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李節「過耒江弔杜子美」詩について : 唐詩に詠じられた杜甫の墓

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Academic year: 2021

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(1)Title. 李節「過耒江弔杜子美」詩について : 唐詩に詠じられた杜甫の墓. Author(s). 後藤, 秋正. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 53(2): *25-38. Issue Date. 2003-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/743. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 ( 人文科学 ・社会科学編)第五十三巻 第二号 平成十五年二月. 李節 「 過未江弔杜子美」詩に ついて ーー 唐詩に詠じられた杜甫 の墓 ーー. 藤. 秋. 正. 北海道教育大学札幌校漢文学研究室. 後. ^ lv か つて、杜甫 ( 七 一ニー 七七0) の墓 が唐詩 にお いてど のよう に詠 じら れ て いた かに ついて概 観 し、 若 干 の考察 を試 みた ことがあ る 。前 二稿 で取 り上げた 詩 は以下 のと おり であ る。まず 、 詩題 に杜甫 の墓を詠 じた ことが 明記さ れ て いる詩 を挙げ る。. 、『 韓 愈 「 題杜工部墳」 ( 禁夢弼 『 集註草堂杜工部詩外集 ・唱酬附録』 全唐詩続補遺』巻五) 羅 隠 「 経来陽杜工部墓」 (『 甲乙集』巻八、『 全唐詩』巻六六二) 斐 譜 「 経杜甫墳」句 ( 『 詩話総亀』前集巻 一三警句門中、『 全唐詩』巻七 一六) 、『 蓑 説 「 経杜工部墳」 ( 銭謙益注 『 杜工部集 ・唱酬題詠』 詩話総亀』前集巻 一三警句門中、『 全唐詩』巻七二0) 斉 己 「 弔杜工部墳」 (『 白蓮集』巻六、『 全唐詩』巻八四三) 、『 孟費千 「 柔陽杜工部墓」 ( 銭謙益注 『 杜工部集 ・唱酬題詠』 全唐詩補逸』巻 一六). これら の詩を 検索す る に際 し て主 と し て参 照した のは、華 文軒 編 『古典文学 研究資 料桑 編ー杜甫巻ー 上編 ( 唐宋之部第 一冊)』 ( 中華書 局、 一九 六 四第 一版、. 、呉汝燈主編 『 一九八二第三次印刷) 唐五代人交往詩索引』 ( 上海古籍出版社、 一九九三)などである。また、詩題に杜甫 の墓を詠ずることが明示され ていな. くとも 、唐 ・五代 にお いては以下 の詩が杜 甫 の墓 に言 及し て いる こと が知ら れ る ( 。 ※印 は前 記 『古典 文学 研究資 料集 編』 に収録さ れ ていな いも の). 5 2.

(3) . 正 秋 藤. 後. 全唐詩』巻 二七0) 来陽繁夜行」 (『 戎 豆 「 全唐詩』巻五九 ; 文苑英華』巻三四二、『 道林寺」 (『 窪 珪 「 全唐詩』巻六七六) 鄭守愚集』巻 一、『 鄭 谷 「 送田光」 (『 全唐詩』巻六九三) 文苑英華』巻 三〇五、『 奥陳陶」 (『 ※杜萄鶴 「. 全唐詩』巻七 一六) 奨陳陶処士」 (『 曹 松 「 、『 全唐詩』巻七七五) 杜工部集 ・唱酬題詠』 詩話総亀』前集巻 一六、留題門、銭謙益注 『 来陽杜工部詞堂」 (『 ※徐 介 「. 摘遺』は、 詩話総亀』前集巻四五、傷悼門所載 の劉斧 『 杜拾遺補伝」所引。『 『 分門集註杜工部詩』所収、李観撰 「 賢 「 詩」 -夜来江雨、百年工部墳 (. 全唐詩』巻八二九) 禅月集』巻七、『 『 其の二〉 ( 読杜工部集 二首」 〈 貫 休 「 全唐詩』巻八四三) 白蓮集』巻六、『 次東陽作」 (『 斉 己 「 全唐詩』巻八四三) 白蓮集』巻六、『 『 其 の 一〉 ( 依韻酬謝尊師見贈 二首」 〈 斉 己 「 ※唐 「 唐 人詩」 に作 る。). 、 正 陳 西人民出版社 、 一九 九 七。 以下、 『卒 葬巻 』 と略 称す る) を 入手 した。 『卒葬 巻 』 は 「 卒 葬 巻)』 ( し かし、前 稿を発 表 した のち に、 博 光 『杜甫 研究 ( 、 副編ー 。 杜甫卒葬 資料 研究)」 から な って いて、 関連資 料も 広汎 に収録さ れ て いる 拙論 と殊 に関わ る のは 「 副編 1考 護編 ( 杜 甫卒葬 研究ご と 「 編 研究 編 ( 唐 五代」 の部 分 であ る。 以下、 そ のうち唐 ・五代 の詩 のす 杜甫卒 葬資 料考 謎」 の、 「 考 讃編」 のうち、唐 から 清 に至 る杜甫 の卒 葬 に関わ る詩文を収載す る 「 べてを 同書 の掲げ る出典 ととも に 一覧 にし てみよう。. 陳振孫 『 直斎書録解題』巻 一把) 詩侠) ( 奥杜甫 ( 戎 星 「 」 全唐詩』巻二七0 ) 唐音統簸 ・丁簸』巻三六、『 来陽鶏夜行」 (『 戎 是 「 ) 集註草堂杜工部詩外集 ・唱酬附録』 禁夢弼 『 題杜工部墳」 ( 韓 愈 「. 奨陳 陶処 士」 (『全唐 詩』巻 七 一六) 松 「. 全唐詩』巻五九 二 文苑英華』巻三四二、『 道林寺」 (『 雀 珪 「 ) 杜詩詳注 ・諸家詠杜続編』 来陽弔杜子美」 (『 ◎李 節 「 曹. 全唐詩』巻六六二) 経来陽杜 〔一作今林〕工部墓」 (『甲乙集』巻八、『 羅 隠 「 唐音戊簸』巻七六) 文苑英華』巻 二八二、『 鄭守愚文集』巻 一、『 送田 〔一作沈〕光」 (『 鄭 谷 「 全唐詩』巻六九 一) 経青山弔李翰林」 (『 杜萄鶴 「 全唐詩』巻六九 二) 寄温州雀博士」 (『 ◎杜萄鶴 「. 6 2.

