: 近代学校の風景を変える
著者
吉田 敦彦
図書名
学校に森をつくろう! : 子どもと地域と地球をつ
なぐホリスティック教育
開始ページ
30
終了ページ
50
出版年月日
2007-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10466/00017012
第
2
章
﹁学校
の
森﹂実践
のホリスティックな
意義
― 近代学校の風景を変える吉田
敦彦
はじめに とにかく「学校の森」を一目みたい、それを創案された山之内先生のお話をゆっくりとお聞きしたい、と 大阪から夜汽車にのって新潟を訪ねたのは1993年のこと。小千谷小学校と川崎小学校の「森」に案内し ていただいた (1) 。 ちょうど子どもたちが下校の時間だった。校舎の玄関から出てきた子どもたちが三々五々、校門までの間 にある「森」のなかへ、吸い寄せられるように寄り道してから帰っていく。気が向いた何人かの子どもたち が、まったく自然な形で寄り道するその姿が、印象的だった。話しかけるようにひとつの木の幹を撫でてい たり、うずくまって何かを探すように木の根元の土をさわっていたり、ただ何とはなしに友だちとおしゃべ りしながら木陰途を通り抜けたり。授業中ではなく放課後の、先生たちの目が届いていないところでのその
子どもたちの姿が、かえって森と子どもたちのつながりの質を感じさせた。手塚郁恵さんの『森と牧場のあ る 学 校 』 ( 手 塚 1 9 9 1) で、 一 人 ひ と り の「 わ た し の 木 」 が あ っ て、 お 手 紙 を 書 い た り し て 対 話 し て い る こ と、けんかをした子どもたちが、この森に入ってお話しすると仲直りできたこと、そういった話を思い起こ した。そして、授業のなかの教材として使われるだけでなく、このように、朝来たときや帰りがけなどに自 分の気持ちに誘われるまま入っていける空間になっていることが、とても魅力的に思えた。 森そのものは、想像していたほどの大きさはなく、当時はまだ植樹された人工林という感じが残っていた。 その後、十日町南中学校で森づくりに取り組むプロセスや、ホリスティック教育協会のセミナーなどで訪問 するたびに、みるみる樹々が大きくなっていった。 98年、新緑を過ぎて葉も繁茂した6月に訪れたときには、 こ の 森 の な か に 足 を 踏 み 入 れ た と た ん に、 「 あ あ、 空 気 が ま っ た く 変 わ る 」 と 感 じ た。 外 か ら 眺 め て い る と 小 さ な 森 だ け れ ど、 な か に 入 る と、 「 学 校 」 と い う 世 界 と は 別 世 界 に な る。 頭 上 に は す で に 樹 々 が 高 々 と 枝 葉を広げて木漏れ日だけを許し、ソデの中低木もしっかり育っているため周りを見渡しても校舎などが見え ない。時間の流れ方も変わるようで、いったんこの森の世界に入ると、なかなか外に出て行きたくなくなる。 目を閉じて、大きな息をすうことができる。 教室と廊下と体育館と運動場。それだけではない、いわゆる「学校的」ではない時空が、学校のなかの一 部に、たしかに出現している。そして、学校の風景が変わる。そのことのもつ意味は大きい。 いま「森」を学校の空間の中に植え込み、それを育てる実践は、象徴的なまでのインパクトをもつ。実践 的にも思想的にも、近代学校の近代的な限界を問い直して、ポスト近代を射程にいれて学校の存在意義を再 定 義 す る 意 味 を も ち う る。 と く に、 こ の 列 島 の 縄 文 以 来 の 古 層 に 根 ざ す「 森 の 思 想 」 を 考 慮 に 入 れ る と き、
そうである。それは、野生の自然と人間とのかかわり、伝統と近代のかかわり、地域に根ざすローカルな文 化 と グ ロ ー バ ル 化 し て い く 文 明 と の か か わ り、 神 話 的 ( 物 語 的 ) 思 考 と 啓 蒙 近 代 の 合 理 的 思 考 と の か か わ り など、私たちの社会と地球が 21世紀も持続可能であるために問わなければならない課題と、真正面から向き 合わせてくれるからである。 こ の よ う な 課 題 を 引 き 受 け つ つ、 国 境 を 越 え て 協 働 し て い く た め に 共 有 さ れ て き た の が、 「 ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 」 と い う コ ン セ プ ト で あ る。 そ し て、 『 ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 / い の ち の つ な が り を 求 め て 』 ( ミ ラ ー 1 9 9 4) の 著 者、 カ ナ ダ の ジ ョ ン・ ミ ラ ー 氏 や、 韓 国 の ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 実 践 学 会 の 初 代 会 長 金 キ ム ・ ミ ョ ン ジ ャ 明 子 女 史 な ど の 紹 介 に よ っ て、 海 外 に ま で 知 ら れ る よ う に な っ た 日 本 発 の ホ リ ス テ ィ ッ ク な 教 育 の 代 表 的 な 事 例 が、 「 学 校 の 森 」 づ く り の 実 践 で あ る。 こ の 実 践 と そ れ を 創 出 し た 山 之 内 義 一 郎 氏 の 思 想 と カ リ キ ュ ラ ム 理 論 の な か に は、 ホ リ ス テ ィ ッ ク な 志 向 が 集 約 的 に 表 現 さ れ て い る ( 2) 。 言 い 換 え れ ば、 そ れ を ま さ に ホ リ ス ティックなものとして捉えなおすときに、その多層的な意義を、人類史的な課題をも視野に入れて、十全に 理解することができる。では、どのような意味においてそうなのか。 以 下、 ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 の 育 む「 6 つ の つ な が り 」 に 即 し て、 「 学 校 の 森 」 の 実 践 的 な 意 義 を 整 理 し て いこう。ジョン・ミラーの提案をうけて、筆者は日本の教育界の動向を加味しつつ、次のような「6つのつ ながり」を育むものとしてホリスティック教育を定義した (吉田1999) 。 ① 全人教育の志向/意志―感情―思考―直観のつながり ② 総合学習の志向/さまざまな教科領域の間のつながり ③ 生涯学習社会の志向/家庭―学校―地域のつながり
