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西北インドとジャータカ(三)及び仏伝説話(一)

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(1)

西北インドとジャータカ

(三)

及び仏伝説話

(一)

早田啓子

筆者は二本の拙稿

注①

において、西北インドにおける釈尊の前世の物語であ

るジャータカについて『大



西域記』や『法顯傳』さらに『宋雲行紀』を

手掛かりとして、この地に伝承されてきた説話を探ってきた。本稿では、

前掲資料中の残されたジャータカについて論じ、新たに釈尊在世中の伝承

としての仏伝説話を前掲の資料の中から探っていこうと考えている。

なお、拙稿の中で扱っている西北インドという地名はやや漠然としてい

るので、

さらに地域を限定して主としてガンダーラ、

タキシラ

(図版①)

及びその周辺の地域を指すものとする。

『大



西域記』

ではウジャーナ国のスーマ大ストゥーパ蘇摩大





波の

由来となるジャータカを取り上げて次のように記している。

其側不 有蘇 大  波。 是如來昔爲帝釋時世疾疫。 愍 含 自變其身爲蘇 蛇。凡有  莫不康豫 注②

要約するとスーマ大ストゥーパの由来として、如来が昔帝釈天であった

頃、世の中に疫病がはやり人々が苦しんでいた。それを見た帝釈天は衆生

を憐れみ、その身を蘇摩蛇に変えて彼らに我が身を供した。それを食した

者は皆、病から癒えたという捨身本生譚である。この「蘇摩蛇本生譚」は

『大宝積経

注③

』〈菩

藏会〉にも類似の説話が記されている。

この蘇摩という名のストゥーパの由来となった蛇名の解釈について、水

谷真成氏は三つの異論を上げている

注④

次に上げる説話も同じくウジャーナ国のジャータカとして伝わっている

サニラージャ

(川)

北崖のサニラージャストゥーパ

珊尼羅闍





波の由

来にまつわる孔雀本生譚である。

この場所は現在アディンザイ

Ad

in

za

i

と呼ばれている。まず、

『大



西域記』では次のように記されている。

珊尼羅闍川北石崖邊有  波病 至求多蒙除差。 如來在昔爲孔雀王。 與 其群 而至此。 熱 求水不獲。 孔雀王以  崖。 涌泉流注。 今 爲池。 飮沐  疾。石上 有孔雀蹤迹 注⑤

この話は、ここのストゥーパにお参りにくる病人はこの池の水を飲

ず病が癒えるというものである。

如来が昔孔雀王であった頃、

仲間

とここ

きて

き水を求

たが

ることができなかった。そこで孔雀王は

で崖をついば

と泉が

きて池となった。それは今も残っておりその水を飲

ば病

るという

い伝えがある。そして

玄奘

は『大



西域記』の中でそこの石上に孔雀の

学苑 第八 三三 号四 一 ~五 三(二 〇 一 〇 三)

(2)

足跡があると記している。

孔雀に関する本生譚は

Ja

ta

ka

159

話、

491

話の孔雀

Ma

ra

本生や

『旧雑

譬喩経』上さらに『六度集経』第三などにみえる。しかしながら玄奘のこ

の伝承内容と全く同一のものはない。

『六度集経』

には次のように記され

ている。

昔 菩 爲孔雀王。 從妻五百。 委其舊匹。 欲靑雀妻。 靑雀唯 甘露好菓。 孔 雀爲妻日行取之。 其國王夫人有疾。 夢覩孔雀云其肉可爲藥。 寤以啓聞。 王命 獵士疾行索之。 夫人曰。 誰能得之。 娉以季女賜金百斤。 國之獵士分布行索。 覩孔雀王從一靑雀在常 處。 以蜜 毎處塗樹。 孔雀輙取以供其妻。 射師以 塗身尸踞。 孔雀取 。 人應獲焉。 孔雀曰。 子 之 身必爲利也。 吾示子金山 可爲無盡之寶。 子原吾命矣。 人曰。 大王賜吾金百斤妻以季女。 豈信汝言乎。 以獻王。 孔雀曰。 大王懷仁。 潤無不 。願  言。 乞得少水。 吾以慈呪。 之疾  矣。 若其無効受罪不晩。 王順其意。 夫 人 之。 衆疾皆 。華 色 曄。 宮人皆然。 擧 國 王弘慈。 孔雀之命。 獲 一國之壽。 雀曰。 願得投身 于彼大湖。 呪其水。 土黎民。衆疾可 。若有疑 願以 捶吾足。王曰可。 雀 呪之。 國人飮水。 聾聽盲 。 語 申。 衆疾皆然夫人疾除。 國人竝得無 病。無有 孔雀之心。雀具知之。向王陳曰。受王生潤之恩。吾報濟一國之命。 報畢乞 。 王 曰可。 雀  飛昇樹重曰。 天下有三癡。 王曰。 何謂三。 一 吾 知癡。 二 獵士癡。 三 大王癡。 王曰。 願釋之。 雀曰。 佛重戒以色爲火。 燒身危命之由也。 吾 五百供養之妻。 而貪靑雀。 索 供之有如僕 。爲 獵 網 得。 殆危身命。 斯吾癡也。 獵士癡 。吾 至 之言。 一山之金。 棄無窮之 寶。 信夫人邪僞之欺。 季女之妻。 覩世狂愚皆斯 矣。 捐佛至 之戒。 信鬼 魅之欺。 酒樂婬亂。 或致破門之 。 或 死入太山其苦無數。 思 !爲人 "無 #之 鳥 欲飛昇天。豈不 $哉 。婬 %之 妖 &彼 ' (。 亡 國危身 靡 不由之。而愚夫 )之。 萬 言無一 也。 而射師信之。 斯謂獵 愚矣。 王得天 醫 除一國疾。 毒 *滅 。 顏 如 +華。 巨細欣賴 而王 放 之。斯謂王愚矣。佛 ,舍 利 弗 。孔雀王。 自是 之 後 。 旋八方 。輙以 神 藥慈心布 施 。 衆生病。孔雀王 吾身 是 。國王 舍 利 弗是 。 獵士  -.是 。夫人  -.妻 是 也。菩 慈 惠 度無 極 行布 施 如 是 注⑥ 図版① ガンダーラ、タキシラ、ジャララバード

