台北高等商業学校の商業教育について
著者
渡辺 邦博
雑誌名
経済学論究
巻
67
号
1
ページ
65-104
発行年
2013-06-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/11306
台北高等商業学校の商業教育について
Commercial Education
in Taihoku College of Commerce
渡 辺 邦 博
The commercial education of the Taihoku College of Commerce (established in Taiwan in 1919) was based on the curriculum of the Tokyo College of Commerce (established in 1884), and the school had an educational feature at the point that adopted the subjects related to the local matters such as South China and the South Pacific circumstances and trained the talented business men who developed Taiwan, South China and the South Pacific.In this article, we examine the periodicals which Taihoku College of Commerce published, and check the feature of the education that this college presented.
If we examine three periodicals (Nanshinanyokenkyu 南支南洋研
究,Nanpoukeizai 南方経済, Houyoku 鵬翼), while the staffs wrote a lot of articles that relate to South China and the South Pacific, this school had continuously published academic papers concerning the humanities and the social sciences as well.
Kunihiro Watanabe
JEL
:
B220
キーワード:商業教育、高等商業学校、台湾、経済学の制度化、旧日本 Keywords:commercial education, college of commerce, Taiwan,
institutionalization of economics, Imperial Japan
1. はじめに
本稿は、第二次世界大戦終結以前の旧日本が設置した高等教育機関の中で、
高等商業学校と称されるもののうち、台北に存在した台北高等商業学校(以下
台北高商と略称する)の教育を考察する試みの一端である。台北高商は、いわ
ゆる旧制専門学校の中でも、明治
36
(
1903
)年
3
月発令の勅令
61
号に根拠を
持つ、官立高商の一つである。高商には、官立以外にも公立・私立の学校も存
在したし、さらに高商の中には、大正
7
(
1918
)年の大学令以降大学へと昇格
した経緯もあるが、そうした諸事情をも考慮した高商に関する全体的研究は、
今後に残される。
1)さらに、教育機関による教育と、その受け手
=
生徒・学生
へのインパクトは別の問題で、本稿は、前者の一部分についての試論にとどま
り、統一的な高等商業学校研究のための資料の提供に力点をおいている。
2. 台北高等商業学校
第二次世界大戦終了までの高等商業学校の大きな流れについては、以下の引
用が簡潔である。
「
1884
年
3
月、文部省は東京外国語学校の附属として高等商業学校を設置す
る。これが日本における高商の嚆矢となった。次いで、同附属高等商業学校は、
1885
年
9
月に既存の東京商業学校に吸収され、さらに同商業学校が
87
年
10
月に高等商業学校へと改組され、
90
年に東京高等商業学校と改称された。こ
れ以降、
1903
年
3
月の専門学校令発布と実業学校令改正による教育行政上の
法的整備や、
19
年
3
月の帝国議会における「高等諸学校創設及拡張計画」の
可決が契機となって、高商の設立が本格化する。そして、すべての高商が工業
専門学校、工業経営専門学校、経済専門学校のいずれかに改組される
44
年
3
月までに、官立、公立、私立を問わず多数の学校が設立され、商業教育機関の
中核を担うことになった。」
2)台北高商は、
「本島ノ内外ニ於テ商業二従事セムトスル男子ニ須要ナル高等
1) 明治 34 年、高等教育制度を規定する法令として「専門学校令」が公布され、外国語の習得を経 て入学する総合高等教育機関としての帝国大学とは別の、中学校卒業者が直接入学して専門教 育を受ける高等教育機関が専門学校との位置付けがなされた。天野[1978]、34-39 ページを参 照。以後、別表のように、明治には官立高等商業学校だけでも、神戸・山口・小樽の 4 校が設置 されたが、その後大づかみに言って、大正時代の学校拡張期、昭和初期の私立を中心としたいわ ば第二の拡張期を経て、終戦によって旧制高等商業学校は終焉を迎える。速水・小嶋[2004]、 25-29 ページ。本稿で考察する台北高等商業学校は、第一次世界大戦後の高等教育拡張期に、い わゆる外地で設置された学校である。この研究は、台湾フェローシップ(2012)の助成によっ て可能となったことを記して置きたい。 2) 松重[2006]、240 ページ。別図は、官立・公立高等商業学校の設置年を図表化したものである。ノ教育ヲ施ス」
(台湾総督府高等商業学校一覧 大正
12
年、
1923
年)との目
的で、台湾総督府高等商業学校として
1919
年
3
月設置が認可されたが、開学
当初の内地人限定から、翌
1920
年の教育令改正によって、本島人の入学も許
可され、生徒定員も
150
から
300
名へと増員、同時に教員数も増員となって、
以後拡充が繰り返された。
3)1926
年に台南市に設置された台南高等商業学校が、わずか
3
年で廃校とな
り、台南高商第一回卒業生は、台湾総督府高等商業学校を改称して台湾唯一の
官立高商となった、台北高商の卒業生となることとなった。台南高商の在校生
は、台北高商台南分教場で学び、
1930
年には分教場も廃止された。
4)5)その後
1936
年、台北高商には、修業年限
1
年の貿易専修科が、南支南洋海
外貿易に従事する男子育成を目的に設置され、入学生の多くが本島人によって
占められた。
1940
年
4
月からは、本科第二部(支那科)が設置され、
1941
年からは東亜
経済専修科が開設された。
1943
年
4
月、貿易専修科は南方経済専科と改称したが、
1944
年には全国の
高商と同様に、経済専門学校に改称する閣議決定により、台北経済専門学校と
改称し、翌年旧日本の崩壊と共に活動を停止した。
次に、本科を中心に台北高商の教育について略説する。上記のように、高等
商業学校は、日本における高商の嚆矢
=1884
年東京外国語学校の附属として
設置された高等商業学校に始まるが、これがその後各地に設置される高商のモ
デルとなった。台北高商開学当初の科目表を東京高商のそれを比較すれば、全
般的に、商業、簿記、商品学などの商業科目を中心として、外国語重視・商業
実践に力点を置いたことなどで、東京高商が下敷きとなったであろう点が指摘
