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身体の自明性をめぐって : アンチ・オイディプスによる一つの身体論の試みのために

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Academic year: 2021

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(1)Title. 身体の自明性をめぐって : アンチ・オイディプスによる一つの身体論の 試みのために. Author(s). 福山, 博光. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 38(1): 227-239. Issue Date. 1987-10. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5047. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 身体の自明性をめ ぐっ て ‐アンチ・オイ ディ プスによる一 つの 身体論の試みのために-. 福. 山. 博. 光. 1, は じ め に. われわれは, 手が手として働き, 目が物を見, 耳が聞き, 言葉でコミュ ニケーショ ンし, 胃が胃 であることに対して何の疑問も感じはしない. つまり全身体にひろ がる諸々 の感覚機能 が協応し合 い, 相互機能態としてオルガナイ ズされ, 意味作用の世界の中に組み込まれ-逆に意味的世界, 象 徴秩序の世界によって身体 が有機的に統合されるとも言えようが-行為の主体として成 立すること に対して何の疑いも持たない. それが唯一自明な身体なのであり, あらゆる発達心理学, およ びそ れらと関連した教育における様々 な発達概念は, そのような自明な身体を目指しこそすれ, 否定し たり, 疑問視したりすることはなかったと思われる. そこから逸脱した身体の典型が強度の神経症 あるいは分裂症の身体または ダウン症, 自閉症の身体であり, それらの身体はマイ ナスの価値を負 わされ排除の対象として位置 づけられて来た. しかし逆に, やや乱暴な言い方をすればわ れわれの身体はそのようにも統合されうるということ ではないだろうか. 実際にはそこにないはずのものが視覚現象として出現したり, 誰もいない部屋 で誰かが耳もとでささやくの をはっ きりと聞き取ったりするようにも統合されうるのである, ここで試みようと思うことは, 自明な身体も, あらゆる逸脱した身体も, 身体の表現された可能 態の 一つとして考え られうるような, より下位の (より広域の, 流動し続けるものとしての) 身体 概念の提示である. それをドゥ ルー ズ;ガタリの 「アンチ・オイ ディ プス」 を中心に, また 「器官 なき身体」 あるいは 「リ ゾーム」 「諸機械」 などのタームを手懸りに考察してみたい, ヴィ クトル・エリセの 「ミツバチのささやき」 というスペイ ンの映画を見た. 子供の日常 生活が 非常に豊かな広 がりと, 詩的奥行を持ったものとしてとらえられており, 何シーンかの深く美しい 映像が強く心に残っている. この映画は「異文化としての子 ども」(本田和子)や「子供の誕生」(フィ リッ プ・アリエス) と通じ合うところがあると思ったのであるが, それはこれまでの発 達概念が設 定する子供観とは大きく異なり, 子 どもがわれわれ大人の秩序だった自明な世界の外にいて, 独自 の広がりと深さを持っ た異質な存在なのではないかということである. 美術教育と関連したターム で語るならば, 芸術によっての人間形成ということに対 して, つまり人間を形成することに対して の根本的な疑問につながってくるのである. シニフィ アンの 連鎖と生理的身体の相互作用による身 体の有機的統合, つまり身体の構造化, 自明な身体の成立が, 普遍的な唯一絶対の人間のありよう なのであろうか, }の中で資本 主義の生産構造とわれわれの意識的, ドゥ ルーズ=ガタリ は「アンチ・オイ ディ プス」1 精神的活動を関 連づけ, 現代人が根底に共有する分裂症的地平を明らかにしてみせた. われわれの 身体は, パラノイ アとしても, スキ ゾフレニーとしても, 男としても, 女としても, さらに子供と 227.

(3) . 福 山 博 光. しても, 機械としても成立するの である. フーコーによると「人間」とは高度に社会的,文化的な制度化 であると考えられる 時代の認識空間 . の上で結ばれる幻像にしかすぎないということになる. では身体とは一体何なのだろうか 身体も . そういったものであるのだろうか. まずはじめに, 自明な身体がどのように構造化されてくるのか について, その成立過程の確認からはじめていきた いと思う ,. 2. 自 明 なる 身体 ( 1 ) 生命活動 (ネゲントロピー) と象徴秩序の結 びつき 何かで読んだ記憶があるのだが, 例えばウルシに対してアレルギー体質の人に実際には何 でもな い木の葉を, 半覚醒下の催 眠状態でウルシであると思いこませて皮膚を刺激すると ほとんど本物 , のウルシに触れたと同 じアレルギー反応が出現してくることがあるらしい カエルだと知らずに食 . べていた料理がカエ ルとわかったとたん食欲が無くなっ たりすることも同様であろう し さらに言 , うならば, 箱庭療法をはじめとするすべてのアートセラピィ が可能であるのも まさに象徴的世界 , が身体化されて いることの証であろうと思われる. 個体によっ て強度の差はあろうが われわれの , 身体はさしあたり そのように構造化されていると考えられるのである 意識革命をふくむ様々 な変 . 革の論理が常に大きな困難を伴うのは, 単に言語や観念や制度の組み変えの問題ではなく それら , が深く身体化しているところにあると考えられよう 現代芸術が担おうとする重要な点の 一つ がそ . こにあると思われる. 象徴秩序ある いは言語体系と身体の生命的活動が, 端的に言うならば言語と身体とがどのように 結合するのかという問題 は非常に興味深いところ である 言語的認識の方から厳密に考えるならば , , 言語と身体とが象徴世界と生命活動 (ネゲントロピー) がどの地点で区切られるのかという疑問も ある. 生命とか身 体とか言ったとたんに言語記号の世界にはいるわけであり つまりすべては言語 , であるということも出来るわけで, フーコーの言う両者の間に存在する深淵こそが, あるいはその 両立不可能性とでも いえるものが言語記号論の一つの成果であり, 今後の展開につながっていくと ころだと思われるのである. (例えば, ジャック・デリ ダの原エクリチュ ール等のものである ) , 最近の物理学の分野における, D・ボームとK・プリ ブラムによるホログラフィ の概念によると , 脳をふくめたわれわ れの身体そのものが一つのフィ ルターなのだということである われわれの諸 . 感覚による実在 の把握とは,「第一次の真 の実在, つまり時間空間を超越しながら有意味でパターン インプリケイトオ」ダー }-これをD・ボーム は 〈内 臓 秩 序〉 と呼ぶ-からの振動数を解釈 化されている真の実在の領界」2 し組み立てることによっ て成立するということになる われわれは脳の数学的処理によっ てある次 , 元からの様々 なぼやけや振動数をあたかもレンズの焦点を合わせる様に 音 色 味 匂 触感と , , , , , して, つ まり実在の対象物としてつくりかえていくと いうことである 「脳はホログラフィックな宇 , )と 述 べ ら れ て い る こ こ で は ホ ロ グ ラ フ ィ ッ ク パ ラ ダイ 宙 を 解 釈 す る ひ と つ の ホ ロ グラ ム で あ る」3 .. ムについて深入りはしないが, 確かに可視光線にも可聴音域 にも限界があるわけであり 例えばあ , る種のバッタの雄の聴覚器官が同 種の雌の鳴き声の波形にのみ反応するよう に成立しているという ことな ど象徴的だと思われるのだが, 人間の身体的な存 在はn次元を3次元に構成するフィ ルター であるという考えはなかなか興味深いと思われる, 話が少しそれたかも知 れないが, 重要なこと は, つまりn次元を3次元化する装置としての身体 存在は, さらにその上に象徴秩序, 言語体系, 構造, 文化といったフィ ルターをかけられるという 228.