(3)

この概要は、昔菩



が孔雀であった時、その国の王妃が病気になり夢を

見る。それは孔雀の肉を薬にすると良いというものであった。王は猟師に

命じて孔雀を探させ、賞金を与えるとした。果たして孔雀王が捕まえられ

王に差し出された。孔雀王は呪術を使って水を薬に変えて、この水で王妃

の病は全快した。そこでこの国の民もあらゆる病の治癒を王に願ったので、

孔雀王は大湖に身を投じてその水を呪術で薬に変えた。そしてこの国の民

の病は、すべて治癒したという話である。

次に上げるのは同じくウジャーナ国にあるローヒタカストゥーパ

廬醯









波の由来である。この説話を『大



西域記』では次のように記し

ている。

 釐 西五十餘里渡大河至盧醯   言 赤  波。高五十餘尺。無憂王之 也。昔如來修菩 行。爲大國王。號曰慈力。於此刺身血以 五藥 注⑦

ここに記されている



掲釐城は現在のミンゴラ

Mi

ng

or

a

周辺を指して

いる。ここから西へ五十四里、大河を渡ってアショーカ王

注⑧

が建てたという

ローヒタカストゥーパ

廬醯









波に至ると述べている。

ここは今、

ハザラ

Ha

za

ra

と呼ばれている村である。昔如来が菩



であった時、慈力

王となって我が身を刺して五人の夜

注⑨

に与えたという

「慈力王本生」

(図 版②)

が伝わっている。

「慈力王本生」

に関する話はジャータカマーラ

注⑩

Ja

ta

ka

m

a

la

8

や『

愚経』

注⑪

『菩



本生鬘論』

注⑫

等に同様の話が出ている。

『賢愚経』

は次

のように記されている。

如是我聞。 一時佛在舍衞國  中止。 爾時  阿 。於 中 後。 林間坐禪。 而自思惟。 如來興世。 甚爲奇特。 衆生之 。 皆蒙安樂。 思惟。 陳如等五 比丘。 種何善本。 依何因 。 法門初開。 而先得入。 法鼓始振。 獨先得聞。 甘露法降。特先蒙潤。念是事已。從坐 處 。 往 至佛 。 具 以 念。而 用白 佛。 佛 之曰。 陳如等。先世於我。 實有 因 。 去 世時。我以身血。 充其  。 令 得安 隱 。是 故 今身。 先得我法。 用 致解 。賢 阿 。 重 白 佛言。 去 以血 濟 其 乏 。 其 事 云 何。 願 具 開 示 。 令 衆 會咸 得 解 。佛 之曰。 去 久 阿 劫 。此 閻 !提 。 有 大國王。 名 彌 "羅拔羅 。 晉 言慈力。 領 閻 !提 八萬 四 千 小 國王。 有 二 萬夫 人一 萬 大 臣 。王 有 慈 悲 。 具 四等 心 。 恒愍 一 切 。 未曾懈厭 。 常 以十善。 敎誨 民 庶 。四 方欽慕 王 #治。 國 土 安樂。 莫不慶賴 。 $疫鬼輩 。 恒 %人血 氣 。 用 自 濟 活 。 爾時人民。 攝 身 口意 。 敦 從十善。 衆 邪惡 疫 。 不 敢 & '。 贏困 乏 。 (悴 無力。 時五夜 。 來至王 。我 等 徒 。 仰 人血 氣 。得 ) 身命。 由 王 敎 導 。 咸 持 十善。 我等自是無 復飮 。  頓 乏 。 求 活 無 路 。大 王 慈 悲 。 豈 不 矜 愍 王聞是 語 。甚 懷哀傷 。 *自 放 +。 刺身五 處 。時 五 夜 。 各 自 持 器 。來 承 血 飮 。 飮 血 ,滿 。 咸 賴 王 恩 。 欣喜 無 量 。王 復 曰。 汝若 充 足 。念 修十善。 我今以身血。 濟 汝  。 令 得安 隱 。後 -佛時。 當 以法身 戒定慧 血。 除汝 三 毒 $欲  。安 置涅槃 安 隱 之 處 。阿 。 欲知 爾時慈力王 。今我身是。 図版② 慈力王本生(クチャ)

(4)

五夜  。今 陳如等五比丘是。 我 世世誓願。 許當先度。 是故我初 法。 聞 解 。時  阿 。 衆會。聞佛 。咸增敬仰。歡喜奉行 注⑬

この概要は、昔慈力という国王がおり国土は安楽を保っていた。ある時、

この国に常に人の血を飲んでいた五夜叉がやってきた。

しかしこの国の人々

は常に十善

注⑭

を行っていたので身は清浄で邪悪な疫病にすら罹らず、五夜叉

はその血を吸うことができなかった。そこで慈力王は我が身五カ所に傷を

付けて血を流し、器に受けてこれを五夜叉に与えたという話である。この

話は、

『大

西域記』に記載されたジャータカである。

以上が各資料に散見する西北インドで語り継がれたジャータカである。

(「西北インドとジャータカ」了)

