論 文
摂関期古記録における
「同車」をめぐる人間関係
―
「動く密室」と「開かれた密室」
―
溝
邊
早
紀
序章 古記録の中の「動く密室」 摂関期、貴族の邸宅は外部空間に向かって開かれた造り であるいわゆる寝殿造という住宅形式であった。また、内 部空間においても開放的な広い場所に御帳や壁代といった もので区画し、家具調度を並べ、空間の性格付けが行われ ていた。妻戸や蔀は内部と外部を区切るためのもので、襖 障子もあくまで、儀式空間と日常空間を分け隔てるもので あ り、 決 し て 部 屋 を 細 か く 区 切 る た め の 存 在 で は な か っ た ( 1 ) 。 出 入 口 以 外 を 土 壁 で 囲 っ た 塗 籠 と い っ た 部 屋 が 文 学作品上にも登場するが、基本的には寝室もしくは物置で あ っ た よ う だ ( 2 ) 。 こ の 寝 殿 造 に 日 常 の 生 活 の 中 で 居 住 し ていた平安貴族達は、いわば住居内に人の目を気にして談 義を行うことができる、密室を持たなかったのである。 屋内に密室を持たなかった貴族達にとって、代わりに周 囲から閉ざされた場所として利用されたのが牛車という空 間 で あ る。 膝 を 突 き 合 わ せ ざ る を え な い 程 に 狭 い 牛 車 は、 牛飼達の耳に届かなければ車内で何を話していても外部に 漏れることはない。時に、他人に聞かれたくない心境を吐 露する場として、絶好の空間であった。 長保二年(一〇〇〇)十二月、藤原行成は父方の従兄弟 で友人でもある藤原成房と同車を行い、そこで「世間無常 之 雑 事 」 に つ い て 話 し た ( 3 ) 。 成 房 の 父 は、 甥 の 花 山 天 皇 に 追 従 す る 形 で 出 家 し た、 藤 原 義 懐 で あ る ( 4 ) 。 二 人 は 頻 繁に同車を繰り返す、血縁的にも日常的にも親しい仲だっ た。双方共に親しく御座所に出入りしていた皇后定子が数 日 前 に 崩 御 し て お り ( 5 ) 、 そ れ も あ っ て か 車 中 で 成 房 は 行 成に世間の無常に関して雑事を話す。成房は翌日に出家の 意 志 を 示 す が ( 6 ) 、 前 日 の 同 車 の 中 で 出 家 の 意 思 を 聞 い て い た の か も し れ な い。 そ の 後 近 江 の 飯 室 へ と 向 か っ た 成 房 を 行 成 も 訪 ね ( 7 ) 、 ま た 別 の 友 人 源 成 信 も 伴 っ て 赴 き ( 8 ) 、 やがて義懐の説得に応じて出家を断念した成房を伴って帰京 し て い る ( 9 ) 。 そ の 後 成 房 は 改 め て 出 家 を 遂 げ る ( 10)。 そ の 際 行 成 は 淡 々 と 成 房 の こ れ ま で の 官 歴 等 を 書 き 連 ね た 後、 「 遂 二 素 懐 一 也 」 と 記 し て い る。 成 房 の 出 家 は 単 な る 思 い付きではなく、 長保二年の末から抱いていたものであり、 同車の場でその一端を窺い知ったのだろう。 また、他人には秘する心境を打ち明ける以外にも役割が あった。牛車という狭い車内にあえて乗り込み、それを外 部に見せることで、権力者が親密の度合いを誇示すること ができる場でもあった。車に乗るという一つの行為に、た だの移動手段としてではなく政治的パフォーマンスとして の役割を付することが可能なのである。 道長の娘中宮彰子の大原野社への行啓の帰路、道長と実 資は同車を行う。その車中で、道長は実資が今日の儀式に 供奉したことを非常に喜んでいるという旨を、何度も述べ て い る ( 11)。 ま た、 翌 日 に も 重 ね て 悦 び の 気 持 ち を 使 者 を 派 遣 し て ま で 伝 え て い る ( 12)。 使 者 の 藤 原 尚 賢 は、 道 長 の 喜びが極めて大きいものであることを口添えしている。道 長と実資の立場を鑑みると、この道長の行動や言葉は嫌に 丁寧である。そのまま素直に受け取ることは難しい。貴族 の同車という行為について唯一の研究を行っている京樂真 帆子氏は、この事例について、牛車という狭い空間が、親 密であることを偽装する場になっており、その空間を道長 は利用し、演出をしたと述べている。また、牛車という移 動することのできる閉鎖空間である密室は、その中で展開 している人間関係をそのまま移動させているということで あるとしている ( 13)。 本論は、日常生活を行う室内から密室を失った摂関期の 平安貴族達が、 牛車を単なる移動手段ではなく、 「動く密室」 として利用し、また一つの道具として利用し、される関係 が「動く密室」によって構築されたのではないだろうかと 考えるものである。まず、京樂氏による先行研究が存在す る藤原実資の『小右記』にみられる同車に対して更なる考 証を加え、 藤原行成の『権記』や藤原道長の『御堂関白記』 における同車例を検討する。その上で当時のそれぞれによ る政治的立場や状況、またとりまく血縁の環境が異なる貴 族達の同車に対する視点や意識、また意義などについて検 証を重ねてゆく。
第一章 『小右記』における同車 第一節 同車例の集成と同車の「規範」 摂関期の貴族の同車についての先行研究は、現在におい て 京 樂 真 帆 子 氏 の も の が 唯 一 で あ る ( 14)。『 小 右 記 』 に お ける藤原実資の同車例について、精査した結果を集約して い る。 藤 原 実 資 の 同 車 例 は、 少 な く と も 三 二 〇 例 存 在 し、 その相手として最も多いのは養子の資平(兄懐平の子)で 二三六例を数える。京樂氏によれば後見し、される関係が 「 同 車 」 の 中 に あ ら わ れ、 資 平 と 実 資 は 行 動 を 共 に す る こ とで、政務や儀式に関わる様々な知識の伝達をおこなって いたであろうと推測している。実資と資平が車中で情報を 交換することで、父子の関係によって情報が伝達され、政 務の運営がはかられたとしている。牛車という手頃な「密 室」を利用していたとしている。 なお、同じ養子でも資頼(資平の実弟)や資高(兄高遠 の 子 ) と は ほ と ん ど 同 車 し て い な い。 内 裏 に 向 か う 際 に、 資平とは同じ車に乗り、資高らはその車に従うというのが 通例である。同じ子供たちの中でも、後継者である人物と のみ同車を行っている。実資は同車という行為に対し、何 ら か の 意 思 を 持 ち 選 択 し て い た と い う こ と が 明 ら か で あ る。 資平の同車の次に多いのは、兄懐平との同車で一六例で ある。また、兄高遠とも三例記録されている。だが、同じ 兄弟であっても姉妹の場合の同車例はない。実資が女性と 同 車 し た の は、 実 娘 で あ る 千 古 の 九 例 の み で あ る。 夫 婦・ 親子以外の異性はたとえ兄弟姉妹であっても同車はしない という規範があったのかもしれないと、京樂氏は推測して いる。 牛車の中の密室性をたもちつつ、同車する人々の親密さ は外へもアピールされた。誰と誰とが同車しているかは外 部から分かるため、同車する関係というのは周囲からも注 目された。実資も『小右記』の中で他人の同車を四二例記 録している。牛車は実際親密な人間関係がその場に持ち込 まれるだけではなく、人間関係を演出する一つの道具でも あったであろうと推測されている。 以 上 の 京 樂 氏 の 見 解 は、 基 本 的 に 継 承 す べ き で あ る が、 三二〇例の大半が「同車」という語句を含む事例であるた め、他の表現によって同車を指し示す事例が存在する可能
