世界像の移り変りについて
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(2) . 第 倍巻 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 3年3月 昭和4. 世 界 像 の 移 り 変 り に つ い て. 栗. 原. 薫. 北海道教育大学旭川分校史学研究室 Kaoru KURIHARA : on t he changes of world view in Japan. は. し. が. き. 国家を論ずるもの, 他国に対する我ケ国と言う観点からのみ見ようとするきらいがある. 我ケ国 家は, 古来一つ の世界とも見られて来て 居り, 色々 の問題が国家の手で, 又其の名で解決されて来 た。 共産主義の問題 の如きもその一つ である。 しか し世界をもう少し広くとる事もあった。 そのよ うな 世界について の考え方及びその具体的 現れの跡をたどって見たい. 一は古代国家発生以前についてである。 二は古代についてである. 三は中世及び近世, 近代についてである。 二で騎馬民族説にふれて見る。. 我が国 の世界像の歴史をたどって見たい。 それは多分に大陸の中華思想との戦いでありた. 凡そ ごく初期の言語は恐らく一音節だったであろう。 我が国でもそうであったであろうと思われる。 我が国の古語に残る一音節の言葉を拾うに, 空間に関するものは, 間=ま と, 輪[わ丈で, 別に 内外の外に当る 「と」 がある. 輪中の輪の如く, 両端がつながる線が輪ごわで, その中に若干の空間がとりかこま れる, そのとりかこま れた空間が間である。 この時代は輪と間の時代である。 小人数の生活圏をつつむ輪の中に, その時々の人々の生活の間 があり, 外には何も無いのであっ た。. 自己をわと言った のは, 自我がその様な閉鎖的な 生活圏に似ていると思われたからであろう。 自 己は自己で完結し, 外には何も無いのであった。 それはけものを追って山野をはせめ ぐる山人の感 じ方であった. 非農民的な 受け取り方であった. そ してその様な名は, 農業がはじまるはるか以前 , まだ言 葉とては 一音 節の言葉が百程しか無い時代にはじま ったのであった。 それだからこそ非農 民 的であって何ら差支え無いのである. 全体に埋れた 自己では無く全体が自己であった。 対象に向って行動しても, それは自己の対象で あった。 もししずかな自然の中で, めい想にふける と宇宙は自我とーしよになって しま う。 こ の様な人間存在, 人間思考は我ヶ国に一つ の伝統となってつ づいてきたが, それを騎馬民族が 大陸から持ってきたと考えるには, 「わ」 とか 「ま」 とか言う言葉の起源が古すぎる 様に思われる, -4 「-.
(3) . 栗. 原. 薫. わの外は 「と」 であった. 外は 又戸であった. どちらも特殊仮名づかいの甲類のとであって同じ である. 外は戸の外であった. 戸に障られて何も分らぬ世界であった. 外は戸の外であったが, 家 の中 に いて は 戸 と 何 ら 変 らな か っ た. そ こ で 外 が と に な っ た. 外 山 は 人 里 の 外 に な る 山 で あ っ た.. 自然人里近い低い山であった. 港は海の戸外であって, 舟の出入するというよりは 人の出入出来ぬ人里 の外界であった. 戸=津 も同じでかなり広い水面をさしていた. そして外山も港津も元来は無限に広がる域外の世界であったろう. そして同時に境の意味もあっ た.. こ の様な 時代には, 世界とは外山や港にかこま れた狭い世界にすぎ無かった. それは外山が目に見える間近の山である のを見ても狭い世界で, 恐らく神奈川県夏島 の遺跡では 9000年程昔にさかのぼれる, 少くもその頃には日本列島に住みついていた我が先祖を無数 の宇宙に 分けた一つ一つ だった のであろう。 かって同一 の先祖を持 っていた ので別々に別れて住みながら, なお似た言語 と土器とを持ちつ づ けていた. (洪積期がおわるやいち早く土器をもって全国に広がった. 洪積期に新たに 我国土に入 ってきたのか, それとも洪積期から住んでいた のか分らぬが) しかし意識の上では別々 の世界の住 人 で あ っ た.. その様な 現象はオーストラリヤの土人にも見られる現象である. 日 本 で は, そ の 境 に 神 が い て 往 来 を さま た げる の で あ っ た.. そして神 がそ の様な境をこえて人里に渡って来給う のであった. 琉球の宮古島では, 創始神は趨い魂であった. 海をこえて久米島より渡ってきた からである. 沖 縄本島では, 神の来った島が越い島であった. 琉球ではえ といとは通じ用いるので, 趣い魂, 越い 島 に な る ので あ る. 恋 の 字 を 当て, 恋 物 語 迄 あ る のは 本 来~の も ので あ る ま い.. もっ とも此等は, 或は現在残っている伝承であり, 記録なのではある が, 当 時の状況で もあった ろ う.. 中尾佐助氏の 「栽培民族と農耕の起源」 によると, 我ヶ国は, ネ パール, ブータ ンより中南支を 経て, 我ケ国に至る一帯の文化圏に属し, つまり照葉樹文化圏に属 し, 最初はさといもを東南ア ジ アより受け入れて作 っていたが, 後稲の栽培 を受けいれ, 又絹, 茶, うるし, 柑きつ, シソの栽培 と, 穀物より の酒の醸造とをはじめ, や がて他地方へ伝えた. この地域は 民族と言う点では, 必ずしも日本とつ ながらない. しかし地形や気候が似て居り, 又 自然 界 の植物や動物が似ていた. いっ の頃からか, この地域の他の地方と文化的な類似性を持つ事 と な っ た ので あ ろ う. な ぜ こ の地 域 の 内 で の 交 流 が は じま っ た の か 分 らな い. 交 流 が は じま っ た 上 で は, 自 然 が 似 て い た ので, 文 化 の伝 播 が 早 か っ た ので あ ろ う. 或 は 可 能 に な っ た ので あ ろ う.. その交流性は, わずかに記紀の多遅摩毛理が, 垂仁天皇の命で常世国に行き, 時じくの香の木の 実, つ ま り み か ん を さ が し, そ の木 の 実や 苗 木 を も っ て か え っ て き た 話 に 残 さ れて い る.. この常世国はくぎり の無い国, 無限の時間の国であった. 世=よとは葦 のくきの節と節, くぎり と く ぎり の間 で あ り, 常 世 と は そ のく ぎり のな い 事 で あ る. そ れは 歴 史 のな い 事 で も あ る, そ こ で. は新しい作物の伝る事も歴史ではなかった のである. 特筆 して残される事ではなく, 日常の事と し て う け と ら れる の で あ っ た. 又 こ の様 な 国 は 無 限 に つ づ く は て しな い 国 に 思 わ れ た. そ こ は 神 仙 の 国で も あ っ た. そ の常 世 国 と の 交 流 で, さ と い も や 稲 が 入 っ て き た ので あ ろ う.. - 42 -.