〔仏伝説話〕

釈尊在世時の伝承としての仏伝説話

注⑮

を西北インドを中心に探っていこう

と思う。

仏伝説話はジャータカに先導された民衆教化の運動が、

に大乗仏教

を起こす動因の一つとなっていく過程の中で重要視されなければならな

い。

まずナガラハル

Na

ga

ra

ha

r[

a]

那掲羅曷国、

現在のジャララバード

Je

la

la

ba

d

(図版①参照)

に伝わる

燃燈佛授記」

の説話である。

まず、

『大

西域記』では次のように伝えている。

東二里有  波高三百餘尺無憂王之 也 石特  雕奇製釋 菩 値然 燈佛 鹿皮衣布 掩泥得受 處時經劫壞斯迹無泯或有齋日天雨衆 群黎心競 式修供養其西伽藍少有 徒 南小  波是昔掩 之地無憂王 大路 僻 焉 注⑯

ナガラハル

掲羅曷国は前

したように現在のジャララバード付

たり、五世

の『法

顯傳

』では「那

竭國

」、さらに

の『

宋雲

では「那



羅阿

」という

記になっている。いずれにし

この地はジャ

ララバードを中心とするカー

流域南

相当

する。

ここでは

の東

二里の

アショ

ーカ王が

建立

した三百

尺の

ストゥ

について記している。その

由来

として昔菩



が「燃燈佛

注 ⑰

」に

った時、

鹿皮の衣を地

き、

さらに

広げ

て、

「燃燈佛」

路の

泥を

い授記

注 ⑱

を得た

であると記している。

日には群衆は競って供養を

行っているという。この「燃燈佛授記」の話はこの地

ではつとに有

で、

クチ

ャや

くのガン

ーラ

彫刻

(図版 ③~⑥ )

にしばしば

られる

題材

ある。

けて

玄奘

は次のように

う少しこの地の

由来

を記している。

有大  波故 基 聞 先 志曰 昔有佛 齒 高 廣嚴麗 今 無 齒 唯 餘故 基 其 側 有  波高三十餘尺 彼俗 相傳 不知源 云從 !下峙 基 於此 非 人 工寔 多 靈 瑞 西南十餘里有  波是如 來自 中 印 度 凌 " # $降 迹 於此 國 人 感慕 此靈 基 其 東 不 %有  波是釋 菩 昔値然燈佛 於此 買華

に大きな

ストゥ

っており先

の話によると、仏

されてあったが今は

在しないと記している。さらに

の西南十

里の

ストゥ

があり、その

由来

は昔如

が中

度から

虚空

えて

行教化してこの国に

したことを記している。そのことに

なんで

人々が

ストゥ

建立

したことを伝えている。

にこの地を

した

玄奘

が那掲羅曷国と記していた国は、五世

は那

国と

記されていたことは前に記した

りであるが、ここでの「燃

(5)

燈佛授記説話」について『法顯傳』では次のように記されている。

從此北行一由 到那竭國 是菩 本以銀錢貿五莖華供養定光佛處 中亦有佛 齒塔供養如頂骨法 東北一由 到一谷口有佛錫 亦  舍供養 以牛頭旃檀 作長 六七許以木筒 之正復百千人擧不能移入谷口西行有佛 伽梨亦  舍 供養彼國土俗亢旱時國人相 出衣禮拜供養天 大雨 注⑳

『法顯傳』では「燃燈佛」は「定光佛」

D

p

am

ka

ra

-B

ud

dh

a

と表記され、

五茎の華を買って「定光佛」を供養したことを記している。また城中には

仏歯や頂骨や錫杖も祀られており、精舎を建立し供養されていたことを記

している。

『法顯傳』

ではさらに仏が身に付けていたとする袈裟

僧伽梨

Sa

m

gh

a

ti

を祀った寺についても触れている。

それでは次に、六世紀の『宋雲行紀』をみてみよう。国名は那

羅阿国

と記している。

至那 羅阿國有佛頂骨方圓四寸 白色下有孔受人手指閃然似仰蜂 至耆賀濫 寺有佛袈裝十三條以尺量之或短或長復有佛錫 長 七以水  之金箔其上此 輕重不定値有重百人不擧値有輕時二人 之那竭 中有佛牙佛 並作寶函  之 夕供養 注 

ここでは「燃燈佛」或いは「定光佛」の授記については記されてはいな

い。仏頂骨については直径四寸で黄白色、下に孔が開いており蜂の巣のよ

うであると記している。また仏の袈裟が十三枚残っており、一丈七尺の錫

図版③ 燃燈佛授記 A(ガンダーラ) 図版④ 燃燈佛授記 B(ガンダーラ) 図版⑤ 燃燈佛授記 C (アフガニスタン) 図版⑥ 燃燈佛授記 D (クチャ)

(6)