④ 地球市民教育の志向/個人と人類共同体とのつながり ⑤ 環境教育の志向/自然と人間と文化のつながり ⑥ 臨床教育の志向/自我と自己 (スピリチュアリティ) とのつながり 論 述 の 順 番 と し て は、 5 番 目 か ら 1 番 目 の つ な が り へ と 遡 り、 最 後 に 6 番 目 の つ な が り に 言 及 し て 論 を 深 め る。 そ し て、 そ れ ら を「 い の ち の つ な が り 」 を 育 む も の と し て 総 合 す る。 ジ ョ ン・ ミ ラ ー の『 ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 』 を 邦 訳 し た と き、 そ の 副 題 に ( 原 著 に は な か っ た が ミ ラ ー 氏 に 了 承 を 得 て ) 付 し た 和 語 が「 い のちのつながりを求めて」であった。この「いのちのつながり」を豊穣に感受させ表象できるメディアとし て、 「森」ほどの力をもつものは、なかなか他に見当たらない。 ₁ 自然 と 人間 と 文化 のつながり / 環境教育の志向 地 球 規 模 の 森 林 伐 採 や 化 石 燃 料 使 用 の 増 大 に よ る 温 暖 化 の 進 行、 郷 土 の 山 や 川 や 海 と 結 び つ い た 暮 ら し を 支 え る 地 域 環 境 の 破 壊 ……。 学 校 の ス ペ ー ス に 実 際 に 森 を つ く り 育 て る 実 践 が、 21世 紀 の 人 類 の 切 迫 し た 課 題 に 応 じ る 環 境 教 育 の 実 践 で あ る こ と、 そ れ に は 多 言 を 要 し な い。 ジ ョ ン・ ミ ラ ー も、 彼 の 諸 著 作 に お い て この日本の学校の森づくり実践を、 「地球とのつながり」を志向する事例として紹介している ( Miller, 1996 ) 。 しかしそれは、狭い意味の環境教育の枠に収まらない。ポイントは、この「学校の森」は、もし原生林が この地域に残っていたとしたら、どのような植生の森であるか、その地域自然植生の調査を踏まえた生態系 の 森 で あ る こ と。 美 的 景 観 の た め の 緑 化 事 業 や、 二 酸 化 炭 素 を 吸 収 し 酸 素 を 供 給 す る た め の 植 林 事 業 で は
ない。この違いは大きい。自分たちの生存のために植林するという発想は、自然を手段視し、人間がコント ロ ー ル す る 対 象 と し て み る 操 作 的 な 構 え の 枠 内 に あ る。 生 態 系 を 模 し た 森、 「 野 生 の 森 」 を 人 工 的 に つ く る というのは、その枠を越えた大胆にして微妙な、ある意味ではパラドキシカルな発想である。 自然植生を模した多様な樹種からなる森をつくれば、四季をめぐるその成育のプロセスで、それぞれの樹 が自らにふさわしい場所と大きさを得ながら、土壌を育て、鳥や虫を呼び寄せ、相互に依存しあう生態系を 自ら創り出す。もちろんそれも人工的に創るものであるが、次第に森そのもののもつ自己創出的な秩序形成 作用がはたらいて、そこにダイナミックないのちのつながりが生み出されていく。 このような森を創ったあと、それは枯葉を落とす雑木林であるから、秋深まると周辺道路にたくさんの落 ち 葉 が 舞 い 落 ち る。 近 隣 か ら 苦 情 も 出 よ う。 川 崎 小 学 校 で は、 そ れ を「 落 ち 葉 返 し 」 と い う「 返 し 技 」 で、 環 境 教 育 に つ な げ っ て い っ た と い う ( 詳 し く は 本 書 1 2 0 頁 ) 。「 落 ち 葉 」 と い う の は、 邪 魔 な ゴ ミ で は な く 次のいのちを育んでいく土壌のもとになる。自然にあっては、生の終わりは新たな生の始まりである。それ を学びながら、子どもたちはアスファルトの道路に落ちた枯葉をかき集めては、森の木々の足元に返してい く。生と死が循環しながらつながっていくいのちの営みを、こうして人間の手も加えて支えることを学ぶ体 験。人間のための適切な「環境」の整備を学ぶ環境教育ではなく、天地自然の営みに人間が参与してともに 生きていく、そのような「天地の化育を賛 たす ける」 (『中庸 』 ) ような教育。 い の ち が つ な が る こ の 働 き の な か で、 人 間 は 生 か さ れ て い る の で あ っ て、 そ の 逆 で は な い。 「 自 然 」 と 「 人 間 」 と の 共 生 を 学 ぶ と き、 ま ず こ の「 い の ち の つ な が り 感 」 を 感 受 で き る か ど う か は 決 定 的 な こ と で あ る。しかし同時にまた、手つかずの野生の森へのロマンだけで人間は生きられるものではない。人間は、や
はり自然に働きかけて意図的に改変していく「文化」をつくる存在であること。 「森」と「里山」と「林業」 。 森の動植物とともに生きる人間の文化。それらを学ぶためにも、まずは、始原の森にまで遡ってみようとす る。野生の自然の森を、意図的に作り出してみようとする不自然な実践にあえて取り組む。そこに、自然と 人間と文化との、けっして予定調和的ではない、矛盾や葛藤のある微妙な関係が映し出される。 自然の森を人工的につくるという不自然な実践は、むしろそのパラドックスのなかに、従来の教育の発想 を越える可能性を秘めている。自然の一部でありつつ、そこからはみ出してしまう不自然なホモ・サピエン スという種が背負った矛盾に、この森づくりの実践は正面からチャレンジしている。このパラドックスを自 覚的に引き受けていくとき、自然を支配するだけの文明ではなく、自然とともに生きる文化を未来へ向けて 再創造していく現代的課題に、単に自然を賛美するロマン主義を超えて、取り組んでいくことができる。 なぜお金をかけてまで「雑木林」なんかをつくるのか、という反発を含んだ疑念が、森づくりを提案した 当初に強くあったと、そのように山之内氏は述懐している。想像に難くない。それほど、自然の森を創ると いうのは、従来の教育を発想する枠組みを超えた、創意あふれるチャレンジだった。 ₂ 個人 と 人類共同体 とのつながり / 地球市民教育の志向 「 学 校 の 森 」 の 実 践 は、 学 校 教 育 の 目 的 を、 「 持 続 可 能 な 社 会 の 構 築 」 と い う 社 会 目 標 と、 「 自 己 発 見 の 喜 び ( 生 き が い ) 」 と い う 個 人 目 標 と か ら 捉 え る 目 的 意 識 に よ っ て 支 え ら れ て い る。 「 自 己 発 見 」 の 方 は 後 述 す る が、 「 持 続 可 能 な 社 会 を つ く る 」 と い う 教 育 目 標 が、 た と え ば 国 際 市 場 競 争 の な か で 勝 ち 残 れ る 社