(4) . 世 界 像 の移 り変 りにつ いて. 主充の論衡では, 越と倭とを同じ様に考え, 両者からの来貢を並べて 天子の徳のしるしと思う , , 時の考え方を非難し, それは何 んの意味もない事にすぎぬと言って居る 漢代に両者 を似たものと . みる習慣があった のであろう. それは色々似た点があったからだろう . 又硲苑所引醜 略に, 倭人が, 趣に入った聖人太伯の子孫だと言う昔語りを持 ているとある のも っ , 似た事情を示している. それは雛志にある様に, 倭の水人が黙面文身以 って水害をさけようとしているのと 夏后少康の , 子が, 会稽に封ぜられ, 断髪文身して蚊龍の害をさけようとした事 ひいてはその様な風習が 中 , , 南支にあった事が似ていた為であろう. 似ている のはそれ丈でなく, 稲作が行われた点にもあった. 大陸史書に, は っきり 稲作が行われたと判明出来る様に書かれている のは倭と南鮮の一部に過ぎ ぬ.. 五穀は稲を含む事と含ま ぬ事があり, 五穀と出ている丈では稲作が行われていたとは言えぬ 稲 . とは っきり書いて ないと稲作が行われたかどうかよく分らぬ 又田も畑を意味する事があり 水田 . , 耕作の証拠にはならぬ. 又米を稲の実以外のものをさして使う事もある 稲と書いて ないと米作が . 行われていたかどうか分らぬ. 嬢志 では, すでに馬韓では, 珍宝, 禽獣 草木がほぼ中国に似ているとしている , 。 この中国は北支であって, 倭が会稽東治の東にありとか そ の有無する所 傭耳 朱崖と同じと , , , あ る のと 対 に な っ て いる.. 馬 韓では稲作が行われていると記されてないが 色々のものを含めて 北支の畑作地帯の延 長で , , あった訳である. したがって日本から中南支に連る稲作地帯とは草木等の自然からして異 ていた っ . 南鮮では ぐ倭では未稲である のに) 五穀及稲の作られる地帯があ たが これは 倭に近いので女 っ , 身が行われたとある様に, 倭から伝ったものと解 すべきであろう 釜山近くの金海遺跡から米が出 。 土した事は, 弥生式の墓地が同地で発掘された事と関連づ けて考えられる 米を出土 した層は 一 . , 番下の層であったが, これは 作稲をめぐる生活の変化の為にそうなったのであろう つまり居住地 . の移 動 が お こ っ た 為 で は あ る ま い か.. 土器の面より言えば, 朝鮮の農耕文化と結びつく無 女土器は 満洲より北支に広が ていて 弥 っ , , 生式土器地帯とは別の文化圏の広がりを示していた. かれこれ見ると, 南鮮の稲作は日本より伝ったもので 三世紀には朝鮮にはさほど行きわた て , っ いな か っ た 事 で あ ろ う.. そ して倭と中 南支 が似て居り, 一つ の共通文化をもっ ていた。 しかしその文化 圏は日本を除いて, 支那人等の征服する所となり 絹や茶やうる しも 征服した , , 支那人と深く結び付けられた産物になって しまっ た. いわば征服された文化遺 産になって しま た っ 訳だ. 我ケ国で のみ, 在来のものが自然に発達して行っ た。 此の様な文化圏の成立は, 自然が似ている地域に広まっ ている のを見ても 同一の民族がいる為 , に 起 っ た も の で は あ る ま い.. 何かそれに適当な事 情がおこった為に, 或はその様な事な しにな んとなく その文化に適した地 , 方に自動的に広ま ったのであろう. 自 動 的 と言 っ て も, 陸 上 で 接 して いて 伝 る ので は な い か ら 海 をこ え て の 多 少 の 交 流 が あ た の , っ で あ ろ う.. それは支那人を通じてではなく, 直結にであっ た. -4 5-.
(5) . 栗. 原. 薫. 琉球等も其の通路として大事だった のかもしれぬ. 朝鮮を経由し, 又直接に支部文化が伝り出す前には, 此方の方が重要だったかもしれぬ. 琉球の稲作は晴書に出てくる. 朝鮮一般より 早い. 琉球 の隆起さん ご礁の地形が, 階書によくえ がかれていて 台湾とは思われ ぬ. 隆起さん ご礁は, つまり石灰岩の台 地すなわちカルスト地形で, 水が地下に直ちに入って しまい, 石灰岩質とその下の元来 の地表との間を流れ, 石灰岩丘陵の崖に 至 っ て, 泉 とな っ て 再 び 地 表 に 出る. そ こ で は もは や 海 が せ ま っ て い て, 平 地 は あ んま り 無 い ので,. 人の注意をひき, 或は古代国家を作り, 或は日本の律 令制度施行区域内になる に足る程の広 がり を 持っ た水田 地帯が形成されなかっ た. それで歴史時代に入るのがかなり おくれる事となっ た. それに しても多少の水田がすでにあった ので, 晴 書 に 記 さ れ て いる ので あ ろ う。. 書紀にも一たび植えて二度とれると記されている南島の稲作は, 朝鮮→日本→南島と伝っ たので なく, 南島→日本 と伝ったものな のであろう. (天武紀) 琉球では, 神が天より下って来給うた神話 があるが, 前述 した様に元来は海を渡って来給うたの で あ ろ う。 いつ の頃 か, あ ま は あ ま で も, 海 で な く 天 に な っ た ので あ る. 男 鹿 半 島 のな ま は げは,. 各地のあま みはぎであり, これは海を支配するものがやって来て人民から税をは ぎとる の意である. こ れ は 人 で は な く, 人 の身 で は こ え ら れ ぬ 境 を こ え て く る 神 な の で あ っ た. こ の神 々 は 見 様 に よ っ. ては荒 ぶる神々であって, 大和朝廷の手で次々に征伐されて行くのであっ た. すくな ひこな の神は, 記紀では大国主命とむすびつき, な ん となく出雲の先の朝鮮が考えられて いた の か も しれ ぬ が, 琉 球 の神 話 な ど と も 連 っ て い る の か も しれ な い. す く な ひ こ な の神 は, 大 国. 主命の国つくりに 協力, 新 しい技術を伝え, 又もと来た常世国に去って 行った. ア イ ヌ のゴ ロ ボ ッ ク ルは 原 住 民 と ア イ ヌ に 考 え ら れて い る 点, す く な ひこ な の神 と 異 っ て い る が,. どこへともなく消えて行き, アイヌに物を色々 と教え, かつ小人である点すくな ひこな の神と似て いる. ア イ ヌ に は, カ ム イ, ヌ サ, ノ ミ な ど そ の 宗 教 語 に 日 本 語 が 使 わ れ て 居 り, そ の 精 神 生 活に 強 い 影 響 を 及 ぼ して い る ので あ る か ら, ゴ ロ ボ ッ ク ル の話 も, 或 は 多 少 日 本 と 関 り が あ り, 少 な ひ こ な. の神 の話の焼き直 しかもしれぬ。 そうだとする と大事な海外から来たと言う事が変っている のは, 全く異質の文化に取入れられた 為であろう. 出 土 品よ り 見る 時, 他 よ り 来た のは 日 本 人 其他 で ア イ ヌ で は な い と 一 応 な っ て いる のに, ア イ ヌ. が来た事にな っている。 南朝鮮でも似 た神話がある。 三国史記新羅本紀の最後の著者 の意見を見るに, 彼が宋に 行って, 神女の像を見, これは麦那の 帝室 の娘で, 夫なく して子をはらんだので追放され, 朝鮮に行って子を産んだ. その子が新羅の始 祖とな っ たのだと言う話を聞いたと記している。 神功皇后が三韓征伐をされている間, 応神天皇をはらんだままで居給うたのと, 夫なく して子を はらん だのは似て いる点があるかも しれぬ。 朝 鮮 諸 王 系 の卵 生 伝 説 と ど こ か で つ な が っ て い る の か も し れ ぬ. (鳥 の卵 は 長 い 間 そ のま ま で い. る, ) . 同書 の新羅の三王系の一つは日本東北方の多婆部国より流れついた卵がかえって生れた男 の子孫 である. 他 の二王系の始祖も皆卵生である。 卵生と言うのは, 妊娠期間が長いと言う様な伝承と結 びついている のであろうか。 妊娠期間の長い話は一方では宋の神女の様に夫なくして子を生む話に 4- -4.
