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冼星海の訪ソに関する多少の問題

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?星海の訪ソに関する多少の問題

著者

平居 高志

雑誌名

集刊東洋学

120

ページ

58-77

発行年

2019-01-24

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129951

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冼星海の訪ソに関する多少の問題

はじめに 筆者はこの一〇年ほど、冼星海という作曲家の生涯をた ど り つ つ、 抗 日 戦 争 期 の 共 産 党 史 に つ い て 考 察 し て き た。 前回は、 一九三九年に冼が入党した際の事情を探ることで、 当時の党の組織事情の一端を明らかにし た ︶1 ︵ 。 冼は正式に党員となった五ヶ月後、党の命を受けて、延 安電影団の映画監督・袁牧之とともにソ連に出張し、二度 と中国の地を踏むことはなかった。 モスクワで死んだのは、 一九四五年一〇月三〇日。延安を離れてから死ぬまでの五 年半は、正に運命に弄ばれたかのような時間だった。 筆者は、その五年半について、冼の事跡を明らかにする ことを目指したが、一部について解決できない問題を残し ているため、発表をためらっていた。しかし、それらの問 題は中ソ関係や人物評価に関わる重要なものであると考え られるため、今回あえて﹁研究ノート﹂として公表し、識 者のご教示を待つことにしたものである。 冼 が 延 安 を 離 れ て 以 降 の 五 年 間 全 体 に つ い て の 考 察 は、 筆者の知る限りにおいて、まず、秦啓明﹁不顧一切、為党 努力│冼星海的蘇聯之 行 ︶2 ︵ ﹂がある。かつて同じ秦啓明の ﹁冼 星海年譜簡編﹂を鋭く批判した戴鵬海も、この論文につい ては批判論文を書いていない。それは、この時期について の秦の考察が優れているのではなく、ソ連滞在中の冼に関 する史料が限られすぎていて、考証が出来ないからだと思 われる。 新聞・雑誌に発表されたソ連時代の冼に関する証言と戦 後カザフスタンで行われた様々な冼星海関係の記念イベン トの挨拶類を集めた書物として、張中華﹃冼星海与哈薩克 斯 坦 ︶3 ︵ ﹄がある。それらの証言類はカザフスタン滞在中のみ ならず、冼のソ連滞在中全体を対象とし、かつ回想が網羅 されているため、ソ連時代の冼星海を考える上では最も重 要な本である。しかし、それらの内容の妥当性については 集刊東洋学 第一二〇号 平成三十一年一月 五八 −七七頁

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59 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 考証されていない。 モスクワ在住の中国人作曲家・左貞観は、ソ連時代の冼 に つ い て 唯 一 実 証 的 な 研 究 を 目 指 し た 人 物 で あ る。 ﹁ 星 海 在 蘇 聯 ﹂、 ﹁ 星 海 在 蘇 聯 之 新 探 ︶4 ︵ ﹂ と い う 二 本 の 論 文 を 書 き、 わずかながらも一次史料を発掘し、冼と直接関わった人に よる貴重な証言を収集した点が評価できる。 李立三の秘書 ・ 李思慎による﹃李立三之 謎 ︶5 ︵ ﹄は、信憑性について確認は難 しいものの、歴史の盲点とも言えるいくつかの点について 重要な証言を含んでいる。 これらの他に、同行者である袁牧之の側から記述したも のとして、郭学勤﹃千面人生│袁牧之 伝 ︶6 ︵ ﹄と、呉築清・張 岱 編 著﹃ 中 国 電 影 的 豊 碑 │ 延 安 電 影 団 故 事 ﹄︵ 以 下﹃ 電 影 的 豊 碑 ︶7 ︵ ﹄︶ が あ る。 ど ち ら も 貴 重 な 情 報 を 含 む と は 言 え、 典拠については一切明らかでない。これらは、特にモスク ワ以降については、同じ情報源を元に書いているように思 われる。袁は冼と違い、 終戦後、 生きて中国に戻ってくる。 しかし、ソ連滞在中についての回想もインタビューの記録 も見付けられない。もしかするとインタビューは行われて いて、 それがこれらの本の執筆材料になった可能性がある。 第一節   モスクワまで︵訪ソの経緯と目的︶ 冼 自 身 が 訪 ソ の 目 的 に つ い て 直 接 言 及 し た も の は な い。 延安電影団は一九三八年九月に発足すると、同年一〇月か ら一九四〇年初までかけて、解放区の各地で﹁延安と八路 軍﹂という映画の撮影を行った。袁牧之は一九四〇年三月 に 延 安 に 戻 る と、 ポ ス ト プ ロ ダ ク シ ョ ン︵ 現 像、 編 集 等 ︶ を行おうとしたが、その作業は大きな困難に直面した。そ の困難とは、以下のようなものであっ た ︶8 ︵ 。 ①延安は電力と大量の流水とが確保できない。物資の欠 乏が激しい上、技術的にも不十分である。 ②国統区では、革命根拠地や八路軍に関する内容の映画 は没収の危険がある。 ③最も条件が整っている上海は、日本軍に制圧された。 ④香港は、太平洋戦争による形勢の変化で、交通が遮断 されている。 国民党による封鎖の結果として、延安は食糧を含めた物 資の欠乏にあえいでいた。 西安事件によって第二次国共合作が成立したものの、間 もなく国民党は背信的な諸策を打ち出すようになり、一九 三九年末からは﹁第一次反共高潮﹂と呼ばれる、第二次国 共合作後最初の共産党弾圧キャンペーンが行われるように

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60 なってもいた。国統区での作業が不可能だというのは当然 であろう。 上海は一九三七年に既に日本軍に制圧された。香港に関 しては、太平洋戦争の開戦が、一九四一年一二月八日であ る こ と を 思 う と、 一 九 四 〇 年 三 月 の 時 点 で、 ﹁ 太 平 洋 戦 争 による形勢変化﹂という話になるのはおかしい。実際、太 平洋戦争が始まるまでは、重慶から桂林を経由して香港に 至 る 航 空 路 線 が 機 能 し て い た の で ︶9 ︵ 、﹁ 交 通 が 遮 断 さ れ て い る﹂と言うのも正しくない。しかし、香港の隣町と言って も過言ではない広州は、一九三八年一〇月に日本軍の手に 落ちていた。また、たとえ飛行機が飛んでいても、それに 乗るためには国統区を通らなければならなかったし、香港 がいつまで平穏でいられるか分からない状況があったのも 確かだろう。 一方、彼らをソ連に派遣するためには、次のような有利 な条件があっ た ︶10 ︵ 。 ①当時、中ソの共産党は関係良好で、革命根拠地に関す る内容の映画であれば、ソ連からは受け入れてもらえ ると思われた。 ②延安とモスクワの間は交通の便が良く、戦闘地域を通 らないので、比較的安全に行くことが出来た。 ③ ソ 連 の 映 画 技 術 と 設 備 と は 多 年 の 発 展 の 結 果 と し て、 ポストプロダクションを完成させるには十分だった。 ④ソ連で作業をすることで、ソ連の映画界から学ぶこと が出来、それは将来の革命映画事業の発展と管理のた めに役に立つ。 この時、中ソ関係は確かに良好だった。中国共産党中央 委員会は、一九三八年一二月二一日、スターリンの六〇歳 の誕生日に際して祝電を届けている し ︶11 ︵ 、一九四〇年三月一 五日には、ソ連とフィンランドが和平協定を結んだことを 喜ぶとともに、中国人とソ連人とがなお一層団結すること を促す指示を出してもい る ︶12 ︵ 。 交通の便としては、一般人が移動する際にも、西安から 新疆を経由してソ連に行く航空便があっ た ︶13 ︵ 。映画の技術に ついても、エイゼンシュタインの﹁戦艦ポチョムキン﹂が 一 九 二 五 年 に、 ﹁ ア レ ク サ ン ド ル・ ネ フ ス キ ー﹂ が 一 九 三 八年に完成・発表されていることから、相当程度の発展を 遂 げ て い た こ と は 窺 い 知 る こ と が で き る。 ﹁ 学 習 ﹂ の 価 値 については、言うまでもないだろう。 これらの点を考慮した結果、党は﹁延安と八路軍﹂のポ ストプロダクションをモスクワで行うこととし、袁の希望 に従って冼も派遣し、音楽を担当させることにした。 当時の延安で、ソ連に行くということがどの程度の重さ を持つことなのかはよく分からない。共産党の指導者とそ

