英蘭戦争期のコロマンデル海岸
浅田實
一︑はじめに
英 蘭 戦争 期 の コロマ ンデル海 岸
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近年話題となっているー・ウォーラスティンの﹁近代世界システム﹂論は︑近代ヨーロッパ世界システムで︑二十世紀
の今日形成が成しとげられ︑完成された世界の一体化が︑一六︑一七世紀頃西欧を中心に徐々に成型された︑というもの
であった︒それまでまったく別個の世界を成していた西ヨーロッパーーキリスト教世界︑東アジアーー儒教世界︑南アジアーー
ヒンドゥー(イスラム)世界︑西アジア"イスラム世界等々が︑西ヨーロッパを中核にまとめ上げられ︑一つの世界に統
( 1 )
一されていった︒これがその所説の大要であるが︑この考え方は︑世界的視座に立って近代史をみていこうとするわれわれにとって︑きわめて魅惑的でしかもはなはだ理解しやすい︒われわれも大いに共鳴したいところである︒
ただ︑西欧中核の諸国がいかにして単一の世界システム形成への道をすすんでいったのか︑その具体的な過程となると︑
( 2 )
多くの問題が介在しているように思われる︒中核国を代表する英国は一七世紀後半中に商業革命期を迎えたが︑それはいわば近隣の国ぐにとの競争と争覇のなかで推進された︒新大陸︑西インド諸島でのスペイン︑オランダ︑フランスとの争
いはいうまでもなく︑東インドでも鏑を削る争いが展開されていた︒そうしたなかで以下では︑英国商業革命期東インド
貿易との関連で︑第三次英蘭戦争当時のインド東海岸打コロマンデル海岸での西洋各国の争覇戦の様子を︑みていくこと
としたい︒
( 3 )
いうまでもなく英国商業革命は︑新大陸1ーアメリカとの通商の拡大を基軸としたものではあったが︑東インドとの貿易拡大もまた︑この頃とくに目を見はらかせるものがあった︒この頃イギリス東インド会社の木綿製品輸入貿易は︑キャラ
( 4 )
コ熱O冨N︒♂目O︒一一8Φωといわれるほどの消費熱を本国に招来したことはよく知られているところだけれども︑英国産毛織物の輸出貿易についてみても︑その伸び率は一六六〇年から一七〇〇年にかけてのこの時代には︑きわめて高かった︒
レイフーーデイヴィス氏の研究によれば︑一六六三i一六六九年に一万九〇〇〇ポンドであった東インドへの毛織物輸出額
( 5 )
は︑一六九九ー一七〇一年には八万九〇〇〇ポンドと︑五倍近くに達したのであった︒そのようなイギリス東インド貿易躍進の背景には当然︑この頃盛んに東方との貿易に活躍していたオランダや︑新たに
コルベールの努力などで積極的進出をはかったフランスとの熾烈な競争があったに違いない︒いうまでもなく当時はまだ︑
いわゆる植民地支配を推進するほど︑西欧諸国がインド現地勢力に対して︑優位にたっていたわけではなかった︒そのこ
( 6 )
とはイギリス東インド会社が︑名誉革命期の一六八八‑八九年に︑ムガール帝国と戦って敗れたことでも知ることができる︒武力︑軍事力の点に関してさえ︑インド現地勢力を凌駕する力を︑この頃のイギリス東インド会社はもっていなかっ
たわけである︒
それにもかかわらず東インド会社は︑商業的には大いなる躍進を遂げることができた︒なかでも一六七〇年代には︑従
来のイギリス東インド会社の主要取引地であったインド亜大陸西北部のスラトなどグジャラート地方やボンベイといった
( 7 )
アラビア海域に代って︑マドラスなどコロマンデル海岸の比重が急速に高まっていた︒のちにもみるように一七世紀東インド会社の木綿輸入貿易史の研究成果が教えるところによれば︑一六六〇年から一七〇〇年にかけて木綿出荷地として最
英 蘭戦 争期 の コ ロマ ンデ ル海岸
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大の伸び率を示したのが︑コロマンデル海岸地方に他ならなかった︒本稿はこの頃大いなる躍進を遂げた木綿輸出地コロ
マンデル海岸の事情を第三次英蘭戦争期を中心にみようとするものであるが︑それはこの戦争が行なわれた一六七〇年代
前半こそが︑イギリス木綿輸入貿易が急上昇をはじめる出発点をなしていたからである︒
あたかもそれはイギリス重商主義政策が(いわゆる固有の重商主義政策が)本格的に展開されるその前夜にあたっており︑
( 8 )
