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過 去 の 歴 史 に 真 正 面 から 向 き 合 う ということは 若 い 世 代 が 侵 略 の 歴 史 を 忘 れないこ と 学 び 続 けることだ と 私 は 理 解 する しかし 安 倍 政 権 の 教 育 政 策 はこのことばにそむ いていないか 私 自 身 は 若 い 世 代 も 謝

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Academic year: 2021

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2015 年 9 月 21 日 89 号

「グループ中国だい好き」会報

『中国だい好き』

我们很喜欢中国

!

Women hen xihuan zhongguo!

地雷原の手前で地雷を踏んだ安倍晋三首相

中国だい好き 会長 内田 知之 2015 年 8 月 14 日の夕方、首相安倍晋三による「戦後 70 年談話」が公表された(原文は朝 日新聞 2015 年 8 月 15 日朝刊を参照)。談話には「侵略」も「お詫び」も「謝罪」も言及され ないだろうという予想(私もそう予想した)に反して、この 3 つのキーワードはすべて談話 に入っていた。では、談話は多くの人びとの共感を呼ぶ内容だったのか。これらのキーワー ドの使われ方から首相の「国語力」を判断すると…。 侵略:「現在の平和は戦後日本の原点である」と書いた後で、「事変、侵略、戦争。いかな る武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」 と述べる。満州事変→日中戦争→アジア太平洋戦争という歴史の展開を念頭において、「侵略」 を中国侵略と読む人もいるかもしれないが、この記述自体は言葉の羅列であり、主体(主語) のない表現である。「私は侵略とは思わないが、侵略と判断してもらってもよい」という意味 なのか。 お詫び:「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお 詫びの気持を表明してきました」。これは安倍晋三あるいは安倍政権が主語になってはいない。 「我が国」が「お詫び」の主体である。非主体的言語表現そのものである。 謝罪:「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもた ちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。これは、「戦後生まれの首相である私 は謝罪なんかしないぞ」という居直りの暗示なのだろうか。しかしこの言葉に続けて、「日本 人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と書いている。 ●代 表 内田知行 042-464-8858 〒203-0034 東久留米市弥生 2-7-13 ●編集・発行グループ 内田知行 川村隆子 千田 茂 富岡幸雄 ●http://kuru2.genki.365.net/ (くるくる) ●http://zuixihuan.exblog.jp/(ブログ) ●

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- 2 - 「過去の歴史に真正面から向き合う」ということは、若い世代が侵略の歴史を忘れないこ と、学び続けることだ、と私は理解する。しかし、安倍政権の教育政策はこのことばにそむ いていないか。私自身は若い世代も謝罪意識、認罪意識を持ちつづけるべきだと思うが、そ れでは戦争に直接大きな責任を負った安倍の祖父、岸信介は侵略の歴史を受容して謝罪を続 けたというのか。「私は、祖父が“謝罪”をしなかったことについて、孫として中国人や韓国 人に“お詫び”をします」という文章で「謝罪」や「お詫び」を書いてくれるのであれば、私 は納得するのだが。 いずれにせよ、談話は「満州事変」以降の日本は「進むべき針路を誤り、戦争への道を進 んで行き」、最後には「敗戦しました」という歴史認識を示してはいる。しかし、この談話に ついて村山富市は、「村山談話を否定もしていないし、踏襲もしていない」「焦点がぼけて、 さっぱりなにを言いたかったのか分からない」【「村山元首相 談話『引き継がれた印象ない』」 朝日新聞 2015 年 8 月 15 日】ときわめて手厳しい。私も、老人にもっとわかりやすい文章で 書いてほしい、と願う。 政治思想史研究者の山室信一は、「『侵略』にしても、侵略一般を否定しているだけで、日 本が侵略したという文脈では使っていない」【山室信一「日本中心のアジア観反映」朝日新聞 2015 年 8 月 15 日】と適切な論評をする。中国人の石平は、「『安倍内閣がおわびする』と言 っているわけではない」とじつに率直な評価をする。『朝日』は石平を「中国からの脅威から 改憲を訴える評論家」と紹介し、私は彼を中国問題をめぐるデマゴーグと理解するのだが。 以上のように、安倍談話は満州事変以降日本敗戦までの歴史を「反省」の対象としてとら えている。これを、アメリカ政治史を専攻する西崎文子は「談話における植民地主義への反 省や戦争の悲惨さへの言及は周到なものでした」と評している【西崎文子「『米国ありき』の 安全運転」朝日新聞 2015 年 8 月 15 日】。ただし、西崎はこの言葉に続いて「しかし、戦後の 日本が戦争責任にどのように向き合ってきたかについては、すっぽり抜け落ちています」と 分析する。 私は談話の前半部分に注目する。そこには、安倍の歴史修正主義思考を正直に吐露した歴 史叙述がある。すなわち、十九世紀以降植民地支配に抗して近代化をなしとげた日本は、「ア ジアで最初に立憲主義を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもと にあった、多くのアジアやアフリカの人びとを勇気づけました」というくだりである。 立憲主義を踏みにじろうとする安倍が立憲主義を評価するポーズをとるのは笑止千万、好 色万金丹である。立憲主義のついでにいえば、アジアで最初の共和主義革命は中華民国によ る辛亥革命(1911 年)であり、その中華民国を圧殺した袁世凱に金を握らせたり圧力をかけ

