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直観知と共通概念 : スピノザの哲学における真理論の展開

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直観知と共通概念 : スピノザの哲学における真理

論の展開

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

84

ページ

57-72

発行年

2017-02-24

URL

http://hdl.handle.net/10232/00030728

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五七 る。そこで、人間精神がいかにして神の思考に同化しうるのかという問 いかけを出発点にして、スピノザの真理論を検討してみなければならな い。この考察は『知性改善論』から『エチカ』への真理論の展開を再構 築するという手法によって進められる。

  

 

推論

  上記の問題は、スピノザの哲学において「推論」とはいったい何かと いう主題に結びつく。 「直観」 という至高の認識に対比されたとき、 「推論」 はいかにも平凡で人間的である。事実、スピノザも『知性改善論』では 真理の認識から 「推論」 を除外している。 しかし、 『エチカ』 において 「推論」 は「共通概念」 による認識に生まれ変わり、 真理の認識に分類されている。 『エチカ』 における 「推論」 は人間精神と神の思考とのあいだにある 「天 と地ほど」の隔たりを埋め、人間精神が神の思考に参入するための通路 を開く役割を荷なわされているのである。では、 『エチカ』における「推 論」つまり「共通概念」による認識は、いったいどうしてこのような役 割を果たしうるのであろうか。以下の論考をとおして最終的に解明され なければならないのはこの点である。   ストーリーの概略は次のようなものである。神が「直観」によって認 識しているという主張は『知性改善論』に明確に認められる。この主張 の背景には、真理の認識とはすでに存在するものを認識することではな く、むしろそれまで存在しなかったものを認識することであるという思 想があるように思われる。このような認識のみが真理の認識とみなされ

  

直観知と共通概念

    

  スピノザの哲学における真理論の展開

  ─

  

  

  

 

  

はじめに

  こ れ ま で の ス ピ ノ ザ 解 釈 で は、 「 直 観 知 」 は 人 間 精 神 に お い て 生 じ る 認識として論じられてきた。それは間違いではない。しかし本来は「直 観知」は神の認識である。それゆえ、人間精神にとっての「直観知」は 人間精神が神の思考に一致することによって成立するのである。だから こ そ、 そ れ は「 最 高 の 徳 」( 5/25/P ) と 呼 ば れ る。 意 外 に も、 こ の 点 は ス ピ ノ ザ 研 究 者 た ち か ら 見 過 ご さ れ て き た。 し か し、 「 直 観 知 」 は な に よりもまず神の思考として理解すべきである。 そうしなければ、 「直観知」 という思想にいったいどんな問題が含まれているかを理解することは難 しいはずである。その問題とは、人間精神と神の思考とのあいだに巨大 な 隔 た り が あ る と い う 点 で あ る。 「 神 の 本 質 を 構 成 す る 知 性 お よ び 意 志 とわれわれの知性および意志とは天と地ほど異なっていなければならな い 」( 1/17/S ) と ス ピ ノ ザ 自 身 が 述 べ て い る ほ ど で あ る。 こ の 点 を 鮮 明 に認識するなら、人間精神が神の思考に一致するという主張がいかに難 しい問題を含んでいるかはすでに明瞭であろう。 「直観知」 を語ることで、 スピノザは一見して不可能と思われるようなことを主張しているのであ

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柴    田    健    志 五八 参入するのかという点がいっさい触れられなかった。スピノザの真理論 の展開にとって 「共通概念」 が重要であると考えられるのは、 「共通概念」 によってまさにこの点が示されたからである。   で は、 「 共 通 概 念 」 に よ る 認 識 と は 何 か。 こ の 問 い か け に 対 す る 解 釈 は論文の最後の部分で論じられる。ただ、そこで展開される解釈の要点 には、 ここであらかじめ言及しておくべきであろう。私の解釈によれば、 「 共 通 概 念 」 に よ る 認 識 と は『 エ チ カ 』 に お け る 定 理 の 証 明 そ の も の で ある。 ということは、 『エチカ』 という著作を理解することそれ自体によっ て、人間精神は神の思考に接近するということになる。この解釈を納得 のいくものとして提案するためには、このように解釈すべき根拠を『知 性改善論』から『エチカ』への真理論の展開に求めなければならないの である。

  

  『知性改善論』

  『知性改善論』におけるスピノザの知識論は次の二点を前提している。 (1)真理の認識は現実に存在する対象とは独立に知性の能力によって 与えられる。 (2)真理の認識は現実に存在する対象に一致する。   この二点は両立しえないものであるように見える。確かに、一見する と こ れ ら は 矛 盾 し て い る。 し か し、 こ の 二 点 が デ カ ル ト に よ っ て も た ている。   それまで存在しなかったものは、このテキストでは「未知」のものと 呼ばれている。この点を前提すれば、なぜ真理の認識が「直観」によら なければならないかという問いかけに対し次のように答えることができ る。 ポ イ ン ト は、 「 直 観 」 に よ っ て 退 け ら れ て い る の が「 感 覚 経 験 」 お よ び「 推 論 」 と い う 認 識 の 形 態 で あ る と い う こ と に あ る。 「 感 覚 経 験 」 に よ る 認 識 は 認 識 す べ き も の が す で に 存 在 し て い る こ と を 前 提 し て お り、その意味で真理たる資格をもたない。この点は明白であろう。とこ ろが「推論」もまた真理の認識方法としては不適格なのである。 「推論」 とは規則にしたがって前提から帰結を導くことである。それゆえ、前提 が 与 え ら れ れ ば そ こ か ら 何 が 帰 結 す る か は 予 測 可 能 で あ る。 と こ ろ が、 予測可能であるということはものが現実に存在する前に認識できるとい うことである。すると、それは「未知」のものではないことになる。本 当に「未知」のものは、まさにそれが認識された時点で現実に存在しは じめるようなものでなければならないからである。そのような仕方で認 識するには「直観」によるほかない。それが神の認識である。これに対 し て、 人 間 精 神 に 認 識 し う る の は す で に 存 在 し て い る も の で し か な い。 すると、なぜ人間精神に「直観知」が与えられうるかはひとつの謎にな る。この謎は『知性改善論』では解明されていない。それを解明したの が『エチカ』である。   この展開を可能にした要素はいくつか考えられる。しかし最も重要な のは 「共通概念」 による認識が 『エチカ』 に導入されたことである。 『知 性改善論』は「推論」を真理の認識とは認めず、ただ「直観知」のみを 真理の認識であるとしたにとどまり、人間精神がいかにして神の思考に

