椙山女学園大学
<論文>看護ケアにおける「気づき」の語りの分析 :
看護師Sさんのライフストーリーから
著者
塚田 守
雑誌名
言語と表現―研究論集―
号
12
ページ
5-37
発行年
2015
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00002110/
漏
困
看護ケアにおける﹁気づき﹂の語りの分析
│看護師
S
さんのライフストーリーから│
塚
田
炉 よ ->Jは
じ
め
に
5 ﹁人生の最期にどのような看護師に出会えるかで、その人の生き てきた人生の意味が左右される﹂と 言 う人もいる 。 人生の最期に、 人は 一 人で死と向かい合い、自分が生きてきた人生の意味について 考えざるを得ない 。 その時に、人を支えることができるのは家族で あると一般的に 言 われている 。 家族に見守られて人生の最期を迎え ることが理想でもあるかもしれない 。 しかし、実際には、家族は変 わり果てた大切な人の姿を受け入れることに戸惑い、自らの不安を 払しよくするために、ァl
サ1
・フランク( 二O
O
二 年)の 言 う﹁回 復の語り﹂をその大切な人に語り続け、絶望の淵に追い込むかもし れない 。 ターミナル期の人は回復できないことを自覚し、最期の別 れ を 言 いたくても、また、今まで心の奥の底に秘めていたことを生 きている聞に話したいと思っても、家族を傷つけまいと何も 言 わず に沈黙する 。 一 言 いたいけれど、家族だから 言 えないこともある 。 意 識レベルが低くなりつつある日々の中で、最後まで秘めていたこと を話したいと思った時、もっとも近くにいる看護師がその話を聞い てくれる 。 本稿で描写する 一 人の看護師S
さんは、最期を迎える人に深く関 わりその人が語ることができなかったことを聞ける人物である 。 他 の看護師には必ずしもできることではないのに、なぜS
さんはその ように話を聞き、人生の最期を迎える人に、癒しゃ救いを与えるこ とができるのかを考察する 。 本稿は、そのような看護師S
さんがどのようにして、今のような 看護師になったかを彼女自身の﹁語り﹂に基づいて 、S
さんのライ フストーリーを描写することを通して、S
さんが看護師として経験 した ﹁ 気づき﹂について分析することで、S
さんの個人的体験か ら私たちは何を学ぶことができるかを考察することを目的としてい る 。 本 稿 は ま ず 、S
さんが今のような看護師になった﹁原体験﹂と しての父親の死についての語りを描写する 。 次に、彼女が看護学校 に進学し看護師になり、さまざまな看護ケアの実践をしていく成長 のプロセスを書いている 。 そして、最後に、現在の彼女が看護師と してどのような態度で看護ケアを実践しているかについて描写して い る 。 本稿のまとめ方の基本方針を記しておく 。 ま ず 、S
さんの語りを 全面 的に引用する形で、彼女 自身が語る﹁ 物語世界 ﹂を忠実に描写 する 。 その語られた﹁物語世界﹂について、筆者が、思い付く限り 解釈し、彼女の﹁物語世界 ﹂ の特徴について整理する 。 こ の 整理す る作業は、彼女の語りを単に再構築するだけではなく、S
さんの看 護ケアについての﹁気づき﹂に焦点を当て、﹁看護ケアの実践﹂や﹁人間の成長﹂に関する普遍的なテ l マに関連できれば、本稿の目的が 達成された ことにな る 。 分析の枠組みとインタビュー調査について 本研究の基本的枠組みとしては、語りを聞き取ることにより﹁生 きられた経験﹂を分析し、 一 人の看護師の成長と変化を﹁気づき ﹂ としてとらえることである 。 柳田 等(二
O
一 一年)が編集した ﹃ そ の看護を変える気づき│学びつづけるナ l スたち﹄で議論されてい る ナ l スによるさまざまな﹁気づき﹂があるが、そのような﹁気づ き﹂について、柳田等が行った反省的に書かれた看護ケアの体験に ついてのエッセイの分析とは異なり、一人の看護師のライフストー リ ー ・ インタビュ ー という方法で聞きとり、分析する方法をとって い る 。 ﹁ 書 かれたもの﹂と﹁語られたもの ﹂ の聞には、内容的に異 なる場合がある 。 インタビ ュ ーで聞き取られた語りは、自分史で 書 かれた以上のことが表現され、生き生きとした描写が得られる(塚 二O
O
九年 二 二 五l
四 一 頁 ) 。 インタビューで聞き取られた語 田 りは、過去をぼんやり思い起こすことと違って、インタビューで聞 き手に過去の自分の体験を語るもので、経験として物語化を試みる 。 その結果、その生活史的な体験を蓄積しながら回顧し、語るという 言 語行為の繰り返しによって経験になる 。 その経験は常に書き換え られ、未来に聞かれているだけでなく、物語として他者に伝えるこ とができる資源であり、それを経験した人にとって重要な意味を持 二O
二 三 年一一七 二O
頁 ) 。 そのような意味ある体験 つ ( 桜 井 をした語り、﹁決定的瞬間﹂を語った大学教授は、その体験を語る こ と で 、 意 味ある経験として自らの 生きる基本としているようであ る(塚田 二O
一O
年 ) 。 ま た 、 看護師だった佐々木(佐々 木他 一 九九六年)もまた、看護師中心の看護ケアではなく、患者の心に 寄り添うことの重要性を体験したと語ることによって、彼女の看護 ケアの基本を学んだ意味ある経験とした 。 意味ある経験として語ら れた物語は、その人の基本的な考え方を生成する経験として、今も その人物に影響する経験である 。 その意味では、意味ある経験とし て語られたS
さんの ﹁気づき﹂は単なる過去の体験ではなく、看護 師としての今のS
さんの看護ケアの基本として生き続ける経験なの である 。 本研究は、そのような意味ある経験としての ﹁ 気づき﹂を 描写することによって、看護師S
さんの成長について分析しようと している 。S
さんへのインタビュ ー は 、 二O
一O
年 一O
月 二 四日午後三時か ら四時間ほど非構造 的インタビ ュ ー 形式で行った 。 筆者の質問は、 一 、看護師になるまでの体験、 二 、看護師になってからの体験、そ して、三、看護師として働いている ﹁ 今のあなた ﹂ について教えて くださいの三点だけであった 。 基本 的 に は 、S
さんが自由に 話して くれたことに相槌を打ちながら、話を聞いた 。S
さんのライフストー リ ー を聞き、彼女が語る﹁物語世界﹂をできるだけ描写することを 目的したが、ライフストーリー・インタビューはインタビュー対象 者とインタビュアの相互作用から生まれてくる﹁ストーリー領域﹂ の語りも描写している 。 ライフスト ー リ ー ・ インタビュ ー を行う時に、二人の間にある関係性がその内容に影響することがあるので、筆者と
S
さんとの関係 性について触れる 。 筆者は 、S
さんたち 看護師が毎月 一 回自主的に 聞いているセミナーに 二O
一O
年六月から参加している 。 そのセミ ナーは、現役の看護師が医療現場で直面した問題を﹁事例﹂として 発表し、そこの参加者たちにさまざまな意見やアドバイスを受け取 るという形式で行われている 。 他の 参 加 者たちもそれぞれの悩んだ 事例について話をし 、 看護ケアとは 何かについて、 参 加者 全員で多 面的に話を展開するものである 。 筆者は 、 看護の現場の体験が全く ない社会学者として、いのちに関わる看護の現場についてのさまざ まな語りに興味を持ち、看護師たちの体験を研究してみたいと思っ ていた 。S
