net/10105/2468
奈良教育大学紀要 第28巻 第1号(人文・社会)昭和54年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol. 28, No.1 (cult. &soc), 1979
テニスンとスウィンバーン 7*‑サー王的語&rif>こ、って ‑
上 村 盛 大 (外国語教室) (昭和54年4月26日受理)
̀A, my lorde Arthur, what shall becom of me, now ye go frome me and leve me here alone amonge myne enemyes?
‑Malory, The Morte Arthur
1
1837年4月5日、スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)が班孤の声をあげた時、
テニスン(Alfred Tennyson)は、既に二つの詩集を世に問うており、 「マリアナ」 (HMariana )、
「シャロットの姫」 (いThe Lady of Shalott")、 「安逸を求める人達」 (HThe Lotos‑Eaters")等 のすぐれた作品を書き上げた詩人として有名になっていた。そして、スウインバーンが『キャリ ドンのアクランク』 (Atalanta in Calydon)を発表し、大方の好評を得てイギリスの詩壇に迎え 入れられた1865年には、テニスンは既に、桂冠詩人(Poet Laureate)としてワーズワース (William Wordsworth)のあとを襲ってから久しく、 『イン・メモリアム』 {In Memoriam A.
H.H.)や、 『モード』 (Maud;A Monodrama)や、のちに『国王の風景』 {Idylls of the Kingl") に含められることになるいくつかの作品を出版していて、ヴィクトリア朝詩壇を代表する大御所 として確固たる地位を築いていたのである。
スウィンバーンは1872年に、 「顕微鏡の下で」 (HUnder the Microscope")と題する評論の中 でテニスンのことに触れ、特に、 『国王の風景』を激しい調子で非難した。それ以来、彼のテニ スン批判は続くのであるが、特に1880年には、テニスンの「より高き汎神論」 ("The Higher Pantheism")に対するスウインバーン一流のパロディとして「より高き汎神論の要約」 ("The Higher Pantheism in a Nutshell )を発表し、テニスンの宗教観、世界観に対して痛烈な言皆誼 まじりの異議を唱えた。そしてその後、スウィンバーンが『ライオネスのトt)ストラム』 (Tris‑
tram ofLyonesse)や『バレンの物語』 (The Tale ofBalen)のような長編詩を書いたのは、
『国王の風景』の中で示されたテニスンのアーサー王伝説に対する態度を不満として、この伝説 に対する彼自身の解釈を詩作品の中で表明するためであった。
この小論の目的は、アーサー王伝説に対する両詩人の態度の違いを、 『国王の風景』を中心に して今少し詳しく考察することである。それは、この長篇詩の中に、晩年のテニスンの世界観、
或いは芸術観が他のどの作品よりも濃厚に示されていると思われるからであり、また、スウィン バ‑ンの批判は、それ自体、彼独自の芸術観を如実に示していると思われるからである。
35
2
『国王の風景』は形の上では、ウェルギリウス(Virgil)以来の叙事詩の形式に従った12巻か ら成る長篇詩であると言うことができるが。2'、その製作過程は、次の表が示すように、複雑でか つ長期間にわたるものであった。
Idylls of the King: A Chronology
ORDER OF POEMS HDedication
1. HThe Coming of Arthur"
2.日Gareth and Lynette"
3.日The Marriage of Geraint"
4. 日Geraint and Enid"
5. 日Balm and Balan"
6. 日Merlin and Vivien"
7. 日Lancelot and Elaine
8. "The Holy Grail"
9.日Pelleas and Ettarre
10. HThe Last Tournament"
ll. "Guinevere
12.日The Passing of Arthur"
To the Queen
ORDER OF FIRST PUBLICATION
HMerlin and Vivien" (HNimue"), ※1857, in trial copies privately printed.
HGeraint and Enid" (HEnid"), 1857
日Guinevere," 1859.
日Elaine," 1859.
日Dedication," 1862.
日The Holy Grail," 1869 (dated 1870).
HThe Coming of Arthur," 1869 (dated 1870).
HPelleas and Ettarre," 1869 (dated 1870).
HThe Passing of Arthur," 1869 (dated 1870).
(HMorte d'Arthur" published 1842. ) HThe Last Tournament," 1871.
日Gareth and Lynette," 1872.
日To the Queen," 1873‑
日Balin and Balan " 1885‑
日Geraint and Enid": HEnid" divided in 1888
into two idylls一日The Marriage of Geraint and
"Geraint and Enid" (see 3and 4in first column).
>&The original titles of the poems are given in parentheses.
ORDER OF COMPOSITION
HMorte d'Arthur" composed 1833‑35 (published 1842).
HMerlin and Vivien" (HNimue") started end of 1855; rough draft January 1856;
completed March 1856‑
日Geraint and Enid" (HEnid") started April 1856; worked on intensively September
1856; completed October 1856‑
…Guinevere" started July 1857; completed January 1858; finishing touches added
March 1858‑
日Lancelot and Elaine" (HElaine") conceived March 1858; mostly written wintei
テニスンとスウィンバーン
371858‑59; completed end of February 1859.
日Dedication'つPrince Albert died December 18, 1861) set in type by January 9, 1862.
"The Holy Grail" started March 1868; re‑started September 1868; completed No‑
vember 1868.
日The Coming of Arthur" worked on winter 1868‑69; completed end of February 1869.
日Pelleas and Ettarre" well under way May 1869; completed September 1869.
"The Passing of Arthur'つ"Morte d'Arthur") : introduction and conclusion added to "Morte d'Arthur" September 1869.
日The Last Tournament" started April 1871; completed May 1871.
"Gareth and Lynette" started October 1869; worked on for a year; picked up again November 1871; completed summer 1872.
日To the Queen" composed toward end of 1872.
"Balin and Balan" composed during later part of 1872 and early 1873; completed 1874 (140 lines added to opening of HMerlin and Vivien" 1874).(3)
即ち、 『国王の風景』の最終の巻にあたる「アーサーの他界」 (HThe Passing of Arthur")は、
その始めと終りの部分に少し変化のある形で「アーサーの死」 (HMorte d'Arthur")と題されて 最も早く1842年に出版された。そして、その後、それぞれの巻に相当する作品がばらばらに不規 則的に発表され、 1888年にそれらがテニスンの考えに従って順序だてられ『国王の風景』の決定 版がやっと完成したのである。 『国王の風景』の完成までにテニスンは約55年もの歳月を費した のであるが(4㌧ その間に、彼の宗教観や世界観、或いはア‑サー王伝説に対する考え方が変化し、
或いは発展したとしても、それは不思議なことではないであろう。
アーサー王伝説に対する彼の関心は極めて早い時期からあったようで, 1830年に書かれた「ラ ンスロット卿と王妃ギネヴィア」 ("Sir Launcelot and Queen Guinevere )と題する45行から 成る詩があるが、この詩こそ、テニスンが生涯にわたって追究することになるアーサー王伝説に 主題を求めた作品の唱矢であった。ここでは、 「一年のうちの少年期」とも言うべき慮わしい春 の野に、 「喜びに溢れたかん高い声を響かせて」楓爽と馬を走らせる二人の恋人の姿が描かれて いる。
Then, in the boyhood of the year, Sir Launcelot and Queen Guinevere
Rode thro'the coverts of the deer, With blissful treble ringing clear.