できる。ただ、台北高商の場合、内地の他の高商のように、第二外国語に、独
3) 台北高商の沿革については、横井[2002]を参照した。 4) 台南高商の廃校経緯については、藤井[2005]を参照した。 5) 1931 年に台南市に設置された台南高等工業学校の後身である國立成功大学図書館では、台南高 商と台南高等工業学校との関わりについて、台南高等工業学校の校地確定との視角から成功大学 史を研究する方々から、ご教示を賜わったし、また國立成功大学博物館からは校史に関する資料 の提供を受けた。ᣥ ቭ ┙ 㜞 ╬ ᬺ ቇ ᩞ 㑐 ଥ ࿑ ᴦ 㪍ᐕ 㪈㪏 㪎㪊 ᧲ ੩ 㐿 ᚑ ቇ ᩞ ᴦ 㪎ᐕ 㪈㪏 㪎㪋 ᚲ ⠌ ⻠ ᴺ 㪌㪎 㪏㪈 ᐕ㪏 ᴦ ᴦ 㪐ᐕ 㪈㪏 㪎㪍 ᴦ 㪈㪇 ᐕ 㪈㪏 㪎㪎 ᧲ ੩ ᄢ ቇ ᴦ 㪈㪈 ᐕ 㪈㪏 㪎㪏 ᴦ 㪈㪉 ᐕ 㪈㪏 㪎㪐 ᴦ 㪈㪊 ᐕ 㪈㪏 㪏㪇 ᴦ 㪈㪋 ᐕ 㪈㪏 㪏㪈 ᴦ 㪈㪌 ᐕ 㪈㪏 㪏㪉 ᩞ ቇ ᬺ ੩ ᧲ 㪊㪏 㪏㪈 ᐕ㪍 㪈 ᴦ ᩞ ቇ ᬺ ╬ 㜞 ዻ ઃ ᩞ ቇ ⺆ ࿖ ᄖ ੩ ᧲ 㪋㪏 㪏㪈 ᐕ㪎 㪈 ᴦ ૬ ว 㪌㪏 㪏㪈 ᐕ㪏 㪈 ᴦ ᴦ 㪈㪐 ᐕ 㪈㪏 㪏㪍 Ꮲ ࿖ ᄢ ቇ ᩞ ቇ ᬺ ╬ 㜞 㪎㪏 㪏㪈 ᐕ㪇 㪉 ᴦ ᴦ 㪉㪈 ᐕ 㪈㪏 㪏㪏 ᴦ 㪉㪉 ᐕ 㪈㪏 㪏㪐 䋩 ᩰ ቇ ᄢ 䈮 ᐕ䋰 䋲䋹 䋱㩿 ᩞ ቇ ᬺ ╬ 㜞 ੩ ᧲ 㪇㪐 㪏㪈 ᐕ㪊 㪉 ᴦ ᴦ 㪉㪋 ᐕ 㪈㪏 㪐㪈 ᴦ 㪉㪌 ᐕ 㪈㪏 㪐㪉 ᴦ 㪉㪍 ᐕ 㪈㪏 㪐㪊 ᴦ 㪉㪎 ᐕ 㪈㪏 㪐㪋 ᴦ 㪉㪏 ᐕ 㪈㪏 㪐㪌 ᴦ 㪉㪐 ᐕ 㪈㪏 㪐㪍 ᴦ 㪊㪇 ᐕ 㪈㪏 㪐㪎 ᧲ ੩ Ꮲ ࿖ ᄢ ቇ 䊶੩ ㇺ Ꮲ ࿖ ᄢ ቇ ᴦ 㪊㪈 ᐕ 㪈㪏 㪐㪏 ᴦ 㪊㪉 ᐕ 㪈㪏 㪐㪐 ᴦ 㪊㪊 ᐕ 㪈㪐 㪇㪇 ᴦ 㪊㪋 ᐕ 㪈㪐 㪇㪈 ᄢ 㒋 Ꮢ ┙ 㜞 ╬ ᬺ ቇ ᩞ 䋨㪈 㪐㪉 㪏ᐕ 䈮 ᄢ ቇ ᩰ 䋩 ᴦ 㪊㪌 ᐕ 㪈㪐 㪇㪉 ᚭ 㜞 ╬ ᬺ ቇ ᩞ 䋨㪈 㪐㪉 㪐ᐕ 䈮 ᄢ ቇ ᩰ 䋩 ᴦ 㪊㪍 ᐕ 㪈㪐 㪇㪊 ᴦ 㪊㪎 ᐕ 㪈㪐 㪇㪋 ᴦ 㪊㪏 ᐕ 㪈㪐 㪇㪌 ጊ ญ 㜞 ╬ ᬺ ቇ ᩞ 㐳 ፒ 㜞 ╬ ᬺ ቇ ᩞ ᴦ 㪊㪐 ᐕ 㪈㪐 㪇㪍 ᴦ 㪋㪇 ᐕ 㪈㪐 㪇㪎 ᧲ ർ Ꮲ ࿖ ᄢ ቇ ᴦ 㪋㪈 ᐕ 㪈㪐 㪇㪏
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仏中露ではなく、「馬來語」を採用したり、地域を強く意識した「南支南洋経
済」を置いた点で独自性を持っていた。
6)さらに、いく度かの改訂を経て拡充を終えた
1931
年カリキュラムには、外
国語選択肢として、「和蘭語」
「仏語」
「独語」が追加され、学生定員増・教員
増に伴い、内地にみられない特色科目が登場した。
7)「台湾事情」
「南支南洋経
済事情」「植民地法制」
「熱帯衛生学」
「民俗学」などであるが、これらは台湾
本島及びに南支南洋研究に不可欠なものであった。
「南支南洋経済事情」と「台湾事情」には、南支経験、実業界、総督府の経
験を持つ坂田國助が山口高商から赴任し、坂田の後任には台北高商出身で、蘭
領インドに経験が深くオランダ語を習得していた塩谷厳三が担当した。その他
の科目ともども、台湾と南支南洋研究に重点を置いた特殊な学科を課したので
あった。
8)台北高商は、東京高商をモデルにして商業一般の専門教育科目を基礎とし、
台湾・南支南洋関係科目を重視、台湾・南方の専門的人材を養成する点にその
教育の特徴があったと考えることができる。
次に、卒業生の進路との観点から、台北高商の教育の成果を見よう。
1922
年から
1940
年までの本科卒業生について、前述横井[
2002
]作成に
よる表をグラフ化すると、専門教育を受けた学生は、主として台湾島内・南支
南洋に職を求めたことになる。
総数
1326
名の卒業生中、
63%
は台湾島内に、
7%
が南支南洋方面、内地に就
6) 横井[2002]、76 ページ。 7) 行論のうちに理解されるが、一面で教育課程の改訂には、隣接諸領域の専門・教養科目ともに拡 充されたが、その結果いわゆる学術的科目も増加することが分かる。「貨幣論」、「外国貿易論」、 「植民政策」、などと並んで「経済原論」や「経済学史」などもが科目表に登場するようになる。 8) ここで、上記以外に設置された第二部と貿易専修科の教育課程についても若干触れておこう。 1936 年には、短期 1 年集中で実践的な貿易専修科が、英語以外の選択外国語に、「支那語」「馬 來語」「和蘭語」「仏語」「泰語」を、海外実務に必要な「商業簿記」「珠算」「タイプライティン グ」などを配して設置された。 さらに、「支那経済地理」「支那資源及重要商品」「支那社会事情」などにより中国関係を重点的 に学習し、外国語も英語より「中国語」を主体として、選択外国語として 4 地方言語を課す別 名「支那科」と称された本科第二部が設置された。横井[2002]、79 ページ。本科生の就職先
本科卒業生職業種
台湾 62.7% 不明 12.2% 内地 13.7% 中国 5.1% 満州 3.3% 朝鮮 1.0% 南洋 1.7% その他 0.3% 総督府・官公庁 21.2% うち(島内) 18.7% 教員 2.5% 金融保険 9.3% 食料工業 1.2%製糖業 2.7% 死亡 5.4% 在学 2.3% 不明 5.0% 自営 3.6% その他 5.3% 軍関係 1.0% 水産業 0.8% 農業 1.2% 交通運輸 3.7% 雑商業 0.9% 雑工業 0.2% 物品販売 4.5% 鉱業 3.2% 印刷業 0.7% 電気・器具 3.9% 化学工業 1.8% 紡績・窯業 1.0% 総督府・官公庁 21.2%
職した卒業生は
14%
で、本籍を内地に持つ
1204
名中
85%
は内地に戻らず台
湾・滿洲・朝鮮・南支南洋に活躍の場を求めた。
業種別就職先で最も多いのは、総督府や官公庁で、次が銀行・保険関係で
あった。関連するが総督府と関わりのある製糖業や電力関係の就職も多い。
特に島内に職を求めた者に着目すると、
831
名中
40%
は、総督府関係官公
庁、これに準国策会社を入れると、島内就職者の
2
名に
1
名は官公庁であった
とみられ、これが台北高商の特色となっている。これに続くのが、高商関係の
就職先としては当然である、金融・保険、物品販売、交通運輸
=
商業・経済関
係であった。
他方、貿易専修科の動向は、最も多くの学生の就職先が台湾であったが、南
支南洋に職を求めたのは
30
名で
25%
、その半数が本島人であった。業種別で
見ると、物品販売が
25%
、交通運輸が
10%
、特に三井物産であり、貿易に直
接関わる人材、通訳に適した人材を求めたと思われる。貿易専修科は、南支南
洋で活躍する人材を実際に輩出していたとされる。
9)以上の進路先のデータにより、台北高商の社会的使命は、台湾島内の官界実
業界の中堅層育成であったが、本科の卒業生は所期の目的を達成した反面、南
方経営に携わる人材の育成には十分ではなかった。ただし、貿易専修科の修了
生は、これに成功したが、出身者が台湾本島人であって、創設の精神
=
内地人
9) 横井[2002]、87 ページ。の専門教育機関にはなりえなかったと言われる。
10)3. 高等商業学校の商業教育をめぐる諸評価
前節では、台北高等商業学校の主としてカリキュラムとの側面を検討した結
果を紹介した。他方で、全国の高商を事例として使用しつつも、より広く高等
商業学校教育の全体像を求めようとする視角から、山口高等商業学校の研究が
行なわれているので、それを手がかりにして、台北高商を見直してみたい。
松重[
2006
]の高商研究「戦前・戦中期高等商業学校のアジア調査─中国調
査を中心に─」は以下のように述べている。