さんは、六月と九月に二回発表を行った 。 そ の 二 回のテー マはターミナル期の患者についてのもので、S
さんの関わりに関す る事例報告だった 。 その報告を聞き、筆者は、なぜS
さんは事例報 告の時に語ったような看護ケアをする ようにな ったかを理解したい と思い、インタビューを行った 。 看護の現場について知らないので 、 ﹁ 無 知 の ア プ ロ ー チ﹂(野村ニOO
一 年)でインタビュ ー を行うこ とを基本とした 。 ま た 、S
さんと筆者との関係は、看護師と大学教 員というものに過ぎず、 利 害関係も権力関係もないものであった 。 よって、筆者がS
さんから、看護の現場について教えてもらうとい うことを前提に、S
さんがどのような体験をしてきたかを学ぶこと がインタビュ ー の目的で、その体験を理解した上で、看護師の語り を通して﹁看護の世界﹂を描写しようとした 。 以上、インタビューの方法としては、﹁無知のアプロ ー チ﹂で看 護 師のS
さんの体験をひたすら聞くという形式のものであった 。 7 第 一 節 亡 く な っ た 父 が 語 ら な か っ た 無 念 一 看 護 師 と し ての
S
さ
ん
の
﹁
原
体
験
﹂
一 一 一 一 歳の時に父親を肺がんで亡くしたという経験が、看護師に なったS
さんの﹁原点﹂になる体験として今もある 。 それは 、S
さ ん の ﹁ 生きられた体験﹂としての﹁物語世界﹂であるか 、 イ ン タ ビ ュ ー という相互作用から生まれた語り方としての﹁スト ーリー 領 域 ﹂ ( 桜 井 二OO
五年 ・ 四 三 │四 五頁)として、看護師になったS
さんが 今の視点から、彼女の信じる﹁看護のあり方﹂として語られている 場合があるであろう 。 どちらにせよ、父親が肺がんで二 二 歳の時に 亡くなった経験、そして、その時の医療関係者の態度についての S さんの記憶は、今の看護師としてのS
さんの﹁原体験﹂のように思 われる 。 私が 二 二 歳の時に父親が亡ったのですが、肺がんだって いうのは小学校六年生 。 父親が診断を受けてきた時から、 私はその場にいて話を聞いていたんですけど 、 ﹁ 初 期 が ん だから取ってしまえば治るがんだからよかった、よかつ た ﹂ っていう話を 聞いてたんです 。 それが六月ぐらいだっ たと思、つんですけど、手術したのは八月だったんですけ ど、どうも日に日に痩せていく 。 痛がっている 。 血を吐く 。 ﹁ え l ﹂っていうふうに子供ながらに思っていて 。 実は父親にも告知はしていなくって 。 開 け た ん で す け ど 、 がん細胞がかなり 心 臓に近い部分にあったので、取らずに8 ふさいだので 、 そのま ま た ぶ ん 、 さらに散らばって進行が 早 かったんだろうと思、つんですけど 。 父 親 に は ﹁ 取 れ な か っ た ﹂ってことは 告げら れず。ちょ っと私が 実は風邪を引 い たのが移ってしま っ て 、 そ れ で 九 月におじ い ち ゃ ん も熱を 出していて、家族 中 熱を 出 していたので、 よくならない自 分に葛藤しながら、父は﹁ちょっと病院に行くよ﹂ っ て 言 っ て 九月の中旬に 入院して 、また、何 回も入退 院を繰 り返し た んで、輸血をし たり とか化学療 法をした りだとか そうい う ことで、また 帰 っ て くる と思 ったんですが。母親が入院 先に行っていましたが 、母親方 の 祖母が 来 て くれていて 、 家を 留守番をし て い て く れ た の で 、 電話で ﹁ もう駄目か ﹂ っ て いう話を聞こ えてき て 。 ﹁ え っ 、 やっぱり 駄目な ん だ ﹂ つ て いうのを初め て知 っ て。もう行っ た時に はもう昏 睡状態 で 。 ま だ 、がんの告知が 行われない 三
O
年ほど前の時 代だ ったので 、S
さ んの父親 も告知さ れず、よ くなら ない自分に 葛藤し なが ら 、 ﹁ ち ょ っと病 院に行くよ﹂と 言 っ ているよ うに父親 は疑心 暗鬼のま ま入院していた 。 子供だ っ たS
さんも、日々 衰えて いく父親 に対し て、不安を持って生きていたと記憶している 。 がん専門病院が 県立 のところが あ っ て 、 高速に 乗っても 家 から二時間ぐ らいか かるようなとこ ろ で 、そこに 行 っ て た の ですけど、親戚 の おじさん、おば さ ん に連れ ら れ 、 夜 な夜な走り、病院に着いたのが夜中のO
時かそれぐらいで 、 そこから ず っ と 一 二 時間ぐら い 昏睡で 、最期の息を引き取 る ん です けど 。 その時になんかこう切なそうな涙を流して、 亡 くなって い っ たので 。 ﹁ いろいろ無念だ っ た ん だ ろ う な ﹂ とか﹁何か語り た いことがあったんじ ゃ な いかな﹂とか、 ず っ と最後の最後まで知らせずに 。 絶対わか つ てたと思う んですけど、﹁何も語れずにいっち ゃった﹂っ ていうか 。 でも、きっ と自 覚してたんだろうと思うのは、動くのも大 変な 状態なのに、私と弟を連れて毎晩毎晩八月はカブトム シを取り に連 れて行ってくれたり。火口を越えみたいなとこ カブトムシを本当に虫龍い っ ぱい真 っ 黒になる ぐらい 取りに行 っ てくれたり、竹ト ン ボを作って くれたり 、し んどいのに毎日お風呂に 一 路に入 っ たり だ と か、そうい うのも あ っ たので 、 ﹁ なんか語りたいけど語れ ろ に入って 行 っ て 、 なかったっていう思いはきっとあるんだろうな ﹂ っ て 。 父親はがん を告 知され ないままに最期を迎えたことについて、S
さんは 、 ﹁ い ろいろ 無念だ ったんだろう な ﹂ ﹁ 何 か語りたいことがあ っ たんじゃないかな﹂と言 っ て い る よ うに、父親 が ﹁なんか語りたい け ど 語れな か っ た っていう思いは きっとあるんだろ うな ﹂ と 想像す る 。 それを 、 父親の最期を思い出し、﹁切なそうな一課を流して、亡 くな っ て い っ た ﹂ と 語り、最期に 言 いたいことが ニ 一 一 口 え な い こ と の ﹁ 切 なさ ﹂について 言 っ ている 。S
さ んが看護実践で一番大切にしてい ることは 、 日 夜 期を迎えた患者か ら 、 語りを聞き 出 し、その人が人生を振り返り、意味ある人生を生きてきたことを受け入れることで、 最期を幸せに迎えてもらいたいということである 。 そのような看護 ケアの実践経験の﹁原点﹂にあったのがこの経験だった 、 と 一 言 、 つ べ きか 。 それとも、看護ケアの実践を通して、﹁ 言 いたいことを 言 え ずに﹂逝った父親の無念を 思 い 出 し、今の時点から再解釈したもの かもしれない 。 この語りに続き 、 父親が亡くなった日の看護師の態度についての 語りが展開された 。 9 その時に夜勤だった看護師さんが酸素を流して 。 今思え ば確かに酸素を流そうが点滴しようがしまいがそんなに関 係ないと思うんですけど 。 家族とか親族としたら酸素をつ なげてて 、 水が入ってるのも意味があって 、 水を入れて ﹁しゅぱしゅぱ﹂してるんだと思うんですけど、酸素の水 がなくなったので、 ナ l スコールを﹁ぴ﹂っと押して、﹁す いません、お水がありません﹂って言った時に、すごいめ んどくさそうな嫌そうな顔をしたんですよ 。言葉には 出 さ なかったけど 。 ﹁はい﹂って感じで 。 その時の対応がもの すごい悪印象で、﹁数時間で旅立つだろうに 、 そんな嫌そ うな顔をしなくても﹂っていう。﹁確かにそんなに過失の 意味はなかったんだろうな ﹂ っ て 、 この職についてわか っ たんですけど、 でも水がなかったですね 。 ﹁すぐ入れましょ うね﹂って言ってくれて動くのと、めんどくさそうにその 仕事をやるのとでは、その本人は口に出せないけれども、 そのそばにいる家族 、 遺族になる人たちはどんな思いにな るんだろう っ ていうのはすごく感じて 。まだその生き残つ て遺族になっている方はこうやって今話せますし、文句も 言 えますからいいんですけど、本人はどんな思いでいるん だろうっていうのに ﹁ や っ ぱり思いは話せないといけない な ﹂っていうのは 。 そういう、たぶん、人の思いつていう の は 。 そこがかなり ﹁ 原 点 ﹂ かなって思、つんですけど 。 子供の