杖も耆賀濫寺

Kh

ak

ka

ra

に祀ってあることをここで記している。

城中に

祀ってある仏歯と仏髪は朝夕供養されているという。

この「燃燈佛授記」の話は、

『増一阿含経』第十三、

『四分律』第三一や

『修行本起経』

、『過去現在因果経』

一、

『大智度論』

第四等に記載さ

れている。

今、

『過去現在因果経』第一によってその内容をみていこう。

善  言 以五百銀錢雇五莖耳靑衣意疑復自念言此  直不 數錢而今男子 乃以銀錢五百求買五莖 問之言欲持此 用作何等善 答言今有如來出興於世 燈照大王 來入 故須此 欲以供養大 當知 佛如來 可値 如優曇鉢 時 乃一現靑衣 問供養如來爲求何等善 答曰爲欲 就一切種智度 無量苦衆生 故爾時靑衣得聞此語心自念言今此男子顏容端正披鹿皮衣纔 形體乃爾至 不 惜錢寶 語之曰我今當以此 相與願我生生常爲君妻善慧答言我修梵行求無爲 不得相許生死之 靑衣 言若當不從我此願  不可得善慧 曰汝若決定不 與我 當從汝願我好布施不 人意若 有來從我乞求頭目髓腦 與妻子汝莫生 壞吾施心靑衣答言善哉善哉敬從來命今我女 不能得  寄二 以獻於佛  我生生不失此願好醜不離必置心中令佛知之 爾時燈照王與其 子 衆官屬婆羅門等持好香 種種供 而出奉 普光如來擧 國人民亦皆隨從是時善 五百弟子共相謂言今日國王  臣民悉皆往詣普光佛 大師今 亦當已去我等宜應往彼禮敬作此言已 共 行在 未  見善 師 徒相 喜 無量 共同詣普光佛 見燈照王已到佛 最得在初供養禮拜如是 第至 大臣亦各禮敬 !散名  悉墮地于時善 與五百弟子見 人衆供養畢已 "觀如來相好之容 欲濟拔 苦衆生亦欲滿 足 一切種智故 散五莖皆 住 #中 $ 臺後 散二莖亦 止 #中 夾 佛 兩邊 爾時國王 其 眷 屬一切臣民 天龍夜 %乾闥 婆 阿修羅 &樓 羅 緊那 羅 ' (羅 伽 人 非 人等見此 奇特 )未 曾 有於是普光如來以無 礙 智 讃 善慧言善哉善哉善男子汝以是行 無量阿 * +劫 當得 佛 號釋 &牟尼 如來 應供正 ,知 明 行 足 善 -世 間 解 無上 士 .御 /夫 天 人師佛世 0當於善 受 1之時 無量 天龍夜 %乾闥 婆阿修羅 伽 樓 羅 緊那 羅 ' (羅 伽 人 非 人等散衆 妙 滿 2 #中 而 發誓 言善 將 來 佛 時我等皆願爲其 眷 屬是時普光如來  1之曰汝等皆當 得生其國爾時如來 3授 1已 4見善慧作 仙 人 髻 披鹿皮衣如來欲令 5此 6儀  7 $地以爲 淤泥 善慧見佛應從此行而地 濁 濕 心自念言 云 何乃令 千輻輪 足 蹈 此而   皮衣以用布地不 足 掩 泥 仍 解 8亦以 覆 之如來  7踐 之而度因 1之曰汝 後 得佛當於五 濁 惡 世度 天 人不以爲 必如我 也 注 9

この

概要

&

が菩

:

であっ

時、五

を買って「燈照王」に供養

という話で、

「燃燈佛」

をここでは

「燈照王」

と記している。

:

の髪を

の上に

いて

とし

ると「燈照王」は

:

に、

世で

仏して衆生を

だろ

うという授記を

与え

という

話である。

に「仏

影窟説

話」には

のように記されている

だろ

西南 二十 餘里 至 小石嶺 有 伽 藍高堂重閣積石  庭宇寂寥 ;無 *侶 中有 < = 波高 二百 餘尺 無 憂 王之  >也 伽 藍西南深 ? @ ;瀑 布 飛流 縣崖壁立東崖 石 壁 有大 洞穴瞿 波 羅 龍 之 居 也 門 徑 狹 小窟 穴冥 闇 崖 石 津滴 A徑 餘流 昔 有佛 影 煥 若 眞 容相好 具 足 儼 然 如在 B代 已來 人不 ,覩縱 有 見 髣髴 而已至  C 有 冥 感 乃 暫 明 D E不能 久 昔 如來在世之 時此 龍 爲 牧牛 之 士 供王 F酪 G奉失宜 3獲 譴責 心 懷恚恨 以 金 錢買 華 供養 受 1 < =波 願爲 惡 龍 破 國 H王 趣 石 壁 投身 而死 I居 此 窟 爲大 龍 王 7欲出 穴 本 惡 願 J K此心如來已 鑒愍 此國人爲 龍  H L神 M力 自中 印 度至 龍 見如來 N心 I止 受 不 O戒 願 護 正 法 因 如來常 居 此 窟 P弟子 恒 受 我供如來 Q曰吾 將 寂 滅 爲汝

(7)