「すべての高商は、何らかの形でアジアに関する調査研究に関与していた。
また、そのアジア資料収集について言えば、
「旧制大学よりも、旧制商科大学
及び旧制高商で、植民地等に関する体系的な資料の収集が行われていた」と評
されている。にもかかわらず、いわゆる「校史」における言及を除けば、こう
した側面の研究は十分なされてこなかった。
そこで、高商が実施したアジア調査研究に焦点をあて、
「高商における学知」
の形成と名実を取り上げる。
高商におけるアジア調査研究が対象とした地域、選択されたテーマ、研究手
法にみられる特徴の検討だけではなく、高商の活動全体の中で、
「アジア」が
どれだけの比重や重要性をもっていたのか。
………… 中略 ………… ただし、対象とする地域は中国に限定して
おきたい。
ところで、高商の調査研究や教育スタイルは、それぞれが固有の変遷と特
徴を備えていた。したがって、
「高商における学知」を議論するためには、各
学校別の実態を仔細に検討した上で、共通する特徴を摘出するのが望ましい
〈アンダーラインは引用者〉方法であろう。ここで提示した諸特徴は、今後の
事例研究によって絶えず比較検討がなされるべきである。」
11) 10) 横井[2002]、89 ページ。 11) 松重[2006]、240-241 ページ。14 校の高商全体の雑誌記事分布
以上のような立場から、松重によって官公
立
14
旧制高等商業学校公刊の学術機関誌
12)、
総
8312
タイトルに対して分析が加えられた結
果を別図にしてみると、高商の調査研究は、従
来言われている方向性とは
2
つの面で、第一
は、アジア重視の資料収集方針から、第二に
は、教育方針から、いずれにおいても乖離し
ている。つまり、アジア地域に関する論文比
率が全体の
5.8%
、高商における研究の主要関
心は学理研究
61.7%
であったのである、と。
例えばこれは、神戸高商開校式で水島鐵也校長が「日常の授業上に於いて
は、所謂学理に偏する弊を避けて、成るべく実地活用の才を養成」と述べた点、
高商の共通方針
=
実践的商業教育に反することになる。
13)これに対して松重は、高商における教員の出身とその指向性に着目すること
で答えを出す。つまり、高商の教員は、大半が東京商科大学(もしくはその前
身の東京高商)か帝国大学の出身者で構成されており、カリキュラムの中心を
形成する専門科目は、東京商科大学出身者の独壇場であったし、教員の母校で
は、学理重視の方向性を明確に打ち出していた。その結果、高商は東京商科大
学の「ミニチュア」版となり、高商に在職する教員の間に、自分たちの学校が
実質的には「大学」であるという観念を生み出すこととなった。その反面、教
育現場では「中堅的経営人の育成」が要請されたので、結果として、現場統括
者育成と、学理研究をいかに両立させるかと言う、高商に特有の「苦悩」が生
じたのである、と。
14) 12) 機関誌とはそれぞれ、『一橋論叢』(東京商大)、『国民経済雑誌』(神戸商大)、『商業と経済』(長 崎高商)、『山口商学雑誌』(山口高商)、『商学討究』(小樽高商)、『商学経済論叢』(名古屋高商)、 『商学論集』(福島高商)、『商業論集』(大分高商)、『パンフレット』(彦根高商)、『和歌山高商パ ンフレット』(和歌山高商)、『商学』(横浜高商)、『商工経済研究』(高松高商)、『研究論集』(高 岡高商)、『商業及び経済研究』(大阪高商)である。ただ、こうした機関誌にも、発行回数、記 事の力点の置き方、などなどそれぞれ特徴があるが、松重も述べるように、個別研究が未だ十分 ではない。 13) 松重[2006]、242 ページ。 14) 松重[2006]、243 ページ。『東亜経済研究』の対象地域
以上の
2
点について、松重による山口高
商の事例検討の要点をグラフで示したもの
が左記のデータである。山口高商には、教
員を主たる寄稿者とし、東亜に関する専門
研究誌として『東亜経済研究』
(
1917-1945
)
があり、その掲載論文の地域別分野別分布
を見ると、対象領域が、
「東亜」全域、経
済のみならず、政治、社会、文化の多方面
にわたり中国関係論文数が
85%
で、特に
経済・産業・財政分野が突出しているのだ
が、立ち入った検討を加えた松重は、執筆陣であった研究者の
2
名について精
査すると、研究は現地調査との連携に成功しておらず、中国の実像把握には至
らなかった、と結論付ける。
15)また、教員だけでなく、高商の在学・卒業生の中国認識を見ても、教育が果
たした役割は大きくなかった。それには、教育カリキュラムの特徴による制約
が指摘される。
例えば、高商が模範とした東京高商の本科
3
年間の
26
科目(
1916
年)のう
ち、語学を除けば、アジア関係は「東洋経済事情」だけで、このカリキュラム
の下で学理重視の教員による教鞭が取られた結果、生徒のアジア関心は低い所
に止まることになった、と。
16)以上、前節では台北高商、本節では山口高商について、高等商業学校の教育
とその成果を、紹介した。次に節を改めて、台北高商の種々にわたる活動の中
から、学術活動に焦点をあて、台北高商の教育事例を検討しよう。
4. 台北高等商業学校の学術活動
台北高商には、設置目的
=
南支南洋調査を推進するための各種の機関が設け
られ、精力的な事業が展開された。この点では、地の利を最大限まで生かし
15) 松重[2006]、250 ページ。 16) 松重[2006]、251 ページ。た
20
年以上の継続的活動により類を見ない特色を出しえた、と評価されてい
る。
17)その機関とは、南支南洋經濟研究会、南支南洋經濟事情研究調査課、南方
經濟学会などであるが、特に南支南洋經濟研究会は、学生を発起人として発足
し、研究報告会、独自の修学旅行、島内経済調査、巡回講演会、展覧会・記念
事業、刊行事業などにより、台北高商の研究の中核を担ったと思われる。
以下では、南支南洋經濟研究会をはじめとする台北高商による刊行物、
『南
支南洋研究』
、
『南邦經濟』
、
『鵬翼』に焦点を当て、この高商の教育を考察する
手掛かりとしたい。
刊行物について若干の説明をしておこう。
まず、南支南洋經濟研究会であるが、これは
1922
年
2
月当時の
3
年生が発
起人となって、
「南支南洋に関する経済及びその他の事項に関する調査研究」を
目的に発足し、事業内容は、研究事項の報告、懸賞論文の募集、参考資料の蒐
集、参考図書目録の編纂、印刷物の発行、講演会、展覧会、旅行、その他南支
南洋研究に必要な事項となっていた。この研究会は、
1923
年以降『南支南洋
研究』を刊行して、教官、生徒、卒業生の成果発表の場を提供した。雑誌には
論文だけでなく、島内調査報告書、原書翻訳、教官の長期出張報告、修学旅行
記などが掲載された。
40
号までの記事を精査すると、学理を排して、南支南洋
調査に適う機関誌との特徴を継続したが、
1937
年以降は、戦局の影響で会と
しての活動を自粛し、機関誌発行に重点を置いて年
4
回研究成果の発表を行っ
たが、内容は旅行記が増加して、南支南洋事情に直結する研究が後退した。
さらに、研究成果・旅行記発表の場として、校友会機関誌『鵬翼』が存在し
た。
1922
年から
1940
年まで発行がなされ、
1930
年からの
10
年間は學藝部機
関誌となったので、大半が文芸作品となる局面もあったが、校友会機関誌時代
には、教官や学生の研究論文を掲載した。執筆者の意欲を喚起するため、
「懸賞
論文の募集」が行われ、その経過と結果は『鵬翼』に掲載された。これはもっ
17) 横井[2002]、90 ページ。とも存続期間が長い刊行物となった。
18)最後に、南邦經濟学会がある。これは、
1932
年南支南洋經濟研究会創立
10
周年を区切りに、研究の発展のため教官による学会として創設されたが、事業