S
さんの記憶に残っている看護師の態度は、﹁すごいめん どくさそうな嫌そうな顔﹂であった 。 今考えれば、酸素吸入に関わ る水入れを快くするか、﹁めんどくさそう﹂にするかでは、患者の 家族の心情には大きく異なると語る 。S
さんはこの出来事を看護師 として患者の家族へのあるべき態度を学んだ経験として位置付けて い る 。 そのような語りの中に、患者である父が言いたいことを言え ずに 亡 くなったという思いがあるので、﹁やっぱり思いは話せない といけないな﹂と、患者が最期に自分の言いたいことが 言 えないと 悔いが残ると考え、看護師としてのケアとして、患者の最期の語り を聞くことの大切さを強調している 。 看護師の態度への不満に続き、主治医への不満の語りがさらに展 関される 。 多分﹁(看護師になったのは)その時に看護師さん 、 ぉ 医者さんがこんなによくしてくれたから﹂っていう人もい るでしょうし 。 私はどっちかつて 言 、 っ と 、 途 中 経 過 は す ご一 三 歳の時に、大黒柱である父親を亡くし、経済的に困難だった 父を亡くす時のその看護師さん、 そして、﹁主治医の先生は学会に行っていないから当直の 先生がお看取りだからね﹂っていうふう話だったのに、帰っ ていく時に先生はゴルフパックを持って玄関にいたの 。 今 思 え ば 、 先生だって休暇は必要だし、肺がん専門の病院な ので主治医の先生がそうそう呼ばれてたら、そりゃあ身 がもたんと思うので、 いたしかたないと思うんですけど、 くよくしてくれたのに、 っていうのがあって 。 ﹁ 一 生 懸命そこまでやってきて、最後の最後に気を抜いてはいか っていうのは 、そこで 学んだ というか 。 ﹁ い る じ ゃ ん 、先生、そこに ﹂ ん この語りにあるように、 看護師 として働いてみれば、自分の父親 が最期を迎える時に看取るべき主治医が休暇を取り、ゴルフに行く 行為は理解できるが、﹁めんどくさそうな嫌な顔﹂をした看護師と 同じように、父親の最期の時に、心のこもった対応をしてくれなか っ たことでは同じであった 。 ここの語りは ﹁ 一 生 懸 命そこまでや っ て きて 、 最後の最後に気を抜いてはいかん﹂という看護師としてのケ アのあり方の態度についての決意を表明する語りになっている 。
第二節
看護学校での経験
看護専門学校で一バイトしながら、劣等生としてS
さ ん は 、 ﹁家族のため﹂﹁自分のため﹂に経済 的な理由で看護師に なるために、看護学校に進学した 。S
さんにとってみれば、奨学金 が支給され、授業料を病院が全部払ってくれたことで、どうにか学 校に通うことができたが、それでも、名古屋に通うことは経済的に 厳しかったので、学校から帰ったら毎日バイトする生活をしていた 。 学校が終わって帰つできたら、地元のガソリンスタンド でアルバイトをして 。= 一 時 半 ま で 学校。四 時ぐらいに 学校 を 出 て、家に着くのが二時間か 二 時間半かかるので、学校 から帰るのに 。 ですので 、五時半から六時半ぐらいまでに 入って、ラスト九時ぐらいまで毎日毎日 。ガソ リンス タ ン っ て 。 今はセルフですけど、 ド で 、 ﹁いらっしゃいませ﹂ ガソリンを入れたり、灯油を買 いにいらっしゃれば、ポリ缶 二 杯持って走ったり、そうい セルフではなかったので、 うようなことをしてました 。 ガソリンスタンドのバイトは 二年と半年してました 。二年半。家で食べる分は遺族年金 と母子家庭の御手当てと、おじいちゃんの国民年金三万円 ですか 。 その厳しいバイト生活そのものよりも、看護学校生活の 中 で 辛 い 経験をすることになる 。 ﹁ 回 全 口 ﹂ 出 身 のS
さんは、﹁都会 ﹂ の名古屋 の学校にいた﹁きらきらした﹂学生たちとうまく接することができ なかった 。看護学校が私立の看護学校だったので 、むちゃくちゃお 嬢が多くてですね 。多分大学 出 身の子も 何 人もいて 、 お嬢 様が多かったんですよ 。 きらきらした子たちが多くて 。 宿題がありま し たが、やりませんでした 。 看護学校で は実はすごく劣等生で、多分五
O
人中びりから五ぐらい 。 五O
人 一 クラスだけなんですけど、全然勉強しなくって 。 ずっと田舎の 保 育 園 、 小 学校、中学校、高校 と 過 ご し て 、 名古 屋 に出てきて、名古屋の子がいやでいやで仕方がなく て 。 きらきらとして、きらきらしてるだけならともかく、 すごく意地悪なので 。 あとは 三重県の方言をすごく馬鹿に されたんですね 。 ﹁靴ってるだらあ l ﹂ っ て 三 河の子に 言 われたのがすごくいやで 。 っていう分にはいいんですけど 、なんかく すくすくすくすと 。三重県 からが私 一 人 。 あとは高校から 来てる子がもう一人いたんですけど、その子は名古屋の 言 葉に合わせて話してるっていう子で 、 一 人滋賀の子がいた ﹁ = 一 重 だ ね ﹂ んですけど 。 滋賀の子は完全に関西弁なので、それはそれ で突き通 し ていくんですけども 、 それですごく言葉の こ と を 言 われただけならともかくなんですけど、なんでいうん ですかね 、小さい時から女の子の噂話的なことに入るのが 好きじゃなかったんですけど、あまりにも顕著だ っ たので 。 ﹁これはちょっと仲良くできん﹂ っていうのもありました し バ イ ト中 心 の生活で勉強せずに、看護学校では成績が悪く﹁劣 等 生﹂だった 。 また、周りは﹁むちゃくちゃお嬢 ﹂ ﹁ き ら きらした ﹂ 女子学生ばかりであった 。 さらに 、 三 重県の﹁ 田 舎﹂出身というこ とで 、 言葉 でからかわれる こ とがあ っ た 。 そ れ に 、S
さんは 、小 さ い頃から女の子の関係にも嫌気がさしていた 。 しかし 、 その辛さを学校以外のところで 、 埋め合わせていた 。 当 時 、S
さんは 、 地元の彼氏と付き合 っ ていた 。 恥 ずかしいですけど、当時彼氏がおりましたので、朝 一 緒に 登 校するんです 。D
大 学 に通 っ ていたので 。 朝 一 緒に 登校して 、 実は看護学校まで二人乗りして送ってくれて 、 迎えに来てくれて 。 それから 二 人乗りをして帰り 、 地元ま で帰って 、 ﹁じゃあ私アルバイ ト 行ってくるね﹂って言って 、 アルバイ ト に行く 。 夜になると、私がアルバイトから帰っ てくる時間になると、家に遊びに来て、家族みんなでトラ ンプをして遊んだり、ファミコンしたりして遊んだりって いうような 。 何て言うんでしょう 。 なので、勉強を集中して頑張ると い う 。 ただ実習があ っ て、レポ ート 書 かないといけないつ ていう時は、見張っててくれて 、 ゃ れ 、 早くやれ ﹂ 一 生懸命書くのを ﹁ 早 く って言って 、 ちゃんと協力はしてくれた りはしていたので 、 そんなような生活だった よ うに 。 車で五分ぐらい 。 彼氏もおり 、 なんて言うんでしょう 。 その子も来て、母親 一 級上の彼だ っ たんですけど 。 そんなも弟もみんなで夜を過ごし 。 お父さんじゃないですけど、 いてくれて 家族団壌の時聞が笑いがあるっていう時聞がす ごく大事で 。 その時には患者さんのためにとか、そんなこ とを思える余裕もなく、自分のためにとか、自分の家族の ために毎日があったっていう感じですね 。 名古屋の看護学校生活の中で 、 うまくなじめず、成績も良くなかっ た