(4) . 李節 「過来江弔子美」 詩について. 杜萄鶴 「 全唐詩』巻六九 三) 奥陳陶」 (『 、『 来陽嗣志』 全唐詩』巻七二0) 斐 説 「 経杜工部墳」 ( 銭謙益 『 銭注杜詩 ・唱酬題詠』引 『 斐 譜 「 経杜甫墳」 (『 詩話総亀』前集巻 一三) 釈貫休 「 其 の二〉 ( 『 禅月集』巻七) 読杜工部集 二首」 〈 釈斉己 「 全唐詩』巻八三八) 送人遊南」 (『 白蓮集』巻六、『 釈斉己 「 次来陽作」 (『 全唐詩』巻八四三) 白蓮集』巻六、『 釈斉己 「 弔杜工部墳」 (『 全唐詩』巻八四三) 、『 東陽杜工部墓」 ( 来陽同志』 孟賓千 「 銭謙益 『 銭注社詩 ・唱酬題詠』引 『 全宋詩』巻三). 東陽 弔杜 子美 」と杜萄 鶴 「 こ の中 で、拙 論 で言 及しな か った のは、◎印を付 した李節 「 寄 温州催博 士」 の二篇 であ る。 杜萄鶴 ( 八 四六ー九〇 七) の詩を取 県宰 不仁 工部餓 酒家. 県宰 識 る無 く し て翰 林 醒む. 不仁 にし て工部 餓え. り上げな か った のは、 こ の七 言律 詩 の領聯 に、. 酒家無識翰 林 醒. と 言 い、 『明皇雑 録』 の記載 と同 じく杜甫餓 死説 に論拠 を与え 得 る表 現と な っては いるも のの、 杜甫 の墓 を 詠 じた作 品 ではな いこと によ る。 では 『卒 葬 巻』 に見え る李 節 「 来陽 弔杜 子美 」 とはど のような 作品 であ ろう か。 以下、 作者 と こ の詩 に ついて考え てみた い。 二 李節と は いかな る人物 であ ろう か。 『全唐詩 』巻 五百六十 六 の小伝 には、 次 のよう に言う。 李節、登 大中進 士第。 嘗 為 河東節 度慮鈎 巡官。 詩 三首。 李節、 大中 の進 士 の第 に登 る。 嘗 て河東 節 度慮鈎 の巡官と為 る。 詩 三首。 また、『全唐文』巻 七百 八十 七 の小伝 には、 節、大 中時進 士。 嘗 為 河東節 度使虚鈎 巡官。 後官 戸部郎中。 節は、 大 中 の時 の進 士。 嘗 て河東節度使虚鈎 の巡官と為 る。 後 に官 は戸部郎 中。. とあ って、 戸部郎中とな った こと が付加され て いる。 これら の小伝 は何 に基づ いたも のであ ろう か。 まず、進 士登 第 の年 に ついて考え てみよう。『 唐 詩 紀事』. 巻六十、李 節 の条 では、後 に触 れ る 「 送還州道 林疏言禅師太 原取経詩序」 を引 用 した のち に、 「 節、登 大 中進 士第。」 と 言う。 徐松 『登 科記考』 は、 巻 二十 七、. 。」 と述 べて いる。 李節 の官 歴 から考え て、宣 宗 の大 中 ( 附考、進 士科 の項 に、 他 の人物 と並 ん でここに李節 を 入れ、 「 大中進 士第、 見 『唐 詩紀事』 八 四七ー. 7 2.

(5) . . 八 五 九 ) 年 間 、 し か も 大 中 十 一年 以 前 に 登 第 し た こ と は 確 か で あ る 。. 正史 にお いてはただ 一箇 所、 『旧唐書 』巻 十九 下、傭宗 本 紀 の乾符 三年 ( 八七 六) 七 月 の記事 に李節 の名 が見え る のみ であ る。 以戸部郎 中李節 為駕部郎 中。 一 戸部郎 中 李節 を 以 て駕部 郎 中と 為す 。. 「 戸部郎 中」 は尚 書 戸部 に、 「 駕 部郎 中」 は尚書兵部 に属す る いずれも 従 五品上 の官 であ り、 戸部 郎中 の職 掌 に ついては、 『旧唐書 』 巻 四十 三、職官 志 に、 郎 中 ・員 外郎之職、掌分 理 戸 口 ・井 田之事。 郎 中 ・員 外郎 の職 は、 戸 口 ・井 田 の事を分 理す るを掌 る。 と 言 い、 「 駕 部郎 中」 の職 掌 に ついては、 同じく 『旧唐書 』巻 四十 三、職官 志 に、 郎 中 ・員外之職 、掌 邦 国輿箪 ・車乗 ・伝 駅 ・厩牧 ・官 私馬牛 雑 畜簿籍 、 弁其出 入、 司其名数。. 郎 中 ・員外 の職 は、 邦国 の輿輩 ・車乗 ・伝駅 ・厩牧 ・官 私 の馬牛 雑畜 の簿籍を掌 り、其 の出 入を 弁 じ、其 の名数を 司 る。. と言う。 それ では、李節 が戸部郎 中と なり、さら に駕部郎 中 に遷 る以前 に、 河東節度使虚 鈎 の巡官 であ った と いう のは、 い つご ろ のことな のであ ろう か。 虚. 起家 し、左 補 閥、 給事 中、 華 州刺史、 広州刺 史 などを 歴任 し、 大 中六年 ( 八五 二) には検校 司空 ・太 原労 ・北 都留守 ・河東節度使 と な って いる。 大中九年 の. 鈎 ( 七七六ー 八六 二) に ついては 両 『唐 書 』とも伝 を立 てて いる。 『旧唐 書』巻 百七十七 の本伝 によれば 、慮 鈎 は 元和 四年 ( 八〇九 ) の進 士。 校 書郎 と し て 宣宗 の詔 に、. 常 に在 り、 宜 しく撲 路 に升 り、 以 て群 僚 に表 た る べし。. 河東軍節 度使虚 鈎、 長才博達 、 敏識宏 深。 ・ i・ 藩 垣之 和気 不衰、 台閣 之清 風常 在、宜 升撲路、 以表群 僚。. まさ. ひく. したが. 或 いは卑ければ 、筆 削. ノ. ^ 3). { 4). 称わず、 其 の直館 は伏 し て請 う、 停廃 し、 更 に修. 撰両員 を 添置せ ん ことをと。 勅 旨 に宜 しく直館 万年県 尉 張範、 浬陽 県 尉李節 に依 り て、本官を 勤守 せ しめ、 戸部郎 中 孟穆、駕 部員 外郎 李 漠を 以 て、並 び. を直館 と 為す 、史 を修む るは重 事な るを 以 て、合 に廷 臣よ り選 ぶ べし。 秩序. 監修 国史 ・門下侍郎 兼礼部尚 書 ・平章 事鄭 朗奏す、 当館 の修撰 と直史 と 共に 四員、故事 に准 う、 己 に籍 に通ず る者 を修撰と 為 し、 未だ 朝 に昇らざ る者. 通籍 為 四員、 分修 四季之事。. 筆削不称、其直館伏請停廃、更添置修撰両員。勅旨宜依直館万年県尉張範、浬陽県尉李節、勤守本官、以戸部郎中孟穆、駕部員外郎李漠、並充当館修撰、. 監 修国史 ・門下侍郎 兼礼部尚 書 ・平章 事鄭期奏、 当館修撰直 史 共 四員、 准故事、 己通籍者為修撰 、未 昇朝者為直館、 以修史重 事、合 選 廷 臣。 秩序 或 卑、. 直官 であ った者 の中 に、 「 万年 県尉 張範」 と 「 浬陽県 尉李 節」 の名 が見え て いる。. 引用され て いる。 こ の上奏文 は、 史 館 の定 員 に ついて、 修撰 と 直官 が各 二名 であ ったも のを、 修 撰を 二名増 員 し て直官 を廃 止す る こと を求 めたも のであ る。. こ のほか、 李節 の名 が見え る のは唐 ・蓑庭 格撰 『東観奏 記』巻中 であ る。 ここに監修国史 ・門 下侍郎 兼 礼部尚 書 ・平章 事 の鄭朗 の 「 請 停直 官増修撰 奏」 が. の間 と いう こ と に な る 。. とあ って、 そ の年 に尚 書左 僕射 とな って いるから 、李節 が河東 節度使虚 鈎 の群 召 によ って、判官 ・推官 に つぐ地 位 であ る巡官 であ った のは大 中六年 から九 年. 衰えず 、台閣 の清 風. 河東軍節 度使慮 鈎 は、長才博達、 敏識 宏 深な り。 ・ ー・ 藩 垣 の和気. 正 藤. 秋 後. 8 2.

