中国の明器からみた古壊時代の形象植輪
課題番号1
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平 成14
年度 平成1
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年度科学研究費補助金 基盤研究C (2)研究成果報告書 研 究 代 表 者 小 笠 原 好 彦 滋 賀 大 学 教 育 学 部 教 授2
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年3月 滋 賀 大 学 教 育 学 部"
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/う中国の明器からみた古墳時代の形象埴輪
はじめに 1 中国の明器2
古墳時代の形象埴輪3
中国の明器と西都原1
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号墳の家形埴輪4
図形埴輪と導水施設 おわりに はじめに 小 笠 原 好 彦 古代の中国では、死後の世界で使用する生活用具を墳墓に副葬することが行われ た。この副葬する用具は明器と呼ばれていあ。この明器には人間や動物を表現した ものもあり、これは泥象と呼ばれ、さらに人間は特に備と呼称されている。 明器は実物の建物や多くの器物をその他の材料で模して製作されている。この明 器は周末、戦国時代から製作されるようになり、 『後漢書』礼儀志には、飲食器、 楽器、竃などの明器のリストが記されているように、漢代からは特に顕著に副葬さ れるようになった。これには木製、土製、陶製、金属製のものが製作し、副葬され ている。また、漢代以降も建物、生活器具、家具など多くのものが伝統的に明器と して副葬され、唐代には三彩陶による器物、人間、動物の備が多く副葬された。そ して、この伝統は一部には明清代まで継続して行われたことが墳墓の副葬品から知 ることができる。 このような中国の墳墓に副葬された漢代、 三国時代の多くの明器をみると、日本 の古墳の墳丘上に配された形象埴輪と共通するものが少なくな ~\o しかし、古墳に 配された形象埴輪は、古墳の埋葬主体部に煙納された副葬品とは異なり、いずれも 大型のものが粘土によって製作され、しかも墳丘上に配されている点で中国の明器 とは顕著な違いをみいだすことができる。しかし、埋葬主体部の内部、外部の差異 は明らかにみられるが、両者の製作された器物に強い共通性があることは、明器と形象埴輪との聞に何らかの関連性があった可能性が少なくないことを示唆している。 この点は、早くから注意されてきているが、これんで中国の明器と形象埴輪との関 連を具体的に検討した作業はなぜか少ない現状にある。 ここでは、形象埴輪と明器との関連を追求することを意図しながら、中国で明器 が出現した初期の漢代、 三国期のもの明記の構成と日本の形象埴輪の成立、展開を 整理し、特に近年の調査で出土例が急増している形象埴輪の 1つである聞形埴輪の 性格を併せて検討することによって両者の関連の一端を記すことにしたい。 1 中国漢代の明器 漢代には墳墓に多くの一種類の明器が副葬された。この明器には、建物、生活用具、 農具、人間、動物、車、水田など多岐にわたるものが製作されている。しかし、多 くの墳墓に共通して副葬された主要なものと。その頻度が少ない附属的なものとが ある。 まず、建物を表現した陶屋には、多くの墳墓に副葬されているものである。これ には土塀をめぐらし、その内部にいくつかの用途をもっ建物を複合させ、邸宅を表 現したとみなされるものと、 1棟の建物を単独に表現したものとがある。 建物を組あわせて邸宅を表現した陶院落が出土した前漢代のものの 1つに河南省 鄭州市南関漢墓代のものがある。これは門房、正房、望楼、倉楼、厨房、猪圏の
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種の陶屋を組合わせて配したものである。北端の中央にに配した門房は、切妻造の 屋恨のもので、主屋の正房に相対して南の中央に置かれている。この陶屋の屋根は 切妻造で、入口と窓を表現している。入口の下に階段がある。この正房の右に厨房 があり、中に銅製の釜、甑を置く 。また正房の左には便所と家畜小屋を兼ねた猪閣 が置かれ、中に豚1頭が横たわる。便所はこの豚小屋の上に設けられ、建物の切妻 屋恨上に3
羽の鶏と5
羽の雛がいる。門房の左にあたる東北隅には寄棟造の門閥式 の望楼があり、それに対する西側には8
字状の階段をもっ基座上に寄棟造の倉楼が 配されている。 このような複数の陶屋を配置することによって邸宅を表現した後漢代のものは多 くの出土例が知られているが、その 1つに広東省広州市先烈路50
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墓から出土した ものがある。これは四辺に屋根をもっ高い土塀をめぐらし、その土塀の中央に門を あけ、この門上に楼状に建物を置き、四隅にも吹き放しの寄棟の角楼を設ける。土 また、塀の内部には凹字型に複数の建物を配置したものである。この陶院落は銘文 から建初元年(6)の後漢代に埋葬されたことがわかる。これと大同小異のものが
5032号墓、 5043号墓からも出土している。 さらに、甘粛省武威需台の後漢墓から出土した陶院落は、四辺にめぐらす屋根っ きの土塀の 1辺に門があり、この門上に三手先の斗扶で支えた屋根、四隅に寄棟造 の角楼を配し、内部には
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棟の寄棟造の5
層の高楼を設けたものである。 このような四辺に土塀をめぐらし、四隅に角楼を配し、内部に多くの陶屋を配し た三国、西晋時代のものは、湖北省顎城呉国孫権将軍墓出土の陶院落、湖北省黄肢 県などから出土している。孫将軍墓のものは土塀内部に門と平行して長大な切妻造 建物を前後左右に、黄肢県のものは内部の奥に中心建物、その前方左右に主屋に直 行して対称に配したものである。 また、多数の陶屋が出土している広州漢墓の前漢代のものでは、 1棟の切妻造で 入口、窓を表現し、基部の台と階段をもつもの、高い基台の上に主屋と付属屋によ る L字型の建物で塀をともなうものがある。また、続く後漢代のものでは、高い基 台の上に主屋と付属屋による L字型の建物で塀をともなうもの、高い楼閣の主屋に 複数の付属屋と塀をともなうもの、楼閣建物を中心とし、 4辺に塀と 4階に小型建 物を配したもの、四辺に塀をめぐらし、 主屋をふくむ複数の建物を配したもの、四 辺に屋恨っきの塀をめぐらし、四隅に角接、塀の内部に複数の建物を配したものな ど多様な形態のものがある。 一方、摸代には単独に楼閣を表現したものがあり、河南省霊宝の後漢墓から出土 した緑軸三層望楼、灰陶彩画楼閣(天理参考館所蔵〉などが知られている。 また、米や穀物を収納した倉庫も、広州漢墓では切妻で平入りの高床倉庫、高床 の丸倉など‘が出土している。倉庫の類例は、京都大学文学部所蔵品に平側に入口を もち階段をともなう高い倉庫の陶屋がある。また河南省密県、栄陽県では色彩を施 した70cm大の鹿と呼ぶ大型の倉楼が出土している。 陶屋のうち、農舎を表現したものに切妻屋根をなし、臼、撮砲などの農具を収納 するものが河南省霊宝張湾楽、同省険県劉家渠などから出土している。また天理参 考館所蔵品に切妻屋恨で、屋内に人間と犬を表現したものなどがある。 さらに、建物と家畜小屋を一体に表現したものに猪圏、羊圏、鴨圏がある。これ らは、土塀を方形もしくは円形にめぐらし、その傍らに一段高く厩舎を併設し、そ の外側に階段を設けたものが多い。厩舎内部の床面には、長方形の切り欠きがある。0 0
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図は、京都大学人文科学研究所所蔵のもので、 L字型に屋根と土塀を設け たもので、土塀に縦方向の透かしが施されている。また京都大学文学部所蔵品には コ字型に土塀をめぐらし、 一辺に切妻造の厩舎を設けたもの、方形に土塀をめぐら し、2