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直観知と共通概念 五九 その観念を、自然全体の根源および源泉を再現する観念から、この観念 それ自体がまた他の諸観念の源泉となるような仕方で取り出さなければ ならないということ」 ( § 42 )。 人間精神が持ちうる「真の観念」は、すべての観念がそこから出てくる ところの「根源」ないし「源泉」から出てくるということが肯定されて い る。 こ の「 根 源 」 な い し「 源 泉 」 は、 『 エ チ カ 』 で は「 神 の 観 念 」 と い う 概 念 に 集 約 さ れ る も の で あ る。 『 知 性 改 善 論 』 で は「 最 も 完 全 な 存 在者の観念」 ( § 49 )という言葉がこれに対応するであろう。すなわち、 スピノザはあらゆる真理が「神の観念」から演繹されるといっているの である。   では、すべての観念が「神の観念」から演繹されるということは、逆 にすべての観念が「神の観念」に還元されうるということを意味するの であろうか。 「神の観念」のなかにはあらかじめすべてが含まれていて、 それが展開されているだけなのであろうか。 そうではない。 なぜなら 『知 性改善論』が真理の認識について論じる際に問題になっているのは「未 知 の 事 物 」( § 29,   § 49 ) だ か ら で あ る。 「 神 の 観 念 」 の な か に あ ら か じ めすべてが含まれているのであれば、そこから出てくるものは「未知の 事物」ではない。神はそれが現実に存在するであろうことを予測できた のだから。すると、スピノザの知識論は一見すると両立しないように思 われる二つの主張によって成り立っていることになる。 (イ)真理は「神の観念」から演繹される。 (ロ)真理は「神の観念」に還元できない。 らされた知識論の新パラダイムであるということは哲学史上の事実であ る。デカルトは、アリストテレスの経験主義にもとづく旧パラダイムを 批 判 し、 「 感 覚 経 験 」 に よ る 認 識 は 不 確 実 な も の で あ る が ゆ え に、 む し ろそれを否定することが正しく、その上で知性に提示される観念を考察 す る と い う 手 段 に 訴 え た。 そ し て、 「 明 晰・ 判 明 」 な 観 念 が 現 実 に 存 在 する対象に一致するということは、すべてのものの原因である神によっ て 保 証 で き る と 主 張 し た の で あ る( Descartes  1996a,  17-26 )。 こ の よ う なパラダイム・チェンジをスピノザは踏襲している。   (1)の論点は「真の観念はその対象とは異なる」 ( § 33 )と表現され ている。また(2)の論点は「観念はその形相的本質に完全に一致しな け れ ば な ら な い 」( § 42 ) と 表 現 さ れ て い る。 こ れ ら を ま と め る と、 人 間精神は現実に存在する対象に依存せずに思考するによってのみ、現実 に存在する対象を真に認識することができるということになる。なぜそ のように考えられるかという点はのちに『エチカ』によって証明される ことになる。   さしあたりの問題は、現実に存在する対象からでなければ人間精神は いったいどこから真理の認識(スピノザの用語では「真の観念」 。以下、 スピノザの用語で統一する)をえているのかという点である。言い換え れば、 「真の観念」はどうやって生み出されているのかという点である。 スピノザによれば、 「真の観念」の源泉は人間精神ではない。むしろ、 「観 念はその形相的本質に一致しなければならない」という前提から次のこ とが明らかであるという。 「 わ れ わ れ の 精 神 が 自 然 の す が た を 完 全 に 再 現 す る た め に は、 す べ て の

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柴    田    健    志 六〇 而上学は証明しようとしている。 すなわち、 神の知性はまだ存在しなかっ たものをつねに思考している(すなわち思考することが存在を生み出す こ と に な っ て い る ) が、 人 間 精 神 が 神 の 知 性 の 一 部 分 で あ る と す れ ば、 人間精神にも「これまで存在しなかった存在を知覚」することができる と い う 思 想 で あ る。 神 に お い て は 認 識 が 存 在 を 作 り 出 す の で あ る か ら、 認 識 と そ の 対 象 は 必 然 的 に 一 致 し、 し た が っ て 認 識 は つ ね に 真 で あ る。 人間精神の認識もこの思考に一致するかぎり真である。   では、 「これまで存在しなかったもの」を認識するということは、 いっ たいどういう認識なのであろうか。いうまでもなくそれが「直観」によ る認識である (1) 。『知性改善論』 のテキストによれば 「何の操作もせず、 直観によって見る」 ( § 24 ) ことである。 「これまで存在しなかったもの」 は 既 知 の 情 報 に よ っ て は 理 解 で き な い も の で あ る。 そ れ ゆ え ス ピ ノ ザ は三段論法を真理の認識から排除している( § 21 )。そればかりでなく、 およそいかなる「推論」をも排除しているのである( § 19 )。なぜなら、 推論をおこなうには推論の規則が前提されるが、規則を適用するという ことはそこから何が出てくるかを現実にものが存在する以前に予測しう るということを意味するからである。それでは本当に「未知」のものを 認識したことにはならないということなのである。   神は「これまで存在しなかったもの」を次々に認識していく。その思 考 は 前 提 か ら 帰 結 へ と 進 む 諸 観 念 の 複 雑 な 連 鎖 を 作 り 出 し て い る。 人 間精神がこの連鎖に参入し、前提から帰結への思考をたどることができ れば、真理の認識が成立するであろう。スピノザはこれを「十全」な認 識と呼ぶ。この論理を読み流すなら、スピノザの真理論の問題点を見逃 すであろう。というのも、ここで展開されているのは、人間精神という では、これら二つの主張を両立させるには、いったいどのように考えれ ば よ い の で あ ろ う か。 「 神 の 観 念 」 か ら の 演 繹 を 創 造 的 な 過 程 と し て 考 えればよい。そうすれば、 すべてが神から出てくるにもかかわらず、 いっ たん出てきたものを神に還元することはもはやできないという論理が成 立 す る で あ ろ う。 実 際、 『 知 性 改 善 論 』 に は 次 の よ う な 考 え が 述 べ ら れ ている。   「 あ る 人 々 が、 事 物 を 創 造 す る 前 の 神 の 知 性 を 考 え る の と 同 じ よ う に、 知性がこれまで存在しなかった何らかの新しい存在を知覚したというこ とを、もしわれわれが想定するならば(そのような知覚は確かにどのよ う な 対 象 か ら も 生 じ え な か っ た )、 ま た そ の よ う な 知 覚 か ら 他 の 諸 知 覚 を正しく導くと想定するならば、このような思惟はすべて真であり、ま たいかなる外的対象によっても決定されておらず、むしろただ知性の能 力と本性にのみ依存していることになる」 ( § 71 )。 驚くべき思想が表明されているテキストである。人間精神が「これまで 知 ら な か っ た 0 0 0 0 0 0 存 在 を 知 覚 」 す る と い う の で は な い。 「 こ れ ま で 存 在 し な 0 0 0 0 か っ た 0 0 0 存 在 を 知 覚 」 す る と い っ て い る の で あ る。 ( な お、 ス ピ ノ ザ の 用 語法では、 「知覚」 とは現実に存在する対象の認知を意味するのではなく、 む し ろ 観 念 の 認 知 と い う こ と を 意 味 し て い る )。 神 が ま さ に そ の よ う に ものを認識するならば、人間精神も同じようにものを認識しうると「想 定」してみようというのである。   『 知 性 改 善 論 』 に お い て は ま だ「 想 定 」 で あ る こ と を『 エ チ カ 』 の 形