(6) . 李節 「過来江弔子美」 詩について. に当館 の修 撰 に充 て、 籍 に通ず るを 四員と 為し、 四季 の事 を分 修せ しめよと。. 修撰と直官 と は、す でに廷 臣とな って いる者 と、 そう でな い者 を 区別 し て言う。 史官 にあ っては、『旧唐書 』巻 四十 三、職官 志 二、史館 の条 に、 修撰直官。 天宝 己後、他官兼 領史識者、 謂之史館修撰、初 入為直官 也。. 、. 修撰 直官。 天宝 己後、他官 の史職 を兼 領す る者 、之を史館 修撰 と 謂 い、初め て入るを直官 と為す なり。 とあ るよう に、地方官 と史 官を兼任 し て いる者 のうち、 史館 に 入 ったば かり の者を直官 と称 した よう であ る。 それ では、 「 監修 国史 ・門 下侍郎兼 礼部 尚 書 ・平章事」 であ った鄭朗 が 「 請停直官 増 修撰 奏」 を書 いた のは い っのこと であ ろう か。 『旧唐 書 』巻 百七十 三、. 鄭朗伝によれば 彼は長慶元年 ( 八二 一) の進士 であ り、大中年 間 の事績 に ついては次 のよう にあ る。 大中朝、 …… 入為 工部尚 書、 判度支。 遷御史 大 夫、改礼部尚書。 以本官 同平章 事、加中書侍郎 ・修賢 殿大学 士、 修 国史。 大中十年 、 以疾辞 位、 進加検 校右僕射 ・守太 子少師。 十 一年 十 月卒。 大中 の朝 に、 ……入り て工部 尚書 と為 り、度 支を判す。 御史大 夫 に遷り、 礼部尚書 に改 めら る。本官 の同平章事 を 以 て、 中書侍郎 ・修 賢 殿大学 士を加 えられ、 国史 を修 む。 大中 十年 、疾 を 以 て位を辞 し、進 ん で検校 右僕射 ・守太 子少師 を加えら る。 十 一年 十 月卒す 。 また、『旧唐書』巻十 八下、宣宗本 紀 には、 いず れも大 中十 一年 ( 八五七) のこと と し て次 のよう に言う。. 二月、 以通議 大 夫 ・守 中 書門 下侍郎 ・兼 礼部尚書 ・同平章事 ・修賢 殿大学 士 ・上柱 国 ・賜紫金魚袋鄭朗 可監修 国史。 ゆる 二月、 通議大 夫 ・守中 書 門下侍郎 ・兼礼部尚 書 ・同平章 事 ・修賢 殿大 学 士 ・上柱 国 ・賜紫金魚袋鄭朗 を 以 て国史 を監 修す るを 可 す。 十 月、制 通議 大 夫 ・守 中書侍郎 ・礼部尚書 ・同平章 事 ・監修 国史 ・上柱国 ・賜紫金 魚袋鄭 朗 可検校尚 書 右僕射 、兼 太 子少師 。. 十 月、 通議大 夫 ・守中 書侍郎 ・礼部 尚書 ・同平章 事 ・監修国史 ・上柱 国 ・賜紫金 魚袋鄭朗 に制 し て検校尚 書右 僕射 を 可 し、 太 子少師 を兼 ね しむ。 ( 6) 鄭朗伝と宣宗 本紀 と では任官 の時期 に若 干 の相違 があ るが、前 述 の上奏文 が書 かれた のは、鄭朗 が監修 国史 であ った大 中十 一年 ( 本伝 によれば 大 中 一〇年 ころ) であ ったと考えら れ る。 つま り、李 節 が淫陽県 の尉 であ って、史館 の直館 を兼 ねた のは、 そ のころと いう こと にな る。 浬陽 県 ( 隊西省 浬陽 県) は、京 兆府 に属す る 二十 三県 の 一つであ り、 そ の尉 は従 八品下 であ る。. こ のほか、李節 の経歴 に関す る資料と し ては、李節 自身 の 「 贈 釈疏 言還道 林寺 詩」 の序 ( 『唐 詩紀事』巻 六0、『唐 文粋 』巻九 六、『全唐 詩』巻 五六 六、『全. 唐文』巻七八八)がある。 この序文は、『 唐詩紀事』と 『 唐文粋』では 「 送還州道林疏言禅師太原取経詩序」に作り、『 全唐文』では、 「 鏡樟州疏言禅師詣太. 原求蔵経詩序」 に作 って いる。 こ の題名 の異同 に ついて、 王仲 錆 『唐詩 紀事 校箸』 ( 巴街書社 、 一九 八九) は、 以下 のよう に言う。. 、全文載 『 按此節録李節 「 、非也。 送還州道林疏言禅師太原取経詩序」 唐文粋』巻九六、『 全唐詩』編者不考原作、妄定文題為 「 贈釈疏言還道林寺詩序」 、今拠補。中華新校本拠 『 、非贈其還湘也。 全唐文』巻七八八所載即同 『 『 文粋』 全唐詩』補題、亦非。詩末言 「 上人去今幾千里、何日同遊今湘川水」. 『全唐詩』 は確 かにも と の題を改 め ては いるが、 こ の序 は 王仲錆 の指摘す るよう に、 疏言禅師 が太 原 へ取経 に赴 く のを 見送 ったも のであ り、取経を 終え て 「 湘」 に還る のに際 し て贈 ったも のではな いのであろう か。 本文 には次 のような 一文 があ る。. 会 昌季年、武宗大麟 釈 氏、 … …。 由 是 天下名詞珍宇 、毅撤 如掃。 天子建 号之初、 雪釈 氏之 不可廃 、詔徐復之。 而自湖 己南、遠 人畏法、 不能酌朝 廷之 体、. 9 2.