隅に周舎を設けた漢代のもの、楕円形の区画をめぐらし、その内部に牧人1入、羊大小
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匹を作りつけた緑紬陶の羊圏がある。 つぎに、生活道具では竃釜、農具、井戸がある。池、水田などがある。 竃釜は広州漢墓では、煙だしを備えた長方形の竃の上部に複数の孔をあけ、釜、 甑をすえた多様なものが出土し、また農具には、長方形の臼や引き臼の棋盤がある。 ほかに案を表現した土製品がある。漢代の竃は多くの資料が知られており、京都大 学文学部所蔵品には長方形型、 U字型のもの、釜を設ける孔が1個のもの 2個のも のなどがあり、煙突を表現したものと孔のみのものとがある。 井戸は広州漢墓では、円形の費型の井戸枠とそれを覆屋がともなった前漢のもの、 方形の井戸枠とそれに覆屋がともなうものがある。ほかに円形の井戸に江蘇省寧劉 楼、湖南省長沙出土のものがある。 水田は広州漢墓の5
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号墓から出土した水田型土製品があり、長方形の板に十字 に粘土帯を張りつけて畦畔を表している。また峡西省勉県出土品には屈曲する畦畔 と魚、蛙を表現した漢代のものがある。ほかに四川省ぼう山からは南北朝時代のも ので、長方形の粘土板に曲線の畦畔をつけ、稲株を表現したものが出土している。 このほかに、交通に関連する車と船を表現した明器がある。このうち車は 甘粛省武威、山東省済南元蔭山、四川省成都揚子山、湖南省長沙、甘粛省武威雷台、 同省武威磨鴫子などから出土したものがある。 さらに船は、広州漢墓の2
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号墓から出土した船屋形と擢をもっ漕手を表現した 木製品が出土しているほか、湖北省江陵鳳風山、湖南省長沙伍家から出土した例が 知られる。 以上のような漢代に製作された明器の多くのものは、その後の三国時代、南北朝 時代、さらに種類によっては、それ以後も長く継続して墳墓に副葬されたことが出 土品によってわかる。 しかL
、これらの明器では副葬される頻度がきわめて高いものと、そうでないも のとがある。そして、漢代以降を通じて、特に副葬される頻度の高いものとしては、 陶屋、竃釜、井戸がある。これは明器が被葬者が死後の世界で使用することを意図 して副葬したものであったことからすると、まさに被葬者の死後の世界での住居、 食事、飲料水を主体的に副葬されたことを知ることができる。 2 日本の古墳時代の形象埴輪 日本の前方後円墳が成立したのは、近年の弥生時代の墳墓に対する研究の進展と 年輪年代法による弥生時代の中期年代の修正の可能性などから、 3世紀後半のこととみなされるようになった。 初期の前方後円墳とみなされるものには、奈良県箸墓古墳、中山大塚古墳、西殿 塚古墳などがその候補にあげられている。
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世紀後半の古墳では、中山大塚古墳、 西殿塚古墳、箸墓古墳からは特殊器台は出土しているが、形象埴輪に関連するもの は知られない。現状で形象埴輪に関連するものは、前方後円墳の第3期に編年され る古墳のうち、東殿塚古墳では特殊器台形埴輪に加えて、朝顔形埴輪、楕円筒埴輪 とそれに鰭がつく鰭付楕円筒埴輪が立てられている。 これに続く大和の樫井茶臼山古墳では、後円部に仮器化した壷が方形に配列され、 この方形区画の内部は聖域としての空間が構成されたものと推測される。 この方形区画に新たに形象埴輪が配された初期の古墳に、大和の奈良市陵山古墳 (日葉酢媛古墳〉がある。この古墳では、古墳の後円部に円筒埴輪が方形にめぐら され、その中央部に寄棟造の家形埴輪が置かれ、その周囲に複数の蓋が配されてい た。さらに、墳丘を円形に囲む円筒埴輪列内に盾などの形象埴輪が立てられていた ことが知られる。 ついで4
世紀末の伊賀の石山古墳では、後円部の中央部に方形にめぐる円筒埴輪 列があり、その中央部に家形埴輪群と周囲に衣蓋、盾、甲胃の形象埴輪が配置され ていた。また、東方外区にも複数の家形埴輪が配置されていた。 このように、初期の形象埴輪をみると、単数の家形埴輪とその周囲に威儀具の衣 蓋を配し、ほかに盾などのごく一部の形象埴輪が配置された段階のものがあったこ とがわかる。そして、その第2
段階に複数の家形埴輪と衣蓋、盾、甲胃などの器財 埴輪を配置するものに発展したことを知ることができる。 このような第1
・第2
段階の形象埴輪の配置は、水野政好氏による理解では、 円筒埴輪による聖域の標示、あるいは死者を葬った場を聞い込んだものとみなされ ており、その中心部に家形埴輪が死者にそえた家や屋敷ではなく、蘇る大殿として、 また王権を継承するものの家、屋敷の象徴として存在したことが説かれている。 さて、古墳に配置された形象埴輪では、その最も早く出現したものとして家形埴 輪がある。しかも、これは円筒埴輪列によって囲まれた方形区画の中心に配されて いたことが重視される。形象埴輪のうち最も早く出現したことは、弥生後期の大型 墳丘墓の 1つである吉備の女男岩遺跡から出土した墳丘墓から、大型の特殊器台に 載せた家形土器が出土した例が知られることからみて、家形土器から大型化し、ま た独立することによって家形埴輪が出現したものと推測することができる。 これは家形土器から系譜的につながるのみでなく、形象埴輪のうち最も古く出現 することからみて、形象埴輪が出現をした歴史的な背景をも象徴的にしめすものと思われる。 以上のことは、家形埴輪は形象埴輪の中心的な位置を占め、また家形埴輪との関 連によって多く尾の形象埴輪が出現し、また発展したことになり、形象埴輪の展開 は家形埴輪の展開をもとに3段階に区分して理解することができることになる。 形象埴輪の第1段階は、 1個体の家形埴輸を配し、その周囲に威儀具の衣蓋、盾 などごく 一部の威儀具、武具配した段階のものである。こ れ は 大 和 の 陵 山 古 墳 (日 葉酢媛古墳)にみるように、後円部の竪穴式石室上に配置されている。この第1段 階の家形埴輪は、現状ではなお例が少ない。 ついで、第
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段階は、家形埴輪の表現が住居と倉庫に大きく2
分され、それにと もなって住居と倉庫の家形埴輪を複数個体を配置する 5世紀前半の段階である。こ れには、伊賀の石山古墳、上野の赤堀茶臼山古墳、白石稲荷山古墳、備前月ノ輪古 墳、山背の蛭子山古墳などが知られる。 さらに第3
段階は、古墳の主体部に横穴式石室が採用された時期のもので、後円 部にごく 一部の家形埴輪が形象埴輪とともに置かれ、他にも造り出し部に多くの人 物埴輪とととに配置されるようになったものである。3
中国の明器と西都原1