は、座談会と機関誌『南邦經濟』の刊行であった。座談会は、南支南洋に関す
るものだけで、
20
回実施された。
『南邦經濟』は、
1933
年から毎年
2
回、都
合
11
巻が刊行された。掲載されたものは、必ずしも南支南洋に関するものだ
けではなく、景気論、貨幣論、馬來語や支那語に関するものまであり、教官の
専門分野の成果発表の場となった。
さて、以下では上記
3
点の刊行物に検討を加えようとするのであるが、その
前に若干の留保をしておきたい。
まず、これらの定期刊行物の資料としての問題がある。これらの資料は、既
に活動を停止した教育研究機関による刊行物であるが、以下の
2
つの表に見ら
れるように、日本と台湾に分散し、かつ部分的な散逸があるので、一研究機関
では容易に一覧できない。筆者は、今回台湾で閲覧できるものを優先し、日本
に帰国後は国内の所蔵機関に存在するものと相互補完するとの方針で調査を行
なった。附録とした雑誌記事目次
3
点
=
『鵬翼』抜粋目次、
『南支南洋研究』総
目次、『南邦經濟』総目次は、そうした作業の成果の一端を反映している。
19)さらに、重要な問題であるが、個々の論文をどんな項目に分類するか、ある
いは個々の論文をどのカテゴリーに入れるかは、作業を遂行する者の価値観が
介在して、かなり微妙な問題を孕んでいる。今回は、差し当たり松重論文にな
18) 南支南洋經濟研究会の独自性は、校内研究報告会から開始しながら、修学旅行や島内調査隊のよ うな実地調査を遂行し、研究報告会、巡回講演会、機関紙、懸賞論文を募集しただけでなく、一 般社会にも展覧会・記念事業のような普及活動を行い、教官独自の調査研究の場も設定した点 で、「これほどまでに広範な活動をした例はない」、と評される。横井[2002]、86 ページ。ま た、「南支南洋研究」の第 39 号には、宮澤一郎による「南支南洋經濟研究会二十年史」があり、 この会の活動を振り返るものとなっている。 19) 杉原四郎・櫻田忠衛[1990]、102 ─ 120 ページを参照。本文中に掲載した『南支南洋研究』と 『南邦經濟』所蔵機関に関する暫定的な表は、NACSIS によって収集したデータの主なもので、 部分的散逸を含めた所蔵状態が推測できるように作成したものである。双方の一番下にある台 湾 1,2 とは、臺灣大学(旧台北帝国大学)、社会科学院(旧台北高等商業学校)の図書館に所蔵 されていることを示す。双方とも今回の調査で確認できた限りのものであるから、必ずしも網羅 したとは考えてない。㪈 㪉 㪊 㪋 㪌 㪍 㪎 㪏 㪐 㪈 㪇 㪈 㪈 㪈 㪉 㪈 㪊 㪈 㪋 㪈 㪌 㪈 㪍 㪈 㪎 㪈 㪏 㪈 㪐 㪉 㪇 㪉 㪈 㪉 㪉 㪉 㪊 㪉 㪋 㪉 㪌 㪉 㪍 㪉 㪎 㪉 㪏 㪉 㪐 㪊 㪇 㪊 㪈 㪊 㪉 㪊 㪊 㪊 㪋 㪊 㪌 㪊 㪍 㪊 㪎 㪊 㪏 㪊 㪐 㪋 㪇 ᗲ⍮ቇᴰ ৻ᯅ ৻ᯅ⚻⎇ 㑐ᄢ ੩ᄢ ᄢ⚻ᷣ ᄢ࿑ ᄢㄘ ࿖ᢎ⎇ 㒋Ꮢᄢ ጊญᄢ ṑ⾐ᄢ ᄢ⚻⎇ ᄢ␠ળ ᣧᄢਛᄩ ᄢ⚻ᄢᣣ⚻ผ⎇ ᮻᄢ 㐳ᄢ⚻ᷣ 㐳ᄢ⎇ⓥᚲ ᄤℂ࿑ ᧲㒮ᄢ ᧲Ꮏᄢጟ ᧲ᄢ✚ ᧲ᄢ᧲ᢥ ᧲ർᄢ ᧲ᵗᢥᐶ หᄢ ᣣᄢ✚ᖱ ንᄢ ᄢ ಽᄢ⚻ ർᄢ ฬᄢ⚻ ┙ᄢ ᄢ ⥑ḧ䋱 䋨⥑ḧᄢቇ䋩 ⥑ḧ䋲 䋨⥑ർ㜞䋩 ධᡰධᵗ⎇ⓥ㪆⥑ർ㜞╬ᬺቇᩞධ ᡰධ ᵗ⚻ᷣ ⎇ⓥળ ᚲ⬿ᯏ 㑐
南邦經濟/臺北高等商業学校研究室、臺北、新高堂書店(賣)1933-43 㽲 㽳 㽴 㽵 㽶 㽷 㽸 㽹 㽺 㽻 㽼 ৻ᯅ 㑐ᄢ ੩ᄢ ੩ᄢ⚻ ᄢ⚻ ᄢ࿑ ᘮᄢਃ 㒋Ꮢᄢ 㒋ᐭਛᄩ ጊญᄢ ṑᄢ⚻ᷣ ᚭᏒᄖᄢ ᄢ⚻⎇ ᄢ␠ળ ධቇ㒮 ᣧᄢਛᄩ ᜏᄢ ᮻᄢ ਛᄢ ᧲㒮ᄢ ᧲⚻ᄢ ᧲ർᄢ หᄢ ᣣᄢ✚ᖱ ንᄢ ᄢ ಽᄢ⚻ ⋵ᄢᚭቇ ർᄢ ᄢ ┙ᄢ ┙㙚 ᄢ ⥑ḧ㪈䋨⥑ḧᄢ䋩 ⥑ḧ㪉㩿⥑ർ㜞䋩
らった基準で配分したが、今後改良の余地があると考えている。
第
3
に、今後高商研究の拡大・発展があったとして、外地に存在した
3
つ
の高商を比較する場合、大連、京城の高商と比較して、台北高商にはどのよう
な特殊性があり得るのかも想定に入れなければならない。
さて松重も言う様に、すべての高商は、何らかの形でアジアに関する調査研
究に関与していた
20)から、それぞれの高商の設置目的との関係を、刊行物の
掲載された論文タイトルによって検証する作業(① 特色の代表である「アジ
ア研究」の内実)と、松重の言う高商本来の研究調査目的からの「乖離」
(②
20) 松重[2006]、240 ページ。「目的からの乖離」と称される「学理研究」の内実)を検証する作業を行なっ
てみたい。
校友会誌『鵬翼』の記事分布 アジア以外 の海外 6.3% アジア 22.5% 学理関係 55.9% 日本 15.3%まず、
『鵬翼』であるが、この刊行物は、
もっとも長い期間活動を継続したし、かつ
関係する層が広い。また、審査委員が設け
られたり、懸賞論文が募集されたりする点
に、その盛衰の興味深い側面も持っている。
附録とした『鵬翼』の抜粋目次(校友会誌
としての『鵬翼』には、雑多とも言えるジャ
ンルの論文・記事が混在している。今回の
復刻では、その中から、他の二誌と比較できるとみなしうるジャンルのタイト
ルだけを選出した。
)を参考に、データを表にしたものからグラフを作成した。
高商全体や山口高商との比較を行なう場合には、上記松重のデータ表を元に、
グラフ化したものを比較の材料としている。
アジアは、すでに第
3
節でみた高商全体(以下同様)を円グラフにしたもの
に比べて、
4
倍以上、アジア以外が半分以下、日本は高商全体より若干多い。
対象とする地域の特色を山口高商との比較で見ると、山口が中国だけで
69%
、
日中・滿蒙も入れると
85%
にも達し、朝鮮・インドシナ・東南アジアなども対
象としているのに対して、
『鵬翼』は、中国関係が
40%
、日本が
34%
で山口と
『鵬翼』の対象地域
『鵬翼』の学理部分を さらに下位区分
『南支南洋研究』 の地域別記事 東南 6.0% その他 18.0% 中国・日中・満蒙 40.0% 印支 2.0% 日本 34.0% 学理下位、 理論 23% 政策 26% その他 51% 南洋関係 29.5% 中国・滿州 17.1 台湾関係 21.9% 南洋全般の 経済・歴史・地理 12.3% 紀行・視察 15.1% 資源 調査 4.1% 台湾関係21.9% その他 18.0% その他 51% 紀行・視察 15.1%
比較して、
『鵬翼』の海外指向は山口ほど多岐にわたっていないと考えられる。
学理関係は上記高商全体の記事分布に占める割合よりも若干少ないが、さら
にこの学理研究をもう少し下位まで区分を細かくすると、政策が
26%
で、理論
が
23%
と拮抗、ただし、今回の作業では、
「その他」に哲學・芸術、さらに法
律・會計も含めたので、それも政策の方に組み入れると、政策はもっと大きな
数字となる。
総評として『鵬翼』の記事は、南方に進出するとの学是に沿う傾向を持って
いるが、実践的商業教育とは考え難いい、と言うことになる。
21)次に、台北高商の「特色」を代表すると目される『南支南洋研究』を資料と
して横井[
2002
]による記事分析データを作表してみると、山口高商の場合
は、
85%
が中国満蒙であったが、台北高商は南洋が
29.5%
、台湾が
21.9%
、中
国滿洲が
17.1%
となって、 中国よりも、南洋・台湾に傾斜しており、南洋全
体の諸領域の
12.3%
をも含めると、この高商の設置目的に違わず、南支南洋の
研究機関誌であったとみなせる。
また、紀行文・視察は原則的に独自の修学旅行の対象地域、すなわち南支南
洋を素材としたものだから、南支南洋関係の数値はもっと大きくなるだろう。