She seem'd a part of joyous Spring;
A gown of grass‑green silk she wore, Buckled with golden clasps before;
A lighトgreen tuft of plumes she bore Closed in a golden ring.
(ll.19‑27.)
「黄金の留め金のついた緑の草のような絹のガウンを着」て、 「黄金の輪の中に束ねられた薄緑 色の羽毛飾りを身につけた」彼女は正に、 「楽しさに満ちた春の一部分」なのである。
As she fled fast thro'sun and shade, The happy winds upon her play'd, Blowing the ringlet from the braid.
She look'd so lovely, as she swayd The rein with dainty fingertips, A man had given all other bliss, And all his worldly worth for this, To waste his whole heart in one kiss
Upon her perfect lips,
(ll.37‑45.)
「彼女が素早く駆け抜けると、風が彼女に戯れて、彼女の編んだ髪から巻き毛を吹き散らした。
その華著な指で手綱を操る時、彼女はとても美しく映ったので、すべての心を使い果たしても、
その申し分のない唇にただ一度接吻するためであれば、男は他のすべての喜びや世俗的な価値あ るものをすべて投げ棄てる」はどなのである。鮮かなイメージと軽やかな言葉によって措かれて いるギネヴィアは、まことにういういしく、しかも美しく可憐である。
この詩には、 『国王の風景』の中で、次のように描写されている、罪の意識に苛まれ、後悔の 溜息を洩らす王妃ギネヴィアの様子はみじんも見られない。
Is there none
Will tell the King I love him tho'so late?
Now‑ere he goes to the great Battle? none:
Myself must tell him in that purer life, But now it were too daring. Ah my God, What might I not have made of thy fair world, Had I but loved thy highest creature here?
It was nly duty to have loved the highest:
It surely was my profit had I known;
It would have been my pleasure had I seen.
We needs must love the highest when we see it, Not Lancelot, nor another.
{Idylls of the King, "Guinevere," ll. 645‑656).
いま上に引いた箇所は、 『国王の風景』の第11巻「ギネヴィア」の終りに近い部分にあたり、ア ーサー王に、 「この王国の破局の原因は、くランスロットに対するお前の恥ずべき罪) (̀thy sha‑
meful sin with Lancelot,'1.484)であるが、くすべては済んでしまったことで、罪もなされて
しまったあとである、そして私は、よいか./私は、永遠の神がお許しになるように、お前を許す
テニスンとスウィンバーン
39のだ) (̀And all is past, the sin is sinn'd, and I, / LO/ I forgive thee, as Eternal God / Forgives,'ll.540‑542.)」と言われ、モードレッド(Modred)と戦うために「西方の大きな戦 き」に出かけるアーサーを見送ったあとでギネヴィアが語る言葉なのである。上に引用した部分 を比較しても明らかなように、 「ランスロット卿と王妃ギネヴィア」を書いた時にはテニスンは、
アーサー王伝説に関する自分独自の解釈による長篇詩を書くことについての構想を、まだ抱いて はいなかったように思われる。
テニスンは或る知人に、 「涙、詮無き涙」 (HTears, Idle Tears")という作品は、 「私が少年の 頃からいつも感じていたことを述べたもので、少年時代の私が『過去の情熱』 (̀passion of the past')と呼んだものなのです。そして、それは今でもいつも私にはそうなのです。つまり、風 景を見る私を魅了するものは遠景なのであり、絵であり、過去のことであり、私がその中で動い ている今日のこの日ではないのです(5'。」と述べたことがある。このような特質は、テニスンの多
くの詩においても認められうるものであり、同時代的なものよりも、むしろ過去の、或いは伝説 上の出来事に詩の素材を見つけることに彼の関心があったとすれば、英国の詩人として彼がアー サー王伝説に特別な興味を持っていたとしても、それは何ら不自然なことではないと言えるであ ろう。
大作、 『国王の風景』へと成長する萌芽とも言うべき作品は、 1833年に創作にかかり、 1842年 に発表された「アーサーの死」であった。この作品は、テニスンの代表作として有名な『イン・
メモリアム』と時を同じくして書き始められ、彼の畏友アーサー・ヘンリー・ハラム(Arthur Henry Hallam)の死がきっかけとなって生み出されたものであった。 「アーサーの死」とは、
「アーサー王の死」であると同時に、 「アーサー・ハラムの死」をも意味し、その「アーサーの 死」を悼むことをテーマにした作品である̀6)。その中で、アーサー王は‑ラムのイメージと重な り、それは時にはキリストに帰するものとなっている。そしてこの、アーサー王‑‑ラム‑
キリストという三位一体化されたイメージは『国王の風景』全篇を貞くものでもある(7)。
『国王の風景』の粗筋は、ごく大雑把に言えば、次のようなことになるであろう。
≪混沌、無秩序が支配する世界に出生の秘密を持つアーサーが現れるにおよび、やがてその国に秩 序と平和がもたらされるのであるが、それも束の間、ア‑サ‑王の影の指導者マーリン(Merlinj の官能的、悪魔的なヴィヴィアン(Vivien)による破滅、 「聖杯」の幻に惑わされて四方に探求 に出かけたまま戻って来ない騎士達が続出することによる円卓の騎士団の弱体化、そしてトリス
トラム(Tristram)とイゾ〜ルト(Isolt)、ランスロットとギネヴィアの間における不義密通、
等々、そのようなことが次々に起こり、秩序が混乱するに及び王国が再び無法と戦争の状態に戻 り、モードレッドとの戦いで重傷を負ったアーサ‑王が三人の女王の操る小舟に乗ってアヴィリ オン(Avilion)の方へ消えて行くと、新しい年が始まろうとしていたのである。≫
『国王の風景』のうちでテニスンが最も早い時点で出版した「アーサーの死」は、マロリー (Sir Thomas Malory)の書いたアーサー王物語にかなり忠実に従った内容となっているが、そ れ以後に出版された作品は、アーサー王伝説に対するテニスン独自の大胆な解釈が施されたもの となっている。マーリンを破滅に陥れたヴィヴィアンを悪魔的誘惑者として蛇のイメージで描い たり、ギネヴィアに王妃らしからぬ言動をさせたり、トリストラムを現実主義者にしてしかも唯 物的自由恋愛主義者の権化のように描いたりしているのは、その著しい例であろう。先に述べた ように、 『国王の風景』の中で、テニスンは一つの王国の形成とその平和的で完全な統治、そし てその王国に住む人間達の愚行や堕落による王国の崩壊と新しい混沌の兆しを描いているのであ
るが、それはアーサーの王国のみの描写というよりも、 「混沌‑秩序‑混沌」というサイクルが 示すもっと普遍的な世界の描写でもあり、テニスンは象徴的な要素を持つこの作品によって、ヴ ィクトリア朝という時代そのものに対して一種の警告を発しているのである(8)。
1850年に出版された『イン・メモリアム』が信仰の問題に対するテニスンの理想主義的、或い は、願望的態度を歌い上げた楽観的な立場を示すものだとするならば、 『国王の風景』は、彼の 時代を取り巻くさまざまな状勢に対する懐疑、不安、不信などをアーサー王伝説の舞台を借りて 表明した悲観的立場を示すものであると言えよう。 T. S.ェリオット(Thomas Steams Eliot) は、 『イン・メモリアム』と共にテニスンの「精神的発展」 (̀spiritual development')は終り、
それ以後の彼は、 「時代の浅薄な追従者」 (̀surface flatterer of his own time')になってしまっ たと述べたが(9)、それは、エリオットが『イン・メモリアム』だけに注目して、 『国王の風景』の 本質を探る努力を払わなかったためであろうと思われる。しかし、この二つの長篇詩を読み比べ てみると、エリオットの言某は的をはずれていると言わざるを得ないであろう。 『国王の風景』
には『イン・メモリアム』以上に、自分の時代や信仰に対するテニスンのより痛切で真実な心情 が象徴的な物語を通して吐屠されていると思われるからである.