(4) . 身体の自明性をめぐって. ことである. (このフィ ルターがD・ボームらのいうより根底的なホ ロ グラフィックな変換装置= フィ ルターとしての身体とどのように関係づけられるのかということもまた非常に興味のあるとこ ろではあるが……ここでは置いておく,) これより上位のフィ ルターこそが人間が〈人間〉 として成 立する重要な要素なのである, 狼に育てられた少年が通常の人間のそれよりもはるかに鋭 い視覚や 喚覚を持ち, 四ツ足で走るように構造化されたこと, あるいはまたヤニス・クセナキスの 「耳は聞 かない, 聞くのは矢廿性である」 といった言葉は, くり返すけれども生理的身体と象徴秩序の深い関 連性を端的にあらわしているも のであると思われる, 人間が 〈人間〉 になるためには共同体の中で の個人の身体と既に成立している秩序との間の相互作用が必要である, つまり遺伝子の信号に基づ いて細胞が分裂し肉体的に成長していくことと象徴秩序の身体化とは切り離せないわけであり, 手 が手として使え, 足が足として機能し, 胃が胃であることとそれは重なると言えよう, 身体の諸感 覚及び諸機能の有機的統合は象徴秩序の獲得と同時進行していくのである. ピアジェのいう発生的 な認識の展開過程も, 言語構造を契機とする知覚のゲシュタルト化の場の共有と, その中での身体 と言語 (共同主観) の相互作用によ って展開していくといえよう. それが具体的な感覚的認識から 客観的科学的認識, 抽象思考への移行の過程であり, 子どもが共同体化, 社会化していく, 〈人間> に形成されていく過程であり, フロイ ト的な言い方をするならばそれらの初期にエディ プスのメカ ニ ズ ム が か か わ る こ と に な る と い う こ と で あ ろ う.. ところでこの身体と象徴秩序の世界のもっ とも原初的な結びつきのメカニズムを提示してみせた の がj oク リ ス テ ヴ ァ で あ る. 彼 女 は そ の メ カ ニ ズ ム を 「一 次 的 ナ ル シ シ ズ ム」 と 呼 ぶ, フ ロ イ ト. にあっては象徴界への欲動の移行をエディ プスの働きと見るわ けであるが, つまり母子一体化 した コートビア的世界を切断し, 象徴界の方に主体を導き, いわゆる社会化させる働きをエディ プスの 力動関係に見るわけだが, クリステヴァ はそれに先立つものとしてこの 「一次的ナルシシズム」 と いうメカニズムを概念化するのである. それは欲動が記憶痕跡へと移行し, シニフィ アンに生成す るという移動のおこる場であると考えられており, 母子一体化の融合状態にある身体からの欲求が すぐに充足されずに一 次的に遅延させられることによっ て欲動が放出される原初的な場所が構成さ れるというのである, それは主体が成立してくる最初の心的空間であり, 自我以前の く私〉 とでも ) がまさにその地点におい いえるものであるが, それは空虚な×という点にすぎないと述べられる4 , て, 欲動が記憶痕跡へと流され結びつけられる, つまり生命的律動と象徴が結びつけられるという こ と に な る,. クリステ ヴァ は精神科医として, 失語症や分裂病の患者の, 身体と言語の遊離した状態に接する なかから, 欲動=生命的律動と象徴秩序=イ デア界の結びつきの過剰および弛緩を考えて来たと思 われるのであるが, その後構造主義以降の新たな構造概念としてそれらを提示して来るのである, それによると構造とは, 生命的律動 (名付けられぬもの) と象徴秩序との間の相互作用という動的 な も の と して 考 え ら れ る, シ ニ フ ィ ア ン / シ ニ フ ィ エ と い っ た 言 語 構 造 で な く, ま た ヤ コ ブソ ンの. いうメタファ とメ トニミーの関係でもなく, 身体的欲動によっ て常に揺り動かされ組み変えられる ダイナミズム. ものであり, まさに欲動と象徴秩序の間の力 動そのものが構造なのだということになる.. ( 2 ) 自明な身体の構造化 ここでは, ① 「自明性の喪失」 (W・ プランケンプルク) →② 「共通感覚論」 (中村雄二郎) →③ 「児童画のロゴス」 (鬼丸吉弘)という線上で展開される身体の自明性の確認をしておきたい それ , はまた 〈人間> が成立する過程の確認ということでもあり, 人間形成論的美術教育が暗黙のうちに 了解済みの人間観であると思われるのである. これらの書物はこの線上での引用が見られることか 229.