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直観知と共通概念 六一 「 思 考 す る 存 在 者 」 は つ ね に「 十 全 」 に 思 考 し て い る。 で は「 思 考 す る 存在者の一部分」であるにすぎない人間精神においてはそうならないの はなぜか。人間精神がまさに「思考する存在者の一部分」でしかないか らである。人間精神においては「思考する存在者」の「十全」な思考が そのまま保存されず「あるものは全体的にまたあるものはただ部分的に の み 」 つ ま り「 欠 損 」( § 73 ) を と も な っ て 現 れ て く る か ら で あ る。 で は、 人 間 精 神 は こ の 条 件 を い っ た い ど う や っ て 乗 越 え、 「 欠 損 」 な し に 思考しうるのであろうか。 『知性改善論』 はこの問いかけに答えていない。 したがって、この点は『エチカ』が解決すべき課題となる。   以上の考察を踏まえ、次に『エチカ』のテキストを考察しなければな ら な い。 そ の た め に、 『 知 性 改 善 論 』 に つ い て 指 摘 し た 論 点 を こ こ で も ういちど整理しておこう。 (イ)真理は「思考する存在者」から出てくる。 (ロ)真理は未知のものである。 これらの論点はすでに「神の観念」という『エチカ』の用語法によって 言及したものと同じである。すでに指摘したとおり、 (イ) (ロ)を総合 すると神の思考の創造性という解釈上の視点がえられる。この思想はそ のまま『エチカ』に継承されている。まずこの点を『エチカ』のテキス トによって再構成しなければならない。それを踏まえた上で、上記の問 いかけに対する『エチカ』の解答がどのようなものであるかという点の 考察に移ろう。 「 有 限 知 性 」 が 神 の 思 考 で あ る「 無 限 知 性 」 に 参 入 す る と い う 法 外 な 論 理なのだから。有限/無限のあいだの巨大な隔たりを強調する伝統的な 形而上学からの逸脱がここにはっきりと認められなければならない。知 識論においては新しいパラダイムを創設したデカルトでさえ、存在論に おいてはこの伝統に則って哲学を構築していたのである。この点にスピ ノ ザ 哲 学 の 異 例 性 が あ る と い う こ と を、 ジ ャ ン = リ ュ ッ ク・ マ リ オ ン はきわめて的確に指摘している。 「デカルトとは対照的に、 (・・・)有 限知性が事物の十全な認識に到達するには自らを無限知性に適合させな け れ ば な ら な い と い う ふ う に ス ピ ノ ザ は 考 え を 進 め て い っ た の で あ る 」 ( Marion  1994,  138 )。 「『 エ チ カ 』 が 理 性 に よ っ て 達 成 し よ う と し て い る ものはまさしくデカルトが人間理性には接近することができないと信じ たものと同じものなのである」 ( Marion  1994,  149 )。   と こ ろ で、 ス ピ ノ ザ の 考 え を ひ と こ と で ま と め れ ば、 「 直 観 知 」 の み が真理の認識として認定されるということになる。しかし、ということ は、もし神の思考に参入することができない場合、人間精神の認識はす べて偽である。これが「不十全」な認識と呼ばれるものである。 「 も し 真 の す な わ ち 十 全 な 思 考 を 形 成 す る こ と が、 一 見 し て 明 ら か な よ うに、思考する存在者の本性に由来するのであるとすれば、不十全な観 念とは、われわれが何らかの思考する存在者の一部分であり、その存在 の思考のあるものは全体的にまたあるものはただ部分的にのみわれわれ の精神を構成しているというただそのことによって、われわれのなかに 生み出されるということは確かである」 ( § 73 )。

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柴    田    健    志 六二 理 に よ っ て 一 般 的 に 構 築 さ れ た『 エ チ カ 』 第 一 部 の 存 在 論 を、 「 思 惟 」 および「延長」という二つの属性において具体的にとらえ直した上で知 識論へと展開するのが『エチカ』第二部であると解釈できる。この解釈 によれば、 『エチカ』第一部における神の知性に関する内容は、 『エチカ』 第二部の用語で述べ直すことができる。   『エチカ』第二部の用語法では「思惟」の「様態」が「観念」である。 そ こ で、 「 無 限 に 多 く の も の 」 が 神 の 思 考 に よ っ て 生 み 出 さ れ る と い う 上 記 の 主 張 は、 『 エ チ カ 』 第 二 部 に な る と「 観 念 」 と い う 用 語 に よ っ て 具体的にとらえられる。 「 神 の な か に は、 神 の 本 質 の 観 念 お よ び 神 の 本 質 か ら 必 然 的 に 帰 結 す る すべてのものの観念が、必然的に与えられる」 ( 2/3/P )。 こ の よ う に、 神 の「 本 質 」 つ ま り「 本 性 」( こ れ ら は ス ピ ノ ザ の 用 語 法 で は 同 義 ) か ら も の が「 帰 結 す る 」 と い う、 『 エ チ カ 』 第 一 部 定 理 1 6 と 同 じ 主 張 が、 「 観 念 」 と い う 用 語 を 導 入 し て く り 返 さ れ て い る。 さ ら に 次 の 定 理 で は、 「 神 の 観 念 」 か ら「 す べ て の も の の 観 念 」 が「 帰 結 」 するという関係が明示化されている。 「 無 限 に 多 く の も の が 無 限 に 多 く の 仕 方 で そ こ か ら 帰 結 す る と こ ろ の 神 の観念は、唯一でしかありえない」 ( 2/4/P )。 「 神 の 本 質 の 観 念 」 が「 神 の 観 念 」 と い う 短 い 表 現 に 置 き 換 え ら れ、 ま た「無限に多くのもの」という『エチカ』第一部定理16のフレーズが

  

  『エチカ』

  神の思考の創造性を主題に『エチカ』を読解する出発点として次のテ キストに注目しなければならない。 「 神 の 本 性 の 必 然 性 か ら 無 限 に 多 く の 仕 方 で 無 限 に 多 く の も の が( す な わ ち 無 限 知 性 の 下 に 生 じ う る (cadere  possunt) す べ て の も の が ) 帰 結 し なければならない」 (1/16/P) 。 「 無 限 に 多 く の も の 」 が 神 か ら 出 て く る と 述 べ る こ の 定 理 に お い て 重 要 な 点 は、 「 無 限 に 多 く の も の 」 と は「 無 限 知 性 の 下 に 生 じ う る す べ て の もの」のことであると説明されている点である。この説明によって「無 限に多くのもの」が神の思考によって生み出されているという点が示さ れていると考えられるのである。ただし、神の思考がどのようなもので あるかは『エチカ』第一部では主題的に取り扱われていない。この点が 主題になるのは『エチカ』第二部においてである。というのは、思考な いし思惟が「神の属性」であることは『エチカ』第二部になってはじめ て 証 明 さ れ る こ と だ か か ら で あ る。 「 思 惟 は 神 の 属 性 で あ る。 す な わ ち 神 は 思 惟 す る も の で あ る 」( 2/1/P )。 に も か か わ ら ず、 『 エ チ カ 』 第 一 部でスピノザは平然と「知性」に言及している。これは論点先取である ように見える。しかし、 『知性改善論』において主張されていたように、 存在の原因は思考にほかならないとすれば、知性に言及することなしに 存 在 論 を 構 築 す る こ と は で き な い。 こ の 点 を 踏 ま え れ ば、 「 知 性 」 の 原

