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産業啓蒙家の女子職業教育論 : 女性と産業の教育関係史 ; 第1報

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Academic year: 2021

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(1)85. 産業啓蒙家 の女子職業教 育論 ―― 女性 と産業 の教育関係 史. 三. 好. 信. 第 1報 一―. 浩. は じ め に. 日本教育史 をジ ェ ンダーの視座 か ら捉 え直す努力 が始 まって い て,特 に戦 前期 にお ける女子教育 の 政策 イデオ ロギ ー となった「 良妻賢母主義」 につい ての分析 が進 め られ て い る°。 また ,男 女雇用機会均 等法 の施行 以来 ,ジ ェ ン ダー と職業 の 問題 に も関心 が 寄 せ られ",特 に男性 中心 の 職業 とされて き た産業や技術 に もジ ェ ンダー の視点が導入 され始 めた"。 日本 の 産業が男性独 占の もの となるのは,明 治初期 の エ ンジエ アの世 界 に お い て顕著 で あ る。 山尾庸三 を中心 とす る工 部省 の 開明派官僚 が創置 した工 学寮 (工 部大学校 )の 学則 では ,そ の 第 1条 に「工 学寮 ハ エ 部省 ノ所轄 ニ シ テエ 部 二奉職 スルエ 業士官 ヲ教育 スル学校 ナ リ」 と うた つてい る。そ の都検 (principal)を 務 めた ダイア ー. (H.Dyer)の 英 文 カ レンダーで は「工 部 二奉. 職 ス ルエ 業士官」 は `engineers for service in the Depanment Of Public Works' となっているが ,当 時 の 日本 で は `engineer'を 工 業士官 と称 したの。 旧士族 を主 体 とす る「サ ム ライ ・エ ンジニ ア」 の誕生 で あ って ,江 戸期 に男性 の専 業 とされた軍 人 の発想 が工 業界 に拡 大 した わ け で あ る。そ の こ との 後 遺 症 は,今 日に至 る まで尾 をひ き,例 えば大学 にお い て工 学 を専 攻す る学生 の男 女比 は,男 女共学が認 め られてやが て半世紀 を迎 え よ う とす る今 日にお い て もなお ,男 子 の 93%に 対 し女子 は 7%に す ぎない 。 ジ ェ ンダー と産 業 の視角 か ら, 日本 の女性 と産 業 の教 育 関係 史 を考察 しよ う とす る本研 究 で は,ま ず第 1報 と して, 日本 における産 業 の近代化過程 を.

(2) 86. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 取 り上げ,産 業の啓蒙 と教育 に貢献 した人物の女子教育論 を分析 してみたい と思 う。 さし当た り,商 業分野 の渋沢栄一,工 業分野 の手島精 一,農 業分野 の横井時敬 の 3人 を登場 させる ことにする。 この 3人 につい ては,先 に公刊 した拙著 『近代 日本 産業啓蒙家 の研究』 に お い て,事 例研究 の対象 に取 り上 げ てみ た ものの ,女 子教育 の 問題 は,彼 ら の 関心事 か ら見 ればマ イナ ー な部分 であ ったため ,渋 沢 の 関与 した女子 の高 等教 育 を除 い ては,ほ とん ど言及 す る こ とな くす ま した'。 しか し,今 改 め て このマ イナ ー な部分 に光 を当ててみ る と,男 性 中心 に展 開 して きた 日本 の 産業社会 の 中 にお いて も女性 に対 して少 なか らぬ期待 がか け られ ,女 性 を無 視 して近代 産業 の全体構造 は語 れ ない こ とが わか る。女性 が酷使 され差別 さ れた こ とは紛 れ もない事実 であ るが , しか し,3人 の語録 の 中 にはそれ を越 えた女性 へ の役割期待 が見 られ る。 日本 の 産業成長 の 基底部分 にお い て女性 の 果 た した役割 につい ては ,さ らなる考察 を必 要 と して い る よ うに思 う。 そ の考察 に教育史 の研 究 を役 立 ててみ た い とい うのが本研究 のね らいで あ る。 以下 にお い ては,生 年順 に 3人 の 人物 を取 り上 げ,彼 らの語録 を中心 に. ,. 商業 ,工 業 ,農 業 の 産業分野 におけ る,女 性 の職業教 育論 につい て分析 を進 め るこ とにす る。. 1渋. 沢栄―. (1)商 業の人づ くり 渋沢栄 一 (1840∼ 1931)に つい ては,幸 田露伴 の 『渋沢栄 一伝』 をは じ ° め ,多 くの伝記 が著わ されている。武歳国の半農半商 の比較的富裕 な家 に 生 まれ,武 士 の修 める漢学教育 を受けたマー ジナルな出生 の人物であ って つ 大仏次郎 の小説 『激流――渋沢栄 一の若 き日』 の書名 のごと く ,幕 末維新 ,. の激流 を生 き抜 いた。偶然 の機会か ら幕臣 とな リフランスに派遣 されて西洋 を体験 し,維 新後 は大隈重信 に要請 されて開明派官僚の中に身を置 いたが. ,. 1873(明 治 6)年 か ら野に下 り,自 称 「商売人」 となって以後 は,民 間サ イ.

(3) 三. 好. 信. 87. 浩. ドか ら日本資本主義 の発展 に寄与 し,そ の指導者 と して名 をな した。 彼 は, 日本 の商業 を近 代化 し,国 際化 し,倫 理化す るための ,啓 蒙 と教育 の活動 を した。政 治 に主 導 され るので はな く,日 本 の商人が 自働 的 な進歩 を 果 たす こ とによって商業立 国 を図 るべ きことを提 唱 し,学 問 と実際 を一 致 さ せ ,経 済 と道徳 を一 致 させ る商業教育 を推進す る ことに よって ,商 業 立 国 の 人的基盤 を確 立す るこ とが最大要務 であ る と主 張 した。講話 の 名手 であ った 渋沢 は,あ らゆる機会 を捉 えてその ことを説 き,そ れが講演 集 として本 に さ れた り,新 聞や雑誌 に掲載 された りして世 に広 め られた。戦 後 になって ,渋 沢研 究 の 第 一 人者土屋喬雄 を中心 に してそれ らは集大成 され ,F渋 沢栄 一 伝 m。 記資料』 58巻 ,別 巻 10巻 の 中に収 め られて い る. 渋沢が男子 の商業学校 を支援 した ことは周知 の こ とであ る。特 に,一 橋 大 学 の前 身校 で あ る東京商科大学 に対 しては,1875(明 治. 8)年 の 商法講習所. の 時代 か ら始 ま り,同 校 が 東京商業学校 ,東 京高等商業学校 へ と発展 し,最 後 に大学昇格 を果 た して い く苦節 の 時代 に,商 議委員 と して,あ るいは 同窓 会 (如 水 会 )の 顧 間 と して,生 涯 にわ た って 同校 を支 え続 けた。商 業教 育 は,工 業 や 農業 の教育 とちが って ,国 家 の支援 が 得 られ に くく,ま た東京帝 国大学 の威圧 の 下で大学昇格 も難渋 す る 中 で ,渋 沢 は,外 にあ っては文部省 と対 決 し,内 にあ っては再 三 の紛擾 を調停 した。「陽炎 の 商業教 育」 と言 わ れ る よ うに",上 か らで はな く下 か ら,天 か らで は な く地 か ら,日 本 の 商業 教 育 を発 展 させ た最大 の 功 労 者 と称 して さ しつ か え な い 。当然 の こ となが ら,彼 は東京商科大学 だけで な く,官 公私立 の高等商業学校 や地域 の商業学 校 に対 して も支援 を惜 しまなか った。 商業 の 人 づ くりにか けた渋沢 の情熱 は, しか しなが ら,そ の対象 を男性 に 絞 った もので あ って,女 性 の教育 は,そ れ とは別 の発想 か ら出て い た。 そ の 理 由 はなぜ なのか ,と い う ことが さ し当た りの課題 となる。. (2)女 性 の高等教育 渋沢が女子教育 の熱心 な支援者 で あ つた こ とも周知 の こ とであ る。彼 は. ,.

(4) 88. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 晩年 の 回顧 談 の 中 で ,「 私 の 婦 人 に対 す る考 へ の 変 ったの は,三 段 に分 け る 事 が 出来 る。 一 番最初 が純 東洋式 の考 で ,乃 ち欧羅 巴へ 行 く前がそ うであ っ た。 それか ら明治十九 年東京女学館 を建 てた時 が 其次 で あ った。 三 度 目は. ,. 成瀬仁蔵氏 と共 に, 日本女子大学校 を創立 した前後が それ で あ った」 と述 べ て い る よ うに",渋 沢 の女性観 は 3期 に区分 で きる。. 第 1期 は,幕 末 の洋行以前 であつて,渋 沢 の言 によれば 『論語』 と『女大 学』 の思想 に染め られていた。「女子与小人為難養也」 とい う『論語』 の思. D,そ れ に『女大学』. 想 が 「私 の婦 人観 を為す根本 で あ りま した」 といい. が,「 其 の時代 に於け る唯 一最上の教科書であ った」 とい う. H'。. 漢学 の教育. を受けた渋沢 は,こ れ ら両書の考 え方 を当然 のことと信 じていた。 渋沢 の女性観 に変化が見 られるのは,伊 藤博文 の主唱によつて設けられた 東京女学館 に,協 力 を求め られて資金募集 に応 諾 した ころである。そ こで は,イ ギ リスか ら女性教師を雇 つて,主 として上流の女子 に西洋流の社交 な どを教 えた。「何分 それ までは女子 の教育 と云へ ば,貝 原益軒 の 『女大学』 一点張で頗 る家庭的であ り,消 極的であ ったのを,非 常 な進歩的な考案 を加 へ て,所 謂虎 の間の女学館が出来 たのであ りまして,単 に教育 と云ふのみで D。. な く,特 別 の主張 を以て設立せ られたものであ ります」 と述べ てい る. 特. 別 の主張 とは,外 国 との交際 を進めるために鹿鳴館的発想 で欧米流 の作法 を 学 ばせ るとい うことであ って,渋 沢 も自分の 2人 の娘 ,歌 (穂 積陳重夫人. ). と琴. (阪 谷芳郎夫人)を. そ こに通 わせた。渋沢 はのちにその館長 を務めるこ. とになる。 渋沢 の女子教育観 の真 の転機 は,成 瀬仁蔵 と出会 った ことで ある。渋沢 は,大 限重信 のすすめで,1896(明 治 29)年 に成瀬 と会 い女子大学構想 を 聴 いてい る。 は じめはその企図に疑念 を抱 いた ものの,「 三度あ ひ三度あふ といふ風 に度 々面談す る内 に,少 し突飛 ではあるがこれは珍 しい人物だ,有 B)。 以後,渋 沢 と成瀬 の交友関係 は深 為 の丈夫 だと思ふ様 になった」 とい う. まり,成 瀬が病躯 をお して有名な訣別の辞 を述べ たとき,渋 沢 は「及 ばずな ‖ 渋沢 は,自 らを日本 が ら後事 は引受けた」 とい う答辞 をもってこたえた )。.

