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知太政官事と奈良時代前期の親王
著者 堀井 崇晴
雑誌名 高円史学
巻 16
ページ 15‑32
発行年 2000‑10‑01
その他のタイトル Chidaijoukanji (知太政官事) and the Shinnou ( 親王) in the Early Nara Period
URL http://hdl.handle.net/10105/8775
知太政官事と奈良時代前期の親王
は じ め に
堀 井 崇 晴
知太政官事は︑令外宮であり︑大宝三︵七〇三︶年から天平十七︵七四五︶年までの四十三年間︑断続的に天武天皇の
皇子・皇孫ら四人が歴任した官職である︒
知太政官事についての研究は︑竹内理三氏に始まるといってよい︒氏は知太政官事を太政大臣の後身として︑太政官を統
括し︑その職掌は太政大臣と同様のものであるとした︒その論は︑井上光貞氏をはじめとする多くの論者に受け継がれて
︵ 1
︶
い っ
た ︒
しかし︑一方で太政大臣後身説を否定する論が唱えられた︒貴族との連絡・調整役と説いた関晃氏︑八十一の例文より親
王の権威維持と天皇補佐体制を説いた山田英雄氏︑そして大臣不在の場合における﹁大臣代行﹂であったとする春名宏昭氏
︵ 2
︶
な ど の 説 で あ る ︒
従来は︑知太政官事を論じるにあたり︑四人の知太政官事を一括りにして考察してきたのだが︑本稿は︑各親王︵王︶ご
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とに知太政官事任命時の状況や期待された役割︑またそのとき課された職能を考察する︒さらに︑なぜ親王を知太政官事に
就けることとなったのかについて論じるが︑それについては︑親王の奈良時代前期における位置付けと存在意義をふまえて
考察していきたい︒
第阜 知太政官事の設置と背景
本章では︑﹃続日本紀﹄から知太政官事の設置の背景を検討し︑一括りで論じられてきた知太政官事を刑部・穂積両親王︑
舎人親王︑鈴鹿王の三つの時期に分けて考察していきたい︒
まず︑知太政官事刑部・穂積両親王の時期︵七〇三〜七一五︶である︒
︵ 2
︶
刑部は︑持続太上天皇の崩御の一カ月後︑文武天皇から知太政官事に任命されている︒文武の後見役であった持統の死の
直後に任命されていることから︑持続と同じく後見役であったと一般に考えられているが︑一方で天武朝以来の律令国家建
設事業が文武天皇即位の時点において︑依然進行中であることをふまえれば︑知太政官事の設置と刑部の就任は大宝律令の
成立と関係があると考えるべきであろう︒
知太政官事が任命される大宝三年正月以前において︑律令制定に関連する記事は︑﹃続日本紀﹄によると︑文武四年以降︑
大宝二︵七〇二︶年十月に大宝律令が諸国に頒布されるまで多く記載されている︒また律令編纂の関係者が︑同閏四月に尭
じた右大臣阿倍御主人を除き︑知太政官事刑部を含め︑議政官八人中四人もいたことからも︑律令に則った国家運営の実現
が目指されていたことが認められる︒
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こうしたことをふまえれば︑﹁共同統治﹂の立場にあり文武天皇の後見をしていた持統太上天皇の崩御という状況にあっ
て︑律令制を定着させるため︑律令編纂に参画し律令に通じていた刑部が﹁太政官の事を知る﹂べき職に任じられたと考え
ることができる︒ただし︑他の律令編纂関係者が議政官になるなか︑刑部は議政官にならなかったのであるが︑この事情は
第三章で述べることにする︒
