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希望と絶望の間 -- 「イエメンの春」から停戦協議まで (特集 イエメン -- 忘れ去られた「アラブの春」の落とし子)

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Academic year: 2021

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全文

(1)

希望と絶望の間 -- 「イエメンの春」から停戦協議

まで (特集 イエメン -- 忘れ去られた「アラブの

春」の落とし子)

著者

川嶋 淳司

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジ研ワールド・トレンド

248

ページ

8-11

発行年

2016-05

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00002944

(2)

  対 つい なるもの。ノーベル平和賞と アル=カーイダ、仲介と介入、国 家建設と国家破たん、対話と武器、 正 義 と 安 定、 部 族 社 会 と 近 代 化、 無人機攻撃と民主化支援、人道援 助と空爆、北と南、スンナ派とシ ーア派、金持ちと貧乏、中央集権 と分権、停電と電子投票システム。 イエメンにはすべてがある。しか し、対なるものの間で新しい立ち 位置をみつけあぐねている。

  イエメンの情勢は複雑にみえる かもしれないが、時間軸に沿って 整理すると実は簡単だ。なぜなら、 サーレハ大統領が署名した退陣合 意の文書には、何をいつまでにや る の か 書 か れ て い る か ら で あ る。 とりあえずは、サーレハ大統領が 退 陣 し て か ら の 新 体 制 づ く り は、 二年三カ月かけて行うとだけ覚え ておけば足りる。同大統領が合意 文書にサインしたのが、二〇一一 年一一月二三日だから、この日か ら始まる二年三カ月の新体制づく りプラン(移行計画)を境に、そ の前の時期と後の時期とに三分割 できる。   この移行計画が始まるまでの時 期というのは、 反体制デモが発生 ・ 拡大してからサーレハ大統領が退 陣 に 合 意 す る ま で の 期 間 で あ る。 そして、二年三カ月の移行計画を はさんで、この計画が期限切れを 迎えてから現在までの三つめの期 間 に 入 る。 日 付 で い う と、 二 〇 一 〇 年 末 か ら 退 陣 合 意 の 二〇一一年一一月二三日までが第 一 期、 そ こ か ら 二 年 三 カ 月 後 の 二〇一四年二月までが第二期、そ して第三期はそれ以降から現在ま でとなる。   二〇一一年以降のイエメン情勢 を三つに分けた。それぞれの時期 の概要を大まかにまとめると次の ようになろう。 第一期:デモの発生・拡大から退 陣合意まで︒   二〇一一年初め、首都サナアで 発生した数十人のデモが、イエメ ン各都市での反体制デモへと拡大 した。同年のノーベル平和賞を受 けたタワックル・カルマン女史は、 その先導者のひとりである。この 反体制デモには、南部運動、ホー シー派、野党連合が加わる。南部 運動とは、二〇〇七年より始まる 旧南イエメン地域における反体制 運動の総称である。もともとは権 利要求運動だが、これに政府の厳 しい弾圧が加わることで、イエメ ン共和国からの分離独立の運動へ と変わった。ホーシー派は、サウ ジ国境に近いイエメン北部を拠点 として、二〇〇四年から中央政府 と武装衝突を繰り返してきた地域 勢力である。各勢力は、それぞれ 異なる現状変更のヴィジョンを持 ちながら、サーレハ退陣の一点に おいて合流・共闘した。   このデモの広がりに対して、サ ーレハ大統領は、新たな政治改革 案を打ち出しながら、治安組織な どを動員してデモの取り締まりに あたる。この取り締まりは、徐々 に暴力的な弾圧へとエスカレート した。体制からの離反者も相次ぎ、 事態は制御のきかない状態に陥っ た。この隙をついて、アル=カー イダ系のテロ組織が旧南イエメン 地域で勢力を拡大した。サーレハ 大統領は湾岸協力会議(GCC諸 国)に仲介を要請する。これに応 じて、湾岸諸国から提案されたも のが、いくつかの修正を加えられ て退陣合意文書になった。退陣合 意が「GCCイニシアティブ」と 呼ばれるのはそのためである。結 局、法的な責任を問わない代わり にサーレハが大統領職を退くこと で合意が成立し、二〇一一年一一 月二三日にサウジアラビアの首都 リヤドで署名式が行われた。 第二期:二年三カ月の移行計画   移行計画の大目標は、新しい憲 法を制定し、それに基づく政治体

イエメン

忘れ去られた 「アラブの春」の落とし子

希望

絶望

︱﹁

春﹂

停戦協議

特 集

(3)