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直観知と共通概念 六三 からである。カントが的確に述べたように( Kant  1990,  660:  B744 )、「内 角の和が二直角に等しい」 ということはたしかに 「三角形」 の性質だが、 「 三 角 形 」 の 概 念 を 分 析 し て い る だ け で は 決 し て 出 て こ な い も の な の で あ る。 こ の こ と は、 「 内 角 の 和 が 二 直 角 に 等 し い 」 と い う 性 質 が「 三 角 形」の概念にはあらかじめ含まれていないということを示している。む しろ、 「三角形の内角の和が二直角に等しい」という認識によって、 「三 角形」に関する知識が拡張されたと考えなければならないのである。   ただし、 この例には注意が必要である。というのは、 証明とは「推論」 で あ る が、 「 推 論 」 は「 未 知 の 事 物 」 を 認 識 す る 神 の 思 考 に は 相 応 し く ないものだからである。そこで次のように考えてみることができる。前 提に論理的な規則を適用することによって、たんに形式的に導かれた帰 結は確かに「未知の事物」とはいえない。しかし、ここで問題になって い る の は 作 図 に よ る 認 識 で あ る。 作 図 は 規 則 の 形 式 的 な 適 用 で は な い。 むしろ、証明の対象となっている図形に即して発想されなければならな い も の で あ る。 と い う こ と は、 こ の 証 明 の 一 連 の 操 作 を す べ て「 直 観 」 によって進むものとして理解するという視点が成立しうるであろう。   多少論点を迂回するが、この点について哲学史的な考察をつけ加えて おく必要がある。スピノザの「直観」の概念は、デカルトが『精神指導 の規則』で提示した「直観」の概念を踏襲しているという仮定が成立し うるからである。デカルトが『精神指導の規則』の草稿を書き上げたの は1628年。遺稿がオランダ語に訳されたのは1684年である。ま たラテン語版の出版は1701年になる。これだけを見ると、1676 年 に 亡 く な っ た ス ピ ノ ザ が デ カ ル ト の こ の 著 作 を 読 む 機 会 は な い。 し か し、 『 精 神 指 導 の 規 則 』 の 写 本 は 当 時 す で に オ ラ ン ダ に あ っ た。 ま た 再使用されていることから、これら三つの定理( 1/16/P,  2/3/P,  2/4/P ) が同じ主題を取り扱っているという点が明瞭に理解しうる。そこで、こ れ ら の 定 理 に 共 通 し て 使 用 さ れ て い る「 帰 結 す る( sequi )」 と い う 用 語 に 注 目 し な け れ ば な ら な い。 「 帰 結 す る 」 と い う 用 語 で 表 現 さ れ る の は いったいどのような関係なのであろうか。 この点を説明するにあたって、 スピノザは数学を例に出す。 「 神 の 至 高 の 力 あ る い は そ の 無 限 の 本 性 か ら、 無 限 に 多 く の も の が 無 限 に多くの仕方で、言い換えればあらゆるものが、必然的に流出したこと あるいはつねに同一の必然性によって帰結すること、またそれは三角形 の本性からその三つの角が二直角に等しいことが永遠から永遠に帰結す るのと同じ仕方においてであること、これらのことを私は十分明瞭に示 したと思う」 (1/17/S) 。 数学において「三角形の本性からその三つの角が二直角に等しいことが 帰結する」のと同じように、神から「無限に多くのものが帰結する」の であるという。これをもとに「帰結する」という用語の意味を考えてみ な け れ ば な ら な い。 一 見 し て 明 ら か な 点 は、 「 三 角 形 」 を 思 考 し な け れ ば「内角の和が二直角に等しい」ということは思考できないという点で ある。 しかしこのことは、 「三角形」 の概念に 「内角の和が二直角に等しい」 という性質がはじめから含まれているということを意味しない。という の は、 「 内 角 の 和 が 二 直 角 に 等 し い 」 と い う こ と を 認 識 す る に は、 ユ ー クリッドの『原論』第一部定理32証明で示されているように、補助線 を書き加えた上で三角形の三つの角を直線上に移しかえる操作が必要だ

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柴    田    健    志 六四 この点にスピノザ固有の発想がある。   そ れ で は 以 上 の 迂 回 を 経 て、 「 帰 結 す る 」 と い う 用 語 の 解 釈 を ま と め てみよう。 「三角形」 がなければ出てこないが、 だからといって 「三角形」 のなかにあらかじめ存在したのではないものが出てくること、 しかも 「三 角形」の概念の外にではなくまさしく「三角形」の概念のうちに発現す ること、これが「帰結する」という用語の意味である。また、神の思考 が「前提」から「帰結」への演繹であることは、神の思考が「直観」に よって進むという点に何ら矛盾しないと考えられるのである。   では、この意味を「神の観念」に当てはめると、いったいどうなるの であろうか。 「神の観念」がなければ出てこないが、 だからといって「神 の観念」のなかにあらかじめ存在したのではないものが、まさしく「神 の観念」そのもののうちに「無限に多くの仕方で」出てくること、これ が神の思考であるということになる。スピノザはこれを「神の属性の変 容( affectio )」 ( 1/30/P ) と い う 概 念 に 集 約 し て い る。 『 知 性 改 善 論 』 の 言葉を使えば、 神のうちに発現するものは神にとってさえ「未知の事物」 で あ る と い う こ と な の で あ る。 『 エ チ カ 』 の い う「 無 限 に 多 く の も の 」 とはすべてそのような「未知の事物」であることになる。この意味にお いて神の思考はつねに「直観」によって進む創造的なものであるといい うるのである。

  

  『知性改善論』から『エチカ』への展開

  以 上 は『 エ チ カ 』 の テ キ ス ト に よ っ て 再 構 成 さ れ た 神 の 思 考 で あ る。 オ ラ ン ダ 語 訳 者 の グ ラ ー ツ ェ マ ー ケ ル は ス ピ ノ ザ の 著 作 の オ ラ ン ダ 語 訳 者 で も あ り、 実 際 に ス ピ ノ ザ と 交 流 が あ っ た( Meinsma  1983,  514 )。 以 上 の よ う な 事 情 を 考 慮 す る と、 ス ピ ノ ザ が こ の 著 作 を 読 ん だ か、 あ る い は そ の 内 容 に つ い て 知 っ て い た と 仮 定 す る こ と は 十 分 可 能 で あ る ( Sanchez  Estop  1987,  58 )。 ス ピ ノ ザ に と っ て、 神 の 思 考 は 前 提 か ら 帰 結へと進む演繹的なものだが、演繹のひとつひとつのステップは推論で はなく「直観」によるものであると考えられる。このアイデアがデカル トに由来していると仮定すれば次のような説明が成り立つ。   デ カ ル ト に と っ て、 「 直 観 」 は「 推 論 」 な い し「 演 繹 」 に 対 立 す る も のではなく、むしろそれらにとって不可欠のものとされている。 「 直 観 の こ の よ う な 明 証 性 と 確 実 性 は、 た ん に 命 題 に と っ て だ け で な く、 さ ら に ま た ど の よ う な 推 論( discursus ) に と っ て も 要 求 さ れ る 」 ( Descartes  1996b,  369 )。 すなわち、 「推論」 ないし 「演繹」 を構成するひとつひとつのステップが 「直 観 」 に よ る も の で あ る と い う こ と が、 「 推 論 」 な い し「 演 繹 」 の 確 実 性 を保証すると考えられるのである。この意味において「直観と演繹のあ い だ に 本 性 の 差 異 は 存 在 し な い 」( Brunschvicg  1993,  141 ) と い う こ と になる。ロックもまたこの考えに従っている。ロックによれば、観念の 連 鎖 か ら な る「 論 証 的( demonstrative )」 な 認 識 に お い て も「 直 観 な し には真理と確実性に到達することはできない」 ( Locke  1975,  531 )。デカ ルトもロックも人間知性がおこなう認識について述べているのだが、ス ピ ノ ザ は 神 の 思 考 に お い て は つ ね に こ う し た 認 識 が 成 立 す る と 考 え た。