(7) . . 正 秋 藤 後. 、 、 ー・ 道 林寺、 湘川之 勝遊也。 有 釈疏 言、警 弁有 謀。 独 日、 太原府 国家 旧都、多 釈嗣。我 聞其 帥 司空菊 陽 公 天下仁人 我 第往 前 時焚撤書 像、 殆無遺者。 ・ 。 ー・ 、 吾喜 疏言奉 君 ー・ 求購釈 氏遺 文、 以恵 湘 川之 人、宜 其 聴我 而助 成之 突。 ・ 月未幾 、 凡得 釈経 五千 四十 八巻。 以大中九 年 秋 八 月 筆 目 河東 而帰於湘 憲 ・. 疏 言 の君 の令を 奉 じ、 釈 の宗 を 演ぶ る に、 寒 暑を 憧らざ る の勤 め. の. ー・ 之令、 演釈之宗、 不憧寒 暑之 勤 、徳 及遠 人、 為叙其事、 且贈 以詩。 詩 日、 ・ けず 。 是れ 由 り天下 の名 詞珍 宇、 毅撤 せら るる こと掃 くが如 し。 天子 建 号 の初 め、 釈 氏 の廃す 可 からざ るを ー・ 会 昌 の季年、 武宗 大 いに釈 氏を麟 る、 ・ すす 。 ー. 、 道林寺 は、 雪ぎ、 詔 し て徐 に之 を復す。 而 る に湖よ り 己南 は、速 人 法を 畏れ、朝 廷 の体を 酌む能わず、 前時 書像を焚撤 し て 殆 んど遺す 者無 し . 、 、 。 湘 川 の勝遊 な り。 釈疏 言有 り、 警弁 に し て謀有 り。 独 り 日く、 太 原府 は国家 の旧都 にし て 釈嗣多 し 我 聞く其 の帥 司空 苑陽 公 は 天下 の仁 人な り ゆる た 。 ー. 月未 だ幾 ならず し て、 凡 て釈経 五千 と、 我第 だ往き て釈氏 の遺 文を 求購 し、 以 て湘 川 の人 に恵ま んとす 、宜 しく其 れ我を 聴 し て之 を助成す べしと ・ ひ、. 吾 ー・ 四十 八巻を得た り。 大 中九 年秋 八月を 以 て、 筆き て河東 より湘 に帰ら んとす 。 ・. ー・ あり て、 徳 逮 人 に及ぶを 喜び、為 に其 の事 を叙 し、 且 つ贈 る に詩を 以 てす 。 詩 に 日う、 ・ 八 四七) 閏 三月 であ る。 八 四五) のこと であ り、宣宗 が 即位 し て排 仏政 策を改 めた のは大中 元年 ( いわゆ る会 昌 の廃仏 が本 格的 に行 なわ れ た のは会 昌 五年 ( 、 釈経」 五千余 巻 を購 い得 て、 湘 水が北 八 五 五) 八月 に、 道 林寺 の疏 言禅師 が比較 的多 く 仏典 が 保存さ れ て いた河東 ・太 原 に赴き 「 そ の八年 後 の大 中九 年 ( 、序 文. 、 流す る長沙 の西、 岳麓 山 のふも と の道 林寺 に帰 ろうと した こと にな る。『唐 詩 紀事 校範 』 の指摘 は 『全唐 詩』 所載 の序 文 が前半 部分を省 略 し て いる点. 、 幾 千 里」も 離 れ た南方 の道 林寺 に帰 ろうと し の題名を 改 変 し て いる点 では当 って いよう が、 こ の序 文 と 三篇 の詩 が、疏 言禅師 が太 原 で大量 の仏典を 得 て 「. 、 。 、 て いる のに贈 るも のであ る こと は疑問 の余 地がな い。疏 言禅師 は長安 から 太 原 へ行 って仏典を収集 した際 に 李節 に会 ったも のであ ろう なぜ なら 序文 に 八五 二) には検校 司空 ・太 原升 ・北都留 守 ・河東 節度使 と ある 「 司空菊 陽 公」 とは鹿 鈎 のことと考え られ る から であ る。 先述 した よう に、直鈎 は大 中六年 ( な って いる。 つま り、 大 中九 年 八月ま では、李節 は太 原 の慮鈎 のも と で巡官 であ った こと は確 か であ る。 、 こ こで、 李節 の経 歴を整 理 し てお こう。 まず、大 中 の初年 に進 士 に登第 し て いる。 ついで、 大中 六年 ころ に河東 軍節 度使 鹿 鈎 のもと で巡官と なり 大 中九 、 、 年 八月に、 太 原 で仏典を収集 し て いる道 林寺 の疏 言禅師 と出会 い、 彼が道 林 寺 に帰 る のを 見送 った。 そ の後 ほどなく 浬陽県 の尉とな り 史館 の直館を兼任 。 、 す るが、まもな く本官 に戻 った。 乾 符 三年 には戸部 郎 中 から駕部郎 中 に遷 って いる。 それ 以降 の事績 に ついてはま ったく 不 明 であ り 没年も わ から な い 三 ( 7). もと. 李節 の 「 送漂州道 林疏 言禅師 太 原取経詩」 三首 をま ず見 てお こう。 あらあら. 湘 川 は糟糟と し て俗 は漉 しく し て且 つ限 る か. おし. 湘 川信信今俗濃 且狼. 殺 す ことを 利 と し倫 む こと を業 とす るも吏 は之 に馴う る こと莫 し. ぬす. 利殺業愉 号吏莫之 馴. 繋 だ 釈氏 のみ暴を 易え て仁 なら しめ ん. た. 繋釈 氏号 易暴使仁.