(5) 三 好 信. 浩. 拓 女子大学校 の「味噌用人」 と称 し ),晩 年 には短 い期間なが らも学長 を務 め た。 日本女子大学校 において,卒 業式や外国人招待会 などの行事があ るとき ,. 渋沢 は事情 の許すか ぎり出席 して講話や挨拶 をしていて,そ の数 は数十回 に 及 ぶ。それ らの主 要 な ものは,日 本女子大学校 の 同窓会. (桜 楓会)の. 会誌. 『家庭週報』その他 に記録 されてい る。最近 ,影 山礼子氏 によって,渋 沢 と 成瀬 の交流お よび二人の教育思想 の接点 につい ての考察 がなされЮ,渋 沢 の 女子教育論 に光が当てられた。 ここでは,渋 沢 の女子教育思想 の要点 と思わ れることを挙げてみると,以 下の 4点 が重要ではないか と考 える。 その 1は ,歴 史的 に見 て 日本 の女性が蔑視 されて きた こと,お よび世界 の 先進国は男女同権 に向いつつあ ること,と い う 2点 の認識 に立 って,日 本 の 女性 の地位 を高 める必要があ ると考 えた。晩年 の講話 の一節 を引用 してみる と,「 今 までは女 は動物視 されて居 りましたが,近 来 に至 つて女 も人間であ る,国 民 である といふ事 が考へ られ,同 時 に男子 と同 じ責任があ る。又勉強 の必要があると認 め られるや うになった。 と云ふ よ りも世界 の輿論 としてか 口 1909 う した事 が唱へ られて居 ると云って よろ しいでせ うJと 述べ てい る )。. (明 治 42)年. ,ア メ リカを訪問 した際,男 女平等 の考 え方 に立 って男女共学. が一般化 しつつ あるのを見 たことも,彼 の女子教育論 の確信 につ なが った。 ただ し,渋 沢 は男女共学 までは進 まない。ア メ リカ人 に意見 を質 した とこ ろ,「 男女差別す る必要 はない,教 育 を別 々 にす る必要 はない」 とい う返事 が多数 ではあ ったが,「 杞憂か も知れませんが風紀問題 に付 て懸念 があるの で,俄 かに賛成出来ないか と思 ひます」 とい うのが彼 の考 えであ った蟷 )。. その 2は ,少 な くとも一部 の女子 に対 しては,女 子 に適する高等教育 を授 ける必要があ ると考 えた。「余 の信ず る案 としては婦人 にも或 る部分 の学科 を除 く外 ,男 子同様 な教育 を施す ことが必 要であ らうと考へ る。従 って余 は 女子大学 の必要 をも感 じ,婦 人に高尚な学問を授 けることに も賛同するので あ る」「女子 と云ふ特性 か ら打算 して,工 学 の如 きものは彼等 の体質上堪へ 得 られぬ ものであ らうが,其 の他 の文学,法 学 ,理 学,医 学,商 学等 はこれ.

(6) 90. 産業啓蒙家の女子職業教育論. を研究するに於て男女 の別無 く,又 同時に女子 にも必要な ものであ らう」 と 述べ "),日 本女子大学校 を支援 した自己の立場 を正当化 してい る。工学 は不 適当,商 学 は適当 としたことに注 目したい。 その 3は ,そ れにもかかわ らず,「 人の妻 たる婦人 に向 って希望す る所 の 理想」 は「良妻賢母」 の一言 に尽 きるとして,伝 統的な女性像 を引 き継 いで い る。「然 らば何 をか良妻 とい ひ賢母 といふ か。能 く誰 で も口にこそ良妻賢 母 といふが,其 の意義 を問はれたら一寸明瞭なる答 を与ふるに苦 む者が少 く あるまい と思 ふ」 といいつつ,彼 な りの答 を提示 した。「姦 に余 が理想 とす る良妻賢母 に必須 なる条件 を挙 ぐれば,第 一婦人たるに背 かざる容姿あ るこ とは言ふ まで もないが,更 に智識あ ること,貞 淑なる こと,緻 密なること ,. 優美 なる こと,嫡 雅 なる こと等 の諸条件 を欠 い てはならぬ」 とい う。「兎 に 角女子教育 の結局 の 目的 は,良 妻賢母 を養成す るに外 な らぬ ことで あるか ら,教 育 の任 にある者 は此の的を外 さぬ様 に心掛け,而 して学問を修養せ し むると共に,女 子 の特性 を充分発揮 せ しむる様 に して貰 ひたい」 とい うので ある")。 渋沢 のい う「女子 の特性」 の うち,例 えば容姿の ごと く一見先天的 に思 える もの も,彼 はそれ を「婦 人 のた しなみ」 と置 きかえる ことによっ て,教 育の可能性へ と繋いでい る。 その 4は ,そ の良妻賢母 は,良 妻 より賢母 に重点が置かれていて,次 世代 の発展が期待 されてい た。「此優秀 の母 なる もの は如何 に して得 られ る ゝ か。天性善良な質の母 もあるが,若 し之 を人為的 に求 むれば帰す る処は女子 の智能 を啓発 し,其 婦徳 を涵養 して婦人界 の空気 を高 い処 に置 き,其 間か ら 更 に頭角 を顕 は して来るものを個 人的に教導 して一歩 一歩其地位 を高 くさせ るに在 る。か くして賢母が多 くなれば,自 然女性 一般 に対す る世 間の尊敬心 も昂 まり,女 性 自身 も自重 して其間に俊豪 の児童 は産れ,其 等尊敬 に値す る 婦人の手 に養育 されれば,ま す ます俊豪 の資 は其良感化 を得て,時 代 の要求 は期 せ ず して得 られるべ き筈 である」 とい う20。 渋沢 は,『 女大学』 を批 判 したが完全に否定 は してい ない。女子 に対す る「東洋的の教育」 の中に継承 すべ きものがあ ると考 えていたか らである。 ただ し,良 妻 に重点の置 かれて.

(7) 三 好 信 浩. 91. いた『女大学』 に対 して賢母 に重点をシフトしたことは,時 代 の要請にこた えたものであるといえよう。. (3)女 性 と商業 の 関係 女性 の体 質 か ら見 て工 学 は不 向 きであ るが ,商 学 には男女 の 区別 を設 け る 必要 はない と考 えて い た渋沢が ,女 性 に対 して商学 の教育 を積 極 的 に奨励 し. たか とい うと,必 ず しもそ うではない。彼 の支援 した高等商業学校 はあ くま で も男性 中心 の世界 であ った。 日本 における最初 の女子商業学校 は,1903(明 治 36)年 に嘉悦孝子 が東 京 に起 こ した私立の 日本女子商業学校であるとされてい る。渋沢 は,嘉 悦 の たっての要請 に応 じて 1907(明 治 40)年 ,同 校 の創 立四周年記念式 にお い て講話 をなし,次 のように述べ た。 「私 は商売人 の一人で居 ります か ら男女其性 を異 にす るとも,商 業 と云ふ ものに対 しては成るべ く味方多 かれ と思 うて居 りますので,今 までは多 く商 人 は男 とばか り思 うて居 ったの に,此 末 は女 の商人が 日本 に背出 したな ら ば,例 へ ば五千万 の人員 の中に商人が千万人あ ると思つたならば,又 二千万 人に殖 えるといふ計算が或は出来るや うにな りますか ら,此 位嬉 しい事 はな い,故 に商売人 として罷出でざるを得 ませぬので,此 処 に参上 した次第で ご ざい ます」「商売人 の位置 と御婦人 の位置 とは,性 質 も異 な り境遇 も別 であ るけれ ども,世 の中か らヒ ドク卑屈 な位置に押下げられて久 しく居 たと云ふ ことに於ては,殆 ど同様 な有様 にあるので,最 も御婦人方には,商 売人 とし て同情 を表す ると同時 に……商売人が御婦人方 に同情 を表 して,相 共 に此聖 世 に遇ふたに就 て発達 を図 らなければなるまい と思ふのであ ります」「此処 に御居 でなさる商業学校 の生徒 は,唯 々単 に費消経済 に満足 して ござつては いけない と思ふのであ ります。商売人が国家 の富強 を図るのに責任がある と 考へ ると同時 に,御 婦人方 も,国 家 の富強 に大 に関係 して居 るものだ,国 の 貧 しい とか,国 の弱 い とかいふ ことも,御 婦人方 も自然其一部分 を分たなけ ればならぬ と,斯 ういふ位 に考へ るので ご ざい ます」「唯 々無間に分 を守 れ.