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直観知と共通概念 六五 て、それらはすべて「虚偽」 ( 2/35/P )である。   では、いったいどうして「身体の変容の観念」にもとづく認識は「十 全」ではありえないというのであろうか。この認識が思考それ自体の内 的な展開になっておらず、むしろ思考に対して外的な作用の結果に思考 が追従しているだけだからである。つまり人間精神が「内部から決定さ れ」 ( 2/29/S ) ておらず、 まったく反対に 「外部から決定され」 ( 2/29/S ) てしまっているからである。前提から帰結への演繹が重要なのは、それ が「これまで存在しなかったもの」を思考することだからである。これ が存在についての真の思考であるとすれば、すでに存在しているものの 相互作用の結果に追従することは、真の思考からの逸脱である。それが 思考の「欠損」にほかならない。スピノザにおいて「感覚経験」による 認識が真理の認識から除外される理由はここにある。   しかし、 そうであるとすれば、 人間精神の認識はほとんどの場合に「十 全」なものとはいえないであろう。人間はものを認識する際に「感覚経 験」に頼っているからである。これに対し、ものを認識するという作用 が同時にものを存在に決定することであるような場合にのみ、人間精神 の認識は「十全」なものとして認められるのである。しかし、そのよう なことが本当にありうるのであろうか。つまり、 「これまで存在しなかっ たもの」が存在に決定されることそれ自体を思考するというようなこと が、人間精神に起こりうるのであろうか。起こりうるとすれば、人間精 神が神の思考に一致するかぎりにおいてのみである。そこで問わなけれ ばならないのは、人間精神が神の思考に参入しそれと一致するという論 理 が ど う や っ て 成 立 す る の か で あ る。 『 知 性 改 善 論 』 に お い て は 掘 り 下 げられなかったこの問いかけに『エチカ』は答えなければならない。 で は、 人 間 精 神 の 思 考 は い っ た い ど う な る の で あ ろ う か。 「 存 在 す る も の は す べ て 神 の な か に 存 在 す る 」( 1/15/P ) と い う ス ピ ノ ザ の 内 在 性 の 哲学において、人間精神とは神の思考によってもたらされる「無限に多 くのもの」 のひとつである。 ということは、 人間精神は神にとってさえ 「未 知の事物」として認識されているということになる。では、人間精神と いう「未知の事物」は、人間精神自身にとってはいったいいかなるもの なのであろうか。   人間精神は神の思考の一部分である。いや、一部分でしかないがゆえ に 人 間 精 神 の 認 識 に は「 欠 損 」 が 生 じ る。 こ の よ う な 考 え が『 エ チ カ 』 で は 体 系 的 に 述 べ ら れ て い る。 す で に 言 及 し た「 十 全 」「 不 十 全 」 と い う 用 語 も、 『 知 性 改 善 論 』 で 素 描 さ れ た 思 想 を 立 体 的 に 表 現 す る も の と な っ て い る。 重 要 な 点 は、 「 不 十 全 」 な 観 念 が 生 じ る 構 造 を 解 明 す る 理 論 的 な 道 具 立 て と し て、 『 エ チ カ 』 に お い て「 身 体 の 変 容 」 と い う 論 理 が 導 入 さ れ た と い う 点 で あ る。 『 知 性 改 善 論 』 の い う「 欠 損 」 は こ の 論 理によって語り直される。   人間身体が外部の物体によって刺激されることによって、人間身体に は 「変容 ( affectio )」( 2/13/D ) が生じる。これが 「身体の変容」 である。 いわゆる「感覚経験」がこう呼ばれているのである。また、人間精神の なかには「身体の変容」についての認識がある。それは「身体の変容の 観念」 ( 2/19/P )と呼ばれる。 「感覚経験」による認識のことである。   と こ ろ で、 人 間 精 神 が こ の 観 念 を と お し て「 外 部 の 物 体 」( 2/26/P ) お よ び「 人 間 身 体 」( 2/27/P ) さ ら に は「 人 間 精 神 」( 2/29/P ) を 認 識 する限り、 それらのどれひとつとして 「十全」 に認識することができない。 つまり、 「身体の変容の観念」 は神の思考に一致しないのである。 したがっ

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柴    田    健    志 六六 ができる。そのような認識が 「表象 ( imaginatio )」 である。これは 「不 十全」 な認識である。すでに存在したものを 「想起」 することもやはり 「不 十全」 な認識に入る。なぜなら 「想起」 とはかつて生じた 「身体の変容」 の「 痕 跡 」( 2/18/D ) が 再 活 性 化 さ れ る こ と で 成 立 す る と 考 え ら れ る か らである。これに対し、身体がまさに存在に決定されることの認識であ れば、 「十全」な認識となるであろう。実際、 神が人間身体について持っ ている認識とはそのようなものである。 「 し か し 神 の な か に は、 こ の あ る い は あ の 人 間 身 体 の 本 質 を 永 遠 の 相 の もとに表現する観念が必然的に与えられている」 ( 5/22/P )。 このテキストに見出される「このあるいはあの人間身体」とは、すでに 存在する身体を指示するのではない。これまで存在しなかった身体、つ まりまさに存在に決定されるところの身体である。ではなぜそのような 身体の認識を「永遠の相のもとに」と表現しなければならないのであろ うか。すでに存在しているものを認識する際には以前/以後という時間 の概念が適用できるが、これまで存在しなかったものを認識する際には こ の 概 念 は 意 味 を な さ な い。 「 永 遠 は 時 間 に よ っ て 定 義 で き な い し、 時 間 に 対 し て 何 の 関 係 も 持 ち え な い 」( 5/23/S )。 す な わ ち 時 間 の 概 念 に よっては説明できないものを「永遠」と呼んでいると解釈できるのであ る。そのような仕方で「神の観念」のなかに「帰結」する観念こそ「人 間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念」にほかならない。   ス ピ ノ ザ は こ の 観 念 が「 〔 人 間 〕 精 神 の 本 質 に 属 し、 必 然 的 に 永 遠 で あ る よ う な あ る 思 惟 の 様 態 」( 5/23/S ) で あ る と い う。 こ の テ キ ス ト は   と こ ろ が、 『 エ チ カ 』 に は こ の 問 い か け に た い す る 明 示 的 な 解 答 は 見 出されない。そのかわり、人間精神にとって「直観知」は可能であると い う 論 理 が 提 示 さ れ て い る だ け で あ る。 し か し、 こ の 論 理 を い く ら た どっても、いかにしてその認識にたどり着くことができるのかという根 本 的 な 疑 問 は 解 消 さ れ な い。 た し か に 、 ス ピ ノ ザ は 人 間 精 神 が 「 直 観 知 」 に 到 達 す る 条 件 を 説 明 し て い な い 。 し か し、 私 の 解 釈 に よ れ ば、 ス ピ ノ ザは説明とは別の方法でこの条件を読者に伝達している。では「別の方 法」 とは何か。 『エチカ』 を構成する定理の証明である。つまり 『エチカ』 を理解することによって「直観知」への通路が開かれるのである。そう で あ る と す れ ば、 「 直 観 知 」 に 関 す る 明 示 的 な 説 明 が 以 下 の よ う な 形 式 的 な 議 論 に 終 止 し て い る こ と は 何 ら 問 題 で は な い。 『 エ チ カ 』 第 五 部 ま で を す で に 理 解 し た 読 者 に と っ て は、 「 直 観 知 」 の た ん な る 可 能 性 が 論 理的に示されれば十分なのだ。この視点から『エチカ』第五部のテキス トを再構築しておかねばならない。   人間身体に「変容」が生じるということは、人間身体がすでに存在し 持続しているということを意味している。このことは、人間精神があら ゆる対象をすでに存在するものとして認識する前提となっている。この 点にまず注目しなければならない。 「 人 間 精 神 は 身 体 の 持 続 が な け れ ば 何 も 表 象 す る こ と が で き ず、 ま た 過 去の事物について何も想起することができない」 ( 5/21/P )。 「身体の持続」つまり身体がすでに存在していることを前提する限りで、 人間精神はあらゆるものをすでに存在しているものとして認識すること