(6) . 世 界 像 の移 り変りにつ いて 連 っ て い る ので あ ろ う. つ ま り 間 に 神 功 皇 后 の話 が 入 っ て い る 様 に 思 わ れ る 。 さ て 流 れ よ る 卵 は, 海 をこ え て く る 神 の変 形 で あ ろ う。 そ れは 日 本 に 残 っ た 天日 矛 伝 説 の 中 の神 女 の 話 に 似 て い る。 こ こ で は そ の女 神 の 母 の 国 は 日 本 ,. である。 天日矛は神功皇后 の先祖である。 卵生と言うのは, 動物を始祖とする, 大陸に広く分布する, 諸王系の伝承が, 半島らしい小型 の 姿で 出て きているのだが, 流れて来たと言うのは稲作等と共に日本より伝った伝承形式でもあろう か。. すくなひこな の神は 出雲国にかかわる所が大きいが, 紀伊水道の島より常世国に行ったとも伝え ら れる.. 熊野の神が祭られている 所, 出雲と熊 野の両方に出ている のである。 紀伊水道は神武天皇の御兄弟の一人が, さえもち=境を支配する神として海に入り, 一人は常世 国に行き給うた所でもある。 この話は常世国の構造を示している のでもあるが, 又常世国が神社にゆかりのある事 を示してい Q.. 伊勢神 宮の鎮座ま しま す伊勢の国も常世国の浪がよせて来る国であった。 神 のま しま す 国 だ か ら, 常 世 国 へ のか よ ひ 路 が あ る ので あ る,. かくては常世国は信仰 の世界の事になるが, さは言いながら猶多少は照葉樹文 化圏との交流の影 が うつ っ て いる 様に 思 わ れ る.. この様な時代の世界像はどのようであったろうか. この時代は, 世界が一国家, 一皇 帝の下で統治されるべきだと言う思想がめばえるには早かっ た. こ の 時 代の 人 々 はな お 前 代 の 人 々 と 同 様に, 大 方は せ ま い と じ ら れ た 世 界 に 住 ん で い た。 人 々 は. 生活圏の外に出るには, 人をさえぎるさえ持の神の許を受けて行かねばならなかっ た。 その様に し て行けば常世国に至るのであっ た。 それは浪の穂をふんで行く海の彼方であり, 前述の様に熊野の 沖, 出雲の沖, 伊勢の沖な どにあっ た, 有力な神 のしずまりま す国が多かった。 熊野は浄土を求め てかえらぬ旅に出でたる求道者の旅立ちの地となった。 これは其等の神が, 海をこえてき 給うたと 言う考え方のあっ た痕跡であろう。 常世の国からこられた のである. 後には高天原から天下って来 給うたと考え られる様になっ たにしても。 常世国は通常 の人のゆきき出来ぬ国であって, 神が其所 か ら来 られる のに ふ さ わ し い 国 で あ っ た, 浦 島 子 が 行 っ た のも, 亀 の 背 に の っ て や っ と 行 ける 神 仙 の 国 で あ っ た。 そ の様 な 国 だ か ら こ の世. の理想国を形容するのに, 常世国があげられた。 (常陸国 風土記) 欽明天皇の御代, 佐渡島の北端に粛 慎人が流れついた事があったが, その地の願と言う所には今 もさいの川原があり, 死者の霊のよみがえってくる所である。 それを思うと, この粛慎人は神の代 り に 常 世 国よ り 渡 っ て き た の で あ る。 神 で な く て 野 蛮 人 で も よ か っ た の で あ る。 通 常 で な い 事 異 , 様 で あ る 事 が大 事 で あ っ た。 さ れ ば こ そ 怪 異 の 事 を と も な っ た の で あ る。. 又南島には, とこの島, 今 の徳之島があっ た。 これも常世国の島だっ たのであろう。 高天原の天 と考えられた近江国にも, とこ山があった。 どこか分らぬが常世国の山であろう。 これは神が天より降りたもうと言う考えが出で来って, 天に近い山が常世国になっ た のである 。 前述の様に常世国は時間と空間とがないと言えば言える漠たる国であった。 前述の様にその中に 照葉樹の叉化帯が含まれ, 漠たる交流があったと思われるが, それは醜とか晋とか或は宋以下の南 朝諸国ではあるまい. 「から」 や 「くれ」 との交りとは別の種類のものだったと思われる。. - 45 -.
(7) . 栗. 原. 薫. 前代には, 少くも観念の上では漠たる空間がつづいていた. そこでその空間が統一さるべきだと も, 我 ケ国が狭いとも特に考えられていなかった. しかし稲作農業 がは じまると, やがて国家の統一が日程に のぼっ た. 一方では支那大陸の政治勢力から注目される様になっ た. これは農業化したから支那に近づき, 又支那より近づき, 漢書にのせられたりする様になったの で あろ う.. 支那人は日本人を倭とよんだ が, これは恐らくおとな しい人と言う意味で名 づけられたのである. 漢書には, 東夷はおとな しい。 だから孔子も東夷の中に 入って住みたいと言っ たと記して, その後 に, おとなしい人つまり倭人 が居り百余国に分れていると出ている. 論衡でも, 倭 が壱草を貢物と してもっ てくるのは, 越裳氏 が白雑をた てまつるのと共に, 天下太平のしる しだと言う考え方が後 漢の世にあっ た事 が記されている. 王充はそれを迷信と考えていたに しても. これは恐らく後漢 が それによっ て天下をと った予言術の内容の一つであったのであろう. されば光 武帝 が漢を再興する や, その治世下に, 倭奴国王 が遣使奉献する し, 又光武帝はこれに印緩 をさずけたのであった. そ の金印 が奴国王の実力にふさわ しくなかったに しても, 後漢 が天下太平のしる しとして喜んだとす ればうなずける. 後漢の識緯説は後漢 が亡んだ後禁ぜられた が猶其の影響は残っ た。 嬢が邪馬台国 を高く遇したのも, 倭の来貢を特に喜ぶ思想的精神的理由 があったのであろう。 支那人は皇帝を中心とする一つの世界像を持ち, それを全世界に 及ぼそうと した. 日 本 は そ の 様 な 世 界 の 中 で 一 つ の 価 値 あ る 国 で あ っ た. おと な し い 人 達 で, そ こ か ら貢 物 をも っ てく る の は 天 下 太 平 の しる しな の で あ る.. しかし日本人はその様な秩 序の中にある 事 を必ずしも好まなかった. (朝鮮人は日本人とは反対に, 支那的世界秩序の中に進んで入り最近に至った. 新羅本紀には新 羅人は支那人の子孫だと して居り, これは雲南の民家 (一の民族と言っ てよい) な どにも例のある 事である が, 事大主義のあらわれである. 後迄楽浪郡公新羅王な どに封ぜられ, それを喜びとして いたのは, 又支那的中華世界の実態を示していた. 朝鮮史料, 広開土王碑や石上神社七枝刀銘に倭 とあるのは, その文章 が漢文で書 かれていた為で実際はな んと言っ ていた か分らぬが, 倭と言う字 ) しか残らぬ所に朝鮮の姿 がある. さて金印をたまわっ た奴国である が, そのなの意味は 「なか」 つまり中央の国の意であっ て, な に がしかの世界の中心だと いう思想を持った国の様である。 つまり中華思想を縮小輸入しているか に見える. 一面では統一への気運があっ ての事であろう. 卑弥呼等や倭五王の朝貢の如きは, 恐らく国内ではあまり意識されなかった 現象であろうし, 又 朝鮮経営の為の策略であったろう が (朝鮮半島は一度は楽浪郡等の支配下に入っ ていたので, 支那 よりの官職を重んじ敬い, これに従う風 があった.), 又統一された世界の思想 が何らかの意味で 我ケ国に及んで来ていた事ではあっ て, それはかえっ て国生みの伝承を中心と する壮大な我ヶ国神 話の体系 が一方では次第に形成されて行った事を示している. そ の 神 話で は, 世 界 は い ざな ぎ, い ざな み二 柱 の 神 が 生 みた も う た も の で あ っ て, 神 がし ろ し め. し, 神 がさき わいたもうべきであった. そして現実に神の御子孫の天皇 があとうかぎり広く, かつ 終る事なく統治される べきなのであった. そ こ に は 支 那 の 事な ど 述 べ ら れ て いな く て も, 当 然 そ の 世 界 の 中 に 含 め て 考 え ら れ て いた と す べ き だ. な ん とな れ ば 神 々 は 万 物 をつ く り た も う た の だ か ら.. - 46 -.