なお︑刑部の知太政官事就任時には︑左大臣は空席であったが︑右大臣に阿倍御主人が在官しており︑この時点での知太
政官事の第一義的役割を大臣代行に求めることは妥当ではないと思われる︒同じことは︑次の穂積任官の場合にも︑左大臣
は空席であったが︑右大臣には石上麻呂がいたことからあてはまるであろう︒
︵
−
︶
知太政官尊刑部は律令の修正段階において尭じてしまう︒そして四カ月後の慶雲二︵七〇五︶年九月五日︑穂積がその後
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︶
を受け知太政官事に任命されている︒この任命は︑慶雲三︵七〇六︶年二月の﹁七条の事を制す﹂のような大宝令の修正や
慶雲四年二月の平城京への遷都などの律令体制の諸整備に対応するためのものであった︒
この後︑慶雲四年六月に文武天皇が若くして崩御してしまうという思いもよらない事態が生じ︑同七月元明天皇が文武天
皇の皇子首︵聖武︶ への中継ぎ役として即位した︒そして︑和銅元︵七〇八︶年三月には左大臣石上麻呂︑右大臣藤原不比
等をはじめとする太政官の議政官の面々が任命され︑大宝律令制定以来初めて左右大臣が揃い︑一応令の規定通りの太政官
機構が整うことになった︒これ以後︑正規の議政宮が律令制の下で太政官運営を行うことになる︒
︵ 6
︶
︵ 7
︶
和銅元年七月十五日に出された議政官への勅や和銅四︵七二︶年三月銘の﹁多胡碑﹂において︑知太政官事である穂積
は左右大臣などの正規の議政官とともに名が記されている︒この時点においても穂積は知太政官事として︑太政官に席を置
いていたのである︒文武天皇の急逝︑女帝即位という状況のもとで︑太政官機構を運営していくにあたり︑知太政官事とし
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ての穂積の存在が必要とされたことを示唆している︒
︵
8 ︶
霊亀元︵七一五︶年七月二十七日︑穂積が尭ずると知太政官事は置かれなくなる︒その時点の太政官の構成員には︑太政
官の首班左大臣石上麻呂や右大臣藤原不比等がおり︑また養老元︵七一七︶年三月に左大臣石上麻呂が尭じた後も︑律令に
明るい右大臣藤原不比等がいたためである︒
次に︑知太政官幸舎人親王の時期︵七二〇〜七三五︶である︒
養老四︵七二〇︶年八月三日に右大臣藤原不比等が亮去すると︑翌日舎人が五年ぶりの知太政官事に︑新田部が知五衛及
︵ 9
︶
授刀舎人事に任命されることとなった︒
舎人の知太政官事任命が︑これまでの刑部・穂積の場合と異なるのは︑それが大臣不在の状況下でなされていることであ
る︒このことからすれば︑舎人の知太政官事任命は︑大臣代行を期待されてのものと考えることもできる︒しかし︑舎人の
知太政官事任命が︑新田部の知五衛及授刀舎人事任命と同時であったことからすれば︑この両者には︑より大きな役割が担
わされていたと考えられるのではなかろうか︒
両親王の主な役割は︑養老三︵七一九︶年十月十七日に元正天皇から皇太子首皇子の補佐を命じられていることに求めら
れる︒両親王が天武系皇族の年長者であったため︑首皇子の補佐の役目を担うこととなり︑この後︑右大臣となった長屋王
︵後に左大臣︶︑参議・内臣の藤原房前らとともに聖武王権の中核としてその責務を果たしていくこととなるのである︒
しかし︑天平元︵七二九︶年二月︑長屋王の変が起こる︒変後︑知太政官事である舎人の朝庁への参入の際に諸司が座を
︵ 1
0 ︶
下って礼を行うことを停止するという太政官処分が下された︒左大臣が左道を理由に処罰されたことによる政界の混乱を回
復するため︑舎人の参入による政務の中断を廃し︑太政官政務を円滑に運営していくための処置であった︒