会 を つ く る と い っ た 目 先 の、 国 家 レ ベ ル で の 利 害 に 縛 ら れ た 目 標 を 超 え て 明 確 に な っ て い る と こ ろ に、 こ の「学校の森」実践の今日的な意義がある。国連・ユネスコが提唱した「持続可能な開発のための教育 10年 ( 2 0 0 5 ― 2 0 1 4 年 ) 」 ( こ の 提 唱 に は 日 本 政 府 も 責 任 あ る 役 割 を 果 た し た ) が は じ ま っ て い る が、 こ れ は、 そ の先行的なモデルとして注目されてよい (吉田+永田+菊地2006) 。 地 球 環 境 問 題 に か か わ る 意 義 に つ い て は 先 に 述 べ た が、 こ の 問 題 に 対 応 す る に は 開 発 や 貧 困 を め ぐ る 南 北 格 差 問 題 が 絡 ん で い る こ と を グ ロ ー バ ル な 視 野 か ら 捉 え な お し、 か つ ロ ー カ ル な 足 場 か ら 一 つ ひ と つ の 実 践 に 取 り 組 む 必 要 が あ る。 身 近 な と こ ろ に 森 を 実 際 に つ く り 育 て る 経 験 は、 そ の「 グ ロ ー カ ル 」 ( 山 脇 2 0 0 4) な 視 野 と 実 践 力 を 育 む 契 機 と な る。 こ こ で と り わ け 注 目 し て お き た い の は、 「 森 づ く り 」 が、 こ のような空間的な視野の広がりだけではなく、時間的な、世代を超えてつながる未来へのまなざしを育てる 点である。 十 日 町 南 中 学 校 の「 学 校 の 森 」 に 建 て ら れ た 記 念 碑 の 言 葉 ― 「 南 の 森 未 来 を み つ め、 森 を 育 て、 森 に学び、森とともに生きよう」は象徴的だ。植樹のあとの中学生たちの感想にも、はっきりと長いスパンで 未 来 を み つ め、 だ か ら こ そ 今 し て い る こ と の 意 味 と 喜 び を 感 じ 取 っ て い る こ と が う か が え る ( 本 書 1 3 3 頁 ) 。 ひ と つ 抜 粋 す れ ば、 「 …… 今 本 当 に 自 然 破 壊 を し て、 鳥 も 住 め な く 絶 滅 動 物 も 多 く な っ て い ま す。 南 中 の 森 も何十年もすれば鳥がやってくるでしょう。何百年もたてば、教室から見える風景も木々で見えなくなるで しょう。私はうれしいです。私たちが卒業する前に、自分たちの手で植えたことです。きっとこれから一生 自慢できる宝物になると思います」 。 何のために学校で学ぶか。いま自分が教えているのは、何のためか。単に受験学力をつけさせるためだけ
ではない目標をもって奮闘している先生たちがたくさんいる。この子どもの幸せを願い、この子がこの社会 で生きていく力を身につけさせたいと。ただ、この「森づくり」の実践に凄みがあるのは、そこで中学生た ちは、ただ自分自身の人生にとってプラスになるから森をつくったのではないことによる。彼らが森をつく る こ と の 喜 び と 誇 り を 得 て い る の は、 い ま は「 は げ 山 」 の よ う な 自 分 た ち の 植 え た 木 が、 「 何 十 年 も か か っ て 」 森 に な り、 後 輩 た ち、 あ る い は ま だ 生 ま れ て い な い 来 る べ き 世 代 に 喜 ん で も ら え る か ら で あ る。 「 七 世 代 先 の 人 た ち の こ と を 考 え て、 今 な す べ き こ と を せ よ 」 と は ネ イ テ ィ ブ・ ア メ リ カ ン の 箴 言 で あ る が、 「 森 づくり」は、現在世代ではなく将来世代への想像力をもった学びを実践できる類まれな力をもつ。かつてよ り里山を守り育ててきた人たちは、自分の世代ではなく未来の世代をみつめていた。 現在世代が自世代の利益を優先して考えることに疑問を抱かなくなったとき、この社会は持続可能なもの で な く な る。 学 校 教 育 も、 教 育 サ ー ビ ス の 消 費 者 の ニ ー ズ に こ た え る よ う に 追 い 立 て ら れ る 風 潮 の な か で、 ますます私的な利益の追求が当然視されるようになっている。学校が、私的ニーズへのサービス機関に堕す るとき、その公教育機関としての存在意義を失うだろう。私的利益を超えた遠い未来の福利に思いはせるこ とのできる「森づくり」実践は、公共的な教育の機関としての公教育の存在意義を取り戻すという切迫した 課題に呼応するものでもある。 ₃ 学校︱家庭︱地域 のつながり / 生涯学習社会の志向 「 学 校 の 森 」 を つ く る に あ た っ て、 山 之 内 校 長 の 小 学 校 で も 佐 川 校 長 の 中 学 校 で も、 P T A 組 織 が 実 質 的