性がある。 「車尻」 「車後」という表現については、車内か 車中の判断のために分析から排除するとしているが、それ 以 外 に「 合 乗 」 と 表 記 さ れ る 実 資 本 人 の 同 車 が『 小 右 記 』 の 中 に 四 例 ( 15) 存 在 し、 こ れ も 確 実 な 例 に 加 え て よ い ( 16)。 ま た、 「 同 載 」 と い う 表 記 や、 第 三 章 第 二 節 に お い て 後 述 す る が、 「 侯 二 御 車 一 」 と い う 表 記 に つ い て も 同 車 を 行 っ て いるものとみられる。しかし、双方共に実資本人がこの行 為 を 行 っ た 明 確 な 表 記 例 は な い。 そ の た め、 『 小 右 記 』 に おける実資本人の確実な同車例は合計三二四例を数えるこ とになる。 また、京樂氏は異性の兄弟姉妹間では同車は行われない とする一方で、中流貴族の牛車が一家に一台のみであった 例 と し て、 『 蜻 蛉 日 記 』 の 作 者( 藤 原 道 綱 母 ) の 息 子 道 綱 とその妹である作者の養女とが牛車で外出した例を取り上 げ て い る ( 17)。作 者 が 外 出 か ら 戻 っ て く る と、 二 人 は そ の 牛車に乗り込んで石清水臨時祭の見物に出掛けている。ゆ えに、 この場面では、 二人は異性間の兄妹同士の同車を行っ ているのではないだろうか。 異性の兄弟姉妹での同車例は、三条天皇皇后藤原 娍 子が 内裏に参入する日の『小右記』の記事に三条天皇の第四皇 子 師 明 親 王 と 第 二 皇 女 禔 子 内 親 王 の 同 車 例 が 存 在 す る ( 18)。 師 明 親 王 ( 19) も 禔 子 内 親 王 ( 20) も 成 人 前 で は あ る が、 師 長 に抱かれて内裏に参入するという公の場において、皇族と いう立場の二人が同じ車に乗っている。 ま た、 『 権 記 』 の 中 に も、 異 性 間 の 兄 弟 姉 妹 で の 同 車 例 が存在する。一条天皇の定子所生の姉弟である敦康親王と 脩 子 内 親 王 が 同 車 に よ っ て 避 難 し て い る も の で あ る ( 21)。 もちろん火事からの避難という緊急事態ではあるが、脩子 内親王は寛弘二年(一〇〇五)に着裳を行っているため成 人済みである。通常の移動時における、貴族の異性の兄弟 姉妹間による同車例は古記録の中から見出すことは出来て いない。しかし、必ずしも車という空間を分けなければな らない、とは限らないのではないだろうか。 京樂氏は、牛車の同乗には身分差による規範があったこ とも推定されている。 ◦『小右記』長保元年(九九九)九月十三日壬辰条 源 相 公( 源 俊 賢 ) 談 云、 「 昨 左 府 遊 覧 二 嵯 峨 大 井 一 。 即 帰 参 二 女 院( 詮 子 ) 一 。 有 二 競 馬 事 一 。 其 後 読 二 和 歌 一 。
左衛門督誠信・右衛門督公任追従、亦右大弁行成〈蔵 人 頭 〉・ 外 記 慶 滋 為 政 同 車。 奇 怪 事 也。 往 古 不 レ 聞 之 事云々。 外記史生齎来当年維摩会講師請書、 加署。 遍陳、 〈八月廿三日請、 法相宗、 興福寺。 〉忠良朝臣談云、 「昨 日競馬。一番左近少将成房・左兵衛佐雅通、次々番近 衛 府 官 人・ 近 衛 亜 将・ 武 衛 等。 」 競 馬 非 二 是 尋 常 一 。 極 希有之事也。 為 レ 後記之。 (〈 〉内は割注。 以下同じ) 定子が敦康親王を妊娠中である長保元年九月十三日、 『小 右記』には実資が源俊賢から聞いた、前日(十二日)に行 われた道長を中心とする嵯峨大井での遊興の様子が記され て い る。 こ の 遊 覧 は『 御 堂 関 白 記 』( 22) や『 権 記 』( 23)に も 記 されており、仔細がよく分かる。 嵯峨大井で行われた遊覧に付き従ったのは藤原誠信・公 任 ・ 行成などの近臣を中心にした貴族達で、大覚寺 ・ 瀧殿 ・ 栖霞殿そして大堰河の畔まで到ったようだ。そこで式部権 大輔大江匡衡に和歌の題を献じさせる。そして瀧殿で公任 が 詠 ん だ の が、 「 滝 の 音 は 絶 え て 久 し く な り ぬ れ ど 名こそ流れて な ほ 聞こえけれ (『権記』 では 「滝の音の」 )」 の 和 歌 で あ る。 後 に『 拾 遺 和 歌 集 』 に 納 め ら れ、 『 小 倉 百 人一首』にも選ばれている。 こ の 中 で 実 資 が「 奇 怪 事 也、 往 古 不 レ 聞 之 事 」 と 意 見 を 述べている箇所を、京樂氏は「遊びにおいても、身分差は 賢持され、同乗の規範となっていたことがわかる。もっと も、こうした事例は、実資が遵守すべきと考える規範が存 在するにもかかわらず、実態としてそれが揺れはじめてい る こ と を 示 し て も い よ う 」 と し て い る ( 24)。 実 資 が 不 快 感 をあらわにしたのは、移動の際に藤原行成と慶滋為政が同 車 し た た め と 理 解 さ れ て い る 。 し か し 、「 奇 怪 事 也 、 往 古 不 レ 聞 之 事 」 と い う 批 判 は 本 当 に 同 車 に 対 す る も の だ ろ う か。また、同車に対する規範というのは実際に存在するの だろうか。 一 条 天 皇 の 時 代 に 編 纂 さ れ た『 政 事 要 略 』 は、 藤 原 実 資 や『 小 野 宮 年 中 行 事 』 と の 関 連 性 が 見 受 け ら れ ( 25)、 巻 六十七「糺弾雑事」には六位以下の乗車を規制する法令や 同 車 に 関 す る 問 答 が 収 録 さ れ て い る ( 26)。 外 記( 少 外 記 ) の 為 政 は 六 位 で あ っ た と み ら れ る が、 こ の 法 令 に よ れ ば、 外記は規制の対象外であり、実資をはじめとした上級貴族 の同車については 『政事要略』 の中では規定されていない。
実 資 は、 『 小 右 記 』 の 九 月 十 三 日 の 記 事 に お い て、 嵯 峨 大井への遊覧だけでなく、女院すなわち東三条院詮子の元 で 行 わ れ た 競 馬 に つ い て も「 参 二 女 院 一 。 有 二 競 馬 事 一 」 と 記しており、 「競馬非 二是尋常 一 。 極希有之事也。 為 レ 後記之」 と 批 判 し て い る。 『 権 記 』 や『 御 堂 関 白 記 』 に お い て も 同 様に女院へ参った事や馬場についての記載が見られる。 『小 右 記 』 の「 往 古 不 レ 聞 之 事 」 と い う 批 判 は、 文 脈 上 女 性 の 詮子のもとで武芸である競馬が行われたことに対するもの ではないだろうか。 また、東三条院詮子が藤原道長の姉であったことも、実 資が批判した理由として重要である。長保元年の段階で政 権を獲得していた藤原道長であるが、未だ天皇家との強力 なミウチ関係は構築できていなかった。だが一方一条天皇 の中宮で、道隆の娘である定子は、後ろ楯がないとはいえ 既に修子内親王を出産しており、この年の十一月には第一 皇子敦康親王を出産する。道長長女の彰子は同じく十一月 に 入 内 す る が、 数 え で 十 二 歳 で あ り 当 分 皇 子 の 出 産 は 望 む 事 が で き な か っ た( 摂 関 期 の キ サ キ の 平 均 初 産 年 齢 は 二十一 ・ 四歳) 。定子の出産を間近に控えていた長保元年の 後半において、道長は後宮での自身や彰子の勢力を低下さ せ な い た め に も 、 彰 子 の 立 后 を 急 ぐ 必 要 性 が 生 じ て い た ( 27)。 彰子の立后に関する協議は、一条天皇・詮子・道長の間 で秘密裏に行われた。二后並立という前代未聞の事例にお いて、蔵人頭として三者から信頼を得ていた藤原行成が連 絡・調整にあたっていた ( 28)。 『 権 記 』 の 中 で そ の 交 渉 が 開 始 す る の は、 長 保 元 年 十 二 月初旬(七日より前)である。彰子立后は水面下で秘密裏 に進められたようである。翌年長保二年(一〇〇〇)正月 二十八日になって、もう一人の蔵人頭藤原正光を通じて正 式に彰子立后が道長に伝えられるまで、他の公卿はこの問 題に関与することはできなかった。彰子入内について良い 感情を抱いていなかった様子を『小右記』の中で見せる実 資であるが、立后についても長保元年十二月までの段階で は、 記載は全くない。実際に立后した長保二年の『小右記』 の記事は現存しないものの、実資の耳にすら立后にまつわ る仔細が全く届かなかった事が伺える ( 29)。 当時の朝廷の事情として、間近に控えた彰子入内におい て道長におもねる貴族達に対し実資が批判の目を向けてい