3
放て、スウィンバーンが1872年に「顕微鏡の下で」と題するパンフレットの中で『国王の風 景』を批評した時、彼は少なくとも、「マ‑リンとヴィヴィアン」、「ジェレイントとイ‑ニッド」、
「ギネヴィア」、 「イレーヌ」、 「聖杯」、 「アーサ‑の出現」、 「ペリアスとエクー」、 「ア‑サーの他 界」、 「最後の馬上槍試合」をいま上に挙げた順序で読んでいたはずである。従って、スウィンバ ーンはこの時点では、 『国王の風景』に収められているすべての作品を、しかもテニスンの意図 していた順序で、読んでいたわけではなく、当然、この作品に対するテニスンの全体的な構想も まだ知らなかったものと思われる。
「寂微鏡の下で」は、その前年の1871年にスウインバーンやD.G.ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)を「詩の肉感派」 (̀The Fleshly School of Poetry')と呼んで非難したロバート・ビュ ーカナン(Robert Buchanan)を論駁するために書かれたパンフレットなのであるが、その前半 の部分でスウインバーンは『国王の風景』の批評を行なっている。その中で彼は、当時の批評家 で詩人でもあったアルフレッド・オースティン(Alfred Austin)が、バイロン(Lord George Gordon Byron)をテニスンよりもすぐれた詩人であると判断していることに異議を唱え、叙情 詩人としてテニスンがバイロンよりもすぐれていることを先ず指摘している。そして、テニスン の本当の敵はオースティンではなくて、 「彼自身の身内の人々」 (̀those of his own household') とも言うべき批評家達であり、彼らは、 『イン・メモリアム』をその広がりと効果の点において 聖書の『詩篇』と肩を並べるべきものであると見倣し、テニスンを崇拝するあまりに、彼をシェ
イクスピア(William Shakespeare)やシェリー(Percy Bysshe Shelley)にも匹敵する詩人であ ると見倣す人々であるとスウィンバーンは述べる(10)。さらに続けて彼は、 「そのような連中は、
テニスンのアーサー王に関する詩の集大成‑それは、 (作者が確たる誇りを持って語っている ように)幸いにも、主人公をいかにも王侯然とした気高いタイプの人物に充分ふさわしい振舞い をさせることができていることから「アルバートの死」 (Hthe Morte d'Albert")と呼んだ方が もっとふさわしいのかも知れぬが‑を深淵で高尚な道徳性を持つ叙事詩であると考える人々で
テニスンとスウィンバーン
41ある(ll)」と述べて、 『国王の風景』を極めて道徳性の強い作品であると考えることの危険性を指 摘し、しかもテニスンが、 1861年に死去したヴィクトリア女王の夫君アルバート公を称え、その 死を悼むために、主人公のア‑サー王を理想的君主としてのアルバート公のように描いているこ とから、この作品を「アーサ‑の死」ではなくして、 「アルバートの死」と呼ぶ方がふさわしい のではないかと話語まじりに皮肉っている。スウィンバーンの批判が示すような、この作品に関 する同時代人達の誤謬に気がついていた批評家は、この時代には彼のほかに殆んどいなかったの である(12)。
スウィンバーンはこの作品の道徳性を問題にして、アーサー王物語が本来持っていた「道徳的 な調子は、概してテニスンの取り扱い方によって下落させられてしまったようである」と述べ、
V^T'IKZ
「主人公を理想的人物の高貴で完全な象徴にしようと望むあまりに、テニスンはランスロット (LaunceloOとゲネヴィア(Guenevere<13);の宿命的で悲劇的な恋愛に対する弁明のみならずそ の説明までも取り外してしまった(14)」と指摘する。スウィンバーンによれば、この物語の要点は、
アーサーが相手の女性が異父姉妹(half‑sister)であることを知らずに彼女と交わったために近 親相姦の罪を犯し、モードレッド(Mordrea)という運命の子供が生まれたことなのであり、そ れは丁度、オレステス(Orestes)の物語の悲劇の原因が、アウリス(Auhs)でのイフイゲニア (Iphigenia)の犠牲によっているのと同様に、どうにも避けられない運命の力によるものであ ると言うのである。そして、古来から伝わるアーサー王の物語の中にスウィンバーンは、 「ギリ シア的な威厳と意義と言ってもよいもの」 (̀something almost of Hellenic dignity and signi‑
ficance'(15))を認めている。つまり、偉大なギリシア悲劇の多くがそうであるように、一見小さく 見える悪の根から悲惨な運命が生まれ、それが徐々に大きくなり、しかも、それは天の悪意によ るものというだけでなく、不注意から犯した罪や最初に人に苦痛を与えた愚行に対する正当な報 いなのである。何気なく軽薄な恋愛にふけったり、行きすがりに不貞を働くことによって、勇者 であったアーサー王は知らず知らずのうちに自分自身と自分の王国に避けられぬ運命をもたらす のである。悲劇的な一連の動きの中にあって、目には見えないけれどもそれを避けることができ ない復讐の女神アテ‑ (Ate)の存在だけが、この物語に正当な意義と必然的な威厳を与えること ができるのであり、そのようなものが無げれば、この物語の中の登場人物達の行動は意味を欠き、
また、その情熱も高畠さを失うことになるとスウィンバーンは指摘する(16)。このように、ア‑サ ー王伝説の中に、ギリシア悲劇の要素を認めることは、へレニストであったスウィンバーンにと ってはごく自然なことなのであり、彼はマロリーによって一応、集大成されたこの物語の中に、
古典的なギリシア悲劇のような完成された一個の芸術作品を見ていたのである。
この物語に対するスウィンバーンの解釈によれば、アーサー王はマーリンによって宣告された 運命を自分のすべての努力や勝利に覆いかぶさる悲劇的な影として背負わされ、彼の成し遂げた 業績と栄光という恵まれた時にあっても、妻と言うよりも后として彼の横に坐っているゲネヴィ アの苦悩や情熱には目もくれずに、威厳を持って最後までひたすらただ一人で耐える人物であっ た(17)。スウィンバーンのこのような考え方は、マロリーが集大成したア‑サ‑王物語に対する解 釈としては、下に引いた箇所から判断しても、一応、妥当で納得できるものであると言えよう。
̀Yes,'seyde the olde man, ̀the chylde tolde you trouthe, and more he wolde a
tolde you and 〔y〕e wolde a suffirde hym, but ye have done a thynge late that God
ys displesed with you, for ye have lyene by youre syster and on hir ye have
gotyn a childe that shall destroy you and all the knyghtes of youre realme.'