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直観知と共通概念 六七   ( 1) の 用 法 は 実 体( 神 ) の 本 質 か ら も の が 生 み 出 さ れ る 過 程 を 指 し て い る。 実 体( 神 ) が「 変 容 」 す る こ と に よ っ て「 無 限 に 多 く の も の 」 が生成するのである。神自身に 「変容」 をもたらすのは神の思考である。 神の思考とは『知性改善論』の言葉でいえば「未知の事物」を認識する こ と な の で、 つ ね に「 直 観 」 に よ っ て 進 む。 『 エ チ カ 』 の い う「 人 間 身 体の本質」とはこのような認識の対象としての人間身体のことである。   ( 2) の 用 法 は 実 体( 神 ) の 思 考 に よ っ て す で に 生 み 出 さ れ た も の が 外部から作用を受けることで生じる状態を指している。事物それ自体が すでに実体(神)の「変容」であるから、この場合の「変容」とはいわ ば「変容」の「変容」であるといってよい。スピノザが「本質」と区別 して「現実存在」と呼ぶのはこの意味での「変容」を被った身体のこと である。   さて、重要なのは実体(神)の「変容」としての人間身体と外部から の作用によって 「変容」 した人間身体は同じものであるという点である。 つ ま り、 「 本 質 」 と「 現 実 存 在 」 は 存 在 の ふ た つ の 次 元 を あ ら わ し て い るにすぎない。   「 現 実 存 在 」 の 次 元 と は 人 間 身 体 が す で に 他 の 事 物 と 相 互 作 用 を お こ なっている次元である。この次元では人間身体はありのままに認識され ることができず、ただ外部からの作用の結果をとおして認識されている にすぎない。外部の対象も自己の身体の状態すなわち「変容」をとおし て認識されている。 この認識は 『エチカ』 の用語法では 「表象 (imaginatio) 」 である。 この用語は 『知性改善論』 でも同じ意味で使用されている ( § 84 )。 「 表 象 」 と は 対 象 そ れ 自 体 の 存 在 に 関 す る 認 識 で は な く、 対 象 が 自 己 の 重要である。なぜなら、神の思考の一部分である人間精神には、自己の 身体をこれまで存在しなかったものとして認識することができるという ことがこのテキストで肯定されているからである。いうまでもなく、そ れが「直観知」である。   こ の よ う に、 以 上 の 論 理 が 明 ら か に し て い る こ と は、 「 感 覚 経 験 」 と 「推論」のみによって認識している人間精神にとっても、 それらとはまっ たく異なる 「直観知」 という認識が成立しうるという可能性のみである。 その可能性が実現するためには、人間精神と神の思考とのあいだにある 「 天 と 地 ほ ど 」 の 隔 た り が 埋 め ら れ な け れ ば な ら な い は ず だ が、 で は ど うやってそれを埋めるのかという点はまったく説明されていない。しか し、 私の解釈によれば、 この点に関する説明を期待することがすでに誤っ ている。なぜなら、スピノザは説明するかわりに、定理の証明という形 で 読 者 に 対 し て そ れ を ダ イ レ ク ト に 示 し て い る と 思 わ れ る か ら で あ る。 最後にこの解釈を述べなければならない。そのために、これまであえて 言及してこなかった「共通概念」に眼を向ける必要がある。

  

 

共通概念

  『 エ チ カ 』 の 用 語 法 で 注 意 し な け れ ば な ら な い 点 は、 「 変 容 (affectio) 」 という用語が二つの異なったレベルで用いられているという点である。 (1) 「神の属性の変容」すなわち「様態」 (2) 「身体の変容」

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柴    田    健    志 六八 人間身体というものがいかにして存在に決定されるかという認識が与え られる。それが『エチカ』における定理の証明である。   証明は「一般概念」ではなく実体(神)の本質から導き出された「共 通概念」 ( 2/40/S.1 )を使ってなされる。 「共通概念」 とは 「公理」 ( 1/8/S.2 ) の こ と な の で あ る。 「 共 通 概 念 」 と「 一 般 概 念 」 は 次 の 点 に お い て 明 瞭 に 異 な る。 す で に 述 べ た よ う に、 「 一 般 概 念 」 と は 対 象 そ れ 自 体 で は な くむしろその意味を表示するものにすぎない。これに対し、 「共通概念」 とはあらゆる 「観念」 に含まれる 「神の永遠かつ無限の本質」 ( 2/45/P ) の概念である。問題はこれがいったい何を意味するかである。   あ ら ゆ る も の が 神 の 思 考 に よ っ て 存 在 に 決 定 さ れ て い る と 考 え る な ら、 そ れ ら す べ て の も の の 観 念 に 共 通 す る「 神 の 永 遠 か つ 無 限 の 本 質 」 とは、いわば神の思考の秩序であろう。その秩序は人間精神に理解でき る も の で あ る は ず で あ る。 と い う の は、 「 神 の 永 遠 か つ 無 限 の 本 質 」 は 「 す べ て の も の に 共 通 」( 2/46/D ) で あ り、 し た が っ て 諸 事 物 と 人 間 身 体との相互作用から生じる「身体の変容の観念」という「不十全」な観 念にも含まれていると考えられるからである。それゆえ、人間精神には 現実に「共通概念」が与えられていると考えられるのである。それを抽 出したものが『エチカ』の「公理」となっていると考えられる。ちなみ に、 『 エ チ カ 』 第 一 部 の 公 理 は 7 個、 第 二 部 の 公 理 は 5 個、 第 三 部 に は 公理がなく(これは第三部の定理が第二部と連続していることを示して いる) 、第四部の公理は1個、第五部の公理は2個となっている。   スピノザは 「共通概念」 は「十全」 ( 2/38/P )であるという。というのは、 「 共 通 概 念 」 と は 神 の 思 考 の 秩 序 で あ る と す れ ば、 神 の ど ん な 思 考 も そ れ を 前 提 し て い る と 考 え ら れ る か ら で あ る。 つ ま り、 「 共 通 概 念 」 と は 身体にとってどのような意味をもっているかを表示するような認識であ る。したがって、 スピノザのいうように、 それは「一般概念」 ( 2/40/S.1 ) へ と 発 展 す る。 「 一 般 概 念 」 と は 同 種 の 個 体 間 の 差 異 を 捨 象 し、 あ ら ゆ る個体を同一性のなかに吸収することによって、対象の存在をその意味 へ還元して認識させる回路であると考えられるからである。   こ れ に 対 し て、 「 本 質 」 の 次 元 と は 人 間 身 体 の 存 在 そ の も の が 認 識 さ れる次元である。この次元で人間身体を認識するには、他の事物との相 互作用のなかにとどまっていることはできない。というのも、この次元 においては「身体の変容」を前提せずに人間身体が認識されるからであ る。 「 精 神 は 永 遠 の 相 の も と に 認 識 す る 各 々 の も の を、 身 体 の 現 在 の 現 実 存 在を概念することによってではなく、身体の本質を永遠の相のもとに概 念することによって認識する」 ( 5/29/P )。 と こ ろ が 問 題 は こ の 先 に あ る。 「 現 実 存 在 」 の 次 元 は 人 間 精 神 に よ っ て 認 識 で き る が、 「 本 質 」 の 次 元 は も と も と 神 に 固 有 の 認 識 領 域 だ か ら で ある。人間精神がいっきにこの認識領域に踏み込むと主張することはで きない。いや、そのように主張することはできるが、それではたんなる 神秘主義になってしまうであろう。それゆえ、 「現実存在」から「本質」 へと接近するための中間的な領域がなければならない。では、そのよう な 領 域 は い っ た い ど こ に 見 出 さ れ る の で あ ろ う か。 『 エ チ カ 』 と い う テ キストそれ自体がまさにそのような領域であると認められる。そこでは 個 々 の 人 間 身 体 の 本 質 が い か に し て 存 在 に 決 定 さ れ て い る か で は な く、