留影 五羅 常受汝供正法隱沒其事無替汝若 心奮怒當觀吾留影以慈善故  心當止此賢劫中當來世 亦悲愍汝皆留影像 注 

城の西南二十里の処に伽藍が残っており石積みでお堂や楼閣が造ってあ

ることを記している。既に僧侶は居住していないが、アショーカ王が建て

た二百余尺のストゥーパがあることを記している。

仏影窟については次のように記している。伽藍の西南に深く険しい谷川

が流れている。その谷川の東の崖に大きな洞窟があり、その洞窟の中に仏

の相好を具えた仏影が現れたというのである。しかし、近頃はそれが見え

にくくなっているとも記している。

玄奘はここでこの洞窟に伝わる竜の伝説を次のように上げている。この

洞窟はゴーパーラ瞿波羅という竜の住処で如来在世時は、この竜は牛飼い

であった。王に牛乳を奉った、そのやり方が無礼であったという理由で罪

となった。それを恨みに思った竜は悪竜となって王に害を与えようとして

石壁に身を投じて大竜王となった。それからこの洞窟に棲みついて王に反

撃する機会を狙っていた。これを見た如来は悪竜王に教えを諭し、もし又

悪心が起こってきたらここに留める自分の影を観るように言う。以来、こ

の洞窟には仏の影が映るという言い伝えがある。

七世紀にこの地を訪れた玄奘は、仏影に関しては前述の如く、明瞭では

ないと記している。五世紀に訪れた法顕はどのように記しているだろうか。

『法顯傳』では、ジャララバードを那竭国と記している。

那竭 南 由 有石室 山西南向佛留影此中去十餘歩觀之如佛眞形金色相好 光明炳 轉 轉 髣髴如有 方國王 工畫師 寫莫能 彼國人傳云千佛盡當 於此留影 注 

これによると、那竭城の南半由延の処に石窟があって、山を背にして西

南に向かうとそこに仏影が見えると記している。十余歩離れて見ると仏影

ははっきりと金色に輝いて見えるが、近づくとぼっとかすんでしまうと述

べている。またさらに画師に模写させてもうまく描けず、土地の人々はま

るで千仏がここに影を留めているようだと記している。

それでは

世紀の『

雲行

紀』ではどのような記述になっているだろう

か。那



国の

に次のように記している。

至 瞿羅羅 鹿 見佛影 入 山窟十五歩 四面 向 遙 則衆 相炳 然 看瞑然不 見以 手  之 唯 有石壁 漸漸却行始 見其相 容顏挺特 世 希 有 注 

ここでは瞿波羅竜窟で西南に

して

かに

、仏のあら

る相好を

はっきりと観ることができるが、近づくと

々として

も見えないと記し

ている。そこで、

ってみるとただ石壁があるだけで、身を

退

くとそ

姿

を見ることができ仏の

気高

することができると記している。

こういった五

七世紀の記述をみていくと五

世紀までかなりくっき

りと見えていた仏影が、

浸食作用

などの自

変化

によって、玄奘が

訪れた七世紀にはこの仏影は見えにくくなっていたものと

えられる。し

かしこのような伝

を残していることが、仏教の伝

える上では

重要

なことである。

次にこの

ナガ

ハル

国の仏

足跡

( 写 真①②)

めとした

の伝

について『大



西

記』では次のように伝えている。

影窟 門外 有二方石其 一 石上有如來 足 蹈 之 迹輸 相 現光明時 燭 影窟 左右 多 石 室皆 是 如來 弟子 入 定 之 處 影窟西 北隅 有  波 是 如來 經 行 之 處 其 側  波

(8)

有如來 爪隣此不 有  波是如來顯暢眞宗 蘊界處之 也影窟西有大盤石 如來甞於其上 浣袈裟 影 現 注

ここでは仏影窟周辺の伝承について述べている。まず窟の内外に仏足石

があり法輪が微かに残っていて、時に輝くことがあると記している。また

窟の西北隅には如来の経行跡

としてストゥーパが建ち、その髪や爪も祀っ

てあると記している。さらに薀界処

を説法した処や袈裟を洗濯した石の伝

承が残されていることを記している。

『法顯傳』ではどのような表記になっているだろうか。

影西四百歩許佛在時剃 剪爪佛自與 弟子共 塔高七八 以爲將來塔法今  在邊有寺寺中有七百餘 此處有 羅 辟支佛塔乃千數 注 

ここでは『大



西域記』に記されている仏足跡や経行跡、薀界説法処に

ついては記していない。仏影の西、百歩ばかりの処に仏髪や仏爪を切った

処について記し、弟子達と共に起塔し将来の塔の規範としたことが伝承さ

れて『大



西域記』とは記述をやや異にしている。

『宋雲行紀』

には仏爪についての記述はないが、

仏足跡について次のよ

うに瞿波羅竜窟の条に記している。

窟 有方石石上有佛跡窟西南百歩有佛浣衣處窟北一里有目 窟窟北有山山下 有六佛手作 圖高十 云此 圖陷入地佛法當滅 爲七塔七塔南石銘云如來手 書胡字分明於今可 焉 注 

ここでは同時に窟の西南百歩に仏が衣を洗った処があり、目連

注 

窟や高さ

十丈の仏塔や如来の書も残されていることを記している。

次にハッダについてみてみよう。まず『大



西域記』の記述からみてい

く。ここには多くの伝承が記されている。

東南三十餘里至醯羅  四五里竪峻險固 林池沼光鮮澄 城中居人淳質正 信復有重閣畫棟丹楹。 第二閣中有七寶小  波置如來頂骨骨 一尺二寸 孔 分明其色 白 !以寶函置  波中欲知善惡相 "香末和 #以印頂骨隨其 $感其 煥然 %有七寶小  波以貯如來髑髏骨 &若荷葉色同頂骨亦以寶函緘 絡而 置 %有七寶小  波有如來 眼晴晴 大如 '光明 淸徹皦映 中外 %以寶函緘 封 而 置如來 伽胝 袈裟 細 ( 作其色 赤 置寶函中 )月 *  有 損壞 如來 錫 +白 鐵 作 鐶栴檀 爲 ,寶 筒 !之 -有 國王聞 此 物竝 是如來 昔 . /用恃 其 威力 0脇 而 歸 *至 本 國 置 居 宮曾未浹辰求 之 已失爰 1 2訪 已 3本 處 斯 五 4迹 多有 靈 異 5畢試 王 令 五 淨 行 給侍 香 觀禮 之 徒 相 繼 不 6 淨 行 等 欲 從 7寂 以爲 財 用 人之 重 權立科條 以 止諠雜 其大 略曰 欲 見 如來頂骨 " 8一 金錢 若 取 印 " 8五 金錢 自餘 9 :以 ;科條科條 雖 重 觀禮 彌衆 重閣西北有  波亦 甚 高大 而 多 靈 異人以 指觸 < =搖震 基傾動鈴鐸 和 鳴 注 > 写真① 仏足石 (カルカッタ博物館蔵) 写真② 仏足石 サンチーの仏塔 北門トラーナ