(5) . 福 山 博 光. らもわかる通り, 根本的な人間概念において共通して いると思われ, それぞれに響応 し合っ たもの であると思われる, ① 「自明性の喪失」 は自明でない. つまり逸脱 してしまっ た身体の例である. W・ プラ ンケンプ ルクによる分裂症 (特に単純性破瓜病) の現象学的解釈の試みである. ア ンネ・ラウという ドイ ツ の20歳の女性の症例について考察されており,引用されている苦渋に満ちたほとんど叫びのような 彼女の言葉が印象的である. 「私 に 欠 けて い る の は 何 な ん で し ょ う ほ ん の ち ょ っ と した こ と ほ ん と う に お か し な こ と そ れ , . , が な け れ ば生 き て い け な い よ う な こ と … … そ こ に い る と い う だ け で, 本 当 に そ こ に い あ わ せ て い る. のではないのです.」 「私に欠けているのは, きっ と自然な自明さということなのでしょう, だれで も どうふるまうかを知っ ているはずです. ……動作とか人間らしさとか対人関係とか, そこにはす べてルールがあっ てだれもがそれを守っ ているのです, でも私にはそのルールがまだはっ きりわか らないのです. 私には基本が欠けていたのです.」 「ほかの人のことをどう判断したらよいか, 物事 をどうや っ て確かめて, どうやっ て片 づけたらよいのかがわからないと頭の中が混乱してしまいま す. 私はそんなぐあいでいろいろなことがち ゃ んと出来ないのです.」 「何かが抜けているんです, でもそれが何かということをいえないんです, 何が足りないのか, それの名前がわかりません.」「こ とばのちゃ んとした意味の感覚がなくなっ てしまっ たのです. いろんなもの ごとの感じがないので す, たとえば病気とか, 苦しみとか, 日常生活とか, そういったことばの意味がわかるまえに, ま )」(クリステヴァ も臨床例から患者の同様な声を引用する 例えば ず始めに痛い感じがするのです5 . .. 「私 が い く ら 話 し て も そ れ は ま っ た く 意 味 を な さ な い ん で す 」 「い つ も 話 して な き や い け な い , . ,一. 「確かに話しているんですが私はまるで死んだも同然なのです6 )」 ……ただしクリステヴァの場合 ,. は, プラ ンケ ンプルクと異なり, 前述したとおりこれら患者の空虚な言葉を欲動と象徴秩序・シニ フィ アン/シニフィ エの結合の弛緩と考えるようである,) 以上のようなア ンネの状態は, まさに自明でない身体, 逸脱した身体からの叫びであり, 例え ば 目の前のコ ッ プの存在が, 知覚しうるけれども理解出来ないという, われわれにとっては非常に奇 妙な状態が出現していると考えられるわけである. ものが存在するということは, 単に感覚器官が それに反応し, 脳によっ て象徴的世界と関係づけられ認識行為として成立することなのではないと いうことになる. 個人の自我以前のまさに自明性の地平の構成, 世界の開示性と身体の超越論的構 成, それとかかわる間主観的世界の内在化(現存在の時熟の属する自明性と目立との間主観的構成) ということになろう. プラ ンケ ンプルク は次のように述べる.「自明性の喪失の結果, アンネにとっ て事物に関してはもはや何事も帰趨 (事物がそれなりの事情を持つこと) がないという事態が起き ている. 〈帰趨せしめる〉ということは, そのことがそこにむかって開けわたすところのもの〈世界〉 それ自身をすでになんらかの仕方であらかじめ開示して いるのでなけれ ばならない. この場合, 開 示性とは日常の事物を理解しつつこれと交わるという関係を許すような場所のことである, 私があ ることがらに取り組むことが出来るためには, 私はそのことがらが私に出会っ て来る場所と, それ がそこから由来してくる来歴とをわかりきったこととしておく必要がある. この来歴はその つ どす でにという仕方で, 過去とのまったく特別な関係を内容としているとともに, 帰趨せしめることを 支えてもいる, そのつ どすでに帰趨せしめてしまっ ているということは現存在それ自身のあり方を ) 性格 づけているある 〈先験的完了態〉 である7 . 」 , つまりそれは, 一人の人間の自我などというものが構成さ れる以前の, 世界との全志向的なかか わりであり-この書物全体が現象学的アプローチに終始しているのであるが-フッ サ←ルの現象学 におけるノエシス/ノエマの関係, 意識の志向性と対象との原初的相互作用の地平であると考えら 230.

(6) . 身体の自明性をめぐって. れる. 意識活動が生起する以前の前意識の地平であり 「そこで営まれているのは非人称的で不定詞 ) 的な性格を持っ た理解である8 」 と考えられるのである. アンネ・ラウの状 態は, プラ ンケン プルク による とこの前意識とでもよべる地平の構成の失敗 としてとらえられているように思われる, しか しながらここで何よりも重要な点は, 分裂病に対する 現象学的接近 が どうであるのかという問題は さておくに しても, 逸脱するしないにかかわらず, 身体は自明性と非 自明性のダイナミズムによっ て形成され, 人間存在が誰でも共通に抱えこんでいる地平だということではないだろうか, プランケンプルクによる以上のような, 現象学的 理解によって考察された 〈自明性> なるも のを, 〈共通感覚〉(コモンセ ンス) としてとり上げたのが中村雄二郎の 「共通感覚論」 ということ になろう. 彼によるとこの自明性=共 通感覚とは 「〈現実との生命的接触>(ミンコフスキー) とか 〈世界の共感的全体関係〉(E・シュ トラウス) とかよ ばれうるような, 人間と世界との根源的な通 ) 路 づ けをもたらすところの一種の感受能力 である9 」ということに なる, 具体的には, 全身体にひろ がる, 触覚をふくむ皮膚感覚および運動感覚が中心になる体性感覚によって, 視覚, 聴覚等の他の 諸感覚が統合され, その結果形成さ れてくるところのより高次のあるいはより根源的な感覚である と思われる. 個々の感覚機能 が結合さ れシステム化する ことにより個々の 能力の合計よりも新しい 高次の能力 が形成されて来るというわけであろう, この感覚を通 してはじめて世界そのものがまと まりを持ったものとしてあらわれるの である, 前述したアンネ・ラウの 言葉に, ことばのちゃ んとした 意味の感覚がなくなっ てしまっ て, こと ばの意味 がわかる前にまずは じめに痛い感じがするというものがあったが, そのあたりの医者 との やりとりをまた少し引用 してみる, 「《ひどく 心が沈んでいたときには, こんな痛さはまだありませ ) 患者は非常に迷っ てためらいなが んでした》 . (ちゃ んとした肉体の痛み? それとも心の痛み? ら,《たぶん心の痛みの 方でしょうね》という,どちらなのかを決めるの が明らかに困難な様子 であっ 0 )一 さらにヴィ ルヘルム・Gという化学専攻の学生の例では 「 《まわりの世界との間隔 をなくして た1 , しまっ て, ものにぶつからないように》絶えず気をつけていなければならない, 《なにを見ても, 見 えるのは表面 ばかりで, なにかその表面で擦りむいたり, それにぶつかったりするみたいな感 じな 一定 の間が欠けているのだというこ とを……あきもせず繰り返すの のです》 . -Gは, 自分にはある m であった…… ,ここに見られるのは,個人の人格や思考の崩壊というより明らかに認知世界の異常 ということであり, それは共通感覚論の言い方を借りる ならば, 体性感覚統合のズレということに あいだ なると思われるのである, 確かにこれらの 〈痛み〉 とか く間の欠如〉 とかをわれわれはなまじっか の感情移 入などで追体験することは出来ないだろうけれども, 共通感覚が成立してくる過程はまさ ②. に個々の感覚の協応であり, 視覚も聴覚も触覚単独では成 立せず, それぞれ他の諸感覚によって支 えられていることを考えるなら ば, やはり前述したとおりわれわれすべて が同時に抱えうる地平だ ということであろう. 例えばわれわれは, ある平面作品の 色と形から強く音 を感じることもあるし, またある交響曲の 響きの錯層の 中から一つの色が鮮烈に浮 び上がっ てくることもあるのである, また例え ば音声を消 したテレ ビ画面の中のよく見知った人間の口の動き を見ていると, 視覚的刺激であるにもかかわら ずほとんど聴覚的反応がおこり, 特にまわりに様々 な雑音などがあると, その人が喋っ ている声が 聞こえたと思える時があるのである. また生まれつき 全盲の人が人生のある時点で視覚を得ると, ,り方がわからず, あちこちにぶつかったりするという. 彼は視覚 を参与さ はじめは物 との空間のと せた感覚統合をもう 一度やり直す必要があるわけである, 空間認識というものも視覚によっ てのみ 成立しているわけではなく, 触覚, 運動, 平衡感覚, 聴覚, 喚覚等の感覚の連動によっ て成 立する 231.