るとも考えられる可能性があるのではないだろうか。実資 が 批 判 を 行 う 際 に「 往 古 不 レ 聞 之 事 」 と い う 同 じ 文 言 を 使 う場面が、長保元年(九九九)十月二十八日という近い時 期に存在する。彰子の入内準備のために、藤原公任・藤原 高 遠・ 藤 原 斉 信・ 源 俊 賢 が 道 長 の 命 に よ っ て 和 歌 を 献 じ、 花山院までもが屏風歌を贈ったことに対して実資は「往古 不 レ 聞 事 也 」 と 批 判 の 目 を 向 け て い る。 特 に 同 じ く 小 野 宮 流に属する公任に対しては、道長への追従姿勢を重ねて強 い言葉で批判している ( 30)。 実資の批判の視線は一貫して道長の周辺に向けられては いる。だが、それは牛車の同車に対するものではなく、女 院である詮子のもとで武芸である競馬が行われたことに対 し て の「 往 古 不 レ 聞 之 事 」 と い う こ と で は な い だ ろ う か。 法令の中には上級貴族の同車についての規定は見受けられ ない。同様に、古記録の中にも同車に対する明確な規範や 意見等についての記述は見られない。摂関期において、牛 車に複数の人物が乗車する同車という行為に、守るべき規 範 が あ っ た と 推 定 す る こ と は 困 難 な の で は な い か と 考 え る。 第二節 藤原実資の同車における特徴 先述の通り『小右記』の中で、確実に実資が行った同車 は 確 実 な も の だ け で 三 二 四 例 で あ る。 『 小 右 記 』 は 逸 文 を 含めると貞元元年(九七七)から長久元年(一〇四〇)ま での六十三年間が現在まで伝わっている ( 31)。実資は円融 ・ 花 山・ 一 条 と 間 を 空 け な が ら 三 代 の 天 皇 の 元 で 蔵 人 頭 の 任 に 就 い て い る ( 32)。 こ の 間 に 行 わ れ た 同 車 は、 天 元 五 年 ( 九 八 二 ) 三 月 十 一 日 と 永 延 二 年( 九 八 八 ) 十 二 月 十 七 日 のわずか二例のみである。 天元五年(九八二)三月十一日、円融天皇の女御藤原遵 子が立后した。それに伴い、同日実資は中宮亮に任じられ る。そしておそらくその新任の挨拶であろうが、同じく中 宮大夫となった藤原済時と共に遵子の許に向かう際に同車 を 行 っ て い る ( 33)。 あ く ま で 、 中 宮 亮 と し て 行 わ れ た 同 車 で あり、 この時兼任していた蔵人頭との関連性は見られない。 永延二年(九八八)十二月十七日の記事では、実資は三 位中将藤原道綱と共に同車し、 不断念仏の聴聞のために 「彼 家 」 に 向 か っ て い る ( 34)。 こ の 家 が ど こ を 指 す の か は 不 明 であるが、この時集っている貴族達で名前が上がっている
のは右衛門督源伊陟・修理大夫藤原懐平、そして三位中将 藤原道綱である。この場合も、蔵人頭の職務として同車を 行っているとは考えにくい。 三二四例もの同車を行っている実資であるが、その殆ん どが参議に任じられて以降のものである。二例と数少ない 蔵人頭在任中の同車例自体も、明確に蔵人頭の職務の一環 としてや、職務上の必要性が生じて同車を行ったとは考え に く い。 時 代 は 多 少 下 る が、 『 中 右 記 』『 春 記 』『 左 経 記 』 においても、それぞれの記主が蔵人頭の在任中に殊更同車 が増えるという傾向は見られない。また、同車を行ってま で行わなくてはならない職務や、同車の必要性というもの は明確には見出すことができない。蔵人頭という職種にお いては、殊更同車を行わなければならないという職務は発 生しにくい可能性がある。あるいは、蔵人頭の職務の中で 実資は同車という行為を利用しなかったのだろうか。 実 資 の 同 車 は、 そ の 大 半 が 養 子 の 資 平 と の も の で あ る。 その特徴から、職務の上で必要があり同車という行為が行 わ れ る も の で は な く、 京 樂 氏 の 研 究 で 論 じ ら れ た よ う に、 小野宮流の有職故事や儀礼の伝達の場として車を使用する ことが、結果として『小右記』の「同車」という記述に現 れるのではないかと考えられる。 第二章 『権記』における同車 第一節 藤原行成の同車の概要 本 章 で 論 述 す る 藤 原 行 成 に つ い て の 同 車 に 関 す る 研 究 は、現在において存在しない。行成の『権記』における本 人の同車例は、明確なものだけでも一八四例を数える。そ の う ち 一 六 五 例 が「 同 車 」 表 記、 十 二 例 が「 候 二 御 車 一 」、 五例が「同載」表記、その他表記が二例である。同車とい う行為に関して、表記の種類が多いことは、行成の特徴と も言えるだろう。実資の同車は参議になって以降格段に増 加するが、行成の同車はむしろその大半の八九例が参議に なる以前の蔵人頭時代によるものである。議政官以前の実 務派官僚としての同車を行成からは見出すことができるの ではないだろうか。 同車の先行研究が存在する藤原実資や、同時代に日記を 残している藤原道長とは生い立ちも取り巻く環境も大きく 異なる。特に明記する点は、早くに行成を庇護するような
立場にあたる肉親の男性貴族を亡くしている点である。牛 車の中で儀式などにまつわる伝達が行われているのであれ ば、少なくとも行成はそれを享受する環境にはない。性別 に関わらず、そもそも存在しない兄弟姉妹間の同車も見受 け ら れ な い。 さ ら に、 『 権 記 』 が 現 存 す る 時 期 か ら も、 行 成の成人した子供との日常的な同車例を拾い上げるのは難 しい。したがって、行成の同車の大半は、家族の関わり合 いとは分け隔てられた公的な意味合いを含む同車であるだ ろう。 第二節 職務上の同車 長徳元年(九九五)八月二十九日、藤原行成は源俊賢の 後任として蔵人頭に補任される。長保三年(一〇〇一)八 月 二 十 三 日 か ら 二 十 五 日 に 行 わ れ た 除 目 で 参 議 と な る ま で、六年間という長期に渡って蔵人頭を務めた。その間弁 官 も 兼 ね て お り、 『 枕 草 子 』 に は 頭 弁 と し て 登 場 す る。 そ の任官中には、 彰子立后をめぐる動きに関与し、 一条天皇 ・ 藤原道長・東三条院詮子から信任を得た ( 35)。 行 成 が 他 の 人 物 と 牛 車 に お い て 同 車 を 行 っ た 例 は、 『 権 記』の中で少なくとも一八四例を数える。その中でも実に 半 数 以 上 の 八 九 例 が 蔵 人 頭 時 代 に 行 わ れ て い る 同 車 で あ る。行成は長く弁官も兼任していることから、単純に蔵人 頭と職務と同車が深い関係性を持っているかは明らかでは ない。しかし、藤原実資の蔵人頭時代の同車例は僅かに三 例であり、いずれも蔵人頭の職務とは関係のない事例であ る。この事からも、行成の同車において、蔵人頭時代とい うのは特徴の一つではないだろうか。また、同時に弁官の 職務と関連して同車を行っているという可能性も考えられ る。 職務が関わっているであろう同車例は、八六例の中でも 複数回散見される。もちろん、直接的に牛車の内部で行わ れた会話等が記されている訳ではない。しかし、同乗者や 行き先等から推測することができるのではないだろうか。 長徳四年(九九八)十二月十五日の同車記事では、行成 は 内 裏 と 道 長 、 冷 泉 院 を 行 き 来 し て い る が 、 そ の 理 由 を 「 為 二 左 府 御 書 奉 一 レ 院 也。 」 と 書 い て い る。 こ の 移 動 の 間、 内 蔵 頭 藤 原 陳 政 と 同 車 を 行 っ て い る ( 36)。 道 長 の 御 書 の 中 身 も、 おそらく冷泉院で行われている御仏名についての事ではな
い だ ろ う か。 自 然、 共 に 移 動 を し て い る 陳 政 と の 会 話 も、 それに関連する事柄であったと推測することができる。 長保二年(一〇〇〇)四月六日の同車記事では、山陵使 の 発 遣 を め ぐ る 道 長 と 一 条 天 皇 の や り 取 り が 行 わ れ る 際 に、蔵人頭である行成が伝送役を務めている。ここでも行 成 は 内 裏 と 道 長 の 許 を 行 き 来 す る 理 由 を「 参 二 左 府 一 申 二 此 旨 一 。」 と 自 ら 記 し て お り、 移 動 は 職 務 の 一 環 で あ る 事 が 伺える。そして、ここでは右中弁源道方と同車を行ってい る ( 37)。 行 成 は こ の 際 右 大 弁 を 兼 ね て お り、 道 方 の 直 接 的 な上役にあたる。牛車の中で、二人が職務に纏わる会話を していたとしても、なんら不都合はないだろう。 行成が同車を行う相手の大半が、蔵人や弁官など職務上 の 関 係 性 が 見 受 け ら れ る も の で あ る ( 38)。 実 資 の 蔵 人 頭 時 代 に お い て は、 そ の 職 務 上 牛 車 を 使 用 す る 例 は 見 ら れ な かったが、行成は職務の都合上やあるいは本人の意思にお いて同車を行っていたのではないだろうか。 蔵人頭以外の役職が関わる場合においても、職務が関連 するであろう同車例が見受けられる。長保五年 (一〇〇三) 八 月 一 〇 日、 行 成 は 左 衛 門 督 で あ る 藤 原 公 任 と 同 車 し て、 公 任 の 姉 で あ る 円 融 天 皇 皇 后 藤 原 遵 子 の 居 所 へ 参 っ て い る 。 