S
さんにとっては、バイ ト から帰った夜の﹁家族団築の時聞が笑 いがあるっていう時間﹂が唯一の憩いの場になっていたようである。 そしてその時もにもまだ、看護師になるというのは、﹁患者さんの た め ﹂ で は な く 、 ﹁ 自分のため﹂﹁家族のため ﹂ という経済的に安定 した専門職としての看護師としてしか考えていなか った。そのよう な考えに変 化 が起こるのは、学校の看護実習を経験した後であった 。看護実習一﹁あんたじゃ、嫌だ﹂と言われて
一 年 生 の 時 の 看護実習で 、看護師になる自信を失う経験をしなが ら、人としての患者に出会うことになり、看護師としての初めての ﹁ 気 づ き ﹂ を 経 験 す る 。 一 年生の九月に一期の実習に行くんですけど 、 病院の看 護師さんがどえらい恐ろしい方ばっかりで、リアリティ ショックっていうか自分がイメ ー ジしていた看護とかこん な人たちに教えられて、私はこう育っていくんだろうかと か 、 いろいろ看護師になろうと思ったことに思い悩む頃が 一年生だったんですよね 。 一年生の基礎実習 。基 礎実習 二 期って 言 っ て、ほんとに 見 学だけの= 一日間とその後少し血圧を測らせても らったり だとか、そういうことをさせてもらえるこ回目の実習に 行った時に、あるおばあさんが心不全ですごく苦しかった 時に、﹁血圧を測らせてください﹂って 言 っ た 時 に 、 ﹁ あ ん たじゃ嫌だ﹂って言われて 。 ﹁ 看 護 師さんを呼んでこい ﹂ っ て言われて 。 その時すごく衝撃的だったんですけど 。 ﹁ 同 って思ったんですけど、 やっぱりその時のことを後からそれを振り返って、﹁私の 技術が足らなかったり、私が実習をするために血圧を測 らせてくださいっていう思いが自分の中にあったな あ ﹂ っ ていうのを気づかせてくれたのが、そのおばあさんだった じことできるのになんでだろう ﹂ なあというふうに今振り返れば思います 。S
さんは 実習で正規の看護 師さんと同じことをや っ て い る の に 、 なぜ、﹁あんたじゃ嫌だ﹂と 言 われたかについて振り返り、その後 その経験を再解釈し、 ﹁技術がたらなかった ﹂ ことはもちろんであ るが、自分が﹁患者さんのために﹂ではなく 、 ﹁ 実 習 の ために ﹂ 血 圧を測らせてください、と 言 い、患者に一人の人間として接してい なかったことがその原因だったと考え、この経験は看護師としての ﹁初めての気づき﹂の経験と し て 、 今 も ﹁ 衝撃的な﹂事件として残つ て い る 。二年生と三年生の実習 一 人が喜んでくれていることに 喜 び を感じて 二 年生になり、看護師になることに少し自信が付いたのは﹁私で も役立つ﹂と頼りにされた初めての経験だった。 二 年生の時に出会った方がまだ四
O
代ぐらいの方だった んですけど、骨折されて入院してみえた女性の方だったん ですけど 。 本当に頼りにしてくださったっていうとこで、 なんかこう﹁私でも役に立つんだ﹂ っていう思いを実感さ せていただいて 。 三年生の実習でS
さんが看護師としての生き方を﹁決定 づける経験﹂をすることになる。それはターミナル期の気難しいお そ し て 、 ばあさんとの出会いであった 。 13 ターミナル期、終末期の方に出会った時 に、この方は、この時 ﹁ 本 当 に 何 も し て く れ る な ﹂ っ て い う毎日を送っていて 。 学校の先生だとか実習担当の看護 師さんに相談したんですけど、その時に与えられた答え は、﹁おばあさんが安楽な方法でおしも洗う方法を 工 夫せ よ﹂とか、﹁たとえば移動式のストレッチャ l に乗せて外 に連れて行って、気分転換をはかったらどうだ﹂とか。そ 三 年 生 の 時 に 、 ういう具体策だったのが、自分の中で少し腕に落ちなくて 。 ﹁ 触 っ てくれるな、ほ っ と い て く れ ﹂ っ て言う人を、﹁無理 やり触ることに意味があるんだろうか﹂ っ ていうのをすご い 思 い 悩 んだんですけど 。あんまり勉強を積んでいなかっ たので、自分の中ではあまり思い浮かぶ案がなく、﹁何か やらなきゃあ実習が終わらない﹂っていうのがあったので 。 ﹁本当に何もしてくれるな﹂というおばあさんの患者のケアをど のようにすれば良いか悩み、先生や担当看護師に相談したが、技術 的なアドバイスをしてくれたが、﹁無理やりさわることに意味があ るんだろうか﹂と悩みながらも 、S
さんらしい方法で、そのおばあ さんのケアする経験をする 。 うちは仏教で浄土真宗なんですけど、毎朝通学路で通る ところにお寺があって 。 そこの黒板にいつも何か﹁人生は 何々を光る、照らすなんとかだ﹂ってそういう 言 葉が、週 単位か月単位で書き換えられているのを何気なくいつも読 んでたんですよね 。 ﹁なんかそういう人生を照らすような って、﹁あれつてなんか本なのかな﹂ 詩 集 な の ﹂ ので、実は平成二年の九月の実習の時だったんですけど、 そのお寺に﹁こんにちは﹂って駆け込んでいって、相談に 行ったんです 。 ﹁あれ本ですか 。 本貸してください﹂ っ て い 、 っ っ て いうふうに 。 そしたら、その時に﹁どういう事情なの﹂ つ て聞いてくださって 、 斯く斯く云々 ﹁末期がんのおばあさんに私は何もできないので、そばでそういう短文で耳元 でこういう話がありますよ っ ていうのを少し読んだりし たら、少しはおばあさんの気がまぎれるんじ ゃ ないのか なって思いついたので、 もしあれが本とかでお借りできれ ばお貸ししてほしいんです ﹂ って話をした時に 、 そこのご 住職と奥さんはその地元の方なんで 。 ﹁
S
ちゃんの優しい 気持ちっていうのが、まず一番だね﹂っていう話と 。 ﹁ た だそのおばあさんの 宗 教が何か っ ていうところでも、こう ち ょ っ とこれを持って っ てもらって、読むっていうのに問 題があるかもしれないよね 。 だから、あなたの気持が 一 番 だ よ ﹂ っ て話をされて 。 ﹁ あなたのその 気 持ちが通じるよ ﹂ っ ていうのを住職に 言 っ ていただいて、私は ﹁ありがとうご ざいました ﹂ っ て 元 気 になって帰ってい っ て、結局、本は 借りてこなかったんです 。 ターミナル期のおばあさんに対して、自分が日ごろ通っていた 寺 の黒板に 書 かれていた短文を読むことで、 ﹁ 少しはおばあさんの気 がまぎれるんじ ゃ ないのかなって ﹂ 思 っ て本を借りようとしたが、 借りることができなかった 。 そして、その住職夫妻から ﹁ あなたの 気持が一番だよ ﹂ ということを教えられたが、どうしてよいかわか らず 、 悩やむS