(8) . 李節 「過束江弔子美」 詩について. 優仰今噺 詠. 橋席巻今櫓 淋 閑. 自沈浦今 畑隈 山. 猿流騰峯今雲樹摩塵. 湘 水 沼 滑 今 四望 何 己. 釈何在今 釈 在斯文. 長波 に鼓 し て何 れ の時 にか還ら ん. 橿仰 し て噺詠す. 橋 席 は 巻 き て櫓 琳 は 閑 か な り. 月は浦 に沈 み畑 は山 に膜く. 猿抗は騰撃して雲樹は摩摩たり. や 湘 水 は 潜 浴 と し て 四望 は 何 ぞ 己 ま ん. 釈は何 く にか在 る. しず. 釈は斯文 に在 り. 鼓 長波今何 時選. 湘 川は超忽 にし て落 日は腕腕た り ひら 松 は 秋 亭 を 覆 う も 蘭 は春腕 に披 か ん ゆ 上 人 去 く こと 幾 千 里. 湘 川超忽 今落 日腕腕. 上 人去 今 幾 千 里. 何 れ の日にか同 に遊ば ん湘 川 の水. 松 覆秋亭 今 蘭 披 春腕. 何 日同遊今湘 川水. の二〉 〈 宜ハ. 〈 其 の三〉. 「 信 信 」 は 、 も と も と 犬 が 吠 え た て る さ ま だ が 、 こ こ は 水 が 岩 を か ん で激 し く 音 を た て る さ ま 。 「 腕 腕 」 は 日が 暮 れ よ う と す るさ ま 。 「 超 忽 」 は、 は る か に. 遠 いさま。 〈 其 の こ は湘水 一帯 が殺伐 と した土地柄 であ り、 こ の地域 を教 化す る には仏典 の存 在 が不可欠 であ る ことを、 〈 其 の二〉 は湘水流域 の昼夜 の舟. ( 8). 旅 の状 況を、 〈 其 の三〉 は湘水 の夕景と再会 への希望を述 べて いる。李 節 が こ のよう に 『楚辞 』 の体裁を 用 いて詩 を作 った のは、 道林寺が湖南 の名刺 であ る こと から、 そ こに帰 る疏 言禅師を送 る のにふさ わ し い詩体 であ ると判断 したも のであ ろう。. ついで李節 「 過未 江 弔子美 」 詩を 見よう。 『卒葬 巻』 は こ の詩 の出典 と し て、 仇兆繋 『杜詩 詳注 ・諸家 詠 杜続 編』 を挙げ る のみ であ る。 しか しこ の詩 は、. 康無五十五年 (一七 一0)三月新鋳、胞与堂蔵板、張応星編訂 『 未陽県志』 ( 内閣文庫蔵。以下、康無五十五年刊 『来陽県志』と称する)巻八、丘墓 のうち. の 「 唐拾遺杜 甫墓 」 の項 に見え て いる。ま た、 詩 題は 『杜 詩 詳註』 の附 録中 の 「 諸家 詠杜 続編」 では 「 来陽 弔杜 子美」 に作 るが、陳尚 君輯録 『全唐 詩 続拾 』. (『全唐詩補編 』 中、 中華書 局、 一九九 二)巻 三十 では、 「 過 来 江吊 子美」 に作り、 「『杜詩 詳注』附 『諸家 詠杜続 編 』引 『未陽県志』。 此詩 承陶敏先生 録 示。」 と 言う。『卒葬 巻 』も 「 来陽 弔杜 子美」 と し て いるが、康購 五十 五年 刊 『来陽県 志』 に見え るよう に、 「 過宋 江 弔子美」 とす る のが本来 の姿 に近 いであ ろう。 『杜詩 詳注』 が 『東陽県 志』 を出典と し て挙げ な がら、 なぜ 「 来陽 弔杜 子美」 と した かは 不明 であ る。 当該 の詩 を含 む 『未陽 県志 』 の李節 に係 わ る記 述 の全 文 は以下 のと お り であ る。. 唐 天宝 時 詞客李 節、 過来 江弔 子美詩 云、 東陽浦 口繋 扇舟、紅夢洲頭宿 白鴎、 半夜青燈 千 里客 、数声寒 雁 一天秋、 塾吟隔岸情 如訴、 斗柄横 江勢 若 流、 偏. 1 3.

(9) . 正. 鰍 後. 帳杜陵 老詩 伯、断 碑 古木綾荒 丘。 焚之 詞前。 是夜 夢 子美 子沙 堤和之 云、砲 嘩 明 月阻 孤舟、 徹夜 相逢 両白 鴎、 傾蓋 不知傷 旧憾、 思情 那 忍別新 秋、 幸逢 武 勇 全帰賓 、 又費 工夫派 上流、若 遇故 郷 王永 日、便将清 涙渥荒 丘。 王永 日子美 之故 人也。. 蚤吟隔 岸情 如訴. 数声寒 雁 一天秋. 半夜青 燈千 里客. 紅夢 洲頭宿 白鴎. 来 陽 浦 口繋 扇 舟. 斗柄. 蚤吟. 数声. 半夜. 紅夢. 案陽. 江 に横たわり て勢 は流 るるが若 し. 岸 を 隔 てて情 は訴う るが如 く. 寒雁. 青燈. 洲頭. 浦口. 一天 の秋. 千 里 の客. 白鴎を 宿す. 扇 舟を繋 ぎ. 李節 の、 来 江に過ぎ り て子美を 弔う 詩 に云う、. 斗柄横 江勢若流 欄 帳ず 社陵 の老詩伯. 唐 の天宝 の時 の詞客. 偏帳杜陵老詩伯. 幸逢武 勇全帰費. 恩情 那 忍別新 秋. 傾蓋 不知傷 旧憾. 徹夜相逢両白鴎. 砲畔 明月阻 孤舟. 又 工夫を費 し て上流 に漏 る. 幸 いに武 勇 に逢 いて仝 に賞 に帰 し. 思情. 傾 蓋 し て旧憾を傷む を知らず. 夜を徹して相 い逢う両白鴎. 明 月 に砲嘩 し て孤舟 阻ま れ. 断碑古 木橋荒丘 断 碑 古木 荒 丘を綴 る と。之 を 詞前 に焚 く。 是 の夜 子美 の沙 堤 に之 に和す るを夢 みる に云う、. 又費 工夫派上流. 故郷の王永 日の. とも みずぐち. 廠 ぞ 忍び ん新 秋 に別 るる に. 若遇故郷王永日. 便 ち清 涙を将 て荒 丘 に鷹 ぐ に遇うが若 し 便将 清 涙凝荒 丘 と。 王永 日は子美 の故 人な り。. 来陽」 ( 湖南省 来陽市 ) は言うま でも なく、 最晩年 の杜甫 王永 日な る人物 に ついてはま ったく知 る手が かりがな い。 李節 の詩 の語薬 に ついて見 てお こう。 「. 『全唐 詩 』巻 方 田駅を 去 る こと 四十 里、 舟行すれば 一日な り、 時 に江 の漉 るに属た り、方 田 に泊す。) 詩 (. 器来陽 以僕阻水、 書致 酒肉、 療儀 荒 江、 詩得 代懐、 興尽本韻、 至県 呈露令。陸 が、 大 暦五年 ( 七七0 ) 夏、 榔州 の窪偉を 訪ね ようと し て至 った 地。 杜甫 に 「 いや 器来陽 僕が水 に阻ま るるを以 て、 書も て酒肉を 致 し、儀え を荒 江 に療さ しむ、 詩 懐 いに代う るを 路去方 田駅 四十 里、舟 行 一目、時 属 江濃、 泊於方 田。」 ( 得、 興は本韻 に尽く、 県 に至り 器令 に呈す。 陸 路. 二二三) があ る。 『元和 郡県 図志 』 では巻 二十九、衡 州管 下 の六県 のうち にそ の名 があ り、. 2 3.

