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広がる芳香族化合物の世界

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新・講座

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芳香族化合物の化学∼構造と反応∼②

262 化学と教育 68 巻 6 号(2020 年) 1 は じ め に  化学を学ぶ学部学生にとって,芳香族化合物とは一般に ベンゼン環を有する化合物を指す(図 1(a))。ベンゼンは 1825 年にファラデーによって単離され,その分子構造を ケクレが提案した。当時,その性質―分子式から予測され る不飽和性を示さない―を説明することが困難であった が,今日ではその特異な性質を「芳香族性」とよんでい る 1)。「芳香族性」とは,1)平面構造を有する共役環状化 合物が(4 +2)個のπ電子を有し(ヒュッケル則),2) 分子が外部磁場を受けるとπ電子により反磁性環電流 *1 が生じ,3)似た構造をもつ非環状共役化合物にくらべて 熱力学的に安定である,という性質であるとまとめること ができる。ただ,この芳香族性とは物理量で表現できるも のではない,ということがことを複雑にしている。芳香族 性とは何か,という問題は現在でも活発に議論されてい る。しかし本稿では,芳香族性とは何か,という問題には 触れず,これまで芳香族性とよばれてきた性質はベンゼン がもついくつかの特徴と似たような性質のことである,と 捉えて話を進めたい。  ベンゼンと同様に炭素と水素からなる芳香族化合物とし て,シクロペンタジエニルアニオンがある(図 1(b))。こ れは炭素からなる五員環骨格に負電荷があるもので,ベン ゼンと同じ 6π電子系である。この骨格炭素の一つが窒素 および酸素に換わった化合物はそれぞれピロールおよびフ ランとよばれる(図 1(c),(d))。窒素および酸素上の一 つの孤立電子対が残るジエン骨格の 4π電子と共役して 6π 電子系となり,芳香族性が発現している。一口に芳香族化 合物といっても,電荷やヘテロ原子の影響で,ベンゼンと は異なる反応性や性質を示すことが知られている。  このように芳香族化合物の骨格を構成する元素は,第 2 周期の元素ばかりではない。第 3 周期に位置する硫黄を含 んだ化合物はチオフェンとよばれ,その芳香族性は古くか ら知られている(図 1(e))。しかし,骨格炭素を同族で高 周期の元素に置き換えた化合物は,1990 年頃までは知ら れていなかった。ここでは,まず,芳香族化合物の骨格炭 素を同族で高周期の元素に置き換えた化合物に関する研究 について,筆者らの成果も交えて紹介したい。  ベンゼンの芳香族性は(4 +2)個のπ電子が環状に非局 在化して発現する。一方,ある種の特別な幾何学的構造に おいては,4 個のπ電子が環状に非局在化すると芳香族性 が発現する。このメビウス芳香族性についても紹介する。  このような芳香族性は(4 +2)個のπ電子が環状に非 局在化して生じるπ軌道により発現することから,π芳香 族性とよぶべきものである。一方,σ対称性 *2の軌道に (4 +2)個の電子が非局在化したら,芳香族性は発現す るのだろうか。このような基礎的な疑問に根差した理論的 および実験的な研究について,筆者らの成果も交えて紹介 したい。 図 1 芳香族化合物いろいろ  (a)ベンゼンの構造(左)とπ軌道(右),(b)シクロペン タジエニルアニオン,(c)ピロール,(d)フランおよび(e) チオフェンの構造。  ベンゼンの発見以来,ベンゼン環を有する化合物は芳香族化合物とよばれている。しかし今日では,芳香族化合物はベンゼン環を 有するものに留まらず,様々な構造をもつものが知られるようになった。本稿では,骨格に高周期 14 族元素を含む芳香族化合物,ベ ンゼンとは異なるトポロジーで発現する芳香族性(メビウス芳香族性)を有する化合物,およびベンゼンのようなπ電子で発現する 芳香族性ではなく,σ対称性軌道によって発現するσ芳香族性を有する化合物について紹介する。