(8) 92. 産業啓蒙家の女子職業教育論. と云ふ古 人 の教 は消極 で ,全 く安 んず る と云ふ こ とで はな りませぬか ら, ど う して も人間は 身 の程 を考 へ て ,其 程 に適 うて 『 コモ ンセ ンス』 の発達 ……. 常識 の修養 を斉へ ると云ふ ことにな りますか ら,『 程 を計 れ』 といふ ことを 創 附加へ たい と思 ひます」 )。. 渋沢 にとつては,最 初の, しか も数少ない女子商業教育論 であ るため,い ささか長文の引用 となった。全体的 に見るならば,殊 に東京高等商業学校 を め ぐって発言 して きた男子商業教育論 との隔 りは大 きい。 しか し,経 済人 と しての渋沢の独 自な発想 もあ らわれてい る。特 に次 の 2点 は重要でないか と 思 う。 その 1は. ,女 性 を商業の仲間に加 えることを容認 してい ることである。男. 性社会 と考 えていた商業界 に女性 が加わったならば,そ の人員 は 2倍 になる とい う期待 を表明 している。 しか し,渋 沢 の考 える商人 とは,江 戸期 の小売 商や座売商の延長ではな く,国 際世界 の中で も通用する学問 と倫理 を身 につ けた実践能力 のあ る商人である。男性 の教育がその域 に達 していない状況 の 中で,渋 沢 はあえて女性に対 してその教育 を求めることは しなか った。そ こ まで踏み込 まなか った,ま たは踏み込み得なかった別 の理由は,彼 の良妻賢 母論 にある。女性 の特性 か らして,女 性 は賢母 であ り,か つ また良妻である べ きだ とい う女性 観 に立 つ 以上 ,女 性 は商業社会 の 主 人公 とな りに くい 。男 性 を主人公 に して ,女 性 をその補助 者 と し,加 えて女性 の特性 か ら生 じる別 の役割 を期 待 す る とい う こ とになるか らであ る。女性 と して「程 を計 れ」 と い う ことに なる。 そ の 2は ,女 性 は消費経済 に満足す ることな く,国 家富強 の責任 の一 端 を にな うべ きこ とを主 張 して い る ことで あ る。 この ことは, 日本女子商業学校 にお い てだけで な く日本女子大学校 にお い て も説 かれ ,女 性 に学問 を奨励 す る論拠 とされた。 日本女子大学校 にお け る講 話 か ら引用 してみ る と,「 婦 人 が只消 費経 済 だけ に努 めて居 る有様 では,到 底其 の位置 は上 る時 は来 ない の であ る。元来婦 人 は下層 の婦 人程生産的経済 をす るが ,上 流 の 人 になればな る程消費経済 よ り外 しないの であ る。 これ も前 申 した通 りの考 か ら,婦 人 は.

(9) 三 好 信. 浩. 消費経済が適応 して居 るとせ られたのであ らうが,今 後 の婦人 は必ず これを 2',ぁ るい は 男子 と女子 ,「 努 めなければならないのであ ります」 といいい とは性質 も違ひ,境 遇 も違ふが,同 じく国の富 に必要な智識 を希望せねばな らぬ順序 であ る。 か う申せばとて,御 婦人方 をだ しに遣ふ為 めに女子教育 を 希望す ると云ふのではない。御婦人の智識が増せば,其 の働 らきが現はれ 其 の働 らきが現はれ ヽば地位が進み,国 の富 を増す と云ふ事 になると云ふ考 ,. へが,微 力なが ら此処 に力 を致 した所以である」 ともい う卸. )。. 晩年の談話 において,渋 沢 は,女 子教育 をどうすれば よいか判断がつかぬ と,率 直 にこの問題 のむずか しさを認 めた。「婦人 に対す る教育 は,現 在 の 程度が適当であるか,高 過 ぎるか,又 は低 いか と聞かれて も,私 は正直 な処 判 らぬ とお答へ す るよ り外 に言葉がない」「近時職業 に従事す る婦人が増 し て来 たので,婦 人の職業教育な ども問題 であ りませ うが,其 処 になると私は 何等智識 もな く,一 層何 とも申 し兼 ねるので,明 瞭な説 を為す ことは出来な いので あ ります」 と述べ るのである20。 1931(昭 和 6)年 11月 に 91歳 で永 眠す る,そ れより7か 月前 の談話 である。その時,彼 は名誉職的存在であ っ たにせ よ,東 京女学館 の館長 と日本女子大学校 の校長 の職 にあつた。 日本資 本主義 の最大 の指導者渋沢 をもって しても,女 子教育,特 にその職業教育 の 問題 はなお霧 の 中 にあった。「女子教育 は昔通 りの もので もよろ しくない が,さ りとて西洋風 の ままで も困ると云ふ ことだけは申 し得 ると思ひます」 とい うのがb),彼 にとってぎ りぎりの到達点 であ った。. 2手. 島精 一. (1)工 業の人づ くり 山尾庸三が企画 し,ダ イアーが経営 した工部省所轄 の工部大学校 は,東 京 大学 の工 業系学科 と合体 して,1886(明 治 19)年 に帝国大学工 科大学 とな った。その過程 において,文 部省 はそれ よ り程度 の低 い工業教育機関の必要 を認め,1874(明 治 7)年 に開成学校 の 中 に製作学教場 を設 け,1877(明 治.

(10) 94. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 10)年 にそれが廃 止 され る と,1881(明 治 14)年 に新 た に東 京職 工 学校 を 開 い た。 この 文部省 の 施策 に深 い 関係 を持 ったの が 手 島精 一 (1849∼ 1918) で あ る。特 に東京職 工 学校 につい ては,創 設時 の提唱者 の ひ と りであ り,か つ また 1890(明 治 23)年 か ら 1916(大 正 5)年 まで途 中文 部 官僚 に出 た 間 の 中断 を除 い て も,25年 とい う長期 にわた って校 長 職 を務 め ,同 校 を東 京 工 業学校 ,東 京高等 工 業学校 へ と発展 させ る ことを寄与 した功 労者 で あ る。 今 日の東京 工 業大学 の前 身校 であ る。 沼津藩士 の子 に生 まれ ,同 じ藩士 の手 島家 の養子 とな り,早 くか ら藩主水 野忠寛 に近 侍 してそ の 開明思想 に影響 され た彼 は,1870(明 治 3)年 ,養 父 の秩禄 を抵 当 に して アメ リカに私 費留 学 した。苦 学 の 末 1874年 に帰 国 し ,. 製作学教場 に関係 した こ とが ,工 業教育 に携 わる契機 となった。そ の後 の手 島 は,語 学力 を買 われ ,日 本 政府 の万 国博参 同事業 の 要人 とな り,生 涯 にわ た つて 10回 の 洋行 をす る こ とが で きた20。 前 述 の 渋 沢 よ り,後 述 の横 井 よ り,そ して工 業界 の他 の誰 よ りも世界 の事情 に精通 して い た。 西洋諸 国 の 激甚 な工業競 争 の状況 か ら判 断 して ,後 進 日本 の進路 は,工 業 を もって立 国 の基礎 にす る こと以外 にはない と彼 は考 えた。 日本 の工 業 を自 立化 して,工 業製 品 の輸 入国か ら輸 出国へ の転換 を図 るこ とが 課題 で あ り ,. そ のため には ,人 的基盤 の確 立 を急 ぐべ きであ る と考 えた彼 は ,工 業 の実務 を担 当す る職 工 の教育 に精力 を傾注 した。 東京 工 業学校 におけ る技術者教育 を充 実 させ て ,そ の 後 に成立 す る 各地 の 高等 工 業学 校 に対 して 範例 を示 し た。 それ とともに,職 工 層全体 の教 育水準 を高 め るこ とに努 め ,全 国各地 に 出張 して地 方 の工 業学校や 工 業補習学校 の 育成 に も力 を注 ぎ,東 京高等 工 業 学校 に附設 された工業教員養成所 の 卒業生 をそ こに派遣 した。大 隈重信 を説 得 して早稲 田大学 に理工 学部 を設 け させ たの も彼 で あ る。明治期 お よび大正 初期 にお け る 日本 の工 業教 育 の 歴 史 は 手 島 を抜 きに して は語 れ な い。 た だ し,そ れ らの教育 は あ くまで も男性 中心 の もので あ った。.

(11) 三 好 信. 95. 浩. (2)女 性 に適 する職業 手 島 は ,工 業教育 に関す る多数 の論説 (講 話 を含 む)を 雑誌等 に発 表 して い る。筆者 の調査 した限 りで も,そ の数 は 350件 を越 える。 そ の うち,主 と η して晩年 の論説 の一 部 は,遺 稿集 に収 め られて い る )。. しか し,そ の 中 にお い て 女 性 に つ い て 論 じた もの は,10数 件 に す ぎな い 。 それ も,教 育論 よ りも女性 の職業論 が 多 い 。結論 を先 取 りして い えば. ,. 手 島 もまた渋沢 と同 じよ うに,工 業 の職業 に女 性 を含 み入 れ る とい う発想 を しては い な い 。 1906(明 治 39)年 に発 表 した 「女子 と工 業 との 関係」 と題 す る論 説 で は,「 理想 上 よ り観 察す る と,女 子 の工 業 に従事 す る こ とは,吾 輩 は敢 て之 を奨 励 す る こ とが出来 な い」 と断言 してはばか らな い. 20。. 手 島は. 何故 にその よ うに考 えたのか ,そ の他 の論説 も含 み合 わせ て考 えてみ る と. ,. 次 の 4点 が重要で はないか と思 われ る。 そ の 1は ,女 性 の 天職論 とい う考 えであ る。 上 掲 の論 説 で は,「 予 は一 般 女子 が指 へ る天 職 の上 よ り見 て ,女 子 が或種 の工 業 に従事 す る といふ事 は好 ま しか らぬ事 であ る と思ふ 。元来女子 は体格 の組織 が男子 と異 って居 る。女 子 は家庭 を離 れて労働 に従事 す る といふ様 な体格 に出来 て居 ない 。生理 上 よ り考 へ て見 て も,女 子 は妊娠 して児 を産み ,之 を保育 しなけれ ばな らぬ任務 を有す る もので あ るか ら,こ の 重大 なる任務 を外 に して,独 立 して工業や労 働 に従事 す る といふの は面 白か らぬ事 であ る と思ふ」 と記 して い る. 2"。. そ の 2は ,そ の こ とを裏返 して見 れば,工 業 を男子 の天職 と考 えた こ とで あ る。彼 は,国 利民福論 の立 場 か ら工 業 立 国論 を唱 えた。世界 の工 業競争 を 「平和 の 戦争」 と見 な し,そ の熾 烈 さ と勝敗 の結末 は,有 形 の 戦争 以上 で あ る と考 えて い た 。有形 の 武力 戦争 には有 能 な軍 隊 が必 要 で あ る と同 じよ う に,無 形 の工 業戦争 には,有 能 な技術者 か ら成 る「工 業軍」 が必要であ り ,. 階級 に応 じた教育 を しなければ な らない と主 張 した。そ のため ,工 科大学 を 将校 に,高 等 工 業学校 を士官 に配 し,さ らに最前線 の兵卒 を養成す るため に 従弟学校 や工業補 習学校 を整備 す る ことが当面 の 課題 で あ る と し,そ のため の努力 を した。手 島 の工 業教育論 は ,後 年 になるほ ど ドイツをモ デ ル とす る.

