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生きることの意味(中

生きることの意味という題を掲げた。しかしいまから論じようとしていることは、われわれの生 きていることにどのような意味があるか、という問題に早急な結論をだすことではない。むしろ、 哲学は、その始まりから、問題を解くことではなく問題を正確に見極めようとする態度であった。 それはまた、哲学という語が、「知恵を愛する」という意味であることからも知られる。答えを見 つけたくして仕方のない問いに、答えを見つけたと思いたい気持ちを抑え、まずは事実を正確に見 届けようとする態度、このような態度が「哲学する」と呼ばれたのである。 しかし、事実を正確に見極めようとするとき、「事実」は様々な形で見ることができるというこ とがわかってくる。ここでわれわれが考えようとしてるのは、まさにそのような「意味」である。 アウグスティヌスという人は自分が「生きている」ということをどのような視点から捉えたのか、 そのアウグスティヌスの視点はわれわれ自身が自分の生き方を考えるようとするとき、人生のどの

ような見方を教えてくれるのか。

アウグスティヌスが生きたのは紀元後四世紀から五世紀にかけて、ローマ時代、より正確にはロ ーマ帝国の時代の終わり頃である。アウグスティヌスが生まれたのも、ローマの支配下にあった北 生きることの意味

lアウグス

}TIJIワハ対人mW寺干拓佃塾刑

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アフリカ、いまのナイジェリアであった。二十代三十代はローマの町やミラノで修辞学の教師とし

て過ごしたが、カトリック教会の信者となってふたたびアフリカに一民り、四十二歳で北アフリカの 地中海沿いにあるヒッポという町、生まれ故郷からそれほどは遠くないこの町の司教となっている。 このころからローマ帝国の没落は顕著となり、四一○年アウグスティヌスが五六歳のときには、数 年前からイタリア攻略の機会をうかがっていた異民族がついにローマの町を占拠するという事件も 起こっている。この同じ異民族、ヴァンダル族はやがてスペインからアフリカに渡り、アウグステ ィヌスの晩年にはかってローマの支配下にあった北アフリカのほぼ全域を支配下に収めていた。ヒ ッポの町も、ヴァンダル族に包囲され、いまにも町に攻め入ろうとするヴァンダル族の関の声が響

く中でアウグスティヌスは生涯を終えることになる。

アウグスティヌスの生きた時代は歴史的には古代末期と呼ばれている。それはローマという一つ の国の最期であるだけでなく、まさに一つの時代、われわれが古代と呼んでいる時代と千年以上に もわたって培われてきたその文化が終わろうとしている時期であった。西洋の歴史の中で古代と呼 ばれる時代は、もちろんさまざまな国や民族の支配が交代したのではあったが、地中海を中心とし て発展してきたこの文化には、ある程度の連続性、共通性があった。そして、そのような古代世界 共通のキー・ワードの一つが「幸福」あるいは「幸せ」ということばである。ソポクレスの有名な 悲劇、『オイディプス王』の最後を飾るコロスの合唱に次のようなことばがある。

されば、最期の日まで苦しみを受けることなく、この世の生を全うするのを見届けるまでは、死

すべきものを幸せと呼んではならぬ。(]宙』!]ご◎一『)

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生きることの意味(中

現在、「幸福」とか「幸せ」ということばは、かつてそれが持っていたほどの魅力ある響きを持 っていないかもしれない。自分の人生の希望を「幸せになること」であると表現する人はそれほど 多くないかもしれない。あるいは「幸せなんて」と冷ややかに言う人もいるだろう。しかしこれは、 幸福とか幸せとかが人生の重要な目的ではなくなったことを意味しているのではないと思われる。 むしろ、「幸せ」「幸福」といったことばが、いささか値下がりしているという}」とに過ぎないよ うに思われる。われわれも何か目的を持って生きているという点では変わらない。もしわれわれが 生きることの目的を失うなら、おそらく人生は生きるに値しないと思われるであろう。しかしその われわれが、「人生の目的とは何か」とあらためて問われるなら、必ずしも的確に答えることがで きるわけではない。古代の人々が「幸福」ということばで理解していたのも、これと似ている。 「幸福とは何か」と問われるなら、その答えはさまざまである。しかしすべての人が「幸福になり たい」と願っている。このような精神状況の中て、どのような幸福論が語られたのであろうか。 すべての人が人生の目的は幸福であると考えているのであるから、「あなたは幸福になりたいか」 と問うなら、誰もが「なりたい」と答えるであろう。そして「いま幸福ですか」と尋ねるなら、 「まだ幸福ではありません」と答えるであろう。アウグスティヌスは『告白』第十巻で、このよう