21) 参考までに、『鵬翼』所載論文の中で、筆者が「学理」研究とみなす論文タイトルを注記してお く。論文に付された数字は、筆者が便宜上付けた通し番号である。 2 階級闘争と「インテリゲンチヤ」 荒木潤三 3 「マルクス」の唯物史觀と階級爭闘説 鶴水生 4 革命と進化 江副正三郎 27 意識的資本主義の展開性 鈴木源吾 36 マルクス主義の理論的難點 大山綱武 42 自傳より觀たるジョン・ミルの經濟學と戀愛 冨 美郎 44 制度主義經濟學の基礎理論 鈴木源吾 50 文化科學としての經濟地理學 河内守政 53 統計家の悲鳴 伊大知良太郎 54 社會の進む道 推原眞壽夫 55 マルクス恐慌論概要 瀧 悦三 57 社會の進む道 推原眞壽夫 76 ジョン・ステュアート・ミルの賃銀論 宮地光之 80 静態と動態 山口文夫 107 貨幣の國家的性格 武智 透ただ、
『南支南洋研究』の論文総数
134
点を検討してみると、雑誌記事内容
それ自体は『南支南洋研究』の設立精神に沿うので、学理的なものはあまりな
い。例外的なものは、昭和
2
年
4
月発行の第
5
号「我国人口問題解決策と南
支南洋の價値」と題する浅香末起単独執筆号の附章として「河上博士の人口問
題批判を讀む」が含まれていたり、昭和
8
年
3
月発行の第
15
号に吉成鐵雄の
「ウエークフィールドの「組織的植民」を中心として」が含まれていること、雑
誌の最終段階である第
38
・
39
号に広東語や教育関係の論文が掲載されている
ことを指摘しておくべきかも知れない。
南方經濟記事地域分析 その他・哲学・ 宗教・法律・会計 27% アジア 25% 学理・理論・学説 24% 政策 17% 歴史 1% アジア以外 4% 日本 2% 学理・理論・学説 24%最後に、附録に掲載した、学術研究誌で
ある『南邦經濟』の記事論文の総目次を、
上記と同じ基準で分類した上で図表化して
みると、アジアは単独で
25%
、アジア以外
も加味しても
29%
となり、論文全体の海外
志向は低調とも言える。
アジアに匹敵する割合を示すのは、学理
24%
、その他
27%
で、政策は
17%
となる。
その他に含まれる政策的な分野があるこ
とを考慮しても、実践・実学的な特色が際立っているとはみなし難い。敢えて
言えば、諸領域がバランスよく併存している点で、
『南邦経済』は特色ある雑
誌だと言えるかも知れない。
22) 22) 参考までに、『南邦經濟』全 11 巻所載の 164 点の論文について、筆者が「学理」研究とみなした 論文タイトルを注記しておく。論文に付けられた数字は、筆者が便宜上付けた通し番号である。 1 吉成鐵雄 植民政策の倫理化 2 河合 讓 經濟價値の構成原理 3 杉浦治七 ジョン・ロックの貨幣論 6 遠藤壽三 所得單税論再考8 河合 讓 Bertand Russel: Education and the Special Order
12 新里榮造 パレト入門 21 杉浦治七 ミイゼスの流通信用理論 24 鈴木源吾 コモンズの經濟學説とシェイファーの批判 27 河合 讓 學問の誕生─タレスの研究─ 30 杉浦治七 オヴァストンの景氣論 34 杉浦治七 トウクの景氣論─物價史の一研究─ 35 鈴木源吾 コモンズの二リライズム論─マルキシズムと對照して─
ほぼ
20
年に及ぶこの雑誌の論文発表傾向を時系列で追ってみると、突出し
た傾向を示す合併号第
7
巻は、開学
20
周年を記念するものであるが、そこで
は「その他」が大きな割合を示した。
その特殊例を外した残りデータを作表してみると、
「アジア以外」が極めて
時系列南邦經濟その他除外 35 伊大知良太郎 シュナイダ「生産の理論」 38 河合 讓 杉村氏の『經濟哲學』 40 内藤保廣 普遍主義國家組織原理と經費の限界 42 杉浦治七 ミルの貨幣及び信用論 45 鈴木源吾 コモンズの制度主義經濟學 47 内藤保廣 經費に於ける生産性 59 杉浦治七 ソヴェートの貨幣について 81 内藤保廣 戦時經濟論序説─その普遍主義的理解─ 87 杉浦治七 信用理論の一傾向─ヴグナアの信用論 93 杉浦治七 モールトンの資本形成論 101 楠井隆三 統制經濟の基調としての全體主義 102 伊大知良太郎 統制經濟と計量經濟學(講演) 113 杉浦治七 フラアトンの通貨調節論 131 鈴木源吾 利潤の社會的性質 135 鈴木源吾 二つの經濟社會觀─費用原理から配分原理へ─ 137 杉浦治七 所得の分配と經濟的發展 139 伊大知良太郎 統計學の趨勢と Stochastik の消長 145 杉浦治七 不換紙幣の一考察 146 渡邊 猛 スミスと自然的秩序 152 鈴木源吾 制度主義經濟心理學の基本的樣相 153 杉浦治七 シュムペーター景氣論の覚書─貨幣及び信用に關する所説を中心として─ 158 伊大知良太郎 絛件等置の統計的表現と等價指數の問題 160 杉浦治七 國家と貨幣 163 杉浦治七 トウクのリスト觀に就いて少ないのに対し、
「アジア」は継続した執筆状況を保つ。
「学理」も下がり気味
だが継続するが、「政策」が最後の数年で低迷となることが浮かび上がる。こ
れは時局が反映しためと考えるべきだろうか。
5. おわりに
さて、以上に台北高等商業学校の学術活動を考察するために、
3
つの刊行物
の特徴をみてきた。これは、筆者の短期調査によって収集された資料の整理・
分析の端緒に過ぎない。
松重も述べているが、それぞれの高商の特色を探るには時間がかかる。個々
の高商について、もっと地道な個別研究が積み重ねられ、その結果を付き合わ
せる必要がある。
23)また、教育方針からの「乖離」があるとして、それを高商の設置方針にあ
わないで切り捨てるのではなく、命脈を保ったいわゆる「学理」研究の有り様
に、各高商の研究の特徴を拾い出す方向も、試みられてしかるべきではないか
と考えるのである。
参考文献 天野郁夫[1978]『旧制専門学校』日経新書 293 天野郁夫[2004&2009]『大学の誕生、上・下』中公新書 藤井康子[2005]1920 年代台湾における台南高等商業学校設立運動(『日本の教育 史学』8) 23) 3 つの商科大学の雑誌、『一橋論叢』、『国民経済雑誌』、『経済学雑誌』は、かなりその性格を異とする。 東京商大に限らず、各校は上記以外に雑誌を持ったし、神戸高商の『国民経済雑誌』は、ある時期ま では全国誌的な性格を持ち、資料整理蒐集にかなりの力点をおいた。また大阪商大の『経済学雑誌』 も、その前身『商業及び経済研究』からの模様替え以降紙面を変化させた。商大ではないが、東京 と京都の帝国大学では大正 9 年に経済学部が独立し、それぞれ学部の雑誌を(『経済学論集』、『経済 論叢』)持った。また、全国の旧高商を中心として、その全体像を求める研究が共同して行われてい る。例えば、http://fukuda.lib.hit-u.ac.jp/activity/workshop/PDF/20091026abe.pdf (21013/02/06)などの整理を参照。松重の問題提起に対する回答も、こうした個別雑誌に関す る基礎研究の積み重ねが出された後に十分なものとなるであろう。松重允浩[2006]戦前・戦中期高等商業学校のアジア調査(廣昭責任編集『岩波講 座・「帝国」日本の学知第 6 巻 地域研究としてのアジア』所収) 杉原四郎・櫻田忠衛[1990]「3 学術経済雑誌」(杉原四郎編『日本経済雑誌の源流』 有斐閣) 横井香織[2002]日本統治期の台湾における高等商業教育(『現代台湾研究』3 所収) 横井香織[2009]近代日本の「外地」における高等商業教育ー台北・京城・大連を 事例としてー(立命館大学社会システム研究所叢書 1『近代中国と企業・文化・ 国家』ゆまに書房 速水 融・小嶋美代子[2004]『大正デモグラフィー歴史人口学で見た狭間の時代ー』 文芸春秋
附録
1.