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- 3 - たりしたのが近代日本である。そして、近代日本は袁世凱に「二十一か条要求」をつきつけ て、生まれたばかりの中華民国の独立におどしをかけた。日本人は忘れてしまったが、この 事件は中国人の反日運動の原点になった。 けっして勝利とは言えなかった日露戦争を「日本の勝利」に向けて講和できるようにポー ツマスで支援してくれたのは、アメリカ大統領セオドア・ローズベルトだった。1905 年 9 月 5 日に日露講和条約が調印され、日本の韓国「保護」政策の承認、遼東半島の租借、満鉄経営 権の取得が決められた。同年 12 月 20 日、韓国統監府が設置され、伊藤博文がただちに朝鮮 統監に任命された。12 月 22 日には、満州にかんする日清条約が調印された。これは、日露講 和条約の内容を中国に承認させ、満鉄平行線の建設禁止を秘密会議録で認めさせるという内 容だった。 伊藤が統監になった三年目の 1907 年 7 月、第三次日韓協約が調印されて、韓国の内政全般 を統監の指導下に置くことが決められた。8 月、ソウルで韓国軍隊の解散式が挙行されたが、 翌年には朝鮮半島全土で抗日反乱が拡大した。伊藤は 1909 年 6 月に統監を辞任するが、日本 政府は翌 7 月に韓国併合を決定したのである。同年(1909 年)10 月、伊藤が安重根によって ハルビン駅頭で暗殺されたのは、伊藤が朝鮮植民地化を指揮したからだった。 「満州」支配についていえば、日本は 1906 年 8 月関東都督府官制を公布して旧満州で最初 の植民地政権を樹立した。また同年 11 月には関東都督府をささえる国策会社ともいうべき南 満州鉄道株式会社が設立された。以後、「満蒙は日本の特殊権益」という言葉が高唱され、そ れが満州事変につながっていく。 こうした歴史の文脈を想起するとき、「日露戦争が多くのアジアやアフリカの人びとを勇気 づけました」という叙述はいかにもノー天気である、と私は感じる。いったい、日露戦争は 中国人や韓国人を勇気づけたというのか。安倍首相はこの談話を発表するにあたって、「政治 は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるよ うなことは決してあってはならない」と述べている。いまさら、彼に「自分の言ったことに 責任をもってほしい」というのは法外な要求なのだろうけれども、安倍の戦後 70 年“歴史” 談話はみごとに歴史にそむいている。私が「地雷原の手前で地雷を踏んだ」と書いたのは、 この日露戦争をめぐる歴史評価をさしている。さて地雷はいつ爆発するだろうか。 (2015.8.16) ※ 以上、日本と近隣アジア諸国との現況に深い懸念をおぼえる立場から特に記した。