明 確 に 牛 車 の 中 の み と は 限 ら な い だ ろ う が 、「 言 談 」 と い う 言 葉 か ら 、 旬 儀 の 伴 奏 の 序 列 に つ い て の 話 し 合 い が 二 人 の 間 で も た れ た の で は な い か と 推 測 す る こ と が で き る ( 39)。 従ってこの事例は職務の一環として、公任と談義する場を 持つための同車ではないだろうか。遵子を介在した二人の 関係性は、やがて公的なものへと変化する。 数 日 前 か ら 道 長 の 春 日 詣 に 付 き 従 っ て い た 二 人 は ( 40)、 そ の 帰 路 宇 治 ま で 同 車 を 行 っ た ( 41)。 直 後 の 四 月 に 行 わ れ た 小 除 目 で 行 成 が 参 議 に 加 え て 皇 太 后 宮 権 大 夫 に 任 じ ら れ て い る ( 42)。 権 官 の 上 官 に あ た る 皇 太 后 宮 大 夫 は こ こ で 同 車 を 行っていた公任である。二人きりの車内において何らかの 談義が持たれていたと見ることができるだろう。さらに遵 子にまつわる二人の関係性は、後年においても継続してい る。 皇太后遵子の許で御仏名が行われたが、そこに集った宮 司 は 公 任 と 行 成 だ け で あ り、 他 は 誰 も 来 な か っ た ( 43)。 夫 である円融天皇も既に崩御しており、素腹の后と呼ばれ皇 子・皇女を産んでいない遵子は皇太后といえども、当時の
廟堂にとって大きな影響力があるわけではない。道長をは じめ、大勢から軽んじられた立場にあった。しかし行成は 遵子が亡くなる寛仁元年(一〇一七)まで皇太后宮権大夫 の職に就いている。同車の中でより強固に繋がれた皇太后 宮大夫であり遵子の弟である公任との関係性は、終始一貫 していたのだろうと推測することができる。 行 成 は 様 々 な 職 務 や 移 動 に お い て、 同 車 と い う 行 為 を 行っている。それは蔵人頭時代の頻度が多いことは確かで あるが、それ以降においても職務の中で同車を行っている ことが見受けられる。したがって、行成にとって牛車は人 間関係を持ち込む場というより、牛車という空間を一つの 仕事道具のように使用していたのではないかとも考えられ る。あくまで、行成にとっては日常の行為の中のものだっ た の だ ろ う。 そ の た め、 『 権 記 』 の 中 で 同 車 と い う 行 為 が 特に年代の断絶なく一貫して現れるのではないだろうか。 第三節 私的な同車 このように、職務と密接に結びつく人物と行う同車は行 成の同車例の中でも頻出している。これは、血縁関係のあ る相手、特に養子の資平との同車が主だっていた実資との 大 き な 差 異 で あ る。 京 樂 氏 が 述 べ て い る よ う に ( 44)、 実 資 が小野宮流の儀礼の伝達の場として牛車を利用しているの であれば、そのような形態は行成には当てはまりにくいだ ろう。行成の子息は多くが早世しており、成人した最も高 齢の息子は長徳四年(九九八)に産まれた実経である。蔵 人頭という最も多く同車を行った時期に、子孫への儀礼伝 達を行うことは不可能である。また、世尊寺流を受け継ぐ 行 経 が 成 人 し た の は 行 成 の 晩 年 で あ り、 『 権 記 』 の 現 存 状 況からその時期においての儀礼や政務の継承を見出すこと は難しい。 息 子 で あ る 実 経 が 誕 生 し た 際 、 行 成 は 同 車 を 行 っ て い る ( 45)。 こ れ は、 政 務 と の 関 連 性 が 明 確 に 否 定 で き る 事 例 で あ る。 この年の十月に男児が早世しており、実経の誕生は待ちに 待ったものだったに違いない。前夜から産気づいた妻源泰 清の娘であるが、無事明け方に出産した。しかし、このお 産の際に呼ばれていた僧都の観修はまだ全てが終わってい ないにも関わらず、触穢を嫌がり着座もせず、挙句の果て に帰ってしまった。それを聞いた行成は驚き、自ら僧房へ
と脚を運び、牛車に乗せて同車をし、再び連れて来た。結 果無事お産は終わり、行成は非常に喜んでいる。妻の出産 に際し、能動的に同車を行った例である。この日は天智天 皇の国忌にあたり、政務は行われない。従って、この同車 は私的な意図をもって行われたものであるとみる事ができ る。妻の出産に僧を呼ぶという、家庭内の出来事に同車を おこなっているのである。 寛弘五年(一〇〇八)九月二十五日にも妻の出産の記事 であるが、ここでは三例の同車を行っている観修ではなく 慶 円 僧 都 を 相 手 に 同 車 を 行 っ て い る ( 46)。 妻 が 産 気 づ い た ことにより、加持祈祷のために慶円僧都を迎えに妙法蓮華 寺へと赴いたが、内裏に伺候していて不在だった。その後 退出した僧都を車に同載して帰宅し、加持を行わせた。次 の日行成の妻はもう一人男児を出産するが、双子のどちら も数日後に死亡した。妻の出産に際し内裏に伺候している 僧を呼ぶためという、こちらも私的な理由によって行われ た同車である。 行成は、 先述した通り後見し後見されるという関係性は、 行成を取り巻く血縁の環境や時期柄『権記』の中でそもそ も現れにくい。従って、行成の同車という行為は、実資の ような儀礼等の伝達のために行われたのではなく、職務の 情報伝達の場としてや、出産といった家族にまつわる出来 事など、様々な場合に移動手段として以外の必要があって 行われるものであるという特徴が存在するのではないだろ うか。 第三章 『御堂関白記』における同車 第一節 藤原道長の同車の概要 藤原道長の『御堂関白記』における確実な本人による同 車例は少なくとも三七例である(付表参照) 。「同車」表記 が 三 四 例、 「 侯 二 御 車 一 」 が 三 例 で あ る。 こ れ は、 『 小 右 記 』 や『権記』と比べると単純に比較した場合に格段に少ない といえるだろう。また、一年の中で一度も同車を行わない ことも多く、道長にとって同車は日常における行為ではな かったのだろう。伝存する『御堂関白記』は道長が権力を 獲 得 し た 長 徳 四 年 以 降 の も の で あ る ( 47)。 実 務 派 官 僚 の 行 成や、小野宮流の継承者である実資とは違い、そこから権 力者としての同車の意味や意図を見出すことができるので
はないだろうか。 道長の同車相手としては、藤原斉信 ・ 藤原公任 ・ 源俊賢 ・ 藤原行成等といった近臣が多いことから、政務に関する談 義の場として利用されていたということが推測できる。ま た、行成・実資とは違い父息子以外の近親者、特に妻倫子 との同車が見られるのが大きな特徴の一つである。道長が 同車を利用する理由として、最も多いものが祭見物で半数 近い十五例を数える。賀茂祭や石清水祭は ほぼ毎年のよう に同車を行い見物している。直接的に政務が関わるわけで はないが、祭という多くの人の目がある場所で行われる行 為であることから、間接的に何らかの意図があったのでは ないかと見ることができる。 道長の特徴である妻源倫子との同車例は全体で四例見受 けられる。うち二例は、やはり祭り見物のための同車であ る。 長 保 二 年 の 同 車 は 賀 茂 祭 ( 48)、 寛 仁 二 年 の 同 車 は 賀 茂 祭 の 使 の 還 立 を 見 物 し て い る ( 49)。 後 者 は 土 御 門 第 の 南 大 門の所に車を立てて見物しているようである。 また、実資が資平と同車していたように、道長の場合で も 嫡 男 頼 通 と の 同 車 も 存 在 し て い る ( 50)。 こ ち ら は「 明 日 雑事相定」という表記から、政務等のための同車であるだ ろうと推測することができる。頼通との同車例は全体で四 例を数えることができる。うち半数が、何らかの造作を見 るためのものである。実資は嫡男である資平以外の、資頼 や資高との同車は ほ とんどみられなかった。それは道長の 場合も同様で、頼通以外の息子とは同車を行っているとい う記述は見られない。同車という行為は、一つの家の中で 職務や儀礼伝達の場として車中を利用しているものではな いかという京樂氏との見解は道長においても有用であるだ ろう。 また、実資が娘の千古と同車を行っていたように、道長 も数は少ないが成人前・成人済に関わらず娘との同車を行 う例も見受けられる。長和五年の同車例は、当時後一条天 皇 の 後 宮 に お い て 尚 侍 だ っ た 藤 原 威 子 と の 同 車 で あ る ( 51)。 当 然、 長 和 元 年( 一 〇 一 二 ) に 着 裳 を 行 っ て お り ( 52) 威 子 は既に成人している。威子の住まいであった一条院の東の 垣が崩れたため、一条第に移っていたが、おそらく修理が 終わったのか一条院に戻る際に道長と同車している。寛仁 二 年 の 同 車 例 は 、 倫 子 の 母 藤 原 穆 子 の 忌 日 の 同 車 で あ る ( 53)。