な事態を次のように表現している。

われわれは何のために生きているのか。それは幸福を手に入れるためである。彼らはこのように 考えた。人間は幸福を目指して生きている。幸福は人生の目的である。

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すべての人は幸福に生きることを欲している。しかし、もちろん幸福はただちには実現しないか ら、人はそれぞれ幸福であるために役立つと思うことを、さしあたりの目標として追求することに なる。ところが、幸福のために人それぞれが求めることは同じではない。ここでアウグステイヌス が言っているように、反対のことを求めることさえある。ここに問題が生じてくる。たしかに、こ の二人の人は「幸福でありたい」「幸せになりたい」という共通の願いを持っている。しかし、幸 福を目指してしようとしていることは、正反対である。このような場合にこの一一人の人は本当に幸 福を目指していると言えるのか。二人とも本当の幸福を知っていると一一一一口えるのか。 この問題に対するアウグスティヌスの答えは、ある意味で明解である。それは次のようなもので ある。たしかにこの二人の人は正反対のことをしようとしている。しかし、彼らはいずれも幸福で ありたいという願いにおいては共通している。彼らはちょうど、異なった道を通って一つの目的地 を目指す二人の旅人のようなものである。目的地に到達していない旅人も、その目的地について何 らかの知識を持っている。もちろん、彼らが持っている知識はすでに目的地に着いた人が持ってい る知識と同じではない。しかし、自分がどこにたどり着こうとしているかは知っている。そうでな ければ目的地を目指すことさえできないはずである。幸福の場合も同じことが言える。すべての人 二人の人に、兵役につきたいかと尋ねたなら、一人はつきたいと答え、もう一人はつきたくない と答えるかもしれません。しかし彼らに、幸福であることを欲するかと尋ねるなら、二人ともた だちに何のためらいもなく、なりたいと答え、しかも一方が兵役につくことを欲し、他方は欲し ていないのも幸福であるために他ならないのです。(認ご鷲]幾塁)

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生きることの意味(中川)

これがもし、旅行の話であれば、目的地を間違えたとしてもそれほど深刻ではないかもしない。 間違いに気づいたとき、引き返すこともできるであろう。しかし「幸福」は人生の目的である。間 違いに気づいたときには、時すでに遅し、ということにならないであろうか。それこそ人生を棒に 振ることにならないであろうか。これはかなり深刻な問題である。もしそうだとすると、われわれ はまず、人生の選択を行う前に、何が本当の幸福であるかを正しく見極めなければならないであろ う。これはギリシアやローマの哲学者たち大多数の考えでもあった。彼らは、とにかく一生懸命生 きていれば何とかなる、といった楽観的な人生観は持っていなかったのである。ローマの政治家で

あり哲学者であったセネカはこう言っている。

は幸福を目的として生きている。彼らのたどる生き方は異なっているかもしれないが、彼らはその 目指している共通の目的「幸福」について何らかの仕方で、知っているのでなければならない。(ニ ァウグスティヌスの考えに沿って説明するなら以上のようになる。 このアウグスティヌスの説明は、人生を旅になぞらえて考えるなら、一種の説得性を具えている。 そしてじっさいにわれわれの人生がこのたとえの通りであるなら、われわれはある意味で心穏やか に生きることができるであろう。目的を持って努力していれば、最後は皆ほぼ同じところにたどり 着くことになるはずだからである。けれども、この説明にはただ一つ欠点がある。それは実際の人 生がこのたとえの通りであるという保証がないということである。それどころか、そこにはある深 刻な問題が潜んでいる。正反対の方向に人生を歩む人の目的が同じであるとどうして言えるのか。 もしかして、いずれか一方の人が、あるいは二人ともが、目的地を間違えていることはないのか、