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61 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) の家族は、仕事のみならず、病気の治療等の理由でモスク ワに行っている例が少なくない。しかし、もちろん、経費 の負担も大きく、決して容易なことではなかったはずであ る。だから、党が映画制作のために二人の芸術家をソ連に 派遣すると決めたのは、解放区を撮ったこの映画が、世界 に共産党を宣伝するために、極めて大きな価値があるもの と認めていたことを意味する。 ところで、ソ連側で冼の訪ソの目的に言及しているのは 作曲家・ムラデ リ ︶14 ︵ と、音楽理論家で雑誌﹃ソ連音楽﹄の編 集にも携わっていたシナールソ ン ︶15 ︵ であるが、いずれも映画 制作に言及していない。その中で冼を直接知っていたムラ デ リ は、 ﹁ 更 に 偉 大 な る ロ シ ア 古 典 音 楽 を 理 解 し て、 ソ 連 作曲家の作品を理解し、 あなた方の創作形式上は民族化の、 内 容 上 は 社 会 主 義 新 音 楽 文 化 の 豊 富 な 経 験 を 学 ぶ こ と が、 私の宿願でした。⋮⋮そこで私はモスクワにやって来たの です﹂という冼の言葉を記録す る ︶16 ︵ 。 中 国 側 に も、 梁 寒 光 や 侯 唯 動 ︶17 ︵ の よ う に、 ﹁ 学 習 ﹂ だ け を 訪ソの目的として映画に触れていなかったり、 鐘敬 之 ︶18 ︵ や﹃中 国電影発展史第二 巻 ︶19 ︵ ﹄のように﹁学習﹂を第一とし、それ に付け加える形で映画制作に言及した資料が存在する。 楽器さえ満足にはない延安で、物質的、政治的な厳しい 制約を受けながら作曲活動をしていた冼にしてみれば、ソ 連で様々な音楽に触れることは正に﹁夢﹂であった。まし て、映画音楽を作曲し、それがソ連のオーケストラによっ て音にされるとすれば、自分の管弦楽曲が西洋式のオーケ ストラで音にされるのを実際に聞いたことのない冼にとっ て、この上もない喜びであると同時に、勉強の機会だった というのは当然のことである。 し か し、 ﹁ 学 習 ﹂ ば か り が 問 題 と さ れ、 映 画 音 楽 に 言 及 しない史料が多ければ、冼は本当のところ何をしにソ連に 行ったのか、という話になってしまう。特に、ソ連人が一 切映画に触れないのは不可解だ。 冼 が 延 安 を 出 発 し た の は 一 九 四 〇 年 五 月 一 一 日 で あ る。 一三日に西安に着くと、 ﹁黄訓﹂という偽名を使い、 約五ヶ 月 間 滞 在 し た。 途 中、 六 月 三 日 に は﹁ 無 事 重 慶 に 着 い た ﹂ と い う 虚 偽 の 書 簡 を 妻 に 送 っ て い る ︶20 ︵ 。 国 民 党 の 眼 を 欺 き、 移動のチャンスを窺っていた、ということである。一〇月 一九日にようやく出発、二二日の午後に蘭州に到着し、約 二〇日間滞在した後、 おそらく一一月一〇日に蘭州を離れ、 飛行機で迪化︵ウルムチ︶に向かっ た ︶21 ︵ 。 一 〇 月 一 六 日 付 け 銭 韻 玲 あ て 書 簡 に は、 ﹁ 受 け 取 っ た ば かりの中共中央からの電報によれば、中共中央は既に新疆 政府に、私たち二人が公開で新疆見物に行くことについて 通知し、相手方の許可するという返電を得てあるとのこと

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62 だ ︶22 ︵ ﹂とある。茅盾によれば、西安に滞在していた茅盾の所 に、冼が突然訪ねて来たことがあった。その時、冼は、茅 にソ連へ行く計画を話した上で、途中、新疆に一年半滞在 し民歌を収集するつもりだと語ったとい う ︶23 ︵ 。西安滞在中の 冼の書簡をたどると、冼は、五月二一日に延安訪問を控え た茅盾と会って食事をし、茅盾が延安から西安に戻った後 の一〇月一五日頃にも会っている。一〇月一五日頃という のは、中共中央から冼に、公開身分による新疆訪問の許可 が取れたという通知が来た時期である。 遡って一九三九年、冼は延安の魯迅芸術学院︵魯芸︶で 民 歌 を 講 じ た 際、 ﹁ 新 疆 は 現 在 中 国 文 化 上 重 要 な 場 所 で、 多くの国内の文芸人がみんな迪化に集中している﹂と語っ た ︶24 ︵ 。 こ の 部 分 を 読 む と、 ﹁ 現 在 ﹂ と あ る こ と か ら、 新 疆 固 有の文化が重要なのではなく、何らかの事情で、国内の多 くの文芸人が集中しているから文化上重要だ、と言ってい るようにも見える。 しかし、 そうではない。 冼は続けて、 ﹁モ ンゴルと近いために、新疆には多くのモンゴルとよく似た 特別な踊りがあり、また他にも我々に異民族の音楽が中国 に伝わって来た時代を思わせる一種の雰囲気があり、古代 の楽器が現在も残ってい る ︶25 ︵ ﹂と言う。冼の関心は、新疆の 文化そのものにあったのだ。 だが、冼と袁が延安を離れる前夜、毛沢東が二人を会食 に招いた際、毛は出張期間を半年だと告げてい る ︶26 ︵ 。本来の 目的である映画制作に与えられた時間が半年で、それに先 立つ新疆滞在が、予め一年半と予定されているのはあり得 ない話だ。一ヶ月半の間違いでなければ、逆に、冼たちが ソ 連 に 行 く 目 的 が 映 画 制 作 で は な い、 と い う こ と に な る。 いや、仮に一ヶ月半だったとしても、往路に油を売ること が許される出張というのは考えにくい。つまり、表向きは 映画のポストプロダクションを目的の出張としつつ、それ を信じることが難しい様々な事情が存在するのである。 一一月一〇日に蘭州を出発した二人が、 いつ迪化に着き、 そこでどれくらいの時間を過ごして、いつモスクワに到着 したのかは分からない。ただ、 ﹁創作雑記﹂ ︵﹁雑記﹂ ︶ に ﹁一 九四〇年一二月から私は他の環境に来てい る ︶27 ︵ ﹂とあること や、ソ連の作曲家ムラデリが、モスクワにおける冼との出 会 い を﹁ 一 九 四 〇 年 秋 ﹂ と し て い る ︶28 ︵ こ と か ら、 ﹁ 秋 ﹂ は あ り得ないにしても、新疆に長く滞在することはなく、一九 四〇年末までにモスクワに到着したと思われる。 第二節   モスクワにて︵続・訪ソの目的︶ 一九四〇年末、コミンテルンはまだ存在していた。彼ら が訪ソするという情報は、コミンテルンからソ連共産党当

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63 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 局に伝えられた。彼らが到着した当初は、彼らの生活にコ ミ ン テ ル ン が 責 任 を 持 っ た ︶29 ︵ が、 左 貞 観 に よ れ ば、 生 活 上、 活 動 上 の 要 求 の 聞 き 取 り を 行 っ た の は ソ 連 当 局 で あ っ た。 左の友人が内務省で発見したその記録には、冼が提出した 要求が三つ書かれてい る ︶30 ︵ 。 一   自分の第一交響曲﹁民族解放﹂を演奏すること。 二   ﹁黄河大合唱﹂を映画にすること。 三   プロコフィエフ氏に会うこ と ︶31 ︵ 。 不思議なことに、本来の任務に関することは書かれてい ない。むしろ、自分の作品についてのこだわりばかりが感 じられる。ソ連当局の支援を求めてよいかどうかすら怪し いような内容である。映画のポストプロダクションのこと は自明のこととして、ここに書かれていないだけかも知れ ないし、監督である袁牧之の要求に含まれるのかも知れな い。しかし、作曲家として、映画音楽の演奏者や録音につ いての具体的な要求は多々あるはずなので、その点に触れ ないことは不思議と言うほかない。 不幸にして、一九四一年六月二二日にドイツ軍がソ連に 侵攻を開始することで、二人は映画のポストプロダクショ ンどころではなくなってしまう。最終的には、モスクワを 脱出することを余儀なくされ、 その際、 延安から持って行っ た貴重なフィルムも紛失してしまった。 しかし、モスクワ到着から独ソ開戦までの半年あまりと いう時間は、決して短いものではないはずである。そもそ も、彼らに与えられたモスクワでの時間は、もともと半年 間であった。モスクワにたどり着くまでに半年を要したこ とはやむを得ないので考慮しないとしても、モスクワ到着 半年後には、 映画制作は完了しているのが当然だったのだ。 実際、 ﹃電影的豊碑﹄ ︵九四頁︶によれば、モスクワ到着 後半年の間に、映画制作は順調に進み、最終段階を迎えて い た。 冼 に よ る 音 楽 作 り も 完 了 し て い た と い う。 し か し、 それを裏付けるものは何もなく、冼自身も一切そのことに 言及していない。映画音楽の作品それ自体はもとより、要 素を利用した作品さえも残されていない。自分の作品に絶 対的な自信を持ち、その価値や評価について誇張気味に語 ることの多い冼が、映画音楽について一切言及していない ことはどうしても不可解である。 一方で冼は、この半年の間に、一九三五年以来書き継い で き た 第 一 交 響 曲 を 完 成 さ せ た 上、 ﹁ 黄 河 大 合 唱 ﹂ に 壮 麗 なオーケストレーションを施し、序曲を付けて面目を一新 するという大きな作業をしている。完成こそ独ソ開戦後と なったが、一九四〇年に西安で書き始めたピアノのための 第 一 組 曲﹁ 後 方 ﹂ の 作 曲 も 継 続 し て い る︵ ﹁ 雑 記 ﹂︶ 。 こ れ らの作業の合間を縫って、 いや、 映画音楽作りの合間を縫っ