(9)

ここで述べている醯羅城

Ha

dd

a

は現在でもハッダと呼ばれ、

ジャララ

バードの南

8

km

の処にある。玄奘はこの地を、林には花が咲き池や沼は光



れ鏡の如く澄んでいると表現しているが、今は荒涼たる寒村である。

ここでは正法が信じられており、小さなストゥーパが祀られてあって中に

如来の頂骨や髑髏、眼睛などが宝函に入れてあると記している。さらに如

来の袈裟や錫杖も安置してあることも述べている。そして二層の閣の西北

にある大きなストゥーパがあり霊験あらたかで、指で触れるとその鈴鐸が

鳴り出すことも記している。

『法顯傳』には次のように詳細な記述がある。

西行十六由 至那竭國界醯羅  中有佛頂骨 舍盡以金 七寶  國王敬重 頂骨慮人抄奪乃取國中豪姓八人人持一印印封守護淸晨八人 到各 其印然後 開 開 已以香汁洗手出佛頂骨置 舍外高座上以七寶圓碪碪下瑠璃鍾覆上皆 珠  骨 白色方圓四寸其上隆 日出後 舍人則登高樓撃大鼓吹 敲銅 鉢王聞已則詣 舍以華香供養供養已 第頂戴而去從東門入西門出王  如是 供養禮拜然後聽國政居士長 亦先供養乃修家事日日如是初無懈 供養 訖乃 頂骨於 舍中有七寶解 塔或開或閉高五尺許以 之 舍門   恒有賣華 香人凡欲供養 種種買焉 國王亦恒  供養 舍處方三十歩雖復天震地裂此 處不動 注 

ここでは醯羅城

に金

や七宝で

った

頂骨

精舎

があると記している。

さらに次のような記事が記

されている。

頂骨を

尊崇

した

王が、

の豪姓八人を

んで印を持た

せ精舎

を封印し守護さ

た。豪姓た

八人は

早朝

精舎へ

行きその封印を

調

べた。

頂骨は取り出されて

丁寧

扱わ

た。

毎朝

、日の出から

鼓を

打ち

鳴らし

を吹き銅



き、王や

侍臣

供養する。

精舎

の門

には華や香を

り歩く

などが

並び賑わ

ってい

様子

窺え

る。

宋雲

』で

述したように

頂骨に

いては、



に記している。

では次に

ガン

ダーラ

Ga

nd

ha

ra

説話

いて

ていこうと

う。

ガン

ダーラは『大



西

記』では

「健

と記

され

述したよ

うに

広義

には現在の

ペシ

タキシ

ラ、ス

ート南

大な

を指す地

である。ここには

くの

伝説話

っている。

ガン

ダー

いて『大



西

記』では次のように記している。

! 邏 國東西 千 餘里 南北八 百餘里 東 臨 信 度河 國大  號布路沙布 邏 "四十 餘 里 王 族 #嗣役屬 畢試 國 邑里 $荒居人 稀少宮 一 隅 有 千 餘 %稼殷  &果繁 茂 多 甘蔗 出 石蜜氣序 ' (略 無 霜 )人 性 *怯好 +典藝 多 敬 異 ,少 信正法 自古 已 來 印 度 之 -作論 師 則有那羅 天無 .菩 /世 0菩 /法 救 如 意脇 1 等本生 處 也 2伽藍 千 餘 3摧殘 荒 發蕪漫蕭條  4 5波頗 多 6 7天 祠 百 數 異 ,雜 居 注 8

これによると

ガン

ダーラ

ダス

城を

ルシ

布路沙

P

ur

us

ap

ur

a

定め

ていた。

この

ルシ

ラという地

花の

という

で現在の

ペシ

(写真③)

たる。ここは西

た東西の

交通

要衝

で、今でもバ

は大

の人

賑わ

喧噪



れ、さながら

時間

停止

しているような

感慨

である。

、王

の後

がおら



畢試

隷属

して

ていたよう

。しかし、

温暖

気候

であるた

んで

学芸

れていたと記している。

しかし

法を信じる人

なかったが、ここで

と記している

ァ湿

S

iv

a

を信じる人

(10)

が多かったようだ。しかしここは無著

注 

、世親

注 

、法救、如意などの仏者を輩

出した土地柄で仏教にとっては重要な地であることを記している。

ここに残る説話として、まず仏鉢宝台と卑鉢羅樹について次のように記

している。

王  東北有一故基昔佛鉢之寶臺也如來 槃之後鉢流此國經數百年式 供養 流轉 國在波刺斯 外東南八九里有卑鉢羅樹高百餘尺枝葉扶疎蔭影蒙密 去 四佛已坐其下今 現有四佛坐像賢劫之中九百九十六佛皆當坐焉冥 警衞靈鑒 潜被釋 如來於此樹下南面而坐 阿 曰我去世後當四百年有王命世號 膩色 此南不    波吾身 有骨肉舍利多集此中 注 