広がる芳香族化合物の世界

SAITO Masaichi

斎藤 雅一

埼玉大学大学院理工学研究科 教授

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新・講座 263 化学と教育 68 巻 6 号(2020 年) 2 骨格に高周期 14 族元素を含む芳香族化合物 2.1  ケイ素を骨格に含む芳香族化合物  ケイ素を骨格に含む芳香族化合物の最初の例は,1994 年にアメリカの West らによって報告されたシリレンであ る(図 2(a)) 2)。これは,一つの炭素-炭素二重結合から 2 個のπ電子および sp 2混成をとる二つの窒素原子のそれぞ れの孤立電子対,合計 6 電子がケイ素上の非占有 3p 軌道 を使って環状に非局在化できるので,6π芳香族系を構築 している。ここで注目すべきは,2p 軌道と 3p 軌道が共役 できている,ということである。この報告の後,シロール ジアニオンのジリチウム塩 3)およびシラベンゼン 4)が合成 され,いずれもベンゼンと同様な 6π芳香族化合物である ことが明らかにされた(図 2(b),(c))。 2.2  スズや鉛を骨格に含む芳香族化合物  筆者らは 2000 年ごろからこの分野に興味をもち,当時 全く未開拓であった第 5 周期のスズや第 6 周期の鉛を骨格 にもつ芳香族化合物の創製を目指した研究を始めた。ケイ 素の研究に倣い,スタンノールおよびプルンボール(シク ロペンタ-1,3-ジエンの 5 位炭素がそれぞれスズおよび鉛 に置換された化合物のこと)のジアニオンのジリチウム塩 を合成し,構造解析や量子化学計算を駆使してこれらが芳 香族性を有していることを明らかにした(図 3) 5)。特にプ ルンボールジアニオンが芳香族性を有していたことは,大 きさが全く異なる炭素 2p 軌道と鉛 6p 軌道が共役をして 6π芳香族性を発現することを意味しており,基礎化学的 に興味深い。このように,現在,芳香族化合物の世界は第 6 周期の原子と炭素の組み合わせによって構築される化合 物にまで拡がっている。反応性に関する研究も進められて いる。いずれの化合物もアニオンとしての性質をもつこと から,反応性はシクロペンタジエニルアニオンのそれに類 似しており,様々な遷移金属の配位子として機能すること がわかっている 6) 3 メビウス芳香族性  ベンゼンの発見以来,芳香族性とは平面構造を有する共 役環状化合物が(4 +2)個のπ電子を有するときに発現 するもの,と考えられてきた。しかし,π軌道の位相がメ ビウスの輪のように反転して共役すると,π電子数が 4 個 のときに芳香族性が発現する。これはメビウストポロジー に基づくメビウス芳香族性とよばれる(図 4)。理論的に 予測されたこの性質を実験的に証明することは極めて困難 であったが,2003 年にその候補となる化合物が合成され た(図 4(b)) 7)。しかし,この化合物のメビウス芳香族性 には議論の余地があった。その後,そのメビウス芳香族性 がゆるぎない化合物が 2007 年に報告された(図 4(c)) 8) 図 2 ケイ素を骨格に含む芳香族化合物の例  (a)シリレンの構造(左)とπ軌道(右),ケイ素の非占有 3p 軌道を使って 6π電子系を構築している;(b)シロールジア ニオンのジリチウム塩アニオンの構造(左)とπ軌道(右); (c)シラベンゼンの構造。 図 3 スズや鉛を骨格に含む芳香族化合物の構造(左)とπ軌 道(右)。大きさがかなり異なる p 軌道同士でも共役して, 芳香族性が発現する。 図 4 メビウス芳香族性  (a)メ ビ ウ ス ト ポ ロ ジ ー の イ メ ー ジ 図(Chem-Station ; https://www.chem-station.com/chemglossary/2013/02/ post-11.html より,許可を得て転載);(b)最初にメビウス芳香族化 合物として報告された化合物,その後に様々な議論をよんだ; (c)実験的にゆるぎないメビウス芳香族性が立証された化合