̀What ar ye,'seyde Arthure, ̀that telle me thys tydyngis?'
̀Sir, I am Merlion, and I was he in the chyldis lycknes.'
̀A,' seyde the kynge, ̀ye ar a mervaylous man/ But I illervayle muche of thy wordis that I mou dye in batayle.
̀Mervayle nat,'seyde Merlion, ̀for hit ys Goddis wylle that youre body sholde
be punyss〔h〕ed for your fowle dedis. But I ought ever to be hevy,'seyde Meト
lion,一for I shall dye a shamefull dethe, to be putte in the erthe quycke; and ye
shall dey a worshipfull dethe.'( )
今の引用文の中のマーリン(ここではマ〜リオン〔Merhon〕となっている)の、 「だが、あな たは最近、神の不興を買うようなことをしてしまったのです。と言うのは、あなたは、自分の妹 と寝たために、あなたとあなたの王国のすべての騎士達を破壊する運命を持つ子供をその女性に 生ませることになったからなのです」という予言的な言葉の中に、スウィンバーンは悲劇の原因 を認め、さらに、 「あなたの行なった邪悪な行為のためにあなた自身が罰せられるというのは神 のご意志なのです」と言うマーリンの言葉の中に、ギリシア悲劇の「運命」そのものを見ていた のである。
スウィンパーンの言うように、アーサー王の物語にギリシア悲劇が持つ悲劇的要素、及び、運 命観を認めることは確かに可能なのではあるが、忘れてならないことは、アーサーの王国が古代 ギリシアではなく、中世イギリスのキリスト教の世界にあったということである。アーサーのす べての行動はキリスト教の神を敬う気持から発していて、神の栄光のためになされているのであ る。また、この物語には「騎士中の華」と呼ばれるランスロットをはじめとして多くの騎士が登 場し、中世騎士道物語の一大絵巻を思わせるものがある。従って、元来のアーサー王の物語には、
ギリシア悲劇的要素、キリスト教的要素、及び中世騎士道物語的要素という三つの要素を認める ことができると言えよう(19)。
テニ.スンがアーサー王をあまりにも理想的に描こうとしたために、アーサ‑王は「妻を寝取ら れた間の抜けた男」 (̀wittol')に、ゲネヴィアは「夫に不良を働いた女」 (̀woman of intrigue') に、ランスロットは「他人の妻と姦通の罪を犯した男」 (̀co‑respondent)のレベルにまでなり 下がり、アーサー王物語が元来持っていた「アイスキュロス的ドラマ」 (̀Aeschylean drama') の格調を落としめ、その内容を歪めてしまったとスウィンバーンは批判する(20)。確かに、 『国王 の風景』に登場するアーサー王は、およそ生身の人間とは思えぬ程に人間的感情が欠如している ように描かれている。
Now for the central diamond and the last And largest, Arthur, holding then his court Hard on the river nigh the place which now Is this world's hugest, let proclaim a joust At Camelot, and when the time drew nigh Spake (for she had been sick) to Guinevere,
̀Are you so sick, my Queen, you cannot move
テニスンとスウィンパーン
To these fair jousts?'̀Yea, lord,'she said, ̀ye know it.
̀Then will ye miss,'he answer、d, ̀the great deeds Of Lancelot, and his prowess in the lists,
A sight ye love to look on.'And the Queen Lifted her eyes, and they dwelt languidly On Lancelot, where he stood beside the King.
He thinking that he read her meaning there,
̀Stay with me, I am sick; my love is more Than many diamonds, yielded; and a heart Love‑loyal to the least wish of the Queen (However much he yearnd to make complete The tale of diamonds for his destined boon) Urged him to speak against the truth, and say,
̀Sir King, mine ancient wound is hardly whole, And lets me from the saddle'; and the King Glanced first at him, then her, and went his way.
(Idylls of the King, HLancelot and Elaine," ll. 73‑95. )
43
いま上に引いた部分は、死んで野ざらしの白骨となった或る王の冠に付いていた大きなダイヤモ ンドを賞品にして、馬上槍試合がアーサー王によって布告された時のくだりである。この時病気 であったギネヴィアは、 「お前は病気だからカメロットでランスロットの立派な晴れ姿を見るこ とができないのだね」と王に言われると、王の側にいたランスロットに「私と一緒にここに留ま っておくれ」という合図の目くぼせをする。それを受けてランスロットは、 「古傷が痛むので私 は馬にも乗れないのです」と嘘を言うのであるが、アーサ‑王はこの二人を見比べたのち、彼ら を残してカメロットへ向かうという具合なのである。さらにそのあとでランスロットが述べてい るように、多くの詩人達がランスロットとギネヴィアの名前を結びつけて歌い、円卓の騎士達が この二人のことを祝して乾杯しても王は、 「にこにことはは笑んで聞いている」 (Ibid.. 1. 116.) のである。
テニスンが描くこのようなアーサ‑王をスウィンバーンは̀wittorと呼んだのであるが、ギネ ヴィアはランスロットに、「けれども、私にとっては、全然欠点のない人というものは、大きな 欠点を持っているということなのです。なぜならば、私を愛する人は地上的なものを持っていな ければならないからです。」 {Ibid., ll. 131‑133.)と言って、アーサーが、現実離れのしたあま りにも理想的で完壁な人間であるために、そのような人を愛することができないということを暗 にほのめかしている。 「実在の人間の中に存在する理想的な人格」 (̀Ideal manhood closed in real man'<21))を描いたと言うテニスンの言葉にも拘らず、アーサー王は、 「人間というよりはむ しろ思想が具現化したもの」 (一an embodied idea rather than man''22))のような抽象的な存在 としてしか感じられないのである。バックリーの言うように、アーサーは、 「超自然的な出生と 最後を持つ理想的な人物として描かれており、現実の、またそれ故に誤ちを犯しやすい主人公で はなくて、神の使者(23)」なのである。アーサー王をそのように描くことは、勿論、テニスン自身 の目論見でもあったのである。そして、アーサーの王国が崩壊の兆しを見せ始めた時、自分が犯
した過去の罪に気付いたギネヴィアは切々と許しを乞うが、王は彼女に、 「すべては済んでしま ったことで、罪もなされてしまったあとである、そして私は、永遠の神がお許しになるようにお 前を許す」 {Idylls of the King, HGuinevere," ll. 540‑542.)と言い、さらに「それでも私はお 前を愛している」 {Ibid., 1. 556)と述べる。ここではアーサー王は、既に述べたように、正にキ リストの化身として描かれている。プリーストリ‑の言うように、 「魂、或いは行動する精神」