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64 て、これらの私的な作業が可能だったとは考えにくい。 なぜ映画制作の形跡が残っていないのか。訪ソの目的は 本当に映画制作だったのか。このことは、死の場面ととも に、ソ連時代の冼に関する最も本質的で重大な問題のひと つであると思われる。 冼 は、 ﹁ 黄 河 大 合 唱 ﹂ を 自 ら の 指 揮 で 演 奏 し た 一 九 三 九 年五月一一日の﹁日記﹂で、その演奏を絶賛した人として 三人の名前を挙げている。一人は毛沢東であるが、あとの 二人はといえば、王明と康生である。 他 に も 多 く の 実 力 者 や 友 人 が 演 奏 会 の 場 に は い た の に、 この三人の名前を挙げるのには理由がある。党内トップの 毛 に 評 価 さ れ た こ と が 重 要 な 意 味 を 持 つ の は 当 然 と し て、 冼は党幹部の中で、王明、康生と特に深い関係を持ってい た。 ﹁ 日 記 ﹂ に も、 延 安 か ら ソ 連 に 向 か う 途 中 で 書 か れ た 妻宛の書簡にも、二人の名前は頻出する。特に王明は、冼 と家族との連絡窓口、相談役でもあったようだ。毛の他に 彼ら二人の名前を書いているのは、おそらく、彼らに評価 されたことが特別な意味を持っていたからだ。 王明は留ソ派︵親ソ派︶の頭目として知られる。コミン テルンの覚えめでたく、そのバックアップを得て、一九三 八年頃までは毛沢東と党内の主導権を争ったが、一九四〇 年にはかなり微妙な立場に立つようになってい た ︶32 ︵ 。康生も ソ連留学の経験を持っていた。帰国して延安に入って以降 は、生涯にわたって特務機関︵社会部、中央情報部︶の責 任者を務めた。霞飛は、王明と康生がともに残酷で、仲間 を陥れることにためらいがないという点でよく似ていると 指摘す る ︶33 ︵ 。どちらも陰のある人物である。 この二人の存在は、 冼たちの訪ソと関係しないだろうか。 二人が特異な人物であるが故に、謎を解く可能性の一つと して指摘しておくことにする。 第三節   冼星海の最後の書簡 映画制作のことを始めとして、特に独ソ開戦後の二人の 生活はほとんど何も分からない。その中において、一九四 一年九月一八日付けの書簡が二通残されていることが目を 引く。一通は母親に宛てたもの、もう一通は妻に宛てたも のである。母親に宛てたものは、知るはずのない妻子の健 康状態に触れ、何か生活上の不都合があれば、自分たちに 連絡を寄越すように、と書いていることから、自分がソ連 にいることを伏せて書いていることが分かる。一方、妻宛 ての手紙も、モスクワが戦時下にあることは何も感じさせ ない文面である。 身の回りの状況に触れないことは、 かえっ て妻の不安を掻き立てるように思うが、妻がモスクワが戦

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65 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 時下にあることを知らないと思っていたのか、手紙に書け ない何かの事情があったのかは分からない。 ドイツ軍の襲来を予想して、モスクワ市民の疎開準備は 開戦前から始まっていたが、実際の疎開が急激に加速した のは、一〇月に入ってからである。そして、一一月二五日 までに完了し た ︶34 ︵ 。つまり、 冼が妻と母に手紙を書いたのは、 モスクワ市民の疎開が最高潮を迎える正に直前だった。 な ぜ こ の 時 期、 冼 は 帰 国 出 来 な か っ た に も か か わ ら ず、 手紙だけを届けることが出来たのか。それについては、林 彪に関するある興味深い説が伝えられている。筆者の知る 限りで、それを公にしたのは、李立三の秘書・李思慎であ る。彼が伝えるのは以下のような話だ。 当時林彪はちょうどソ連で病気療養していた。日に日 に厳しくなる戦況を見て、治療を中断して帰国せざる を得なくなった。林彪は抗日の名将であって、黄埔軍 校の卒業生だったため、専用機のみならず国民党政府 が発行した辺境通行証を持っていた。しかし、その他 の 延 安 か ら 来 た 人 々 は、 す べ て 国 民 党 政 府 か ら〝洪 水 や 猛 獣 〟の よ う に 見 ら れ て い た。 そ こ で、 国 民 党 軍 の 厳密な封鎖をうまく通過するため、冼星海たちは林彪 の随行員や通訳になりすまし、その専用機で帰国する つもりでいた。彼らの気持ちを落ち着かせるため、林 彪は最初しぶしぶながらもそれを了承していたのかも 知れない。しかしながら、いざ飛行機に乗る段になっ て、 林 彪 は 突 然 態 度 を 変 え、 冼 た ち の 求 め を 拒 絶 し、 手紙だけは届けてやると言い出し た ︶35 ︵ 。 林彪がいつモスクワを離れたかは分からない。この前後 に、ソ連から延安に戻った人物は見当たらないので、冼の 手 紙 が 林 彪 に よ っ て 届 け ら れ た と い う の は 本 当 だ ろ う が、 史料がこの証言しかないので、確かめられない。 また、冼が林彪とともに帰国できなかったのが、李思慎 の言うように、国民党による封鎖の結果だとすれば、往路 に許可を得て空路を利用し、新疆を経由してソ連に入った こととの違いをどのように考えるべきだろうか。 新疆は政治的に特殊な場所であった。それについては多 くの研究が公にされてい る ︶36 ︵ 。それらが共通して指摘する特 殊性とは、ソ連との隣接、中央︵重慶︶から遠いため、そ の 影 響 力 を 排 除 し て 独 立 性 を 持 つ こ と が 可 能 で あ っ た こ と、そして盛世才という強力なリーダーの存在である。 盛 世 才 は、 一 九 三 三 年 春 の﹁ 四・ 一 二 政 変 ﹂ に よ っ て、 新疆の全権を掌握した。しかし、遼寧省出身で一九三〇年 に新疆に来たばかりの盛は、政治的地盤が決して強固では なかった。何とかして地盤を固めたい盛と、帝国主義の包 囲から身を守りたいソ連の思惑が一致し、ソ連は一九三三

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66 年一二月と三四年一月に新疆に出兵し、盛の政敵を倒すこ とに協力した。以後、ソ連と盛の利害が一致するため、ソ 連は巨額の資金を提供したり、様々な分野の専門家を派遣 するなどして盛政権を支え、 両者は強固に結び付いてゆく。 盛は、一九三五年四月の第二回全疆民衆代表大会におい て、 ﹁ 反 帝、 親 ソ、 民 族 平 等、 清 廉、 和 平、 建 設 ﹂ と い う 六 大 政 策 を 提 唱 す る な ど、 開 明 姿 勢 を 取 る よ う に な っ た。 一 九 三 五 年 八 月 一 日 に、 共 産 党 が い わ ゆ る﹁ 八・ 一 宣 言 ﹂ を出し、挙国一致の救国を呼び掛けたときにも、盛は賛意 を示したし、西安事件後は張学良を支持し、国共合作へ向 けた交渉に際しては、国民党に﹁七項救国綱領﹂を提出し て、 抗 日 優 先 の 姿 勢 を 鮮 明 に し た。 一 九 三 七 年 四 月 に は、 河西回廊に展開していた中国工農紅軍西路軍の受け入れを 表明し、同年九月には八路軍弁事処の開設に同意した。そ の 結 果、 左 翼 陣 営 の 知 識 人 た ち が 移 り 住 ん で 来 る よ う に なった。ソ連や中国共産党による支援によって、新疆にお ける盛政権は強固となったのである。 ところが、一九四一年に入ると、まず一月四日に、国民 党が共産党指揮下の新四軍をだまし討ちにするという﹁皖 南事変﹂が発生し、これを皮切りに、第二次国共合作後二 回目となる共産党弾圧期︵第二次反共高潮︶に入った。日 本軍による抗日根拠地に対する攻撃も熾烈さを増す一方で あった。そのため、共産党は新疆を支援するだけの余力を 失い、盛の側から見れば、共産党と上手く付き合うことの メリットが失われつつあった。加えて、六月二二日には独 ソ戦争が始まり、ソ連も盛を支援する能力を失うと、盛は ソ連に見切りをつけた。 盛とソ連の関係が崩れつつあることに目を付けた国民党 が、飴と鞭をもって対ソ関係の変更を促すと、もともと打 算的な意図でソ連や中国共産党と協調関係を保っていた盛 は、 次 第 に 反 ソ・ 反 共 的 な 態 度 を 取 る よ う に な っ て ゆ く。 そして、一九四二年春には、ソ連や中国共産党と関係を持 つ 革 命 青 年 と 幹 部 と の 大 量 逮 捕 と い う 事 態 に 至 る の で あ る。 九 月 に は 八 路 軍 の 弁 事 処 も 閉 鎖 さ れ た。 盛 は こ の 後、 急速に蒋介石との関係を深めてゆく。 つまり、冼がソ連に向かうために新疆に立ち寄った一九 四〇年一一月と一九四一年九月では、社会情勢も盛世才の 共産党に対する考え方や姿勢もまったく違っている。だか ら、一九四〇年秋に新疆に入れた冼らが、一九四一年九月 に入れなくなっていても不思議ではないし、林彪が神経質 になる理由も十分にあった。これらの結果として、冼は林 彪の飛行機に同乗できず、唯一の帰国のチャンスを逃して しまったのである。