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芳香族化合物の化学∼構造と反応∼②

264 化学と教育 68 巻 6 号(2020 年) 構造の違いこそあれ,その性質はベンゼンのそれにかなり 類似している。 4σ芳香族性  このように構造やトポロジーの違いこそあれ,いずれの 芳香族性もπ電子(π対称性の軌道に収容されている)に より発現している。では,環状に広がったσ対称性の軌 道に(4 +2)個の電子が収容されても,芳香族性は発現 するのだろうか。このような分子として最も単純なもの は,H 3+である(図 5(a))。分子は水素の 1s 軌道からなる σ対称性軌道によって構築され,総電子数は 2 個( =0) である。その理論的研究によると,ベンゼンの場合と同様 に,外部磁場の下で反磁性環電流が生じており,σ軌道に よる芳香族性(σ芳香族性)を有していると結論付けられ ている 9)  筆者らはσ芳香族性を有する化合物として,ベンゼン 環炭素のそれぞれにセレン原子を有するヘキサセレニルベ ンゼンのジカチオンを設計した(図 5(b))。中性であるヘ キサセレニルベンゼンでは,セレン原子上のエネルギー準 位の高い孤立電子対に由来する電子は合計 12 個である。 この化合物が二電子酸化されると,電子数は(4 +2)個 である 10 個となる。したがって,ベンゼン環の周縁部に 広がるσ対称性の軌道に 10 個の電子が収容され,σ芳香 族性が発現する,と考えられる。先に筆者らは,この化合 物の量子化学計算を行い,そのσ芳香族性を予言した が 10),2018 年にその実験的検証を報告した 11)。ベンゼン環 の周縁部に広がる 5 組のσ対称性軌道に 10 個の電子が収 容され,σ芳香族性が発現していることを実験的に明らか にした。モデル化合物の量子化学計算も行い,そのσ軌 道の配置はベンゼンのπ軌道に極めて類似していること も明らかにした(図 6)。ベンゼンは電子が収容されてい る 3 個のπ軌道をもつ(図 6(a))。最安定軌道には節面が なく,次に安定な軌道は 1 個の節面をもつ縮退した二組の 軌道である。ヘキサセレニルベンゼンジカチオンのσ対 称性軌道に注目すると,最安定軌道には節面がなく,軌道 のエネルギー準位が上がるごとに,縮退した二組の軌道の 節面が 1 個,2 個と増えていく(図 6(b))。  実はこの化合物は,σ芳香族性を有するだけでなく,中 心のベンゼン環に由来するπ芳香族性も有している。つ まり,(σ+π)二重芳香族化合物とみなすことができる。 このような二重芳香族性は 1979 年に理論的に予言された が(図 7) 12),その実験的検証はほとんどなされていな かった。この化合物は,このような観点からも興味深い。 図 5 σ芳香族化合物の例  (a)理論的に予言されたσ芳香族化合物。環全体に広がった σ対称性の軌道に 2 電子が収容され,芳香族性が発現する; (b)ヘキサセレニルベンゼンのジカチオン。ベンゼン環周縁部 にセレン原子の孤立電子対に由来する 10 電子がσ対称性軌道 に収容され,σ芳香族性が発現する。 図 6 (a)ベンゼンのπ軌道;(b)10 個の電子が形成するσ 対称性軌道のイメージ図 図 7 理論的に予言された(σ+π)二重芳香族化合物。環の垂 直方向に 6π電子系があり,環内に 2σ電子系が存在する。水 素をもたない炭素が疑似的な sp 混成をとっている,と考え るとわかりやすい。環の中心方向を向く 3 個の p 電子から 1 個の電子が抜かれてカチオンとなる。