(8) . 世 界 像 の移 り変りにつ いて. その様な 世界観・世界像の下では, 天皇の統治される領域は無限に広 がるべきであった. 朝鮮半島への進 出は, その様な世界像に関っ ているであろう。 実は天皇を中心とする神話 が, 先ず朝鮮半島に広まっ て, ついで現実の勢力が伸 び て行ったもの であろう. 任那の来貢や, 天の日矛の帰化 が神功皇后の三韓征伐に先立つのはもっともの事であっ た,. そこには垂仁天皇の御代と, 神功皇后, 応神王皇の御代とのへだたり があるのであろう. この様な 観念は, 恐らくかなり早くより, たとえば神格 化された 卑弥呼の 宮廷な どに反映して, 姿 を 見せ て い た の で あ ろ う。. 神や神につな がる力は絶対でなければな らず, 全世界的でな ければな らぬ, かくて朝鮮半島に於ける武力による角逐 が数百年の間つづけられる事にな った. 半島諸国は高勾麗・百済のみならず, 新羅の貴族も大陸の騎馬民族 であった. 韓とは南鮮の貴族 の称号であろう. 具体的な例 が多い. これは柔然や蒙古の貴族の称号の汗や可汗につな がっ ている のであろう. 南鮮を意味する韓は銚志には じめて出, 倭より新しい“ 漢 がおと ろえ朝鮮半島での支 那人の勢力 が後退するすきをぬっ て遊牧民族 が南鮮を征服, 貴族とな っ て諸韓国を建てたのであろ つ.. 江上波夫氏の騎馬民族説は, かかる騎馬民族 が我ケ国に渡来 し大和朝 廷を形成した支配階層とな っ た と する の で あ る。. シ ンポジュ ウム 「日本民族の起源」 で, 石田英一郎氏は, 朝鮮半島に進出したの が, もし大和 を 根拠とした, 従来の倭人の勢力だとすると, その 軍事組織や兵力, ことに騎兵というもの が, いっ たいどうだっ たのかという疑問 が残ります, その当時の日本で騎馬 がどうな っ ていたのかは決定的 な 問題点ではないで せうかとして居られる. これは江上氏 が, 日本の国土統一の余力をかっ て朝鮮 半島に進出 した 結果, 朝鮮にまで及んでいた東北ア ジア文化の日本移入を促したと いう解釈を非 難 して, あげた理 由の中に, そういう騎馬民族文化を持っていた半島にそういう文化 を持たない日本 がどうして進出出来たか疑問があると言うの があるの を取上げられたのである. 今年二月朝日新聞 紙上で石田氏 が騎馬民族説と北鮮の日本分国説をとりあげ論ぜられたのに, 氏は騎馬を持たぬ倭人 は, 半島で騎馬民族と戦えなかったと思われると し, 両説のその様な論点を支持して居られる. しかし朝鮮半島で, 歩兵で騎馬民族に対抗出来なかったろうと考えるのは, 必ずしも正しくな い, 高句麗でも醜志に, 其馬皆小, 山に登るに便なりとされている. 醜書には三尺の馬 を出すとし, これを果下と言うのだとしている. 山の多い高句麗では, 蒙古, 満洲の平原の 様に普通の馬をはせ めぐらせる訳には行かなかっ た。 (果下馬は高さ三尺果樹の下を行き得の意) , 醜志によると, 馬韓では牛馬にのる習慣 がな く, 葬式に使う丈であった. 辰韓や排辰では, 歩戦 に な らい長 じて い た.. 又高句麗に臣属 していた東沃温では, 牛馬少く」 矛を持って歩戦する事にならい長じていた, 皆すでに駒馬民族 が南 下君臨していたと思われるのだが, かくの如きは南韓が地形的に必ずしも 騎馬戦に適さぬ為であろう. ミ史記・漢書に真番・辰国とあるの が辰韓になるのは雛志 ・鏡略にお いて である。 韓の名のは じめである。 醜 略に韓姓を冒した一味が朝 鮮に居, 鏡志に衛満に亡された 朝鮮王准が韓地に入り 韓王と名のっ たと言うのは, 実は漢末の事実を反映 しているのだろう.} 後漢書に気力あり戦闘に習い鷹砂を好むと書かれた 高句麗は, 矛を持ち歩 戦する東沃担や歩戦を よくて長さ三尺の矛 (或は数人で共に持つ) を武器にもつ 濠を従え, 果下馬にのって頻に南下した. しかし馬を戦闘に使いうる 地形は限られていた, 醜書百済伝の地多下湿地も馬には不向きの地形で あっ たろう. 恐らく馬は移動, 連絡等の用に用いられたのではあるまいか, 馬に対しては, 矛を特 7- -4.