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第 6 回“中国を食べる”―福建料理

―池袋・福清菜館=福来園―

6 月 22 日(月)、池袋駅北口徒歩 3 分の福清菜館=福来園で、中国八大料理の一つ福建料 理を味わいました。参加者は大人 12 名、幼児 1 名。費用は 2,000 円。 省都福州市の県級市の一つである福清地方の郷土料理 8 品をいただきました。食通が選ん だベストスリーは以下の通りです。 回 数 場所・店名 料理の種類 回 数 場所・店名 料理の種類 第 1 回 池 袋 永利 東北家郷料理 第 4 回 神楽坂 紅龍 湖南料理 第 2 回 吉祥寺 旺旺 台湾料理 第 5 回 池袋 逸品火鍋 四川料理 第 3 回 末広町 酒膳坊過橋米線 雲南料理 第 6 回 池袋 福清菜館 福建料理 エビと茶葉炒め 五目チャーハン 鶏肉の薬膳スープ これまでの食べ歩き

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2015 年 中国の魅力を知る講演会 第 1 回

中国で「留用」された日本人

―天蘭線建設に当たった鉄道技術者たち―

7 月 19 日(日)13:00 より、2015 年度第 1 回の講演会を男女平等推進センターで行いまし た。市報「ひがしくるめ」(7 月 15 日号)の案内を見て来場された市民、講師やゲストの方を 含め、24 名の方が参加してくださいました。 堀井 弘一郎先生のプロフィール 都立白鴎高校教員 日本大学講師 専門は日中関係史 著書:「満州」から集団連行された鉄道技術者たち―天水「留用」千日の記録 創土社 2015 年 2 月刊 1400 円+税 論文:「中華人民共和国建設後、天水に留用された日本人」 日本現代中国学会編『現 代中国』第 86 号 2012 年 6 月 「甘粛省天水に「留用」された鉄道技術者と家族たち―「集団連行」と歴史認識 ―」 東京都歴史教育者協議会編『東京都の歴史教育』44 号 堀井先生の講演から ①「留用」とは「人を留めおいて徴用する」という中国語。 日中戦争終結後、中国国民党や共産党の「要請」を受けて、 日本人技術者・労働者らが工場、鉄道、鉱山、病院などで 仕事を継続した。 1947 年 8 月で、国民党、共産党側に各 3 万余人、計6万余 人が留用されていた。彼らは 1946 年春~1950 年 3 月の前 期集団引揚の際帰国できなかった。 ②1950 年6月以降、旧「満州」にいた鉄道技術者、労働者が 関内(万里の長城以南)へ、天水へは家族含めて 900 人余。 天水とは中国の西北地方、甘粛省天水市のこと。古来からシルクロードの交通の要衝。日 中戦争中に石油が見つかっていた玉門方面へのルートを確保するため、天水~蘭州間の鉄 道建設を目的として、日本人鉄道技術者などが留用された。 天水に来た人々は満鉄の技術者・労働者、医者、看護婦などで、技術者らが 285 人(30.7%)、 家族が 644 人(69.3%)である。

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- 6 - ③当初は 1 日 2 回、中国側で食事を提供してくれたが、やがて自分たちで作るようになった。 電気、ガス、水道も不十分、窰洞(ヤオトン)暮らしの人もいた。 当初は 1 か所にまとまっていたが、のちに 20 か所に分散。技術者・労働者は職場で中国 人と協働し、家庭婦人は近所で買い物をし、ミシンで日本人たちだけでなく中国人の子ど もの服を直したりした。子どもたちは学校で勉強し、遊び仲間となる。今日まで続く友好 交流の礎(いしずえ)ができた。 ④子どもたちは、小学生は中国人の小学校の中の日本人クラスで、中学生は初級中学、高級 中学の中国人のクラスに入り、寮生活もいっしょだった。 1972 年の国交回復後、天水市の元同僚や市民と交流を開始した。 85 年に初めて訪中した際、日本人小学生クラスの担任の王書荊 先生に会えた。「もう一度先生の担任のクラスにはいりたい」と 泣いて言った日本人もいた。 トラックで市内に入場する留用者たち (絵・来栖国広) 天水に着いた頃の集団食事光景 (絵・来栖国広) 天水小学校の日本人生徒と先生たち 日本人小学生クラスの担任 王書荊先生 天水鉄路職工子弟中学校「初五四級乙」班の一同