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67 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 第四節   モンゴルとカザフスタン 冼は、 九月一八日に手紙を書いた直後にモスクワを離れ、 ウ ラ ン バ ー ト ル に 入 っ た よ う だ。 中 国 北 方 か ら の 帰 国 を 狙 っ て の こ と だ っ た。 二 人 は、 モ ン ゴ ル か ら 一 度 は 南 に、 もう一度は寧夏方面を迂回することで、解放区へ戻ろうと したが、日本軍の存在やルート上の問題から果たせず、一 九四二年春、再びウランバートルに戻っ た ︶37 ︵ 。 ウ ラ ン バ ー ト ル 滞 在 中 の 冼 に つ い て は、 ﹁ 雑 記 ﹂ の 中 に 断片的な記述が見られる他、二人による証言が残されてい る。一つは、張鋭﹁冼星海在蒙古的朋 友 ︶38 ︵ ﹂であり、もう一 つは、王栄﹁回憶冼星海同志在烏蘭巴 托 ︶39 ︵ ﹂である。それら によれば、冼らは一九四二年︵王によれば春︶に、ウラン バートルにある中国工人クラブに現れ、音楽の指導をする ようになった。 約一年間の模索の結果として、モンゴル経由の帰国をあ きらめざるを得なくなった二人は、生活環境が劣悪だった こともあって、ソ連に戻ることにする。目立つことを避け てか、二人はそれぞれ独自に行動することにした。冼は新 疆に近いカザフスタンのアルマティを目指し、一九四二年 一 二 月 九 日 に 到 着 し た︵ ﹁ 雑 記 ﹂︶ 。 袁 も、 疎 開 し て い た モ スフィルム︵モスクワ映画制作所︶を頼ってアルマティを 目指し、冼と相前後して到着した︵ ﹃電影的豊碑﹄ ︶。 アルマティ滞在中の冼については、冼自身が﹁雑記﹂に 書いている他、タナーシャ・バイカダーモワ﹁那時我們称 他為阿弟│回憶冼星 海 ︶40 ︵ ﹂という証言が残されている。 それによれば、アルマティで冼は、有名な音楽家であっ たバハドラン・バイカダーモフに救われた。劇場で音楽会 が終わった後、途方に暮れていたところ、バイカダーモフ が声をかけ、姉・タナーシャの家に住めるようにしてくれ たのだ。主に彼らの好意によって、冼はかろうじて生活の 場を得て、苦しい生活をしながらも音楽活動に励んだ。そ して、一年あまり後の一九四四年一月三〇日に、同じカザ フスタン共和国のクスタナイに移った。クスタナイで音楽 館を作るにあたり、協力を求められたためである。 一方、袁は予定どおりモスフィルムに行き、党の指示を 待ちながら帰国の機会を窺おうとした。しかし、モスフィ ルムで袁は、エイゼンシュタインが﹁イワン雷帝﹂を撮る 時の助手を務めるなど、それなりに安定して充実した生活 をしていたようだ。 ﹃電影的豊碑﹄は、 ﹁ソ連における袁牧 之の最も重要な映画活動は、エイゼンシュタインの推薦に よって伝記記録映画﹃ジャンプール﹄を完成させたことで あ る。 袁 の 脚 色・ 演 出 の 才 能 は ソ 連 で 明 ら か に な っ た の だ ︶41 ︵ ﹂と書く。

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68 第五節   モスクワでの死 クスタナイでの冼については、 ブライニン ﹁追憶冼星 海 ︶42 ︵ ﹂、 イズマイロワ﹁童年追 憶 ︶43 ︵ ﹂という二種の回想がある。 クスタナイでも、精力的な音楽活動をしていた冼である が、一方で、体調の悪化にも苦しむようになった。もとも と 頑 健 で は な か っ た が、 疎 開 先 で の 無 理 な 生 活 に よ っ て、 そのことがいよいよ深刻になったのである。そして、クス タナイからモスクワへの移動、モスクワでの死に関する場 面が、 ソ連における冼を考える上で、 訪ソの目的とともに、 最も大きな問題なのである。 ﹁ 雑 記 ﹂ に よ れ ば、 一 九 四 四 年 末 の 時 点 で 体 調 は 極 め て 悪く、大きな作品は書けなくなっていた。それでも、病を 押 し て 一 九 四 五 年 一 月 二 七 日 か ら 二 月 一 五 日 ま で の 間 に、 ﹁中国狂想曲﹂という五楽章形式の管弦楽曲を完成させた。 作品二 六 ︶44 ︵ 。これが、冼の最後の作品となった。 おそらく、その後、病気が更に悪化したため、五∼六月 頃にモスクワに移り、入院生活を経て一〇月三〇日に死亡 し た。 し か し、 ﹁ 中 国 狂 想 曲 ﹂ の 完 成 後、 す な わ ち ク ス タ ナイからモスクワに移動する場面については冼自身の具体 的な記述がない上、他者の証言にも矛盾が見られる。 冼の死は、直後に延安に伝えられ、一一月一二日の﹃解 放日報﹄で公にされた。冼の経歴や家族に関することを別 にすると、 その記述は﹁中国の著名な音楽家冼星海同志が、 肺病が治らなかったため、一〇月三〇日にモスクワで逝去 し た。 ﹂ と い う 簡 単 な も の で あ る ︶45 ︵ 。 そ の 後、 一 九 四 五 年 一 二月三日に執筆され、翌年一月五日付け﹃新華日報﹄に発 表された郭沫若の﹁弔星 海 ︶46 ︵ ﹂という弔文が、おそらく、冼 の死の場面に関する記述を含む最初の回想である。 郭はソ連科学院の招請を受け、科学院の創立二二〇周年 記念大会に参加するため、一九四五年六月二五日から八月 一六日まで、ソ連を訪問した。ちょうど、冼の死の直前に 当たる。地下党員であった郭は一九三八年四月から一〇月 まで、第二次国共合作下の武漢で、国民党管轄の宣伝機関 である政治部第三庁の庁長を務めた。その間、その第六処 に冼が在籍していたため、半年間にわたって冼の上司と言 うべき立場にあった。郭は、次のように書いている。 今年の七月、私はモスクワで、初めて星海がモスクワ に居り、 クレムリン病院で寝ていることを知った。 ︵中 略︶聞くところによれば、彼は多くの病気を抱えてい る。肺結核だけではなく、肝臓がん、腹膜炎、心臓病 を患い、毎日、クレムリン病院で何リットルかの腹水 を抜かなければならないということだった。彼は、間 もなく戦争が終わりそうだという時に、人に気付いて

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69 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) もらい、モスクワに移送されたのだ。延安から来た芸 術 家 で あ る と 分 か っ た た め、 彼 は 特 別 な 優 遇 を 受 け、 十分手厚い治療を受けてい た ︶47 ︵ 。 ﹁ 戦 争 ﹂ は、 当 然、 独 ソ 戦 争 を 言 う だ ろ う。 ド イ ツ が 降 伏文書に署名したのは五月八日なので、冼をモスクワに移 した方がいいという話になったのは、四月から五月の始め であったということになる。 このような、ソ連当局の配慮とクレムリン病院への入院 という説を最も極端な形で語るのは、クスタナイで冼を直 接知っていたイズマイロワという女性である。次のように 書く。 戦争がもう少しで終わりそうだという頃、毛沢東は自 らスターリンに手紙を書き、ソ連に滞在中の中国人作 曲家冼星海の行方を探してくれるよう求めた。スター リンはすぐに冼星海を探し出すよう命令を下した。ス タ ー リ ン の 命 令 は 戦 闘 任 務 と し て 迅 速 に 執 行 さ れ た。 冼星海はクスタナイで見つけ出された後、すぐに派遣 された専用機でモスクワに迎えられた。ただ、残念な のは、飛行機を降りるとすぐにクレムリン病院に入院 させられてしまったこと だ ︶48 ︵ 。 この記述によると、毛が冼を探し出し、救済することを 求めたのは、冼が病気だったからではない。たまたま時期 が一致していたに過ぎない。冼を発見できたにもかかわら ず﹁残念﹂と言うのは、既に重病であったため、帰国させ られなかったからである。真偽を確認することは出来ない が、当局の配慮によって冼がモスクワに移送されたとした ら、このようないきさつも突飛とは言えない。 冼がクレムリン病院に入院していたことについては、一 つだけ目撃証言がある。ブライニン︵注 42参照︶によるも の で あ る。 そ の 回 想 中 に、 ﹁ 冼 星 海 は 革 命 無 産 者 連 合 会 中 央委員会によってモスクワに迎えられ、クレムリン医院に 入院した。ここは世界で最もいい病院だ、と、冼星海は私 が見舞いに行った時に言ってい た ︶49 ︵ 。﹂とある。 これらによって、冼がクレムリン病院に入院し、そこで 死んだという説は、長い間、定説となっていた。 ところが、筆者の知る限りにおいて、冼の死後四〇年近 い一九八四年になって異説が表れる。唐純良 ﹃李立 三 ︶50 ︵ ﹄ に、 冼の入院に関して面倒を見たのは、当局ではなく李立三だ という話が見られるのだ。 冼がモスクワで、李立三の世話によって当面の危機を回 避したことは、二〇〇〇年五月の﹃炎黄春秋﹄に載った李 思慎の文章でより一層具体的に説明され、それと同じ内容 の文章が、林彪との関係で既に触れた﹃李立三之謎﹄にも 収録された。それは以下のようなものである。