台北高等商業学校南支南洋經濟研究会・機関誌『南支南洋研究』総目次
2.
台北高等商業学校学内学術学会・機関誌『南邦經濟』総目次
3.
校友会雑誌『鵬翼』目次・抜粋
24)附録への注記。 上記
3
誌のうち、
1.
「南支南洋研究」の
39
号までは、
39
号に総目次があるが、他の
2
誌についてはない。研究の便宜のため、
1.
の追加
部分も含めて
2.3.
の総目次を作成した。復刻に際しては、本来縦書きのもの
を横書きとしたこと、ページ数表記を漢数字からアラビア数字に直した点、す
べての論文に著者名を先頭とした統一を加えたこと、などに変更を加えたが、
できるだけ元来の表記に従った。特に判読が困難であった繁字体の場合には?
を付けたままにせざるを得なかったものもある。
附録 1.南支南洋研究総目次 1-40, 1923-1943 第一號 旧名南支南洋經濟第一巻第一號 大正十二年八月發行 小此木為二 護謨に就いて 1 西村信一 印度支那の産業 70 大賀終造 糖價暴騰の原因及び調節 75 坂井秀俊 最近蘭領東印度に於ける日本綿布の地位 89 24)『鵬翼』を始めとする諸雑誌は、臺灣大学図書館で閲覧をしたが、特にマイクロフィルムの場合 には、必ずしも焦点が鮮明でないものもあり、判読が不可能なものもあった。その部分は判読不 能のままとしている。第二號 南支南洋經濟第二巻第一號 大正十三年六月 巻頭言 南支南洋發展の眞義 佐藤 佐 臺灣小作法制定の必要を論ず 1 小此木為二 護謨に就いて(其二) 17 多田敬二 新嘉坡・盤谷を中心とする商業竝金融 40 第三號 南支南洋經濟第二巻第二號 大正十四年一月 大賀終造 爪哇砂糖市場に就いて 1 坂井秀俊 蘭領東印度に於ける鎬三綾に就いて 10 北原正一 經濟上より見たる支那 15 石橋憲治 支那貨幣論 32 平山亮一 鐵道釐金に就いて 74 横尾善一 近世蘭領東印度の發展史 100 杉井 滿 世界糖考より爪哇糖貿易論に及ぶ 109 長野卯三郎 蘭領東印度に於ける本邦綿布類の現状及将来 189 第四號 昭和二年二月號 淺香末起 ウオーレスラインに就いて 1 佐藤 佐 杜次珊の新政論と支那の将来 28 田中載吉 滿蒙に於ける漢人種の發展に就いて 59 鹽谷厳三 爪哇に於ける珈琲及其の轉賣に就て 64 大田修吉 護謨經濟考 88 井上 豊 新嘉坡に於ける鳳梨栽培及び缶詰製造事業に就て 129 盧 ? 日支親善の根本問題 145 大田修吉 満鮮旅行記 164 記事及報告 南經會日誌より 187 購入、寄贈圖書 193 會計報告 194 第五號 昭和二年四月發行 淺香末起 我国人口問題解決策と南支南洋の價値 第一章 經濟生活の意義 1 第二章 人口問題の眞義 5 第三章 我國の人口問題 13 第四章 經濟組織改革の問題 18 第五章 我國人口問題の消極的解決策 21 第六章 我國人口問題の積極的解決策 24 第七章 商工立國策 43 第八章 資本主義展開の途としての商工立國策 49 第九章 南支南洋の地域 54 第十章 南支南洋を中心として見たる我國の對外貿易 62 第十一章 南支南洋發展の眞義 92 附 河上博士の人口問題批判を讀む 97
第六號 昭和三年七月 川村直岡 臺灣の専賣事業に就て 1 佐藤 佐 支那動亂批判 61 桑原守邦 商工立國策批判 73 則松悦蔵 南洋に於ける椰子栽培企業 84 研究室 波斯の經濟的地位 98 第七號 昭和四年十一月 増淵佐平 過去十箇年間に於ける英領馬来對日貿易事情 1 藤田時雄 工業發展策より見たる本島電力に就て 12 宮原初次 對蘭領東印度輸出貿易發展策 32 藤崎義章 對南支南洋貿易上より見たる基隆港 54 李 金舜 臺灣製糖業の合理化 84 三木 斌 徳川時代に於ける日蘭關係 93 第八號 昭和五年四月 淺香末起 植民及び植民地の意義 1 第九號 昭和五年九月 佐藤 佐 民族問題に關する孫文とスターリンの見解 1 第十號 昭和五年九月 淺香末起 第一部 爪哇經濟界の現況と蘭領東印度の原始産業竝に其の取引概觀 第一章 農業國としての地位 第二章 國際市場としての爪哇 11 第三章 爪哇財界の近況 27 第二部 蘭領東印度の原始産業と其の取引雑感 第一章 鑛業 49 第二章 林業 74 第三章 栽培農業 80 第三部 爪哇在留邦人の事業 第一章 發展の態様 169 第二章 小規模の雑業者 170 第三章 農國経營 172 第四章 物産仲買 173 第五章 銀行、商事会社─綿布取引─陶磁器硝子類取引の一例─雑貨輸入の金 融問題 176 第六章 雑貨小賣 181 第十一號 台北高商南支南洋経済研究會昭和六年五月 佐藤 佐 孫文學説とその批判 1 佐藤 佐 杜天一の「人民自助論」 37 第十二號 昭和六年六月 昭和五年冬期第一囘本島經濟事情調査報告
梅野 惇 地理的經濟的に見たる吉野村に就て 1 久米正徳 工業港としての高雄 30 佐藤 佐 本島に於ける洋灰業に關する調査報告 97 高呂 武三 高雄及澎湖の水産業 127 田中香芽一 漁港としての蘇墺竝びに基隆港 183 第十三號 昭和七年一月 昭和六年夏期第二囘本島經濟事情調査報告 足利繁男 東臺灣の金融に就て 1 外園正男 東海岸の築港工事及其の價値 33 田村貞省 東部臺灣に於ける栽培企業 67 池田正俊 臺灣鳳梨罐詰業 109 久場政良 臺北市、基隆市の物價調査 139 高 陽 盤 本島の自動車通交 169 第十四號 昭和八年一月 中村貞之助 昭和七年夏期第三回本島經濟事情調査報告 1 松尾重吉 臺灣の石油鑛業に就いて 27 草刈一郎 高雄港の重要性 67 竹内繁之 高雄に於ける倉庫業 109 梁瀬文也 生鮮食料品の配給組織より見たる東臺灣 135 郭傅圓 澎湖の經濟に就いて 163 第十五號 昭和八年三月 創立十周年記念號 原口竹次郎 日本と南洋との經濟關係(講演) 1 水越幸一 南洋に於ける邦人の活動状況(講演) 12 吉成鐵雄 ウエークフイールドの「組織的植民」を中心として 24 岩隈 博 蘭印商法略解 54 三本 斌 比律賓に於ける學校教育の發逹 82 遠藤壽三 デリー地方の經濟研究 107 鹽谷巖三 國際協定の對象となれる南洋の五大物産と其の協定事情 133 坂田國助 南洋邦人の栽培企業金融機關に就て 169 鈴木源吾 比律賓獨立に對する經濟的羈絆としての米比自由貿易 213 佐藤 佐 柳生一義氏と南支南洋 242 第十六號 昭和八年三月
Bibliography of the Philippine Islands
第十七號 昭和七年十二月 鈴木源吾 比律賓の天然資源並に勞働事情と商業界現状一班 1-353 第一編 天然資源と原始産業 第一章 地理學及び地文學上から觀たる比律賓群島 1 第二章 比律賓諸島の氣候 18 第三章 土壌 21