経供養から戻った後、 倫子と共に同車して参内しているが、 ここに千子君と同車をしている。 これは後に後朱雀天皇 (東 宮時代)に入内する道長・倫子夫妻の末子の藤原嬉子であ る。 道長の確実な同車例は全体として数が少ない。そのため 同車が日常的な行為である実資や行成とは異なり、道長本 人の何らかの理由や意思を持って行われた非日常行為であ る場合が多い。祭見物や造作を見るため、 参内のためなど、 道長本人も、単なる移動手段としてではなく明確な理由を 記していることは特徴と言えるだろう。 第二節 同車の慣例の存在 『 御 堂 関 白 記 』 の 中 に は、 行 成 や 実 資 の 同 車 例 に は 見 ら れない、元服前の直接的な血縁関係のない他人の子息との 同車例を見出すことができる。 ◦『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)十一月二十三日 癸酉条 参 レ 内。 午 二 点、 御 祓 後、 御 前 事 如 レ 常。 於 二 殿 上 一 賜 二 宣命 一 。 使(藤原) 相尹。 晩景事了。 依 二 内府 (藤原公季) 催 一 出見物。 後孫小童載 レ 車。 内府 ・ 右衛門督 (藤原斉信) 同車。立 二杷殿南車 一 。(後略) ◦『御堂関白記』寛弘四年(一〇〇七)十一月二十二日 乙酉条 使 ( 源 ) 高 雅 。 舞 人 四 人 我 子 也 。 是 希 有 事 也 。 昨 一 舞 ( 藤 原 ) 頼 宗 ・( 藤 原 ) 顕 信 也 。 是 座 次 第 也 。 今 日 以 二( 藤 原 ) 教 通 一 仰 二 一 舞 一 。 依 二 中 宮 ( 彰 子 ) 御 一 歟 。 内 府 ・ 傅 ( 藤 原 道 綱 ) 与 同 車 見 物 。 内 府 孫 小 童 乗 レ 車 。 内 府 有 二 悦 気 一 。 是 一 日 事 思 也 。 候 二御 神 楽 一 。 丑 四 出 二 宿 所 一 。 高 雅 物 儲 二 朝 夕 一 。 寛弘元年の記事は、 道長と藤原公季 (内府) と藤原斉信 (右 衛門督)と内府の孫と同車し、寛弘四年の記事は、道長と 公季、 藤原道綱と内府の孫と同車した例である。どちらも、 賀茂臨時祭の見物のためである。寛弘四年の記事では、孫 を可愛がり喜ぶ祖父としての公季の様子も記されている。 公 季 が 同 車 し 連 れ 歩 い て い る「 内 府 の 孫 」 が 誰 か と い う『御堂関白記』の明確な記載はない。しかしこれは、公 季の孫公成(実成の息子)であるだろう。公成は祖父であ る公季の養子となっており、元服前である(公成の元服は
寛 弘 八 年 正 月 二 十 九 日 )( 54) こ と か ら も「 内 府 の 孫 の 子 童 」 は他に該当する人物はおらず公成であると推測することが できる。 ま た、 『 大 鏡 』 の 中 で も 公 季 が 孫 の 公 成 を 可 愛 が り、 同 車し参内する様子が見られる。こちらはすでに公成が元服 後頭中将に任じられている頃である。 ◦『大鏡』地 太政大臣公季 仁義公 かかる ほ どに、御年積らせたまて、また御孫の頭中将 公成の君を、ことの ほ かにかなしがりたまひて、内に も、御車のしりに乗せさせたまはぬかぎりは、まゐら せたまはず。さるべきことの折も、この君、遅くまか り出でたまへば、弓場殿に、御先ばかりまゐらせたま ひて、待ち立たせたまへりければ、見たてまつりたま ふ 人、 「 な ど、 か く て は 立 た せ た ま へ る 」 と 申 さ せ た まへば、 「いぬ、待ちはべるなり」とぞ仰せられける。 無量寿院の金堂供養に、東宮(敦良親王 ・ 後朱雀天皇) の行啓ある御車にさぶらはせたまひて、 ひとみち、 「公 成思し召せよ、思し召せよ」と、同じことを啓せさせ た ま ひ け る。 「 あ は れ な る も の か ら、 を か し く な む あ りし」とこそ、宮仰せられけれ。重木が姪の女の、中 務の乳母のもとにはべるが、まうできて語り侍りしな り。 公季は孫の公成を可愛がり、宮中へ向かう際は車の後ろ に乗せなければ参内せず、退出の際もわざわざ弓場殿の所 で待っている程だった。無量寿院の金堂供養の際、東宮敦 良親王(後朱雀天皇)の車に陪乗してその道で公成を目に か け る よ う 頼 み 込 ん で い る。 古 記 録 の 中 に も「 候 二 御 車 一 」 や 「車尻」 という表記はいずれの日記にも複数回見られる。 言葉の上では実際同じ車に乗っているのか明白ではないた め 京 樂 氏 は 検 証 か ら 除 外 し て い る。 し か し、 『 大 鏡 』 で は 状 況 か ら「 御 車 の し り 」 も「 御 車 に さ ぶ ら は せ た ま ひ て 」 のいずれも同車を行っているものと推測される。寛弘元年 十 一 月 二 十 三 日・ 寛 弘 四 年 十 一 月 二 十 二 日 の 記 事 の 中 で、 公 季 が 孫 と 道 長 を 同 車 さ せ る 理 由 と し て は、 『 大 鏡 』 の 公 季と東宮敦良親王の同車のように、いささか度が過ぎるの か敦良親王も困っているようだが、孫の行く末を案じた行 動ではないだろうか。 『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 元 年 三 月 二 十 八 日 の 記 事 に は、 道 長
が 花 山 院 の 車 に 召 さ れ て「 候 二 御 車 一 」 す る と い う 記 述 が ある。 ◦『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)三月二十八日壬 子条 ( 藤 原 ) 惟 風 朝 臣 、「 御 馬 四 疋 可 レ 奉 レ内 如 何 」 令 レ申 。 早 仰 二 可 レ 進 由 一 。 即 惟 風 随 身 来、 有 二 令 レ 見 事 一 。 家 馬 四 疋 奉 。 従 二華 山 院 一、 右 近 中 将 公 信 朝 臣 来 云 、「 仰 事 、『 可 二 花 御 覧 参 一 』」 者。 只 今 申 二 参 由 一 。 即 参 入。 従 レ 兼 有 二 此聞 一 。仍非 レ 無 二 其意用 一 。 召 二 余 車 一 御。 即 候 二 御 車 一 。 覧 二 白 河 殿 一 。 後 従 二 山 辺 一 御 二御馬 一 。 御 二 観音院勝算房 一 。 余所 レ 儲御前物并破子、 於 二彼 房 一供 。 仰 二左 衛 門 督 ( 藤 原 公 任 ) 一、 令 レ〔 献 脱 ヵ 〕 二 和歌題二首料 一 。 帰 レ 院給後、 奉 レ 歌。 有 二 御製 一 。 賜 レ 之。 後 退 出 間 、賜 二 御 馬 一 。 依 レ 乗 二 車 後 一 無 拝 。 即 参 二 入 内 一 。 未 二 御 出 一 前。 有 レ 共 二 両 頭 一 。( 源 ) 済 政 朝 臣・ ( 藤 原 ) 経通・雅通・ (藤原)忠経等、被 レ 聴 二 昇殿 一 。 道 長 は 花 山 院 の 車 に 召 さ れ て 白 河 殿 で 花 見 を 行 っ て い る。 これも状況から同車という明確な表記ではないものの、 同車を行っているものと推測することができるだろう。他 に も 花 山 院 の 命 に 依 り、 「 候 二 御 車 一 」 す る 例 が 同 年 の 記 事 に見える。 ◦『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)五月二十七日庚 戌条 天陰。従 二華山院 一 、以 二 中清朝臣 一 、「可 レ 奉 二 御車 一 」 者、 即 参 入。 巳 時 渡 御。 従 二 馬 場 末 門 一 御 入、 従 二 埒 門 一 寄 二 御車 一 。(中略) 御車出給間、 終日天陰風吹、 時々細雨下、 従 二 還 御 間 一 雨 下 、 深 雨 。 侯 二 御 車 一 如 レ 朝 。 就 レ 院 後 賜 二 飾釼・有文丸鞆帯 一 。(後略) ここでは土御門第に花山院が来る際に、わざわざ道長を 呼んだ上で同車を行い渡御している。また、帰りも同じよ うに道長が車に伺候しているのである。 同 様 に『 権 記 』 に お い て も「 候 二 御 車 一 」 と い う 表 記 が 同車であると考えられる事例が存在する。 ◦『権記』寛弘八年(一〇一一)十二月十一日庚戌条 自 二 世 尊 寺 一 参 二 枇 杷 殿 一 、 詣 二 左 府 一 。 不 レ 坐。 帰 レ 宅。 参 二 冷泉院 一 。 明日御卌九日満。 然而今日被 レ 行 二 雑事 一 。 内府・藤大納言(藤原道綱) ・源中納言(源俊賢) ・右 金吾 (藤原懐平) 〈已上別当。 〉・ 右宰相中将 (藤原兼隆)