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号墳の家形埴輪 日本の古墳時代に構築された建物を表現したものとしてよく知られるものに、奈 良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡がある。この家屋文鏡では、高床の楼閣 建物、平地住居、高床倉庫とともに竪穴住居が描かれている。この竪穴住居は古墳 時代に各地の集落から一般的に見つかっていることからみて、民衆の住居と深L、か かわりをもつものである。しかし、東国で見つかっている古墳時代の前期・中期の 首長居館では、居館の内部に竪穴住居が構築されているものがきわめて多いことが 明らかになっている。また、家屋文鏡に描かれた竪穴住居にも、衣葦が差しかけて 表現されていることからみて、この竪穴住居も首長居館を構成する建物として描か れたことは疑いないものとみなされる。 このように、東国の首長居館では竪穴住居が多く構築され、家屋文鏡にも竪穴住 居が描かれながらも、首長墳には平地式住居や高床建物、高床倉庫が配置されてい る。このことは、古墳に置かれた家形埴輪は、首長居館を構成する建物と深い関連 をもって配置されたものとはいえ、各地で設けられた首長居館を構成する建物や建 物配置をそのまま表現したとはみなしにくいように思われる。 ところで、家形埴輪では竪穴住居を表現したものはほとんどないが、ごくまれな例として西都原169号墳の出土品がよく知られる。この埴輪は子持家とも呼ばれ、 高さ53cm、94cmの大きさのもので、中央に大型の竪穴住居を配し、その前後に小型 の入母屋造建物、左右に小型の切妻造建物を設けたものである。この前後、左右に 一体に造られた小型建物は、いずれも吹放しに表現され、基底部も半円形に朝り抜 いている。高さは53cm、94cmである。 これまでのところ、家形埴輪で竪穴住居を表現した例は他に知られないだけでな く、前後、 左右に小型の平屋建物を複合的に一体のものとして製作されたものも、 他に例がない特異なものである。 西都原169号墳に竪穴住居を表現した家形埴輪が配されたのは、東国のように畿 内から遠く隔てた地域では、首長居館に竪穴住居が多く構築されたことからすると、 家形埴輪としてこのような竪穴住居が製作される場合が少なくなかったことをうか がわせる。しかし、この複合した家形埴輪は、きわめてまれであり、しかも特異な ものであったことは、古墳に配された家形埴輪を配置する意図とも少なからず関連 するものと思われる。これは、被葬者の首長居館を構成する住居・建物と関連をも つだけでなく、家屋文鏡に描かれた建物の意図とも深く関連するものと推測される。 そして、これは銅鏡に描かれていることは、古墳時代の前期古墳に顕著に副葬され た画文帯神獣鏡、 三角縁神獣鏡に描かれた文様とも少なからず関連するものと推測 される。そして、神獣鏡には、 「上有仙人不知老、渇飲玉泉飢食豪、浮瀞天下敷四 海」などの銘文が多く記されていることからみて、中国山東地域から広まったとさ れる神仙思想と深く結びついたものであったことは疑いないものと思われる。 では、西都原169号墳から出土した大型の竪穴住居を中心に配し、その四方に平 地式の吹放し建物を複合的に設けた家形埴輪は、どのような構成原理のもとに、あ るいは系譜的なつながりをもって製作されたのか。 これは、西都原169号墳の築造時に、この古墳の形象埴輪の製作に当たった埴輪 工人が独創的にこの家形埴輪を製作した場合、中国あるいは朝鮮半島で製作された 同様のものの系譜を引いて製作された場合とが想定されるであろう。 古墳の墳丘上に配列された形象埴輪と同一の形態、用途をなすものは、中国、朝 鮮半島の墳墓では知られない。これは円筒埴輪、形象埴輪ともに日本固有の葬送具 とみなされるものである。しかし、中国の漢代以降の墳墓では、葬送儀礼に関連す るものに規模は異なるが、形象埴輪と類似する形態の器物が明器として多くのもの が墳墓に副葬されていることが注意される。 この中国の明器は、漢代から顕著に副葬されるようになり、竃、陶屋、井戸、倉 庫、猪圏、脱穀具、飲食器、香炉など多くのものに及んでいることは周知のことで
ある。このような明器のうち、陶屋は特に顕著に副葬されたものの
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つである。こ の家を象った陶屋には、住居のほかに楼閣、倉庫、猪圏、厨房などがある。また、 これには建物1棟を表したもの、複数の建物を合せて一体として表現したものがあ る。後者の複数のものには、陶院落、陶城壁などと呼称するものがある。 この陶院落、陶城壁と呼ぶ陶屋の明器は、複数の建物を一体的、あるいは複合的 に製作されており、日本の西都原1
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号墳の複合的な家形埴輪の形態的には共通す る点が少なくない。 いま、複合的に表現された明器の陶院落の具体例として、湖北省黄肢県、湖北省 都城県呉国孫将軍墓、広東省広州市先烈路5
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号墓、同市東山三育路5
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号墓、甘 粛省武威県雷台などの諸例をとりあげ、系譜的なつながりの有無を少し検討してみ ることにする。 まず、湖北省黄披県出土の陶院落は、四周に屋根をともなう高い土壁〈塘壁〉を めぐらし、その前後に位置する土壁の中央部にあけた方形の門上に楼状建物がある。 四隅には角楼を設ける。これらの門楼と角楼はともに寄棟造の屋根をなし、壁面は いずれも吹放しで、高欄状のものをめぐらす。この高く囲鏡する土壁の内部空間に は、正面の奥に門と平行して寄棟造の屋根をもち、入口と窓を表現した中心建物を 置き、その左右前方にも寄棟造で人口と窓をもっ建物を直交して 1棟ずつ対称に配 置する。製作時期は、 三国時代の呉末ないしは西晋代のものとされており、権褐色 の色調をなしている。 湖北省都城県呉国孫将軍墓出土の陶院落は、屋根がつく高い土壁を方形にめぐら し、土壁の中央に小さな門、その門上に大型の寄棟造の屋根をもっ門楼を設け、四 隅にも寄棟造で吹放しの角楼を配するものである。土壁の内部には、門と平行して 長大な切妻造建物を前後に配し、その左右にも直交して切妻造で入口を内庭側に設 けた長大な建物を置き、全体としてロ字型の建物配置をなす。三国時代のもので、 色調は灰青色を基調とする。 広州市先烈路5
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号墓出土の陶城隼は、建初元年(
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の墓から出土したもので ある。屋根っきの高い土壁が方形にめぐり、前後の土壁の門上に寄棟造の門楼を設 ける。門楼の中には武器をもっ人がいる。四隅には角楼がある。方形に囲む土壁の 内部には、凹字型に建物を配し、奥の切妻造建物の中には台に侍って坐す人、その 右の切妻造建物に鼓を撃つ人、脆伏する人、左側の長大な切妻造建物の前に手を挟 して腰を曲げる人が配されている。 また、広州市東山三育路5
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号墓から出土した陶城隼も、屋根をもっ高い土壁が 方形にめぐり、前後の土壁に設けた門の上に寄棟造の門楼があり、四隅に寄棟造の角楼を配している。土壁内の左側に長大な寄棟造建物があり、内部には左側に坐す 2人の人物と手を挟する人物、旬旬する人物がいる。また右側の寄棟造と切妻造屋 根からなる
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階建て建物には、上階に1
人の坐す人と旬旬する人がおり、 一方は踊 となっている。下には坐す人と旬旬する人、さらに両手に布をもっ人がいる。 甘粛省武威県雷台出土のものは、屋植をもっ高い土壁を方形にめぐらし、その前 後の土壁の中央に門と門楼を設け、四隅に寄棟造の角楼を配しているO その内部の 中心には5
層からなるひときわ高い層塔を設けているO さらに、那州博物館蔵の青磁院落には、屋根をもっ高い土壁が四周にめぐり、土 壁にあけられた門上に楼門、四隅に寄棟造の吹放しの角楼を配したもので、内部に 高床の大型建物、その四方に円形の倉の上に建物を設けたものを配したものである。 西晋代のものである。 以上のような後漢以降に散見する明器の陶院落や陶城壁では、高い土壁を方形に めぐらし、四隅に吹き放しの角楼を設けることが共通する。しかし、その内部に設 けられた建物の陶屋は、武威県雷台にみるような土壁内に層塔を 1つ置くものと複 数棟の建物を配するものがあり、後者が多い。しかも、複数の建物が配置されたも ののうち、顎城県呉国孫将軍墓ではロ字型の四合院、黄肢県と広州先烈路のものは コ字型の三合院配置、害~州博物館蔵のものは中央の奥に大型建物、その左右と斜め 前方に倉と円形建物を複合したものを四方に配しており、顕著な差異が表れている。 このような漢代以降に副葬された陶院落や陶城壁の明器と西都原1