(12) 96. 産業啓蒙家の女子職業教育論. ようにな り,そ の制度 も ドイツ的な体系 を整 え,特 に下層 の教育を充実 させ よと主張す るようになった。 このような「工業軍」 の発想 の中には,女 性 の 入 り込む隙間はな くなって くる。山尾庸三の「工業士官」 の発想 は,手 島 に も共有 されていた。 その 3は ,こ の ように男女 の天職 を区分す れば,女 性 に対 して良妻賢母 を 求 めることになる。後述す るように,彼 は共立女子職業学校 を支援する こと になるが,「 初 めは婦人 に一定 の独立職業 を授 けや うとして計画 したので し たが,婦 人 は必ず結婚 しなければならぬか ら,新 職業 を授 くる よ りも,主 婦 となる智識 を授 くる ことが当然であると思 い ましたか ら,そ の方針 でやって 居 ります」 と述べ てい る. 30。. 同校 におい ては,「 良妻賢母 として家庭 を営 む. 上 に,裁 縫 ,編 物其他 の手芸が必要であることを感 じて,そ れが為 に入学す る」生徒 がふえたため,「 貧民 の女子 に職業 を覚へ させて,自 活せ しむる途 を取 らさう」 とい う当初の 目的を変更 したともい う引 )。. その良妻賢母 は良妻 よ り賢母 に重点を置 いていたとい う点で も,渋 沢 と共 通 してい る。 ただ し,渋 沢 は経済思想 を身 につ けた賢母 を期 待 したの に対 し,手 島は科学思想や工業思想 を賢母 の条件 に した。「一家 の ことを進める に就 いては女子 の教育 は決 して忘れることは出来ない。而 も其の教育は人に も依 ることであるが,多 数 か ら見 ると良妻賢母 となる教育 でなけれ ばな ら ぬ。併 しそれは昔唱へ たや うな時勢 に不適当な教育に非ず して,科 学の応用 と云ふ ことの教育 をす るや うに したい」 とい う 。「世 の婦人 に告 げた いの 3〕. ヽ の強 い ものであるc又 旧来 の習慣 に拘泥 し易 い ものであ っ は,婦 人は虚栄′ 亡 て,工 業者 を昔の大工左官同様 に思ふ人が まだ多い様 では,そ れこそ国家 の 為 に非常 な不利益 な ことと言 はねばならぬ」「其 の子弟 を して進んで工業者 た らしむるや うに婦人 も亦工業 に趣味 を有 たる ゝや うにあ りたい」 ともい う")。 工業思想 を持 った賢母 の中か ら次世代 の工業者が生 まれるとい う発想 は重要である。 その 4は ,工 業 に関す る女性 の趣味 と職業 について具体的 な提言 をしてい る。「 日本の女子 は手芸 には最 も適当 して居 る」「造花 ,刺 繍,編 物 なぞは好.

(13) 三. 好. 信. 97. 浩. い方 だ ら う と思 ひ ます 」 といい30,そ の女性 に適 す る趣味 を延長 させ て職業 とさせ る こ とをす す め て い る。「差 当 って 女 子 の 職 業 と して は,第 一 に裁 縫 ,次 に造花 ,刺 繍 ,編 物 ,意 匠図案 といふ所 で ,こ れ に依 って一 家 を立 て る といふ こ とは 困難 で あ るが ,辛 う じて一 身 を立 て る こ とは出 来 る」 とい い あ るい は う ,「 女子 の従事 す べ き工業 の 種 類 といふ もの は,成 るべ く家 )。. 庭 を離 れ ず して出来 る工 業 ,即 ち内職 的 の工 業 が 一 番適 当 で あ ら う と思 ふ」 「 まづ 第 一 に指 を屈 す べ きもの は裁縫 であ ら う と思 ふ 。裁縫 と云 って も,単 に 自宅 で衣 類 を縫 ふ こ とばか りで な く,半 ば工 業 的 の大仕掛 な もの も含 んで 居 るのであ る。次 に造花 な ども女子 に適 当 して居 る。又今 日で は まだ発達 し て居 らぬ けれ ども漆器細 工 な ども適 当 で あ ら う と思 ふ 。漆器若 くは陶磁 器 の 意 匠即 ち絵画 を書 くこ とも宜 か らうと思ふ。其他世 の工 業が進歩す れば進歩 す るに随 つて ,女 子 の執 るべ き業務 も殖 えて来 るだ ら う と思ふ 。故 に成 るべ 30,. く家政 を妨 げ ざる程度 に於 て ,之 に従事 せ しめた い ものであ る」 と して 家事 と両立 させ 得 る業務 を挙 げ た。. 手 島 は職 工 の養成 に力 を注 ぎ,彼 らの力量 と地位 を高 め るべ きことを主張 したが ,そ の職 工 の 中 に女性 を含 み 入れ なか った。女 工哀 史 と して知 られ る 紡績 工 場 の女性職 工 の社会的問題 を念 頭 に置 い て い て,日 本 にお い ては工 場 法 の 制定 な ど条件 整備 を先 に行 な うべ きで あ る と考 えて い た。 1905(明 治. 38)年 に,ア メ リカか ら帰 国 した講話 の 中で ,彼 は 自ら視察 したオハ イオ州 デ ー トンにあ る レジス ター の 製作 工 場 National Cash Register Companyに お η け る女性職 工 の理想 的 な労働状況 につい て報告 した 手 島 の待 望 して い た )。. 工 場法 は. 19H(明 治 44)年. に よ うや く成立 したが ,数 多 くの伊l外 規定 を含. み ,手 島 に とって不満足 な もので あ った。 この よ うな状況 の 中 で は,女 性 を 職 工 と して家庭 の外 に出す こ とを奨励 す るわ けに は い か なか つた。. (3)女 性 の技 芸教育 工 業教育 に関す る世 界 の動 向 に関心 を寄 せ て い た手 島 は,女 子教育 の状況 に も注 意 を怠 らな か っ た。早 くも,1886(明 治 19)年 に 千 葉 県 で な した.

(14) 98. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 「職 業教 育論」 と題 す る講 話 の 中 で ,西 洋 の 実業教育 を 5種 に分 け ,そ の ひ とつ と して ,女 子 職業学校 につ い て紹 介 した。「 中等 産 以下 ノ女子 ニ シテ 十 二三 歳以上 ノモ ノニ 実業 ヲ授 クル所 ナ リ」「女子 二 適 ス ヘ キ技芸 ヲ授 ク ル 所 ニ シテ各地 一様 ナ ラサ レモ此種 ノ学校 ヲ設立 ス ルコ トノ多 キハ仏 国 白耳義 国 ヲ以 テ其最 トス 。此両 国 二行 ハ ル ゝ科 ロハ 裁縫 ,洗 濯 ,手 工 花 ,陶 器施画 等 ナ リ」「余 力知 ル所 ノ女子 職業学校 中 二就 テ学科高 尚 ニ シテ且 最 モ 有益 ナ リ ト思 ハ ル ゝモ ノハ 波士頓府技 芸大学校 ノ図画科 ナ リ」 と,フ ラ ンス ,ベ ル 3'。 ギ ー , アメ リカ な どの例 を挙 げ た. そ の後 も,世 界 にお ける女子教育 につい ての言及 が見 られ る。例 えば,191o (明 治. 43)年 にイギ リスか ら帰 国 したの ちの論 説 で は,イ ギ リス にお け る工. 業教育 の特色 と して女性 の 就 学 につ い て指摘 し,「 概 して女子 には 図案 ,タ イプライチ ング,若 くは女子 の為 め に特設 したる家事経済 ,裁 縫 ,割 烹等 の 学科 目を専修 せ しむる もの に して,昼 夜 とも女生徒 の 数少 か らず」 と記 して い る。「宏壮 なる工 業学校 を新築 した る も,昼 間 は単 に女 生徒 に向 て応 用 美 術等 を授 くるの外 ,工 業教育 の授業 に供す るこ とな く,夜 間 に於 て該地方 の 工 業会社 と約 せ る幼 年職 工 を授 業す る もの な きにあ らず」 ともい う39。 ィギ リス には職工 夜学校 の伝統 があ り, したが って昼 間 に校舎 を女性 に開放 して 工 業教育 を行 な ってい る状 況 を報 じた もので あ る。 イギ リスで は,工 業補習 学校 に も女生徒 を入 学 させ ,「 別 に女子 の ため に裁縫 ,割 烹 ,パ ン,菓 子 調 40。. 製 ,育 児法 ,細 小 家 内工 業 の科 目を修 め しむ」 とい う. 手 島 は,「 職業教育論」 の講話 をな した同 じ 1886年 に,自 ら女子職業教育 へ 向 けて の 行動 を起 こ して い るcそ の 講話 は,「 女子 職業学校 モ 頃 日有志 者 設立 ノ企 ア リ ト云 フ……徒 二机上 ノ空談 ヲ述 ヘ ンヨ リ此校 ノ開業 ヲ待 チ其成. 4),こ れが 前 述 の 共立 績 ノ如何 ヲ トスル ニ如 カサ ルヘ シ」 と結 ばれてい るが 女子職業学校 で あ って ,手 島 もそれ に協 力す るこ とになる。宮 川保全が 中心 となって,「 女子 に適応 す る技 芸職業並 に必 需 の 学科」 を授 け る こ とを 目的 と した職業学校 で あ り4",手 島 は校長 (服 部 一三 )の 補佐 役 と して創 設 時 か ら支援 をな し,そ の後 第 2代 ,第 4代 とのべ 18年 間校長 を務 めた。.