等 、 被 二 参 会 一 。 移 二 御 堂 於 西 対 一 。 御 周 関 之 間 、 可 レ 被 レ 行 二 念 仏 一 也 。 夕 方 左 大 臣 出 給 。 候 二 御 車 一 。 申 二 雑 事 一。 被 レ 参 二枇 杷 殿 一 。 被 レ 示 二 自 レ 是 罷 出 之 由 一 。 然 而 依 レ 有 二 可 レ 申 之 事 一 、 与 二 左 三 位 中 将 一 同 車 参 レ 殿。 奉 乙 明 法 博 士 等 請 下 准 二 得 業 生 一 課 中 試 中 原 成 通 上 状 文 并 千 光 寺 別 当 権 律 師 教 静 申 三 請 公 助 補 二 阿 闍 梨 和 遠 死 去 替 一 文 甲 。 並 可 レ 被 レ 奉 也。 帰 レ 寺 路 召 二 茂 信 一 、 仰 下 明 法 挙 奉 二 左 府 一 了由 上 。 冷 泉 院 か ら 道 長 が 退 出 す る 際、 「 候 二 御 車 一 」 と い う 行 為 を行った行成は、道長に雑事を申している。ここでは、行 成が職務の一環として道長の傍近くに侍る必要があったの だろう。牛車という空間を、密室として職務の中で使用し て い る 例 で あ る。 「 候 二 御 車 一 」 を し、 近 く で 話 を す る と い う行為は、同車をしていると考えるのが自然だろう。 先述の『大鏡』の無量寿院の金堂供養は『小右記』に同 日の記事があり、その詳細を伺うことができる。 ◦『小右記』治安二年(一〇二二)七月十四日壬午条 ( 前 略 ) 依 可 レ 候 二太 弟 ( 敦 良 親 王 ) 入 御 一 也 。 即 太 弟 御 車〈糸毛〉 。到 二 西大門 一 。太相府 (藤原公季) 候 二 御車 一 。 関白(藤原頼通) ・ 下官(藤原実資) ・ 内府(藤原教通) ・ 諸 卿 迎 レ 候 二 太 相 府 一 。 余 為 レ 傅。 然 而 依 レ 兼 二 大 将 一 供 二 奉行幸 一 。(後略) この『小右記』の治安二年の記事によれば、実資は東宮 傅であるが、大将を兼ねているので行幸に供奉し、太政大 臣 の 公 季 が 敦 良 親 王 の「 候 二 御 車 一 」 を し た と い う こ と で ある。車に伺候するという行為は、先述の通り同車を行っ て い る も の と 思 わ れ る。 こ の『 小 右 記 』 に 現 れ る「 候 二 御 車 一 」 と い う 行 為 に お い て、 実 資 は 東 宮 敦 良 親 王 と は 外 戚 関係にはなく、東宮傅という関係性しか存在しない。明確 にどのようなものかは分からないが、皇族が車によって移 動する際、それに関連する役職の者が同車するという明文 化されていない「同車の慣例」が存在するのではないだろ うか。 第三節 敦康親王をめぐる同車 藤原伊周・隆家兄弟の失脚に関わり、皇后定子を冷遇し た道長であったが、娘の彰子が敦成親王(後一条天皇)を 寛弘五年(一〇〇八)九月十一日に出産するまで敦康親王
は父兼家の血を引く一条天皇唯一の皇子であった。長保二 年(一〇〇〇)十二月十六日に定子が没して後、藤原公季 の 娘 義 子 や 藤 原 顕 光 の 娘 元 子 も 一 条 天 皇 に 入 内 し て お り、 何時敦康親王以外に有力な後ろ盾を持つ皇子が誕生しても 不思議ではなかった。また、皇太子である三条天皇とは血 縁的にも近しい間柄でなく、また藤原斉時の娘 娍 子が三条 天 皇 の 皇 子 を 三 人 出 産 し て い る。 実 際 に 寛 弘 初 年 段 階 で は、彰子が皇子を出産するかどうかもわからない。一条天 皇の皇后所生の敦康が即位しなければ、一代限りの権力と な っ て し ま う の で あ る。 道 長 は 左 大 臣 の 位 に は あ っ た が、 そ の 基 盤 は 敦 成 親 王 が 誕 生 す る ま で 非 常 に 脆 弱 な も の で あった。そのため、道長は敦康親王との関係性を彰子が皇 子を出産するまで手放すことができなかった。実際寛弘四 年(一〇〇七)には金峯山に詣でて自ら経筒を埋めて、彰 子からの皇子誕生を祈願している ( 55)。 一条天皇は定子が没した約三か月後には、敦康親王の家 司を定める際に、近臣であり信のおける藤原行成を別当に 任 じ て い る ( 56)。 行 成 が 官 歴 の 中 で 皇 族 の 家 政 機 関 に 職 を 得ていたのは、東三条院詮子とこの敦康親王、そして円融 天皇皇后遵子の三家である。詮子に関しては、道長に付随 するもので、 遵子は第二章第二節において先述したように、 その弟藤原公任との関わりによるものであり、こちらも同 車による関係性の構築の一端を見出すことができる。 長保三年(一〇〇一)八月三日、敦康親王が中宮彰子の 上御廬に初めて渡る。以後彰子は定子にかわり敦康親王の 母親役となったのである。これに関しては、行成も一条天 皇に漢の明帝の妃に子がいないので別腹の皇子を養育させ た と い う 故 事 を 引 い て 進 言 し て い る ( 57)。 故 事 で は 妃 と 皇 子の関係は皇子後の即位後も変わらず、彰子に皇子が産ま れなかった場合道長も同様の形を望んでいたのだろう。 敦 康 親 王 に と っ て、 親 王 家 の 別 当 で あ る 行 成 や 養 母 と なった彰子以外に、庇護し、庇護される関係にあったのは おじである伊周・隆家の兄弟であろう。長徳の変や定子死 後、長保から寛弘初年にかけて政界に二人が復帰している のは、即位の可能性が最も高い敦康親王の、もっとも近し い血縁であるからである。行成は、そのうち隆家と三例の 同車例があるが、伊周との同車例は見受けられない。伊周 と同車を行っていない理由は分からないが、敦康親王を養
育する体制が、実の母方という面からも強固になっていく のではないだろうか。 隆家と行成の同車はいずれも、長保から寛弘初年にかけ てである。長保五年の同車では隆家と同車して件の敦康親 王 の 所 に 参 っ て い る ( 58)。 こ こ で 会 っ た と さ れ る 少 納 言 命 婦について詳細は不明だが、女房の名前がわざわざ上げら れているということは、 敦康親王に近しい人間なのだろう。 寛弘元年四月十七日の同車では、賀茂祭の御禊を隆家と 同 車 し 行 っ て い る ( 59)。 八 月 二 十 八 日 の 同 車 で は、 土 御 門 第に御修法のため敦康親王が出るにあたって、隆家と同車 しこれを送っている。その後内裏に戻って一条天皇の物忌 により籠っているためおそらくこの際も同車を行っている だ ろ う ( 60)。 三 例 と 全 体 か ら 見 れ ば 希 な 同 車 例 で あ る が、 うち二例が敦康親王と関わる同車であることは留意すべき だろう。敦康親王に関連した同車は、道長・行成間でも行 われている。 長保四年(一〇〇二)三月九日敦康親王の上巳祓が行わ れる。これに行成は、頭中将である源経房と同車し供奉し て い た。 中 御 門 大 路 の 東 の 末 の 鴨 川 に て 上 巳 祓 が 終 わ り、 その帰路道長が行成の車に乗り込むことで同車を行ってい る ( 61)。 長保五年(一〇〇三年)三月三日、道長が敦康親王と同 車 し て 鴨 川 で の 祓 に 向 か っ て い る。 敦 康 親 王 の お じ 兼 隆・ 隆家と別当行成という敦康親王の関係者達は後ろの車で同 車を行っているものと見られる ( 62)。 五年後の寛弘四年にも、同じく敦康親王が鴨川の河原で 禊 を 行 っ た 際、 行 成 と 道 長 の 同 車 が 行 わ れ て い る ( 63)。 い ずれも、敦康親王と道長の関係性に行成という媒介が存在 していることが見て取れる。道長は敦康親王の外祖父とし て公の場で繋がりを求め、またそれを周知する目的があっ たのだろう。 本章第一節で述べたように、道長の同車例は三七例と他 の二者に比べ極端に少なく、同車は日常の行為ではないも のと推測される。それゆえ、同車には何らかの意思や意味 があって行われていると見ることができる。道長が敦康親 王への奉仕の体制を取る中で、この妻倫子の位置づけは意 図的なものであるだろう。 寛弘元年(一〇〇四)正月十七日には、 敦康親王が内裏、