(9) . 栗. 原. 董. った歩兵の密集隊形で戦う方法 があり, 歩兵で対抗出来たのでは あるま いか. されば辰韓では 歩戦 に習う 丈で用 が足り, 馬韓では乗馬の風すら其程なかっ たのである。 更に言えば元来良馬にまた が る騎馬隊を持っていた騎馬民族 が段々馬を忘れかけていたのではあるまいか。 かってギリ シャ 人は歩兵で ペル シャの騎兵を含む大軍と戦い しばしば勝利して遂に国を守った. 歩兵で騎兵に対抗する戦闘法つまり密集 して矛 さきをそろえて突き出す方法があっ たのと, ギリシ ャ半島の地形 が騎馬戦に向 かなかった為である。 かって騎馬民族であったギリ シャ 人はギリ シャ を 征服すると必ず しも馬にな じま なくなった. 日本はこ の様な朝鮮半島に進出 したの である から, 必ずしも馬や馬具を必要と しなかっ たであろ う。 当時の古墳から馬具 が出てこなかっ たに しても差支えない. 後次第に馬 が利用され出 したのは, 移動や伝令用に使われる事 が多くなっ た為であろう. 早くより馬 がありな がら馬の事を高麗=こま (百済の首都も固麻であった), 或は支那語 系のう まと言う言葉で表 したのは, 実用的な馬 が輸入品であったからである。 一方騎馬隊に対抗する武器 の 矛 は, ほ こ = 秀 子 で, ほ は 稲 の 穂, 炎 のほ (火の ほ で あ る) と ー しよ で 長 く と び 出 した も の で あ. る。 そ して 欽明紀の注に出てくる古語である。 つまり純日本語である。 槍のほ (こ) さきと言うの を見る と, 元 来 槍 は ほ こ と 言 っ て い た の で あ ろ う, ほ こ さ き に 刀の さ きの 意 も あ る の で, 刀 をほ こ. と言った事もあるのであろう。 又騎馬隊との戦に必要な楯も古事記歌謡に二度出ている。 楯をたてと言うのは, 立て並べて矢を 防ぐからであろう. これも純日本語である。 要するに必要なものは純日本語で間に会う訳だ. これらの物は中期古墳より出土しているので使 われていたのは間違いない. かくて武力による朝鮮半島への進出が説明出来る. 進出した後, 段々と騎馬戦に必要なもの を修得して自らの ものにして行っ たのであろう. 或意味ではそれで 我ヶ国は大陸の騎馬民族に征服されるの を防げたの かもしれぬ. さて半島諸王国の始祖伝説に天より下ってくる卵の如き 気に感じて妊娠した子といった類の天に 結ばれたもの が広まっているのは, 我天孫降臨の神話との結 びつきがあるのかもしれぬ. 思うに半島のは単 純であり, 人間たる王の 性的対象の女が天神 との間に子を生み, その子が王と なると言っ た類のつ ぎ木伝説であり, 話の 筋も簡単で, かつ卵の段階があって動物的臭気 がある. 日本の神話は 堂々として天より 天降りて来給うのであり, 話は詳細で, かつ動物的臭気 が無い. つまり日本の神話の方が純粋であり, かつ 完成されているのは, 日本にかかる始祖伝説群の源が ある為であろう。 嬢志に倭の官職に 卑狗=日の子があり, 卑弥呼も日の御子か日の女子の意かと思われる. これは 三世紀に天か ら下り給うた王の 観念があっ た事 を示している。 三世紀だから騎馬民族がもたらした 伝承とは言 えまい。 (騎馬民族説ではかなり後になって渡来 した事になる) 嬢志には夫余にかかる 始祖伝説が出て居, 各地に天子, 天神・天君, 天祭などの 語が見える. 醜志では倭韓の両地に住み 両地を色々の面で結んでいたのは倭人なの で, 両地に武力による交渉の姶る前に倭人が伝えたの だ と言えよう. 朝鮮史書ははるかにおくれて作られたものであって, 問題にならない。 しかし三国史記を見るに, 高句麗に信仰の 対象と しての山に箕子に関ると思われる箕山と共に日 本に関る と思われる倭山がある事, 同じく信仰の山に不而 があったが, 反乱の 罰に不耐と改名させ られた と言う不而が日本の 富士に連っては居まいかと言う事 (京城の北にも負児がある), 又高千 穂の峯をく じふるの高千穂 峯といい, 又その場所をそほり と言うが, そほり, くじふる共に韓語で.
(10) . 世 界 像 の移り変り につ いて. 説明出来る事, 又江上波夫 氏があげられた朱蒙が夫余より南下して高句麗に至る 間の伝承が神武東 征の伝承に似ている事など, 又筑前国風土記逸文に恰土県主の 祖五十跡手は高句麗の意 呂山に天降 りた者の子孫だとあるが, それは高句麗に天降りの伝承があっ た事を示しているらしい事など 半 , 島と日本とが伝 承の上で似た面があった事を示している , これは上述の理由で日本から伝っていったのだと考 えられる 朱蒙と神武天皇との 似た伝承でも . 神武天皇の ものの 方がはるかに詳しく整っている 詳しく整 ている方が先だと思う . っ . 卵生など動物的臭気は大 陸よりの, 又は半島本来のものであろう . く じふる, そほりは韓語であろうが, 半島経営をしている間に 韓風の 呼称も生じた為 かかる名 , 前 もの こ っ たの で あ ろ う。 半 島 風 に は こ う い うの だ と 言 う名 で あ る , .. 其の他の 点も日本起源説の じゃまにはならな い 。 不而を不耐と改名させられる様な国では中々 独自の伝承は育たな か たのではあるまいか っ . 日本では, 元来神は海を渡って来給うたものらしく 天より 降り給うたと考えられる様にな た , っ のは, どうも九 州に関連がある らしい。 天孫降臨の場所も九 州だし, 他にも裏付けがある . 我が国では三= みは敬称の み=御と同じ音で聖数であ. っ た. 又八も大八洲国などの八で聖数であ ったが, 我が神話・伝承はこの二つの系 統に大別出来る点がある。 五・七も三に準ずる聖数である, この中三の グルトプは天孫降臨と九州とに結び付く事が多い 三貴神 (天照大神の御兄弟) 日向 . , 三代, 宗像等の三 柱一組の神・神 功皇后関係など 八はそれ以外の所に多い 高句麗はその言語 . . , すでにほとんどたどるべくもな くなっているが 三国史記の地名に音 訓両方出ていると思われる , , のがあるが (地理志, 別名として書いてあるのが その地名の音や訓である場合がある様である) , , その地名に三, 五, 七が十と共に含まれているのは 多分聖数だ たからであろう これは三韓経 っ , . 営の 影 響 が 及 ん で いる の だ ろ う。 つ ま り 三 韓 経 営 に 結 びつ い た 伝 承 で あ た の だ ろ う こ の 場 合 っ 。 ,. 信仰の後から武力による征伐が進んだ事になる. 卑弥 呼に仕える男女は信仰によっ て結びついていたのであろうから 卑弥 呼が醜から王に封ぜら , れても, 封ぜられなく ても, どちらでもよかったであ ろう 卑弥呼周辺の者が醜より 官職をもら . っ て も 同 じであ っ た ろ う.. しかし半島では別であっ た。 大陸諸王朝の権威は, 実勢力が無くなった後も強力に残り 半島を秩序づけていた 実にそれは , . 明治時代にも及ぶのであるが, その一つとして楽浪郡等支那の出先機関の名 称が長く使われた 百 . 済, 高句麗, 新羅の王をこにきし, こきしと言っ たのは 楽浪郡 或は帯方郡の貴族 (吉士) の意で , あろう。 百済の都 を固麻とも熊成とも言う如く ことくは混用されていた 様である そのこに=く , . には日本の六十余 ケ国の国でもある。 この時期, 在朝鮮の日本人によっ て日本の名が使 われ出したとの説もある . 朝鮮にいると, 日本は東方日の出づる 国であっ た. それは 又宗主国でもあ た (又天日矛伝説 っ . にも見られる太陽とゆかりのある神の国でもあった. ) そ し て西 の 方に は 支 那 - 西 の 国, く れ の 国 が あ っ た 。. そこで支那をくれと 言うと共に, 日本の名が出で来ったのであ ろう 中支がくれにな たのは . っ , 日本は南朝とのみつきあっ ていた為に, 元来支那全土をさしていたものが 中支をさすものに変 , っ た の であ ろう。. そこには支郡と日本との二つの世界像を現実の中に包含し 統一された 世界と言う意識では安定 , していても, 具体的には不安定な観念の下で苦しんでいた のが うまく解決される事とな た , っ 。 - 49 -.