であるアーサーは、 「精神的な価値を持つ諸々の物、理想、あこがれ、の象徴であり、それ故に テニスンにとっては、それは、人間や社会や国家に活力を与える宗教的信仰と同一視されるも の(24)」であったO
スウィンバーンは、 『国王の風景』に致命的な結果をもたらしているのは、アーサーとゲネヴィ アという「品位を落としめられた人物」 (̀the degraded figuresつ との調和をはかるために、この 物語の他の登場人物達の品性をも落とさざるを得なかったことであると、特にテニスンの描くヴ ィヴィアンに厳しい評価を与えている。スウィンバーンは芸術作品に「不貞な女性」 ̀unchaste woman')を登場させることに反対するものではないと述べているが(25)、これは、文学作品では性
の問題を取り扱うべきではないと考えていた、当時の口やかましい多くの̀anti‑sexual mora‑
1ists'(26>に対する彼自身の反駁でもあった。しかしそのような女性にも、とスウィンバーンは言う のであるが、 「どこか人間的な、或いは、必要とあれば、悪魔的な威厳」 (̀some trace of human or if need be of devilish dignity')がなければならないのに、テニスンの描くヴィヴィアンは これまでの文学作品に登場した人物の中で、 「最も下品で嫌悪すべき人間」 (̀the most base and repulsive person')で、 「行きずりの男の袖を引っぼって証し込むような不潔な人間」 (̀such a sordid creature as plucks men passing by the sleeveつ なのである。さらに、シェイクスピ アのクレオパトラ(Cleopatra)、ミルトン(John Milton)のダリラ(Dalilah)も確かに「邪悪」
(̀evil')ではあるが、それなりに「高貴」 (̀noble')なところがあるのに、ヴィヴィアンだけは
「下劣で我慢ならない」 (̀vile and intolerable)とスウィンバーンはさらに追い討ちをかけてい る(27)。彼のこの指摘はテニスンの描写するヴィヴィアンを指弾しているだけではなく、同時に、
「ファム・ファタル」 (̀femme fatale')が登場する「ドローレス」 (HDolores")をはじめとする スウィンバーン自身の作品に対する弁明ともなっている。
テニスンはヴィヴィアンを形容する単語として̀wily (「校狙な」)という形容詞を繰り返し用 いているが、その̀wily Vivien'がアーサー王の影の指導者とも言うべきマーリンを陥れる様子 を次のように極めて印象的に描いている。
一一wherefore, when she lifted up
A face of sad appeal, and spake and said,
̀O Merlin, do ye love me? and again,
̀O Merlin, do ye love me?'and once more,
̀Great Master, do ye love me?'he was mute.
And lissome Vivien, holding by his heel,
Writhed toward him, slided up his knee and sat, Behind his ankle twined her hollow feet
Together, curved an arm about his neck, Clung like a snake;‑‑‑
テニスンとスウィンバーン
{Idylls of the King, "Merlin and Vivien," ll. 231‑240.)
45
ヴィヴィアンはマーリンを誘惑するために、 「彼の塵に手をかけてしなやかな体をくねらせて彼 の方ににじり寄り、マーリンの膝の上に体を滑べらせて這い上がり、彼の足首に自分の両足の裏 を絡ませて、彼の首の回りに腕を巻きつけ、まるで蛇のようにしがみついた」のである。彼女を このように鮮明な蛇のイメージで描くことは元よりテニスンの意図するところであったのだが、
スウィンバーンが、 「人間的な威厳」も無く、 「最も下品で嫌悪すべき人物」であると激しく非難 するのは、まさしくこのように描写されたヴィヴィアンの姿だったのであろうと思われる(28)。
「顕微鏡の下で」の中では論評されてはいないが、 「最後の馬上槍試合」で描かれているトリ ストラムとイゾ‑ルトの物語についてもスウィンバーンが大いに不満を持っていたことは. 『国 王の風景』に対する今までの彼の批判を見ても、当然予想できることである。テニスンの描くト リストラムは、まるでヴィクトリア朝という時代の精神を皮肉っているかのように「実用主義 的」 (̀pragmatic')な考え方に従って行動し、人間の自由気健な本性を行動原理とする「本能主 義」 (̀naturalism')を信奉し、欲情の赴くままに動く人物であり、 「快楽主義」 (̀hedonism)の 原理そのものを具現した人物なのである(29)。トリストラムのこのような特徴は、彼がイゾ〜ルト に語る下に引いた言葉からも容易に窺い知ることができよう。
‑can Arthur make me pure
As any maiden child? lock up my tongue From uttering freely what I freely hear?
Bind me to one? The wide world laughs at it.
And worldling of the world am I, and know The ptarmigan that whitens ere his hour Woos his own end; we are not angels here Nor shall be: vows‑I am woodman of the woods, And hear the garnet‑headed yafhngale
Mock them: my soul, we love but while we may;
And therefore is my love so large for thee, Seeing it is not bounded save by love.
(Idylls of the King, "The Last Tournament," ll. 687‑698.)
ここでトリストラムは、 「いかにアーサー王といえども自由主義者である私のロを封じることは できないし、世慣れた俗人である私は、時期が来れば羽根の色を白く変える雷鳥が彼なりの目的 を追求しているのを知っているし、また、森の住人である私には赤い頭のきつつきが円卓の騎士 達によるアーサー王に対する忠誠の誓いを切っているのが聞こえる。そして我々は那刺的な恋愛 に耽るだけなのだ」と述べている。この言葉の中からも、 「自然主義者」 (̀naturalist)、 「実用主 義者」 (̀pragmatist')、 「懐疑主義者」 (̀sceptic')、 「快楽主義者」 (̀hedonist)としてのトリスト ラムの姿がくっきりと浮かび上がってくる。
このように描かれているトリストラムの中には、トリスタン(Tristan)伝説についてルージ
ュモン(Denis de Rougemont)が詳しく分析したような「騎士道精神と封建社会との相魁(30)」
の上に立ち、 「恋愛の情熱(31リに生きるトリスタンの姿はみじんも見られなくて、ただ剃那主義 者、物質主義者、日和見主義者としてのトリストラムのイメージが強く印象づけられるだけであ る。古くはマロリーが集大成し、近くはワグナー(Richard Wagner)によってオペラ化された
トT)ストラムとイズールト(Iseult(32))の物語に深い感銘を受けていたスウィンバーンにしてみ れば、テニスンの描くトリストラムの物語は、その物語が本来持っていた高貴な悲劇性を著しく 損なうどうにも我慢ならない「バーレスク」 (̀burlesque')であると感じたのである。バーン・
ジョーンズ(Edward Burne Jones)に宛てた手紙の中で、彼は次のように書いている.