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さらに︑長屋王が死去した後︑五年後の天平六︵七三四︶年正月に藤原武智麻呂が右大臣に任官されるまで︑大臣不在状
態が続くが︑この間にあっては︑知太政官尊舎人が大臣の職掌を代行していたと考えられ︑知太政官事による大臣代行は︑
この時期にこそ定着したと考えるべきであろう︒この時期の舎人の役割は大きいものがあり︑尭去の際に太政大臣を贈られ
て い
る ︒
へし
舎人が天平七︵七三五︶年十一月十四日に亮じた後︑知太政官事は置かれなかった︒右大臣藤原武智麻呂を始め︑参議・
内臣房前︑宇合︑麻呂つまり藤原不比等の四人の息子が政界にいたためである︒
最後は︑知太政官事鈴鹿王の時期︵七三七〜七四五︶である︒
天平九︵七三七︶年︑藤四子が天然痘によって相次いで尭去し︑中納言多治比県守も尭じたため︑議政官は参議鈴鹿王・
橘諸兄・大伴通足︑多治比広成のみとなり︑太政官による国政運営上︑異常事態ともいうべき状況となった︒
そこで︑知太政官事が二年ぶりに置かれることになる︒天平九年九月二十六日鈴鹿王を知太政官事に︑そして橘諸兄を大
︵ 1
2 ︶
納言︑多治比広成を中納言としている︒太政官の首牡である大臣への昇進は通常大納言などの段階を経なければならず︑そ
の間大臣は不在となってしまう︒そこで大臣に准じて太政官の運営を主導する存在が必要となり︑親王がいないなか︑皇親
において長老的な立場であった鈴鹿王が知太政官事に任命されたのである︒この任命は︑先行する舎人の知太政官事の後半
のあり方が参考にされたものであり︑議政官高官=大臣の不在を補うものであった︒
知太政官事は代々皇親がその任にあたっていたので︑臣籍に降下した橘諸兄では役不足であったため︑年長格で長屋王の
弟鈴鹿王が適任とされたのであろう︒一方︑大納言橘諸兄は次の政界の担い手として︑翌十︵七三八︶年正月に異例の早さ
で右大臣に就任した︒大納言・中納言は欠員が続くが︑藤原豊成以下参議が補充され︑異常事態が解消されてくると︑知太
一19−
政官事鈴鹿王は聖武天皇の行幸・遷都の際の留守官など一般議政官と同様その任についたのである︒
︵ 1
3 ︶
しかし︑知太政官事も鈴鹿王の天平十七︵七四五︶年九月四日の尭去をもって再び置かれることはなかった︒
以上まとめると︑知太政官事は持続太上天皇の崩御を契機として設置され︑刑部・穂積両親王は︑主に大宝律令の制定・
施行・修正という律令国家体制の整備・運営を推進する役割を担っていた︒また︑舎人親王の任官の時点での最も大きな役
割は︑女帝の下での首皇太子︵聖武︶の補佐と﹁直系﹂皇統の安定的な継承であり︑長屋王の変後は大臣不在の太政官にあっ
て︑大臣代行という役割を担うこととなった︒鈴鹿王の知太政官事は︑舎人の知太政官事後半のあり方を前例に︑議政官=
大臣の不在を補うことを目的としたものであった︒
本章は︑各知太政官事の就任の背景によって︑その役割を異にしていることを述べた︒次章では︑知太政官事の性格を検
討していきたい︒
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第二章 知太政官事の性格
知太政官事は﹁太政官の事を知らしむ﹂として設置されたが︑その職能・職掌が明確に規定されていたわけではなかった
ので︑これまでの研究では︑大臣との位置関係が比較され︑知太政官事こそが太政官の首班であるとまでされた︒本章では︑
前章の知太政官尊ごとの時期の状況を踏まえて︑知太政官事がどのような性格をもっていたのかを検討していきたい︒
まず︑知太政官事の議政官としての︑あるいは太政官での位置について考えてゆく︒
知太政官事は︑左右大臣との上下関係が従来問題となってきた︒太政大臣後身説は︑知太政官事を左右大臣の上に位置付