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号墳の家形 埴輪を比較すると、西都原古墳のものは土壁をともなっていない点で、 一見すると 著しい差異があるようにみえる。しかし、四面に吹放しの建物を配する点で、なお 系譜的に強いつながりをもつものであることを想定しうるように思われる。 さらに、中国では、これらの陶院落、陶城隼ときわめて類似した建物を表現した ものに、 三国時代から西晋代に製作された青磁壷の上部に複数の建物を装飾的に表 現した青磁神亭壷、あるいは青磁穀倉雄と呼ばれる壷があり、これも明器の陶院落、 陶城隼と同様に関連性をもっ可能性が高いものである。 これまで青磁神亭壷・青磁穀倉雄として散見するものには、江蘇省江寧、江蘇省 呉県、江蘇省句容県出土、断江省博物館蔵のものなどがある。 江蘇省江寧出土の青磁壷は、壷の上部に大型の寄棟造建物を置き、土壁上の前後 と左右、さらに四隅に寄棟造の吹放しの角楼を配し、下段には人物などが貼付され たものである。西晋代のものであるO 同省呉県出土の青磁壷も、壷の上部に高い士壁を方形にめぐらし、土壁の各辺に 門と寄棟造の門楼、四隅に寄棟造の吹放しの角楼を配し、内部の中央に寄棟造の楼閣を配置したものである。他にも、多くの添付された装飾があり、西晋代のもので ある。 同省句容県出土の青磁壷も、壷の上部の四辺に寄棟造の吹放しの門楼を配し、中 央にも大型で寄棟造の吹放しの楼閣を配したものである。他に多くの人物を貼りつ けて表現されており、西晋代のものである。 漸江省博物館所蔵の青磁壷は、上部の前後左右に寄棟造の吹放しの建物、四隅に も隅楼を配し、その上部の土壁中に建物を配したものである。 以上のような例示した西晋代の青磁神亭壷・青磁穀倉雄に表現された建物は、四 周に屋根をもっ土塀をめぐらし、各辺に門と門楼、隅に角楼を配することから、前 述した後漢代から西晋代の陶院落や陶城壁の明器に表現された建物と強い類似性を 認めることができ、ほぼ共通する構成原理で構築されたものとみなしうるものであ る。問題とする西都原
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号墳の複合して製作された家形埴輪との関連では、家形 埴輪は大型の中心建物を 1棟のみ配し、その前後左右に小型の吹放し建物を置く。 これに対し青磁神亭壷・青磁穀倉雄でも多くは中央に大型建物を配し、その前後左 右の門上に門楼を表現する。なかには四隅に角楼を配するものもあるが、青磁神亭 壷・青磁穀倉雄の方がより西都原古墳の家形埴輪と強い共通性をもっ建物構成をな しているO すなわち、西都原1
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号墳の家形埴輪は、中国の後漢代以降に造られた陶院落や 陶域墨の明器、あるいは西晋代の青磁神亭壷・青磁穀倉雄に表現された複合的な建 物の系譜を引くことによって製作された可能性が少なくない。そして、西都原古墳 群の家形埴輪では中央に大型の竪穴住居を 1個のみを配したことを重視すると、青 磁神亭壷・穀倉雄が中央に建物1棟を共通して表現する点で、陶院落、陶城隼より も系譜的に強いつながりをもっ可能性が高いように考えられるのである。しかし、 この神亭壷・穀倉雄に表現された建物も、陶院落、陶域隼の系譜をもって、また明 器的な性格を強く内在させて表現されたものであることは疑いないものである。 では、西都原1
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号墳の家形埴輪では、竪穴住居の大型建物を中心に配し、前後 左右に小型建物を一体に配し、中国の陶院落、陶城隼や神亭壷・青磁穀倉壷にみる ような土塀がともなわなかったのはどのように理解すべきか。 中国の陶院落、陶城墾の明器、青磁神亭壷・青磁穀倉壷の建物に高く土壁がめぐ らされたのは、中国では早くから都城関連のものに土城をめぐらすという伝統をもっ ており、これが邸宅でも防御施設として堅固な土壁〈塙壁)をめぐらすことが著し く発展したことが陶院落や陶域隼の表現にもよく反映したものと理解される。 一方、日本の首長居館でも、外周には溝と塀・柵をともなっている。しかし、これらの塀・柵は群馬県三ツ寺I遺跡のような大規模で堅固な塀と濠をともなったも のはごくまれで、その多くは狭い溝・堀と柵・塀をともなっている。しかし、これ らの溝・堀、塀・柵の施設も、居館の空間を囲鏡する施設として、また防御的性格 を少なからず内在するものとして設けられたものと推測される。そして、この首長 居館の外郭施設と強い関連をもっ形象埴輪として図形埴輪が生みだされている。製 作されており、しかも、この図形埴輪は家形埴輪と強い関連性をもって配置されて いる。 古墳に配置された家形埴輪では、防御施設の機能を果たす固有の形象埴輪して固 形埴輪が存在した。この図形埴輪が出土した兵庫県行者塚古墳では、家形埴輪を囲 んで固形埴輪が置かれた例がある。また、大阪府心合寺山古墳でも、囲形埴輪が家 形埴輪を囲んで一体に表現されたものが出土している。これが西都原169号墳の複 合的に製作された家形埴輪群に、あえて防御用としての塀・柵が表現されなかった 主要な要因ではなかろうか。 では、西都原169号墳から出土した竪穴住居と小型建物を前後左右に配する構成 原理が、前述したように中国の明器の系譜を引く建物表現を装飾としてもつ青磁神 亭 壷 ・青磁穀倉雄と強い関連を認めうるとすると、西都原169号墳の複合して造ら れた家形埴輪は、どのような背景によって製作されたのか。 これは、西都原169号墳の家形埴輪の製作にあたって、青磁神亭壷・青磁穀倉雄 の装飾的な建物群を直接的に模したか、あるいはそれに関連する知識をもっ首長層、 もしくは渡来人が存在したことが想定されるであろう。しかも、これらの青磁壷が 三国時代から西晋代に多く製作され、また南朝地域に顕著に分布したことも、重視 すべきことと思われるのである。 西都原169号墳が築造された 5世紀は、まさに倭の五王によって長江流域の南朝 に使節が派遣された時代である。これは国家的な外交を目的として使節が派遣され たものであるが、この通交では『魂志倭人伝』に卑弥呼が鏡100面を下賜されたよ うに、南朝地域の情報や新旧の文物が大和王権に直接的にもたらされたものが少な くなかったものと推測される。 西都原169号墳に配された家を複合的に配した家形埴輪は、現状では他に類例を 欠いており、きわめて特異な出土資料である。しかし、このような南朝地域の系譜 を引L、た可能性の高い家形埴輪が存在することは、これに関連するとみなされる南 朝地域で製作された青磁神亭壷・青磁穀倉雄に関連する知識が倭の五王の使節らに よってもたらされた場合、もしくは青磁壷そのものがもたらされた可能性も少なく ないのではなかろうか。また、他に関連するものを求めると、後の時期に製作され
た須恵器の装飾付壷が生みだされる背景とも、少なからず関連をもつことになった ものと推測されるのである。
4