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- 7 - ⑤天蘭線(甘粛省の天水~蘭州間 348 ㎞)は 1952 年 9 月に完成、10 月 1 日開通式が行われ た。現在は隴海線(ろうかいせん 江蘇省連雲港~甘粛省蘭州 1,759km)の一部。 ⑥1953 年 3 月、天水を離れ、上海経由で舞鶴港へ戻った。1950 年~53 年は朝鮮戦争があり、 この間は日本への帰国はなかった。 帰国後は赤呼ばわりされ、就職も難しかったりした。54 年に天水会を立ち上げ、85 年以来 訪中団を 9 回派遣し、元同僚らと交流を重ねている。 99 年、桜の樹1千本を寄贈(20 万元)、桜花園公園が整備され、天蘭線建設の事績を刻ん だ石碑も建てられた。 ⑦中国国民党、共産党の双方にとって、敗戦国日本の国民を留用して新中国の建設に当たっ たということは公にはできないことで、封印された歴史となった。 天蘭線の建設にあたった王世泰というのちに鉄道省副大臣まで務めた人が回想録を残して いるが、天水での日本人の協力については一言も触れていない。 天蘭線建設の事績を刻んだ桜花園の石碑 桜花園石碑前で舞剣を楽しむ天水市民 開通祝賀列車に集う日本人技術者たち 開通を祝う「人民日報」1952 年 9 月 30 日

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- 8 - しかし、天水市では天水会の人たちとの交流もあり、新聞などでも大きく取りあげられて いる。 ⑧2002 年 NHK テレビで「留用された日本人」が放映され、03 年『留用された日本人―私たち は中国建国を支えた―』が NHK 出版から刊行された。 この番組を見て、自分はもっと天水会の事実を調べる必要があると思い、存命中の関係者 を訪ねて聞き取りをしたり、中国天水市を訪ねて調査取材活動をした。 2013 年 8 月、天蘭線に乗ったとき若い 3 人の車掌さんに、この線を建設するにあたり日本 人技術者たちも貢献しているのだが知っているか、と聞いたら 3 人とも初めて聞いたとび っくりしていた。 橋村 武志氏(天水会第 2 代会長)のプロフィール 1932 年長崎県対馬生まれ 43 年渡満(小学 5 年)、53 年(高校 2 年)帰国。中央大工学部 卒 シチズン時計勤務 98 年より科学技術者フォーラムなどで活動。 参考 「オーラル・ヒストリー企画」の「インタビューリスト 06 橋村武志」 URL:www.ohprojetmlct.com/ivlist/06/01.html 「戦後、鉄道技術者の義父と中国に 8 年間留まった 天水会会長 橋村武志 さん」 日本と中国 [友好訪問] 2015 年 8 月 1 日号 橋村会長のお話 中国は自分にとって第 2 の故郷である。 東久留米の「グループ 中国だい好き」の 人と思いはいっしょだと思っている。 敗戦後 5 年間は食べるために働いた。 50 年秋、南へ行けと言われ天津へ。日本 に帰れると思ったが……天水へ。 天水の市民から「角が生えているはず なのに見た目は変わらないな」といわれ た。当時、彼らは日本人を「日本鬼子」 と呼んでいた。 18 歳にして天水鉄路中学に入り勉強することができた。中国語がしゃべれない中でのスタ ートだったが、学校で勉強ができることがなによりもうれしく夢中で勉強した。寮生活をと もにした中国人の学友とはこの 60 年来交流を続けている。 1953 年(昭和 28)帰国、高2からやり直した。夜間、大学図書館の臨時職員をしながら昼