(7) . 福 山 博 光. のである. 感覚とはそう いう成立の仕方を しており 全身体 のあらゆる感覚が統合されて中村雄二 , 郎のいう共通感覚が形成されるということである これによ っ てわれわれはまわりの世界と結びつ , けられ, 自明な世界内存 在として構成さ れるわけである . そして何故共通感覚が体性感覚の先導によっ てまとめられる体 性感覚統合なのであるのかという ことは次のように述べられている まず諸感覚を近代生理学によっ て特殊感覚(視覚 聴覚 喚覚 . , , ,. 味覚, 平衡感覚) , 体性感覚 (触覚, 圧覚, 温覚, 冷覚, 痛覚, 運動感覚) , 内臓感覚 (臓器感覚,. 内臓痛覚) の三つに分ける. それらはそれぞれ脳 神経によっ て信号の伝達されるもの 体性脊髄に , よ っ て伝達されるもの, 内臓神経によ って直接脳幹に 伝えられるもののグループである そしてそ , れらの中で体性感覚 は, 表層感覚であるところの皮膚粘膜感覚と深部感覚であるところの運動感覚 (筋, 髄, 関節) につまり外部世界と内部世界に同時 に開かれてお り 現象学的にいうならば 世 , , 界の中に組 み込まれた活動する 可能的な身体の中心 であり そういった世界とよ り直接的に関わる , ところの感覚が中心になるからだということになる そしてまた美術教育と直接関わるところの〈イ , . メージ〉 にしても, 視覚的なものというよりもむしろ共通感覚に根ざしたものであり 生きられる , 重層的な時間, 場所はこの共通感覚によるものだというのである 確かにわ れわれはリニ アな時間 , , あるいは単一の物理的空間, 場所を生きている のではなく 象徴的世界の中で様々に意味付けら れ , た何重にも錯層する時間, 空間を生 きるわけであり そういっ た世界との関わりの根底に共通感覚 , なるものが要請されるということは納得出来 ることである . それでは何故, 前述 したアンネ・ラウの様な共通感覚の統合のズ レが つまり自明性の喪失が生 , じてくるのであろうか. このあたりま でで考えられることをもう少し述べてみたい ア ンネの生育 . 歴において母親との間に, ベイ トソ ンのいうようなダブルバイ ンド的状況があったのかどうか 母 , 親との間の心理的葛藤は強く匂わ されているもののそれがア ンネの症状 の根本的な原因であるとい うような断定をプラ ンケンプルクはさけているよう である しかしながら母親との関係の障碍は非 , 常に重要な意 味を持つことは認めており, 次の様に述べられている ・ . まず母親が子供にとっては最 初の世界であり, 世界を感じとれないということは母 親を感じとれなかった 理解出来なかったと , いうことに遡ると いうのである, テレンバッハの 「母親の発散する雰 囲気が持っ ている特定のいく つかの述語こそが, 言語以前の発達期 において子供の信頼の基礎をなすものである1 2 )」という言葉 . 「 を引用 し, 自然な自明性と間主観性がたがいに基礎づけあっ ている関係 への問いが 早期幼児期に , おける発達に 目を向けただけ で解決されるものでないことは はっ きり理解しておかな ければなら , 3 ) ない1 」 がそれは「超越論的な安らぎと安らぎのなさとの根源をなす 場所(子供自身の心的世界を構 成する以前の母親との間の前言語的関係であろう-筆者) が同時にまた人 間の現存在にお ける因果 オーラ 4 性と志向性, 自然と歴史が関連しあっ ている場所1 ) 」なのだと述べる. つまり母性的な霊気につつま れるこの超越論的な安らぎの場が欠如していたり 不安定であっ たり またさらに初期的な心的機 , , 構-クリステ ヴァの 一次的ナルシシズムの場と考えてもよいと思わ れるが-を形成した後 において も, 母親 か ら出さ れるメ ッセ」ジが同 時に背反する二つのものでありつづけたりするならば 反応 , すること自体が阻止され, 欲動の自然な発現が疎外されることに つまり自明な世界を形成すると , ころの共通感覚 の形成が十分になさ れ得ないということ になろう 共通感覚の形成においては 象 , , 徴秩序=言語が深く関わっ てくると思わ れるのであるが 知覚が発現してくる根底 の場 (母親と共 , 有されるもの) が不安定 であるかぎり, どのようなイ デア界も完全には組 み立てられ得ず つまり , 生命的欲動と 言語が結合 して 〈感覚〉 として発現する ことが十分でなく 世界は生命感を欠いた も , のでしかなかっ たり, 奇妙に把え難いものになっ たりするのだろうと思われる そして不完全な感 . 覚統合のまま自明な秩序の世界に無防備に曝されることに対する 防衛手段が .世界を遮断し感覚を , 232.