I want my version to be based on notorious facts, and to be acceptable for its orthodoxy and fidelity to the dear old story: so that Tristram may not be mistaken for his late Royal Highness the Duke of Kent, or Iseult for Queen Charlotte, or
Palomydes for Mr. Gladstone. I shan't of course include一much less tell at length,
saga‑fashion‑a tithe of the various incidents given in the different old versions:
but I want to have in everything pretty that is of any importance, and is in keep‑
ing with the tone and spirit of the story‑not burlesque or dissonant or inconsi‑
stent. The thought of your painting and Wagner's music ought to abash but does stimulate me: but my only chance I am aware will be to adhere strongly to Fact and Reality‑to shun Fiction as perilously akin to lying, and make this piece of sung or spoken History a genuine bit of earnest work in these dim times.1331
この手紙が書かれたと思われる1869年の時点で、スウィンバーンは「あのなつかしき昔からの物 語に正統的に従っているということで認められるべき」作品を書きたいと述べている。そしてそ の作品は、 「元の物語の調子と精神」に一致するものであり、その物語を勝手に「『フィクショ ン』化することは嘘を書くのと同じ位危険なものであるから避けて、 『事実」と『真実』に極め て忠実に従う」ものとなるはずであると付け加える。スウィンバーンのこの希望は1882年に出版
された『ライオネスのトリストラム』という作品によって叶えられるのである。
4
これまでテニスンとスウィンバーンとの対立点を中心に論を進めてきたが、この両詩人には、
ヴィクトリア朝という同じ時代に生きた同時代人として共通する要素も意外と多くあった。二人 は共に、 「言葉の音楽家」 (̀word‑musician')とも言うべく、巧みな言葉の使い方や細やかな自 然描写等、詩作上の技法の面において、少なからずの類似性を持っていた。第1章で述べたよう に、スウィンバーが生まれた時にはテニスンは既に有名な詩人であったことから、当然、前者が 後者から多くの影響を受けていたと考えられるのである T.S.エリオットは、テニスンが「ス ウィンバーンの師匠」 (̀master of Swinburne')であったとさえ述べている(34)。しかし、後年の テニスンが、 「芸術至上主義」 (̀Art for Art's Sake')の代表的詩人であったスウィンバーンを一 再ならず意識していたことも事実なのである(35)。
世界は常に変化という万物流転の法則に支配されている、という認識を執劫に詩に書き連ねる のもこの両詩人に共通する顕著な特質である。 「深淵から」 (‑De Profundis")と題する詩の中で
テニスンとスウィンバーン
ehテニスンは次のように書いている。
Out of the deep, my child, out of the deep, Where all that was to be, in all that was, Whirl'd for a million aeons thro'the vast Waste dawn of multitudinous‑eddying light‑
Out of the deep, my child, out of the deep, Thro'all this changing world of changeless law, And every phase of ever‑heightening life, And nine long months of antenatal gloom,
With this last moon, this crescent, her dark orb Touch'd with earth's light thou comest, darling boy;
("De Profundis," ll. 1‑10.)
すべての未来がすべての過去の中で永遠にめくるめく回転していた深淵から、 「変化という不変 の法則を持つこの世界」を通って、九か月という誕生前の闇の期間を経てお前はやって来るのだ、
とテニスンは生まれたばかりの赤ん坊に言っている。
一方、スウィンバーンは『ライオネスのトリストラム』の最終章の冒頭で次のように書いてい る。
The power beyond all godhead which puts on All forms of multitudinous unison,
A raiment of eternal change inwrought
With shapes and hues more subtly spun than thought, Where all things old bear fruit of all things new And one deep chord throbs all the music through, The chord of change unchanging, shadow and light Inseparable as reverberate day from night;
(Tristram of Lyoness, IX, "The Sailing of the Swan," ll. 3‑10.)
種々雑多な音を奏でるすべての物に、思いもよらないほど巧妙に紡がれた形と色が織り込まれ、
すべての古きものがすべての新しいものを生じさせ、 「変化という不変の調べ」がひときわ大き く聞こえる「永遠の変化」という衣を着せる、神よりも強大な力にスウィンバーンは呼びかけて いるのである。そして、ここで彼の言っている神よりも強大な力とは「運命」 (̀Fate')のことな のである。テニスンの・thischanging world ofchangelesslaw'とスウィンバーンの̀the chord oi change unchanging'とは同じことを述べていると考えても差支えはあるまい。また、 『国王 の風景』の中でテニスンは、 「ア‑サーの出現」の508行、 「ア‑サ‑の他界」の408行において、
「古き秩序は変化し、新しいものに場所を譲る」 (̀The old order changeth, yielding place to new')とアーサ‑に同じ言葉を繰り返し言わせているのである。そして、テニスンは『イン・
メモリアム』において、ダーウィン(Charles Darwin)の所謂、進化論を先取りするような万
物流転の考え方を表明している。産業革命以後、多方面にわたって社会情勢が急変し、価値観が 激しく揺れ動いていたヴィクトリア朝にあって、何人かの文学者達は進歩の概念に懐疑的になり、
「時間」というものに取り想かれてどうしても̀time conscious'にならざるを得なくなってい た(36)。このような状況の下で、 「時」に侵されることのない不滅なものを求めていたこの二人の 詩人は共に、 「万物が変遷するのが不変の法則なのだ」ということを強く感じていたのである。
「万物が変遷するのが不変の法則だ」という認識を持ちながら、テニスンは、特にアーサー・
ハラムの死をきっかけにして、そのように絶えず変化を続ける「時」に対抗し、それを超越でき る「永遠の精神」としての神の存在を信じるようになっていった。これは「不滅の愛の原理(37)」