(15) 三 好 信. 浩. ところが ,こ の 共立女子職業学校 は,前 述 した よ うに,女 性 の職業 よ り女 性 の教養 や技芸 に重 点 を移す とい う軌道修 正 を余儀 な くされ る。手 島 に とつ ては ,西 洋 モデルの 直輸 入 の 困難 さを体験 させ られたわけ であ る。入学 す る 女 生 徒 が ,「 職業 に専 一 に従事 す る といふ こ とよ りも,寧 ろ一 家 を治 むる所 の妻 とな り,母 となる といふ や うな教育 を受 け たが るや うな希望 の 方 が 多 く な った。弦 に至 って此学校 も職業専 一 と云ふ前 の考 は幾分 か 変 へ なけれ ばな 0。 らぬ と云ふ必 要 が起 った」 か らであ る. 結果 的 には,共 立女子職業学校 は,職 業 と良妻 賢母 の二 つの 目的 を併 せ 持 つ 学校 となったが ,そ の ことについ ての手 島 の評価 は楽観 的 であ る。逆 に見 れば ,彼 は 当初 の女子職業教育 の考 えを徹底 させ る こ とな く終 わ った こ とに なる。晩年 の論 説 か ら引用 してみ る と,「 然 るに現今 で は世 の認 む る ところ となって ,其 卒業 生 は既 に六 千 に近 づ き,在 学 生 は千五百 になんなん として 居 るの はりIか 先見 の 明あ りと世 に誇 るこ とが 出来や う と思 ひ ます。而 して以 上 の卒業 生 は各 自の修得 せ る技 能 を以 て ,家 庭 の用務 を処理 し,或 は子弟 を 教育 し,或 は職業 として 自営す る もの もあ りま して,一 般社会 に於 け る信用. 44,む しろ軌道修 正. と,ワ Iか 国家 に も貢献 せ る点 が 砂 くな い と思 ひ ます」 と を評価す る結果 になって い る。. 手 島 は ,渋 沢 と親交 を結 び,肝 胆相照 らす 間柄 であ っただけ に,両 人 の考 え方 には共通す る点 が 多 い。商 工 業 は一体 となって推進す べ きであ る とい う 業種 間 の 親近性 もそ の原 因 をな して い たで あ ろ う。 1916(大 正. 5)年 ,手 島. が長年務 めて きた東 京高 等 工 業 学校 の 校 長 を辞任 す る に際 して ,渋 沢 は 「分 け登 る. 麓 の道 は. 変 れ ども. 同 じ高根 の. ,. 月 を見 るか な」 とい う一 首. を贈 ってい る. 45)。. 渋沢 と同 じように,手 島 もまた女子教育 には門外 漢 であ る こ とを断 って い る。「女子 と工 業 との 関係 は却 々趣味 に富 め る所 の研 究 であ る。能 く調査 を 遂 げ て見 たな らば頗 る重 大 なる関係 を有す る有益 な問題 で あ らうと思 ふ」 と いいつつ も40,自 身 が そ の研 究 をな して い な い こ とを認 め ,「 マ ア ー 体 今 日 の 日本 の女子が モー少 し常識 を備 へ て ,そ して智識 を貪 らない や うにな り ,.

(16) 100. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 人 に媚ず ,人 に侮 られず , さう して凛 と した所 があ って,世 の 中に立 って男 子 と同 じ仕事 を して も優 にゆかれ ,ま た立 派 に男子 と同等 に仕事 を行 るや う に した い と思 つて居 るのであ るが ,併 しまだ何 うも日本 の 女子 は,其 所 まで 発達 して居 ない ,そ れ に男子 も女子 を軽侮す る傾があ る。是等 は執 れ も十分 注意 を払 はねば な らぬ と思 ふ」 と. 4■. ,ェ 業 に入 り込 む以 前 の 問題 を指摘 す る. に とどまって い る。. 3横. 井時敬. (1)農 業の人づ くり 横井時敬 (1860∼ 1927)は ,肥 後藩士 の子 に生 まれ,熊 本洋学校 でジュー ンズの教えを受けたの ち駒場農学校 に進学 し,イ ギ リス人教 師たちに西洋農 学 を学 んだ,初 期 のいわ ゆる学卒人材 で ある。 1882(明 治 15)年 に福 岡県 農学校 の教師 となったが,同 校 が廃校 となったの ち,駒 場農学校の ドイツ人 教師 に見出 されて農商務省入 りを した。 1894(明 治 27)年 には,帝 国大学 農科大学 の教授 に就任 し,農 学界 の実力者 の一 人 となる。その間 には,『 福 岡県農事協会雑誌』『産業時論』『日本農業新誌』 などを創刊 し,農 業啓蒙家 としても著名人 となった。 彼 はまた教育家 として頭角 を現 わ し, 日本 の農業教育界 を指導 した。 1897 (明 治 30)年. に大 日本農会附属東京農学校 の教頭 に就任 した ことが重 要な契. 機 であ って,同 校 が,高 等農学校 ,農 業大学へ と昇格 してい く間,そ の校長 お よび学長 を務 めた。今 日の東京農業大学 の前身校 である。それに加 えて. ,. 東京帝国大学附属農業教員養成所 の主事 を併任 し,農 学校 の教員養成 に実績 を残 した。 1899(明 治 32)年 に文部省 か ら ドイッ留学 を命ぜ られた ときの 研究主題 は,農 業教育 であ った。農業教員養成所では,農 業教授法 の研究が なされ,そ の出身者たちが全国の農業教育機関で活躍す ることになる。 横井 は,弁 を好 み多 くの講話 をなす とともに,筆 が立ち多 くの著書 ,論 説 などをもの した。それ らは,自 ら編集 に参与 した 『横井博士全集』全 lo巻.

(17) 三 好 信. 浩. に収 め られ て い るが4帥 ,筆 者 の 調査 した ところで は,そ の 他 に も多 数 の 単 著 ,共 著 ,校 閲書 ,論 説 ,講 話筆記 な どが存在 して い る4"。 横 井 は,日 本人 の 多 くが近代化 の指標 と して疑 わなか った「東洋 の イギ リ ス」 とい う考 え方 をきび しく批 判 した。特 に トラ ンスバ ール との戦争 にお い てイギ リス が 苦戦 を強 い られた ころ か ら,批 判 の語調 は高潮 して い く。裏 を 返 せ ば,商 工立 国論 の批判 で あ って , 日本 は 国家農本主義 を立 国 の基礎 とす べ きこ とを主 張 した。 農民 を武士道 の後継者 になぞ らえ,地 主 階層 を中心 と す る農村紳士 を育成す るための 農学校教育 の 充実 と,農 業 の実務 を担 当す る 一般農民 のための ,普 通教育 の実用化 と農業補習教育 の普及 とを,生 涯 の課 題 と して取 り組 んだ。 農民 を もって強兵 の予備軍 と見 なす彼 の立 場 か らす れば ,農 業教育 の対象 は,い きお い 男性 中心 とな る。そ の 点 で は ,渋 沢 や手 島 と軌 を一 に して い る。. (2)農 村社会 の女性 問題 商 工立 国 の弊害 は,弱 い兵 隊 に とどまらな い。横 井が特 に警鐘 を鳴 ら した のは ,工 業化 と都 市化 の もた らす ,農 村 の 荒廃 である。農村女性 に対 す る影 響 も深刻 で あ って ,工 業化 に伴 う農村 か らの出稼 ぎ工女 の 問題 や ,都 市化 に 伴 う農村女性 の農業離 れの 問題 の ご ときは,彼 の提 唱す る農本 主義 の根幹 に かかわ るだ け に,抜 本塞源的 な解決 を必 要 と した。 工 女 の 問題 につ い て見 れ ば ,19ol(明 治 34)年 の論説 にお い て ,「 近来 下 等農民 の娘 に して ,職 工 場 に行 くもの甚 だ増加 し来 りしが ,此 事 は実際 に大 に考 ふべ き事 な り。何 となれば ,彼 等 は凡 て家庭 の規範 を脱 却 して ,自 由な る生 活 団 に入 り,其 交際 の事情 よ りして考 ふ るに,六 な事 は学 ばず して ,た だ金 をい くらか儲 ける ことと,其 金 を使 ふ こ とに道楽 をす るこ と位 を覚 え. ,. 飯 を炊 くこと衣服 を繕 ふ ことは勿論 ,洗 濯す るこ とす ら出来得 ざるに至 るべ けれ ば な り。彼等 は到底 一 家 を経 営 す る こ と能 は ず ,又 も とよ り労役 に服 し,規 律 に従 ひ,財 を理 し,物 を政 むる事 能 はず。従 ひて一 方 では成 るべ く.