な 働 き を し て い る こ と は 特 徴 的 で あ る。 森 づ く り の 準 備 プ ロ セ ス の す べ て に 教 職 員 や 子 ど も た ち が か か わ る時間的な余裕がない現実もあろうが、森をつくっていく人的なネットワークは教員集団よりも地域社会が もっていることが多く、また、なにか学校の役に立ちたいと願っている親たちにとって、子どもへの直接的 な教育活動にかかわるのは躊躇われても、このような学習環境作りは手伝いやすい。森をつくると学校と地 域の「つながり感」が一気に深まると言われる。親や地域住民が頻繁に学校に出入りして森をつくる活動を ともにすることによって、親が学校と地域をつないでいき、学校が地域に開かれていく。 地域と連携する開かれた学校づくりは、日本の各地ですすめられている。そのような試みと比して、やは り「森」ならではの効用がある。つくるプロセスで多くの人がかかわるだけでなく、ともに汗を流してでき 上がった森が、学校という空間の中に存在し続ける。それは、学校と父母・地域との共催行事にありがちな、 その場かぎりの単発のイベントではない。自分たちが作った森が、しっかり姿を現して学校のなかに存続し、 年ごとに成長していく。それを見守り続けるのは、かかわったすべての人にとって喜びである。そして、そ の成長を支えていくには持続的な世話が必要でもあり、そのために「森の会」というボランティア・グルー プが各学校で誕生し活動を続ける。 学 校 と い う 教 育 空 間 に あ っ て、 「 森 」 は、 独 特 の ス ペ ー ス を 生 み 出 す。 教 室 が 並 ぶ 校 舎 と 体 育 や ク ラ ブ 活 動をする運動場。それだけでデザインされた学校には、気軽に学校のなかに入ってくださいと呼びかけても、 一般の地域の人には敷居が高いだろう。隅々まで「教育的」な意図で埋め尽くされた学校空間には、教育者 という役割をもたない大人のための居場所がない。それに対して、学校に忽然と姿を現した「森」は、教育 施 設 と し て デ ザ イ ン さ れ た の で は な く、 「 自 然 」 を 模 し た 森 な の で あ る。 そ こ で は「 自 然 体 」 で い る こ と が
できる。幼稚園の子どもたちがお散歩に立ち寄ってドングリを拾っていく、お年寄りが森のベンチに腰掛け てボーっと生徒たちの様子を眺めている。そのようなオープンスペースが学校と地域の「間 あわい 」に生まれてい くこと、それは「自然の森」ならではの効用であるだろう。 学校の森は、近代学校の風景を変えていく。地域の暮らしのなかで親の足元にいるだけでは学べないこと を、 子 ど も た ち を そ こ か ら 引 き 離 し て 特 別 な 時 間 と 空 間 に 囲 い 込 ん で 教 え て き た 近 代 学 校。 し か し、 学 齢 期 の 子 ど も だ け を 一 ヵ 所 に 隔 離 し て、 教 育 専 門 家 ( 教 師 と い う 大 人 ) だ け の 手 に よ っ て 教 育 す る と い う 発 想 そ の も の が、 限 界 に き て い る。 こ れ か ら の 学 校 は、 学 社 融 合 ( 学 校 教 育 と 社 会 教 育 の 融 合 ) の 生 涯 学 習 社 会 の 中 核 施 設 と し て、 あ ら ゆ る 年 代 層 の 人 た ち に 開 か れ た 学 び の 公 共 空 間 で あ る こ と を 求 め ら れ る。 公 園 ( パ ブ リ ッ ク ス ペ ー ス ) を 中 心 に し て、 幼 稚 園 か ら 老 人 ホ ー ム ま で を 総 合 的 に 配 置 す る 学 習 公 園 化 構 想 な ど も 出 さ れているが、 「学校の森」は、こういった発想をより現実的な形で先取りしている。そして、 「森」が、空間 的にだけでなく、時間的な射程の長い存在様式であることが、やはりここでも効果的だ。卒業生にとっても、 森のある学校には帰りやすい。教えてもらった先生には異動や退職があっても、森はいつでも、さらにこん も り と 茂 っ た 懐 を 深 く し て、 迎 え 入 れ て く れ る。 世 代 を 超 え た や わ ら か い 交 流 が、 「 森 」 を メ デ ィ ア と し て 生まれていくことが期待できる。 ₄ さまざまな 教科領域 の 間 のつながり / 総合学習の志向 「 総 合 的 な 学 習 の 時 間 」 が 学 習 指 導 要 領 に 登 場 す る は る か 以 前 か ら、 こ の「 学 校 の 森 」 に 結 実 す る「 総 合
活動」が、山之内氏の創意によって取り組まれていた。高度で多元的な価値を秘める「森」は、国語や理科 や社会科などの教科、道徳や学校行事などの領域を結びつける総合学習のコアとなりえる。それは本書でも 実践例が挙げられているし、理解しやすいことだろう。ここであらためて確認しておきたいのは、山之内氏 にとって、なぜ総合学習だったのか、そのコアとなる総合活動をどのような洞察力でもって選び取ったのか、 という2点である。というのも、総合学習というのは、従前の近代学校のカリキュラムに追加された一つの 付 加 物 な ど で は な く ( 単 な る「 ゆ と り の 時 間 」 や「 体 験 学 習 」 な ど で は な く ) 、 近 代 学 校 の 役 割 そ の も の を 再 定 義するほどの意義をもつことを、十分に理解しておく必要があるからだ。そうでなければ、学力低下論など によって、簡単に揺さぶられて押し戻されてしまう。 まず、総合学習への出発点は、 「はじめに教科ありき」ではなく、 「はじめに教育目標ありき」なのだとい うことに気づきなおすことだったという。自分の教える教科をどうしたらうまく教えられるか、ということ に日々の実践のなかで真摯に取り組んでいるからこそ見失われがちなこの原点。実践者としての苦悩に共感 し つ つ、 し か し、 「 分 化、 専 門 化 し た バ ラ バ ラ な 教 科 を そ の ま ま に し て 指 導 法 に 腐 心 し て き た が、 そ う で は なく、まず、教育目標に直結する生きた実践課題にどう取り組むか、という総合的な体験活動をどうするか が 中 心 の 課 題 で あ っ て、 そ の 体 験 と 深 く「 つ な が り 」 合 っ て い る 教 科 の 指 導 を も 含 め て 学 校 教 育 の 全 体 を、 総合的に考えていくことが大切なのである」と強調されている (本書 66頁) 。 そ の 教 育 目 標 と は、 先 に 述 べ た よ う に「 自 己 発 見 の 喜 び 」 と「 持 続 可 能 な 社 会 の 建 設 」、 あ る い は「 い の ちのつながり感」と「学ぶ喜び」である。このような目標を言葉のうえで共有することは、それほど困難な こ と で は な い。 大 切 な の は、 そ れ を 美 し い 理 念 に 終 わ ら せ な い、 「 一 点 を 押 せ ば、 み ん な ふ っ 立 つ 」 よ う な