この仏鉢は昔この国にあったが、今は宝台のみが残っておりこの鉢は今

はペルシャ

波剌斯国にあると記している。

城外の東南八、

九里にピッパラ卑鉢羅樹

Sk

t.

pip

pa

la

,P

a.

pip

ph

ala

,

P

kt

.p

ip

pa

la

があり如来が樹下で南面して阿難に対して、自分の死の四百

年後に世にカニシカ

膩色

Ka

nis

ka

(図版⑦)

というすぐれた王が出

てきて、仏塔を建てるであろうと預言した。

それでは『法顯傳』ではどのように記して

いるだろうか。

佛鉢 在此國昔月氏王大興兵衆來伐此國欲取 佛鉢 伏此國已月氏王等篤信佛法欲持鉢去故 大興供養供養三寶畢乃  大象置鉢其上象  伏地不能得  作四輪車載鉢八象共牽復不能 王知與鉢 未至深自愧  於此處 塔   伽藍 留鎭守種種供養可有七百餘 日將欲中衆 則出鉢與白衣等種種供養然 後中 !至暮燒香時復爾可容二斗許雜色而 "多四際分明厚可二分甚光 澤貧 人以 少華投 中 滿 有大 富 #欲 以 多 華 供養 正 復百 千萬斛 $不能 滿 寶 雲 景止 供養佛 鉢  % 注 &

『法顯傳』では、仏鉢は

ルシャ

ラにあると記し、

『大

'

西域

記』の記

とは

なっている。仏鉢と

シャ

ーン朝

の王との

因縁

詳細

に記してい

る。

なお、

宋雲行紀

』には仏鉢

ピッパラ樹については記

れていない。





①「 西 北 インド と ジ ャ ータ カ( 一 )」 早 田啓子 昭 和女子 大 学 「 学苑 」 二 ○○ 八年 三月 第 809号 六二 頁~ 七三 頁 「西 北 インド と ジ ャ ータ カ( 二 )」 早 田啓子 昭 和女子 大 学 「 学苑 」 二 ○○ 九年 三月 第 821号 四二 頁~ 五 三 頁 ② 「 蘇摩 蛇本生譚 」『大 '西域 記』 大 正 新脩 大 藏 經 普及 版 第 51巻 大 藏 出版 図版⑦ カニシュカ 1世像 写真③ 現在のペシャワール

(11)

一九九○年 八八三頁a ③ 『 大宝積経』 Ma ha ra t ・ na ku ta -su tr a 漢訳 49会、 120巻。 唐の菩提流志訳編。 49の独立の教典類の集大成で、宝積部と呼ばれる大蔵経中の 1 部門の根幹とな っている教典。チベット訳。 ④ 「 蘇摩」 の 解釈 水谷氏は蘇摩の解釈として以下の三つを上げている。 一は Sk t. su ma (水の意) に対し水蛇という普通名詞とみるもの、 二は Sk t. so ma (意味は記さず) であるとするもの、 三は Sk t. su ma に対するものではあるが、 これを固有名詞とみる、 即ち 「仏陀に改宗された蛇と非常に関係が深い Su ma na 天」だとする説である。水谷氏は音声的には so ma を、又話の筋とし ては『大宝釈経』の蘇摩という大魚を得て、これを衆生が食べ疫病が治癒した という解釈を取っている。 (『大 西域記』 『中国古典文学大系』 第 22巻水 谷 真成訳 平凡社 一九七九年 一〇六頁) ⑤ 「孔雀本生譚」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51 大藏出版 一九九○年 八八三頁a~b ⑥ 「孔雀本生譚」 『六度集経』第三巻 大正新脩大藏經普及版 第 3 巻 大藏出 版 一九九○年 十三頁a~b ⑦ 「慈力本生譚」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51 大藏出版 一九九○年 八八三頁b ⑧ 「アショーカ王」 As ok a また阿育王ともいう。 中インド、 マガダ国のマウ リヤ王朝の第三代の王で暴虐であったが、仏教に帰依して国中に八万四千の寺 塔を建立した。また磨崖や石柱に法勅を刻して、仏教によって治国することを 知らしめた。さらに、パータリプトラ Pa ta lip ut ra で第三回の仏典結集を行っ た。 ⑨ 「夜叉」 ya ks a また藥叉 閲叉 夜乞叉ともいう。 八部鬼衆の一。 人を傷 害し暴悪を事とする鬼類。 ⑩ 「 ジャータカマーラー」 Ja ta ka m a la 六生鬘。 著者はサンスクリット本 チ ベット訳ともにアールヤシューラ Ar ya su ra 作か。 35のジャータカを集めた 作品。特定の意図のもとに集めたものではない。宗教的情熱に裏付けられては いるが、古来からのジャータカの幾つかを選び、 伝承 を 忠実 に文学作品に 仕 上 げてある。著者 自身 については 不明 。インドから中 央 アジアにかけて 広く 流行 した作品。 ⑪ 『 賢愚 経』十三巻。 賢愚因 縁 経。 Av ad an a に 属 し六十九話よ り なる。チベッ ト本がある。 ⑫ 『菩 本生鬘 論 』ジャータカマーラーの漢訳。 ⑬ 「慈力本生譚」 『 賢愚 経』第二巻 大正新脩大藏經普及版 第 4 巻 大藏出版 一九九○年 三六○頁b~ c ⑭ 「十 善 」 十悪の対。十 善戒 ともいう。 不 殺 生 不 偸盗 不 邪淫 不 妄語 不 両舌 不 悪 口 不 綺 語 不 貪欲 不 瞋 恚 不 邪 見 をいう。 ⑮ 「仏 伝 説話」 釈 の 伝 記。釈 の 超 人 化 に 伴 い、 様々 な 物 語 的 要素 を 加 え 文 学として 発展 した。 ⑯ 「 燃燈佛授 記」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51 大藏出版 一九九○年 八七八頁 c ⑰ 「 燃燈佛 」 然 燈佛 dip amk ar a はまた 燃燈 定 光 錠光 とも 書き 、 過去 に出 現 したある仏の 称号 。釈 が そ の 前 身 の 儒 童 であったと き然 燈佛 に 遇 い、一 婆 羅 門 女 よ り 五茎 の 華 を 購 入 して 然 燈佛 に 供養 し、 自 らの 髪 の 毛 で 泥土 を 覆 い 通 路 とした。 然 燈佛 は「 汝 、来 世 に お いて成 道 して釈 牟尼 仏とな り 、普 く 衆 生を 救 うべし」と 授 記( 預言 )した 伝 説。 ⑱ 「 授 記」 仏が記 別 を 授 けること。 ⑲ 「仏 歯収納 塔 跡 」「 遊 行教 化 塔」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻 大藏出版 一九九○年 八七八頁 c ⑳ 「定 光 佛授 記」 『法 顯傳 』 大 正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九○年 八 五 八頁 c ~八 五 九頁a