浜林正夫氏も﹁王政復古体制の動揺がはじまる時期﹂と位置づけているときでもある︒すでに陳腐なものとさえなったイギリス重商主義の議論にここで介入するゆとりはないが︑ただ重商主義政策といえば何よりもまず他国との相対的経済競
( 9 )
争であり︑ときには軍事的︑武力闘争を伴うものであることを︑忘れてはならないと思う︒東インドとの通商拡大が︑あるいはそことの商業取引が︑固有の重商主義政策との関わりあいでいかなる意味をもつかについては︑ここでは問わない︒
けれども︑アメリカとともにインドにおいても︑一七世紀後半のイギリスにとっては︑オランダやフランスとの競争が何
よりの重要事であったに違いない︒
いったい清教徒革命期クロムウェルの航海条例に端を発した英蘭戦争は︑イギリス貿易商人の利益を守り︑海運業を国
民的利害のもとに掌握するための第一歩であったという点では︑やはり代表的な重商主義戦争であったろう︒いわばそれ
までヨーロッパ大陸諸国との関係で︑守勢に立たされ続けてきた英国が︑海洋商業の分野で︑積極的にヨーロッパ外諸地
域に進出する転機になったという意味でも︑この戦争の重要性は無視できまい︒あるいはこれを大英帝国への拡大の第一
( 10 )
歩と位置づけることもできるであろう︒それでもこれまでのこの戦争についての研究は︑本国ヨーロッパ海域に関するものばかりであった︒あるいはバカニア
との関連で︑アメリヵ11西インドでの争いが話題になることもあるにはあったが︑東インドを対象としたこの戦争に関す
る研究は︑まだなされていない︒
一七世紀の東インド諸海域は︑アメリカ海域以上に︑オランダの勢力が強かったところである︒とくにインド亜大陸の
なかでは︑行論中にも明らかにするように︑コロマンデル海岸は殊の他オランダ勢力が強力なところであった︒この頃よ
うやくイギリス東インド会社のインド進出も積極的になっていたが︑コロマンデル海岸ではオランダの貿易量もまた最高
( 11 )
の水準に達していた︒そのようななかで行なわれた英蘭戦争︑とくにその中でもこの頃急速に進出をはじめてきた︑フランス勢力との関わりも深い第三次英蘭戦争の具体相をつかもうとするのが︑ここでの課題である︒
註
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器§暮O§欝§一㊤謹・(川北稔訳﹃近代世界システムー農業資本主義とヨーロッパ世界経済の成立1⊥1︑H︑一九八一年)
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( 3 ) 新 大 陸 ・ ア メ リ カ の な か で も と く に 西 イ ン ド と の 貿 易 の 比 重 が 高 く ︑ そ れ が 商 業 革 命 の 基 軸 を な し て い た ︑ と い う ︒ 川 北 稔 ﹃ 工
業 化 の 歴 史 的 前 提 ﹄ 岩 波 ︑ 一 九 八 三 年 ︑ = 二 ニ ー 一 五 八 頁 ︑ と く に 一 四 二 頁 ︒
( 4 ) ↓ 冨 9 欝 ① h零 O 巴 一8 ︒ ω に つ い て は ︑ さ し あ た り ︑ 拙 著 ﹃ 商 業 革 命 と 東 イ ン ド 貿 易 ﹄ 法 律 文 化 社 ︑ 一 九 八 四 年 ︑ 一 二 三 1 = 二
六 頁 ︒
( 5 ) 即 ∪ 雪 P > 琶 置 ㎝ ︒ { 閃 ︒ 憲 αq ・ ギ 巴 ρ δ O ω ‑ $ 碧 竃 8 ㊤ ‑ 嵩 2 ● ぎ .国 & 蓉 閃 ︒ 器 一讐 ギ 巴 P δ O ? ミ O P ︑ § 鴨 肉 6 § § 尋 ミ ㍗
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( 7 ) 拙 著 ﹁ イ ギ リ ス 東 イ ン ド 会 社 の キ ャ ラ コ 輸 入 と ベ ン ガ ル 進 出 ﹂ ( 永 沼 忠 兵 衛 ︑ 岡 本 明 ︑ 浅 田 実 共 著 = 七 ︑ 一 八 世 紀 に お け る 英
佛 経 済 政 策 と 国 家 体 制 の 変 遷 ﹄ ( 科 研 ︑ 研 究 成 果 報 告 書 ) 一 九 八 〇 年 ︑ 四 五 頁 ほ か ︒
( 8 ) 浜 林 正 夫 ﹃ イ ギ リ ス 名 誉 革 命 史 ﹄ 上 ︑ 未 来 社 ︑ 一 九 八 一 年 ︑ = 頁 ︑ 七 六 頁 ︒ ま た ﹄ ・ = ・ ℃ ぎ ヨ 互 § ︒ 0 8 § ぴ ミ ぎ ︑艦 § ミ もQ 言 ミ ・ 軋耐 § 肉 3 曳 § 斜 δ 醗 ‑ h 遷 鈎 ピ o 己 § り 一 8 刈 . 勺 . トの 一 ︒