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- 9 - は中央大学工学部で電気工学を勉強した。卒業後シチズン時計に入社、田無のち新所沢で水 晶時計の研究開発などにあたった。 1998 年からは科学技術者フォーラム(会員 180 名)で中国とのシニア技術者の人材交流を している。中国での植樹活動も 10 年来やってきた。 現在、江蘇省連雲港からシベリアを経てオランダのロッテルダムまで 12,000kmに及ぶ鉄 道路線が開通している。この鉄道の高速化に寄与したいというのが自分のロマンだが、近年 の「一帯一路」構想はその夢の実現の可能性を感じさせてくれてうれしい。 質問コーナー・交流会の中から <留用という言葉を初めて聞いたが、戦争が終わった段階からいうのか、天水へ移った段階 からいうのか> ・戦争が終わった段階から。鉱山、鉄道、工場からそれまで働いていた日本人が全部引揚げ てしまうと、維持・経営ができなくなるので戦後も引き続き働いてくれという形で留用が 行われた(国民党、共産党とも)。(堀井先生) <天水での日本人留用者の活動はたいへん重要なものだと思うのだが> ・これまで天水に関しての研究書、論文はなかった。話としては NHK 出版の『留用された日 本人―私たちは中国建国を支えた』の中で部分的にふれている(第 1 章・大陸の動脈を支 えた日本人)。ほかに天水会編『天水会小史』がある。(堀井先生) <天水での活動は日中友好の原点ともいうべきものなのに、なぜ研究者、学会はとりあげて こなかったのか。敗戦までの満州(中国東北部)における日本人の活動についての研究に比 べると、新中国建設に貢献した日本人の研究や紹介が少ないのはなぜか> ・旧満州地区での日本人の留用についてはそれなりに研究がある。上海、北京についても若 干はある。しかし天水についてはなかった。(堀井先生) ・建国後については中国政府自体が留用の話を表に出したくなかったので、出版物や関係資 料を見られないという資料的な問題があり研究ができなかった。(堀井先生) ・自分も研究のために天水市の档案館(とうあんかん 公文書館)で関係資料を探したが、 他の場所に移っているとか、外国人には見せられないと言われた。甘粛省の档案館でパソ コンで検索して請求しても、閲覧させられないと断られた。(堀井先生) <留用という政策を日本政府はどう考えていたのか> ・終戦直後は日本人民間人を現地定着させるという方針を出した。しかし、在外公館から日 本人の置かれた厳しい状況の報告を受け、早期に帰還させるという方針に変えた。