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70 一九四五年初夏、冼星海はユダヤ人夫人に付き添われ て、カザフスタンから戦争で混乱していたモスクワに 再び戻って来た。当時、コミンテルンという国際組織 は既に一九四三年に解散し、中国共産党も正式な代表 団をモスクワに常駐させていなかった。加えて、戦争 は激しく、国際救済会も彼の住居を世話するだけの力 が無かった。重病の冼星海は窮地に陥り、あちこち尋 ね歩いた後、モスクワの外文出版社に行き着いて李立 三に巡り合った。李立三は冼星海のこのような状況を 見るや、 非常に同情した。彼は義として後ろへ引けず、 二もなく、すぐに重病の冼を自宅に迎え落ち着かせる ことにした。 ︵中略︶ ︵訳注 :李が住んでいた︶岳母の 家の部屋はたった三〇平米の一間で、真ん中を一枚の 白布のカーテンで二つに分け、片方にはリサ︵訳注 : 李立三の妻︶の兄嫁とおいが住み、もう片方には李立 三夫婦と岳母︵原注 :一九四三年には娘・英娜が増え た︶三代四人が住んで、本来既に狭すぎ、更に冼星海 夫妻が住めるようにするのは、本当に至難だった。し かし、彼らはどうして祖国から来た身内を追い出せた だろうか?李立三と家族が相談した結果は、自分たち のベッドを病気の冼星海夫妻に譲り、自分たちは臨時 のベッドである床の上にぎゅうぎゅう詰めで寝るとい うことだった。李立三夫妻は、ただ冼が連絡を取り病 気を治すのを手伝う必要があっただけでなく、更に冼 星海夫妻の食糧を確保するために日夜苦労する必要が あり、一家全員が落ち着かなかった。後に、林莉、孫 維世、李特特ら若干の中国人同志が噂を耳にして李立 三の家に駆けつけて冼星海を見た時、みんなその光景 を見てひどく心動かされ、一斉に李立三夫妻の仲間に 対する真摯な感情と、自分を捨てて人を助けるという 崇高な美徳を賛美し、過去に李立三が誤りを犯したこ とによって生じた李立三に対する偏見と誤解とを改め たのだった。冼星海は数年間の漂泊を経た後、李立三 一家の行き届いた配慮と世話とによって、極めて大き な慰めを得た。李立三が各方面に奔走し連絡を取った ことで、一ヶ月あまり後にようやくソ連国際救済総会 の援助を得、冼星海をモスクワの病院に送り込んで治 療させることが出来たが、李立三夫妻はしょっちゅう 病院に訪ねて行っては世話をしてい た ︶51 ︵ 。 こちらについても、一つの目撃証言がある。それは、本 文中にも出てくる林莉によるも の ︶52 ︵ で、部屋の広さや分け方 について、やや違いはあるものの、基本的には李思慎の書 いているとおりの内容であ る ︶53 ︵ 。 郭沫若の文章と比較してみると、大きく二つの違いがあ

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71 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) る。ひとつは、冼が当局による優遇を受けたかどうかとい う問題である。郭は、延安から来た芸術家として優遇され たと書き、 李思慎は、 優遇よりは李立三の努力を強調する。 もう一つは、入院先の病院である。郭はクレムリン病院と するが、 李やその関係者は具体的な病院名を書いていない。 目撃証言もそれと同じである。その他、従来からある冼の 死に触れた文章は、 多くが﹁クレムリン病院﹂と書くのに、 李立三に関わる記述では、誰一人具体的な病院名を挙げな いのである。 郭沫若は、 一九四五年にソ連を訪問した時の記録を、 ﹃蘇 聯紀行﹄という形で発表してい る ︶54 ︵ 。作品と言うよりは、正 に﹁日記﹂であり、かなり淡々と、一日一日の出来事を書 き留めたものである。その中に、郭がモスクワで李立三と 会った時についての言及がある。それは、 七月四日、 六日、 二六日、八月一三日、一四日の五回に及ぶ。中でも、最初 に会った七月四日については、 ﹁︵李立三は︶国内の仲間の ことを非常に思っていて、旧友という旧友の名はほとんど みな挙げて心配げに訊ねたりした﹂とある。李立三が冼の 入院に関わっていたとしたら、李が郭に中国国内の旧友の 消 息 を 尋 ね る だ け で な く、 郭 に 冼 の こ と を 伝 え た だ ろ う。 実 際、 李 が 冼 に つ い て 話 さ な か っ た と し た ら、 ﹁ 弔 星 海 ﹂ に見られるような冼に関する情報が、誰から郭に伝えられ た の か 分 か ら な い。 に も か か わ ら ず、 ﹃ 蘇 聯 紀 行 ﹄ に は、 冼に関する記述が一切見られない。 郭 は﹁ 弔 星 海 ﹂ で、 ﹁ 聞 く と こ ろ に よ れ ば、 彼︵= 冼 ︶ は病院で経過が非常に良好らしい。クレムリン病院は毎週 木曜日の午後だけ、病人への面会が許されている。八月二 日は木曜日で、私はもともと友人と冼を見舞いに行く約束 をしていたが、急に別の予定が入ってしまい、行くことが 出来なかった。次の木曜日も、同様の事情で行くことが出 来ず、 とうとうそのまま帰国してしまっ た ︶55 ︵ 。﹂ と書いている。 と こ ろ が、 八 月 二 日 は 確 か に 木 曜 日 だ が、 ﹃ 蘇 聯 紀 行 ﹄ を 見 て み る と、 ﹁ 一 日 じ ゅ う、 宿 で﹃ ソ 連 国 内 戦 争 史 ﹄ を 読みつづけたが、誰も邪魔するものがなくて、至極ゆっく り し た 気 持 だ っ た。 ﹂ と 書 か れ て い る。 午 後 四 時 半 に 哲 学 研究所を訪問しているが、何かの行事があったわけではな く、むしろ暇だったから出掛けてみた、という感じだ。八 月 九 日 は、 午 前 中、 自 分 自 身 の 耳 の 病 気 の 診 察 に 出 掛 け、 午 後 は 一 時 過 ぎ か ら 対 外 文 化 協 会 の 宴 会 に 出 席 し て い る。 耳の診察をしたのは﹁トルトネフ博士﹂とだけ書かれてい て、病院がどこかは書かれていない。クレムリン病院の面 会時間が木曜日の午後だけなのかどうかは確かめられてい ないが、仮にそれが本当だったとして、少なくとも八月二 日には見舞いが可能だったように見える。しかも、郭はい

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72 わば政府の招待客としてモスクワにいた。郭によれば、冼 は延安から来た芸術家として特別な優遇を受けていた。だ とすれば、郭が当局に希望を伝えることで、一般の面会時 間でなくても、冼に会う程度のことは可能だったように思 う が、 も ち ろ ん、 そ の よ う な 努 力 が 為 さ れ た 形 跡 は な い。 郭による見舞いが実現しなかったことについては、李思慎 も書いている。その内容は郭﹁弔星海﹂と整合的である。 冼の入院に、李立三は関わっているのだろうか。それは ク レ ム リ ン 病 院 な の か、 そ れ と も 他 の ど こ か の 病 院 な の か?郭と李のどちらかがウソをついているとすれば、それ はどのような事情によるのだろうか。 クレムリン病院で、冼の診療記録︵カルテ︶が確認でき れば簡単に決着はつく。 ﹁冼の記録がある﹂にしても、 ﹁当 時の記録は残されているが、冼のものはない﹂にしてもで ある。クレムリン病院は、名前からして、クレムリン宮殿 の中にある政府高官専用の病院であるかのように思われる が、実は、少し離れた所にあ る ︶56 ︵ 。筆者は、何度か問い合わ せをしたが、回答は一切ない。ソ連時代の冼について実証 的な研究をしようとした左貞観も、探せていないか、探そ うとしていない。 李立三は、一九二八年夏、第六次党大会で宣伝部長とな り、 一 九 三 〇 年 に は 共 産 党 の 実 質 的 な ト ッ プ に 立 っ た が、 李立三路線という彼の指導方針が批判を受け、間もなく失 脚した。李思慎によれば、一九三〇年一〇月末にソ連に逃 亡したものの逮捕され、釈放されたのは一九三九年一一月 四日のことであった。中国共産党の党籍は停止され、モス クワで無国籍状態となって、生活のためだけでも大変な苦 労をしたらしい。 李思慎の証言に見られる、 林莉ほかの人々 が李の部屋を訪ねて、李の冼に対する献身的な態度を見て 感 動 し、 ﹁ 偏 見 と 誤 解 と を 改 め た ﹂ と 言 う の は、 李 が そ の ような前歴を持つことにより、一般の中国人が、李に対し て相当厳しい見方をしていたことを物語る。 党から追放同然の処分を受けていた李立三であるが、な ぜか一九四五年四∼六月の第七次党大会で中央委員に選出 された。このことは、同年一二月三一日の深夜、ソ連共産 党中央連絡部から通知され、李は一九四六年一月に帰国を 果たすと、 その後の中国で一定の役割を果たすようになる。 ところが、李は一九五七年以降、夫人がソ連人だったこ ともあって、 たびたび批判を受け、 一九六七年六月二二日、 文化大革命の中で造反派によって死に追い詰められた。李 の名誉が回復されるのは、一九八〇年のことである。唐純 良や李思慎の記述は、名誉回復以降のものであるが、それ 以前に、少なくとも当局には報告されていたのではないだ ろうか。国家的英雄・冼星海に対する献身を公にすること