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直観知と共通概念 六九 「 す べ て の も の に 共 通 で あ り、 ひ と し く 部 分 の な か に も 全 体 の な か に も あるものは、どのような個物の本質をも構成しない」 ( 2/37/P )。 しかし、 この延長線上に「直観」があることをテキストが明言している。 「 諸 事 物 を 第 三 種 の 認 識〔 「 直 観 」〕 に よ っ て 認 識 す る と い う コ ナ ト ゥ ス な い し 欲 望 は、 第 一 種 の 認 識〔 「 表 象 」〕 か ら 生 じ る こ と は で き な い が、 第二種の認識〔 「共通概念」 〕から生じることはできる」 ( 5/28/P )。 こ の「 欲 望 」 は い っ た い 誰 に 生 じ る の で あ ろ う か。 『 エ チ カ 』 の 読 者 に 生 じ る の で あ る。 『 エ チ カ 』 の 証 明 を 理 解 す る あ い だ、 人 間 精 神 は 人 間 身 体 と い う も の が 存 在 に 決 定 さ れ て い く こ と に つ い て の 思 考 に 参 入 す る。この思考は「共通概念」によるのだから特定の人間身体の存在につ いては認識できない。しかし、このような「十全」な思考に参入してい る限りにおいて、人間精神は「身体の変容の観念」の連鎖からなる「不 十 全 」 な 思 考 と は 異 な っ た 次 元 に 置 か れ る こ と に な る。 「 直 観 知 」 へ 向 かう「欲望」はこの次元に固有の「欲望」である。   ち な み に『 知 性 改 善 論 』 の 用 語 法 で は「 知 性 (intellectus) 」( § 84 ) と い う 用 語 が「 表 象 」 に 対 立 す る 認 識 を 指 し て 使 用 さ れ て い る。 「 知 性 」 に は「 直 観 」 と「 理 性 」 が 含 ま れ る は ず で あ る が、 『 知 性 改 善 論 』 で は そ の 点 が じ つ は は っ き り し な い。 「 知 性 」 が「 直 観 」 を 含 む こ と は 間 違 いないのだが、それと同時に「理性」をも含むかどうかという点は曖昧 で あ る。 「 理 性 」 と は 推 論 に よ る 認 識 で あ る が ゆ え に「 直 観 」 の み を 真 理とみなす『知性改善論』の真理論のなかではその位置づけが十分にな それがなければものが存在するということ自体が思考できないものであ る と 考 え ら れ る の で あ る。 こ の 解 釈 の た め の 例 と し て、 『 エ チ カ 』 第 1 部公理1を引用してみよう。 「 存 在 す る す べ て の も の は、 そ れ 自 身 の う ち に 存 在 す る か、 ま た は 他 の もののうちに存在するかである」 ( 1/1/A )。 こ の よ う に、 も の の 存 在 を 思 考 す る た め の 最 も 基 本 的 な 秩 序 が「 公 理 」 と し て 掲 げ ら れ て い る。 『 エ チ カ 』 の 読 者 に そ の「 公 理 」 が 理 解 で き る ということは、読者が実際に「共通概念」を持っているということを示 し て い る。 だ か ら こ そ『 エ チ カ 』 は 理 解 可 能 な の で あ る。 『 エ チ カ 』 を 読むことで、読者はそれまでとは違った仕方でものを認識することにな る。 す な わ ち、 「 感 覚 経 験 」 に も「 一 般 概 念 」 に よ る「 推 論 」 に も よ ら ずに現実存在するものを認識することになる。人間身体がどんなふうに し て 存 在 に 決 定 さ れ て い る か が 認 識 さ れ る か ら で あ る。 『 エ チ カ 』 の 用 語法ではこの認識が 「理性」 ( 2/40/S2 )と呼ばれるのである。 重要な点は、 「 共 通 概 念 」 に よ っ て 認 識 す る と き、 人 間 精 神 が 神 の 思 考 と 同 じ 秩 序 に よ っ て も の を 認 識 し て い る と い う 点 で あ る。 こ う し て、 『 エ チ カ 』 の 読 者においては、人間精神と神の思考とのあいだに認められる「天と地ほ ど 」 の 隔 た り が、 そ う と 説 明 さ れ な い ま ま 埋 め ら れ て い く こ と に な る。 た だ し、 「 共 通 概 念 」 に よ る 認 識 は あ く ま で 人 間 精 神 の 認 識 で あ っ て 神 の 思 考 そ の も の で は な い。 「 共 通 概 念 」 に よ っ て 認 識 さ れ る の は 人 間 身 体の「本質」という個別的な存在ではないからである。

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柴    田    健    志 七〇 人間精神の思考は 「感覚経験」 によってすでに存在するものをとらえ、 「一 般概念」 を用いてそれらについて 「推論」 することである。このように、 神の思考と人間精神の思考の間には明らかな断絶がある。伝統的な形而 上学においてはこれらの断絶が強調されている。すなわち、人間精神の 思考が神の思考に参入するというようなことは考えられないことだった のである。しかし、神の思考こそ真理であるとすれば、人間精神は「感 覚経験」や「推論」によってもたらされるものをいわば真理の代用品と して受け容れるほかない。スピノザが拒否したのはこのような思想であ る。したがって、神の思考と人間精神の思考のあいだに認められる隔た りをいかにして埋めることができるかという点が、スピノザの哲学の重 要な課題となる。   『知性改善論』においてはこの課題は放置されたままであった。 『エチ カ 』 は こ の 課 題 に ひ と つ の 解 決 を 見 出 す。 そ れ が「 共 通 概 念 」 で あ る。 神の思考は規則にしたがう「推論」ではない。しかし、あらゆるものが 神の思考によって存在に決定されているのだとすれば、どんなものの観 念にも神の思考の秩序が含まれていなければならない。すでに引用した 『 エ チ カ 』 の「 公 理 」 を も う い ち ど 引 用 す る と、 そ れ ら の 秩 序 は「 存 在 するすべてのものは、それ自身のうちに存在するか、または他のものの う ち に 存 在 す る か で あ る 」( 1/1/A ) と い う よ う な、 も し こ れ が 否 定 さ れたら存在についての思考が成立しなくなってしまうようなものとして とらえることができる。重要な点は、これらがすべてのものに共通であ るがゆえに、たんなる「感覚経験」をとおして人間精神に与えられるこ とができるという点である。つまり、神が存在を思考するときの秩序が 人間精神にもそっくり与えられている。ちなみに、神の思考の秩序は神 されていないのである。この点をはっきりさせたのが 『エチカ』 である。 「身体の変容」の認識それ自体は「表象」である。しかし「身体の変容」 が い か に し て 生 じ る か に つ い て の 理 解 は そ う で は な い。 『 エ チ カ 』 の 用 語 で い え ば、 『 知 性 改 善 論 』 は「 身 体 の 変 容 」 の 認 識 と「 身 体 の 本 質 」 の認識を区別しただけである。 『エチカ』はそのあいだに「身体の本質」 は 説 明 で き な い が に も か か わ ら ず「 十 全 」 で あ る と み な す こ と の で き る認識( 「共通概念」による認識)を見出したのである。 「共通概念」に よ る 推 論 を「 十 全 」 な 認 識 と し て 認 め た こ と に よ っ て、 『 エ チ カ 』 の 真 理論はある意味で譲歩している。実際、アルキエによれば「このような 概念を規定するまでスピノザは長く躊躇していた」 ( Alquié  1981,  193 )。 し か し こ の 点 で 譲 歩 し な け れ ば、 「 直 観 」 に よ る 認 識 が ど の よ う な 条 件 のもとに成立するのかという点は依然として謎であったであろう。   このように、人間精神が「直観知」に接近する方法は『エチカ』を理 解することそれ自体によって与えられると解釈できる。読者はそのよう な説明をいっさい与えられない。しかし『エチカ』を読むことそれ自体 が神の認識領域に身を置くことになっているのである。

  

おわりに

  以上のストーリーを要約してみよう。神の思考は前提から帰結へと進 む演繹であるが、演繹のあらゆるステップは「直観」によって構成され ている。神によって認識されるのは「これまで存在しなかった」もので あ る。 そ れ ら を 認 識 す る に は「 直 観 」 に よ る ほ か な い。 こ れ に 対 し て、