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- 10 - <日本人には角があると中国人は思っていたのか> ・日本でも戦争中は「鬼畜米英」と言っていた。中国では「日本鬼子」と言っていた。天水 のような田舎の人は初めて日本人を見るのだから、なんで角がないんだと思ったのかも知 れない。(橋村氏) ・もう一つ珍しがられたのは、日本人のお母さんが下駄をはき、赤ちゃんをネンネコにくる んでおんぶして歩くことだった。下駄は初めて見たのかもしれないし、赤ちゃんを背中に おんぶするという習慣もなかったのかも知れない。(橋村氏、伊藤天水会事務局長) <天水会の天蘭線建設以外で日本人の留用の成果が明らかにされていることはあるのか> ・新中国の空軍創設にあたった林弥一郎少佐(隼戦闘隊)と約 300 人の空軍関係者、(八路軍 の要請を受けて彼らと行を共にした)医師・看護婦などの医療関係者、そのほか炭鉱で指 導にあたった技術者などがいる。個人の記録という形で資料が残っている例はある。 日中平和友好会という全国組織があり会報を出してはいるが、新中国の建設に貢献した日 本人留用者についてまとめたものは少ない。(橋村氏) ・『天水会小史』は我々が書いたもの。堀井先生が初めて研究者の立場から『「満州」から集 団連行された鉄道技術者たち―天水「留用」千日の記録』を書き、天蘭線の建設に当たっ た日本人とその家族の姿を取りあげてくれた。考証をし、証拠に基づいて記録されている。 これは非常に説得力がある。(橋村氏) ・この本により、日本の若者には天水会のことを知ってもらうことができる。できれば将来、 中国語訳版を作って、中国の若者たちに読んでもらえればと願っている。そうなって初めて 日中の交流につながると思っている。(橋村氏) <中国の上海からきて 27 年になる。堀井先生のご本を読み、今日の講演を聞いて恥ずかしく なった。いままでは戦争で中国人が受けた苦難の歴史を聞いてきた。でも当時の政府が非人 道的な政策(留用)をとっていたことと、いまだに謝罪と感謝の言葉がないのが残念。 でも、天水市の天水会に対する対応の話を聞いたり、資料(参考文献)で中国人研究者が留 用問題について論文を書いているのを見ると、将来、客観的評価に基づいて感謝の言葉が述 べられる日が来ると思う。 謝罪はハードルが高いと思う。中国では 80 年代までは「自由」がなく、職場も上から決めら れていた。だから、「強制」という認識を持っていなかったかも知れない。 中国語の〝请他们留下″と〝让他们留下″は意味が異なる。中国政府は〝请他们留下″のつ もりだったかも知れない。ソ連による日本人の「シベリア抑留」と中国による日本人の「留 用」とは性格が異なっていることはわかるが、「帰国したい」という希望に反しての「留用」 であったという事実はある。いつか中国側が謝罪してほしいという気持ちはある。> ・自分は帰国して日本の「自由」を知ったとき、中国での「自由」とのギャップにカルチャ ーショックを受けた。中国の「自由」は社会主義社会建設という枠内での「自由」。日本の

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- 11 - それは中国語でいうと「乱七八糟 luanqibazao」のような感じだった。(橋村氏) ・我々の体験から言うと、天津に集結して日本に帰れると思っていた時は天水に行くことを 「強制」と受けとめていたかもしれない。しかし天水に行き天蘭線の建設を完成させた時 は一つの仕事を成し遂げたという感じだった。大部分の人は「请他们留下」で、頼まれて 留用したという受け止め方だったと思う。(橋村氏) ・当時の中国は貧しかった。その中で、満州の時に比べれば収入も何倍かで得られたし、学 校など子どもたちの教育問題に関しても日本人に対する配慮が感じられた。(橋村氏) <天蘭線建設とは……> ・建国後の中国にとっては一大国家プロジェクトだったと思う。交通インフラの整備、玉門 付近で発見されていた石油資源の確保のためだが、当時、鉄道建設は人民解放軍の管轄の 下で行われた。 ・その際、日本人留用者だけでなく、全中国から鉄道技術者・労働者が集められた。天水鉄 路中学にはそれらの人々の子どもたちが集まったので、たいへんレベルが高く、大学進学 率も高かった。(橋村氏) <中国人が日本人の留用について書いたものはあるか> ・中国の中日関係史学会が編集した本の日本語訳が『新中国に貢献した日本人たち』(正・続) として僑報社から出版されている(2005,2006)。「続」には高海寛氏が「天水―蘭州鉄道 の建設者 天水会会長・南谷正直氏」を書いている。(堀井先生) ・個々の留用者についての研究はあるが、天水会のように、地名を冠した形で活動している 団体はないし、それについての研究もないと思う(堀井先生)。 <文革の最中は、中国人にとって日本人と関係があるということはマイナスになるから絶対 にいえないことだった。天蘭線建設の際の日本人とのかかわりについて、中国人はどういう 態度をとったのだろうか> ・直接言ってくれないからわからないのだが、外国人と付き合っているだけで睨まれ、排斥 されたと聞く。自分は日本に帰国する際、持っていた本にサインをしてプレゼントをした。 誰もその本を持っていない、おそらくみんな処分したのだろう(橋村氏)。 <天水会として、中国人を日本に招待して交流するというようなことはないのか> ・2,3 年前、中国人新聞記者(甘粛省定西の定西日報社の王長華氏)から、日本で存命中の 天水会1世への取材訪問の希望を出されたことがある。 費用を中国側で負担してくれるならOKといったのだがそれは無理だった。天水会で負担 するのも無理ということで彼の希望を実現することができなかったのが残念だ(伊藤さん)。 ・ただし、王記者が天蘭線建設にあたった日本人留用者の役割について調べてくれ、現存す