「ツボ」となる「生きた実践課題」を具体的にどう設定するかであろう。そのようなツボとなる中心課題を、 それぞれの学校の実態のなかで探り当てること。その洞察力を、山之内氏は「全体直観」や「ホリスティッ ク・ イ ン サ イ ト 」 と い う 言 葉 で 表 現 し て い る。 切 実 な 問 題 意 識 を も っ て 実 践 を「 内 省 」 す る な か で、 深 層 意 識 と 接 触 し て 点 火 す る「 こ こ は 森 だ!」 と い う 全 体 直 観。 第 1 章 で は、 印 象 深 い「 耕 し て 天 に 至 る 棚 田 」 の 風 景 か ら 得 た 気 づ き が 語 ら れ て い る ( 3) 。 こ こ で は、 と く に 次 の 一 節 を 引 用 し た い。 「 教 師 の 実 践 と い う の は、 あれもこれもただこなしていくのではなく、その中にとても重要な意味のある実践がある。その実践は日常 的なあらゆる実践と深くつながっていて、それは常に心掛けておくべき大切なものである。その実践こそ忘 れてはならない一点だというのである」 (本書 11頁) 。 あ ら ゆ る 実 践 と 深 く つ な が っ て い る こ の 一 点 の ツ ボ を 押 さ え る 学 び の こ と を、 総 合 学 習 と 呼 ぶ の で あ る。 都 市 部 の 学 校 で は そ れ は「 学 校 の 森 」 で あ っ た し、 棚 田 に 囲 ま れ た 山 間 部 の 学 校 で は、 た と え ば「 民 話 の 聴 き 取 り 」 か ら は じ ま る 総 合 活 動 だ っ た。 そ の 一 点 を 大 切 に す る こ と で、 「 私 自 身 の も の の 見 方 が 変 わ れ ば、 学 校 教 育 の方向性も方法も変わり、子どもも教師も地域も変わる体験を実証することができた」と山之内氏は語っている。 ₅ 意志︱感情︱思考︱直観 のつながり / 全人教育の志向 「 や っ て み て、 感 じ て、 そ れ か ら 考 え る 」 と い う「 学 校 の 森 」 実 践 で 共 有 さ れ て き た 合 言 葉 は、 シ ン プ ル だが意味深い。森づくりのような実践が、単なる「体験学習」 、「はいまわる経験主義」に陥らないためには、 そ れ を 教 育 目 標 に 直 結 す る カ リ キ ュ ラ ム の 核 心 的 な 実 践 課 題 ( = 総 合 活 動 ) と し て 位 置 づ け つ つ、 そ の 活 動
で 得 ら れ る 情 意 を 思 考 や 認 識 に 結 び つ け て い く プ ロ セ ス を 全 体 と し て 見 通 せ る 必 要 が あ る。 そ の 点 で、 子 ど も の 人 格 の 全 体 性 を 身 体 ― 心 ― 精 神 の 三 層 で 捉 え、 各 層 の 発 達 と 教 科 群 の 目 標 を「 串 刺 し 」 に し て 有 機 的 な つ な が り を 明 示 し た、 山 之 内 氏 の 教 科 カ リ キ ュ ラ ム の 構 成 原 理 は 重 要である。 人 格 の 全 体 性 を、 ボ デ ィ ( 身 体 ) ― マ イ ン ド ( 知 性 ) ― ス ピ リ ッ ト ( 精 神 ) や、 手 ( ハ ン ド ) ― 心 ( ハ ー ト ) ― 頭 ( ヘ ッ ド ) 、 あ る い は 意 志 ― 感 情 ― 思 考 の 三 層 で 捉 え な が ら、 前 者 が 後 者 の 土 台 を 形 作 っ て い く そ の 有 機 的 な 連 関 を 解 明 す る 理論は、 精神科学的教育学をはじめ、 近代教育学が常に探求してきた。そのなかにあって山之内氏のカリキュ ラ ム 構 成 原 理 の 特 長 は、 「 学 ぶ 喜 び 」 を、 身 体 の 層 に お け る「 で き る 喜 び 」、 心 ( マ イ ン ド ) の 層 に お け る「 わ か る 喜 び 」、 精 神 の 層 に お け る「 心 を 決 め る 喜 び 」 に 分 節 し、 そ の そ れ ぞ れ の 喜 び を 生 み 出 す こ と に 各 教 科 の 課 題 を 据 え な お し、 そ れ ら を 学 校 教 育 の 中 心 目 標 で あ る「 自 己 発 見 の 喜 び 」 に 結 び つ け た と こ ろ に あ る ( 山 之 生きる喜び 心を決める喜び 認知 精神 身体 感情 〈教育目的〉 自己発見の喜び 学ぶ喜び 〈自己の層構造〉 〈中間目標〉 理科 数学 社会 国語 総合学習 道徳・特別活動 家庭・技術 体育 英語 理解類型 技能類型 音楽美術 表現類型 〈教育課程〉 できる喜び あらわす喜び わかる喜び 吉田敦彦『ホリスティック教育論』日本評論社,79頁(一部改訂) 図1 三層一核のつながりによる教育課程の立体的構造
内2001、本書 23頁) 。 図1 は、 「表現」と「感情」の層を補足して、その立体的な構造を示したものである。 そこでは、前節で見たような総合学習を中核としたさまざまな教科の「つながり」と、子どもの全人的な 人格層との「つながり」が、重層的多次元的な「学ぶ喜び」という一貫した教育目標によって貫かれ、つな ぎ合わされる。このような教育課程の全体を見通しながら、多層的な「つながり」を生み出すことのできる 教 材 が 選 び ぬ か れ る わ け で あ る。 そ こ に、 「 学 校 の 森 」 と い う 教 材 が、 豊 か な 抜 群 の 潜 在 力 を も つ も の と し て選ばれてくる。それが、子どもの内面から世界の全体性へ向けて幾重にもつながっていく「いのちのつな がり」を内包しているからである。 「 学 校 の 森 」 の 実 践 は、 小 学 校 段 階 だ け に と ど ま ら ず、 本 書 で 紹 介 さ れ る よ う に、 幼 稚 園 か ら 高 校 段 階 ま で取り組まれている。人格の三層を子どもの成長段階という時系列によって有機的につなぎ合わせていく発 達理論に、シュタイナーのカリキュラム理論がある。