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73 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) で、李に対する再評価を求めるという意図が理解できるか らである。 おわりに 冼の死が延安に伝えられた時、毛沢東は﹁人民の音楽家 冼星海同志に哀悼の意を表す﹂という弔詞を贈った。この おかげで、冼星海は神格化されて行く。その結果、作品は 党によって厳密に管理されて全集として刊行され、巨大な 公墓や博物館が作られ、音楽大学やコンサートホール、楽 器ブランドにその名が冠せられることになった。 冼が五年間にわたる苦闘の末、モスクワで客死すること に な っ た の は、 大 き な 不 幸 で あ っ た よ う に 見 え る。 だ が、 冼が親しく付き合い、信頼を寄せていた王明が、一九四二 年に始まった整風運動で厳しく批判されたこと、冼が延安 を離れたのと前後して始まった魯迅芸術学院の正規化・専 門化が、やがて文芸座談会で批判されるようになったこと を思うと、一九四〇年の春に延安を離れたことは、政治闘 争に巻き込まれずに済んだという点で、冼にとって大きな 幸運であったと思われてくる。しかも、星海はソ連にいた お か げ で、 二 曲 の 交 響 曲、 ﹁ 黄 河 大 合 唱 ﹂ の 改 訂 版、 交 響 詩その他の器楽曲、 中国の古詩に基づく芸術歌曲など、 元々 書きたかったが、延安にいたのでは決して書くことの出来 なかった作品を書くことができた。 ただ、それにしても、冼はなぜソ連に行ったのか。独ソ 開 戦 ま で の 半 年 間 何 を し て い た の か。 死 の 直 前 半 年 間 に、 ソ連当局、李立三、郭沫若は冼とどのように関わり、どの ような役割を果たしたのか。謎は大きく深い。   注 ︵ 1︶   拙論 ﹁冼星海の入党│抗日戦争期の中国共産党組織事情﹂ ︵﹃中国│社会と文化﹄第三一号、二〇一六年七月︶ 。 ︵ 2︶   ﹃交響︵西安音楽学院学報︶ ﹄一九九二年第三期∼四期。 ︵ 3︶   新疆人民出版社、二〇〇〇年。 ︵ 4︶   前 者 は﹃ 人 民 音 楽 ﹄ 一 九 八 九 年 五 期、 後 者 は 同 二 〇 〇 五 年第七期。 ︵ 5︶   人 民 出 版 社、 二 〇 〇 五 年。 こ の 本 は 李 思 慎 と 劉 之 昆 の 共 著 と な っ て い る が、 一 九 五 二 年 生 ま れ の 編 集 者 で あ る 劉 之 昆 は、 執 筆 に 関 わ っ た と は 言 え、 情 報 は 全 て 李 思 慎 に よ っ て提供されているようである。 ︵ 6︶   浙江人民出版社、二〇〇五年。 ︵ 7︶   中国人民大学出版社、二〇〇八年。 ︵ 8︶   ﹃電影的豊碑﹄九一頁。 ︵ 9︶   荻 原 充﹁ 重 慶 国 民 政 府 期 の 民 間 航 空 ﹂︵ 石 島 紀 之・ 久 保 亨 編﹃ 重 慶 国 民 政 府 史 の 研 究 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会、 二 〇 〇 四 年、二一三頁︶ 。

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74 ︵ 10︶   これも﹃電影的豊碑﹄九一頁による。 ︵ 11︶   ﹁ 中 央 祝 賀 斯 大 林 同 志 六 十 大 寿 電 ﹂︵ ﹃ 六 大 以 来 │ 党 内 秘 密文献︵上︶ ﹄人民出版社、一九八〇年所収︶ 。 ︵ 12︶   ﹁関于蘇芬協定的指示﹂ ︵同前︶ 。 ︵ 13︶   前掲﹁重慶国民政府期の民間航空﹂ 。 ︵ 14︶   穆 拉 傑 里﹁ 天 才 的 中 国 作 曲 家 ﹂︵ ﹃ 蘇 聯 音 楽 ﹄ 一 九 四 九 年 第六期。 ﹃冼星海与哈薩克斯坦﹄所収︶ 。 ︵ 15︶   施 奈 爾 松﹁ 冼 星 海︽ 黄 河 大 合 唱 ︾ 音 楽 会 欣 賞 指 南 ﹂︵ 一 九 五 五 年 一 〇 月 三 〇 日 ︶、 ﹁ 冼 星 海 ﹂︵ 国 家 音 楽 出 版 社、 一 九 五 六 年 ︶。 と も に﹃ 冼 星 海 与 哈 薩 克 斯 坦 ﹄ 所 収。 ま た、 同 書 所 収 の﹁ 人 民 中 国 的 作 曲 家 ﹂︵ ﹃ 蘇 聯 音 楽 ﹄ 一 九 五 二 年 第 一 〇 期 ︶ も、 無 記 名 で あ る が、 シ ナ ー ル ソ ン の 手 に よ る と思われる。同書巻末に人名録あり。 ︵ 16︶   原 文﹁ 進 一 歩 了 解 偉 大 的 俄 羅 斯 古 典 音 楽, 了 解 蘇 聯 作 曲 家 的 作 品, 学 習 你 們 創 作 形 式 上 是 民 族 化 的、 内 容 上 是 社 会 主 義 的 新 音 楽 文 化 的 豊 富 経 験, 是 我 的 夙 願 ⋮⋮ 于 是, 我 就 来到了莫斯科。 ﹂ ︵ 17︶   梁﹁ 深 情 無 限 憶 星 海 ﹂︵ 一 九 八 一 年 一 〇 月 三 〇 日 の 発 言 摘 録 ︶、 侯﹁ 第 一 次 見 冼 星 海 ﹂︵ ﹃ 群 衆 音 楽 ﹄ 一 九 八 二 年 第 八 期 ︶。 と も に﹃ 冼 星 海 専 輯︵ 四 ︶﹄ ︵ 広 東 高 等 教 育 出 版 社、 一九八三年。以下﹃専輯﹄ ︶所収。 ︵ 18︶   ﹁一部未完成的記録片 ︽延安与八路軍︾ │追念袁牧之同志﹂ ︵﹃電影芸術﹄一九八〇年第三期︶ 。 ︵ 19︶   ﹃専輯︵四︶ ﹄に、 一九五八年刊として採録されているが、 一 九 六 三 年 に 中 国 電 影 出 版 社 か ら 出 た 程 季 華 著 の も の と 思 われる。森川和代編訳 ﹃中国映画史﹄ ︵平凡社、 一九八七年︶ があり、その三八〇頁が該当する。 ︵ 20︶   原 文﹁ 我 平 安 到 了 重 慶。 ﹂ こ の 書 簡 が 虚 偽 で あ る こ と は、 前 後 の 状 況 か ら も 分 か る が、 ﹃ 冼 星 海 全 集︵ 一 ︶﹄ ︵ 広 東 高 等 教 育 出 版 社、 一 九 八 九 年。 冼 の 文 章 は 全 て こ こ に 収 め ら れ て い る の で、 以 下、 初 出 の み 書 く。 ︶ 編 注 も、 こ の 書 簡 は ソ 連 に 行 く 機 会 を 窺 っ て い る こ と を 隠 蔽 す る 意 図 が あ り、冼が重慶に行ったことはなかったとしている。 ︵ 21︶   これらの動向は、一連の銭韻玲宛て書簡から分かる。 ︵ 22︶   原 文﹁ 剛 接 到 中 共 中 央 来 電 説 已 通 知 新 疆 政 府, 我 們 二 人 作公開的去新疆参観,已得了那辺的回電允許。 ﹂ ︵ 23︶   茅盾 ﹁憶星海﹂ ︵一九四六年一月五日。初出誌未詳。 ︶﹃専 輯︵四︶ ﹄所収。 ︵ 24︶   ﹁ 民 歌 研 究 ﹂︵ 一 九 三 九 年 一 一 月 擱 筆 の 講 義 ノ ー ト ︶。 原 文﹁ 新 疆 是 現 在 中 国 文 化 上 重 要 的 地 方, 許 多 国 内 有 名 的 文 芸人,都集中在迪化, ﹂ ︵ 25︶   原 文﹁ 因 為 与 蒙 古 接 近, 它 有 許 多 特 別 的 舞 与 蒙 古 相 同, 也 另 有 一 種 風 味, 令 我 們 可 以 想 到 外 族 音 楽 流 伝 到 中 国 的 時 代,古代的楽器,現在還保存着。 ﹂ ︵ 26︶   ﹃電影的豊碑﹄九二頁。 ︵ 27︶   原 名 は﹁ 創 作 札 記 ﹂。 こ れ は 冼 が ソ 連 滞 在 中 に 書 い た 作 品 メ モ で あ る が、 ﹃ 全 集 ﹄ に 収 録 の 際、 意 味 を 考 え て﹁ 創 作 雑 記 ﹂ と さ れ た。 原 文﹁ 一 九 四 〇 年 一 二 月 起 我 到 了 另 一 環境了。 ﹂ ︵ 28︶   前掲﹁天才的中国作曲家﹂ 。