(18) 102. 産業啓蒙家の女子職業教育論. 楽 して立派 なる風 に渡 らん とす 。農家 に適 せ ざる無論 な り。鳴呼 ,亦 痛 ま し 50。. か らずや」 と記 した. そ の後 にお け る横 井 の工 女批判 は口 を極 め た もの となる。例 えば ,「 工 女 が工場 で何 ぞ覚 えるか ,零 であ る,外 に何 も覚 える気遣 ひはな い。 てんか ら 家庭 な どの こ とを覚 える こ とはな い。唯 々得 る所 は,若 干 の金 に過 ぎな い」 ・51),「 都 会 に出 稼 に行 く と随分 金 を取 って 来 る。信 州 の 製絲 工 場 に行 っ と力 た女 工 が ,一 年 一 人貯 へ る金 は五 十 円 ,百 円 ,家 で 父 兄 た る者 が悦 んで ゐ る。併 し嫁入 の仕度 は此金 によ りて出来 るが ,一 家 の主 婦 たる資格 は 出来 な い」 とか"),さ らには,女 子 が工女 にな る と,「 其 の はて は 醜 業婦 の 種 が 蒔 かれ る」 とまで い う. 5"。. 工 女 の成 れの果 ては醜 業婦 で あ る と,彼 は しば しば. 記 して い る。 当時 の農村 の疲弊 な ど念慮 に入れ な い偏 見 と憶測 による発 言 で あ るが ,「 之 を仏 国 の例 に見 るに,巴 里 に於 け る醜 業婦 は田 舎娘 の失敗 して 5中 堕落 したる物 少 か らず 」 とい う よ うな理 由づ け も して い る 。. 女性 が都 会熱 に煽 られ るの も,横 井 に とって 由 々 しき事 態 で あ った。「 田 舎 に育 ち し少女が ,一 度都 会 に出て都会の風俗 を習 ふや ,再 び田舎 に帰 る事 有 る も,見 る物 ,聞 く物 ,皆 優美 な らず ,高 尚 な らず ,幼 稚 に して愚昧 なる を感 ず るが故 に,愈 々都会 を慕 ふの念 を起 し,益 々 田舎 を厭 ふ に至 る」 とい う 。農業 を蔑視 し,農 家 に嫁 入 りす る こ とを嫌悪 す る いわ ゆ るハ イ カラ娘 5〕. の族 生 を憂慮す るのである。 横井 の女性 観 は ,伝 統 的 で保守的 な ものであ って,女 性 の天 職 は結婚 にあ る と考 えて い た。「婦 人が結婚 して家庭 を支 配 し,子 供 を挙 げ て之 を教育 す る といふの は ,そ の 本 来 です 。結 婚 す る こ との 出来 な い 婦 人 を多 く出す の %),「. は,社 会 の状 態 が悪 いので す」 とか. 女子 が結 婚 して家庭 を造 る を以 て. 面 白か らざる こ ととな し,甚 しきは之 に よ りて男子 に賤 め らる ゝの媒 をなす ヽ もの と′ 亡 得 ,独 立 自営 を以 て女豪傑 なるが如 く信 ず る,ハ イカラ的謬見 を只 管 に攻撃 せ ねばな らぬ 。夫婦 の結縁 は 自然 であ る。此結縁 によ りて始 めて経 済界 も円滑 に進み行 くことが 出来 ,教 育 も適 当に執 り行 ふ こ とが出 来 る。独 棲 は男子 に も不幸 で あ り,女 子 には尚更 で あ る。人 の妻 となる ことが如何 に.

(19) 三. 好. 信. 103. 浩. して男子 の奴隷 となる ことたるべ きぞ。 自然 に背 きて独棲 す る ことが ,何 故 に豪 きこ とで あ ら うぞ。男子 には男子 の職分 があ り,女 子 には女子 の職分 が あ る。男子 は外 に働 らき,女 子 は 内 に勤 む,是 に於 て社会が円満 に形成 せ ら る」 とか い う")。 同 じ 1905年 の論説 で あ る。 晩年 の著作物 にお い て もこの 考 え方 は変 わ らな い。「産 児 ・哺育 ・家政 内 助 の如 きは女子 の天分 で あ って男子 の代 り得 ざる事 であ り,女 子 としては最 も貴 い天 よ りの使 命 で あ る」「農業 地方 の 女子教 育 は,人 と して又女子 と し ての天 分 を十分 に発揮 せ しむる教育 と共 に,農 家 の主婦 た り母 たる女子 を養 成す る ことに意 を用 ひなければな らぬ 。徒 に都会 生活 を憧憬 し,都 会 に生活 す る男子 の妻 た らん こ とを望 み ,或 は所謂職業婦 人 を志望 して農村生活 を忌 避 し,農 業者 の妻 たる ことを嫌 ふが 如 き女子 を作 るこ とは,本 人 は云ふ に及 ばず農村及 び 国家 の不利不幸 で ある」 と5',国 家 の利益 に まで結 びつ け た。 横 井 もまた,渋 沢や手 島 と同 じように良妻 賢母 とい う言葉 を使 うが ,農 家 の 良妻 の確保 を第 一 課題 とした。彼 に よれば ,女 性 は心掛 け次 第 で 良妻 とな り得 るが ,賢 母 になる こ とは容易 い こ とで は な い とい う認識 が あ った。「賢 母 となるの には,是 非 良妻 で なけれ ば な らぬ が ,必 ず しも賢母 で な くつて も,良 妻 で あ り得 る場合 が 多 い」 ので ,両 者 を区別 して考 える必要があ る と い う。「賢母 の 方 は,殆 ど家庭 の 道徳 的感化 に よってのみ生 れ 出 る もので. ,. 即 ち賢母 は賢母 を作 る とい って よい 。 で あ るか ら,賢 母 といふ もの は,貴 い 丈 け に数 の少 い もので ある。良妻 の 方 は まだ得 やす いの だが ,賢 母 の方 は世 の 中 に余程稀 な ものだ ら う と思 ひ ます」 と,そ の わけ を説 い て い る 。農村 5労. 社会 にお い て まず欲 しいのは 良妻 で あ った。. (3)農 村女性 の実用教育 日本 にお い て女性 の教育が必要 で あ る とい う認識 を持 つのは ,渋 沢 よ り手 島 よ り,横 井 の ほ うが 早 い。 1888(明 治 21)年 ,ま だ福 岡 に い た ころ発 表 した「農家婦女子 の教育」 では ,は っ き りとその必要 を認 めた。 この 時期. ,. 塩水 選種法 とい う新農法 を編 み出 し,農 事改 良 に意欲 を燃 や して い た横 井 に.

(20) 104. 産業啓蒙家の女子職業教育論. とって,女 性 の無知が妨害要因 をな して い る こ とに気 づ い たか らであ る。農 家 の 実権 は女性 が握 ってい る こ と, しか しそ の 女性 が 「鼻前 の 欲 甚 だ しき」 ため ,伊 lえ ば畔 豆 は水稲 に悪影響 が あ る こ とや ,厚 く蒔 き厚 く植 える こ とは 却 って減収 になる ことな ど,い くら説 き聞かせ て も理解 しようとしない こと な ど,「 余が巡 回 の 節 に農夫 と談 話す る毎 に農事 の 改 良 は婦 女子 の 教 育 をな す にあ らず ば成 し得 べ か らず と思 は る ゝの事実 を得 たる こ と頗 る多 し」 とい う。「婦女子 は牛馬 の 如 く労働 さへ す れ ば 可 な りと云 ふ は理 りとも覚 ゑぬ な り。牛馬 です ら充分 の教育 をな さ ヾれば耕用 に供すべ か らず 。力 さへ あれ ば 可 な りと云ふ可 らず 。而 して況 んや人 間 の教 育 を等 閑 にす るは如何 にぞや 。 農事 改 良 を企 図 らん と欲 せ ば深 く婦女子 の専 門的 の教育 に意 を用 ふ るこ とは 今 日の急務 な り」 と,婦 女子 の教育 の必 要 を訴 えた. 60。. ただ し,そ こでい う. 「専 門的 の教育」 の具体案 は示 して い ない。 翌 1889(明 治 22)年 の 「農家 ノ教育」 と題 す る論 説 で も,そ の 末尾 にお い て女性 の教 育 の必 要 を説 い た。「此段 ヲ終 二 臨 テ髪 二 諸 君 ニ ー 言 シテ以 テ 注意 ヲ惹起 セ ン ト欲 ス ル ノー事 ア リ。 農家女子 ノ教育是 レナ リ。熟 々農家 ノ 業務 ヲ施行 ス ルノ有様 ヲ観察 スル ニ婦女子 ノ任 ス ルモ ノ甚 夕多 シ。而 テ婦女 子 ノ教育 ハ 極 メテ 浅薄 ナ ルカ故 二其為 ス所 ハ男子 二比 シテ概子劣等 ナ ル ヲ免 レス」「農家 二於 テ ハ 婦女子 ハ 頗 ル権カ アルモ ノニ シテ主 人公 トテ モ 之 ヲ制 御 ス ル ヲ得 サ ル ヲ常 トセ リ… … 斯 クモ権カ アル婦女子 ニ シテ教 育 ヲ受 クル可 今 日 ノ如 ク浅薄 ナ ル ニ於 テ ハ 農業 ノ進歩遅緩 ナ ルモ亦宜 ナ ラス ヤ。サ レハ余 輩 ハ 今 日二 当テ農家婦女子 二適 当 ノ教育 ヲ授 クルノ方法 ヲ講 ス ルヲ急務 ナ リ ト信 ス ル ナ リ」 と御 しか し,こ こで も,「 農 家婦 女 子 二 適 当 ノ教 育」 の 方 )。. 法 は示 され ない。 横 井 の女子農業教育論が い ささか の具体性 を帯 びるの は, ドイツか ら帰 国 したの ちであ る。彼 の使 った呼称 は ,農 業家事学校 ,家 事経済学校 ,女 子家 政学校 な ど一 定 は して い ない ものの , ドイツにその種 の農村女子 の学校 が 存 在 して盛況 を見せ て い るので ,日 本 で もそれ を参酌す べ き こと を提言 したの で あ る。彼 の論説 か らこれ に関係す る部分 を引用 してみ よ う。.