さんだった 。 結局その本も借りれず、 ﹁どうしたらいいのかなあ ﹂ て思ったんですけど、ふ っ と真っ白になった時に、ちょう ど秋でちょうど私の住む町が花いっぱい運動でコスモスを 田 岡 一 面に作 っ ていて、それがいつも ﹁きれいだなあ ﹂ っ て 通 っ てたんです 。 で 、 ﹁ あ っ 、そうだ ﹂ っ て い う こ と で 、 ﹁この私がきれいだと感じるものを一輪でもおそばに持っ て行って、見てもらうだけでも季節を味わってもらえるん じゃないかな﹂ っ ていうのを思って 。 ﹁ 花 い っ ぱい運動 ﹂ の田圃まで行 っ て、管理しているおじさんがいて 。 ﹁ お じ の し叫ー っ て 言 っ て 。 ﹁ どういう事情な って聞かれたので、斯く斯く云々 ﹁私がこういうおば さん、これほしいんです ﹂ あさんに持って行きたい ﹂ っ て 言 っ た ら 、 ﹁ 新 聞 に く る む 、 まんぱんぐらい持 っ て っ ていいよ ﹂ っ て 言 っ て、大きな花 束にして次の日持って行 っ たんですね 。 ターミナル期がんのおばあさんの気を紛らわせるための本を借り ることができなか っ た 。 し か し 、 ﹁ あなたの気持ちが 一 番だよ ﹂ と いう教えを受けた 。 そして、悩んだ末に、自分がきれいだと感動し たコスモスの花をおばあさんのそばにも っ て い っ て 、 ﹁ 見てもらう だけでも季節を味わ っ てもらえるんじ ゃ ないかな ﹂ と、おばあさん を 喜 ばすことだけを考え、大きなコスモスの花束を翌日もっていく ことを決めた 。 つ 本当に朝から晩まで顔を出せば、い つ も眉間にしわをよ せ 、 ﹁ 何もしんでくれ ﹂ っ て 言 って、む っ としてたおばさ んのところに、朝 一 番に 。 本当は詰め所に行って、 ス タ ツフに挨拶をして、その後散って受け 持 ち患者さんのところ に行くんですけど、﹁これは誰に見せるよりも先におばあ さんに見せたい﹂って思いがあったので、 ﹁ と こ と こ と こ ﹂ っ て行って ﹁ こ ん こ ん ﹂っていって 、 詰め所に行く前にお渡 しした時に、あふれ出るような笑顔で﹁わ
i
きれいだね﹂つ ていうふうに、そのおばあさんが﹁にこにこ﹂って笑って 言ってくださった 。これがそのす ごいターミナル期の方の 身内でない人に対するターミナル期の関わりっていうとこ ろで、感じた 。 ﹁その人が喜んでくれていることが自分が すごくうれしかった﹂ っていうのが第一歩だったと思うん ですけど 。 そんな学生の時にお 一 人お一人に関わらせても らう中で、﹁看護って何だろう﹂って。経験知って 言 い ま すか、経験で知っていった。きっとベl
スどこかそこかで 先生たちが教えて、教えようとしていたものがあると思う んですけど、なかなか机上では感じるものができないもの が実習の場ではあったっていうので、そこでベl
スができ て き て 。 コスモスの花束を朝一に真っ先に、﹁とことこ﹂と﹁ ﹁ 何もしんで っ て 言 っ て、むっとしてたおばさん﹂のところに全面の笑顔 く れ ﹂ で持って行ったら、﹁あふれ出るような笑顔で ﹃ わ 1 き れ い だ ね ﹄ 15 てい、つふうに、そのおばあさんが ﹃ にこにこ ﹄ っ て笑って 言 っ て く ださった﹂ことで、そのおばあさんが﹁喜んでくれていることが自 分がすごくうれしか っ た ﹂ ことが、看護師としての ﹁ 第 一 歩 だ っ た ﹂ と振り返る。﹁自分が役立つこと﹂に喜びを見出し、﹁患者が喜んで くれていること﹂にS
さん自身がうれしかったとい、つことを経験し た 。S
さんの看護師としての基本的態度が形成された出来事であり、 学校では成績が悪かったS
さんが、患者と人として関わることで学 んだことだった 。 この時には、看護師として働くのは、経済的安定 を目的とした ﹁ 自分のため﹂ではなく、﹁患者のため﹂という考え になると同時に、﹁患者に喜んでもらうこと﹂が、﹁自分の喜び﹂で あるという自覚が生まれたのであった 。 五 まとめ 看護学生として実習を経験して、初めて看護ケアとは何かに気づ く体験が多いという柳田邦男( 二O
一 一 年一三五四頁)は、看護 学生たちに看護 体験に関する振り返りをするエ ッセイを書く ことを 勧めている 。 その振り返りのエッセイを書くことを通して、何が大 切かがわかることがある 。S
さんが看護 学生としての 体験を振り返 ることで、様々な﹁気づき﹂をした 。 その﹁気づき﹂は、以下のよ うにまとめられる 。 ① 患者を人間として扱うことの大切さ 。 患者を実習のための道具、 ブl
パl
(
一 九 七 三 年)の 言 、っところの人を﹁それ﹂として扱 うケアはその人には歓迎されない 。 ﹁ 我と汝﹂の関係として患 者を人間として尊敬してケアすることが大切である 。 ﹁ 自 分 が 役 立 っ て い る ﹂ ﹁ 必 要とさ れている ﹂という 思 い が 、 看 護師の卵としてのS
さんにはやりがいになった 。 つ ②③ ﹁人に喜んでもらえる ことが自分の 喜びでもある﹂という﹁気 づ き ﹂ は 、
S
さんのその後の看護師としての基本的態度を形成 するものになり、笑顔で﹁他人のために﹂ケアをする看護師を めざすことになった。 仲 間 開 三 時 即脳神経外科での経験
自分の看護師としての存在価値を見つけて ﹁ 他人のために ﹂に働きたいという強い思いで卒業したS
さ ん は 、 看護学校で不勉強だった自分を反省して、﹁厳しいと こ ろ ﹂に勤め たいと思い、脳神経外科に勤めることになった 。 ﹁どうせ看護師になったんだったら、厳しいところに行 こ う ﹂ と思ったんですね 。 ﹁初めから楽そうな ところに行 っ たら、駄目になる﹂と思ったっていうか 。 ﹁ 若 い 時 だ っ た ら 失 敗 も 許 さ れ る か な ﹂ と か 。 ﹁ 初 め か ら 修 行 し て も ら え ば 、 少しはましな看護師になるかな﹂ って自分に少 しハードル の高い科を選ぼうと思ったので。脳外科を選んだんですね 。 で、当時のK
病院はI
C
U
とかがあまりなく、 一 つの病院 で本当に入院から退院まですべてを担っていたので 。 K 病院は私の母体の病院です 。またその時 脳外科だ っ た ので、本当に重症な瀕死の状態で入院される方が命が助 かった後、一緒に リ ハ ビリをやって、そして帰っていかれ たり、家に帰れない方は施設に行かれるっていう一連の流 れを学ばせてもらえて 。 また就職してすぐって、 私本当に 勉強していなかったので、頭悪かったので、いろいろ聞か れたことに笑ってごまかしたりしてたんですけど、 そした ら 何 て 言 う ん だ ろ う 。 患者さんが﹁その笑顔が何よりも薬 だ﹂とか﹁あんたが来てくれるだけで元気になる﹂ と か 、 そういう 言 葉を患者さんがかけてくださる 。 患者さんがす ごくかわいがってくださる 。 みんなが﹁S
ち ゃ ん 、S
ち ゃ ん L一一S
ち ゃんっていうふうに 呼 っ て o S さ ん じ ゃ な く て 、 んでくれて 。 何でし ょうね 。 ﹁自分の存在価値を認めても っていうのがすごくあったんですね 。 ら え た ﹂ 看護学校では、﹁勉強のできない学生﹂だったいう自覚で 、 ﹁ 少 し はましな看護師になるかな﹂と思い 、 脳神経外科に就職することに なった 。 勉強してなかったので 、 ﹁ 笑 っ て ごまかしたり ﹂ していた だけだったが、患者に﹁その笑顔が何よりの薬だ﹂と言われたこと で、﹁自分の存在価値を認めてもらえた﹂と思い、S
さんは、看護 師として働くさ らなる喜びを見 出してい っ た 。 彼氏との別れとおじいちゃんの死 一 不幸がいっぺんにやっ てきた しかし、看護師として楽しく働き出したS