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75 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 29︶   ﹃電影的豊碑﹄九三頁。 ︵ 30︶   前掲﹁星海在蘇聯之新探﹂ 。 ︵ 31︶   冼 が な ぜ こ の よ う な 要 求 を 出 し た か︵ 冼 と プ ロ コ フ ィ エ フ の 関 係 ︶ に つ い て は、 拙 論﹁ 冼 星 海 伝 小 考 ─ パ リ 遊 学 時 代 を 中 心 と し て ﹂︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 第 一 〇 一 号、 二 〇 〇 九 年 五月︶参照。 ︵ 32︶   中 嶋 嶺 雄 編﹃ 中 国 現 代 史[ 新 版 ]﹄ ︵ 有 斐 閣 選 書、 一 九 九 六年︶一五七頁、一六四頁など。 ︵ 33︶ 霞飛 ﹁康生是怎様逐漸贏得毛沢東信任的?﹂ ︵﹃党史縦覧﹄ 二〇〇五年一〇期︶ 。 ︵ 34︶   ブ レ ー ス ウ ェ ー ト・ ロ ド リ ク﹃ モ ス ク ワ 攻 防 一 九 四 一 ─ 戦 時 下 の 都 市 と 住 民 ﹄︵ 川 上 洸 訳、 白 水 社、 二 〇 〇 八 年 ︶ 三八六頁∼。 ︵ 35︶   ﹃李立三之謎﹄ 二六六頁。原文 ﹁当時, 林彪正在蘇聯治病。 迫 于 日 益 厳 峻 的 戦 争 形 勢, 林 彪 不 得 不 中 断 養 病 回 国。 由 于 林彪当時是抗日的名将和原黄埔軍校的学生, 他不僅有専機, 還 持 有 国 民 党 政 府 発 給 他 的 辺 境 通 行 証。 而 其 他 来 自 延 安 的 同 志 都 被 国 民 党 政 府 視 作〝洪 水 猛 獣 〟。 為 了 順 利 通 過 国 民 党 軍隊的厳密封鎖, 冼星海一行原準備扮作林彪的随従、 翻訳, 坐 林 彪 的 専 機 回 国。 也 許 是 為 了 安 撫 大 家 的 情 緒, 林 彪 原 来 也 勉 強 同 意 了。 然 而 就 在 臨 登 飛 機 之 前, 林 彪 却 突 然 変 卦, 拒絶了冼星海一行的請求,只答応給毎個人帯封家書。 ﹂ ︵ 36︶   王 晋 林・ 秦 生﹃ 挽 救 民 族 的 危 亡 ﹄︵ 中 共 党 史 出 版 社、 二 〇〇七年︶ 、 褚鴻運﹁盛世才在新疆与中共的合作始末﹂ ︵﹃新 疆 教 育 学 院 学 報 ﹄、 二 〇 〇 〇 年 第 四 期 ︶、 張 愛 民﹁ 一 九 三 三 ∼ 一 九 四 三 年 間 新 疆 局 勢 的 演 変 与 蘇 聯 的 関 係 ﹂︵ ﹃ 新 疆 師 範 大 学 学 報︵ 哲 社 版 ︶﹄ 一 九 九 四 年 第 一 期 ︶ な ど。 以 下 の 新 疆に関する記述はこれらによる。 ︵ 37︶   本 節 こ こ ま で﹃ 電 影 的 豊 碑 ﹄ 九 五 頁。 た だ し、 こ の 本 が 一度目のウランバートル着を八月とするのは間違い。 ︵ 38︶   ﹃人民音楽﹄一九五六年第二期。 ﹃専輯︵四︶ ﹄所収。 ︵ 39︶   一九七三年五月二〇日。初出未詳。 ﹃専輯︵四︶ ﹄所収。 ︵ 40︶   達 娜 什・ 拝 卡 達 莫 娃。 初 出、 ﹃ 人 民 音 楽 ﹄ 一 九 九 一 年 第 六期。 ﹃冼星海与哈薩克斯坦﹄所収。 ︵ 41︶   九 七 頁。 原 文﹁ 在 蘇 聯, 袁 牧 之 最 重 要 的 電 影 活 動, 就 是 在 愛 森 斯 坦 的 推 荐 下, 拍 撮 完 成 了 伝 記 記 録 片︽ 江 布 爾 ︾, 他的電影編導才華在蘇聯得以顕露出来。 ﹂ ︵ 42︶   初 出、 ﹃ 蘇 聯 音 楽 ﹄ 一 九 五 一 年 第 九 期。 ﹃ 冼 星 海 与 哈 薩 克 斯 坦 ﹄ 所 収。 ブ ラ イ ニ ン︵ 布 拉 伊 寧 ︶ は、 前 掲﹁ 星 海 在 蘇 聯 之 新 探 ﹂ に よ れ ば、 一 九 一 八 年 に ア メ リ カ で 生 ま れ た ロ シア系ユダヤ人女性である。 一九三七年にソ連に移り住み、 一 九 四 三 年 に ク ス タ ナ イ で 冼 と 出 会 っ た。 英 語 は 出 来 る が ロシア語が苦手な冼のために通訳をし、 冼と結婚 ︵死?︶ 後、 冼 の 偽 名 で あ る 黄 訓 を 名 乗 る よ う に な っ た と い う。 な お、 こ の 文 章 は、 ﹃ 専 輯︵ 二 ︶﹄ ︵ 中 央 音 楽 院 中 国 音 楽 研 究 所、 一 九 六 二 年。 前 掲﹃ 専 輯︵ 四 ︶﹄ と 書 誌 情 報 の 違 い が 大 き い が、 ﹃ 専 輯 ﹄ は、 編 集 者・ 出 版 社 が 各 巻 異 な る 上、 ︵ 二 ︶ か ら︵ 三 ︶ ま で の 間 に、 二 〇 年 の 隔 た り が あ る。 ︶ 所 収 の 黄 循﹁ 冼 星 海 在 蘇 聯 ﹂ と 同 じ で あ る。 ﹁ 黄 循 ﹂ は、 訳 者 が 冼 の 偽 名 を 知 ら ず、 ﹁ 訓 ﹂ と﹁ 循 ﹂ が 同 音 で あ る こ と か ら