もしかして、いず」という問題である。

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の幸福であるかは知っていないと言わなければならないであろう。そして、人々がと思っていることは必ずしも本当の幸福ではないと言わなければならないであろう。

倫理学』第1巻2章で行為の目的の中で最高の善(究極の目的)とは何かを間うて、

スは次のように言う。

このような立場から考えるなら、人々はたしかに皆、幸福であることを欲しているが、何が本当 の幸福であるかは知っていないと言わなければならないであろう。そして、人々が「幸福である」 と思っていることは必ずしも本当の幸福ではないと言わなければならないであろう。『ニコマコス 倫理学』第1巻2章で行為の目的の中で最高の善(究極の目的)とは何かを間うて、アリストテレ

名前にかんしてはほとんどすべての人が一致している。大衆も上流の人も幸福であると言うから であり、善く生きること、善く為すことは、幸福であることと同じであると考えているからであ る。しかし、幸福について、それが何であるかは異論があり、大衆の説明するところは知者と同 じではない。大衆は自明で明白なものの何か、たとえば快楽や財産、名声など、人によって異な ったものを考えているし、同じ人が別のものとすることもよくある。病気になったら健康を、貧 しいときは財産を幸福と考えるからである。そして自らの無知を自覚したときには、自分たちの

すべての人が幸福に生きることを欲している。しかし幸福な生を実現するものが何であるかを見通すことはできないでいる。だから幸福を獲得することは容易ではなく、道を外れているとき、

幸福を急いで目指せば目指すほど幸福から遠ざかるのである。もし道が反対方向であるなら、急 ぐことはかえって遠く隔たる原因となる。だからまず、何を求めるべきかを明らかにしなければ

ならない。(『鑑醇一s三」鍼]雪)

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生きることの意味(中川)

「名前にかんしてはほとんどすべての人が一致している」とアリストテレスは言う。すなわち、 幸福を求めていることの一致は、名前だけの一致であって、実質は一致していない。したがって、 すべての人が幸福を知っているとは一一一一口えない。アリストテレスはこのように考えているのである。 アリストテレスの見方は冷静である。人々は皆、「幸福」「幸福」と言っているが、本当の幸福を 求めている人はほとんどいない。彼らは自分で「幸福」という一一一一口葉の意味を本当に理解することな く、浮かれているだけである。アリストテレスはこのように言っているように思われる。 誰もが幸福であることを願っている。しかし、幸福のために求めるものは異なっている。このよ うな同じ事態に注目しながら、アリストテレスとアウグスティヌスは、まったく違う結論を引き出 している。アリストテレスは、「幸福のために求めるものが違っている」ということに注目して、 だから人々は必ずしも本当の幸福を知っているとは言えないと結論し、アウグステイヌスは「すべ ての人が幸福であることを欲している」という点に注目して、だから、幸福のために選ぶ手段は違 うが、皆幸福を知っていると結論している。このような違いはどこからでてくるのか。 それは「知っている」ということをどのように考えるかがアリストテレスとアウグステイヌスと では異なっていることによる相違に他ならない。アリストテレスが、何かを知っているあるいは知 っていないと認定するための、明確な規準を持っている。知っているとは、「何か」と問われて正 しく答えられることである。ところが、「幸福とは何か」と問うとき、人々の答えはさまざまであ る。とすれば、幸福とは何か、大多数の人が知っていないか、あるいは全員が知っていないと考え

なければならない。アリストテレスはこのように考えている。

理解を越えた大きなことを一一一一口う人々に賛嘆するのである。(]二苫」『‐屋)

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次のように考えてみよう。たとえば多くの財産を持っていることが幸福であると考えている人が

いるとしよう。多くの財産を所有することは、アウグスティヌスにとってもアリストテレスにとっ

ても、本当の幸福ではない。したがってアリストテレスによれば、財産を獲得することが幸福にな

ることであると考え、ひたすら蓄財を追求している人は本当の幸福を知ってはいないし、また求めてもいないことになる。ではアウグスティヌスにとってはどうか。アウグスティヌスにとっても、