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直観知と共通概念 七一 ( § 72 )がえられるというものである。この例の特徴は、 この場合の「球 の概念」 がまったく 「感覚経験」 にも 「一般概念」 にも依存しておらず、 ただ知的な操作によって認識されているという点である。しかし、まさ にこの点において「真の観念」は「共通概念」と異なる。   「 球 の 概 念 」 は ス ピ ノ ザ 自 身 が い う よ う に「 そ の 対 象 が わ れ わ れ の 思 惟 能 力 に 依 存 し て お り、 自 然 の な か に 何 ら か の 対 象 を 持 た な い こ と を われわれがきわめて確実に知っているところの、ある真の観念」 ( § 72 ) で あ る。 こ れ に 対 し、 「 共 通 概 念 」 と は あ ら ゆ る も の を 存 在 に 決 定 す る 神の思考の秩序であり、したがってその秩序によって思考されるのは実 在的なものである。   では、 「真の観念」から「共通概念」への展開はどのようにして起こっ た の で あ ろ う か。 こ の 点 は 推 測 し て み る し か な い。 ─ ─『 知 性 改 善 論 』 の時点で人間精神のなかに「真の観念」があるという点にスピノザはす で に 気 づ い て い た。 し か し、 『 知 性 改 善 論 』 は「 感 覚 経 験 」 と「 知 性 」 を 峻 別 す る と い う 合 理 主 義 の 精 神 に あ ま り に 忠 実 で あ っ た。 そ の た め 「 真 の 観 念 」 が「 感 覚 経 験 」 を と お し て 暗 黙 (2) に 与 え ら れ て い る と い う 点まで掘り下げて認識することができなかった。この意味において「真 の 観 念 」 の 内 容 は あ ま り に 表 面 的 で あ る と い わ ざ る を え な い。 「 真 の 観 念 」 と は「 共 通 概 念 の 抽 象 的 観 念 」( Deleuze  1981,  156 ) で あ る と ド ゥ ルーズがいうのはこのことである。しかし、スピノザはここで挫折しな か っ た。 「 感 覚 経 験 」 の な か に 暗 黙 に 含 ま れ て い る も の こ そ 実 在 を 思 考 するために不可欠のものであるという点を見極め、 「真の観念」 を 「公理」 として設定することによって『エチカ』を構想したのである。 の外にあるのではなく神の本性そのものである。 「 神 は た だ 自 己 の 本 性 の 諸 法 則 に よ っ て、 な に も の に も 強 制 さ れ ず に 活 動する」 ( 1/17/P )。 神の「本性の諸法則」が作り出す秩序を「公理」として設定し、人間精 神 お よ び 人 間 身 体 が 存 在 に 決 定 さ れ る 論 理 を 組 み 立 て た の が『 エ チ カ 』 で あ る。 い う ま で も な く、 「 定 理 」 の「 証 明 」 は「 推 論 」 で あ り、 神 の 思 考 は「 直 観 」 で あ る か ら、 『 エ チ カ 』 に よ っ て た だ ち に 人 間 精 神 が 神 の 思 考 に 一 致 す る わ け で は な い。 し か し、 「 直 観 」 に よ っ て 存 在 を 理 解 す る こ と へ の「 欲 望 」 が こ こ か ら 発 生 す る の で あ る。 こ の こ と は、 『 エ チカ』を読むことによって人間精神がすでに神の認識領域に身を置いて いるということを意味している。   最後に考えておかなければならないことは、スピノザがこんなアイデ アをいったいどこから思いついたのかという点である。このアイデアの 萌 芽 は す で に『 知 性 改 善 論 』 の な か に あ る。 「 真 の 観 念 」( 33 ) で あ る。 ただし、 これが「共通概念」そのものであるということはできない。 『知 性改善論』は人間精神には「真の観念」があるということを認めること か ら 出 発 し て い る。 『 知 性 改 善 論 』 が 説 く 哲 学 の 方 法 は「 真 の 観 念 が い か な る も の で あ る か を 理 解 」( § 37 ) す る こ と を 不 可 欠 の 手 続 き と し て 含 む。 し た が っ て 事 物 で は な く「 観 念 」 が 考 察 の 対 象 で あ る。 「 方 法 と は反省的認知ないし観念の観念以外の何ものでもない」 ( § 38 )。 では、 「真 の観念」とは具体的にどういったものなのか。スピノザは幾何学から例 を出す。 「半円が中心の周りを回転する」 ( § 72 )ことによって 「球の概念」

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柴    田    健    志 七二 ・ Descartes  1996b,  Regulæ ad directionem ingnii,  Adam  &   Tannery(eds.);  Œuvres X,  Vrin ・ Euclid  1956,  Heath(ed.);  The Thirteen Books of Euclid ’s Elements VOL.1,  Dover ・ Kant  1990,

 Kritik der reinen Vernunft,

 Meiner ・ Lo ck e 1975,  Nidditch(ed.);  An Essay concerning Human U nd er sta nd in g,  Oxford ・ Marion,  Jean-Luc  1994,  “Aporias  and  the  Origins  of  Spinoza ’s  Theory   of  A de qua te  Ide as, ”  Spi noz a on K now ledg e an d Hu m an M ind ,  Brill ・ Meinsma,  K.O.  1983,  Roosenburg(trad.);

 Spinoza et son Cercle,

 Vrin ・ Sanchez  Estop,  Juan  Domingo  1987,  “Spinoza,  Lecteur  des  Regulæ,”  

Revue des Sciences Philosophiques et Théologiques

   凡例 『 知 性 改 善 論 』( Tractatus de Intellectus Emendatione ) の 参 照 箇 所 は 節 番 号 を本文中に挿入する。 『エチカ』 ( Ethica )の参照箇所は以下の略号を用いて本文中に挿入する。 公 理 → A   定 理 → P   証 明 → D   系 → C   注 解 → S   【 例 】『 エ チ カ 』 第 1 部 定理25→ 1/25/P 使用テキスト Gebhardt(ed.)  1972,

 Spinoza Opera II,

 Heidelberg    注 (1)   「 真 理 が「 一 致 」 に よ っ て 規 定 さ れ る と し て も、 前 も っ て 与 え ら れ て い る 対 象 の 把 握 が こ の 一 致 で あ る と は 考 え ら れ な い 」。 「 ス ピ ノ ザ の い う 直 観 は 思 考 の 創 造 的 な 力 に 全 面 的 に 結 び つ け ら れ て い る 」( Brunschvicg   1951:  81 )。 (2)   この結果、 『知性改善論』 における 「真の観念」 は非常に曖昧な概念になっ て い る。 『 知 性 改 善 論 』 に お い て 真 理 と 認 定 さ れ る の は「 直 観 知 」 だ け である。それなら 「真の観念」 とは 「直観」 によるものなのであろうか。 少 な く と も そ の よ う な 説 明 は ま っ た く 与 え ら れ え て い な い。 で は な ぜ そ れが「真」であるといえるのか。この疑問にスピノザは答えていない。    文献 ・ Alquié,  Ferdinand  1981,

 Le Rationalisme de Spinoza,

 PUF ・ Brunschvicg,  Léon  1993,  Les Étpes de la Philosophie Mathématique,   Blanchard ・ Brunschvicg,  Léon  1951,

 Écrits Philosophiques tomeI, PUF

Deleuze,

 Gilles

 1981,

 Spinoza philosophie pratique,

 Minuit ・ Descartes  1996a,  Meditaitones de Prima Philosophia,  Adam  &   Tannery(eds.);  Œuvres VII,  Vrin

参照

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