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76 間違えたものだろう。 ︵ 43︶   伊茲麦洛娃。 ﹃冼星海与哈薩克斯坦﹄ のための書き下ろし。 二〇〇〇年五月筆。 ︵ 44︶   ﹁雑記﹂ における ﹁古詩十首歌集 ︵作品第二五号︶ ﹂ と ﹁中 国狂想曲︵作品第二六号︶ ﹂の記述。 ︵ 45︶   ﹃冼星海全集︵七︶ ﹄九六頁に写真。 ︵ 46︶   ﹃専輯︵二︶ ﹄所収。 ︵ 47︶   原 文﹁ 今 年 七 月 我 在 莫 斯 科, 才 知 道 星 海 兄 也 在 莫 斯 科, 而 是 睡 在 皇 宮 病 院 里 的。 ︵ 中 略 ︶ 聴 説 他 的 病 很 多, 不 僅 肺 部 有 結 核, 而 且 還 有 肝 腫, 有 腹 膜 炎, 有 心 臓 病, 毎 天 在 皇 宮病院里要抽出好幾立的腹水。 他是在戦争快要結束的時候, 才 被 人 発 覚 把 他 送 到 莫 斯 科 去 的。 知 道 他 是 由 延 安 去 的 芸 術 家,因而特別受優待,受着十分周到的療治。 ﹂ ︵ 48︶   原 文﹁ 戦 争 剛 一 結 束, 毛 沢 東 就 親 自 致 函 斯 大 林, 要 求 了 解 旅 居 蘇 聯 的 中 国 作 曲 家 冼 星 海 的 下 落。 斯 大 林 即 刻 下 令 尋 找 冼 星 海。 斯 大 林 的 命 令 被 作 為 戦 闘 任 務 得 以 迅 速 執 行。 冼 星海在庫斯坦奈被找到後, 立即由派来的専機接到了莫斯科。 但 遺 憾 的 是, 冼 星 海 一 下 飛 機 即 直 接 被 安 置 到 克 里 姆 林 宮 医 院的病床上。 ﹂ ︵ 49︶   原文 ﹁冼星海被革命無産者連合会中央委員会接到莫斯科, 住 進 克 里 姆 林 宮 医 院。 〝這 是 世 界 上 最 好 的 医 院 〟, 冼 星 海 在 我探視他時這様対我説。 ﹂ ︵ 50︶   中 村 三 登 志 訳﹃ 李 立 三   中 国 共 産 党 史 外 伝 ﹄︵ 論 創 社、 一 九 八 六 年 ︶ 二 三 一 頁。 原 書 は 黒 竜 江 人 民 出 版 社、 一 九 八 四年刊 ︵論者未見︶ 。なお、 唐純良は典拠を示していないが、 李 立 三 の 家 の 後、 病 院 で は な く 宿 舎 に 移 っ た 点 な ど で、 ロ シ ア 人 で あ る 李 立 三 夫 人・ 李 莎 の 回 想 と 類 似 す る。 他 に、 こ の よ う な 話 を 残 し て い る 人 が 見 ら れ な い こ と か ら、 李 莎 へのインタビューに基づいて書かれている可能性がある。 ︵ 51︶   二 六 七 頁。 原 文﹁ 一 九 四 五 年 初 夏, 冼 星 海 在 他 的 猶 太 族 夫 人 的 陪 同 下, 従 哈 薩 克 斯 坦 共 和 国 再 次 回 到 戦 乱 中 的 莫 斯 科。当時, 共産国際這個国際組織早已在一九四三年解散了, 中 共 也 没 有 正 式 代 表 団 常 駐 莫 斯 科。 加 之, 戦 事 激 烈, 国 際 救 済 会 也 無 力 安 排 他 的 住 宿。 重 病 中 的 冼 星 海, 走 投 無 路, 経 多 方 打 聴, 就 到 莫 斯 科 外 国 文 出 版 社 找 到 了 李 立 三。 李 立 三一見冼星海這種境況, 非常同情。他義無反顧, 二話不説, 当 即 就 把 重 病 中 的 冼 星 海 接 到 自 己 的 家 里 安 頓 下 来。 ︵ 中 略 ︶ 岳 母 家 的 房 子, 也 只 有 約 三 〇 平 方 米 的 一 個 大 間, 当 中 用 一 幅 白 布 簾 相 隔, 一 辺 是 李 莎 的 嫂 子、 侄 子 居 住, 一 辺 是 李 立 三 夫 婦 和 岳 母︵ 一 九 四 三 年 又 増 加 了 女 児 英 娜 ︶ 三 代 四 口, 本 来 就 已 経 是 擁 擠 不 堪 了, 再 要 把 冼 星 海 夫 婦 安 排 進 来, 実 在 是 難 上 加 難。 可 是, 他 們 又 怎 能 忍 心 把 祖 国 来 的 親 人 拒 之 門 外 呢 ? 李 立 三 与 家 人 商 量 的 結 果 是 把 自 己 的 床 鋪 譲 給 病 中 的 冼 星 海 夫 婦, 自 己 却 擠 在 臨 時 鋪 的 地 鋪 上。 李 立 三 夫 婦 不 僅 要 幇 助 冼 星 海 連 係 治 病, 更 要 為 解 決 冼 星 海 夫 婦 的 食 品 来 源 日 夜 操 労, 全 家 都 不 得 安 寧。 後 来, 林 莉、 孫 維 世、 李 特 特 等 一 些 中 国 同 志 聞 訊 赶 到 李 立 三 家 里 去 看 望 冼 星 海 時, 無 不 触 景 生 情, 斉 声 賛 美 李 立 三 夫 婦 対 同 志 的 真 摯 感 情 和 舎 己 助 人 的 崇 高 美 徳, 改 変 了 過 去 因 李 立 三 犯 過 錯 誤 而 引 起 的 対李立三的一些偏見和誤解。 冼星海在経歴了幾年漂泊之後,

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77 冼星海の訪ソに関する多少の問題(平居) 得 到 李 立 三 全 家 無 微 不 至 的 関 懐 照 顧, 感 到 極 大 安 慰。 経 李 立 三 的 多 方 奔 波 連 係, 一 個 多 月 後 才 得 到 蘇 聯 国 際 救 済 総 会 的 幇 助, 把 冼 星 海 送 到 莫 斯 科 的 医 院 治 療, 李 立 三 夫 婦 経 常 到医院去看望照料。 ﹂ ︵ 52︶   ﹃ 新 聞 晩 報 ﹄ の イ ン タ ー ネ ッ ト サ イ ト に あ る﹁ 精 彩 開 巻   往 事 瑣 記 之 三︵ 六 ︶ 在 莫 斯 科 病 逝 的 冼 星 海 ﹂︵ 二 〇 〇 四 年 一 一 月 三 〇 日 筆 ︶。 作 者 は 林 利 と な っ て い る が、 孫 維 世 や 李 特 特 と 李 立 三 を 訪 ね た と 書 い て い る こ と か ら、 李 思 慎 の 書 く 林 莉 と 同 じ 人 物 だ と 思 わ れ る。 筆 者 が こ の 記 事 を 確 認 し た の は 二 〇 〇 八 年 一 二 月 二 日 で、 現 在 は 探 す こ と が で き な い が、 林 利﹃ 往 事 瑣 記 ﹄︵ 中 央 文 献 出 版 社、 二 〇 〇 六 年 ︶ として入手可能なようだ。 ︵ 53︶   李 立 三 自 身 の 回 想 は 残 さ れ て い な い が、 妻・ 李 莎 の 回 想 は、 二〇〇九年に﹃我的中国縁分 ─ 李立三夫人李莎回憶録﹄ ︵ 外 語 教 学 与 研 究 出 版 社 ︶ と し て 出 版 さ れ た。 冼 に 関 す る 記 述 も あ る が、 そ れ は 李 思 慎 と も 大 き く 異 な る。 非 常 に 明 らかな多くの間違いを含むので、 本文では取り上げないが、 お よ そ の 内 容 は、 ﹁ 冼 は 李 家 に 来 た 時 は ま だ 元 気 で、 ヴ ァ イオリンを弾いたり、 李立三の子どもと遊んだりしていた。 そ の 後、 当 局 の 配 慮 に よ り、 リ ュ ー コ ス ア パ ー ト に 部 屋 を 確 保 し た が、 そ ち ら に 移 り 住 ん で 間 も な く 大 病 を 患 っ て 入 院 し た。 白 血 病 と の こ と だ っ た。 そ れ を 聞 い た 李 立 三 と 自 分 は モ ス ク ワ 郊 外 の 高 級 な 療 養 院 に 見 舞 い に 行 っ た が、 一 ヶ 月 会 わ ず に い た う ち に す っ か り や せ 衰 え て い た。 ﹂ と い う も の で あ る。 ﹁ 高 級 な 療 養 院 ﹂ は ク レ ム リ ン 医 院 を 思 わせるが、 ﹁郊外﹂というのが矛盾する︵注 56参照︶ 。 ︵ 54︶   原 題﹃ 蘇 聯 紀 行 ﹄︵ 上 海 中 外 出 版 社、 一 九 四 六 年。 ﹃ 郭 沫 若 全 集 文 学 編︵ 一 四 ︶﹄ 所 収 ︶。 本 論 の 訳 は 千 田 九 一 訳﹃ 訪 ソ紀行﹄ ︵日本出版協同、一九五二年︶による。 ︵ 55︶   原 文﹁ 聴 説 他 在 病 院 里 経 過 很 良 好。 皇 宮 病 院 是 只 有 毎 星 期 四 的 下 午 才 能 去 看 病 人 的, 八 月 二 号 是 星 期 四, 我 本 来 都 已 経 約 好 朋 友 去 看 他 的, 因 為 臨 時 有 別 的 約 会, 没 有 去 成。 而 在 下 一 星 期 四 也 因 為 同 様 的 情 形 没 有 去 成, 而 我 終 竟 回 国 了。 ﹂ ︵ 56︶   モ ス ク ワ 居 住 歴 の あ る 通 訳・ 佐 藤 朋 子 氏 に よ れ ば、 現 在 ﹁ ク レ ム リ ン 病 院 ﹂ と 呼 ば れ る 病 院 は 郊 外 の ミ チ ュ リ ン ス キ ー と ク ン ツ ェ ボ に あ る。 し か し、 前 者 は、 設 立 が 一 九 七 六 年、 後 者 は 一 九 五 七 年 な の で、 ど ち ら も 冼 が 入 院 し て い た病院ではあり得ない。 Больница с поликлиникой ︵診療所 付設病院︶が、 そのホームページ︵ http://www.kremlmed. ru/history.php 二 〇 一 八 年 一 〇 月 二 一 日 確 認 ︶ に よ れ ば 一 九 二 〇 年 設 立 で、 一 九 三 三 年 に﹁ 中 央 ク レ ム リ ン 診 療 所 ﹂ と い う 名 称 に な り、 歴 代 の ソ 連 要 人 が 通 院 し て い た こ と か ら、 冼 星 海 入 院 当 時 の ク レ ム リ ン 病 院 で あ ろ う、 と 言 う。 クレムリン宮殿から徒歩一〇分程度の場所である。

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