財産は本当の幸福をもたらさない。しかし、いまの場合、財産を求めている人はたんに多くの財産 を求めているのではない。多くの財産を手に入れることが幸福になることであると考えて財産を蓄 えているのである。この「幸福になることであると考えて」ということにアウグスティヌスは注目 する。財産を求めている人は十分な財産を持つならば幸福になれると考えて、すなわち、財産を所 有することが幸福であるための条件を満たすと考えて、財産を求めているのであってたんに財産を

求めているのではない。

このとき、この人が幸福であるための条件についてまったく何も知らないということはありえな い。なぜ財産を所有することが幸福になることなのかと尋ねられるなら、何か理由を挙げることが

ではアウグスティヌスの場合はどうか。アウグスティヌスはなぜ、人々は皆幸福とは何かを知っていると言うのか。その理由を説明してアウグスティヌスは、すべての人は幸福を欲しており、し

かも、自分が幸福を欲していることを知っているのであるから、幸福が何であるかを知らないはず

はない、と一一一一百う。(二〉このアウグスティヌスの説明を少し詳しく検討してみよう。

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生きることの意味(中 )

できるであろう。たとえば、彼は幸福であるとは何でも好きなことができることであると考えてい るとしよう。彼にとって幸福とは、何でも好きなことができるという条件が満たされることである。 彼はこの幸福の条件を認め、その上で、この条件を満たすのは財産であると判断しているのである。 彼は、財産を所有することが幸福であると考えている点で間違っているかもしれない。しかし、 「幸福であるとは何でも好きなことができることだ」と考えた点でも間違っているであろうか。そ うではない。彼が幸福の条件としたこの考え自体は間違っていないとアウグスティヌスは考える。 問題は彼が考えているように、財産がこの条件を満たすことはないという点にある。 もしこの人が少しばかり考えてみることをいとわなければ、財産があれば本当に、何でも好きな ことができるのか、と自分に問いかけるであろう。そうすれば彼はただちに気づくに違いない。お 金で買えないものもあるではないか。自分の健康や、生命までお金で買うことは、ごく限られた範 囲をのぞけば、できないであろう。それどころか、お金そのものも自分の好きなようにならないで はないか。自分は盗まれたくないのに、盗まれるということもある。とすれば、お金があれば幸福 であると考えたとき、実は自分の中に矛盾を抱えていながら、その矛盾に気づいていないのである。 彼は、財産を所有することこそが、幸福の条件を満たしてくれると考えて、財産を求めているの である。われわれがすでに知っているこのような幸福の条件を、幸福の観念と呼ぶことにしよう。 アウグスティヌス自身はこのような条件をどのようなことばで呼べばよいか、迷っているように思 われる。なぜなら、アリストテレスが考えたような意味での「知っていること」とはっきり区別で きる適切なことばがないからである。しかし、アウグスティヌスがこのような「知」を表現するた めに用いたことば、ラテン語の:(]○が後には:茸○.観念という近代語になる。(三)確かにギ リシア語にも「観念」と訳されることばは存在した。しかしそれはいまわれわれが言っているよう

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それゆえ、われわれは自分の持っている幸福の観念について反省し、自らの行為と照合すること によって、すなわち自分の持っている幸福の観念の内容を自覚し、自らの行為がそれに反するもの な意味での「観念」ではない。アウグスティヌスの言う「観念」とは、たとえて一一一一口えば、何かをそ れによって見る窓のようなものである。ただしこの窓から何が見えるかは決まっている。幸福の観

念とは、幸福を見るための窓である。

アウグスティヌスが、すべての人は幸福を知っていると言うとき、意味しているのは「すべての 人が幸福の観念を持っている」ということである。ある人は自分がそのような観念を持っているこ とに気づいていないかもしれない。あるいは、少しだけは気づいているがまだ十分には気づいてい ないかもしれない。しかし、幸福の観念を持っていない人間はいない。もちろん、すべての人の幸 福の観念が完全に同じであるということはないであろうし、またある一人の人の持っている観念の 内容がすべて正しいということもないであろう。しかしある人の持っている観念の内容が全面的に 間違っているということも、人々の観念が何ら共通点を持たないということもない、とアウグステ ィヌスは考える。人間はそれほどまで真理に見放されてはいないのである。