(11) . 栗. 原. 薫. しかしそこには もはや統一された世界の観念は無い. 支那への朝 貢は廃止され, 支那の権威を朝鮮支配に利用するのはよ しになっ た. 一方では日本の朝鮮経営 も任那四県の割譲が行われる如く後退し勝ちであった. ここでは世界統一の思想は無くて, 朝廷の屯倉と しての百済, 新羅が唯それ丈のものとしてあっ た. それは無限に広 がる支配の一部ではなかった. かくて日本と対になる支那が存在し得る事とな っ た. 聖徳太子の日出処天子を日没処 天子に並べた文書は, 日本, くれを意訳したにすぎぬので, 日本 側ではそ れ程にも思わ ず, その為記録にも 残らず, 書紀にも記されなかったのではあるまいか. 階帝国の人々にと っ ては, その世界観の破壊となるので大問題であった. 皇帝は天下に 一人耳許 さ れる の だ.. 聖徳太子にとっ ては 天下に皇帝は百人居っ てもよかったのである. それは新 しい世界像の発見, 展開でありた. しかし一方では 天皇支配の世界 が考えられて居て, 古事記や日本書紀に書 き残された‘ そしてここに二重の意味でもはや 支那の中華思想, 中華的世界を受け入れようとはしなかった. 外交面でも. 二種の思 想は相反するものであったが, 奈良・平安初期の時代人の思想に 適当に入りま じっ て出 て き て い る.. それはうまく観念の上では調和 されていなかった. 現 実には問題が起きなかったが. 唯古代社会に ふさわしいのは, 世界帝国の観 念の方であった. そ して日本の国家は, 現 実面でその世界性をおさえるいかなる勢力も持たなかった. されば観念と しても此の方が支配的であったろう. かくて漢の高祖の子孫 が蛮族として扱われる 事とな った. 又蝦夷や南島の人に手厚く し, め ぐみ, 教化する 事が, 朝廷の事業と して脚光 をあびた.. 中世になるや, これは地方分権の時代であり, 人々は 主従関係を中心に小 さくかつ確実にかたま ろうと した. そこでは無限に広 がる世界を支 配しようと言う観念は発 生しなかった. 国家について言っ ても, 自分の国 丈でかたま ろうとする傾向 が生じた. 中古, 本朝と言う名は, 我が国と言うよりも狭く我朝廷と言ったのであっ て, 考えて見ると或る 意味では正確 ではある が, 一方ではあまりにささや かな表現である. それはもはや古代の精神 がおとろえ, いしゆく した為 に おきた現象であった。 中世になると, 国家観念は高まり, 愛国心が強くあ らわれる様にな った. それは自分の家を愛する如く, 自分の国 を愛した のであり た. たまたま蒙古来 襲の事があっ て, その様な傾向が高ま っ たのではあっ たが, 単にそれ丈ではある まい. むしろ基礎には中世的な 現 象としての愛国心 があっ ただろう. 我ケ国 を神国と考えても, それは世界 を支配する神の国では無くて, 神に守られ外国に おかされ る事の無い 我ケ国なのであっ た. 外国から侵略されそうにな っ ても神 から守っ てもらえる我ケ国な の で あ っ た.. 神皇正統 記に我が国を神国と言っ たのち, 仏教の世界像 をのべ, 日本を東海粟散国と している の は, 中世人は自国 を限定されたものとして, その中でかたま ろうと した為である. - 50 一.
(12) . 世 界 像 の移り変りについて. その国家は一方では, 又わずかに国内の混 乱の支えになっ て居り それ丈に観念的にはいや が上 , にも高貴なものになり て行っ て, 封建的秩序を観念的に支持していた. その様な 国家では無限に 広がる必要は無かっ た. 我が国に対立する異国が何百とあっ て一向に差支えなかった. 古代には, 強大なそして文化の発達した支那にぶつかっ て生じた余儀なき現実に応ずる観念と し て発達した所の, 日本と支那とが対等であると言う観念が, 本来的な世界帝国の思想に時々ぶり か っ て いた の に 対 し て, 中 世 では 本 来 的 な 思 想 と し て, 万 国 の 中 の 一 国 と し て の 日 本 が あ っ た. 東 海. 粟散国でもかま わなかっ た. そこでは異国征 伐と言 っ ても, 実は和題の 様なものにすぎなかっ た。 八幡船に八幡大菩薩の旗をおしたてて海を渡っ たのは, 武の神と祭っ たと言う丈でな く 応神天 , 皇の三韓征伐にあやかろうとしたのだと思うが, しかし実際にやっ た事は他 国の経略ではなく て , 武装の下での貿易であっ た, 城市を占領しても, 経営の意志は少しも無かった. 明や朝鮮がやりす ごす戦術 を使っ ていたのももっ ともの事 であっ た. 彼等は日本国を拡大しよ うとも考えず, その様な使命が我が国にあるとも考えなかった . 唯夷類の住む面白い国があると思っ ていた事であろう. 蝦夷地に移住した武装商人達は, いつま でも自分達の居住地 を蝦夷地扱いにされねばならなか っ た。 自分達自身では, 和人地と蝦夷地に更に分けていたが. その様な事態に生じは じめた変化は, 足利義満が明に朝貢して日本国王と称した事からは じま っ た.. 義満は現実的に明との貿易に不可欠な 形式に目をつぶっ たに過ぎないし 無論国内で国王と名の , たのでは更 になかった。 それにもかかわらず外 交上中世 的秩序のために不 可欠の権威がある皇室 っ をないがしろにした点で, 反時代的なものがあり, それを拒否した 懐良親王の方が時代にそうた行 動をとったのだと言う事に なる. 唯彼は形式的にせよ. 又もや統一された世界の思想を受けいれたのである. それはやが て中世が克服されるにしたがっ て盛になるべき思想であった. はやくもそれは豊臣秀吉をめぐる勢力によっ て具体化されようとした. 彼にあっ ては, 思想よりも実際が先立っ ていたのかもしれぬ. 唯彼には統一さる べきは日本国丈でなくて, 全世界である様に思われた, 彼の周辺にもその様な もの が大勢いたであろう. 琉球守という律令時代にはなかった官職名は無 限に拡大されるかもしれぬ, つまりルソ ン守な どになる 可能性のある官職名であった. 当時も神国思想が一般化していたので, それは彼 がキリ シタ ンを九州征伐の際禁止した根拠とも なった が, 恐らく世界支配を裏付ける 観念となりえたであ ろう。 彼は神の御子孫たる天皇を北京にお移しし, そこで君臨していただこうとしたのである. 彼はしばらく準備の後, 半島に出兵し支那大 陸を席巻しようと した. 彼の計画は結局しくじっ た が, その思想は中世を超えたものであり, 近世に入った事を示すもの で あ っ た.. およそ我ケ国 は朝鮮征伐の頃は, 支那大 陸を征服するに足る武力を持っ ていたのではないかと思 つ.. 朝鮮征伐での主要な戦いには, 平壌の戦 を除いて, 皆勝利をおさめ ている. 平壌の戦は, 和議がととのうと思っ て戦闘の準備をしていない所を, 数倍の大軍にやられ 食料 , の 貯 蔵 を失 っ た か ら で あ る. な れ ぬ 寒 気 も マ イ ナ ス で あ っ た ろ う。 自 主 的 に て っ 退 した も の の 様 で. - 51 -.