(12)

「仏頂骨」 『宋雲行紀』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九 ○年 一○二一頁c 「燃燈佛授記」 『過去現在因果経』第一 大正新脩大藏經普及版 第 3 巻大 藏出版 一九九○年 六二二頁a~b 「仏影窟」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九○年 八七八頁c~八七九頁a 「仏影窟」 『法顯傳』 大 正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九 ○ 年 八五九頁a 「仏影窟」 『宋雲行紀』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九 ○年 一○二一頁c~一○二二頁a 「仏足跡」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九○年 八七九頁a 「経行」「きんひん」ともいう。釈尊が説法のために各地を遶ること。 「蘊界処」 五蘊 十二処 十八界をいう。一切の諸法を三通りに総摂統合し たもの。 「蘊界処」 「石の伝説」 『法顯傳』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻 大藏出版 一九九○年 八五九頁a 「仏足跡」 「仏髪」 『宋雲行紀』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻 大藏出版 一九九○年 一○二二頁a 「目連」 目 連子帝須 P .Mo gg ali pu tta -ti ss a 仏十大弟子の一人。 アショー カ王の時代の第三結集の上座となり法蔵を結集した。 「醯羅城」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九○年 八七九頁a~b 「醯羅城」 『法顯傳』 大 正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九 ○ 年 八五八頁c 「健 邏国」 『大 西域記』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻 大 藏出版 一 九九○年 八七九頁b~c 「無著」 As an ・ ga 阿僧伽の訳名。 北 インド ガンダーラ プルシャプラの出身。 世親の兄。 在世は凡そA . D . 310~ 390頃と推定される。 小乗化地部で出家、 そ の後大乗空観を学び瑜伽 唯識の教えを唱導する。 著書に 『 攝大乗論』 『金剛 般若論』などがある。 「世親」 Va su va nd hu 婆藪槃豆 和修槃頭 伐蘇畔度の訳名。 旧訳は天親。 五世紀頃の北インド ガンダーラ プルシャプラの人。兄は無著。初め小乗学を 修していたが、密かにカシミールに入り大毘婆沙論を学び阿毘達磨 舍論を著 すが、兄無著の勧めで大乗教に入る。浄土論も著す。無著 世親の大乗教は瑜 伽派と称せられ、龍樹 提婆の中観派と対立してインド大乗仏教の二大系統を なし、後代中国日本に発展する諸宗はすべてこの二者から出る。 「仏鉢宝」 「卑鉢羅樹」 大正新脩大藏經普及版 第 51巻大 藏 出 版一 九 九 ○年 八七九頁c 「カニシカ仏塔」 『法顯傳』 大正新脩大藏經普及版 第 51巻 大 藏出版 一 九九○年 八五八頁b~c 図版  ① 「ガンダーラ、タキシラ、ジャララバード」 『地図で訪ねる歴史の舞台 世界 最新版』 帝国書院編集部 帝国書院 平成十二年 二三頁 ②「 慈 力 王本 生 」(クチ ャ )干 潟 龍 祥 著『ジャータカ 概 観』 鈴木 学 術財団 一 九六一年 一 四 一頁 ③ 「燃燈佛授記」 A ( ガンダーラ )干 潟 龍 祥 著 『 ジャータカ 概 観』 鈴木 学 術 財団 一九六一年 一三二頁 ④ 「燃燈佛授記」 B( ガンダーラ ) 『シル クロ ード大 美術 展』 東京 国立 博物館 編 読売 新 聞社 一九九六年 一三一頁 ⑤ 「燃燈佛授記」 C ( ア フ ガニ ス タン ) 『シル クロ ード大 美術 展』 東京 国立 博

(13)

物館編 読売新聞社 一九九六年 一三二頁 ⑥ 「燃燈佛授記」 D (クチャ) 『シルクロード大美術展』 東京国立博物館編 読売新聞社 一九九六年 一三三頁 ⑦ 「 カニシュカ 1 世像」 田辺勝美 前田耕作責任編集 『世界美術大全集 東洋 編第 15巻 中央アジア』 小学館 一九九九年 一二九頁 写真  ① 「仏足石」カルカッタ博物館蔵 ② 「仏足石」サンチーの仏塔 北門トラーナ ③ 「現在のペシャワール」 ※写真①~③は筆者撮影 (そうだ けいこ 文化創造学科)

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