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- 12 - ることが唯一確認できるといえる図面を見つけて提供してくれたことは堀井先生の本の中に 記録されている(『「満州」から集団連行された鉄道技術者たち―天水「留用」千日の記録』 83P・写真4 85P・写真5)。(橋村氏) <交流を持続させるための努力を日本側がするのはもちろんだが、中国の若い世代にも引き 継いでもらうようにする必要があるのでは> ・貴重な意見だと思う。我々の目標は次の世代に引き継ぐということにある。(橋村氏) ・天水市の外事弁公室の職員もどんどん変わって、天水会のことなどなにも知らないという 人が窓口になっている。年賀状などは送っているが、返事はないし、どうしたらよいのか ……(伊藤さん) <日本人の大学生向けのスタディツアーを考える際、中国現地の大学にもその受け入れ窓口 となる組織を作ってもらえるとよいのだが……、人と情報の管理が大事> <若者向けにネットを利用してスタディツアーを呼びかけるなどしたら> <天水会の 1 世、2世のみなさんは、ご自分たちの体験を子どもさんやお孫さんに話されてい るのか> ・残念ながら、我が家でいうと子どもたちは理解してくれない、関心がない。バトンタッチ が非常に難しい。(橋村氏) ・天水会も高齢化し、会員が減ってきている。天水にいた人でなくても好いから入ってもら いたいのだが……。(伊藤さん) ・天水市出身の40代の中国人で日本人と結婚した人がいる。自分の子どもがどうのこうの というのでなく、そういう人たちを仲間にして交流していければと思っている。(橋村氏) ●会員の澤山良さんが 8 月 9 日にお亡くなりになりました。96 歳。初級B,会話A班の同学 であり、中国旅行その他の活動でもご一緒しました。心よりご冥福をお祈りいたします。 交流会後の記念撮影 前列右から伊藤事務局長、堀井先生、橋村天水会第 2 代会長

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- 13 - 堀井先生があげてくださった参考文献 [著書] 天水会編『天水会小史』私家版、1994 年、及び同編『天水会会報』私家版、各号 NHK「留用された日本人」取材班『留用された日本人―私たちは中国建国を支えた―』 NHK 出版、2003 年 内閣総理大臣官房調査室編『中共鉄道の実態と諸建設の動向』1954 年 堀井博一郎『「満州」から集団連行された鉄道技術者たち―天水留用千日の記録―』 創土社、2015 年 9 月 18 日 [論文等] 鹿錫俊「戦後中国における日本人の「留用」問題」大東文化大学大学院アジア地域研究科 編『大東アジア学論集』第 6 巻、2006 年 鹿錫俊「戦後国民政府による日本人技術者「留用」の一考察」斎藤道彦編『日中関係史の 諸問題』中大学出版部、2009 年 大澤武志「戦後東アジア地域秩序の再編と中国残留日本人の発生」『中央大学政策文化総合 研究所年報』第 10 号、2007 年 大澤武志「東西冷戦と引揚問題」熊本学園大学海外事情研究所編『海外事情研究』第 37 巻 第 1 号、2009 年 大澤武志「「ヒト」の移動と国家の論理」劉傑・川島真編『 講師、ゲスト講師お二人の話に続いて、伊藤禮子天水会事 務局長も加わってくださり、質問だけでなく活発な意見交換 も行われました。

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参照

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