(13) . 栗. 原. 薫. あ る.. 勝ち戦は皆明, 朝鮮側の兵数 がかえっ て多い. 日本側は 小数で勝っ ている. それは日本側のみ が小銃を持っ ていた事 が一 番大きな原 因になっ ていた ろう. 大局に於いて消極的な態度をとりつづけ, かつ早く手を引いた為に失敗した丈だ。 七年でなく七 十年もがんばっ て居れ ば効果 が上っ て居たかも しれぬ. しくじったについては朝鮮を日本と同じ社会と考えた点にもその原因 があったであろう. 奴隷制社会を封建社会と同じ様に扱っ ては税金 も取れまい。 検地をやろうと し, 或は内 地で占領 地に 立てたような高札をたてて見た が, 奴隷制社会ではそれに適した方法を考えるべきであったろ つ.. それに適応するには しばらく年月 が要ったと言う訳である. ともあれ, 大陸を制覇するに足る武力を持ちつづけた時期は, それより大東亜戦争の終る迄つづ い て い た の では な い か と 思 う.. 日清戦争でも, 清側は 五百人一営で一単位となり, 一 営に小銃は 二百五十程 しかなかった。 半分 は槍であっ て全員小銃を持っ ていた 我軍に劣っ ていた. そして朝鮮征伐の時も, 日清戦争の時も, 明や清の方 が国内の人 ロ数は大きかった が, 課税の方 法が異っ ていたの で, 実際の財政力は人口の比税の違いではなかっ たと思う. 人口一人当りの生産力についても, 日本の方 が高かったと思われる. さ て少くと も四百年, 東アジヤを席巻出来る兵力を持ちな がら, かつ多分にそうした意識を持ち な がら, ア ジヤ帝国を作ろうという思想は必ずしも盛んでなかった。 観念乃至は意識としてはかな りあったかもしれぬ が, 具体的な 案或は行動とな っ ては中々現れなかった。 ともあれ, そうした 類のもの が秀吉を中心とする武力と して出で来り, 顕著な具体的行動をとっ た.. そして秀吉は我ケ国で最も英雄ら しい英雄とな った. 近時変な英雄 が色々出てきた が, 英雄とは秀吉如きものである. そ してその出現は案外足利義満あたりのあまりかんば しからぬ行動とどこかで連っ ている様に思 つ.. 事実, 秀吉の朝鮮征伐は明やそ の同調者にとっ ては, 秀吉を日本国王を封ずる事で片付く べきで あ っ た. 秀 吉に と っ ては, そ れ で は 許 せ な か っ た が.. つまり世界統一の思想 が背後にあったのである. 彼のかかる 事業は一人の思い付きではなく, 支持者 がいた事 (国土統 一の 近世的, 近代的面から 出ている. ) がとかれている が, 猶後継者の出な かった事において, な お中世的, 近世的制約の下 にあった事を示した. (封建制の完成という形での統一 が考えられる限り, 奴隷制社会に 進 出する 事には抵抗が大きかったろう。 ) 秀吉の死後をうけた家康は, 中世と近代と をつな ぐ近世の最終的建設者であった が, 彼及び彼の 子孫は外国に対しては消極策をとっ て, 例えば, 占領 していたうつ陵島を朝鮮の要求通り放棄 し, 明の出兵要求を断る等 し, ついには鎖国にふみきった。 こ れは か え っ て 近 世 に 入 り な が ら 封 建 的 な 政 策 をと っ た も の で あ っ た。. ここに国内は長い安定と平和の時代 が来たのであった が, その間観念と しては世界統一の思想が 次第に めばえてきた。 しかし現 実には鎖国 が行われて, そしてそれは祖法とな っ て国民をと じこめて居た。 - 52 -.
(14) . 世 界 像 の移 り変りにつ いて. それは近世の中世的 側面であった。 近世には近代的なもの が, 中世と言うにはあまりめばえ発達した が, 又中世的要素 が残った. それは封建制の完成という面 が鎖国となっ て出てきたのである。 領域の中では自由で, 外には絶 対手を出 してはならぬ封建的社会関係 を国全体にあてはめれば鎖国になる, 理想を言えば天皇を中 心とする封建組織の中に地球上の人々 が入っ てしまうの が望ま しかった が, 奴隷制段階の国々にそ れを望むのは無理 であり, 強行するのは犠牲が大きすぎた. そこまで人の事はかまわぬの が封建精 神である。 鎖国はキリシタ ン禁制の為ではあっ た が, 本質的にはそれ丈ではなかっ たかもしれぬ, 鎖国の前, 次第に御朱印船の貿易額がへっ ていた事もある。 鎖国の結果, いはばそれ以前にもそう言う傾向 があった が, 日本国 が一つの世界にな っ て, その 世界の世界像 がえ がかれた。 以前からの使用法ではある が, 天下とは日本の事であっ た. そしてそ れは唐, 天笠を含む三国と同じ意味に使われた。 三国一, 天下一な ど。 そこでは我ケ国は神の国であり, 武力に秀でた国, 神功皇后や豊臣秀吉の国であり, 天皇を精神 的中心とする国であり, 秩序の支配 があるべき国であっ た。 一定のルール, 習慣, 美的観念, 価値 判断 がなければならなかっ た。 しかし一方 扉風や扇子の世界図を見ても, 日本国 があま りに小さく ても猶それで もよい面 があっ た。. そこでは定信が元来蝦夷地を空地にしておいた方が, 露国とのやり かいな問題がおきなくてよい と し て いた が 如 き 考 え が 一 般 に 行 き わ た っ て い た。. しかしその 間, 世界統一の思想が又次第に成長しかけていた. 倒せば山鹿素行が中朝事実を著して日本こそ中華であると主張したのは, 単に支那人が中華と自 称している事に対して, 自己を主張して見たと言う丈では無い, やはり貨幣経済が成長して行くにつ れて資本主義的な要素が成長して行き封建的なものを支配し ようとした事を合せかんがえねばな らない. 封建的な 世界は, 主従関係のっみ重ねの上になっ ていたが, したがっ てその世界は小さく細分さ れる傾向を持ち, 強力な組織, まとま りは成長 しにくかった. 資本主義社会は貨幣による又貨幣を通じての理性による結合なので, 古代社会同様組織が大きく な りやすい傾向を 持った. これを国について言えば, その領域は極限にま で拡大される傾向を持った. その様な社会を考える時, 日本をその中心と考える思想 が目づと出て来やすいのである. それはお国目まんというより, 又国内団結の為というよりもっと積極的な生き生きと した思想で あ る。. 例えば本多利明は商業が分業の利を生み出す事を発見, 書物で天下に主張 したが, 又カムチャッ カに都を移 し, 大いに天下を経論すべき事を論じた。 佐藤信淵も支那を征服すべき事を主張した。 幕末にいたっ ては次第にその様な 主張がふえて行った。 維新後の征韓論もその様な傾向の現れと思われる. 単に失業武士 がもう一 度封建社会をきずく為に朝鮮の 地をえらぼうとしたのだと考えるのは間違 い だ ろ う.. それにしても豊臣秀吉が朝鮮征伐をして明の軍隊と戦いしばしば勝った事は, 日本人に十分自信を あたえ, 東亜の経略を日本人の武力で行う事が何んとなく 可能な 様な意識を万人が持っ ていた。 征韓論の実地調査の レポートがあっ た様だが。 - 55 -.