図形埴輪と導水施設 発掘された古墳時代の首長居館の遺構は、外郭に堀と塀がめぐるのが1つの特徴 となっている。このうち外郭の塀は、群馬県三ツ寺 I遺跡では、 I期の居館は外郭 にめぐらされた東面の塀に門が聞かれ、中心的建物の主屋も東面して建てられてい た。さらに、 E期には西にめぐらされた塀の南半部にも、新たに門が設けられたこ とが知られる。また、栃木県成沢遺跡では、外郭の東塀の南半部に柱聞が2聞の東 面する門が聞かれていた。大分県小迫辻原遺跡で見つかった大小2つの居館でも、 西側の居館には北にめぐる布掘りがほぼ中央部で切れており、ここに出入り口の門 があったことが推測される。さらに、栃木県堀越遺跡でも、東側で布掘りが一部切 れている所があり、そこに門が設けられていたものとみなされる。 また、奈良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡に描かれた楼閣建物と関連す るとみなされる建物が見つかった兵庫県松野遺跡では、外郭の塀のうち、南面の塀 は東から西へ伸びる塀と、西から東へ伸びる塀とが端部でくい違って終わっていた。 これは、塀の東端部に居館に出入りするため、東面する門が構築されていたものと 推測されている。 このように、これまで首長居館遺跡で見つかっている居館の外郭の塀(柵〉には、 塀と同一面に門が設けられたものと、塀の端部がくい違って終わり、居館の一部が 張り出した部分に門が設けられたものの2形態があったことがわかる。 この古墳時代の首長居館に構築された外郭の塀、門の形態と深い関連をもって製 作されたと想定されるものに、前述した固形埴輪と呼ぷ形象埴輪がある。この埴輪 は幅広い粘土帯で方形、もしくは長方形、ありは L字型に空間を囲み、その一部に 出入口の門を設け、その門上あるいは上端の全体に鋸歯状の突起をつけ、壁面に横 位の粘土帯を貼りめぐらすものである。 図形埴輪は1
9
3
2
年(昭和7)、群馬県赤堀茶臼山古墳から 9個体の家形埴輪、蓋、 短甲、椅子などとともに出土した際に、後藤守一氏によって雌帳もしくは壁代を模 した形象埴輪に想定して呼ばれたものである。戦後は1
9
6
0
年代までに奈良県五条猫 塚古墳、岡山県金蔵山古墳など、主として5
世紀代のいくつかの古墳でも出土し、 広く分布することが判明した。そして近年では、大阪府ーケ塚古墳、兵庫県行者塚 古墳、大阪府心合寺山古墳、狼塚古墳、三重県宝塚1号墳などから出土し、その例 が顕著にふえる傾向にあり、4
0
個体を超える資料が見つかっている。しかも、近年は古墳に配置された際の原位置をとどめたものがふえたことから、 この固形埴輪がどのような性格をもっ形象埴輪として古墳に配置されたのか、その 成立、あるいは配置された意図、歴史的意義に関しても、後藤氏が当初に維帳・壁 代を想定したほかに、新たにいくつかの説がだされている。 しかし、図形埴輪のもつ性格に対して諸説がだされるようになったのも、この埴 輪がごく近年まで、古墳の墳丘上で、どのように配置されたのか明らかでなかった ことから、この埴輪の形態、形状の特徴のみから性格を推測せざるをえなかったこ とに起因する点が少なくない。 近年、この固形埴輪が古墳上に配置された原位置をそのまま止めた例が、いくつ か知られるようになったが、以前に赤堀茶臼山古墳から出土した囲形埴輪に対し、 家形埴輪と深い関連をもって配置されたことを想定し、首長居館の門+柵を表現し たものとする私説を提起したことがある。この埴輪が、はたして首長居館と深L、か かわりをもって製作されたものか、あらためて検討することが必要な状況となって いるように,思われる。 そこで、ここでは図形埴輪に関連する資料がかなり増加したこともあり、この埴 輪がもっ諸側面を踏まえて、再検討を試みてみることにしたい。 まず、固形埴輪が出土した古墳や遺跡は、管見にのぼったものは30箇所ある。こ れらは群馬県赤堀茶臼山古墳が所在する関東北部から、大分県御塔山古墳のある九 州まで及んでいる。そのうち近畿から約
8
割が出土し、とくに大阪府、奈良県の古 墳で顕著に出土することからすると、 当初に知られたのは関東の赤堀茶臼山古墳で あるが、畿内を中心に製作された形象埴輪とみなして間違いない。 図形埴輪の形式分類は、すでに青柳泰介氏、みなと斎氏らによって平面形態と山 形突起に注目したものが試みられているのでそれに譲るとして、囲形埴輪には平面 形が方形もしくは長方形をなす 1型、方形もしくは長方形に囲みながら、その一端 が鈎の手状に張り出し、そこに門を設けた2
型とがある。そして、1
型には囲んだ 内側に20cmないし 30cmの空閣を構成するlA
型、極端に幅が狭く細い長方形をなす2B
型のものがある。lA
型は行者塚古墳、石山古墳、1B
型は狼塚古墳から出土 したものがその例である。また、 2型は方形、長方形に囲んだ空間の右に鈎の手状 に張り出す2A
型、左に張り出す2B
型とがある。2A
型は赤堀茶臼山古墳、石山 古墳、行者塚古墳から出土例があり、2B
型も大阪府ーケ塚古墳、石山古墳、宝塚 1号墳、和歌山県車駕之古祉古墳なと、から出土したものがその例である。 以上のように、図形埴輪は2つの型式のものがあり、また上端に粘土による山形 突起もしくは鋸歯状の粘土がつけられ、これには門の上端のみ、全体におよぶもの、つけていないものの、 3種がある。さらに、壁面に横位に粘土帯が貼りめぐらされ ており、これは
2
条のものが多いが、それ以上のものもある。 囲形埴輪の出土が知られる古墳の時期は、 『前方後円墳集成』に収録され時期区 分によると、 三重県石山古墳、宝塚1号墳、大阪府ーケ塚古墳、岡山県金蔵山古墳、 福岡県拝塚古墳が4期、奈良県市庭古墳、乙女山古墳、ナガレ山古墳、大阪府心合 寺山古墳、野中宮山古墳、兵庫県行者塚古墳、岡山県月の輪古墳、大分県御塔山古 墳 が5
期、大阪府狼塚古墳、栗塚古墳が6
期、五奈良県条猫塚古墳、大阪府野中古 墳、鞍塚古墳、前野山古墳、和歌山県車駕之古祉古墳、愛知県経ケ峰1号墳、群馬 県赤堀茶臼山古墳が7期、大阪府太平寺5号墳、 三重県倉谷古墳が8
期ということ になる。これらの古墳が築造された時期からすると、現状では4期が4世紀末から5
世紀初頭、5
期が5
世紀前半、6
期と7
期の一部が5
世紀中葉、8
期が5
世紀末 に想定されているので、固形埴輪は形象埴輪として4
世紀末に出現し、5
世紀末に かけて各地の古墳に配置されたことがわかる。 つぎに、図形埴輪がどのような性格をもっ形象埴輪として古墳に配置されたかは 諸説があるが、これを明らかにするには、この埴輪が古墳にどのように置かれてい るか、その配置された位置や出土状態をもとに考えるべきであろう。そこで、これ までの調査で知られる古墳に置かれた位置をみると、つぎのAからDの4種がある。 A 墳頂部から出土したもの 石 山 古 墳 、 金 蔵 山 古 墳 、 心 合 寺 山 古 墳 、 月 の 輪古墳、野中古墳 B 造り出し部から出土したもの 石 山 古 墳 の 東 方 外 区 、 乙 女 山 古 墳 、 C 造り出しと墳丘の境の谷部から出土したもの 行者塚古墳、心合寺山古墳、 狼塚古墳、宝塚1号墳、経ケ峰1号 墳 D 造り出し付近で出土したもの ーケ塚古墳、経ケ峰1号墳、宝塚1号墳、 車駕之古祉古墳 以上の4種の配置位置のうち、 Aは墳頂型、 Bは造り出し部型、 Cは谷部型、 D は造り出し周辺部型と呼称する。 墳頂型は石山古墳をみると、墳頂部に方形にめぐらされた2重の円筒埴輪列の区 画があり、その内側に6ないし 7個体に及ぶ家形埴輪群が置かれていたと推測され ており、それとともに固形埴輪も置かれていたとみなされている。家形埴輪群の配 置関係は明らかでないが、多くの家形埴輪が配された群馬県赤堀茶臼山古墳の場合 は、古く後藤守一氏によって家形埴輪群の配置復原がだされていたが、藤沢一夫氏によって中国の山西省王休泰墓から出土した明器の陶屋の配置との関連から家形埴 輪群の配置の再検討が試みられており、その配置案が妥当なものとみなす私見を述 べたことがある。しかも、この王休泰墓に配置された陶屋の建物群には、正面に門 と目隠し塀とが置かれていたことからみて、赤堀茶臼山古墳の家形埴輪群の前にも、 門と柵・塀を表現した形象埴輪として囲形埴輪が一体に配置されたものと想定した ことがある。 囲形埴輪は、出入口の門の位置に2つの形態があり、首長居館遺跡の外郭にめぐ らされた塀(柵)と、それに設けられた門の位置ときわめてよく類似する。これは、 囲形埴輪が首長居館の外郭の塀、門と同一機能をはたすものと即座にはいえないま でも、古代集落では囲鏡施設が乏しいことと、堅固に囲鏡する塀や門を表現してい ることからすると、固形埴輪は居館の塀(柵〉と門を象って、この形態が製作され た可能性はきわめて高いものと推測される。また、上端に貼りつけられた山形突起 は、囲んだ内部を警圏、あるいは防御することを象徴的に表現したものとみなされ る。 また、石山古墳では後円部の中段の位置ながら、 「ついたて形埴輪」が出土して おり、中国の王休泰墓の陶屋との関連からすると、これは目隠し塀の性格をもって 製作された埴輪の可能性が高く、家形埴輪群には外郭施設の塀と門を表現した埴輪、 目隠し塀の埴輪が組合って配置されたものが存在する可能性が少なくないのではな かろうか。これを、さらに検討するには、墳頂部に置かれた家形埴輪群と囲形埴輪 の原位置を確認することが必要であろう。 ただし、墳頂部から固形埴輪が出土したもののなかには、金蔵山古墳、月の輪古 墳のように、後述する木槽樋型土製品が出土したものがあるので、この土製品と関 連して置かれたものがふくまれていることも考慮される。 つぎに造り出し部型は、石山古墳では後円墳のくびれ部に接するように設けられ た方形の東方外区に、円筒埴輪列に