これを先のカリキュラム理論に重ね合わせてみるとき、 そ れ ぞ れ の 学 校 段 階 で 特 有 の 課 題 も 浮 き 彫 り に な っ て 興 味 深 い。 意 志 ( 身 体 ) か ら 感 性 の 発 達 が 中 心 課 題 と なる小学校段階では、たとえば木々の気持ちになりきって森に感応して対話するアニミズム的な子どもの感 性、つまり「いのちのつながり感」の育成に焦点が当たる。中学校から高校の段階にかけては、今ここで感 応する「いのちのつながり感」を土台としつつも、さらに視野を長いスパンで未来へ向けて、持続可能な社 会 の 建 設 の た め に 必 要 な 知 見 を 得 た り、 遠 い 南 の 国 で 起 こ っ て い る 問 題 な ど グ ロ ー バ ル な 社 会 認 識 を 得 て、 その世界認識の中での自己の生き方を考える自己認識に結びつけていくことができよう。このような発達の 時間軸でみても、森の教材性は極めて豊かである。 子 ど も の 部 分 だ け を み て 全 体 を 見 失 う よ う な 現 代 の 学 力 観。 「 木 を 見 て 森 を 見 な い 」 と い う 諺 を 想 い 起 こ
そう。一本の「木」が、その背後にある土壌の微生物や訪れる虫鳥の織り成す「森」全体の営みにおいては じめて存在すること。これを学びつつ、子どもたちは近視眼的ではない空間的にも時間的にも射程の広く長 い想像力と思考力を身につけていく。このような視野は、教育の意味と課題を認識する大人たち自身に、ま ずもって必要なことだろう。 「学校の森」の実践は、 「木を見て森を見ない」ような要素還元主義的な短絡思 考 を 戒 め、 「 木 を 通 し て 森 を 見 る 」 こ と の で き る ホ リ ス テ ィ ッ ク な 思 考 法 を 子 ど も も 大 人 も 身 に つ け て い く シンボリックな意味をも持つ実践だと言える。 「 ホ リ ス テ ィ ッ ク・ デ ィ ベ ロ ッ プ メ ン ト 」、 つ ま り 全 人 的 な 個 人 の「 発 達 」 の プ ロ セ ス と、 持 続 可 能 で 地 球 規 模 の 視 野 を も っ た「 開 発 」 の た め の 教 育 は、 国 連・ ユ ネ ス コ が 21世 紀 の 教 育 の 最 重 要 の 課 題 と し て 提 唱 し て い る も の で あ る。 ユ ネ ス コ は ま た、 「 行 動 す る た め の 学 び Learning to do 」、 「 認 識 す る た め の 学 び Learning to know 」、 「ともに生きるための学び Learning to live together 」、 「存在を深める学び Learning to be 」 と い う 4 つ の 学 び を 統 合 し た 学 び を 呼 び か け る ( ユ ネ ス コ「 21世 紀 教 育 国 際 委 員 会 」 1 9 9 7) 。 以 上 の よ う に 見 て く る と、 「 学 校 の 森 」 実 践 は、 そ の た め の 実 に 有 力 な モ デ ル の 一 つ と な る も の で あ る。 し か も そ れ は、 こ れ ま で 論 及 を 先 送 り し て き た「 存 在 を 深 め る 学 び Learning to be 」 を 支 え る 垂 直 の 深 さ、 つ ま り 「ホーリネス (聖なるもの) 」の次元をも内包しているのである。いよいよ次にそれを見ていこう。 ₆ 自我 と 自己 ︵ スピリチュアリティ ︶ とのつながり / 臨床教育の志向 「 学 校 の 森 」 は、 「 全 体 性 ( ホ ー ル ネ ス ) 」 だ け で な く、 ス ピ リ チ ュ ア ル な「 聖 な る も の ( ホ ー リ ネ ス ) 」 に
も ふ れ る こ と の で き る 潜 在 力 を も っ て い る。 「 学 校 の 森 」 実 践 が 意 味 深 い の は、 以 上 に み た 5 つ の「 つ な が り」を育むことに尽きず、現代社会のなかで断ち切られがちな「自己」や「いのち」とのつながりを取り戻 す「癒し (ヒーリング) 」の場ともなる。そしてその「森」のもつ力の根源は、 この列島に縄文の古来より培 わ れ て き た 精 スピリチュアリティ 神 性 に ま で 遡 及 す る こ と が で き る。 最 後 に こ の 次 元 の つ な が り を み て、 そ の 優 れ て「 ホ リ ス ティック holistic>holos<whole, holy, heal 」な意義を捉えたい。 「 森 の な か に よ く 一 人 で い る 子 ど も を み か け る こ と が あ り ま す 」 と 報 告 さ れ て い る。 そ し て、 そ の 姿 を、 「 そ こ に い る だ け で 落 ち つ き、 元 気 に な り、 癒 さ れ る よ う で す 」 と 見 て 取 っ て い る ( 本 書 1 1 7 頁 ) 。 そ の よ う な ま な ざ し を 向 け る こ と の で き る 先 生 に だ か ら、 あ る 子 ど も は た と え ば こ の よ う に 内 心 を 打 ち 明 け る。 「勉強が嫌になったので森のなかにいたら、何だか勉強したくなってきたので教室へ戻ったんです」と。第 部 第 2 章 の「 森 の 中 の メ デ ィ テ ー シ ョ ン・ ル ー ム ― 癒 し の 場 」 で 語 ら れ て い る こ の 報 告 は、 こ と の ほ か 大 事なことだと思う。 「一人になることのできる時空」 、「ただそこに居るためだけに、そこに居ることのできる場所」 。このよう な居場所は、なかなか学校のなかにあるものではない。学校という意図的教育の機関においては、すべての 時 空 が 濃 密 な「 教 育 的 配 慮 」 に よ っ て 機 能 化 さ れ、 隅 々 ま で コ ン ト ロ ー ル さ れ て い る。 「 森 の な か 」 と い う 居場所が、管理的な一望監視のまなざしから子どもを解放する。たとえば「保健室」が、その本来の機能を 超 え て、 か ろ う じ て そ の よ う な 居 場 所 に な り う る こ と が 知 ら れ て い る。 そ こ は、 「 教 授 ― 学 習 ― 評 価 」 の ま な ざ し か ら 自 由 な 場 所。 昨 今 で あ れ ば、 「 相 談 室 ( カ ウ ン セ リ ン グ・ ル ー ム ) 」。 そ こ で は、 「 教 育 ― 指 導 ― 評 価」とは異なるコミュニケーションを目的として、そのための専門家が待っている。それらが癒しの場所に