さんに二つの不幸が同 時に起こ っ た 。﹁不幸がいっぺんにやってきた﹂と実 感したことで17 あった 。 就職した年の七月に、 お付き合いしていた彼も同時に就 職で、女の子がいっぱいの職場に行ってしまいまして 。 で 、 気がそっちにいってしまいまして 、 うまくいかなくなって 。 まあ破局という日を迎え、なんとその次の翌朝に祖父が、 あれはきっと脳幹部梗塞か何かを起こしたと思うんですけ ど、寝たり起きたりだったのが意識膿膿としてまして 。 ﹁ 不 幸がいっぺんにやってきた﹂って感じだったんですけど 。 そこでおじいさんを病院に連れていくか、いかないかで、 母親とすったもんだしまして 。 私は﹁脳外科で最先端の治 療をし、九
O
歳であっても 一OO
歳であっても 。 先端の治 療を受けている。なんでおじいさんに治療を受けさせてあ げないんだ﹂っていうふうに母親とけんかしまして 。 ﹁ お 母さん他人だから、そういうこと言うんだ ﹂ という話をし たんですけど、母親は﹁それで先端の治療を受けて、命が 保たれでも植物になって生きながらえては、おじいさんは か わ い そ う だ ろ 、 つ ﹂ と 。 ﹁ ﹁これは時が来た ﹄ っていうふう に見送るのも家族の役目だ﹂っていうようなことで、討論 しあいまして、母親の意見が通って、家で 一 週間 。 一 本だ け点滴を開 業医さんに替えてもらいながら 、家で過ごして そのまま 一 週間後に亡くなったんですけど 。 おじいさんが亡くなった時に、S
さんは新米看護師として、患者 を助けるだけがケアではないということを学ぶ 。 その時に私は病院から気道確保の道具と疾を取る吸引の 機械を借りてきまして、婦長さんに許可を得て 。 脳死を助 けるための道具を持って帰ってきたんですね 。 家で亡くな る 二 日ぐらい前がちょうど休暇だったので、二日間びっち りおじいちゃんの傍にいて、病院でやっていることをおじ いさんに 一 生懸命やってました 。 瞳孔見たり、意識を見た り、すごい一生懸命やってたんですけど、結局最後息を引 き取る時は何もできず、エアウェイを入れようと思っても、 もう気が動転して 。 いつも、だったらできるのに 、 自分のお じいちゃんだと思うと入らない。 軌道を確保する道具なんですけど、そういうのを入れよう と思ってもうまく入らない 。 ﹁ あれよあれよ﹂という聞に 朝の六時半ぐらいだったんですけど、息引き取ったのが 。 私だけ隣で寝ている時で 。 何を優先したらいいかパニック でわからなくなっていて 。 母親を起こしに行って、 主 治医 エ ア ウ ェイってい 、 つ の は の先生に来てもらって 。 父親が 一 人っ子だったので、親戚のおじさん 。 甥つ子と かのおじさんに連絡をしたり、看護師の叔母の家に電話し たり、母親が 。 はっと気づいたら、叔母が来てたんですけ ど 。 ﹁エンジェルケアの道具は持ってきたの﹂っていうふ うに叔母に言われ、私は命を助けることしか考えてないの で、家で臨終を迎えて、その後.とうするかつて思ってもいなかったので、も ちろ ん他の患 者さんが病 院で亡く なった 後 の処置はさせてい た だいたりして たんで す け ど 、 そんな こと思いもよらず、叔母のかぱんか らちゃ んとエン ジェル セットがでてきた っ て い う の で 、 ﹁すごい な あ ﹂と 思った んですね 。 私は本当に﹁命を助けるだけに、ウェイトをす ごい置いていた自分﹂っていうのと、﹁何が大事だったん だろう﹂というのをやっぱり考えるチ ャ ン スにはなったか 私が一年目の時に見ていた脳幹部挫傷 っ て、交通事故で 呼吸したりするところが微妙にもうあ ぶな いような 意識 がもう、意思疎通がそんなに図れないような方がいら っ し ゃ っ たんですけど、 当時は年単 位 に結構病院 に い られた もんですから 、 ちょっと い ろ い ろ看護 師 さんの動きがあり ました けど、私 の受け持ちの 期間に 関 わ っ て いた時は、な ん と ﹁あ い う えお ﹂ の文字盤 を 文字で指すまで で きるよう に な っ たんですね 。そ の 後 私が チ
l
ム 編成で、違うチl
ム に 行って い て 半 年 か 一 年ぐらい後に戻 っ た ら 、 看護 師があ まり関わってくれてなか っ たみたい で 、全然できな く な っ て い て 。O
K
サイ ンとかV
サインとか文字盤が指せるよう なぁと思いますけど 。 身内のおじいさん の 死に 立ち 会いながら気が動転し、何をしてよ いか分からなくなっていた時に、頼りないと思 っ て いた母親が、親 戚などに 連絡 してくれた 。そ して、看護師をし て い る 叔 母 が 、 臨終 の後のエ ン ジ ェルケアの 道具を持 ってきて処 理して くれたことを思 い 起 こ し 、 ﹁ 何が大事だ っ たん だろう﹂かと自問した経験だっ た 。 ﹁ 命 を 助けるだけ ﹂でなく 、 その人の ﹁ 人 生 の最期を看取ることの大切 さ﹂を気 づ いた経験にな っ た よ うだつた 。 に な っ て い た の に 、 ま っ たくできなくな っ ていたので 、 そ こでまた ﹁ 看 護 師 の 関わ り一つでその人の人生が大きく 変 っ ていうのを目の当たりにした っ ていうのが、すご わる ﹂ くそれも衝撃的で 。 なので 、 一 生懸命関わらなきゃいけない 。 ﹁ 自 分の関わ り方でこの人の人生が変わる﹂っていうので 、 ﹁ 好転する 方の 看護 帥になりたい ﹂ っ て い う のがまたそこからも思 っ た の で 。 自 分 一 人の限界 っ て い う の も そ こで感じるものも 看護師の関わりの大切さとリハビリ 脳神経外科という医療の現場では 、 脳幹挫傷などの患者 が多 く 、 病状が安定した後は、リハビリをする 。 その患者に 看護師がど の よ うに関 わるか でその人の 人生が変 化するとい う経験 をした 。次の語 りは 看護師 としてリハビリ をした 時の経験で ある 。 あ っ て 、 今 に い た ってるんです けど 。 そ の 方 の リ ハ ビリ テ ー ションで こ んな に 変わ っ た 。 だけど、やらないこと でこん なに悪く な っ た っ て い う の で 、 リ ハ ビリテ ー シ ョ ン っ て い うところ に興味を わく部分であったり。実は 、こん な大き く床ずれ が できた方が 、 そ の 看護師の知識と技術によ っ て 、治るか治らんかがすごく左右するっていうことも現場で出 会って 。 学校では、消毒する、薬を塗る、そのぐらいのことしか 習わないんですけど 。 現場で、﹁お医者さんが処方された ものを塗っておけば治るか治らんかは運だな﹂ぐらいに 思 ってたんですけど 、実はすごく勉強された薬剤師さんを、 勉強しているうちに誰かが知っていて、 ﹁あの薬剤師さん に相談してみよう﹂って言って 。 その薬剤師さんが現れて、 ﹁
S
さ ん 、 こ れ を こういうような理由でこうするとこうや っ て治っていくんですよ﹂っていうふうに教えてくださって 。 そこから、その学習は自分で 。 セミナーがあったり、そう いうのがあれば一つでも多く参加したり、本をたくさん 買ってそれをいっぱい読んだりとか 、そういうふ、つにして 学んでいきましたね 。 ﹁やっぱり看護学校での教育ってほ んと準備運動だけなので、 専 門職と 言 つ でもあまりにも分 野が広すぎて、エキスパート的には習わない﹂ 。 エキスパー トになってくのは、自分がいかにそれを学ぼうと専門的に 努力していくかなので 。そこで床ずれを治るお手伝いをす る学びをした時に、 自分が勉強してるかしてないかで、傷 の治りも遣うんだなというのも学ばせてもらって 。 19 脳神経外科で働く中で、一生懸命にリハビリを手伝 っ た人が、そ の 後 、リ ハビリをしなくなり元の麻庫状態になってしまったという ことを目の当たりにして、看護師としての﹁自分の関わり方でこの 人の人生が変わる﹂ことを学んだS