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新・講座 265 化学と教育 68 巻 6 号(2020 年) 5 お わ り に  ベンゼンの特異な性質を説明する概念として「芳香族 性」という考え方が誕生し,ベンゼン環をもつ化合物は一 般に芳香族化合物とよばれる。しかし,今日までに,芳香 族性を有する化合物はベンゼンに留まらず,第 6 周期の元 素を含む化合物までもが芳香族性を有していることが明ら かになった。また,ベンゼンの芳香族性が発現するπ軌 道のトポロジーとは異なるメビウストポロジーによっても 芳香族性が発現することが明らかになった。さらに,ベン ゼンにおけるπ芳香族性とは異なり,σ対称性の軌道に電 子が収容されても芳香族性が発現することが明らかになっ た。本稿では述べなかったが,遷移金属に由来するδ対称 性 *2の軌道に電子が収容されても芳香族性(δ芳香族性) が発現することが明らかになりつつある 13)。また,励起状 態にある化合物においては,4 個のπ電子によって芳香 族性が発現するという理論的予言 14)に対する実験的検証も 進んでいる。このように,芳香族化合物は約 200 年の時を 経て,ファラデーが想像だにしなかった世界を構築してお り,これからも日々進化・発展するであろう。 参 考 文 献 1) 吉田善一,大澤映二,芳香族性,化学同人,1971.

2) M. Denk, R. Lennon, R. Hayashi, R. West, A. V. Belyakov, H. P. Verne, A. Haaland, M. Wagner, N. Metzler, .  1994, , 2691.

3) R. West, H. Sohn, U. Bankwitz, J. Calabrese, Y. Apeloig, T. Mueller, . 1995, , 11608.

4) (a)N. Tokitoh, . 2004, , 86;(b)N. Tokitoh, . 2004, , 429.

5) (a)M. Saito, M. Sakaguchi, T. Tomoyuki, K. Ishimura, S. Nagase, M. Hada,  2010, , 339;(b) に掲載された紹介記事:

 2010, , 1106(オープンアクセス). (c)総説:M. Saito, . 2018, , 1009(オープンアクセス). 6) 総説:M. Saito, . 2018, , 160.

7) A. Ajami, O. Oeckler, A. Simon, R. Herges,  2003, , 819. 8) M. St pie , L. Latos-Gra y ski, N. Sprutta, P. Chwalisz, L.

Szteren-berg, . 2007, , 7869.

9) R. W. A. Havenith, F. De Proft, P. W. Fowler, P. Geerlings, . 2005, , 391.

10) M. Hatanaka, M. Saito, M. Fujita, K. Morokuma, . 2014, , 2640.

11) (a)S. Furukawa, M. Fujita, Y. Kanatomi, M. Minoura, M. Hatanaka, K. Morokuma, K. Ishimura, M. Saito, . 2018, , 60 (オープンアクセス):(b) に掲載された紹介記事:https://

cen.acs.org/physical-chemistry/chemical-bonding/ Double-aromatici-ty-found-stable-molecule/96/i41(2020 年 4 月現在).

12) J. Chandrasekhar, E. D. Jemmis, P. v. R. Schleyer, .  1979, , 3707.

13) 総説:D. Y. Zubarev, B. B. Averkiev, H-J. Zhai, L-S. Wang, A. I. Boldyrev, . 2008, , 257. 14) N. C. Baird, . 1972, , 4941. 用 語 解 説 *1 反磁性環電流:芳香族化合物が外部磁場に曝されると,環の内部およ び外部では,それぞれ外部磁場を打ち消す方向および同じ方向に磁場 が生じるように環内で π 電子による電流が流れる.この電流を反磁性 環電流とよぶ. *2 σ,π および δ 対称:ある平面に対して電子が占める軌道の節面の数 がゼロ,1 個および 2 個の場合,その軌道の対称性をそれぞれ σ,π お よび δ 対称とよぶ. さいとう・まさいち 筆者紹介[経歴]1986 年 3 月筑波大学附属 高等学校卒業,1991 年 3 月東京大学理学部化 学科卒業,1996 年 3 月同大学院理学系研究科 博士課程修了,1996 年 10 月埼玉大学理学部 助手,2009 年 4 月より現職。[専門]典型元 素化学,錯体化学。[趣味]クラシック音楽・ 絵画鑑賞。[連絡先]338-8570 埼玉県さいた ま市桜区下大久保 255(勤務先)

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