(10) . 李節 「過来江弔子美」 詩について. 未陽 県、 上。 西北 至州 一百 八十 六里。 本秦県、 因来 水在県東 為名。. 来陽県 、 上。 西北 州 に至る こと 一百 八十 六里。 本 と秦 の県、 未 水 県 の東 に在 る に因り て名 と為す 。 と言う。 衡 州 ( 湖南省 衡陽市) で湘 江と合 流す る未水 ( 来 江) が県 治 の東 側を 北流 し て いる のが地名 の起 こりと な った。 また 「 方 田駅」 に ついては、 康 無 五 十 五年 刊 『東陽県 志』 に、 次 のような記載 があ る。 方 田駅 在県東 南。陸 路 四五十 里、舟行 一日、 即杜 工部阻 水泊舟所。 昔有亭 沼可憩。按唐以前、 梅嶺 大路未開、 赴嶺 南者 皆 経此、 故置駅 通 以 往来、今 駅久廃 無 考、 以地度之、 在新城市 上下間。 、 、 方 田駅 県 の東 南 に在 。 。 り 陸 路 四 五 十 里 舟 行 す 。 こ と 日 る 一 即 に ち 杜 工 部 の 阻 れ を 水 し ま て 舟 せ 泊 所 昔 亭 の 沼 う 憩 可 き 有 り ず に 按 る 唐 以前 、 はか 梅嶺 大路 の未 だ開 けざ るとき 、嶺 南 に赴 く者 は皆な 此を経、 故 に駅を置き て以 て往来 を通ず、 今 駅久 しく廃さ れ て考 う る無 し、 を 地 以 て之を 度 る に、 新 城市 の上下 の間 に在 り。. 武陵渓 口駐 扇舟 渓水. 武陵 君 に随 い北 に向 か って流 る. 渓 口 扇舟を 駐む. 「 扇舟」 は、 こぶね。 王昌齢 「 慮渓 別人」 (『全唐 詩』 巻 一四 三) の次 の句 は、 李節 のこ の句と類似す る。 渓 水随 君向 北流. 一 扇舟. また、杜甫 「 野望」 (『全唐 詩』巻 二三三) にも、 一 層舟空老 去 聖 明 の朝を 補う無 し. 空 しく老 い去 り. 無補聖 明朝 弾 琴収余 響 来 り送 る千 里 の客. 琴を弾き て余響 を収 め. と言う。 「 千 里客」 は、遠来 の旅 人。 例え ば 王昌齢 「 岳 腸 別李十 七越賓」 ( 『全唐 詩』巻 一四○) に、 来送千里客. と言う。 「 紅夢 」 は、 秋 の水 辺 に淡紅色 の花を つけ るた でであ り、 江南 一帯 でよく見られ 、中 ・晩唐 詩 にしば しば登 場す る。 杜 牧 「 欽州慮中 丞見恵名 醍」 猶 お念 う悲 秋. 全唐詩』巻五二四)に、. 猶念悲 秋更 分 賜. 渓を爽む紅夢は風浦に映ず. 更 に分 賜せら れ し ことを. 爽渓紅夢映風浦 片 帆 孤客 晩 夷猶. 紅夢 の花前. 片帆 の孤客. 水駅 の秋. 晩 に夷 猶す. と詠 じられ、ま た、李 郭 「 晩泊松 江駅」 (『全唐 詩』 巻 五九 0) にも、 次 の句 が見え て いる。 紅夢花前 水 駅秋. 闘月. 殊 し て未 だ 生 ぜ ず. 「 青燈」 は、 青くまたたくとも しび。杜甫 「 宿醒 石浦」 (『全唐詩』巻 二二三) に、 闘 月殊 未 生. . 3.

(11) . 正. 鰍 後. 青 燈 死 し て霧を分 か つ 青燈 死分勝 。 『全唐詩 』巻 一八 其 の六〉 ( 擬 古 詩十 二首」 〈 斗柄」 は、 北斗 七 星 の柄 にあた る部分 の三 つの星 頚聯 は章 応物 「 と 言う。 「 蚤吟」 は、 こお ろぎ の鳴 き声。 「. 寒 蚤悲 洞 房. 斗 柄 当 西南. 天河横未落. 驚烏 号 北林. 月満 秋夜 長. 好鳥. 寒蚤. 斗柄. 天河. 驚鳥. 遮音無 し. 洞 房 に悲 し み. 西南 に当 た る. 横 たわ り て未だ落 ちず. 北林 に号ぶ. 月満ち て秋夜 長し. 六) の、 次 の句と発 想 が似 る。 全 十 二句 のうち、 前 半 の六句を引 いてお こう。. 好鳥無道音. 、 杜陵 」 の語を自 称 に用 いて、 「 投簡 杜陵 の野老」 (「 、 に 「 漢 の宣 帝 の陵墓。 杜 甫 は そ の西 に住 ん で いた こと があ り 「 あ 前 る 東 北 は 映 安 県 の 西 長 陵 省 杜 」 、「 惜 別行 送劉 僕射 判官」 (『全唐詩 』巻 立 春」) などと 言う。 例え ば 「 杜陵 の遠客」 (「. 復陰 も 杜陵 の翁」 (「 酔時歌」)、 「 社陵 の野客 」 (「 成華 両県諸 子」)、 「 杜陵 の老翁. 二三四) では、 杜陵 老翁 秋繋船. 扶病 相 い識る長沙 の駅. 秋 に船 を繋 ぎ. 扶病相識長沙駅 平公 は今 の詩 伯. 。 石研詩」 (『全唐詩 』巻 ニニ ー) に は 、 詩伯」 は、す ぐれ た詩 人。 唐詩 には 四例 が見え、 う ち 二例は杜詩 に見え て いる 「 と 言 って いる。 「 平公今詩伯 秀発. 吾 が羨 む 所. 秀発 吾 所羨. 才 は大 な り今 の詩伯. と 見え、 「 贈 畢 四」 (『全唐 詩 』巻 二二五) には、 才大今 詩伯. 家貧 にし て富 の卑き に苦 しむ. ひく. 家貧苦富卑 と 見 え て いる。. 城中. 詩 価大 な る に. 。 。 弔杜 工部墳 」 にも 、 次 のような 句 が見え て いる 八六 四ー九 四三) の 「 末 句は、 東陽 の杜甫墓 が 当時す でに荒 廃 し て いた ことを 示 し て いる 斉 己 (. 城中詩価大. 荒 外 土墳 卑 し 荒外土墳卑 、 可知其時杜甫墓之荒涼 冷落。」 と述 べ て いる。 詩 云、『断碑古木続荒 丘』 弁 謎」 は、 「 ちな みに、 『卒 葬巻 』 の、 こ の詩 に付さ れ た 「.