制を選挙を通じて作ることにある。 この移行計画は、大きく二つの段 階に分かれる。 第一段階は署名 (即 時発効)からサーレハ大統領の後 継となる大統領が就任するまでの 期間であり、第二段階は新しい大 統 領 の 就 任 か ら の 二 年 間 で あ る。 第一段階は三カ月と締め切りが決 まっているので、合わせて二年三 カ月の計画だ。   第一段階は、合意署名からハー ディー副大統領が選挙を経て元首 に着任するまでの期間である。そ の間、与野党が半分ずつ閣僚ポス ト を 分 け 合 う 連 立 内 閣 を 設 置 し、 サーレハ大統領の法的責任の免除 を議会で可決する。退陣合意には、 与野党がハーディー副大統領を唯 一の統一候補として出馬させると いう規定があるため、事実上の信 任投票であった。   ハーディー新大統領の就任から 移行計画の第二段階が始まる。い よいよ新しい憲法の制定に向けた 議論が始まる。具体的には、国民 対話会議と呼ばれる大会合を開催 し、新憲法の骨子および国内の政 治問題の解決方法について合意を 形成する。これらの諸問題を話し 合った後、連立政府は対話会議の 閉会後から六カ月以内に憲法起草 委員会を設置し、同委員会は設置 から三カ月以内に新憲法の起草を 完了する。この改憲案は国民審査 にかけられ、正式に採択された後、 議会は新憲法に基づいて選挙法案 を提出する。この新しい選挙制度 のもとで総選挙および大統領選挙 を実施し、これにより選出された 国会議員は選挙前に可決した選挙 法の再審議を行う。新たな大統領 の任命をもって第二段階は終わり、 移行計画も終了する。   この移行計画では、国軍と治安 部隊の再編も定められている。政 府の統制のもとで一体的で統一性 の あ る 国 軍 づ く り が 目 標 で あ る。 具体的には、サーレハ大統領と親 類縁者が中枢を占めていた構造を 改めながら、二〇一一年にサーレ ハの是非をめぐって割れた軍部を 再統一するという難題だ。 第三期:期限切れ、延長、また期 限切れ   二 年 三 カ 月 の 移 行 計 画 は、 二〇一四年二月に終わるはずであ った。しかし、予定どおりに進ま なかった。ハーディー大統領の二 年間の任期が切れるころ、 まだ 「国 民対話会議」が閉幕しようかとい うところであった。この後に予定 されていた新憲法の起草、憲法案 の 国 民 投 票、 新 憲 法 に 基 づ い た 選 挙 法 の 整 備、 そ し て 選 挙 の 実 施、 こ れ ら は 手 つ か ず の ま ま 移 行 計 画 の 期 限 切 れ を 迎 えようとしていた。   そ こ で、 予 定 し て い た 作 業 を 向 こ う 一 年 以 内 で 終 わ ら せ る こ と を 約 束 し て、 大 統 領 の 任 期 延 長 を ハ ー デ ィ ー 政 権 は 決 定 し た。 こ の 任 期 延 長 は、 国 民 対 話 会 議 の 閉 幕 を 祝 う 雰 囲 気 の な か、 同 会 議 の 成 果 文 書 と 一 体 で 発 表 さ れ た。 任 期 が 切 れ る 二 月 に は、 連 邦 制 国 家 へ の 移 行 を 宣 言 し た。 移 行 プ ロ セ ス の 成 果 を ア ピ ー ル す る こ と で、 任 期 延 長 へ の 理 解 を 得 よ う と い う 意 図 が 読 み 取 れる。   しかし、移行政権への不満と政 治勢力の要求が噴出し、イエメン 情 勢 は 混 乱 の 一 途 を た ど る。 二〇一四年九月には首都サナアが ホーシー派に占拠され、翌年一月 にはハーディー大統領が彼らの襲 撃を受けて辞任する(二月にハー デ ィ ー は 辞 意 を 撤 回 )。 ち ょ う ど 一年間の延長任期が切れる時期で ある。さらなる任期の延長を狙う 移行政権と、暴力で要求を押し通 そうとするホーシー派、これに与 表1 2011 年以降の大まかな流れ 第一期 ~ 2011 年 11 月 23 日 デモ発生から退陣合意まで 第二期 2011 年 11 月~ 2014 年 2 月 2 年 3 カ月の移行計画 第三期 2014 年 2 月~現在 延長、期限切れ内乱、軍事介入 (出所)筆者作成。 (出所)「アラビア半島の震源地イエメン」『中東研究』No.523、2015 年、32 ページ。 図1 ハーディー移行政権を支える政治的構図(2011 年)

(4)

するサーレハ元大統領支持者とい う構図であった。この政変は、国 外からの介入を招いた。二〇一五 年三月から始まる対イエメン軍事 介入である。サウジアラビア率い る有志連合は、イエメンのハーデ ィー大統領の要請に基づいての介 入であると主張している。