(8) . 身体の自明性をめぐって. 閉鎖する目閉化であっ たり, 独自の妄想を紡 ぎ自分の統合に合わせた世界を構成することであった り, また不完全な統合に自明な世界が侵入してくることが感覚なのか感情なのかも不明確なく痛み> あいだ であったり, そういっ た統合による知覚認識 が 〈間〉 の欠如であったりするのだと思われるのであ る.. このあたりでもう一度プランケンプルクのいう 〈自明性〉 と中村雄二郎の 〈共通感覚〉 の関係を 確認しておきたい, プランケンプルクはあくまでも主体の初期心的機構 が構成される以前の, つま り意識以前の場, 知覚がゲシュタルト化してくる場の問題であり, 中村雄二郎の共通感覚は, プラ ンケンプルクのこの場において形成されてくるものとしてとらえておきたい, ゆえに 〈共通感覚〉 の方か らみるならば, 前意識の場がうまく構成され得ても, 共通感覚が形成される時, つ まり体性 感覚統合がなされる過程においても当然自明な世界からの滑落は起こり得るわけである. ところで前述したように, ここで重要な点は共通感覚と言語の関係である. 体性感覚統合は言語 的世界の獲得と重なるという点である. 中村雄二郎のいう 〈言語的トポス> とは諸感覚の統合が言 語的構造を契機としてなされるということであろう. 感覚及び知覚が言語的制度化であるというこ とはこれまであらゆるところで述べられて来たことである, 白い雲も, 暖かい風も, 生命の刺激, 反応以前に, 既にそのようなものとして成立している必要があるということである, そしてそれら は他の言語との音あるいは意味的差異として関係づけられ, また統合関係, 連合関係として配 置さ れ, 全体として言語体系という複雑なネッ トワークを形成しているということであろう, この網に よってすくい取られたものが自明な世界内存在としての身体ということになろう, このネ ッ トワー クをレトリ ックにまで還元したの がヤコブソ ンのメタファ とメ トニミーである, 共通感覚論におい てはこのメタファ とメ トニミーの関係をわれわれの精神活動に内在する深層構造とみているのであ るが, これがまさに間主観性として問題になって来たところであろうと思われる, 主体がこのよう な構造を持つところの共同主観を内在化させ, 鹿松渉の言い方を借りれば, 共同主観としてのく私〉 と個人としての く私〉 という二重構造として成立する過程がまた体性感覚統合の過程でもあるので ある. そしてさらにプラ ンケンプルクの前意識の場が, 人間の現存在における因果性と志向性, 自然と 歴史が関連し合っている場所だという言葉からも考えられるように, この母子の共有する前意識の 場さえも言語構造によっ て支えられあるいは貫かれているということである. 身体は成立 した世界 「共通感覚論」 には近代以降の視覚中心主義的なわれわれの の中で人間化していくのであるから, ( く知〉 の, 認識の枠組の身体レヴェ ルからの組み変えという重要な視点があることを述べておきた い.). ③ そしてこの 「共通感覚論」 の線上で展開される美術教育論が鬼丸吉弘による 「児童画のロ ゴ 5 ) ス1 」であろう. 共通感覚の形成の過程, つ まり体性感覚による他の諸感覚の統合の過程が発 達であ り, 児童の描画は視覚の優先によっ てではなく, むしろ広義の触覚によっ て先導されその統合の過 程で出現してくるの が児童画であるというのである, 彼によっ て端的に提示された, 表出期, 構成 期, 再現期という児童画の発 達における三つの画期とは, まず身体の運動機能の統御の, つまり目 と手が, 耳と身体運動とがというように, 初歩的な身体の機能の協応からより複雑な協応へつまり 体性感覚による他の感覚の統合の, そしてそれと不可分に進行していく (統合の契機となる) これ も初歩的な象徴, 言語の獲得の過程, さらに身体的成熟とともに諸感覚が統合され有機的統一を持 ち, 言語的に分節化される, つ まり意味作用の世界の中に適合した身体として成立してくる過程で あると考えられる, 視覚, 聴覚といったように独立した知覚としてとり出されるのはむしろ言語的 233.

(9) . 福. 山 博 光. 分節化待 ってからだといえよう, 彼によると, もっ とも児童画が児童画らしく出現してくる構成期の例えば〈観面混合〉〈レントゲ ン描法〉 等のものは視覚がいまだ未分化であり, 対象とのかかわりがより身体的で, そのようなむ しろ身体による対象の把握とそれを平面化する時点での平面からの抵抗によ っ て形成されてくるあ る種の法則性であると考えられる, そして何度もくり返すけれども, それは象徴秩序, 意味的世界 が身体に介入 してくる過程だということになる, 6 ) ( 3 ) 「初期心的現象の世界1 」 以上見て来たような, 意味的世界と身体の相互作用 の過程, 体性感覚による諸感覚の協応の過程, あるいは共同主観とその中での個人の 心的世界の構成の過程-おおざっ ぱではあるがこ れまで述べ て来た通り基本的に同一のものであると考える-を非常に具体的に, 特に幼児期の心的世界の構成 のされ方をかなり詳しく考察し提示してみせてくれたのがこの 「初期心的現象の世界一 (村瀬学) で あろう, ここに述べられているところによると, 前述したよう な統合が単なる感覚の協応, 例えば, 視覚と触覚, みることとつかむことが単に重ねられて協応しあっ ていくといったことではなく, そ れらが個人の心的世界に構成されていく時にはもっ と複雑なメカニズムがある のだということを明 らかにしてく れる. そのあたりを見れば, これまで述べて来た身体と共同主観, 象徴秩序の関係, それによる初期の心的世界の構成がもう少し具体的に理解される のではないかと思われる. 彼はまず心的現象を 〈類‐主観〉 の 二重構造として考え, さらに 〈類〉 を純粋 〈類〉 の領域と く身 体〉 として の類の領域の二重構造に, そして主観を 〈共同性=規範〉 としての領域と く純粋主観〉 の領域の二重構造として考える. 鹿松渉の世界の四肢的存在構造との類似性が思い起こされるので ある が, 心的現象はそのような四重 構造の中で形成されるということになる. それによると類とは , 個体を超えて連なる生命の流れとしてとらえられ, 〈生命〉が〈似たものを通して似たもの へと成り こむ構造〉 であるとするならば類とは 〈生命〉 と具体的な個体としての く生物〉 を媒介する構造と して存在するものであるという, それは染色体上の遺伝記号によっ て人間が人間として形態形成さ れ発現してくること, そして視覚, 聴覚等すべて音や光の振動数の 一定 の枠内の限界づけられてい ることと同じであろうと思われるのであるが, 村瀬はそれを日本古来の く気〉 の概念にあてはまる ものとして考えて いるよう であり, あくまで心的現象に反映してくるものとして把えていると思わ れる. 純枠〈類〉とは類が個になろうとする方向, 個人の身体の誕生から死への過程であり, 〈身体〉 としての類とは個が類に成ろうとする方向, 種を媒介とした種体としての身体化, 生殖, 群の構造 である. そして 〈主観〉 においては, その個別性 (個別性が主観本質であると考えられている) が つねに共同性とともに現われる領域を 〈規範〉 の領域とし, 共同性を踏えているはずにもかかわら ずあたかもそれ自体独立して展開されているよう に見える領域を純枠 〈主観〉 の領域と考えるとい うことである. このあたりもこれまで論述して来た主観性の構造から考えるならば, 前者を象徴秩 序, 例え ば日本語という言語の体系と考え, 後者を個人の意識活動と把えたわ けであるが, ここで 注目したい点はあくまで心的世界の構成のされ方であるから, 一応 村瀬の把え方でみていきたい, ① まず, 0歳から6カ月の期間を 〈類〉 の発現の時期と考える. この 〈類〉 は個体の心的機能に 内在する先験的な枠として考えられる, そしてそれをさらに 〈先取りの姿勢〉 , 〈同定〉 , 〈支持〉 の 三期に分れるのである, 従来から 〈原始反射〉 と呼ばれていたものを 〈先取りの姿勢〉 と考え, ふ うせんをふく らませる時のためし吹きに例えられて いる, 誕生時の短い特定の期間だけ物を目で 追っ たり, 物音の方 へ首を向けたり, 物を握っ たり等の反応であるが, これらは1, 2カ月の間に ・ 殆 ど消えていく . 皮質下の脳活動にかわっ て皮質性の脳活動が出はじめることによると考えられて 234.