第四章 土地所有權制度 25 第五章 農業資源 27 第六章 水利 37 第七章 鑛業資源 49 第八章 林業資源 70 第九章 水産物 81 第二編 蘆雨勞働事情 第一章 勞働市場 89 第二章 亜細亜大陸の比律賓諸島への移民 106 第三章 勞働者の季的移動 118 第四章 官設植農村の經過概況 120 第五章 島與間に於ける一般的移住 142 第六章 勞働賃銀 173 第七章 生活費 178 第八章 勞働時間法 188 第九章 比律賓諸島に於ける勞働運動 189 第十章 同盟罷業其他の工業爭議竝に農業爭議 206 第十一章 比律賓に於ける現行勞働關係諸法規の概要 119 第三編 國内商業及外國貿易 第一章 國内商業 224 第二章 外國貿易 275 第十八號 昭和八年十月
Bibliography of British Malaya
第十九號 昭和九年四月 マキシモ・カウラ著 比律賓の獨立に就て 1-104 ラファユル・アルナン著 東南アジア及マレーシアに於ける農業の發逹 105-195 第二十號 昭和八年十二月 比律賓紀行 1-22 支那滿鮮紀行 23-98 第二十一號 昭和十年二月 王徳欽 華遼遊記 1 支那滿鮮旅行記 5 南支那旅行記 125 第二十二號 昭和十年三月 大貫正夫 支那に於ける日貨排斥運動 1 安室 守 銀の諸問題 51 第二十三號 昭和十一年三月 岩井年美 國策的見地より我國糖業統制を論ず 1 市野欣五 經済的見地より見たるパイワン族 47
小林康正 臺灣に於ける内地人小賣商の經營に就て 69 第二十四號 前川芳亮 滿洲に於ける金融合作社に就いて 1 山口鐵雄 比律賓群島に於ける支那移民 27 小林金矢 日比貿易論 115 松浦正明 香港事情 145 第二十五號 昭和十二年二月 比律賓紀行 1 暹羅旅行記 33 馬来半島旅行記 53 南支旅行記 77 爪哇・北ボルネオ・香港紀行 93 第二十六號 昭和十二年三月 後藤 昭 比島ダヴァオに於ける邦人發展の現状と土地問題に就て 1 陳大 /小林康正 暹羅に於ける華僑に就て 59 岩井年美 爪哇の糖業 93 藝木茂弥 附 比律賓の獨立に就て 1 第二十七號 昭和十二年三月 横田正二 北支に於ける密輸と特殊貿易に就て 1 速水梯二郎 興中公司に就て 25 陳?卿 臺灣南支間の特殊貿易便利屋に就て 43 高畠利彦 臺灣に於ける公設質舗の現況竝に之が助長に就て 75 小林康正 臺灣に於ける内地人小賣店の諸問題 177 第二十八號 昭和十二年十一月 松尾 弘 臺灣と支那人勞働者(右に關する一つの調査報告) 122 第二十九號 昭和十三年二月 佛領印度支那・暹羅・英領馬来紀行 1 蘭領印度・北ボルネオ紀行 21 比律賓旅行記 65 南支那・香港旅行記 87 中・北支・滿鮮旅行記 105 第三十號 昭和十三年十月 高畠利彦 満州農業移民の現状に就て 1 和田壽七 北滿蒙の經濟状況を探る 75 第三十一號 昭和十三年十一月 松尾 弘 暹羅國民經済の特徴 1
序 序説 1 第一章 自然的基礎 5 第二章 人的諸基礎 25 第三章 資本蓄積の諸障害 99 第四章 暹羅國民經濟の構造 109 第五章 暹羅國民經濟政策の諸基礎 184 第六章 今後の發展に關する諸問題(結論) 190 文献目録 197 邦文の部 197 歐文の部 207 附録 一 暹羅國陸軍概要 229 同 二 古都ランプーン訪問記竝びに暹羅の生佛様 235 同 三 暹羅の主要都市人口表と賃銀表 244 索引 245 第三十二號 昭和十四年三月 安部 望 北支金融工作の動向 1 大津哲夫 新北支誕生への工作に就て 65 丹 倍彦 中北支旅紀行 133 安部 望 支那滿洲旅行點描 145 第三十三號 昭和十五年三月 武藤隆次 北支概觀 1-378 第三十四號 昭和十五年六月 曾根雅永 蒙疆概觀 1 石崎政治郎他 半島部南洋紀行 239 陳 傳 駒 南支那紀行 273 第三十五號 昭和十六年三月 服部俊一/垣原誠也 南方發展と沖縄 1 劉 盛 森 臺灣華僑概觀 37 丹 進 満州大豆に就て 69 森下 晃 滿鮮紀行 125 第三十六號 昭和十七年五月 鈴木教授他 泰・佛印紀行 1 森宣雄/堂道秀春 中支旅行記 101 津川 弘 満鮮紀行 125 第三十七號 昭和十七年九月 泰國護謨事情 1 佛印護謨事情 11 辜 炳 衡 泰國華僑の經濟勢力の變遷 23
陳 大 泰國華僑勢力の減退状況 35 孔祥、熈述/樹捷利譯 比律賓華僑史 43 謝騰輝 泰國に於ける臺灣本島人の活動状況及び將来に就て 57 高田普次夫 カラハ族 65 彭國祥 臺灣島民信仰生活の囘顧 69 蘇煉欽 臺灣寺廟に就て 97 第三十八號 昭和十七年九月 香坂順一 廣東語の研究 1-316 一、支那語中に於ける廣東語の地位 1 二、廣東方言の成立 7 三、廣東語の種類とその勢力 13 四、廣東語と他方言との比較 17 五、廣東語と北京語 37 六、廣東語拉丁化の二案 48 七、廣東語の特徴 92 八、廣東語中の隠語、歇後語、諧謔語 104 九、廣東語の發音 117 附 常用文字聲音字典 第三十九號 昭和十八年四月 宮澤一郎譯 比律賓經濟史 1 若松大三 比律賓の貿易と外國投資に就て 37 小林 林平譯 閩南教育三十年 79 眞倉民彦譯 佛印華僑教育三十年 97 眞倉民彦譯 泰國華僑教育三十年 101 眞倉民彦譯 ビルマ華僑教育三十年 119 柴田昌一/北川輝人 蘭印華僑教育三十年史 135 南支勤勞奉仕旅行記 153 満鮮旅行記 175 宮澤一郎 南支南洋經濟研究會二十年史 213 南支南洋研究(自第一號至第三九號)總目次 229 發行所 台北商業高等學校 南支南洋經濟研究會 台北市大安字龍安坡三七三番地 編集兼發行人 塩谷巌三 台北市表町二丁目八番地 印刷人 戸高常吉 台北市表町二丁目八番地 印刷所 山科商店印刷部 昭和十八年四月二十三日印刷 昭和十八年四月二十七日發行 印刷実費 壱円六拾銭 第四十號 昭和十八年五月 黒田秀樹 南方共榮圏に於ける統治並びに開發と對人政策(講演) 鹽水港製糖株 式会社専務取締役 1 新香港各業調査録 21 小林林平譯 新疆省概観 89 宮澤一郎譯 ボルネオ原住民の研究 101 黄登 選 學術論文二等(香坂助教授審査) 支那商業經濟用語の系統的研究 1
附録 2.南方經濟総目次 1933-1943 第一巻第一號 年 2 囘 三月十日/十月十日發行 昭和八年三月十日發行 論説 吉成鐵雄 植民政策の倫理化 1 河合 讓 經濟價値の構成原理 13 研究 杉浦治七 ジョン・ロックの貨幣論 29 成宮嘉造 支那民事法の近代化 65 内藤保廣 ジャヴァに於ける土地所有形態の發生的研究 103 時評 遠藤壽三 所得單税論再考 129 鈴木源吾 特異的傾向を有する米國の失業補償制度 143 紹介
河合 讓 Bertrand Russel : Education and the Social Order 157