特に彰子の御座所である藤壺に来た際、そこに道長の妻倫 子 も 同 じ く 参 っ て い る ( 64)。 倫 子 は 彰 子 の 生 母 で あ り、 彰 子が敦康親王を養育しているということは外祖母の関係に なるのである。その外祖母が人の目がある公の場にいると いうことは、全くの無意味ではないだろう。敦康親王が即 位したあかつきには、倫子は義理とはいえ天皇の祖母であ るという立場になるのである。 ま た 、 同 じ 年 に も 敦 康 親 王 に 関 連 し た 御 修 法 ( 65) や 祓 ( 66) の際にも倫子の姿が見られる。先述した通り道長の同車の 特徴の一つが妻倫子との同車である。他者には見られない この妻の同車や、外祖母と敦康親王との関係を多重に重ね 合わせ、道長が同車を権力の展観に利用している可能性が ある。四月二十日においても、直接的に同車という記述で はないが、賀茂祭のこの日敦康親王は倫子と同車し見物し ていることが伺える。桟敷が容易されているようだが、わ ざわざ倫子との賀茂祭という大勢の人の目がある機会に同 車 を 行 っ て い る ( 67)。 年 齢 か ら 鑑 み る に、 敦 康 親 王 本 人 の 意思ではなく、道長等の意向によるものと考えるのが自然 だろう。十月二十一日には平野と北野への一条天皇の行幸 を敦康親王が見物しているが、朔平門のあたりに停めた倫 子 の 車 に 同 車 す る 形 で 行 わ れ て い る ( 68)。 い ず れ も 敦 康 親 王は長保元年(九九九)の産まれであり、数えで三歳の頃 の出来事である。孫を祖母が抱いており、その祖母は道長 の妻である。一条天皇の第一皇子という即位の可能性が最 も高い皇子は道長の掌中にあるということを外部に知らし める役割を担っていたのではないだろうか。 敦康親王に関連した事柄で、道長と倫子が同車を行う例 も見受けられる。敦康親王が石山寺に参詣する際、道長が 内裏から土御門第に向かった車か、土御門第から石山寺に 向 か う 際 の 車 か、 ま た ど の 車 に 乗 っ た の か 明 確 で は な い。 しかし、倫子のための奉仕役の姿や倫子が阿闍梨や別当僧 都 へ 下 賜 を 行 っ た こ と も こ の 後 数 日 に 渡 っ て 記 述 が あ り、 倫子が石山寺に詣でている孫の敦康親王の周辺にいたもの であろうということは推測することができる ( 69)。 このように、道長が敦康親王との関係性の構築や親近感 の演出に車を使う際、倫子というもう一つの外祖母との繋 がりを利用しているのではないかと思う。これが、倫子の 中の純粋に孫を思う祖母としての行動なのか、そうではな
いのかは明確ではない。 しかし、 彰子が寛弘五年 (一〇〇八) に敦成親王を出産後、敦康親王は倫子が関連した記事から はめっきり用済みと言うかのように姿を消す。特に、二人 が同車を行ったという記述は見られない。 寛弘八年(一〇一一)十二月十七日、倫子と道長は同車 し娘である中宮彰子を訪ねている。その後道長は後朔平門 の外で車を降り、牛に車を曳かせずそこから歩いて参入し て い る ( 70)。 そ の 後 敦 康 親 王 を 訪 ね て い る が、 倫 子 が 徒 歩 で参入するということは考えにくく、外祖母と孫の対面は 行われていないようである。 寛弘八年に一条天皇は崩御する。一条天皇も内心では皇 太 子 に は 敦 康 親 王 を 希 望 し て い た が、 行 成 の 説 得 に よ り 敦 成 親 王 を 皇 太 子 と す る こ と を 承 諾 し た ( 71)。 中 宮 彰 子 も 自 ら が 産 み 、 父 道 長 が 望 む 第 二 皇 子 敦 成 親 王 で は な く 、 定 子 所 生 の 第 一 皇 子 敦 康 親 王 を 皇 太 子 に と 推 挙 し て い た と さ れ ( 72)、 敦 成 親 王 が 皇 太 子 に 決 定 し た 際 は「 后 宮 奉 二 丞 相 怨 一 給 」 と 道 長 に 大 変 な 憤 り を 感 じ て い た と い う ( 73)。 倫 子 と 敦 康 親王の関係は敦成親王誕生までの表向きのものであったの だろう。しかし、幼い頃から手元で養育していた彰子は異 なり、立太子を巡る動きの中でも敦康親王を親身に気にか けていたことが推測される。 実資や行成にとって同車という行為は、頻度も多く、移 動手段としての牛車の役割に加えて、小野宮流の伝達や職 務等必要があって行われる日常の中のものであった。しか し、道長の同車は、実資や行成のものと比べ格段に数が少 ないことから、権力者として非日常の行為であったことが 伺える。従って、道長本人の作為的な行為であると感じら れる。牛車という場所と同車が、道長にとっては単なる移 動手段ではなく、立場や親密さ等を内外に広く知らしめる 場合に使用する、道具の一つとして存在していたのではな いだろうか。 終章 「動く密室」と「開かれた密室」 牛車という乗り物は平安京の中で単なる移動手段として 使 わ れ て い た わ け で は な く、 建 物 の 内 部 空 間 か ら 密 室 を 失った摂関期の貴族社会において、唯一と言っていい ほ ど の密室であった。動くという特性上、そこに乗り込んだ人 物 の 関 係 性 は そ の ま ま 次 の 場 所 へ と 運 ば れ て ゆ く。 ま た、
乗り込んだ人物を内外に誇示することにより、様々な状況 において自らの思惑をもってして一つの道具のように利用 することも可能であった。 『 小 右 記 』 や『 権 記 』、 『 御 堂 関 白 記 』 と い っ た 同 時 代 に 書かれた古記録の上に多く、 「参 レ 内」 や 「参 レ 院」 や 「詣 二 左 府 一 」 と い っ た 表 記 が 見 ら れ る。 そ の 多 く は 単 独 で 行 わ れた日常必要である移動という行為であり、その場合特筆 はされていない。しかし移動という行為は、複数の人間が 関 わ る こ と で「 同 車 」「 同 乗 」「 同 載 」「 侯 二 御 車 一 」 と い う 表記によって登場する。複数の人物が乗った瞬間、牛車が 単なる移動手段から、別の意味を持った道具へと変化して いるのである。また、記主の立場や状況によって三者三様 に同車という行為はその意味が大きく変化することは当然 であるだろう。 また先述した同車に関連した表記揺れに関しては、古記 録だけでは分からなかったものが、文学作品を重ね合わせ ることで、 どのような行為なのか明確に分かるものである。 実 資 の 同 車 は、 養 子 の 資 平 と 行 う こ と が 大 半 で あ っ た。 それ故、職務の上で必要があって同車という行為が行われ るだけではなく、資平を後見するためであるという意味合 いや、小野宮流の有職故事や儀礼の伝達の場として使用し ていた。実資にとって、牛車は家の中のために使用する道 具であったと言えるだろう。 行成のとりまく家族環境などから、同車からは、後見し 後見されるという関係性が見出しにくい。従って、行成の 同車という行為には、実資との違いが見られる。儀礼等の 伝達のために使用するということは、 肉親を早くに亡くし、 成人した子供もいなかった状況から不可能である。そのた め蔵人頭や弁官、皇太后権大夫といった行成が任じられて いる職務や、道長側近としての情報伝達や政務を円滑に行 うための交渉の場として活用していた。つまり行成にとっ ては、牛車を仕事道具の一つという意味で使用し、利用し ており、それが同車という行為に現れていたのだと考える ことができる。また、出産といった家族にまつわる私的な 出来事では、自ら僧を同じ車に伴って連れて来ている。こ れも同様に、行成が自らの意思で牛車を活用していたとい うことを示しているだろう。 そして摂関期最大の権力者である道長の同車は、まさし