け︑職掌についても大臣に匹敵したとし︑太政官の首班であり長官であるとした︒﹁太政官を統べる﹂ことが知太政官事の
職能であると解したのである︒
︵ 川−
一方で︑奈良時代の﹁知⁝事﹂の任用においては︑﹁知﹂は司るの意味であり︑﹁知⁝事﹂もその事を統括する意味になる
こと︑またその任用が非常に臨時官的色彩の濃いことから︑知太政官事が直ちに太政大臣と同等の職能と位置付けを有する
ことはできないという否定的な論がある︒
﹃公卿補任﹄によると︑知太政官事と左右大臣の上下関係は一定していない︒刑部と鈴鹿王の知太政官事は左右大臣の下
に位置付けられ︑穂積・舎人のそれははぼ左右大臣の上に置かれることが見受けられる︒ただし︑共通しているのは︑大納
言以上に位置していることである︒
穂積・舎人の場合︑とくに知太政官事の就任期間が長かったことや︑舎人の場合は尭去後に太政大臣を贈られたことなど
から︑﹃公卿補任﹄において二人の知太政官事が左右大臣の上に位置付けられることとなったのであろう︒しかし︑知太政
官事の本来の在り方を考えるには︑最初に任命された刑部親王の場合に注目すべきではなかろうか︒その時点にこそ律令国
家や任命権者である天皇の意志・想定が反映したと考えられるからである︒とすれば︑刑部の位置からして︑知太政官事の
太政官内での位置は一般的に左右大臣の下に想定されていたと考えられる︒
ところで︑知太政官事が大臣に准じるものと考えられてきた理由の一つに︑その季禄がある︒次にそれについてみていき
︵ 1
5 ︶
たい︒﹃続日本紀﹄慶雲三年二月七日条によれば︑﹁知太政官事二品穂積親王季禄︑准二右大臣l給レ之︒﹂とあり︑これにより
知太政官事穂積の季禄が右大臣に准じたものとなったのである︒この条は︑穂積個人を対象としたものであると考える︒穂
積の品階が二品であり︑親王二品の相当官職は右大臣であるという論理によって季禄は決定されたのであろう︒また︑この
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﹁准右大臣﹂はこの時の太政官首班右大臣石上麻呂に准ずるとの意味でもあった︒季禄の面においても知太政官事は律令規
定の右大臣である石上麻呂を基本的に上回っていないのである︒そして︑この条が延着式部式に︑﹁凡親王知太政官事者︑
其季禄准二右大臣一︒頚一議政二者二品二品准二大納言一︑三品四品准二中納言一︒﹂となるのである︒これは慶雲三年二月の条が
舎人や鈴鹿王にも先例として適用されたためであろう︒
では︑なぜ最初の刑部のときではなく︑穂積のときに季禄の規定がなされたのであろうか︒それは︑知太政官事自体が刑
部で終わる可能性もあった極めて臨時的な令外の職であったためである︒しかし︑施行後の大宝律令に多くの修正・補足の
必要性が生じたにもかかわらず︑その事業の半ばで刑部が尭じたため︑穂積がさらに知太政官事となって刑部の事業を継承
することになった︒こうして︑結果的に二人の親王が相次いで知太政官事になったため︑職事官として季禄を給付されるこ
とになったのである︒
次に︑知太政官事の職能であるが︑議政官としての知太政官事は︑決して太政官を超越した職能を有していない︒﹃続日
本紀﹄和銅元年八月十五日条によると︑穂積は議政官の一員として天皇から勅を承っている︒
︵ 1
6 ︶
ところで︑知太政官事が﹁大臣代行﹂であったとする春名宏昭氏の論がある︒氏は︑太政大臣・左右大臣がともに欠員と
なった場合において︑大納言が存在していたとしても太政官の業務運営に支障が生じていたとして︑大臣の職掌を確認した
上で舎人・鈴鹿王の任命状況を中心として知太政官事が大臣の代行であったとし︑﹁大臣不在−知太政官事任命﹂という図