  二〇一一年に国家元首が交代し たアラブ諸国のうち、イエメンは 合意による退陣という形をとった。 大統領が国外に亡命したチュニジ ア、本人が不在のまま国軍が大統 領の辞任を宣言したエジプト、内 戦の末に元首が惨殺されたリビア との違いが際立つ。武器が蔓延し ている最貧国イエメンで、このよ うな合意が成立したことは注目に 値する。この退陣合意が、地域諸 国による仲介により成立したとこ ろも興味深い。   イエメンのような個人支配の色 彩が強い国家では、権力者の交代 は波乱含みというのがパターンだ。 こ の 手 の 体 制 が 動 揺 し 始 め る と、 だいたい暴力に満ちた展開になり、 権力者は強制的に力づくで追い出 されることが多い。そして、この 個人支配的な体制というのは、民 主化しにくいというのが通説であ る。   「 ア ラ ブ の 春 」 で い う と、 リ ビ アはその典型だろう。カダフィー 大佐の統治は、同人物に権力が集 中した体制である。そして、混乱 の末、同大佐は殺された。民主化 もまだ見通しがつかない。   サダム・フセイン政権下のイラ クも個人支配のカテゴリーに入る だろう。同大統領もやはり処刑さ れた。激しい紛争状態を生み、民 主化へはつながらなかった。   イエメンもサーレハ大統領の退 陣をめぐり大変な混乱を招いたし、 現時点で民主化したとは決してい えない。二〇一一年六月には暗殺 未遂に遭い、個人支配型の指導者 に典型的な結末を迎える一歩手前 までいった。   ただ結果的に、サーレハ大統領 は強制的な退場ではなく、合意に より退陣した。そして、今もって 無事である。非民主的な(特に暴 力的な弾圧を行った)指導者が政 治的に生き残るのは是か非かとい う議論は残る。しかし、外国によ る仲介が一応の秩序だった政権交 代を実現させた。それも、武器に 満ちた最貧国で。今後の世界情勢 と向き合ううえで、イエメンの政 権交代から学ぶ価値はここにある と思う。退陣合意をした時点で現 在のような混乱状態が運命づけら れていたわけでは決してない。移 行計画を実施するなかで登場人物 たちが個々に意思決定をして、あ るいは意図しない形で、現実が形 作られている。   そうはいっても、サーレハ退陣 の詳細が明らかにされているわけ ではない。二〇一一年当時の外国 による仲介工作とイエメン国内の 相互作用は、今後さらに研究が期 待される分野にほかならない。こ こから紛争への仲介に関するレッ スンを導くのは、それまた向こう の作業だ。

  二〇一五年三月に空爆が始まっ てから、何度か一時停戦が宣言さ れている。しかし、どれも完全に 履行されなかった。注目すべきは、 そのタイミングである。そこにイ エメン紛争の特徴が表れていると 思うからである。   初めての停戦は、空爆が始まっ て二カ月を経た五月に呼びかけら れた。これは、アメリカと湾岸協 力会議がパリで宣言した停戦であ る。アメリカの強い意向が働いた。 イエメンでの停戦が始まった五月 一二日は、ケリー国務長官がロシ アを訪問した日にあたる。ウクラ イナ問題を話し合うためであった。 こ の 訪 問 に 先 立 っ て、 ロ シ ア は、 ウクライナ問題でロシアを非難し ながら、サウジの対イエメン介入 を支持するアメリカをダブル・ス タンダードと非難して先制パンチ を放った。ケリー国務長官は、訪 露の前、リヤドを訪問して停戦の 話をまとめパリで発表した。この 停戦は数時間ももたなかった。   この五日間の停戦呼びかけが明 け た 翌 日( 五 月 一 七 日 )、 サ ウ ジ アラビアを盟主とする湾岸協力会 議はイエメン仲介会合をリヤドで 主催した。開会式に国連事務総長 が送った声明には、サウジとの距 離感がにじみ出ている。声明は国 連 特 使 が 代 読 し た。 声 明 の 冒 頭、 UAEを称賛し、ホスト国のサウ ジには声明中ついに触れなかった。 また、別の仲介会合の開催を国連 は同声明で宣言した。国連主導の 次期会合を 「前提条件なし」 の「公 正で中立的な偏りのない」対話と 位置付け、これから始まるリヤド での会合に水を差した。同声明で、 停戦の延長を国連は求めたが実現 しなかった。

(5)