さんは﹁好転する方の看護師に なりたい﹂と強く思うようになった 。 そして今までの自分の不勉強 を反省しつつ、﹁看護師の知識と技術によって、治るか治らんかが すごく左右する﹂と自覚し、勉強することの大切さを再確認するよ うになり、自分で勉強をしたりセミナーに参加するようになった 。 ﹁不勉強の看護学生だった﹂S
さんが﹁勉強に熱 心な 看護師﹂に変 わりたいと思 っ たのは、﹁好転する方の看護師になりたい ﹂と い 、 っ 強い思いがあったからだった 。 四 失語症のおばあちゃん一﹁本当にその人を好きにならないと、 思いは伝わらないんだな あ ﹂ 患者の人生を﹁好転する方の看護師になりたい﹂という思いを強 くしていた時、出会ったのが、﹁失語症のおばあさん ﹂ だ った。そ れまでのS
さんは、患者の人たちに笑顔で接するだけで好かれ、﹁s
さ ん で は な く 、S
ちゃん﹂とかわいがられていた 。 自分が好かれて いる、必要とされているから笑顔になれていたS
さんであったが、 自分を嫌っている患者に出会って 戸 惑った経験をする 。 二 年目の時に失語症のおばあさんがみえて、﹁何々さん、 これさせてください﹂って言っても、 本当に抵抗して怒っ てさせてくれないおばあさんがいて、 その時ちょっと私悩 んで婦長さんに相談した時に、 ﹁ あなたはその人のことを 好きですか ﹂ っ て聞かれたので、﹁私が嫌われているから、好きにはなれないかもしれません 。 だって、嫌われてるも って言った 時に、﹁嫌われていても自分がまずその人 ん し一一 のことを好きにならなきゃ あ 、好きにはなってもらえない わよ﹂って当時の婦長に言われて、 私もまだ二年目で子供 だったので、﹁てけてけてけ﹂つで もう一回戻って、﹁
H
さ ん、私、大好きです﹂ って言って 。 ﹁嫌なこともするかも しれませんが、大好きなので我慢してください﹂っていう ような関わりをして 。 ﹁うーん﹂って言って 。 少しずつ心 を開いてもらえたっていう経験がやっぱり現場であって 。 要所、要所で﹁経験知﹂というか、本を読んでこ こで学ん だっていうのはないですね 。 経験の中で 。 ﹁ 好きです 。 だ から、血圧測らせてください ﹂ っ て 言 っ た 。 確か 。 ﹁ 車 い すに座りませんか﹂って 言 っ たら、嫌そうな顔をしつつも やらせてくださって 。 毎日毎日 ﹁ 好きです﹂って言い続け て、そしたら、﹁にこ﹂って笑ってくださるようになって 。 ﹁ 好きです効果 ﹂ が 。 、 だ か ら 、 やっぱりその時は、﹁本当に 嫌われてるもん 。 私が好きなんて言えない﹂って思ったん ですけど、﹁本当にその人を好きにならないと、思いは伝 っていうのはそこで学んだのかなあっ わらないんだなあ﹂ てことがあって 。 ﹁本当に抵抗して怒ってさせてくれないおばあさん﹂がいて悩ん でいた時に、婦長さんから、﹁あなたはその人のことを好きですか﹂ と問いかけられた 。 その時は、嫌われているから好きになれない、 と思っていたが、それでは看護ケアができないと思い、﹁てけてけ てけ﹂とそのH
さんのところに戻り、満面の笑みを浮かべながら、 ﹁ ﹃ H さん、私、大好きです ﹄ っ て 言 っ て 、 ﹃ 嫌なこともするかもし れませんが、大好きなので我慢してください ご という態度で臨ん だ ら 、 H さんのこころが少しずつ聞いていく経験をし、﹁本当にそ の人を好きにならないと、思いは伝わらないんだなあ ﹂ ということ を学んだ 。 それがS
さんの看護ケアの重要な部分を占めるように なった 。 単にかわいがられて、笑顔でケアをしていたS
さんが積極 的 に ﹁好きです﹂と笑顔で言うようになるS
さんらしい 看護ケアを 確立していった 。 五 ヒステリーの四O
歳代の女性一 ﹁傍にいるから、大丈夫、 大 丈 夫 ﹂ 父親を亡くした経験から、S
さんは患者を 一 人の人間として 尊敬 しながら接し、その人が語りたいと思っていることを聞くことを看 護ケアの重要な部分だと考えていた。次の語りに出てくる患者は 、 ﹁過去を悔んで﹂いた人だった。患者に寄り添う ことで、話したい ことを聞くことができた経験であった 。 ﹁ 過 去を悔んで﹂っていうケ l スで、印象が強かったのは 、 四二歳の子宮がんだった方で、本当に薬を使おうが何をし ようが痛みが取れず、激しくヒステリーになって、﹁今す ぐ 来 て ﹂ ﹁ プ l プ l ﹂っていうような感じで呼ばれるような方 がいたんですけど 。 ﹁傍にいるから、大丈夫、大丈夫 って傍にいましたら、ふっと語りだしてくださって 。 一 七 の時に東北地方に住んでみえたんですけど、父親の折艦が 嫌で母親と弟を置いて逃げてきた 。 ﹁ そのことを謝りたかっ た ﹂っていうよ うなことで、その後、東北からお母さん来 てくれていて、身の回りことをしてくれてても 、すごいス お母さんを大攻撃してたんですけど、 言葉で 。 で,も、それが実は﹁母親に謝りたい﹂って言って るんですよね 。お母さん 呼 ん で 、 ご 主人にも﹁帰ってきて﹂ 卜レスのはけ口に、 って電話したんで、ご 主 人も帰 っ て き て 、その場でいろん な話をして、その時は臨終の時じゃなくって 。 ﹁ まだだけ っ て 思 っ たんですけど、その時にちょうどその人が 語るシチュエ ー ションができたので、語ってもらって 。 ﹁ ご ど な ﹂ 21 って言って 、 ﹁ い い よ 、 い い よ ﹂ っ ていう場になっ て 、翌日けろっと﹁昨日はごめんね﹂って感じで、痛みと か呼吸の苦しみとか訴えなくなって 。 何かあるとすぐ訪問 看護に﹁今すぐ来て﹂﹁プ l プ l ﹂だったのに、最後患を 引き取る時は自分で救急車に乗って、救急車の中で息を引 き取ったって 。 ﹁ 病 院には絶対行かない ﹂って言ってたん ですけど 。 多分私たちの出番っていうのは、本当に何かを 語ったりとか 、 そういう時の手段に私たちがいてくれるこ とで語れたっていうのを何かで感じてたのか、 ﹁ 自分はも う死 亡 確認されるだけだから、自分は病院に行こうかな﹂っ て思ったのか、自分で 一 一 九 番 し て乗ってって 。 救急車に め ん ね ﹂ 乗って 、 一
O
分もあれば病院に着く距離だったんですけど 、 ﹁ 途 中 の 真ん中の五分ぐらいのところで息を引き 取 っ た ﹂ っ ていう話だったので、なんで最後だけ病院行 っ たんやろ ね っ てすごい不思議だったんですけど 。 考えれば、死に場 所はどこでもよくて、生きる場所は家だったっていうこと かなっていうのは 、亡 くなっているので、そこは聞けない ですけど、そういう場面もありますね 。 ﹁悔やまれる過去﹂を持っている人は、最期の時期になるとその 過去と和解をすることが理想だと 、S
さんが考えていたが、この女 性の看護する中で、そのことを再度 実 感した 。 四 二 歳 の子宮がんの 女性で 、 ﹁ 薬を使おうが何をしようが痛みが取れず、激しくヒステ リ ー に な っ て 、 ﹃ 今すぐ来て﹄﹃プl
プl