(10) . 身体の自明性をめぐって. いる, そしていわゆるまねるという行為 が 〈同定〉 である. 母親が笑うと笑い, 口や手をあげたり 閉じたりすると同じように反応するいわゆる共鳴動作 といわれるものであるが, それは 「周囲の者 の存在の仕方が自分の存在の仕方に似ていることに気づくことであり……その気 づきを踏えて自分 7 ) をその相手に合わせていこうとする心的な覚醒の構造1 」だという, そして「まねるという意識がな 8 } くても, あたかも山彦のように個体と個体 が同じ形に反響し合う1 」のだと考えられる. つ まり共同 主観を内在化し, 身体統合がなされやすいように前意識の段階での主体の方向からの能動的受動態 とでもよべる働きかけとして考えられよう. そしてこの〈同定〉が単なるまねに終 らないためには, 〈同定〉 をあたかも自分の外で起こるかのように受けとめ直されなくてはならないのである, つま り 〈同定〉 が主体によ って対象化されるような構造 が 〈支持性〉 として考えられるのである, ゆえ に対象とは, 生理的な受けとめを何らかの形で一旦生理から切り離し, それをもう 一度う けとめ直 すという仕方で成立するということになる,「つまり〈快-不快〉にしろ,〈笑-泣>にしろ,〈満-空〉 にしろ, それは心的現象として現われる時は, 単なる身体刺 激からくる直節の産物はなく……それ はあたかも身体の 〈外〉 のものであるかのようにして受けとめられて-つまり 〈既知〉 のもののよ 9 )」 例えば握るという行為について うにして受けとめられることによって 〈感情〉 になるのである1 . みると単に手の機能として あるわけでなく握るという感触 が自分にとっ て快として対象化されると いうことになっているのだと述べられる. 「児童画のロ ゴス」において鬼丸吉弘は, 握るという手に よる自己完結的な行為が, 原初的な象徴としての (意味を持っ た) 円になってくると述べるのであ るが, 村瀬のこの二重化の説明によってよりよく理解されると思われる, そして 〈見るものをつか む〉という行為においては単に生理的な目と手の協応ということではなく, 「見ることの 二重性と触 0 } れることの 二重性がさらに同時に重ねられ受けとめられるという現象 が起きている2 」のである.そ して そ れ に よ っ て r〈見 る> こ と が 〈握 る> こ と に, あ る い は 逆 に 〈握 る> こ と が く見 る〉 こ と に 転. 1 ) 化=変換されるという可逆の構 造の成立を意味する2 」ことになるのである. これが〈支持性〉であ る. 以上〈類〉なるものは意識の素型 として, 心的機構の原初的な枠として出現してくるのである. 2カ月頃を 〈主観〉 の発現の時と見なし, それはさらに 〈予見> の時期 と く指示行 ② そして6~1 為が確定〉 する時期に分けられる, それは母親と他人の区別 がつくようになったり, ものを落して 落した場所をのぞいたり, あり, なしの関係がさらに一つの大きな対象としてうけとめられるよう になる時期である, 例えばそれまでは, 子 どもに物を見せて, 次にそれをかくすとそれはもう存在 しなくなってしまっ たわけであるが, あることとないことという 「二つの出来 事がひとつの対象で あるということを保持しながら区別されてうけとめられはじめると, そこに 〈在り〉 と 〈無し〉 の 別々 な事態がどこかでつながっ ていることにさらに気 がとまるようになっ てくるのである, そして 目の前で無くなったものが下に落ちているということに気がとまれば, その 〈無し〉 は下に 〈在る〉 2 )」 それは く目的-手段〉 の関係 が 〈行 ことと 〈ひとつの対象〉 であることに気がつくことになる2 . 程> として対象化されるこ とだというのである. そしてイヤイヤ, バイ バイ, ニギニギなどの動作 が出来るようになり, パパ はどこ?, ママは? と聞くとそちらを見るようになると〈指示の確定> の時期 と考えられるのである. 以下のように述べられる.「指示決定つまり共同の指示性の受けとめ は, 一般には 《規範》 と呼ばれている, つまりひとつの発声が特定の対象物と結 びつく 時, それは 偶然そう結 びつくのではなく, とり決めとしての同一 性の確定なのである, つまりパパなる発声と メ ガネの人の間には何のつながりもないのに, それを取り決めとして強引に同一のものと定めてし 3 )一 パ パ と い う 音 と あ る 人 物 が 結 び つ け ら れ, パ まう. それが 《約定》 であり 《規範》 な の で あ る2 , パ は どこ ? と聞かれてそちらを見るようになる ということは, そうした言表が表現として予見さ れ, 注目されるようになることである, 235.