(15) . 栗. 原. 薫. 実際にも日本が素質としてもっ ている武力の自覚, その行使の 欲望がもえ 出 した 面 も あ っ たろ つ.. しかし当時すでに欧米の社会は自由主義の全盛時代であっ た. 自由主義では, 民族自決が自然の国 際関係で, 自決能力無き民族のみが植民地となるべきであっ た.. 政府は最小限であるべきで, 他国支配の機会など出来ればなくしたかっ た. イギリ スを中心にその様な国 際社会, その秩序が出来ている所に日本が加っ て行き, 幸い自決能 力ある民族として仲間に入れてもらえた訳である. そ してその様な世界像の線に従っ て国際関係を考えようとする努力が最も有力で政権をにぎりつ づけ, 征韓党は敗れ てしま っ た. 征韓党につい て言えば, 実際の植民地経営をやっ て見なかっ たと言う点があり, やっ て見て居れ ば自由主義的にな っ て居たかもしれぬ. 事実日本は自決能力の無い民族にとりかこまれていた訳であるから, 此等を植民地化しても自由 主義の立場から支持 されるべきであった. 近代化への努力を 能率的に進めて行きさえすれば. しかし領土に強い関心を持った 点で特色ある一派だった. 自由主義的な 世界像は, 主流として我ケ国民の胸に今迄生きて来た. そして征 韓論やその残党の黒龍会の考え程性急ではなかったが, 次第に近隣諸国を併合して行っ た。. しかし第一次世界大戦頃から, 共産主義の世界像が強く国民の心に浮び上っ た. これは労働 者の団結で世界革命を実現しようと言うのであるから, もはや国家は存在を許されな い の で あ っ た.. それは階級支配の具と言う丈でなく, 世界を 分割する国家などいらぬのであった. 共産主義者には, 被圧迫階級には民族主義をといたが, それは無智な民衆を動員する為だったと 思わ れる.. 先進国では反戦反帝運動をおこしたが, 反戦とは必ずしも真のねらいに非ず, 資本主義国同士の 戦争をあおる為だった疑いがある. これも民衆動員の手だっ たろう. スターリ ンは一国共 産主義を唱えたが, これは当時言われていた如く, 他国に思想宣伝 しない, 国民的利益を 追求する共産主義ではなく て, 全世 界の共産主義勢力をソ連に集中する主義であり , ソ連を祖国とする主義である. 一昨年沖縄に旅行した 時宮古島の新聞で祖国と書くべき 所をソ国 としてあっ たので驚いた. この様な 世界像は我ヶ国では有史以来のものであり, 国民を驚かすに足りた. 即ち 我 ケ 国 の 歴 史 に 即 し て い る 世 界 像 でな か っ た か ら で あ る.. 自由主義的な世界秩序も元来あったものに, 日本が加っ て行ったのであるが, 日本自身自由主義 に な りつ つ あ る 時 勢 の 下に あ っ た の で 不 自 然 な 参 加 では な か っ た.. そ して夫々の国が自由であり, 自主的であるのが立前であっ たので, 日本人は日本の歴史中心に この世界秩序を受け取る事が出来た. これが共産 主義的世界像と大いに異る所である。 又征韓論の後は一種のア ジヤ主義となっ て行った. 元来これは遅れたアジャを 日本人の手で近代化しようと言うものであ った. 或は軍事顧問となり, 或は教育者となり, 或は貿易商として, 或は資本家としてアジア諸国を援 - 54 -.
(16) . 世 界 像 の移り 変りにつ いて. 助し, その充実をま っ て自主権を 回復させようと言うものであった. こ の 様な 思 想 が 段 々 ヨ ー ロ ッ パ に 圧 迫 さ れ 侵 略 さ れ た ア ジ ヤを 救 お う と 言 う 思 想 に な っ て 行 っ た.. かっては日清戦争は専制政治に対する立憲政治の戦争であ ったが, こうなるとどうもは っきりし ない戦争にな っ て行き, 阿片戦争な どが強調される事とな った. そ れ はほ ん の 一 寸 した 重 点 の 置 き 方 の 違 い も あ っ た が.. この傾向は共産主義者の民族運動が盛んとなるのと並行 して強くな って行 った. そして共産主義運動にいくらか利用されたのかもしれぬ. 又国家社会主義 がおこるに当 っては, この主義は世界帝国 の思想に発展する方向性 があ った. そ うならぬと筋 が通らぬのである. 唯大勢はそこま で行かず, 八紘一 宇の思想 が広ま ったのであった. 国家社会主義 が国力相応の舞台として東アジアを選んだと言う面 もあ った. 主 流 に な らな か っ た の で, そ の 軍事 力 は 十 二 分 に 利 用 さ れ な か っ た。. 戦後は自由主義 が植民地経営を不利として次第に放棄し, 孤 立の要素 が出てきた事, 殊に低開発 国との結びつきの必要 がいちじるしく少くな った特色がある. この傾向は封建制 がもっていた 鎖国性に幾分似ている. 日本も例外ではない. 偶然うまく植民地を放棄した丈だ. 植民地を 持 って, その生産品を保護する為に高い砂糖をなめさせられたりするのは 御免という 事 に な っ た.. 更に注意すべきは, ジャーナリ ズムを見ている限り, 日本人 が民族的な使命感或は自尊心を失 っ たかに見える点である。 ジャ ーナリ ズム が正しく民衆の心を反映しているとは言えないだろうけれども. (二行略) この二者二にして一, ア ジアの奴隷派も共産勢力の一端である. これをたたくには共産勢力を圧えればよいのである。 思うに共産勢力は, 古代的な社会結合の中に入れられるのであ って, 我ケ国の現状と必ず しもあ わ ぬ.. 社会を自然に し, 人間の社会の力, つま り人と人との交渉を通 じてめざめさせれば, 社会こそ最 上の教師だから, 社会の欲するものを体得できよう. そこでは人は自然に主体的に自らの頭で考え, 自由主義をえらぶだろう. 唯人の心や行い更に言葉をゆ がめさせる強制力, 暴力を禁止しなければならぬ.. - 55 -.
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