﹄ってい うような感じで呼 ばれるような方﹂で、看護師にとっては扱いにくい患者だった 。S
さんは覚悟して彼女から逃げるのではなく、 ﹁傍 に い る か ら 、 大 丈 夫 、 大丈夫﹂って傍にい続けたら、彼女が﹁過去の悔やまれる﹂経験を 自然と話し始めた 。 ﹁ 過去の悔やまれる﹂こととは、 一 七歳の時に 東北にいる母親の元ふを逃げて出てきたことだった 。 そのことを謝り たいと思っていた 。 母親に連絡を取り再会した最初ごろは母親にも あたっていたが、 ﹁ 悔やまれた﹂経験をS
さんに話した後 、 ﹁ごめん っ て いうことになり、その後は、 それまで激しかったヒステリ ー 的な態度が落ち着き、ナl
スコール もしなくなった 。 この事例にあるように、人が 最期になった 時 に 、 言 いたいことをいうことが大切だという ことをS
さんは父親を亡く ね って言って 、 ﹁ い い よ 、 い い よ ﹂22 した時の経験から理解していた 。 ﹁ 傍にいるから、大丈夫 、 大 丈 夫 ﹂ と言いながら、その女性 ー さんのそばにずっといて 、 結果的に話を 聞き出すことができ、女性 ー さんは穏やかな最期を迎えられたよう z -コ ご 。 半 / て ふ / ...L.. 2
、
悔やまれる体験 一 ﹁ 絶 対 に 逃 げ て は い け な い ﹂S
さんにも ﹁ 悔やまれる体験﹂があると言、っ 。 それは、自分がい くら努力しても、結果が出ず 、 最終 的に、どのように ﹁ 寄 り 添 っ て ﹂ よいかわからなくなった ﹁ 問題児のおじいさん ﹂ への自分の態度だっ たS
さんは担当看護師として、﹁問題 児 のおじいさん﹂に最初は、 懸命にケアをした 。 脳外科の病棟時代に首の神経の周りが石灰 化し て、神経 を圧迫されるっていう御病気になられたおじいさんが、お ばあさんがくも膜下出血になられたので、そこで命を助け てくれた脳外科の先生に﹁自分の首も託す﹂って 言 っ て 手 術をされて 、 四肢まひになった方がみえて 。 まあストレス ですよね 。 ただしびれてて、歩くのは少し不自由だっただ け で 、別 に自分のことはできていたのに、首から下が動か なくなっちゃったので 。 神経質なおじいさんだったんです け ど 。 私受け持ちで 。 なんとか手がちょっとだけ動いたの で 、ここ に ナl
ス コ ー ルがこういうふうに押せれるものを 病院の中じゅうで探してきで、あったのでそれをセッテイ ングして、呼んでもらうようにしたんですけど。 ﹁ ぱ ん ぱ かぱんぱか﹂呼ぶもんですから、もう本当に看護師の中で は﹁問題児のおじいさん﹂になっていて 。私が 出 勤 す る と 、 ﹁ あl
よ かった﹂って 。 ﹁ あんたが来てくれたから、私たち 行かなくて済むわ﹂っていうようなことがあって 。 ﹁ そ ん なにおじいさんのことを嫌わんでほしい﹂ っ て 。 鼻 が ち ょ っ とかゆくても自分でかけないし、ちょっと窓が開けてほし くても自分で開けれないし、ご飯の食べさせ方だって、自 分なりのルl
ルがあるけど、それもまあ細かく 言 、 つ ん で す よ 。 だけど、自分なりのル 1 ル と か べ l スがあるじゃない で す か 。 やっぱり ﹁はんばんばんばん﹂ナ l スコールがた くさんきて、その都度行くのは、私らが予測立てて﹁おじ いさんがこんなことしてほしいんじゃないか﹂っていう思 いを酌み取ってないから呼ばれるんだから、﹁あれはどう ですか、これはどうですか﹂って聞いてから帰ってくれば、 ナ l スコールが減るはずだっていうのを必死に伝えて、 そ れでなんとかまた落ち着いたんですけど 。 この患者からはひんぱんにナI
スコールがあるので、他の看護師 たちの中では﹁問題児のおじさん﹂となっていて、誰も関わりたく ないと思っていた 。 し か し 、 A さんは、﹁そんなにおじいさんのこ とを嫌わんでほしい﹂と他の看護師たちに 言 いながら 、 率先して関 わっていた 。 その基本的な態度として、﹁﹃おじいさんがこんなことっていう思いを酌み取ってないから呼ば れるんだから、 ﹃ あれはどうですか 、これ はどうですか﹄って聞い てから帰ってくれば、ナ
l
ス コ ー ルが減るはずだっていうのを必死 に伝えて﹂と言っているように、患者自身のニl
ズを耳を傾け、そ れに応えれば 、 ナl
ス コ ー ル を減るというS
さんの確信だった 。 しかし、その後、このおじいさんの様態が大きく変 化 することに な る 。 主治医が再手術をして、回復しつつあった状態から、さらに 麻療が固定 化 されてしまった 。S
さんは自分が主治医に 言 っ た一言 がそうさせたのではないかと悔やむ。 してほしいんじゃないか﹄ 私も馬鹿だったんですけど 、 主治医の先生に﹁あのお じいさんの手足はどうにかならんですかね ﹂って 相談し ちやったら、もう一回手術しちゃって。で、私と 一 緒に トレーニ ングをしていて、交代でこう器具を巻きつけて ちょっとずっちょっとずっ運動をして 、 実はお皿とかを しっかりぽこつと入る入れ物を作業療法士さんに頼んで 作ってもら っ て 、 それでセツテイングすれば、自分のベl
スでおかゆだけ食べれるようになってて、﹁ゃった 、 ゃ っ た﹂って喜んだんですけど、 先生が二度目の手術をしちゃっ て、また動かなくなってしまって 。 もうおじいさんは立ち 直れず、私も立ち直れず 。 先生だって 、 上手に 言 いますもん 。 ﹁これをやったら 、 23 こっちからやってこの前駄目だったから、今度はこ っ ち か らやったら広がって治るよ﹂ っ て 言 ってやって、﹁あきま せんでした﹂っていう 。 おじいさんも自暴自棄になっちゃっ てイライラ 。 もとからストレスがあったんですけど、九帳 面なおじいさんだったので 。 私も﹁あんなこと先生にしゃ ぺらなきゃあよかった﹂ って思うぐらい 、﹁二回目の手術 されたのは自分のせいなんじゃないかなあ﹂ して、すごい落胆してて 。 ﹁おじいさんに何もやってあげ っていうふうに自分も落ち込んでしまって 。 って思ったり れ な い ﹂ そして、ベッドサイドカンファレンスでおじいさんの様子を見て、 その後 、 そのおじいさんから﹁逃げて﹂しまったと悔いの残る﹁ト ラ ウ マ ﹂ になった 。 ﹁ じ ゃ あ 、ちょ っとベッド サイドでみんなおじいさんに話を聞き に 行 こ う か ﹂ っ て 一 言 っ て 、 ベッドサイドカンファレンスっていうの を聞いて 。 ﹁ おじいさんのやってほしいことって、一番望んでいる こ と っ て 何かなあ ﹂って聞 いたら、思い出しても泣けてくるんです けど、﹁味噌汁を自分の飲みたいタイミングで飲むことです 。 た だ それだけが望みです ﹂ っ ておっしゃって 。 ﹁たったそれだけの望み すら、私は叶える手伝いを今の自分の力ではできん﹂ というふうに 思って 。 ﹁ はい、おじいさん、ありがとうございました﹂って、﹁そ れに近づけるように頑張るね﹂って言って、みんなで 出 てきたんで すけど、その後は私泣き崩れてしまって 。 ﹁そこに私は近づける術 がわからない﹂って言って、実はまたそのおじいさんから逃げてし まって 。 たぶん過去高校のクラブをやめたこととそのおじいさんか24 ら逃げてしまったことが、自分の中では結構トラウマにな っ ていて 。 その﹁逃げた﹂ことが高校時代の部活を止めたことと重なり﹁ト ラウマ﹂になった 。 ﹁ 看護師が関わる こ とで、患者の人生を変える ことができる﹂という信念でやってきた