(21) 三. 好. 信. 浩. 105. 「独逸 の 農業家事 学校 の如 き,農 家 の主 婦 た る こ とを 目的 と して建設せ ら れ ,農 産製造 とか ,家 畜飼養 とか ,洗 濯 ,調 理等 の事 を教授 す るな り。是等 の こ とは 日本 に於 て特 に必 要あ り」6'。 「彼 の独逸 の 農業家事 学校 の如 きは. ,. 農家 の 家婦 た るべ き もの を養 成 す る 目的 を以 て,耕 作 ,農 産 製造 ,家 畜飼 養 ,洗 濯 ,料 理 ,経 済等 の 学科 を授 くと。か ゝる学校 は 日本 に於 て も極 めて 6〕 必要 な らん」 。「更 に進 んで は,独 逸 に見 る家事 経 済学校 といふ や うな学校. 60。 も極 めて欲 い 。即 ち家政 学校 で あ る」 「独逸 国 にては女子 家政学校 が あ っ. て ,家 政上 につ き実用 的 の教育 を女 子 に授 けて居 る… …女子家政学校 に於 て は学科 は極 めて少 く,寧 ろ炊事 ・洗 濯 ・縫針 ・掃 除 の実用科 目を専 ら研 究 せ 6'。 しめ る こ とになって居 る」. 横 井が この よ うな提言 をなす 裏 には,日 本 の高等女学校 に対 す る批 判 が こ め られ て い た。 1899(明 治 32)年 制 定 の 「高等 女 学校 令」 の ころか ら,各 地 に高等女学校が 開設 され ,女 子教育 の 中核 をなす よ うになるが ,そ の教 育 は,農 村女性 に とって不適 当 で あ る と横 井 は考 えて い た。「 中等 以上 の 農家 の令嬢 は,高 等女学校 に入 学す れ ども,夫 れ以下 の家庭 の あ ま り良か らざる 娘 は ,よ しや 高等女学校 まで進 むあ りとす とも,甚 だ生意 気 とな りて,遂 に 農家 に嫁 し労役 に服 す る事 を厭 ふ に至 るべ し」 とか60,「 彼 の 高 等女 学校 を 見 よ。其所在 地 は既 に都 会 で あ って ,其 生活 をハ イカラ的 ,奢 修 的 な ら しむ るに付 きて,充 分 の誘惑があ るので は あ る まい か 。此 の如 き地 に於 て極 めて 質素 なる田家 の女房 に適す べ き女子 を養成 せ ん と欲す るは,海 上 に於 て農業 を学 ば しめん と欲 す る と同様 ,殆 ん ど不可能 なる こ とで あ るに相違 ない」 と か60,批 判 の語調 は きび しい 。 高等女学校 に代 わ る,農 村女性 のための 家事 や家政の学校 を設 け よとい う 横 井 の提言 は,そ の修業年 限や学科 目 にわた って,具 体性 を帯 びて くる。1907 (明. 治 40)年 の 論 説 に よ る と,「 此 学 校 に 於 て は,園 芸 ,養 禽 ,養 蚕 ,養. 蜂 ,料 理 ,洗 濯 ,掃 除 ,看 護 ,育 児 ,裁 縫 ,機 織 な どを主 と して教 授 す べ く,其 他 田舎 の農家 の 主 婦 と して必 要 なる仕事 を,出 来 る丈 け実地 に就 きて 教授 し練 習 せ しむるを要す る。此学校 は修業年限 を満 ニ ケ年 と して よか るベ.

(22) 106. 産業啓蒙家の女子職業教育論. く,或 は三 年 とす る も不可 ない であ ら う。高等小 学四年卒業 を以 て入 学 の程 度 とす るが よか らう。或 は高等小学 二 年卒業 生 の程度 を以 て入 学 の程度 とな さば ,我 家政学校 は四 年乃 至五年 とすべ きであ る。此学校 に於 ては寄宿 舎 を 設 け ,教 育 に も家政 に も練 熟 せ る老婦 を以 て校 長 と し,此 寄宿 舎 に住居 し て 徒 を以 て其家族 と して取扱 ひ教育 せ しむる こと ゝな さば ,最 も適 当 な. ,生. 帥 りとす べ きであ る」 とい う 。 尋常小 学 4年 ・高等小学 4年 修了者 に 2な い し 3年 ,尋 常小学 4年 ・高等 小学 2年 修了者 に 4な い し 5年 の修業年限 の 学校 とし,そ の教科 目は ,農 村 女性 に とって実用 的 な もの を配 し, ドイツにおける田園家塾 の よ うな全 寮制 の 家族 的教育 を行 う, とい うのであ る。 日本 の 学校 制度 に即 して見 れ ば ,191o(明 治 43)年 に高等 女 学校 令 の 改 正 に よって新 たに設 け られ る よ うになった実科高等女学校 が これに近 い 。横 井 も,実 科高等女学校 に期待 を寄せ て い たが ,そ れが実科 よ り高等女学校 に 重 きを置 くよ う に な って い くこ とを警 戒 した。 1913(大 正 2)年 の 論 説 で は,実 科高等女学校 が設 け られ る こ とに よ り,「 従 来 の 女子教 育 の 弊 を幾分 な りと救 は う とす る様 にな って来 ま したが ,誠 に結構 な事 と思 ひます」 と言 いつつ も,そ の 実際 を見 る と,「 未 だ未 だ従 来 の 女学校 式 に囚 はれて居 るの が見 える。で ,従 来 の 高等女学校 と相距 るこ と僅 に五十歩百歩 に過 ぎない。 や っぱ リハ イカラな,奢 修 的 な教育法 で有 って,実 際 に遠 い様 に思 はれ ま し 6"。 1926 て ,未 だ未 だ満足が 出来 ないので有 ります」とい う不安 を示 して い る. (大 正. 15)年 になる と,は つ き りした批 判 に変 わ る。「実科 女 学校 には他 の. 及 ぶ べ か らざる貴 い本領 の あ る こ とを忘 れて ,出 来得 べ くば単 なる高等女学 校 とせ ん とのみ 熱 中 して居 る」 とい うので あ る. 70。. 実科高等女学校 の 歴 史 的. 性格 につ い ては改 めて考察 を要す る。 以上 は,横 井 の 農村女性教育論 の 中核 をなす家政 ・家事 の学校 の概 要 で あ るが ,彼 の期 待 した通 りの 学校 は ,日 本 にお い て 実現 す る こ とな く終 わ っ た。 なお ,横 井 は ,こ のほか に農村女性 の実用教育 につい て い くつ かの提言 を して い る。 そ の 中で次 の 4点 は重 要 で あ ろ う と思 う。.

(23) 三 好 信. 浩. 107. その 1は ,小 学校教育 の実用化 であ る。特 に高等小学校 の教科 の 中に,男 子同様 ,女 子 に対 して も農業科 を入れよと主張 した ことであ る。男子 には. ,. 高等小学 304年 に農業科 が置 かれていたが,女 子 は離学率 が高 い ため高等 小学 102年 の段階 か らそれ を入れ,義 務教育年限の延長 によつて,尋 常小 学が 4年 か ら 6年 になった時点 では,尋 常小学 の 506年 か ら農業科 を教 え よと主張 したη )。. その 2は ,小 学校 の教育が非実用的 なものであ り続けるか ぎり,農 村 の女 子 は小学校 を終わ った ら出来るだけ早 く実用教育 に移すべ きであ ると主張 し た。「言ふ迄 もな く,女 子 の第一本分 は,家 庭 を治め子女 を教養す るにある か ら,既 に小学校時代 か らその心得 で教育すべ き者 で あ らうと思 ふ けれ ど も,今 日の若 い教師はた ゞ学校 を卒業 したばか りで家庭 といふ事 には少 しも 経験 の無 い者が多 い……それで予 は想 ふや う,現 今 のや うな教育法 ならば. ,. 寧 ろ女子 は小学校 を卒業 させたならば直ちに家庭 を構成するに必要なる技芸 7",「 を習はせた方が良 くはあ るまいか」 寧 ろ出来 る事 な ら,小 学校卒業位 で. 止 めて,そ れか らは結婚後実用 に役 立 つ や うな教 育 を施す方 が好 い と思 73)と ふ」 。. その 3は ,小 学校 を終 わったのちの農業補習教育 に も期待 を寄せてい た が,こ の点 では工 業補習教育 を提唱 した手 島 ほ どの熱意 はない。 1905年 の 著書 では,「 各地方 に於 ては農村 の事情 に適切 なる女子補習学校 を設け,機 業 ・縫針 ・洗濯の方法 に就 ては口頭 にて教授する斗 りでな く,成 るべ く多 く 実地 に之 を練習せ しめ,其 他簡易なる農業 を授 け,農 業的智識 を一般 の女子 の頭脳 に注入す る企あ らん ことを切望 して止 まないので あ る」 といいつつ も70,そ の後 にお い て,女 子 の農業補習教育 を積極的 に提 唱 したか とい え ば,そ うではない。 その 4は ,農 村女性 に限 らず ,女 性 一般 に適す るもの として,イ ギ リスや ドイツに先例 の あ る園芸学校 を奨励 した。「園芸 は実 の虎女子 の仕事 に最 も 適 して居 て,之 れが楽 は高尚で優美 で しか も衛生 に宜 しく,人 の気品 を高 む るに適 して居 る」 といい,イ ギ リスで視察 した園芸学校 では,男 子 よ り女性.

(24) 108. 産業啓蒙家の女子職業教育論. の数が はるかに多 か った とい う不 「園芸 に関す る教授 の如 きは農村 の婦女 │。. 子 に必要なばか りでな く,他 の業務 に従ふ家の主婦 や,都 会生活 を為す婦人 に対 しても必 要なものである」 といい70,広 く女性 にすすめてい る。. お わ り に. 日本 の 農 ・工 ・商 の 産業 の近代化 に対 して ,啓 蒙 と教育 に貢献 した 3人 の 代表 的人物 の ,女 性 に対す る産 業教育論 を取 り上 げ て ,そ の 内容 を分 析 して み た。期 せ ず して生 じた い くつ かの共通 点 があ る。特 に次 の 4点 は重要であ る。 そ の 1は ,産 業 の担 い手 と して は あ くまで も男性 を措 定 して ,産 業 立 国 の 「戦士」 と見 な した こ とで あ る。 そ の ため に必 要 な産業教 育 の振 興 に対 す る 情熱 にお い ては,3者 に 甲乙 をつ けが た い 。 そ の 2は ,女 性 は結婚 して家庭 の 母 とな り妻 となる とい う「天職 」「本分」 を果 たす べ きであ る, とい う点 での認識 も一 致 して いた。男性 の職業 を理解 した り補助 した りす るため に,産 業 に関す る知識 が必 要 であ る と見 な して い た ものの ,女 性 は「 良妻賢母」 と して 「家」 の 主 人公 となるべ きであ る とい う点 では共通 して い た 。. ,女 性 を対象 とす る産 業教育 を提 言 してい る ものの ,そ の教育 は 良妻 賢母 を前提 と して い た ため ,男 性 の そ れ とは違 った もの を構 想 して い そ の 3は. た。実業学校 や実業補 習学校 へ の 女性 の 入学 を認 め る場合 で も,そ の教育 内 容 には男女 の 区別 を設 けた。 そ の 4は ,女 性 の 産業教育 につ い ては,3人 とも,自 信 が な い とか ,研 究 不足 であ る とかい う断 わ りをつ けて ,多 言 を控 えて い る。 よ く語 りよ く書 い た 3人 ではあ るが ,女 性教 育論 は本稿 で取 り上 げた域 を大 き く出 る ものでは こ い 。 ひ と り横 井 時敬 は,農 業教 育 の 専 門家 を以 て 自認 して い た だ けあ っ ゃ て,他 の 2人 よ り語録 の量 は 多 いが ,そ れ とて も将来 の研 究課題 であ る と し て,具 体 的 な提言や行動 は起 こ して い ない。渋沢栄 一 は,死 去 の直前 にお い.