( 9 ) 重 商 主 義 者 に と っ て は ︑ 権 力 ( 武 力 を 含 む ) と 富 と が ︑ 国 家 政 策 の 共 同 目 的 で あ っ た ︒ ﹄ 暫 8 げ く ぎ ︒ 5 .℃ o ≦ 霞 く 零 ︒︒ 島 コ ︒ 冨 ξ 器
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(10)さしあたり︑青山吉信︑今井宏編﹃概説イギリス史‑伝統的理解をこえて﹄有斐閣︑
(11)囚.O一9目碧Pbミo㌣︾aΩ肺帖o﹃§忌h亀O‑h醤§一8Q︒導勺・ぱω●
一 九 八 二 年 ︑ 八 ー 九 頁 参 照 ︒
二︑三次にわたった英蘭戦争
①当時のイギリス
英 蘭 戦争 期 の コロマ ンデ ル海 岸
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経済学を学んでいる者にとっては︑いわば古典中の古典ともいうべきサー1ーウィリアムーーペティの﹃政治算術﹄は︑第
二次︑第三次英蘭戦争(オランダ戦争)を契機として執筆された︒それはイングランドのオランダおよびフランスとの国
力比較論で︑西欧の一角で当時しのぎをけづりつつ台頭しつつあったこれら三力国の領土︑人口︑農工業︑商業︑海運力
等総体としての国力を近代的︑合理的に数字・統計(数︑量︑尺度)にもとついて論じたものであった︒
ペティのこの書物が書かれた第二次オランダ戦争から第三次オランダ戦争にかけての一六六五年ないし一六七一年ころ
といえば︑イギリス政治史の上では︑ピューリタン革命後王政復古の時代で︑国王チャールズニ世の治世に相当していた︒
ペティはこの﹃政治算術﹄のはじめのところで︑執筆の動機に関連して以下のように述べている︒
﹁イングランドの福祉に関する多くの人の不安‑全王国には以前には金がおびただしくあったが︑いまや金︑銀ともに
はなはだしく梯底しているということ︑人民のための産業目轟自︒や仕事口国ヨ且畠ヨ①三はなにもなく︑そのうえ土地は
人民不足であるということ︑⁝⁝海軍力の競争では︑オランダ人がわれわれのすぐあとに追い迫ってきており︑フランス
( 1 )
人は急速に両者をしのこうとし︑いかにも富裕で勢力があるように思われる⁝⁝﹂と︒このような当時英国がおかれていた状態を悲観的にのみとらえ︑萎縮していくような人びとの動向を知って︑算術にも
とついて合理的に考えていけば︑イングランドの現状は︑オランダやフランスと対比して︑それほど見劣りのする悲観す
べき状況ではないのだということを述べたのが︑﹃政治算術﹄であった︒いったい︑チャールズニ世当時のイギリスには︑
内乱のあとペストの流行(一六六五年)︑ロンドンの大火(一六六六年)︑第二次オランダ戦争中のオランダ海軍のチャタム
( 2 )
攻撃(一六六七年六月一〇日)等々︑悲観すべき出来事が多々おこっていた︒たとえば重商主義者の一人ともいうべき︑サー1ージョサイァ"チャイルドも︑その著﹃新交易論﹄︾Z睾U一ω8霞ω︒oh円冨号の中で﹁うしなわれた交易について﹂と
いう項目をもうけ︑そのなかでつぎのように述べている︒
﹁七︑比類のない有利な交易である肉ずくや丁香や乾燥肉ずくの東インド貿易︒そこからわれわれは(オランダによって)
駆逐された︒八︑シナおよび日本とのかれらのおおきな交易(われわれはそれにはなんのわけまえももたない)﹂等々と十五の
事例をあげたのち︑﹁わたしはわれわれがすでにうしない︑またあきらかにうしないつつある交易をもっとあげることが
( 3 )
できるのだが﹂あまりながくなりすぎるから⁝⁝さしひかえることにしよう︑と︒このような状況の中で戦われたのが︑三回にわたるオランダ戦争(英蘭戦争﹀轟ざ‑∪暮筈ミ胃ω●)であった︒ここではじ
めにこの戦争の経緯について︑概略ふりかえっておきたい︒以上の記述からも伺われるように︑それはイギリスとオラン
ダとの貿易競争・商業競争のなかから生じた戦争であった︒第一次英蘭戦争が開始されたの一六五二年五月二九日のこと
であったが︑第三次英蘭戦争は一五七四年はじめに終了したから︑二〇数年間にわたっていた︒
②第一次英蘭戦争
といっても︑もとよりそのおのおのが︑その性格を異にしている︒まず第一次戦争はピューリタン革命中クロムウェル
の共和政権の下で戦われた戦争で︑オランダ船の運送を排除する﹁航海条令﹂の施行が重要な動機をなしている︒第二次