とも言えるべきもので、そのことは『イン・メモリアム』において詳浮と説かれている。そのあ とを受けて『国王の風景』が書かれたのであるが、古来から伝えられているアーサー王物語を「手 本にしてそれをそのまま作り直すこと」 (̀to remodel models"381)をいさざよしとせず、自分の時 代に対して詩人として果たすべき役割はそのようなものではないと考えていた彼は、この物語の 中に現代的な意味を兄い出そうとして、彼独白の大胆な解釈によって元の物語とはかなり異なる ア‑サー王物語を書き上げていったのである。そして、この作品では、アーサー王によって示さ れているような「不滅の愛の原理」、或いは「永遠の精神」が極めて理想的に描かれているけれ ども、それと同時に、アーサーの王国の崩壊過程が示すように、晩年のテニスンのヴィクトリア 朝(この華やかであった時代も最盛期を過ぎ世紀末へと向かう兆しを見せていた)に対する悲観 的態度も措かれている節があり、この作品は、先の『イン・メモリアム』に比べて甚だしく暖味 で象徴的な内容を持つものとなっているのである。ちなみに、この作品の東価についてヴィクト リア朝の人々、及びその後の批評家達も長い間気付かなかったが、 1940年代の前半頃からこの作 品に関する詳しい研究がかなり多く発表されるようになった(39)。それでも、批評家連のこの作品 に対する評価はまちまちなのであるが、その大きな原因の一つは、この作品が、 「アレゴリー」
(̀allegory')と「シンボリズム」 (̀symbolism')の中間に位置するやや頭味な、それだけに含み の多い性格を持っているからであろう。それは、アーサー王が体現している「愛の原理」を描く テニスン自身の態度が正に暖昧そのものであったからにはかならないのである。
一方、 「芸術至上主義」の立場を取るスウインバーンは、 「万物流転」を支配する破壊的な「時」
に対抗できるものは、アポロ(Apollo)の炎によって霊感を受けた芸術家が作る不滅の魂を持つ 芸術作品だけであると考えていた。そして、彼にとっては、昔から伝えられてきたアーサー王の 物語は、それ自体が不滅の完成された芸術作品なのであった。スウィンバーンは、ア‑ノルド (Matthew Arnold)が「変形して作り直し」 (̀transformed and recast)、そしてテニスンが
「品性を落として堕落させた」 (̀degraded and debased')トリストラムの物語に関する詩̀̀o'を 徐々に書き進め、 『ライオネスのトリストラム』においてそれを完成させたのであった。この古 い伝説を最も美しい、すぐれた芸術作品であると考えていた彼は、アーノルドやテニスンが元の 物語とは著しく異なる内容の詩を出版していたことを大いに不満として、この伝説を本来のある べき姿に再現しようとしたのであった。しかし、スウィンバーンのそのような意図にも拘らず、
『ライオネスのトリストラム』は、その話の筋においては確かに昔から伝えられてきた物語のス ト‑,j‑に極めて忠実ではあったが、スウィンバ‑ン的な色彩が極めて濃厚な作品となっている。
つまり、彼に強い影響を与えたワ〜グナ‑の『トリスタンとイゾルデ』 (Tristan und Isolde)の 場合がそうであるように、スウィンバーンは、トリストラムとイズールトの恋愛を破局へ導くも のとしての「運命」の存在を中心に据えて、しかもこの悲劇的な二人の恋人の情熱的な「愛死」
テニスンとスウィソバ‑ン
49(̀Liebestod')に至る状況を大きく前面に出して強調しているのである(ll)。この物語が元来持っ ていたギリシア悲劇的要素、キリスト教的要素、及び中世騎士道物語的要素の中で、スウィンバ
ーンはギリシア悲劇的な「運命」の要素を特に強調し、それを彼独自の悲劇的感覚の美学によっ て著しく粉飾してみせたのであった。それに対しテニスンは、元の物語に含まれていたキリスト 教的要素を一応のモチーフとして採用しながら、そこに彼独自の大胆な解釈による現代的要素を 盛り込み、元の物語とはかなり異なるアーサー王物語を書いたのであった。
5
ヴィクトリア朝の桂冠詩人として、いわば体制内の保守的な詩人であると考えられるテニスン が、彼の時代に対する悲観的展望と不安を盛り込んで、時代に対する一種の警告の書として『国 王の風景』を書き上げた時、この物語の解釈の仕方において、彼はかなりラディカルであったと 言える。それに対し、 『詩とバラード』 (Poems andBallads)によってヴィクトリア朝の禁欲的 なモラルに挑戦状をつきつけ、 『日の出前の歌』 (Songs before Sunrise)によって熱狂的な共和 国思想を讃美したスウィンバーンは極めてラディカルで反体制的な詩人と見撤されていたのであ るが、アーサ‑王物語を取り扱う彼の態度は、いま上で見たように、極めて保守的なものであっ たと言うことができる。ア‑サ‑王物語に対する両詩人のこのような態度は、ややアイロニカル に映るのであるが、 「万物が変化するのが不変の法則」という同じような意識を強く持っていた 両者が、アーサー王物語という共通の素材に対してかくも異なる作品を書き上げたのはまことに 興味深いことなのである。しかし、両詩人にとっては、それは、いま上で見てきたように、極め て当然な帰結なのであった。アーサ‑王物語という共通の素材に対して、テニスンが示した彼の 時代に対する悲観的懐疑と不安、そしてスウィンバ‑ンが強調した悲劇的情熱恋愛、という大き な振幅のある二つの作品を生み出したこの時代は、その後、世紀末へ向かって進んで行くのであ る。
注
引用した詩句のうち、 『国王の風景』については、 Charles Tennyson (ed.), The Idylls of the King and The Princess (London and Glasgow : Collins, 1956)に、その他のテニスンの詩については、 Robert W.
Hill, Jr. (ed.), Tennyson's poetry (New York : W. W. Norton & Company Inc., …A Norton Critical
Edition," 1971)に、またスウィンバーンの詩については、 The Poems of Algernon Charles Swinburne (6 vols., London: Chatto & Wmdus, 1904)に拠った。
(1)この作品は普通『国王牧歌』とか『国王の牧歌』と訳されているが、テニスンは̀Idyll"をこの語の語源
玩vmn ‑
的な̀picture'の意味で用いていたので、 『国王の活人画』とか『国王の風景画』と訳されるべきである が、ここでは一応、 『国王の風景』と訳しておく。
(2)タイトル・ページには確かに̀In Twelve Books と書かれているが、この作品を純然たる叙事詩と見倣 すことはできない。また、タイトルが̀Idylls'と複数形になっていることもこの作品の非叙事詩的性格を 暗示している Cf. J. H. Buckley, Tennyson: The Growth of a Poet (Cambridge, Massachusetts:
Harvard University Press, 1967), pp. 172‑173.
(3) Robert W. Hill, Jr. (ed)., Tennyson's poetry, pp.286‑287.
(4) Ibid., p.284.
(5) James Knowles, "A Personal Reminiscence, originally in The Nineteenth Century, XXXIU (January
1893), pp. 164‑188, now included in Hill, op cit, p. 579.
(6) John Dixon Hunt, "The Poetry of Distance : Tennyson's Idylls of the Kins;," included in Malcolm Bradbury & David Palmer (eds.) , Victorian Poetry (London : Edward Arnold, "Stratford‑upon‑Avon Studies 15," 1972), p. 89及びMildred M. Bozman, HIntroduction" to his edited Tennysons Poems (2 vols., London : J. M. Dent & Sons Ltd., "Everyman's Library," 1949), vol. I, p.xxvi.
(7) Hunt, op. cit., p. 117.
F. E. L. Priestley, =Tennyson's Idylls." originally in University of Tronto Quarterly, XIX (1949), pp.
35‑49, now included in Hill, op. cit., p. 647及びJ. H. Buckley, op.cit., p. 193.