4
辺が固まれた区画があり、その北側の一隅に 形象埴輪が集中して配置され、家形埴輪11個体以上と 4個体以上の図形埴輪が出土 したという。このうち家形埴輪は小型のものを多くふくみ、大半が倉庫とみなされ ている。このように石山古墳では、造り出し部に置かれた家形埴輪群も図形埴輪群 と有機的な関連をもって配されたことが推測され、それには家形埴輪群の4
隅にそ れぞれの図形埴輪が配置された場合、あるいは 2 A型と 2B型とが凹字状に組合っ て、家形埴輪群の前後に門を表示するものとして配されたことも想定しうるのでは ないかと思われる。 一方、行者塚古墳では西造り出し部に円筒埴輪列が方形にめぐらされ、東辺の2-15-列の埴輪列は食い違って終わっており、そこが入り口になっていた。この方形の埴 輪列に
5
個体以上の家形埴輪と図形埴輪1
個体が置かれていた。この囲形埴輪と家 形埴輪群も、石山古墳の墳頂部に置かれたものと共通した意図のもとに配置された ことが想定されることになるであろう。しかも行者塚古墳では、この造り出し部の ほかに、谷部型の位置に図形埴輪を配置したものもみられるので、それとは異なる 性格をもって配置されたことも想定される。 つぎに、谷部型のものは行者塚古墳では、前述した造り出し部のものとは別に、 後円部と作り出し部との境にあたる西側の谷部の石敷の上から、右に鈎の手に張り 出す2A
型の図形埴輪が出土した。図形埴輪の内部には、切妻造りの家形埴輪が置 かれていた。また、東側の谷部から出土したものは、lA
型の囲形埴輪が谷部と平 行するように置かれ、その内部に置かれた家形埴輪の部分をのぞいて石敷きされて いた。この家形埴輪の棟上には5
本の堅魚木をのせており、2
羽の鳥がとまってい た。さらに、ここからは木槽樋型土製品が出土しており、これが図形埴輪にともなっ たとみなされている。これと同様の出土状態をより具体的に示すものに大阪府心合 寺山古墳の例がある。 心合寺山古墳では、後円部と造り出し部との境の谷部に大きな石と人頭大の石に よる南北O
、9m
、東西0
、4m
の区画があり、この石列の中に2B
型の固形埴輪と家形 埴輪を一体に作り、しかも床面に木槽樋を表現したものが見つかっている。また、 大阪府狼塚古墳では、円墳もしくは帆立員式古墳の造り出し部のくびれ部分北側に 平坦部をつくって置かれたもので、石敷の上に1B
型の長さO
、5m、幅0
、15mの狭 い長方形の図形埴輪が8個体を埋め込んで1辺が1、2mの方形区画が構成され、そ の石敷した内部から槽樋型土製品が出土したことが報告されている。これらの図形 埴輪は山形突起を長辺につけ、西南部のもののみに入口がつけられていた。 また、愛知県経ケ蜂1号墳では石敷されていないが、図形埴輪が家形埴輪を囲み、 その内部に木槽樋型土製品が置かれた状態で出土している。 さらに、注目されるものに、造り出し部と後円部の聞の谷部で、見つかったものに 三重県宝塚1
号墳の例がある。ここでは造り出し部の西側に2
個体の囲形埴輪が並 んで置かれ、それぞれが家形埴輪を囲み、さらに家形埴輪の中に井戸の井筒とみな される土製品が置かれていた。しかも、造り出し部の東の対称位置にも、図形埴輪 が置かれ、その内部に木槽樋型土製品とそれを覆う家形埴輪が配置されていた。 以上述べたような図形埴輪の出土位置および出土状態をみると、石山古墳のよう に、 1つの古墳で墳頂部と造り出し部、心合寺山古墳のように墳頂部と谷部、行者 塚古墳のように造り出し部と谷部、宝塚1号墳のように谷部と造り出し部付近と複数箇所に置かれたものが知られる。これは、いずれの場所でも同ーの意図で置かれ た場合と、図形埴輸を置く目的から場所を違えて置かれた場合とがあったことを考 慮、すべきであろう。 では、空間を囲む形状を示す囲形埴輪が、どのような性格の形象埴輪として古墳 に配されたのか。これには原位置をとどめて検出された行者塚古墳、宝塚1号墳、 心合寺山古墳、経ケ峰1号墳、狼塚古墳の図形埴輪に木槽樋型土製品が共伴したこ とが明らかになったことからすると、この土製品の性格をふくめて検討して考えて みることが必要である。 5 木槽樋型土製品と囲形埴輪 図形埴輪とともに出土した木槽樋型土製品のうち、宝塚1号墳の造り出し部東方 から見つかったものは、長辺
2
1
c m、短辺1
6
c mの長方形をなすもので、長軸の両 端に突出があり、内側に楕円状の槽と細長い樋の溝が表現されている。行者塚古墳 のものも、狭い凹み状のものと大きめの長}j形の凹み、さらに樋が短く表現されて いる。さらに狼塚古墳のものは長さ28cm、幅 9c m大木のものである。ほかに五 条猫塚古墳、月の輪古墳などから出土し、さらに石製品も東京都野毛大塚古墳から 出土したものがある。これらの木槽樋型土製品は槽部を1
つもつものと大小2
つの 槽部に樋をつけるものとがあることがわかる。 ところで、この木槽樋型土製品と同ーの形態をなし、深い関連をもっとみなされ る古墳時代の遺構に、奈良県纏向遺跡、南郷大東遺跡、滋賀県服部遺跡、大阪府神 並遺跡、西ノ辻遺跡、京都府浅後谷遺跡などから見つかっている木幡樋遺構がある。 これらのうち、纏向遺跡のものは集水桝、集水槽、木樋、素掘りの溝から構成され ている。また南郷大東遺跡のものをみると、この遺構は南郷遺跡群の南端に位置し、 東からのびる尾棋の比較的急な斜面地にあり、上流に貼石施設があり、それに木樋 とそれをつなぐ木樋、さらに木槽と木樋、これを覆う覆屋とそれらを囲む垣根状施 設から構成されていた。また、服部遺跡で見つかったものは、極による水路、それ にとりつく木槽と樋が石敷上に置かれている。このほかに、木槽、木樋は見つかっ ていないが、群馬県三ツ寺I遺跡の石敷遺構も同様の性格のものとみなされている。 以上のような木槽樋型土製品と木槽樋遺構は、槽と樋から構成されていることか らみて、上製品は木槽樋遺構を模して製作されたものであることは疑いない。これ まで見つかっている木槽樋遺構のうち、最も古いのは纏向遺跡のもので、3
世紀末 もしくは4
世紀初頭、新しいものは5
世紀後半もしくは末にみなされているので、 木槽樋型土製品が見つかっている時期とほぼ対応することになる。このような類似-17