な り う る こ と を 否 定 し な い が、 し か し そ こ に は、 や は り あ る 役 割 目 的 を も っ て 待 ち 受 け て い る 誰 か が い る。 これらと比べて特筆すべきは、 「森」には、誰もいないこと。森で待っているのは、 「自然」である。つまり、 何かの目的のために組織された機能的道具的な世界ではなく、 「おのずから然り」の世界である。 何かのために存在するのではなく、それ自体のために存在する世界。有用であるから存在することに意味 があるのではなく、ただ存在することそのものに意味がある。 「学校の森」は、 「学校」という前者の価値が 支 配 的 な 世 界 の な か に、 「 森 」 が 体 現 す る 後 者 の 価 値 を 導 き 入 れ よ う と す る チ ャ レ ン ジ で あ る。 人 間 に 木 材 を供給するために、あるいは美的景観を提供するために作られたのではなく、その地域の自然がもし「あり の ま ま 」 に 働 い た な ら ば 形 作 る で あ ろ う 自 然 植 生 を 再 現 し た「 学 校 の 森 」。 そ の よ う な「 あ り の ま ま 」 の 姿 を映し出す森の中だからこそ、子どももまた、ありのままでいられる。 「 も っ と こ う で あ る べ き 」 と い う ま な ざ し に 晒 さ れ 続 け て、 子 ど も た ち は 疲 弊 し て い る。 期 待 に 応 え よ う と し て 自 意 識 ば か り が 肥 大 化 し、 外 か ら の ま な ざ し を 内 面 化 し て 自 分 を 制 御 す る「 自 我 ( エ ゴ ) 」 ば か り が 発達する。学校にいればいるほど自分を見失う。自らの内なるいのちの働き、その源たる「自己」の声が聴 き取れなくなる。 森 の な か に 一 人 で 入 っ て 土 を さ わ り、 木 に 話 し か け る 子 ど も。 「 確 か に 森 の な か に い る と、 高 ぶ っ た 心 は 安 ら ぎ、 落 ち 着 い て く る の で す 」。 外 か ら 差 し 向 け ら れ る ま な ざ し か ら 解 放 さ れ て、 自 分 の 心 は 自 分 の な か に 落 ち 着 い て い き、 見 失 わ れ た 自 己 と の つ な が り を 取 り 戻 す。 「 癒 し 」 と い う の は、 そ の よ う に し て 自 我 と 自 己 と の つ な がりを回復することに他ならない。それは、この教育の究極目標と言われてきた「自己発見の喜び」でもある。 「 森 」 の な か で、 し ず か に 自 己 の 内 な る 声 に 耳 を 傾 け る。 そ う し て 自 己 と の つ な が り を 取 り 戻 す と き、 単
に癒されているだけでなく、その根底で自己を越えたいのちに触れている。自らの心の奥底から垂直に沸き 起こるいのちの力に触れて、ふたたび子どもはいきいきとした元気を取り戻す。そして、単なる個体の生命 を超えたいのちのつながりに結びついていく。森のもつスピリチュアルな力。最後に、もう少しこの次元に 踏み込んで、本章を締めくくりたい。 おわりに 太古からの呼び声に、人はどこかでそっと耳をすましている。/植物たちの声、森の声を私たちは聞く ことができるだろうか。あらゆる自然にたましいを吹き込み、もう一度私たちの物語を取り戻すことは できるだろうか。 (星野1996) 「学校の森」が育む、6つのつながりを見てきた。 「森」は「いのちのつながり」の、この上なく豊かで具 体的な表現である。今この列島の学校に森をつくろうとするとき、さらに言及しておきたいのはもうひとつ、 私たちの文化のルーツとのつながりである。グローバル化する世界のなかで、文明の波に洗われて文化の土 壌が急速に流れ去っていこうとしている。根を失って浮遊する私たちが、もう一度、文化を耕し、そこに根 を張りなおすことができるかどうか。学校というシステムよりも本来、人間を形成し育んできたのは、そこ に 生 ま れ 育 つ 文 化 の 土 壌、 そ の 豊 穣 な 沃 野 だ っ た だ ろ う。 平 板 に 固 め ら れ た 硬 い グ ラ ウ ン ド を 掘 り 起 こ し、 そこに根を張ることのできるマウンドづくりに、私たちはもう一度取りかからなくてはならない。いま一度、
太古の森からの呼び声に耳をすませて、私たち自身の物語を、もう一度語りはじめなくてはならない。 私事になるが、小さなストーリーを一つ。高野山など世界遺産に登録された多くの霊場を懐に抱えた紀伊 山 地 の 深 い 森。 「 役 の 行 者 」 ゆ か り の 修 験 道 の あ る 葛 城 山 の ふ も と で 育 っ た た め、 高 野 山 や 吉 野 山 も 繰 り 返 し遠足で訪れる場所だった。中学生のときには、夏休みに先生たちが男子生徒だけを募集して、女人禁制の 霊山大峰に連れていってくれた。下界とは違う森の霊気は、そのときに意識できている以上に、身体が覚え て い る。 だ か ら、 自 分 の 精 神 的 な ル ー ツ の 探 求 に 駆 ら れ た 青 年 期 に は、 自 ら 好 ん で、 そ こ へ 足 を 運 ん だ ( 縁 あ っ て、 20代 半 ば に シ ュ タ イ ナ ー の 人 智 学 を 学 び 始 め た と き、 高 橋 巌 氏 や 鎌 田 東 二 氏 や 小 杉 英 了 氏 と と も に、 天 河 弁 財 天 社 を 宿 泊 地 に し て、 吉 野 か ら 熊 野 へ 抜 け る 霊 場 め ぐ り の 小 さ な 旅 を し た こ と も あ っ た ) 。 断 ち 切 ら れ 遠 の い た「いのちのつながり感」を、自分なりに取り戻そうとしていたのだと思う。