(11) . 福 山 博 光. ③ そして 〈類-主観〉 の統一が12カ月から1歳半 の頃に発現してくる そしてそれは 共同性 , , の 一 者化 (一 者=個別者の発見) , 一者としての他者のうけとめ (他者の発見) , 他者としての自分 のうけとめ(自己の発見) , という三過程を経て自己意識が成立する時期である. あれがA, パパよ Bと決め つける他者がいる, その時まず共同の指示性, つ まり指示を決定しおしつける そういう , 関係の実践者の意志として 他者をうけとめることが他者を知るということになる そしてそう した . 他者としてあらわれてくる 〈強制の意志関係=共同の指示〉 の決定を個人が自分も同じように決定 するか (同意) , しないか (否定) の選択できるもの=意志として登場することそれが自己だという ことになる. そしてそれは自己像としての自己ではなく意志としてあらわれる自己である つ まり , 自己の形成は同時に周囲の共同性=規範性を自覚する過程と重なっ て出てくるということになる , ここで述べられる自己意識はラカ ンおよびメルロ・ボンティ の鏡像段階で出現する自己意識ではな く, より人類史的な視点からの考察であり, 自己内容 (性格・感情) は 環境や共同体にかかわっ , ていようが, 自己そのものの 構造は個人史の中からは明らかにされないと述べられる つまり人類 . 史が形成して来た 構造だということである. それは補遺ノートの中でまとられている それによる . と共同体の偶然の争い, 共同体を 〈一者〉 としてみなす過程の出現 共同体の 〈一者〉 の現われを , 首長が代表して体現する過程,共同体のひとりひとりを一者としてみなすことができるようになり , そしてそれが転化して 自分ひとりを 〈一者〉 として対象化出来る過程 といった歴史がかかわっ て , い る の だ と 述 べ ら れ て い る.. ややまとめが長く なりすぎたように思われるのだが, 以上, ① ② ③が初期の 特に乳児期の , , , 心的現象の発達であり, それは一言でいうならまず心的現象が 〈素型〉 としてあらわれて来る時期 だということである. そしてさらに, 乳児期から幼児期 の心的世界の構成 へと展開していくのであ る. この幼児期は明らかに日本語という言語構造がより直接に心的現象として構成されてくる過程 であると思われるためにまとめることはしないが, ここでも主張しておきた いことは 〈類〉なるも , のの発現の背後にも既に象徴秩序の構造が存在するということである 歴史的な厚みを持った秩序 . の地平に赤ん坊は生み落さ れるのである, 人間の脳の発達と言語の使用が不可分なものであること は周知のことであるが, 例えば大脳生理学の分野でいわれる視覚野のラ テラリ ゼー ショ ン(片側化) 等のものも, 明らかに人間が獲得して来た言語的体系が器官組識にま でも深くかかわり 脳構造の , 発現の仕方にまで影響を与えている 一 例であろう. ゆえに最初にまっ たく生理機構的な発現があっ て, 発達の途中から秩序の体系を身体化していくというよりも, 根本的な見方をするならば 身体 , の発達と言語化は不可分なものであろうと思われるのである それ以降の 〈主観〉 の発現の時期 . , 〈類-主観〉 の統 一の時期は言うまでもないこと である 例えばパパ という音と人物の結合はむろ . んであるが, 〈あり, なし, あり〉 の関係も非常に言語的な認識の構造であろう , ここでは乳時期の心的現象のメカニズムについてのみこの 「初期心的現象の世界一 を追ってみた のであるが, つけ加えておきたいことは, そしてまた非常に共感をおぼえる点でもあるのだが こ , の書物のより重要なテーマは, 例えばダウン症, 自閉症児の心的世界の理解であり そういっ たこ , れまで症例として, または逸脱として しか考えら れなかった世界を, あくまで心的現象の総体の構 造がはじめからかかえこんでいる可能性の現象 (村瀬) として つまり どこまでも一つの心的現象 , として理解していこうとする立場である. 心的現象を 〈類〉 と 〈主観性〉 の構造として把えて いく こともそのための概念化であり, ダウン症児のひとなっっ こさは く類〉 的な融け込みとして 人間 , が根本的に持っ ている傾向によりウ ェイ トのかかった心的な発 現であり また自閉症児の場合はよ , り共同主観性 (ただしこの共同性には類的なものが希薄である点, 本来的な共同性とは異なっ てい るのだが) の規定や規律に (カ レンダーや電話帳を覚えるとか, 漢字やマーク 地図や機械の配線 , 236.

(12) . 身体の自明性をめぐって. を覚える等) ウ ェイ トのかかった心的な構成のされ方と考えられるわ けである.. 3, ア ン チ o オイ ディ プス によ る一つ の 身体 論の 試 み. 以上, 自明な身体の構造化をみてきたわけであるが, ここではそういった自明な身体さえも, 一 つの制度化であるとみなし, それを対象化しようとする, ドゥ ルーズ=ガタリの新たな身体論 につ い て み て い き た い,. 「アンチ・オイ ディ プス」 は反精神分析の立場に貫かれており 普遍的な 根源的なメカニズム で , , あると考えられていたエディ プスの力動関係を完全に無効にしようとする試みである. エ ディ プス とは, 生まれてからしばらく続く母子 一体化したユートピア的な融合状態にくさ びを入 れ, 子ども と母親を切り離し象徴秩序の世界へ導く働きとして父権が存在し, その分離がうまくいかないと, いわゆるマ ザーコンプレックス等の心的な発育不全とみなされるような, 父, 母, 息子間の心的な ダイ ナミズムとして概念化されたものである. そしてそれは当然超自我の形成にもかかわり, 子ど もが共同主観を内在化し, 社会的規約, 倫理等に適合した集団内存在として成立するのに非常に重 要なメカニズムとして考えられていたわけ である, 前述 したクリステヴァの 一次的ナルシシズムは この概念のさらに前段階の実際の父が作動してくる以前の場の概念化であったが, これも ドゥ ルー ズ=ガタリの立場からは, 同様なエディ プスのメカニ ズム として斥けられるものであろう D・Ho . ロレンスの言葉を引用 しながら次の様に述べられる,「オイ ディ プス は, 欲望や諸欲動のひとつの状 態なのではない. それはひとつの観念である, 抑圧が欲望に関してわれわれに鼓吹するひとつの観 念でしかないのだ……. 近親相姦の動機は, 人間の理性によっ て倫理的に演輝されて来たものであ り, この理性が自分自身を救うために窮余の手段に訴えて生み出したものである……, それはまず 何よりもこう した理性の論理的演輝の操作がまさしく無意 識的に行われて, 次にそれが情念の領域 にまで導入され, そこで行動の原理となったものなのである……. こう したものはきらめき振動し 旅をする能動的な無意識とは何の関係もない……, われわれが理解していることは, 無意識が観念 的なるものを何も (つまり, 少しでも観念の世界に由来するものを何も) 持っ ておらず, したがっ 4 )一人間が成長 していく過程にはかなり社会 て何ら人格的なものを持っていないということである2 , 的な概念, 価値感, その他のものがかかわると思われる にもかかわらず, そういったものを切断し て, 家庭内だけの心的力動関係としてとらえるところに問題があるというのである, このような家 族なるものの抽象化と独立化が, 近代資本主義の権力的構造の維持として機能していると考えるの である,「家族は近代国家のイ デオロギー装置のうち最も重要なもののひとつであり, 主体を成型し て外へ送り出す整流器として機能する, しかしそうやっ て放り込まれた外の世界は, 決して居心地 のいいところではない, そこを貫流する脱コード化された流れは, コード化, 超コード化による支 えを失ったものたちが, 究極的なゴールもなくただかりそめの安定を得るために, 群れを成して 一 5 )」 われわれの欲望の多様な流れを一方向化 (それは資本主義の生産構造と 方向に走っ ている……2 , も関わるわけだが) する機構として存在するものだというのである. そしてこのほとん どイ デオロ ギー的なエ ディ プス の概念を解体することによって〈欲望的生産〉 (欲望機械)と〈社会的生産〉(社 会機械) は直接的な対応関係があることが明確になるのである, エ ディ プスはなんら普遍的なもの ではなく, 例えば倒錯者はエディ プスよりもはるかに人工的で, より空想的な別の属領性をつくり 出したものであり, また分裂症者は, 属領性の外部に存在し, 彼の欲望の流れを無人の鹿野に至ら せたもの, そして神経症者のみせる様々 な症状は, エディ プスの領地の上における欲望の非エディ 237.