-点からみると、木槽樋土製品と遺構は同一機能をはたしたもので、流水に対し木槽 を設けて浄水を貯めた装置で、これには見つかっているのは南郷大東遺跡のみであ るが、これに覆屋と囲鏡する囲いがともなったことが知られるものもある。木槽樋 型土製品は、まさに木槽樋遺構を象ったものとして製作され、これを覆うものとし て家形埴輪が置かれ、さらに囲むものとして図形埴輪が置かれた可能性が高いもの と思われる。 では、図形埴輪は、この木槽樋型土製品を囲む目的で成立し、その目的のみで使 用されたものだろうか。 南郷大東遺跡では、前述したように木槽樋型土製品と関連をもっ木槽樋遺構を覆 う建物と、それを囲む垣根が見つかっていることからすると、木槽樋型土製品が家 形埴輪と固形埴輪が関連することはほぼ疑いない。では、囲形埴輪は、どのような 性格の埴輪として製作されたのか。 図形埴輪と木槽樋遺構との関連に注目する青柳泰介氏は、この埴輪は祭殿を象っ た家形埴輪、もしくは導水施設を象った木槽樋型土製品を囲むためのもので、その 用途は限定的なものであるとする考えを述べ、それまでの壁代・椎帳、家畜小屋、 稲城、豪族居館を囲む塀・門などの説は該当しないとした。 これまでだされてきた諸説のうち、壁代・雌帳説は前述したように、図形埴輪と 名づけた後藤守一氏が赤堀茶臼山古墳からこの埴輪が出土した際に用途を想定した もの、家畜小屋説は中国漢代の明器にみる猪圏との類似をもとにしたもの、稲城は 北野耕平氏が『日本書紀』垂仁紀5年10月己卯条に、天皇を暗殺する謀反の計画が 発覚したとき、狭穂彦が自らの居館で防戦した際に築いた防御の城に想定したもの である。また、豪族居館の塀と門説は、居館遺跡の外郭にめぐらされた塀・柵の構 造と囲形埴輪の門と山形(鋸歯状)突起との比較と、赤堀茶臼山古墳の家形埴輪群 にみる製作技法の共通性をもとに、提起した私見である。 このほかに、辰巳和弘氏は、 「ハレの空間Jを囲鏡する柵を象徴したものとする 説を述べ、最新の考えとして、みなと斎氏は水の祭杷儀式の執り行う場を囲緯して いた柵、または塀を象ったもので、内部に祭記を象徴した浄水装置やほかの水の祭 組に関する象徴物と、それを覆う祭殿をおくことがあるとし、青柳氏の説を補強す る同様の考えを述べている。 一方、木槽樋遺構の性格に対しては、浄水祭記の遺構とみなす説と著しく異なる 見解として、黒崎直氏の説がある。黒崎氏は纏向遺跡や南郷大東遺跡で見つかった 木槽樋遺構の下流にあたる堆積土中から寄生虫卵が検出されたことを重視し、上流 に作られた木槽樋遺構をトイレ(雪隠)とみなし、排糟するための便器と理解せざ
るをえないとし、これを産屋の中心的施設として設けられたものとみなす説を提起 し、纏向遺跡、南郷大東遺跡、服部遺跡、神並遺跡、西ノ辻遺跡とともに、群馬県 三ツ寺 I遺跡で見つかった石敷遺構も木槽樋が置かれ、石敷内で検出された柱穴を 竪穴住居がそこに建てられていたとみなしている。 固形埴輪は、その内部から木槽樋型土製品が出土した例が少なくないことからす ると、木槽樋遺構の理解がその鍵になる。木槽樋遺構は南郷大東遺跡では、木槽樋 を覆う桁行
2
問、梁行2
間の建物が検出されているが、これは径の細い柱で建てら れた建物で、それを囲む施設も細い杭が0、3mないしO、4m間隔に、東西4、6m、南 北4、9mの隅丸方形に並び、北に1、3mの鈎の手に張り出し部があったとされている。 しかし、このような建物や囲擁する垣、柵・塀は南郷大東遺跡の他は、服部遺跡で 建物があった可能性が想定されているだけである。南郷大東遺跡の建物は細い柱で 建てられ、堅固な建物とはみなしにくく、この覆いの建物を神殿の性格をもたせて 理解するのは、他に建物が見つかっていないものが多いことからも無理があるであ ろう。また、木槽樋遺構を囲む施設も、南郷大東遺跡の他に見つかっていないこと からすると、これも不可欠な施設とみなしたり、堅固な防御装置をもっ区画施設を 想定することもまた無理な想定と思われる。 このようにみると、木槽樋型土製品は、これを覆うものとして家形埴輪、囲鏡す るものとして固形埴輪がともなっているが、図形埴輪は木槽樋遺構を囲鏡する施設 を直接的に模すことによって成立したとはいい難いのではなかろうか。しかし、少 ないとはいえ、木槽樋遺構を覆う簡易な覆いと空聞を限る簡易な垣根が存在した例 があることからすると、概念的に上屋や聞いをもっとされ、木槽樋型土製品を既存 の家形埴輪と堅聞な塀と門を表現した囲形埴輪で囲んで古墳に配置されたものと推 測されるのである。これは、宝塚1号墳の井筒型土製品も、上屋の家形埴輪に覆わ れたのは実態を示すとしても、 三ツ寺I遺跡で見つかった井戸とその上屋からみる と、上屋に祭殿を想定するのは困難である。また、井戸に堅固な防御装置をもっ塀 がめぐらされていたことを想定することも、 三ツ寺 I遺跡からすると困難なように、 集落の井戸でも堅固な囲鏡施設がともなった可能性は乏しいであろう。 では、木槽樋遺構にトイレと産屋を想定する黒崎説はどうか。これは、古代の産 屋の構造に関連する考古学的な知見はほとんどない。カワヤの遺構も、古墳時代ま で遡る例は明らかでない。木槽樋遺構にふくめている三ツ寺I遺跡の石敷遺構は、 木槽、木樋が見つかっていないが、同ーの性格のものとすると、この2
つの石敷遺 構は、首長居館の主屋を中心とする政治的空聞を構成する中にある。2
つの石敷遺 構は、ここでは、滑石製模造品が破砕された状態で敷きつめられており、溝中からも多量の破砕された土器などの遺物が出土したことが報告されている。これは首長 の産屋とすると使用頻度がごく限られたものであることが想定されるのに対し、じ つに使用頻度の高い施設として、しかも、複数が設けられたものであったことが推 測されるO さらに、その南に設けられた井戸の存在からみても、調査関係者が想定 するように、濠に架橋し、外から樋によって導いた浄水を注いで祭献を行うための ものとする考えが、より可能性が高いものと推測される。 これは、宝塚1号墳の造り出し部の西方から見つかった
2
個の井筒型土製品と、 それを覆う家形埴輪と囲鏡するむ固形埴輪、さらに、その東方で対称的に置かれた 木槽樋型土製品とそれを覆う家形埴輪と囲接する図形埴輪が出土したことは、これ らが清浄な水に関連する共通の施設として囲んだものと積極的に理解することがで き、産屋説は成立しにくいものと思われる。そして、この木槽樋遺構の祭記は、纏 向遺跡、南郷大東遺跡のような首長層がかかわった可能性の高い遺跡と、服部遺跡、 神並遺跡、西ノ辻遺跡のような集落遺跡に所在したとみてよいもの、さらに三ツ寺 I遺跡の首長居館ともかかわるような浄水施設であったものと推測されるO この浄水施設は、宝塚1号墳では造り出し部で井戸の井筒型土製品を覆う家形埴 輪、それを囲む図形埴輪とともに出土したことからみて、生活上で最も重要な木槽 樋に流れる清浄な飲料水が水遠に絶えないことや清浄さが保たれることを年ごとに 水の神に祈念する祭記が行われたことにかかわるものでなかろうか。それだけに、 この浄水装置に何らかの上屋がかけられ、その空間に対し、清浄、神聖さを維持す べき空間として意識されていたものと思われる。囲形埴輪は、まさに清浄水の上屋 として家形埴輪を囲んで置かれたものと理解され、行者塚古墳では木槽樋遺構と同 様に石敷の上に配置されたものとみなされる。 一方、石山古墳で、は墳頂部に 1個体、造り出し部に倉庫群を主体とする家形埴輪 群とともに4
個体以上の図形埴輪が置かれ、心合寺山古墳でも頂部と谷部から出土 していることからすると、図形埴輪は木槽樋型土製品、あるいは井筒型土製品を覆 う目的のみで製作されたものであろうか。 そこで、あらためて木槽樋遺構と井戸遺構が見つかっている大型の首長居館の一 つである三ツ寺 I遺跡をみてみよう。この居館には幅広い水濠がめぐり、その外郭 に2重ないし 3重の塀(柵)がめぐり、敷地も塀で南北に 2分されていた。南半に 主 屋と付属屋、石敷遺構と井戸および上屋が設けられていた。このうち石敷遺構に 関連するものに、木槽樋型土製品とこれを覆う家形埴輪と囲む図形埴輪があり、南 の井戸と上屋は、これに関連する井筒型士製品と覆う家形埴輪と囲む図形埴輪が存 在することになる。この首長居館は群馬県原之城遺跡の居館からみると、三ツ寺 I遺跡でも倉庫群や工房などが北に配置された可能性がきわめて高いことが想定され ている。だとすると、石山古墳の造り出し部にみる倉庫群と共伴した図形埴輪群は、 居館の倉庫群の空間を警固することを表現するものとして、
4
個体以上の図形埴輪 がかかわった可能性が少なくないのではなかろうか。 さらに、固形埴輪は木槽樋遺構を囲む施設をそのまま象って成立したものとはみ なせないとする前述した考えからすると、この埴輪に表現されている堅固な塀と門 と防御性を表現する三角突起の貼付は、まさに首長居館にめぐる外郭の塀・柵と門 を象って、 一定の空間を堅固に警固し、防御するものとして作られた埴輪と思われ る。そして、図形埴輪は石山古墳のほかにも墳頂部に家形埴輪群とともに置かれた ものもあり、居館中枢部の家形埴輪群を警固、防御する塀と門を象徴的に表示する ものとしてかかわった可能性も、なお残るように思われるのである。 以上のうち、石山古墳の造り出し部に置かれた倉庫の家形埴輪群とともに出土し た囲形埴輪群は、これまでの調査からは十分に明らかになっていない。しかし、倉 庫群を囲鏡し、警固する施設として配されたことをあえて想定するのは、中国の河 北省望都県河北望 1号漢墓壁画梼題に、 「口口口下口口皆食太倉」、内蒙古和林格 繭漢墓壁画に「繁陽県吏人馬皆食大倉」、山東省臨折県画像石に「此上人馬、皆食 大倉」と、 「食太倉J