(25) 三 好 信. 浩. 109. てです らよ くわか らな い とい う本音 を もらした。 しか しなが ら,些 細 に見 る と,3人 には 相 違 点 もあ る。特 に重 要 な こ と は,渋 沢 と手 島精 一 が商工 業 を一体 に捉 えて い たの に対 して,横 井 は,農 村 改 良 の立 場 か ら農業 の独 自な発想 を展 開 した。農業が都市 の商 工 業 の影響 を 受 け て,農 村 の 「家」制度が動揺 す る ことに不安 をつ の らせ た横 井 は,手 島 が女性 の 職業 の拡大 を将 来的課題 と して期 待 した の に対 して,女 性 の果 たす べ き役割 を家 に繋 ぎ止 め るための 懸命 の努 力 を した。旧民法 にお け る「家」 制度 を 日本 の 産業構造 の変化 と関係 づ けなが ら,3人 の語 録 の 意味 を さらに 掘 り下 げ てみ る必 要 があ る。 女性 を産 業界 か ら排 除 した こ とを,「 女性 蔑視」 とか「女性差別」 とか 断 ず る こ とはい とも容易 い こ とで あ る。 しか し,3人 の語録 に見 るか ぎ り,近 代 日本 の 産業社会 の 中 にお い ては,女 性 は もっ と複雑 な構造 でその中に組 み 込 まれて い た。表 向 きは確 か に産 業界 は産業戦士 の世界 で あ った けれ ども. ,. そ の 基盤 とされた家 にお い て ,次 世代 の産業戦士 を養育す る賢母 としての役 割期待 が あ り,男 性 と女性 との 間 に,決 して 「共生」 とは い えない にせ よ. ,. 日本 的 な 「調和」 が保 たれ て い た。横 井 が ,賢 母 は 良妻 の 中か ら出 て くる が ,賢 母 になる こ とはむず か しい と述 べ た言葉 の 意味 は重 い 。「効率」 を第 一 眼 目 と した 日本 産業 の近代化 に果 た した女性 の役割 につ い ては一義 的 な解 釈 は危険 であ る。 そ こにお い て女性 が幸福 であ ったか否 かは,さ らにむずか しい 問題 であ る。 本稿 をまとめ るに際 し,さ し当た り,い くつ かの解 明す べ き課題 が浮 かび 出て きた。例 えば ,本 稿 で は産業教育 の男性 リー ダー を取 り上 げ たが ,女 性 の産業教 育 に携 わ った女性 の リー ダー たちは何 を考 えたか ,例 えば嘉悦孝子 な どの「女性教 育家 の女子職業教 育論」 を考 えてみ た い。「女子 の 産業教 育 に関す る西洋教 育情報 の 受容過程」 とか ,「 戦前期 日本 にお ける女子 産業教 育機 関 の施設状況」 な ど,基 礎 的 な作業 もきちん と進 め なければな らな い。 次稿 以 降 ,順 次考察 を試 み てみた い と思 う。.

(26) 産業啓蒙家 の女 子職業教育論. 注. 1)例 えば,第 38回 教育史学会 シンポジウム「教育史 における女性一― ジェン ダーの視点 か ら教育史 を問 い 直す」『日本 の教育史学』第 38集 ,1995年 お よび提案者 の 一人小山静子氏 の著書 『良妻賢母 とい う軌範』勁草書房 ,1991 年。. 2)例 えば,天 野正子「ジェ ンダーと専攻の現在」民主教育協会雑誌 『現代 の高 等教育』第 377号 ,1996年 6月 。 3)例 えば,大 沢真理 「技術選択 とジェンダー」『社会政策学会年報』第 40集 1996年 5月 。そ の他 ,竹 中恵美子編 『労働力 の 女性化』有斐 閣,1984年 『新 ・女子労働論』有斐閣,1991年 ,そ の他 を参看。. ,. ,. 4)拙 著 『日本工業教育成立史の研究』風間書房 ,1979年 ,274頁 。 5)拙 著 『近代 日本産業啓蒙家の研究―一 日本産業啓蒙史下巻』風間書房 ,1895 年 ,第 2部 第 3∼ 5章 。 6)幸 田露伴 『渋沢栄一伝』岩波書店,1939年 。 7)大 仏次郎 『激流―一 渋沢栄 一の若 き日』徳問書店,1989年 。 8)龍 門社編刊 『渋沢栄 一伝記 資料』第 1∼ 第 58巻 ,1955∼ 1965年 ,別 巻 第 ∼第 10巻 ,1967∼ 1971年 。以 下『伝記資料』 と略称する。. 1. 9)「 雨夜諄会談話筆記下」『伝記資料』第 26巻 ,862頁 。 10)日 本女子大学校 主催 九十寿祝賀会 にお ける渋沢 の挨拶 『家庭週報』第 992 号,1929年 7月 ,『 伝記資料』第 44巻 ,704頁 。 11)井 上 正 之 編 『青 淵 百 話』同文 館 ,1912年 ,『 伝 記 資 料』別 巻 第 6巻 ,134 頁。. 12)渋 沢栄 一「女子教育 に就 て」『龍 Fヨ 雑誌』第 511号 ,1931年 4月 ,『 伝 記資 料』別巻第 8巻 ,231頁 。なお,『 女大学』が貝原益軒 の著作 である とい う ことは今 日では当 らない。 13)渋 沢栄 一「創業当時の成瀬校長を憶 ふ」桜楓会編『成瀬先生伝』1928年 ,564 頁。. ,1919年 2月 ,『 伝記資料』第 44巻 ,614∼ 615頁 。 15)同 上,第 141号 ,1908年 4月 ,『 伝記資料』第 26巻 ,912頁 。 16)影 山礼子 「成瀬仁蔵 と渋沢栄一―― その交流 と教育思想 における接点」『渋 14)『 家庭週報』第 502号. 沢研究』第 7号 ,1994年 。 17)渋 沢栄 一「私 は今 の婦人 にか く望む」『龍 F司 雑誌』485号 ,1929年 2月 ,『 伝 記資料』別巻第 8巻 ,171頁 。 18)12)に 同 じ,233頁 。 19)11)に 同 じ,138∼ 140頁 。.

(27) 三. 好. 信. 浩. 20)渋 沢栄一「何故 に余 は女子高等教育 を主張するか」『向上』第 7巻 2号 ,1913 年 2月 ,『 伝記資料』別巻第 6巻 ,589頁 。. 21)日 本女子商業学校創立四周年記念式 における渋沢 の講話 『龍門雑誌』第 235 号 ,1907年 12月 ,『 伝 記資料』第 26巻 ,925∼ 926,928頁 。『なで しこ』第 8巻 1号 ,1907年 H月 にも所収 されている。 22)日 本女子大学校卒業式 における渋沢の講話 『家庭週報』第 184号 ,1909年 4 月,『 伝記資料』第 26巻 ,916頁 。. 23)渋 沢栄 一「余 の女子高等教育 に尽痒す る所 以」『家庭週報』第 185号 ,1909 年 5月 ,『 伝記資料』第 26巻 ,918頁 。. 24)2)に 同 じ,233頁 。 25)同 上。 26)手 島の伝記 は,手 島工 業教育資金団編刊 『手島精 一先生伝』 1929年 が参考 になる。その中には,手 島が 『工 業生活』第 2巻 1号 ,1916年. H月. に寄稿. した自伝 「回顧五十年」 も含 まれる。. 27)大 日本工 業会編刊 『手 島精 一 先 生遺 稿』 1940年 。以 下 『遺 稿』 と略称 す る。なお,明 治期 の論説一覧 は,注 5)の 拙著 ,788∼ 794頁 。 28)手 島精 一「女子 と工 業 との 関係」『なで しこ』第 6巻 5号 ,1908年 3月 ,7 頁。. 29)同 上,6頁 。 30)手 島精 一「今後 に於け る婦人 の職業」『婦女界』第 1巻 1号 ,1910年 3月. ,. 36頁 。. 31)手 島精一「女子職業問題」『愛国婦人』第 HO号 ,1906年 8月 20日 。 32)手 島 精 一「回 顧 五 十 年」『工 業 生 活』第 2巻 1号 ,1916年 H月 ,54∼ 55 頁。. 33)手 島精一「婦人の工業思想」『博愛』 1897年 6月 ,『 遺稿』62頁 。 34)手 島精 一「女子 に適す る業務」『ム ラサ キ』第 1巻 2号 ,1905年 8月 ,10∼. H頁 。 35)手 島精一「女子 の職業」『女鑑』第 5巻 12号 ,1905年 2月 ,16頁 。 36)28)と 同 じ,7∼ 8頁 。 37)機 械工芸会主催帰国歓迎会における手島の講話『機械工芸会誌』第 44号 ,1905 年 4月 ,2∼ 24頁 。 38)手 島精一「実業教育論」『大 日本教育会雑誌』第 36号 ,1886年 7月 ,8,H頁 。 39)手 島精 一「英独 工 業教育所感 (上 )」 『教育時論』第 928号 ,19H年 1月 ,8 頁。. 40)手 島精 一「欧米補習教育 と我邦補習教育 の一斑」『工業界』第 3巻 4号 ,1912.

参照

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