じっさいすべての人に尋ねてみましょう。真理について喜びたいか、偽について喜びたいか、と。 自分は幸福であることを欲していると言うのをためらわないのと同じくらい、自分は真理につい て喜びたいと言うこともためらいません。幸福な生とは真理についての喜びです。:::他人 をだまそうと望んでいる人には数多く出会ったことがあります。しかし自分がだまされたいと望 んでいる人には一人も出会ったことはありません。(『密」錘]○酵皀幽曇)

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ではアウグスティヌスはなぜ、われわれがすでに持っている「観念」に注目したのか。あるいは 注目することができたのか。それにはいくつかの理由が考えられる。最も重要なのはおそらく、ア ウグスティヌスが人間(自分)を捉える視点である。アウグスティヌスは人間を「欲しているもの」 として捉えている。すなわち、「まだ幸福でないもの」「幸福が何であるか知らないもの」として ではなく、「幸福であることを欲しているもの」と理解している。アリストテレスにとって「欲し ている」とは、目的を目指しつつもまだ目的に到達していない状態、「でない」という否定的な表 現で表される状態であった。「である」状態、積極的な評価の対象となる状態は目的を実現した状 態以外にはない。したがって、目的についての説明が間違っていれば、その人は間違った目的を目 指しているとしか評価できないのである。 ではアウグスティヌスの場合はどうか。アウグスティヌスにとっても、われわれはまだ幸福では ない。しかし、アウグスティヌスは同時にこの「でない」状態を、「欲している」という肯定的な 表現によって捉えている。われわれはまだ目的に到達してはいない。しかし、いま目的を持って生 きることができるという一」と自体、目的についての認識(先にわれわれが「観念」と呼んだもの) をわれわれが持っているということの証拠である。このすでに持っている認識を手がかりにして、 われわれは目的への正しい道を歩むことができる。(ただし、そのためには、われわれが幸福をど でないかを考え直すことによって、幸福への欲求を正しい行為へと導くことができるようになる。 アウグスティヌスはこのように考えている。(四)

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スは次のように言う「一方はこちらを通って他方は別の道を通って手に入れようとします。しかし、人々

が喜ぶために到達しようとしているところは一つです。」

理についての何らかの知g亘巨Pが存在していなかったとすれば、愛することはできなかったでしょう。」

(『告白』第10巻23章33節)また同じテーマを論じた『三位一体論』第13巻で、「すべての人が

幸福な生とは何かを知っている」という立場をいったんは疑ったアウグスティヌスは、「人がその愛して

いることを知らないことはありえない」ことを根拠としてふたたび「すべての人が幸福な生を知っている」

と考えることを強く肯定している。 のようなものと考えているかを常に考え直すことが必要であるが。)アウグスティヌスが「欲している」というわれわれのあり方に注目したということ、それはいま生きているわたしに注目したということに他ならない。なぜなら、われわれは、まだ持っていない

何かを持とうと欲しつついま生きているのだから。われわれは何を考え、何を行うにしても、すで

に生きているものとして、すでに何かを知っており、すでに何かをしてきたものとして考え行為す

る。すでにあるこの「わたし」について考え直すことなくして、いかに生きるべきかを考えること

はできない。アウグスティヌスはこのように考えているのである。

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生きることの意味(中川)

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についてはしかし ければならない」と知っているがゆえに

しかしもちろんすべての人が幸福の観念を持っているからといって、すべての人が幸福になるのではない・ 人は幸福とは真理を喜ぶことであると知っているがゆえに、かえって「自分の愛していることが真理であ ることを望んで」真理を憎むことになるのであり、幸福であるためには「欲するものを持っているのでな 刻印されている」と言われている。これに対し、『告白』で用いられているのは言ご武岱という語である。 しかし、『一一一位一体論』では、われわれはあるものを別のものより優れていると判断できるのはわれわれ の精神に善の:ごCが刻印されているからであると一一一一口われている(第8巻3章4節)から、アウグステイ

ヌスが後年になってgは。という語を放棄したのではないであろう。

あらためて考えることにする。

持つべきではないものまで持とうとすることになる。この問題

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参照

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