……家族を持つようになって、 こ の 森 を 子 ど も 連 れ で 歩 い た 今 年 の 夏。 ト チ ノ キ の 巨 木 ( 胸 高 直 径 6・ 77m ) に、 家 族 4 人 が 余 裕 で 入 れ る 大 き な 樹 洞 が あ っ た。 シ ン と 静 ま っ て 木 霊 に 満 ち て い る よ う な 樹 洞 内 部 の 気 配 に、 小 学 生 の 二 人 の 子 ど も は 息 を 呑 ん で い た。 次 の 日 に は、 ず っ と 見 た い と 願 っ て い た 真 性 粘 菌 ( ム ラ サ キ ホ コ リ ) の、 胞 子 を 飛 散 さ せ る 直 前 の 子 実 体 を 目 撃。 南 方 熊 楠 が 魅 入 ら れ て 研 究 し た そ れ で あ る ( 中 沢 1 9 9 2) 。 い ま も 森 の 時 空 で は、 小さなものから大きなものまで、途方もないいのちの営みが繰り返されている。 南 方 熊 楠 は、 明 治 政 府 の 神 社 合 祀 政 策 に よ っ て 伐 採 さ れ て い く 鎮 守 の 森 を 守 る 運 動 に 体 を 張 っ た ( 鶴 見 1 9 8 1) 。 そ し て、 川 崎 小 学 校 の「 学 校 の 森 」 は、 鎮 守 の 森 を 持 た な い 近 隣 の 新 興 住 宅 地 の 人 々 の、 い ま や夏祭りの舞台となっていると言う。 「 学 校 の 森 」 を つ く っ た 佐 川 氏 は、 新 潟 を 訪 れ た 私 を、 そ こ が 縄 文 土 器 の ふ る さ と で あ る こ と を 記 念 す る
モ ニ ュ メ ン ト に 連 れ て 行 っ た。 山 之 内 氏 は 本 書 第 3 章 の 冒 頭 で、 「 こ こ は 森 だ!」 と い う 直 観 が、 み ず か ら の無意識の古層に点火して生じたことを語る。近代学校の只中に、固いグラウンドを耕して森をつくるとい う果敢なチャレンジは、そのエネルギーを太古の森の深みから汲み上げている。それは、人類の文明史的な 射 程 を も っ た、 こ の 列 島 の 文 化、 さ ら に は 国 境 を 超 え て 連 な る 諸 文 化 に 通 底 す る ス ピ リ チ ュ ア リ テ ィ ( 4) を 再 生する運動でもあったのである。 註 ( 1) こ の「 学 校 の 森 」 訪 問 の 際 の 山 之 内 氏 へ の イ ン タ ヴ ュ ー の 記 録( 山 之 内 + 吉 田 1 9 9 3) に は、 と く に 氏 が 現 職 中に同僚教職員とどのようなつながりを生み出しながら学校づくりに取り組まれたかも語られていて興味深い。 (2) ト ロ ン ト 大 学 OISE で 開 催 さ れ た 第 1回 ホ リ ス テ ィ ッ ク・ ラ ー ニ ン グ 国 際 会 議 で は、 山 之 内 氏 自 身 が 日 本 で の 「 学 校 の 森 」 づ く り の 発 表 を 行 い、 ま た、 『 ENCOUNTER 』 誌( 『 Holistiic Education Review 』 誌 の 後 身 ) に もその紹介論文が掲載された( Yamanouchi, 2000 )。 (3) こ の「 ホ リ ス テ ィ ッ ク・ イ ン サ イ ト 」 は 極 め て 興 味 深 い も の で あ り、 「 文 化 の〈 い の ち 〉 へ の 洞 察 」 と し て 拙 著において詳しく考察した(吉田1999: 82― 85)。 (4) た と え ば 中 沢 新 一 の 一 連 の「 対 称 性 人 類 学 」 研 究( 中 沢 2 0 0 2 ほ か ) は、 こ れ に 人 類 史 的 な 展 望 を 与 え て く れ る。 ま た、 「 鎮 守 の 森 」 再 生 の N P O 活 動 な ど「 ス ピ リ チ ュ ア リ テ ィ」 の 次 元 を 踏 ま え た 広 井 良 典 に よ る 「 持 続 可 能 な 福 祉 社 会 」 の 構 想( 広 井 2 0 0 6) は、 以 上 の よ う な 探 求 の 領 域 横 断 的 な 連 携 の 可 能 性 を 示 唆 す るものである。 文献 鶴見和子(1981) 『南方熊楠/地球志向の比較学』講談社
吉田 敦彦 (よしだ あつひこ) 日本ホリスティック教育協会代表 1 9 6 0 年 生 ま れ。 大 阪 府 立 大 学 教 員。 主 な 著 書 に『 ホ リ ス テ ィ ッ ク 教 育 論 / 日 本 の 動 向 と 思 想 の 地 平 』 『ブーバー対話論とホリスティック教育』共編著『日本のシュタイナー教育』 『喜びはいじめを超える』ほ か。 手塚郁恵(1991) 『森と牧場のある学校』春秋社 中沢新一(1992) 『森のバロック』せりか書房 中沢新一(2002) 『人類最古の哲学(カイエ・ソバージュ1) 』講談社 広井良典(2006) 『持続可能な福祉社会』筑摩書房 星野道夫(1996) 『森と氷河と鯨』世界文化社 ミラー、J. (1994) 『ホリスティック教育/いのちのつながりを求めて』吉田・中川・手塚訳、春秋社 Miller,J.P., (1996) The Holistic Curriculum: Revised and Expanded Edition, OISE press. 山 之 内 義 一 郎 + 吉 田 敦 彦( 1 9 9 3) 「( イ ン タ ヴ ュ ー) 森 の あ る 学 校 」『 く ら し と 教 育 を つ な ぐ W e 』 1 9 9 3 年 7 月号( 4― 11頁) 山之内義一郎(2001) 『森をつくった校長』春秋社 Yamanouchi, G., (2000) Holistic Practices in Japanese Education, ENCOUNTER Vol.13-No. 1. 山脇直司(2004) 『公共哲学とは何か』筑摩書房 ユネスコ「 21世紀教育国際委員会」 (1997) 『学習/秘められた宝』天城勲監訳、ぎょうせい 吉田敦彦(1999) 『ホリスティック教育論/日本の動向と思想の地平』日本評論社 吉 田 敦 彦 + 永 田 佳 之 + 菊 地 栄 治( 2 0 0 6) 『 持 続 可 能 な 教 育 社 会 を つ く る / 環 境・ 開 発・ ス ピ リ チ ュ ア リ テ ィ』 せ せらぎ出版