  次の停戦の機会は、国連が六月 にジュネーブで開催した和平会合 だった。この会合も成果に乏しく、 実効性のある停戦の合意は得られ なかった。   七月に入ると新たな停戦の呼び か け が 再 び 国 連 か ら 発 せ ら れ た。 七月一〇日から一七日までの停戦 である。この時期は、イスラーム 教の断食月ラマダンにあたる。ラ イフラインが破壊され危機的な状 況下で断食をするイエメン国民の ための停戦呼びかけであった。ア メリカもラマダンの機をとらえて の停戦に支持を表明した。   奇妙なのは、断食月は六月から 始まっていたことだ。停戦の期間 が七月一〇日から一七日までなの は、なぜだろう。それはイラン核 合意が一四日に発表されたからで はないだろうか。イランを敵視す るサウジからすれば、神経を逆な でされる日だ。イエメン紛争がエ ス カ レ ー ト す る の を 防 ぐ た め に、 事前に停戦案を国連が打ったと考 えられる。これを見透かしたよう に、イエメンのホーシー派はイラ ン核合意に対する祝賀メッセージ を発表した。この停戦も守られる ことはなかった。   同じ七月、今度はサウジが停戦 を発表した。二五日の二三時五九 分 か ら 五 日 間 の 攻 撃 停 止 で あ る。 この停戦で空爆が止んだ日、サウ ジアラビアのサルマン国王はフラ ンスのリゾート地に降り立つ。コ ート・ダジュールとして知られる 地中海沿岸地方である。この日か ら 三 週 間、 サ ウ ジ 国 王 は 約 一〇〇〇人の随行者と休暇を楽し んだ。この一行を迎えたのは、地 元民一〇万人の反対請願書であっ た。サウジ国王らの滞在のためビ ーチが閉鎖され、厳重な警備態勢 が敷かれた。ヴァロリスの市長は これに抗議してオランド大統領に 抗議文を書いた。同地はピカソの 名画「戦争と平和」が眠る街とし て知られる。サウジ国王のリゾー ト休暇とイエメン停戦の日付の一 致は偶然だろうか。この訪仏に先 立つ六月、サウジとフランスは総 額一二〇億ドルの投資や売買契約 を交わした。   昨年一二月、今度はイエメンの ハーディー大統領が新たな停戦を 宣言した。国連主導のジュネーブ 和平交渉が始まる同月一五日から の停戦である。同大統領の要請を 受ける形で、有志連合の攻撃停止 をサウジも発表した。ただ、同時 に サ ウ ジ は 別 の 声 明 も 発 表 し た。 三四カ国からなる「対テロ戦争の た め の イ ス ラ ー ム 諸 国 軍 事 連 合 」 の発足である。イスラーム国に限 らず、いかなるテロ組織とも対峙 するという。サウジはホーシー派 をテロ組織に指定している。和平 会合にともなう一時停戦を発表す る 一 方 で、 「 対 テ ロ 戦 争 」 で イ エ メンにいつでも軍事介入する可能 性を残した。   一二月に始まったジュネーブ和 平交渉は、もともと一一月に予定 されていたが、翌月に持ち越して の実施となった。一一月と一二月 は国連が強力な指導力を発揮する と期待された時期である。安保理 の議長国(アルファベット順の持 ち回り)をイギリスが一一月、続 いてアメリカが一二月に務めるか らだ。一一月頭、イギリスの国連 代表は、イエメンを「忘れ去られ た紛争」と呼び、和平交渉の再開 に 本 腰 を 入 れ る と 話 し た。 二〇一五年の年末、和平交渉の実 現にむけて強力な働きかけがイエ メン政治勢力とサウジにかけられ たことは想像に難くない。しかし、 一二月のジュネーブ交渉は成果な く延期されてしまった。安保理の 議 長 国 ポ ス ト が 英 米 か ら 離 れ た 二〇一六年一月二日、サウジアラ ビアは停戦の取りやめを宣言する。 イエメン武装勢力による停戦違反 が理由である。この声明はさほど 注目されなかった。というのも同 日、サウジ当局がシーア派のサウ ジ人指導者ニムル師を含む四七名 を処刑したからである。メディア の注目はこちらに集中した。

  二〇一一年、日本とイエメンは ともに自国民を祖国へ緊急避難さ せた。東日本大震災により在留イ エ メ ン 人 は 自 国 に 戻 り、 「 ア ラ ブ の春」による治安情勢の悪化で在 イエメン邦人は帰国した。   二つの国家は再び交差している。   空爆はイエメンに甚大な被害を もたらしていると同時に、介入す る側にも多大なコストを強いてい る。この消耗戦でサウジアラビア が揺らげば、地域情勢と石油市場 は大きな影響を受けるだろう。こ の難問に日本は挑む。国連安保理 の対イエメン制裁委員会で議長国 を務めているのは、日本にほかな らない。 (三月五日脱稿) ( か わ し ま   じ ゅ ん じ / 放 送 大 学 非常勤講師) 特集:希望と絶望の間―「イエメンの春」から停戦協議まで―

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