(12) . 李節 「過莱江弔子美」 詩について. 四. 李節 のこ の詩 は、 「 詩 伯」 など と いう唐 詩 にお いては用例 が少な いのにも か かわらず、 そ のう ち 二例を杜甫 が用 いて いる語を詩 にと り こん で いる こと から. し ても、 少 なくとも杜 詩を かな り の程度 理解 した 上 で作られ た ことは間違 いな いだ ろう。 しかし、 彼 が い っ未陽 の杜甫墓を 訪れ たも のか、 そ の時期を 特定 す. 半夜青 燈千 里客 、 数声寒雁 一天秋」 と いう領 聯 が、遠 く南方 へと旅 し てき た自身 の感慨 とも 重 な って いるとす れば 、 あ る いは る手が かり はま った くな い。 「. 八七 六) に戸部郎 中 から 駕部郎 中 に遷 った のち、南方 へと左 遷さ れ た時 か、黄巣 ( 乾符 三年 ( ? ー 八 八 四) の乱 が長安 に及ぶ のを避け て南方 へと 脱出 し て以. 後 に作られ たも のであ ろう か。 先 に見た よう に彼 は疏 言禅師を 通 し て、 樟 州 ( 湖南 省 長沙市) の西、 岳麓 山 のふも と にあ る道 林寺 と は関わ り があ った。『杜 詩 詳注 』は こ の詩 に ついて、. 中晩 の. 東陽県 志、 以李節 為 天宝 詞客、 誤也。 社 公卒 千大 暦年 間、 豊有 天宝時 先 作弔語 耶。大約 中晩人 耳。 又載 嗣前夢 子美 和詩 一首、 詞気狸 俗、 決非 少陵 語意、 故 削而 不存。. 来陽県 志 に、李節を 以 て天宝 の詞客 と 為す は、 誤りな り。 杜公 は大 暦年 間 に卒 したれば、豊 に 天宝 の時 に先 に 弔語を 作す こと有ら んや。 大約. 人なら ん のみ。 又 蔵前 に子美 の和詩 一首 を夢 みた ろを載す るも 、詞気 は狸俗 にし て、決 し て少陵 の語意 に非ず、 故 に削 り て存 せず。. と 言う。杜甫 が李節 の夢 の中 で彼 の詩 に和した と いう のは、 仮 に事実 であ ったと し ても そ の次韻 した 「 和詩」 が杜甫 のも のであ ると いう確 証はな い のだ から、. これを杜甫 の侠詩と し て 『詳注 』 に収録 しな か った のは見識 を 示したも のであ る。 い っぽう、 光緒 十 一年 (一八八五) 三月、東陽県志局開雛、 李師 濠 等 修 ・. 宋世 聴纂 『未陽県志』 は、李節 と そ の詩を、巻 七 の印墓 の項 ではなく、 巻 八 の叢談 の項 に収録 し て いる。 比較す るた め に全文を引 いてお こう。. 杜甫和詩 湖広通志、唐詞客李節、過来江弔子美詩云、未陽浦口繋扇舟、紅夢灘頭宿白鴎、半夜青燈千里客、数声寒雁 一天秋、蚤吟隔岸情如訴、斗柄 横江勢若流、偏帳杜陵老詩伯、断碑古木続荒郎。焚之嗣前。是夜夢子美於沙混和詩、結句云、若遇故郷王永日、便将清涙漉荒郡。王永日子美之故人也。 ( 9}. 未陽 県志 局本 『来陽県 志』 では、 こ の記事 の出典を 『湖広通志』 と し て いる こと と、 李節を 「 唐 詞客 」 とす る のみ で、 「 天宝 時」 の語が見え な いこと が留. 意さ れ る。 李節 の詩 にも 若 千 の文 字 の異 同があ る。 「 和詩」 のうち結句 のみを引 用す る にとど めた のも 、 これを 杜甫 の詩とす るには疑念 があ った から であ ろ 。 つ/ γ. 李節 は 『詳注 』 の推定 とも 異な り、中 ・晩唐 の人 ではな く、まさ しく晩唐 の人 であ って天宝 の人とす る のは誤り であ る。 宋陽県志局本 『束陽県志 』 が 「 天 宝時」 の三文字 を削除 した のは正し い。. 聞 一多全集』丙集所収、開明書店、 一九四八)は、 また、聞 一多 『 少陵先生年譜会箸』 (『 公卒、 在大暦五年冬、無 疑。 又按戎 是 未陽繁夜行 原注 云 「 為傷杜甫作。 :1・ 則 是公猷 死未陽之 説、由来 甚久。 」・. 公 の卒す るは、 大 暦五年 冬 に在る こと、 疑 い無 し。 又按ず る に戎 豆東陽繋夜行 の原注 に云う 「 杜甫を傷 むが為 に作 る」 と。 . ー. 則ち是れ公 の束 陽 に飲. 鮎.

(13) . 正 鰍 後. 死 す る の説 は 、 由 来. 甚 だ 久 し。. あき. 此皆 宋 以前 詩 也。」 ( 此れ皆 な宋 以前 の詩な り。) と 述 べ、 と指摘 した のち に、 羅隠、 鄭谷、杜荷鶴、 孟賓 千、徐介、 蓑説、蓑 譜 の詩を引 いて 「 東陽県志載 李節 来陽 弔社 子美 詩、 称節 為 天宝 詞客、 則顕係偽 託。. 来陽県志 に李節 の来 陽 に て杜 子美 を 弔う詩を載 せ、 節を 称 し て天宝 の詞客 と為す は、則 ち顕ら か に偽 託 に係 る。. と言う。 ここ でも、 『東 陽県志』 には李 節 を 「 天宝 詞客」 と し て いると いう 記述 があ るが、 聞 一多 は康無 五十 五年 刊 『来 陽県志』 に基づ いて言 ったも のか、. 弁証」 には、 次 のよう に言う。 仇 兆繁 の記述を踏襲 したも のかは 不明 であ る。 果た し てこ の詩 が李節と無関係 のも のかど う か、『卒葬巻 』 の 「. 来陽弔社子美』詩、称為天宝詞客、則顕係偽託。 『 東陽県志』載李節 『 此詩 『 全唐詩』及 『 外編』不載。聞 一多 『 少陵先生年譜会箸』云、「 」是亦未嘗 深究 耳。 .. ^ 地). 偽 託」さ れ たも の こ の指摘 のよう に、康 購 五十 五年 刊 『東陽 県 志』 が李節を 天宝年 間 の人 であ ると 誤 って いる にし ても 、収 録さ れ て いる こ の詩ま でも が 「. 経 束陽杜 工部墓」、 徐介 「 杜工 謁社陵 嗣」、 羅隠 「 であ るとす る聞 一多 の見解 には根拠 が 乏 し い。 康 繋 五十 五年 刊 『来陽県志』巻七、 題詠 には、 す でに韓 愈 「. 題杜 公詞」、 孟費 千 「 杜 公詞」 など の唐 人 の詩が収録さ れ て いる。 仮 に、『来陽県志』 の編纂 者 に、来陽 の杜 甫墓を顕 彰 しようとす る意図 があ っ 部 詞」、斐説 「. たと し ても、 ことさら、 それ ほど著 名 な詩 人と は考え ら れな い李 節 に偽託 し てま で敢え て詩を 握造す る必要 はな か った であ ろう。 す でに前 稿 で見たよう に、. 晩唐 に至ると多 く の詩 人 が東陽 の杜甫墓 を 訪れ、 それぞれ の感 慨を杜 甫 の死 に託 し て詠 じ て いる。 晩唐 にあ っては杜甫 が東陽 で客 死 したと いう ことが多 く の 。李節 の詩 は・ そ のような認識 1 って詠 じられ た ー連 の詩 の中 では比較 的早 い時期 のも 馨 あ る こと は確 か であ る。. 詩人 にと っ1 ハ 通す る認識 にな った. 注. 人文科学 .社会科学編) 北海道教育大学紀要 ( 下こ (「 唐詩に詠じられた杜甫 の墓 ( 」五二ー -、 二 唐詩に詠じられた杜甫 の墓 ( 上ご ( 学文学」 三九、 二〇〇 一・三)、及び 「 北海道教育大学語学文学会 蚕叩 ( 1) 「 〇〇 一・九)参照。. 唐 の皮州刺史扶風 の戎是撰。 直斎書録解題』に、 「 戎豆集五巻 とあり、 「 唐度州刺史扶風戎豆撰。其姪孫為序言、弱冠謁杜甫諸宮、 一見礼遇。集中有奥甫詩、世所伝在家貧亦好之句、星詩也。 」( ( 2)陳振孫 『 」 )と言う。引用されている句 其 の姪孫 序を為りて言う、弱冠にして杜甫に渚宮に謁し、 一見して礼遇せらると。集中に甫を奥する詩有り、世に伝わる所の、家に在りては貧も亦好ろしの句は、豆 の詩なり。. は、五律 「 長安秋夕 (『 全唐詩』巻 二七0) の末句である。 」 大中八年七月」 唐会要』巻六四にも見え ている。ただし、『 唐会要』は鄭朗が上奏した時期を 「 大中八年七月」としており、鄭朗が監修国史であ った時期と合わな い。 「 ( 全唐文』巻七九 一。 この記事は、『 3)『. 会要』六十四大中八年七 孟穆 引 『 束観奏記』中、監修国史鄭朗奏 一条、末注云、「『 戸部郎中」制補 の、孟穆 の条にも、 「 上海古籍出版社、 一九八四) 「 が誤りであることは、琴仲勉 『 郎官石柱題名新考訂』 ( 、 、 、 、 月誤。 」 其 『会要』何以誤、未挙理由。按監修国史為宰相兼職、朗当日監修国史見 『旧唐番』紀 一八下大中十 一年十月、但朗以大中十年正月相 十 一年十月罷 所奏止能在此両年 若八年七月朗尚未相 固 不得而奏也、故知 『 会要』之紀年有誤。 」と指摘されている。 ( 4)『 束観奏記』史館下、史館雑録下は 「 偉」に作る。『唐会要』巻六四に従 って改めた。. 5)『旧唐害』巻 一八下、宣宗本紀は 一一月とする。 ( )とあるように、宰相 貞観己後、多く宰相を以て国史を監修せしめ、遂に故事と成るなり。 貞観己後、多以宰相監修国史、遂成故事也。」 ( ( 6)監修国史に ついては、『旧唐書』巻四三、職官志 二、史館 の条 に、「.