式を導きだされた︒一方で︑大臣の在任時においては知太政官事はいわゆる参議として位置していたというのである︒
知太政官事が大臣不在時の﹁大臣代行﹂であったのは︑舎人の任命時にきざしていたがそれが知太政官事の主要な職能と
なるのは︑長屋王の変後の舎人や議政官高官不在の鈴鹿王の時期であり︑決して知太政官事が設置当初から﹁大臣代行﹂と
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位置付けられていたわけではないと考えられることは︑前章で述べた通りである︒
具体的なことはわからないが︑各親王の知太政官事を総合して言えば︑大宝律令を遵守し︑厳正な太政官運営を行うこと
を目的として設置されたものであった︒通常の状態では﹃公卿補任﹄の大納言の上に記載があることから︑大納言以上の職
掌を有していたのではないかと考える︒そして︑太政官の状況により︑例えば大臣不在のとき︑各親王が﹁太政官の事を知
らしむ﹂という令外の職として柔軟性を発揮し︑大臣に准じた職能をもって太政官を円滑に運営させたのである︒
第三章 知太政官事と奈良時代前期の親王
なぜ︑親王は太政官の正官ではなく︑臨時職である知太政官事に任命されたのであろうか︒
そのことを︑奈良時代前期の親王のあり方から考えてゆくのであるが︑まず皇子・親王について従来の説をみていくこと
に す
る ︒
︵
1 7
︶
虎尾達哉氏は︑親王が独自の品階を授けられ︑八世紀後半に至るまでの間恒常的な官職に就くことはなかったが︑現実に
おいて官職から疎外され︑親王が官僚機構を超越する存在であり︑それが親王の﹁非官僚性﹂であるとしている︒また︑非
官僚的であったが︑大宝令制定前における大王子弟の国政参与を継承した﹁政治性﹂を有する存在として位置付けた︒そし
て皇子︵親王︶を敢えて知太政官事に任命することで︑王権を囲緯し擁護したとした︒
︵ 1
8
︶
また︑辰巳幸司氏は︑親王号成立の歴史的意義や親王と品階制との関わりやその展開を検討し︑律令制的官僚原理と王権
のあり方について考察をしている︒品階制の適用によって親王は官僚制的秩序・機構を超越した存在ではなかったと位置付
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けし︑皇太子とそれ以外の皇子という皇位継承者のさらなる限定をすることによって王権の安定化を目的としたものであっ
た と し た ︒
︵ 1g ︶
そして︑京楽真帆子氏は︑律令条文を逐一検討し︑律令における親王の他氏族に対する位置付けを解明している︒条文の
数において親王のみの特権を記したものは少ないが︑諸臣と比べて親王が特権をもっており優位に立っているとした︒その
優位の理由を親王の天皇血縁者としての尊貴性を律令が認めていたためと想定している︒皇太子制の確立によってそれ以外
の親王は次期天皇への望みを絶たれ︑宮人となることもなく︑中途半端な立場へと追いやられたとした︒
これら従来の説は︑親王を天皇の近親者であることからくる尊貴性をもち︑またそれにより官職に就かなくとも国政に参
与できる政治性をもった者とされることが多く︑そのことを親王が官職に就かなかった理由としている︒しかし︑問題にす
べきは︑親王が官職に就かなかった事実について︑その背景を当時の政治的状況から考えることである︒そこで︑奈良時代
前期における親王の状況を確認しっつ︑その立場を考案していきたい︒
﹃続日本紀﹄によると︑文武天皇即位時︵六九七︶において︑皇子は天武天皇所生の刑部・︵磯琴・︶・舎人・長・穂積・
新田部︑天智天皇所生の志貴が生存していた︒この皇子のなかで︑天武八︵六七九︶年五月六日に草壁皇子を次期皇位継承
︵ 却︶