T. S. Eliot, "In Memoriam," originally in his Selected Essays of T. S. Eliot, New Edition (New York: Harcourt Brace Jovanovich, Inc., London: Faber and Faber Ltd., 1932), pp.286‑295, now included in Hill, op. cit., p. 620.
A. C. Swinburne, "Under the Microscope," now included in C. K. Hyder (ed.), Swinburne Replies (Syracuse : Syracuse University Press, 1966), pp. 55‑56.スウィンバーンのこの指摘は極めて正鵠を得 たものであるとヒルは言っている See Hill, op. cit., p.282.
(ll) Ibid., p.56.
J. P. Eggers, King Arthur's Laureate (New York : New York University Press, 1971), p. 57.
(13)テニスンは̀Lancelot,' ̀Guinevere'というスペリングを用いたが、スウィンバーンは̀Launcelot,
̀Guenevere'を用いた。モードレッドに対しても、スウィンバーンは̀Mordred'を用いた.
Swinburne, "Under the Microscope," p. 57.
Ibid.,p.58.
α Ibid., p.59.
Ibid., p.58.
Eugene Vinaver (ed)., Malory: Works (London : Oxford University Press, 1971), p.29.
(19)エンプソンは、マロリ‑の『アーサー王物語』より20数年後に出版されたスペンサー(Edmund Spenser) の『妖精の女王』 (Fairie Queene)の中にやはり、 「キT)スト教的」 (̀Christian')、 「古典的」 (̀classical)、
「中世騎士道的」 (̀chivalrous')素材を認めている。 See William Empson, Seven Types of Am毎uity (Harmondsworth, Middlesex: Pelican Books, 1973, first published in 1930), p. 55. (岩崎宗治、 『殴味 の七つの型』、研究社、 1974年、 55頁。)
(2① Swinburne, HUnder the Microscope, p. 57.
(2カIdylls of the King, "To the Queen," 1. 38.
Charles Tennyson, "Introduction" to his edited The Idylls of the King and The Princess, p. 22.
㈱ Buckley, op. cit., p.175.
伽 Priestley, op. cit., p. 636.
Swinburne, "Under the Microscope, p. 59.
伽Ibid., p.61.
即Ibid., pp.59‑61.
幽 Cf. Hill, op. cit., p.307,n. 2.
脚 Cf. Priestley, op. cit., pp. 639‑640.
Denis de Rougemont, L'Amour et L Occident (鈴木健郎、川村克己訳、 『愛について』、岩波書店、 1959 年)、37頁。
81)鈴木、川村、上掲書、 13頁。
C3オ スウィンバーンは、テニスンの用いた̀Isolt*に対して、 ̀Iseult'というスペリングを用いた。
631 Cecil Y. Lang (ed.), The Swinburne Letters (6 vols., New Haven : Yale University Press, 1959‑1962),
テニスンとスウィンバーン
51vol.n,p.5i.
糾 T. S. Eliot, op. cit., p.613.
的 See Leonard M. Findlay, HSwinburne and Tennyson in Victorian Poetry (West Virginia University, IX, i‑ii, Spring‑Summer, 1971), pp. 217‑236.
8ゆ Cf. J. H. Buckley, The Triumph of Time (Cambridge, Massachusetts : Harvard University Press, 1966), pp. 1‑2, 9, 13.
但7) Buckley, Tennyson, p.127.バックT)‑も言っているように、この神は、キリスト教の特別な神と言うよ りも、もっと普遍的な神なのである。それはまた、 「精神的キリスト教」 (̀spiritual Christianity)の神と 言ってもよいものであろう。 Cf. Charles Tennyson, op. cit., p.122, n. 1.
位玲 Priestley, op. cit., p. 634.
6 Cf. W. David Shaw, Tennysons Style (Ithaca and London : Cornell University Press, 1976), pp.326‑
330.
(49 From the letter to R. H. Home (February 13, 1882), included in The Swinburne Letters, vol. IV, p.
260.尚、アーノルドは1852年に「トリストラムとイズールり("Tristramand Iseult )という作品を発 表したが、これは、トリストラムの死後に関するアーノルド独自の後日葦を盛り込んだもので、元来のト
リストラム伝説のストーリーとはかなり異なる叙情詩的傾向の強い作品となっている。
㈹ Francis Jacques Sypher, Jr., "Swinburne and Wagner in Victorian Poetry (West Virginia University,
IX, i‑ii, Spring‑Summer, 1971), p. 179.
Tennyson's Idylls of the King and Swinburne
Monto Uemura
Department of Foreign Languages, Nara University of Education, Nara, Japan (Received April 26, 1979)
Tennyson had been greatly interested in the legends of King Arthur since his boy‑
hood, because he had always felt the Hpassion of the past" even from a boy. However, when he wrote "Sir Launcelot and Queen Guinevere," the first treating of Arthurian theme, he had probably no intention of enlarging it into a longer poem. The germ of Idylls of
the King was "Morte d'Arthur" started in 1833. and the final complete edition of the Idylls was published in 1888‑ Thus for more than fifty years Tennyson had been engaged in completing the work. Yet, his version of the Arthurian legends is quite uniquely his own since he seems to have inserted his own ambiguous and rather pessimistic vision towards the Victorian society into the framework of the Arthurian story.
In 1872 Swinburne harshly attacked Tennyson's Idylls in his critical pamphlet, "Under the Microscope." According to Swinburne, "the moral tone of the Arthurian story has been lowered and degraded by Mr. Tennyson's mode of treatment." Swinburne had found in the legends of King Arthur Hsomething almost of Hellenic dignity and significance"
just like Aeschylus' Oresteian tragedy. Tennyson degraded the original noble story, Swinburne said, by making Arthur into a Hwittol", Guenevere into a Hwoman of intrigue", Launcelot into a Hcoィespondent , and Vivien into Hthe most base and repulsive person".
Swinburne regarded Tennyson s representation of Tristram and Iseult as an outrageous fiction which was Hperilously akin to lying."
Tennyson and Swinburne are seemingly contrastive and antagonistic. In the skilful management of poetical technique, however, both poets were equally excellent as Hword‑
musician." And the two poets had almost the same view of the Hchanging world of chan‑
geless law." Living in such a world of changeless change, both poets sought for something changeless and everlasting. Tennyson found it in the "principle of immortal Love" as is embodied by King Arthur himself in the Idylls. However, as the last book of the Idylls implies, Tennyson's faith in Himmortal Love" was rather precarious, living as he was in the transitional Victorian era. On the other hand, Swinburne who was one of the leading advocates of Hart for art's sake" thought that only the great work done by the great artist was immortal. Strongly opposed to Tennyson s degradation of the legendary story, Swin‑
burne, true to "the dear old story," produced his own version and published it as Tristram of Lyonesse in 1882, though in Swinburne's poem Wagnerian 'Liebestod'and the existence of Fate were idiosyncratically emphasized.
It was somewhat ironical that Tennyson, a conservative poet as a spokesman of the
Tennyson's Idylls of the King and Swinburne 53