く 日 常 の 行 為 と は 離 れ た 非 日 常 の 行 為 そ の も の で あ っ た。 もちろん、実資のように子の頼通や娘と同車を行う例も見 受けられる。頼通と道長の間においても、実資と資平のよ うに儀礼や政務の伝達等が行われたのだろう。しかしなに より、敦康親王と道長の間に牛車が介在することで関係性 を誇示し、また敦康親王を取り巻く人物と繋がりを築くた め に 牛 車 を 使 用 し て 外 戚 関 係 の 強 化 を し て い た と い う 点 は、他に類を見ない道長の同車の特徴であるだろう。 摂関期の貴族達は、唯一の密室である牛車を、単なる移 動手段の道具としてではなく、そこに別の意味合いを持た せ、 極 め て 政 治 的 な 道 具 と し て 使 用 す る こ と を 意 図 的 に 行っており、またそれが可能であった。時に密室として談 義を行うということも、 重要な役割であっただろう。また、 同時に本来であれば密室であり見えない筈の車内を、あえ て 開 か れ た 密 室 と し て 使 用 し、 誰 と 誰 が 乗 っ て い る の か、 またどこへ向かうのかを外部に知らしめることで、自分の 思惑に応じた外戚や政治上の関係性を誇示することもでき た。上級貴族の同車について、明確な規範がない以上、牛 車という空間は、そこを使用する人間により柔軟に活用す ることのできる、便利な道具であったといえるだろう。貴 族達はその特性を理解しており、各々が持っている手駒の 一つに数えていたのではないだろうか。 注釈 ( 1 ) 川 本 重 雄「 寝 殿 造 の 成 立 と そ の 展 開 」 倉 田 実 編『 平 安 文 学 と隣接諸学 1 王朝文学と建築 ・ 庭園』竹林舎、 二〇〇七年。 ( 2 ) 平 山 育 男「 寝 殿 造 の 内 部 空 間 」 倉 田 実 編『 平 安 文 学 と 隣 接 諸学 1 王朝文学と建築・庭園』竹林舎、二〇〇七年。 ( 3 )『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月十八日辛酉条。 ( 4 )『尊卑分脈』伊尹公孫。 ( 5 )『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月十六日己未条。 ( 6 )『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月十九日壬戌条。 ( 7 )『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月二十日癸亥条。 ( 8 )『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月二十二日乙丑条。 ( 9 )『権記』長保三年(一〇〇一)正月七日己卯条。 ( 10)『権記』長保四年(一〇〇二)二月三日己巳条。 ( 11)『小右記』寛弘二年(一〇〇五)三月八日丙辰条。 ( 12)『小右記』寛弘二年(一〇〇五)三月九日丁巳条。 ( 13) 京 樂 真 帆 子「 平 安 京 の「 か た ち 」」 同『 平 安 京 都 市 社 会 史 の
研究』塙書房、二〇〇八年、初出二〇〇二年。 ( 14) 京 樂 真 帆 子「 平 安 京 の「 か た ち 」」 ( 注( 13) 前 掲 )。 同 車 を 含 む 牛 車 全 般 を 論 じ た 著 書 と し て、 同『 牛 車 で 行 こ う! 平安貴族と乗り物文化』 (吉川弘文館、 二〇一七年) があるが、 以下の引用は断りのない限り注( 13)論文による。 ( 15) 長徳三年 (九九七) 五月十五日庚辰条、 寛弘二年 (一〇〇五) 正 月 二 日 辛 亥 条、 長 和 二 年( 一 〇 一 三 ) 二 月 十 六 日 戊 寅 条、 寛仁三年(一〇一九)七月二日丁巳条。 ( 16)「 同 乗 」 表 記 は『 権 記 』『 御 堂 関 白 記 』 に は 見 ら れ ず、 実 資 の孫藤原資房の『春記』に十一例見られる。 ( 17) 京 樂 真 帆 子『 牛 車 で 行 こ う! 平 安 貴 族 と 乗 り 物 文 化 』( 注 ( 14)前掲)二二頁。 ( 18)『小右記』長和二年(一〇一三)三月二十日辛亥条。 ( 19)師明親王の元服は長和四年(一〇一五) 。 ( 20)禔子内親王の裳着は寛仁三年(一〇一九) 。 ( 21)『権記』寛弘六年(一〇〇九)十月四日乙酉条。 ( 22)『御堂関白記』長保元年(九九九)九月十二日辛卯条。 ( 23)『権記』長保元年(九九九)九月十二日条。 ( 24) 京 樂 真 帆 子「 平 安 京 の「 か た ち 」」 ( 注( 13) 前 掲 )。 同『 牛 車 で 行 こ う! 平 安 貴 族 と 乗 り 物 文 化 』( 注( 14) 前 掲 ) 一二九頁にも同様の指摘がある。 ( 25) 相 曽 貴 志「 政 事 要 略 に み え る 式 ― 糺 弾 雑 事 を 中 心 に 」『 書 陵 部紀要』四六号、一九九四年。 ( 26)『 政 事 要 略 』 巻 六 十 七 糺 弾 雑 事 長 保 二 年 六 月 五 日 右 弁 官 下 文 および問答。 ( 27) 倉 本 一 宏「 彰 子 立 后 を め ぐ っ て 」 同『 摂 関 政 治 と 王 朝 貴 族 』 吉川弘文館、二〇〇〇年。 ( 28)黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』吉川弘文館、一九九四年。 ( 29)倉本一宏「彰子立后をめぐって」 (注( 27)前掲) 。 ( 30)『小右記』長保元年(九九九)十月二十八日丁丑条。 ( 31)関口力 「小右記」 山中裕編 『古記録と日記 上巻』 思文閣出版、 一九九二年。 ( 32)『蔵人補任』 『公卿補任』 。 ( 33)『小右記』天元五年(九八二)三月十一日癸卯条。 ( 34)『小右記』永延二年(九八八)十二月十七日庚午条。 ( 35)黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』 (注( 28)前掲) 。 ( 36)『権記』長徳四年(九九八)十二月十五日条。 ( 37)『権記』長保二年(一〇〇〇)四月六日癸丑条。 ( 38)『 権 記 』 長 保 二 年( 一 〇 〇 〇 ) 八 月 二 十 八 日 壬 申 条、 『 権 記 』 長 保 二 年( 一 〇 〇 〇 ) 十 月 十 七 日 庚 申 条、 『 権 記 』 長 保 三 年
(一〇〇一)四月十四日乙卯条など。 ( 39)『権記』長保五年(一〇〇三)八月十日丁卯条。 ( 40)『権記』寛弘四年(一〇〇七)二月二十八日乙未条。 ( 41)『権記』寛弘四年(一〇〇七)二月三十日丁酉条。 ( 42)『権記』寛弘四年(一〇〇七)四月二十八日甲午条。 ( 43)『権記』寛弘八年(一〇一一)十二月十五日甲寅条。 ( 44)京樂真帆子「平安京の「かたち」 」(注( 13)前掲) 。 ( 45)『権記』長徳四年(九九八)十二月三日条 ( 46)『権記』寛弘五年(一〇〇八)九月二十五日壬午条。 ( 47) 山 中 裕「 御 堂 関 白 記 」 同 編『 古 記 録 と 日 記 上 巻 』( 注 ( 31)前掲) 。 ( 48)『御堂関白記』長保二年(一〇〇〇)四月十五日壬戌条。 ( 49)『御堂関白記』 寛仁二年 (一〇一八) 十一月二十七日乙酉条。 ( 50)『御堂関白記』寛仁二年(一〇一八)三月二十四日丁巳条。 ( 51)『御堂関白記』長和五年(一〇一六)七月十一日癸丑条。 ( 52)『御堂関白記』長和元年(一〇一二)十月二十日甲寅条。 ( 53)『 御 堂 関 白 記 』 寛 仁 二 年 ( 一 〇 一 八 ) 七 月 二 十 六 日 丙 戌 条 。 ( 54)『公卿補任』万寿三年条。 ( 55)『御堂関白記』寛弘四年(一〇〇七)八月十一日庚申条。 ( 56)『権記』長保三年(一〇〇一)二月二十八日庚午条。 ( 57)『権記』長保三年(一〇〇一)八月三日壬寅条。 ( 58)『権記』長保五年(一〇〇三)九月三日庚寅条。 ( 59)『権記』寛弘元年(一〇〇四)四月十七日庚午条。 ( 60)『権記』寛弘元年(一〇〇四)八月二十八日庚辰条。 ( 61)『権記』長保四年(一〇〇二)三月九日乙巳条。 ( 62)『権記』長保五年(一〇〇三年)三月三日癸巳条。 ( 63)『権記』寛弘四年(一〇〇七)十月二十三日丙辰条。 ( 64)『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)正月十七日壬寅条。 ( 65)『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 元 年 ( 一 〇 〇 四 ) 八 月 二 十 八 日 庚 辰 条 。 ( 66)『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 元 年 ( 一 〇 〇 四 ) 九 月 二 十 二 日 癸 卯 条 。 ( 67)『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)四月二十日癸酉条。 ( 68)『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 元 年 ( 一 〇 〇 四 ) 十 月 二 十 一 日 辛 丑 条 。 ( 69)『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 二 年 ( 一 〇 〇 五 ) 十 月 二 十 五 日 庚 子 条 。 ( 70)『権記』寛弘八年(一〇一一)十二月十七日丙辰条。 ( 71)『権記』寛弘八年(一〇一一)五月二十七日庚子条。 ( 72)『栄花物語』巻第九いはかげ。 ( 73)『権記』寛弘八年(一〇一一)五月二十七日庚子条。