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食大倉」の語句が記されていることによる。この「食太倉」 「食大倉」は、墓主が神仙界に昇仙し、その太倉、大倉の思恵に浴し、食糧が永遠 に尽きることがないようにとの願いをもとにした神仙思想に関連して記されたもの とみなされている。また、高句麗の徳興里古墳壁画に記された墓誌にふくまれる 「食ー椋」も、これと関連するものとされている。 さらに、山東省嘉祥県宋山3
号墓には「皆食太倉、飲其江海」と記されており、 「飲其江海」も重視される語句である。この「其の江海を飲む」という表現は、神 仙界で食糧のみでなく、無限の飲料水をふくめて記されたものと理解され、 「渇飲 玉泉」に通ずる意味をもつものとみなされている(註4
1)。そして、これは木槽樋 型土製品、井筒型土製品が固形埴輪によって囲まれて置かれていることと密接に関 連する可能性が高いものと思われる。だとすると、 「食太倉J
にかかわって、これ らの倉庫を警固するために、さらに居館の中枢部の建物と固形埴輪がかかわった可 能性も少なくないように推測されるのである。 以上述べたように、囲形埴輪は木槽樋型土製品、井筒型土製品とその上屋の建物 を囲うことは明らかになったが、それにとどまらず、倉庫群、さらに居館の主屋を 主体とする建物群を警園、防御する形象埴輪という多様性をもって古墳に置かれた ものではないかと思われるのである。-21-おわりに この報告では、中国の明器と形象埴輪との関連を検討した。そのーっとして、こ こでは形象埴輪の固形埴輪の性格の検討を試みた。この固形埴輪には木槽樋型土製 品 が 共 伴 す る こ と が 明 ら か に な っ た が 、 こ れ を 象 る 対 象 と な っ た 木 槽 樋 遺 構 は 首 長 居 館 に も 設 け ら れ て い る こ と か ら み て 、 こ の 遺 構 の 性 格 を 明 ら か に す る こ と が 大 き な課題になる。ここでは、井筒型土製品との関連を重視し、永遠に絶えない浄水の 飲 料 水 を 象 徴 し た も の と 推 測 し た。これは、家屋文鏡に描かれた建物群の背景に神 仙 思 想 が あ っ た こ と に 言 及 し た こ と か ら す る と 、 こ れ ら の 木 槽 樋 型 土 製 品 、 井 筒 型 土 製 品 も 、 ま さ に 首 長 層 が 神 仙 界 で 飲 む 玉 泉 と し て 置 か れ た も の 思 わ れ る。そして、 この神仙界へはそれのみでなく、穀物倉と首長居館の中枢部建物も必要としていた と推測されるので、図形埴輪が関与することになったものと推測されるのである。 この研究の推進にあたって、中国の河南省博物館、鄭州市博物館、許昌市博物館、 上 海 博 物 館 、 湖 南 省 博 物 館 、 広 州 市 博 物 館 、 開 封 市 博 物 館 、 南 京 博 物 院 、 南 京 市 博 物館などで、多くの明器資料を観察するにあたって、また文献資料の探索にあたっ て 鄭 州 大 学 の 華 国 強 氏 に 多 く の 協 力 を え た こ と を 記 し 、 心 か ら 感 謝 し た い。 参 考 文 献 青 柳 泰 介 「 図 形 埴 輪 小 考
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W
考古学に学ぶ一遺構と遺物一』同社大学考古学シリ ーズ刊行会 1999年3月。 上 回 睦 「 藤 井 寺 市 狼 塚 古 墳 (HJ 97110)の 調 査J
W大 阪 府 埋 蔵 文 化 財 研 究 会 (第37回)資料.D1998年3月。 小 笠 原 好 彦 「 家 形 埴 輪 の 配 置 と 古 墳 時 代 豪 族 の 居 館J
W考 古 学 研 究 』 第31巻 第4 号 1985年3月。 小 野 山 節 ほ か 『 紫 金 山 古 墳 と 石 山 古 墳 』 京 都 大 学 文 学 部 博 物 館 1993年4月。 京 都 大 学 文 学 部 『 京 都 大 学 文 学 部 博 物 館 考 古 学 資 料 目 録 第3
部.D1963年3月。 黒 崎 直 「 古 墳 時 代 の カ ワ ヤ と ウ ブ ヤ ー 木 樋 槽 の 遺 構 を め ぐ っ て 一J
W考古学研究』 第45巻 第4号 1999年3月。 後 藤 守一 『上野国佐波郡赤堀村今井茶臼山古墳』帝室博物館 1933年4月。 近藤義郎編『前方後円墳集成.D1992年12月 下 城 正 ほ か 「三ツ寺I遺 跡 - 古 墳 時 代 居 館 の 調 査 一J
W上 越 新 幹 線 関 係 埋 蔵 文 化財発掘調査報告書』第
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集 群馬県教育委員会1
9
8
8
年3
月。 広州市文物管理委員会・広州市博物館『広州漢墓J]1
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1
年。 中国歴史博物館『中国古代史参考図録一秦漢時期-J]1
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年1
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月。 山西省文物管理委員会晋東南文物工作組「山西省長治唐王休泰墓J
r
考古J]1
9
6
5
年 第8期。 菱田哲郎・森下章司・高橋克書ほか「行者塚古墳発掘調査概報J
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加古川市文化 財調査報告J]1
5
加古川市教育委員会1
9
9
7
年3
月。 福 田 昭 ほ か 『 松 阪 宝 塚1号墳調査既報J]2
0
0
1
年3
月。 みなもと斎I
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水の祭記場を表した埴輪』についての覚書J
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史跡心合寺山古墳 発掘調査概要報告書一史跡整備に伴う発掘調査の概要一J]2
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0
1
年3
月。 n r川村担剛剛院叫剛山議臨細将軍明 F ゆ 川判萄戚握料相以 マ守 燕
1 湖北省黄肢県出土
広州漢墓5032号墓
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一
一
ー
、
-
-
-
-
-
-河南省鄭州市南関漢墓出土
3
2
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_.__1 1.. -'.. 『曹司 ¥司t. 4 6
3
2
5 1 河南省博物館所蔵 2 河北省北京市順臨河出土 3 甘粛省武威雷台出土 4 河南省密県出土 5 河南省栄陽県出土 6 京都大学文学部所蔵の漢代倉吋
制 調 ! み
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2
7
8 四川省成都揚子山出土 2 山東省済南市元影山出土 3 湖南省長沙市出土 4 甘粛省武威磨噴子出土 6 京都大学文学部所蔵の漢代車 5 甘粛省武威雷台出土 7 湖北省江陵鳳嵐山出土 8 湖南省長沙伍家出土3
4 E十 -'...~啄去勢車可司5
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