鈴木源吾 Proceedings of the First Independence Congress held in Manila 160 坂田國助 林東辰氏著『臺灣貿易史』 164 附録 フィリピン關係文献目録 第一巻第二號 昭和八年十月十日發行 研究 新里榮造 パレト入門 35 内藤保廣 經費の社會政策的意義 63 時評 成宮嘉造 臺灣地方自治制擴充是非兩論に就いて 85 杉浦治七 景氣政策としてのインフレーション 96 紹介 渡邊 進 最近の金融文献二つ 高島佐一郎教授著『金融景氣とその限界』ペシ ツク=ロオレンス『貨幣の混亂とその救濟策』 106 河合 讓 二木杉村兩氏の經濟哲学 113 附録 英領マレー關係文献目録 第二巻第一號 昭和九年五月十日發行 研究 吉成鐵雄 原始社會に於ける土地所有制度 1 渡邊 進 原價より見たる經營の經濟的特質 15 杉浦治七 ミイゼスの流通信用理論 39 成宮嘉造 君主政體と共和政體との區別を論ず 55 資料 J.J.Kooy 蘭領印度に於ける經濟界及び財界の現状 79 鈴木源吾 コモンズの經濟學説とシェイファーの批判 89 附録 暹羅關係文献目録 英領ボルネオ・サラワク・ブルネイ關係文献目録
第二巻第二號 昭和十年三月十日發行 研究 河合 讓 學問の誕生ータレスの研究- 1 伊大知良太郎 海上保険平均料率と平均危險率 29 鈴木源吾 勞働運動傾向の決定要素(英文) 57 資料 杉浦治七 オヴァストンの景氣論 83 渡邊 進 バンバリィ「間接費論」の研究 95 紹介 吉成鐵雄 ボン教授の經濟政策體系論 106 附録 佛領印度支那關係文献目録 南支南洋研究第一巻及び第二巻総目次 第三巻第一號 昭和十年十二月二十五日發行 研究 杉浦治七 トウクの景氣論─物價史の一研究─ 1 論考 鈴木源吾 コモンズのニリライズム論─マルキシズムと對照して─ 44 伊大知良太郎 シュナイダ「生産の理論」 64 紹介 渡邉 進 野瀬新藏氏譯「實例法による經營學入門」 85 河合 讓 杉村氏の『經濟哲學』 89 第三巻第二號 昭和十一年五月二十五日發行 吉成鐵雄 臺灣蛮族經濟研究の價値 1 内藤保廣 普遍主義國家組織原理と經費の限界 14 渡邊 進 間接費配賦差額の處理 34 杉浦治七 ミルの貨幣及び信用論 56 伊大知良太郎 標準經營の統計的表現について 79 論考 河合 讓 ノイマルクの經濟政策論 93 鈴木源吾 コモンズの制度主義經濟學 115 鹽谷厳三 法律上より見たる蘭領印度住民の區別 129 第四巻第一號 昭和十一年十二月三十日發行 研究 内藤保蔵 経費に於ける生産性 1 渡邊 進 結合生産物の原價 23 論考 吉成鐵雄 統計を通して觀たる植民地貿易 37 井原 一 積入通知書の法律上の性質 49 中西 旭 利率と割引率との關係 58 杉浦治七 金本位制の沒落 73 時評 鹽谷厳三 日蘭海運協定の成立と日蘭會商 81
資料 伊大知良太郎 内臺物價變動の關聯 92 紹介 田淵 實 生島廣治郎氏著「現代の貿易と貿易政策」 101 渡邊 進 吉田博士「間接費の研究」讀後 104 彙報 河合 讓 リッケルトの追憶 108 第四巻第二號 昭和十二年四月三十日發行 論究 内藤保廣 課税思想の二類型─税制批判の出發點としての─ 1 杉浦治七 ソヴエートの貨幣について 11 鈴木源吾 輸入割當制度に對する一考察─蘭領印度織物輸入に關聯して─ 25 資料 佐藤 佐 臺灣の無頼漢と臺東開導所 47 松尾 弘 臺灣と支那人勞働者(上)─右に關する一つの調査報告書─ 63 紹介 田淵 實 ハーバラーの自由貿易論 111 渡邊 進 土岐政蔵教授「工業會計概論」を讀む 119 第五巻第一號 昭和十二年六月三十日發行 論究 渡邊 進 増價と資本の維持 1 伊大知良太郎 エンゲル法則と生計費指數 17 井原 一 混合寄託に就て 33 石橋憲治 臺灣證券取引所設置問題について 45 資料 塩谷厳三 現行爪哇糖生産統制法に就て 59 松尾 弘 臺灣と支那人勞働者(下)─右に關する一つの調査報告書─ 79 紹介 田淵 實 本邦輸出貿易の發展に關する二三の論文について 145 中西 旭 二宮尊徳の哲學研究を繞りて─特に新刊二書の内容紹介─ 153 第五巻第二號 昭和十二年十二月八日發行 論究 杉浦治七 ハーバラーの景気理論 1 渡邉 進 指数會計批判 23 中西 旭 二宮尊徳の經濟思想の立場 38 資料 佐藤 佐 滿洲國新民法典と臺灣新民事法 63 田淵 實 アメリカ合衆國の國際収支均衡について 81 井原 一 法人の目的に關する大審院判例の變遷 95 紹介 内藤保廣 戰時財政論の一班 119 古館市太郎 別輯 切田先生と商業英語 (1) 小此木爲二 (5)
上田辰之助 (7) 鈴木源吾 (10) 第六巻第一號 内藤保廣 戦時經濟論序説─その普遍主義的理解─ 1 伊大知良太郎 蜘蛛ノ巣理論と靜態經濟學─特に需要の統計手的確定に關聯して─ 15 井原 一 商人の營業所としての支店 25 渡邊 進 獨立の會計單位をなす支店の會計 59 塩谷巖三 蘭領印度航海法 93 奥野金三郎 暹羅の歴史を背景とせる山田長政 113 第六巻第二號 杉浦治七 信用理論の一傾向 ─ヴグナアの信用創造論批判─ 1 田淵 實 英國海外投資の凋落 17 佐藤 佐 對支文化工作の指導原理 (附新支那學の提唱) 37 渡邊 進 支店會計 ─支店の會計が本店に於いて行なはるゝ場合─ 45 井原 一 有限會社に就て 81 内藤保藏 租税と消費者 91 第七巻第一號 杉浦治七 モールトンの資本形成論 1 鈴木源吾 傷痍軍人職業補導の一先決要件 ─作業分析の實施─ 22 内藤保廣 ファシスタ・イタリヤ財政々策の基調 39 石橋憲治 臺灣重要物産の生産・配給組織(一) ─芭蕉實の配給組織─ 62 渡邉 進 臺灣精糖會社貸借對照表科目解説 78 井原 一 滿洲國民事法規に就いて 82 田淵 實 ヴァイナー教授著「國際貿易理論研究」・猪谷善一博士著「日本貿易論」 94 渡邉 進 高瀬荘太郎博士の近著二つ 100 第七巻二號第八巻第一號第八巻第二號合併號 臺北高等商業學校創立廿周年記念論文集 目次 題字 遠藤壽三 巻頭言 第一部 䑓大教授 楠井隆三 統制經濟の基調としての全體主義(講演) 1 伊大知良太郎 統制經濟と計量經濟學(講演) 33 山鹿光世 儒學を中心とする皇國尊? 嚴論 49 今井壽男 現代學校體育の理念 223 津村和夫 英國姓氏序考 ─英語學上の展望─ 241 石崎政治郎 英民族の言語的貪食性と消化力 296 新里榮造 E MUET の脱落 310 大賀終造 馬來語に就いて 318 第二部 吉成鉄雄 臺灣及爪哇に於ける都會人口に關する研究 319 佐藤 佐 海南島土地慣習 一班と業主權 333