(13) . 福 山 博 光. プス的性質を示すものであり, その流れの移出なのだと述べられる. 資本主義機械は〈貨弊-資本〉の充実身体の上の種々 なる流れを脱コード化するものとして考えら れる. 貨弊はすべてを量的な大小関係におきかえ, さらに資本となっ てあらゆるものに化身しつつ, すべてをその同質化の運動にまきこむわけであり, それが脱コー ド化の運動であり, 様々 な象徴や 価値は常に解体さ れ組みかえられ続けていくわけである. しかしこの脱コード化は多様な欲望のア ナ←キーな氾濫-そうなると資本の単性生殖は停止させられる-にまでは至らぬように, つまり脱 コー ド化された流れをまた 一定方向に整理するために公理系という管理規則が設けられることにな 6 } つまり脱コー ド化の分裂症的逃走と 公理系という パラノイ ア的な専制君主による再コー ド る2 , . 化, この二つの相互組み変え的運動が資本主義機械のメカニズムということになる, エディ プスの 機能とはこのパラノイ ア的な再コー ド化であると考えられよう, われわれはこの分裂症化と神経症 化の間にあり, 資本主義機械に関わる身体が常に内包する地平だということになる, ここでは無意識は, フロイ ド的な意味でもユング的な意味でもなく, それ自身において実在する 一つの機械として考えられている. ここで, ドゥ ルー ズ =ガタリの重要なタームであるこの機械に ついてふれておきたいのだが, 彼らは存在するすべてを機械に還元するの である. ホワイ トヘッ ド の過程と実在に重なる概念であると思われる が, 全体 の中に適合した歯車のようなものとしての機 械ではなく, 多種多様な機械の連動体であり, 自然とか人間とかの範膜を超えて連動しつ づける多 種多様態であると考えられる. それらの諸機械によって地球全体のダイナミズムが形成されるよう な も の な の で あ る. 「ス ピ ノ ザ と 私 た ち」 に お い て, ド ゥ ル ー ズ は 次 の よ う に 述 べ る. 「実 際, 運 動. 的な命題は私たちに言う, ひとつの体は微粒子間の運動と静止, 速さと遅さの複合関係によっ て規 定されると. つまりそれは, 形や諸々 の機能によ って規定されるのではない. 全体の形状も, 種に 固有の形態も, 諸々 の器官機能も, 微粒子間の速さと遅さの複合関係から決まっ てくる. 形態の発 展 [成長] やその成り行きさえ, そう した微粒子間の複合関係から決まっ てくるのであり, その逆 ではない. 肝心なことは生を, 生のとるひとつひとつの個体性を, 形として, また, 形態の発展と してではなしに, 互いに遅くなり, 速くなりしながら微粒子群の間に成り立つ微分的な速度の複合 プラン. 関係としてとらえることだ. それはひとつの内在性の平面の上になる速さと遅さの構成の問題なの 7 }」つまり 身体も 心も 自然も 主体でも実体でもなく さまざまに異なる速度を持つ である2 , , , , , . 微粒子の運動によ っ て, 触発し触発される機械状連鎖だということになる. 「アリストテレスの〈質 料〉 は完全な受動態であり, それゆえ単なる材料におとしめられて来た. マルクスのマテリーは徹 底的に能動態である, それと同時にドゥ ルーズ=ガタリのマテリーも能動的である. マテリーは〈生 産〉 する, マテリーは欲望であり, 欲望は生産する機械であり, 諸機械は流れと切断の中でさらに 8 )」 のである 多くの機械を生産する2 . , 以上のように, 〈諸機械〉の概念によると身体もひとつの機械として考え られるわけである. それ は 「器官なき身体 (CS 」 として提示さ れ, エ ディ プス化された身体 にかわっ て目ざされるべき地 平であり, 前述したスピノ ザの世界観とアルト一の身体論の線上 で展開されて来たものである, そ してこの 「器官なき身体」 は1章, 2章で述べてきた自明な身体に対 立するものである, それはま ず有機体化, 意味性, 主体化作用に対するものとして提出される. これら自体が一つの制度化とい て把えられるわけである. われわれは組織され, 有機体になり, 自分の身体を象徴秩序の内在化と ともに分節化する. 目, 口, 手, 足, 胃, 肝臓……その他, そしてそれらが相互機能態として一つ に統合されたものが自明な身体であった. そして意味作用の世界の中で, 解釈するものであり, 解 釈されるものであり, そして言表行為の主体として固定されるのである. 以上のような自明な身体, 体性感覚統合, 前意識的な心的世界の構成等の成立さえもが制度的な地層化と考えられ, これらの 238.

(14) . 身体の自明性をめぐって. 制度化, 地層化がおこる, 運動しつづける場としてこの 「器官なき身体」 が考えられているのであ る,. ここに来て新たな身体概念が提示されたのである, しかしそれはもう身体 とも呼べないかも知れ プラン ないのである が. つまり人間もその上に制度化されてくるところの 一つの平面である, それは プラ ンケンプルグの前意識の地平でもなく, 村瀬学のいう言語 以前の く類〉 的発現の心的な地平でもな い, 何故ならそれは明らかに 〈人間〉 という範時を超えたものとして考えられるからである, 様々 70年代以降, 構 な方向に流動的な, 他の諸機械と自由に連結可能な一つの機械である, (ここにも’ 造主義以降の諸概念が提 示して来た, 近代思想の中核にあった人間中心主義の否定が, あるいは〈人 間の解体〉 が明らかに見られるのである.) この ドゥルーズ=ガタリによる, かつての自然も人間も消滅してしまう身体の地平からの再構築 が必要だと思われるのである.. 86 1) ドゥルーズ=ガタリ 「アンチ・オイ ディ プス」 市倉宏祐訳 19 ,5 河出書房新社 24 ) 同上 983 青土社 2) K・ウィ ルバー編 「空像としての世界一 井上忠ほか訳, 1 3) 同上 3,5 青土社 4) J・クリステヴァ 「愛の関係と表象」 『現代思想』198 「 プ 5) W・プランケン ルク 自明性の喪失」 木村敏ほか訳, 1978.7みすず書房 4 ) 3 ) ) 2 ) ) 7) 8) ,1 , 同上 , 11 ,1 ,1 , 10 982.1 青土社 6) 1・クリステヴァ 「記号論入門」 『現代思想』1 9 岩波書店 97 9) 中村雄二郎 『共通感覚論」1 1 5 ) 鬼丸吉弘 「児童画のロ ゴス」1981 勤草書房 1.6大和書房 8 1 ) 村瀬学 「初期心理現象の世界一19 6 ) 3 1 ) 2 ) 1 ) 18 ) ) 7 ,2 , 同上 , 2の, 2 ,2 , 19 983 ) 浅田彰 「構造と力」1 2 5 .9 勤草書房 ) 同上 2 6 2,2 青土社 27 ) G・ドゥルーズ 「スピノザと私たち」『現代思想』198 『 「 8 朝日新聞社 ) 今村仁司 アンチ・オイ ディ プス書評」 朝日ジャーナル』1986 28 ,7.1 (本学助教授 岩見沢分校). 239.

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