(14) . 李節 「過来江弔子美」 詩について. が兼任することが通例であ った。 7)引用は 『 唐文粋』 ( 四部機刊初編)による。 (. 8)『 ( 杜詩詳注』は康無四二年 (一七〇 三)に刊行されて以後、数次にわたる考訂 ・増訂を経ている。 ここは、康無五二年 一七 一三)葵巳の附記を有する後印本を採用したと いう中国古典文学基本 ( 叢書 『 杜詩 詳注』 ( 中華書局、 一九七九)によ った。 この後印本に李節 の詩が収録されていると いうことは、仇兆繋は康塵五五年刊 『 来陽県志』ではなく、それ以前に刊行された 『来陽県志』を参照したことになる。康. 明 ・知県 劉宗滴 康購九年 (一六七0). 朱学忠 方暦四四年 (一六 一六). 明 ・衡州知府 禁汝楠 嘉靖三 一年 (一五五二). 繋五五年刊 『東陽県志』には、左記 の 「 県志旧序」が収録されている。. 清 ・知県. 仇兆薬が参照した のは康照九年刊本 であろう。しかし、 これら三種 の刊本は現存するかどうかも不明であり、参照することができなか った。 ( 9)県志局本が出典とする 『湖広通志』は、『四庫全書総目』巻六八、史部、地理類 一によれば、全 : 一 〇巻、適柱等監修。康殿甲子 (一六八四) の 「 旧志」 に基づ いて増併し、薙正 一一年 (一七三三)に成 っ た と いう。. 0 ・ ら 「 ( 集註草堂杜工部詩外集 ・唱酬附録』などには 「 題杜工部墳」として収める。 ここに収録されるのは、 「 1)冒頭 の 一覧に示したように、『 今春偶過来暢路」 か 虚使詩人嘆悲起」ま での中間部分 のみであ って、 首尾は省略され、『 来陽県志』には、 「 鯖首尾未録、此直中段耳、余倶見杜詞集。 篇 の首尾は未だ録さず、此れ直だ中段 のみ、余は倶に杜嗣集に見ゅ。 」( )と言う。『 杜嗣集』については未詳である。 1 ( 李白における 『 捉月』説話ー終蔦説話 の伝記論的意味」 (『 李白伝記論』所収、研文出版、 一九九 四)は、李白=詩仙と いう評語が定着していく中で、 これと対をなす杜甫=詩聖と いう評語が形 1)松浦友久 「 成 ・定着していった のであり、このような 「 詩聖杜甫」像と矛盾する 「 牛肉白酒」と いう伝説が否定されて、「 溺死」説や 「 病死」説が主流とな っていく、と いう注目す べき見解を提出している。同様 の見解 は 『 李白詩選』 ( 岩波文庫、 一九九七) でも述べられる。 これら 一連 の来暢杜甫墓を詠ずる唐末五代 の詩 の存在は松浦説を別 の観点から補強するも のとなるであろう。. 埋却喪神仙. 離知東陽土. 遂司歌詠権. 既作風雅主. 一字不可絹. 縦為三十車. 不尽如転軽. 碕与子美思. 名輩 浜沿する酔り. 李杜 の際に当たりて. 真 の神仙を埋却するを. 誰か知らん案陽 の土. 遂に歌詠の権を司る. 既に風雅の主と作り. 縦 い三十車を為すも す 一字も損 っる可からず. 尽きざること転竣 の如し. 碕与 子美 の思い. 補注〕本文中では触れられなか ったが、『 〔 卒葬巻』等に言及のな い、杜甫と東陽 の関連を詠じた資料として、皮日休 「 魯望昨以五百言見飴、過有褒美、内続庸雁、弥増悦懐、因成 一千言、上述吾唐文物之盛、次 叙相得之歓、亦迭和之微旨也」詩 今全唐詩』巻六〇九) の次 の句がある。皮日休 ( 八三四?→ 八八三?)も、杜甫が来陽に埋葬されたと見倣している。. 当於李社際. たと. 名輩或浜沿. 〔 付記〕本稿を印刷に回してのち、 二宮敏博 「 詩人 の墓ー中晩唐期における前代の詩人評価に関してー」 ( 林田恨之助博士古稀記念論集編集委員会 『 中国読書人 の政治と文学』創文社、 二〇〇 二 ・一○)が公にき れ、啓発されるところが多か ったが、本論中では触れることができなか った。 二宮論文では、社甫 の墓に言及した詩人としては、杜萄鶴、羅隠、斉己、曹松、斐説、孟蜜千が取り上げられ、李節 の詩 部分 も 的に引かれている。. 7 3.

(15) . . 秋 正 藤 後. 山 川図」 ( 北方中央右 に杜陵 嗣 杜陵 煙 雨」、 下図 「 〔 右図 「. . ・. 鴎. ー. -. . . 言 1 四 m m圏 W. ・. s駅. 、. ・. ,. 参. . ・. 寒中 ・ ・. ・. 田 壁. ー ぷ. 五雪 山. .“. 泉山. N 1・ 一 .. . ‐ . な.

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